赤色のランプが、あたりを真っ赤に染め上げていた。

それはさらに、梅雨の雨によって生じた水溜まりをも赤く染め上げてしまっている。

だが、その光景の中で、1つだけ染まらないものがあった。



なぜなら、もうそれは最初から赤色だったから……



「うわっ、ひでぇ……」

「全員死んでるな、これは……」


つい先程までザァッと降っていた雨も、今はシトシトと降るだけ。

何とも言えない静けさが、雨音を余計に際立たせていた。

6月30日、まだ梅雨の真っ只中の日の出来事だった。







二十歳の誕生日 〜 in the rain 〜







曇り空だった。

空を覆い尽くす厚い雲は、灰色をずっと濃くしたような色をしていた。

見上げれば、すぐにでも雨粒が落ちてきそうな……そんな感じだった。


「おはようございます、ご主人様」


わたしの傍にいた若いメイドが、そう言った。

若い……といっても、30代前半という年齢である。

それでも、この屋敷にいるメイドの中では若い方だった。


「あぁ、おはよう」


屋敷の主人は、恭しく頭を下げるメイドを見ながら、そう答えた。

明かりが点いていない室内で、屋敷の主人は弱弱しく立ち上がる。

年齢を感じさせる白髪が、ふわりと揺れた。


「朝食かい?」

「はい。用意が出来たので、食堂まで来てください」


メイドはもう1度頭を下げてから、踵を返して部屋を立ち去った。

開いた扉の隙間から光が射し込み、閉じると同時に闇が戻ってくる。

屋敷の主人は黙って立ち尽くしていた。

カーテンの隙間から見上げる空は、分厚い雲に覆われている。


「今日も雨かな……」


屋敷の主人の呟きは、誰に伝わるわけでもなく空へと消えていった。

わたしは、それを追いかけるように黙って空を見つめる。

そして、振り返ったとき、そこに屋敷の主人の姿はなくなっていた。

所在無く再び空を見上げると、いつの間にか雨粒が次々と地面へ吸い込まれ始めている。

あっという間に、雨を吸った土が黒々と変色していった。


「降ってきたか……」


屋敷の主人は、タンタンと窓を叩く音で雨が降り始めたことに気づいた。

普段から細い目をさらに細めて、窓の外をじっと見つめる。

雨粒が窓ガラスにぶつかる度に、ガラスに映りこんだ屋敷の主人の顔が歪む。

別に泣いているわけでもないのに、ガラスに映りこんだ屋敷の主人の顔を、雨粒が雫となって断続的に流れ続けている。

やがて、屋敷の主人は歩き出す。

誰も映さなくなったガラスを、雨粒が雫となって流れ続けていた。


「おはようございます、ご主人様」

「おはよう」


食堂に現れた屋敷の主人を、数人のメイドが出迎える。

屋敷の主人は椅子に座り、メイドは1人を残してキッチンの奥へと消えていく。

残ったメイドは、すでに準備されていたお茶を湯飲みに注ぎ、屋敷の主人の方へと差し出した。


「ありがとう」

「いえ」


メイドは一礼して、その場から下がる。

屋敷の主人は湯飲みを持ち上げると、お茶を1口すすった。

食堂に備え付けられたテレビからは、朝のニュースを伝える声が流れている。

その声が一瞬途切れたかと思うと、画面に映っていた若い女性は中年の男性へと変わっていた。

中年の男性の少し太った体が、背景の地図と重なる。

その地図にはいくつもの線が引かれており、さらに白色の帯が地図の一部を塗り潰していた。

中年の男性は、手に持った棒を使って地図のあちこちを指しては、何かを説明している。


「……今日も昨日と同様に梅雨前線が停滞しており、天気は1日中雨となるでしょう。では、次に……」


その地図の半分を、傘のマークが埋め尽くしていた。

さらに画面は、予想されている1週間の天気を表にして映し出していた。

そのほとんどが、傘のマークになっている。

屋敷の主人は、手に持った湯飲みはそのままに、テレビに映し出されるものを凝視していた。


「では、次のニュースです。昨日未明……」


画面が再び若い女性へと移り、屋敷の主人はすでにテレビから目を離していた。

そんなことを知るわけでもなく、テレビの中の若い女性は原稿を読み続ける。

やがて、キッチンの奥から朝食を盛り付けた皿を持ってメイドがやってきた。

メイドは器用な手つきで、皿を並べていく。

すぐに、屋敷の主人の眼前に朝食がセットされて並べられた。

セットを終えたメイドは、屋敷の主人に向かって一礼すると、くるりと背を見せて立ち去る。


「いただきます」


屋敷の主人が、律儀に手を合わせて食事を始める。

その傍らには、給仕をするためのメイドが控えて立っている。

しかし、そのメイドに役目が来ることはなく、食事が終わるまでの間ずっと立っていただけだった。


「ごちそうさま」


軽く口元を拭ってから、屋敷の主人が椅子から立ち上がる。

そして、そのまま食堂を立ち去る。

それを一礼して見送った後、残っていたメイドは皿を片付け始めた。


「今日は、部屋にいる」

「かしこまりました」


食堂の扉付近にいたメイドにそれだけを告げると、屋敷の主人は来た道を戻りだす。

食堂に行くときと変わることなく、雨粒は窓ガラスを叩き続けていた。

けれど、屋敷の主人の歩みが止まることはなかった。

1回も立ち止まることなく自室の前へとたどり着いたのだった。

部屋に戻ってきた屋敷の主人は、部屋の隅に置かれたロッキングチェアへと深く腰を下ろした。

ギィ、ギィ、ギィ、と古めかしい音を立てながら、ロッキングチェアは揺れ始める。

背もたれに背中を預けた格好のまま、屋敷の主人はゆっくりと目を閉じた。

それまでヒタヒタと降っていた雨が、サァァァァァという音に変わる。

その音を子守唄にするように、屋敷の主人の意識は深く落ちてゆくのだった。





「ぅ……」


屋敷の主人は、それほど時間が経たないうちに目覚めた。

それこそ時間にしてみれば、10分かそこらである。

窓ガラスを叩くタンタンという音は鳴り止むことはなく、薄暗いままの部屋は時間の流れが止まっているかのように思えた。

屋敷の主人は、しばらくロッキングチェアの感触を楽しむようにしてから腰を上げた。

そのまま、壁に沿って置かれている棚の近くまで歩み寄る。

その棚には、ドロドロに溶けた蝋燭の残骸や、役目を終えた線香の成れの果てなどが簡素に飾られていた。

そして、そこには白と黒で彩られた3枚の写真が、それらと同様に佇んでいた。


「もう、15年になるのか……月日が経つのは早いのぉ」


その写真の1つを持ち上げて、屋敷の主人が目を細める。

映っていたのは、ずいぶんと若い女性だった。

慎ましく微笑んでいるその女性が、屋敷の主人と見つめ合っていた。

しばらくその体勢でいた屋敷の主人だったが、やがて写真をそっと棚に戻す。

器用な手つきで蝋燭に炎を灯し、取り出した線香に火を点けて、手で扇いでその火を消してから香炉に突き立てる。

独特の香りと、うっすらとした煙が立ち上った。

その前で、屋敷の主人は静かに手を合わせると、スゥと瞳を閉じた。


「もしお前の娘が生きていたなら、今年で二十歳になっていたはずなのになぁ……」


しみじみと写真に向かって語りかける屋敷の主人の表情に、一筋の哀しみが宿る。

それは絶対に見ることが叶わないその姿を、必死に思い起こそうとしてもがいているかのようだった。

サァァ、と鳴り止むことを知らない雨音が、酷く耳障りに聞こえる。

わたしは、ただじっとして黙っていた。

その気が狂いそうになる空気を破ったのが、コンコンというノックの音だった。


「ご主人様、よろしいでしょうか?」

「あぁ、構わんよ」


扉を開けて室内へと侵入してきたメイドは、一礼してから用件を伝える。


「ご主人様が注文された花束が届きました」

「……そうか。では、ここに持ってきてくれるかな?」

「かしこまりました」


再び一礼し、部屋から出て行く。

バタン、と扉が閉まる音がして、静寂が戻ってきた。

けれど、その静寂は長く続かなかった。

数分としないうちに、メイドが戻ってきたからである。

律儀にノックをし、中に入る許可を受けてからメイドは部屋に足を踏み入れた。


「こちらが届いた花束です」

「ご苦労さま」


メイドは指示された場所に花束を置くと、一礼してから部屋の外へと消えていった。

屋敷の主人は、テーブルの上に置かれた色取り取りの花束に目を落とす。

紫露草、紫苑、瑠璃菊……など、数種類の花が束にされていた。

屋敷の主人は、そこから1本だけ抜き出す。

それを、もう半分灰となって散ってしまった線香の脇に置いてある花瓶の中に活け挿したのだった。





昼食を済ませたあと、屋敷の主人は外に出かけた。

片手に傘を持って、

もう片方に花束を持って、

パラパラ、と降りしきる雨の中を1人で歩き出した。

その後ろには見送りのメイドが数人、頭を下げて自分たちの主人を送り出していた。

屋敷の主人は、ゆったりとした足取りで雨中を進む。

ピチャン、ピチャン、と水溜まりの水が跳ねた。

跳ねた水飛沫は、雨と一緒になって水溜まりへと落ちていく。

水と水が溶け合って、次々と新しい水溜まりが生まれていた。

だが、すでにそこには、屋敷の主人の姿はない。

舗装された道路のずっと、ずっと先にその姿がある。

傘を差して、花束を抱えるその姿は、遠目に見たせいか酷くちっぽけに見えた。

その小さな姿が、道路の脇に屈みこんで、さらに小さくなる。

道路の片側は急斜面の崖になっていて、落石を防ぐためのネットがその一面を埋め尽くしていた。

屋敷の主人がいる場所からそう離れない場所には、落石注意の立て看板も置いてある。

そして、屈みこんだ屋敷の主人は、手に持っていた花束をそっと道路の脇に置くと、傘を差したまま器用に手を合わせた。

それまでパラパラとしか降っていなかった雨が、一時的な通り雨のようにザァァァッと落ちてくる。

乱暴に打ちつける雨粒が、花束を濡らした。

屋敷の主人が何か口を動かしていたようにも見えたが、それは雨の音に遮られて聞こえることはなかった。

どれだけの時間そこにいたのか、屋敷の主人が立ち上がったときには、すでに雨はシトシトと緩やかに降るだけになっていた。

花束をそこに残して、

傘を差して、

屋敷の主人は、来た道を戻りだした。

厚い雲に覆われて少し薄暗く見える景色は、咲き誇る赤色の紫陽花と相まって、とても幻想的だった。

色のほとんどない外の世界で、その赤だけが自己主張するように鮮やかに見えた。

雨粒が花弁の上に落ちて、ピチャンと跳ねた。

片手で傘を差して、

もう片方で花束の代わりに紫陽花を持って、

屋敷の主人の姿が遠くに見えた。





結局、光が射し込むことはなく夜が訪れた。

室内灯を点けないでいると、部屋の中は黒で塗りつぶされたようになる。

屋敷に帰ってきてから、屋敷の主人はずっと部屋の中にいた。

部屋の中で、じっとしたまま、

しかし、その目はカッと見開かれて、

ヒュー、ヒュー、と呼吸音が木霊し続ける。

額には、うっすらと汗が滲んでいた。


「ご主人様、よろしいですか?」


ノックの音が響いた。

だが、屋敷の主人は返事をしなかった。

再度、扉がノックされる。


「――入ります」


ギィ、とやや雑に扉が開かれた。

そこから、急激に光が室内へと侵入してくる。

室内の暗さとのコントラストで、メイドの姿はシルエットになっていた。


「……ご主人様?」


徐々に暗さに慣れてきた目が、息が詰まるような室内を見渡す。

僅かに進入した光が、屋敷の主人の輪郭を朧げに映し出す。

微かに上下する肩の動きは、それでいてどこかぎこちないのがわかった。


「ご主人様っ……!?」


1目見て、屋敷の主人がおかしいことにメイドは気づいた。

パタパタと床を踏み鳴らして、屋敷の主人の傍に駆け寄る。

スカートの裾がふわりと舞った。

メイドの支えていた扉が、その支えを失ってゆっくりと閉じていく。


「大丈夫ですかっ!?」

「ん? あ、あぁ……どうした? 何か用か?」


扉が静かにカチャンと閉じられて、闇が深くなった。

屋敷の主人は、メイドに呼ばれて初めてメイドがいることに気づいた。

努めて気丈に振舞った。

だが、その表情はやはり青白くなっている。


「医者を呼びます、横になっていてください!」

「お、おい……そんな大袈裟な……」


しかし、メイドは屋敷の主人の言うことには耳を貸さず、手際よくベッドに寝かしつける。

それに対して、屋敷の主人も何も言わず黙って従った。


「すぐ呼びますから、もう少し待っていてください!」


それだけを言い残して、メイドは駆け足で部屋を飛び出していった。

乱暴に扉が開かれ、一瞬だけ光が射し込んだ。

けれど、その眩しさは扉が閉じることで終わりを告げる。

その閉じた扉を、

もしかしたらその扉のずっと先を、

屋敷の主人は見つめていた。





「――――?」


ふと、屋敷の主人は、自分の視線の先に誰かがいるかのような錯覚を感じた。


「気づいた?」


わたしが、自分を認めた存在に声を投げかける。


「君は……いったい?」


それには答えず、わたしは微笑むだけだった。


「――っっ!? いや、しかし恭子は……」


屋敷の主人の驚いた表情は、しかしそれを否定するように歪んだ。


「そっか、やっぱり似てる?」


屋敷の主人の顔が凍った。


「そんな、はずは……ない……!」


わたしは頷いた。


「そうだね」


屋敷の主人の顔が、不審なものに変わる。


「君は、いったい……?」


わたしは悲しげに微笑んだ。


「わたしは……死神ってところかな?」


屋敷の主人が、キョトンとした表情をした。


「そうか、死神か……」


だが、それを否定することはしなかった。


「驚いた?」


それが少し嬉しかった。


「そうだなぁ、少しは驚いたよ」


屋敷の主人の表情から、硬さがなくなった。


「じゃあ、もう1つ驚いてもらおうかな? 実はわたし、今日が誕生日なんです」


それを聞いた屋敷の主人が、力なく笑った。


「そうか、おめでとう」


わたしも笑った。


「それじゃ、覚悟はいいですか?」


顔を引き締めて、わたしは尋ねた。


「あぁ、構わないよ」


微笑んだまま、屋敷の主人がゆっくりと目を閉じた。


「それじゃ……」

「最後に1つ訊いていいかい?」


屋敷の主人の声に、わたしの動きが止まる。


「君の名前は?」

「……キョウミ、です」


屋敷の主人の顔が、安らかなものに変わる。


「そうか……実は、わたしの孫も恭美という名前だったんだよ」


頷く。


「生きていれば、今年で二十歳になっていたはずなんだ……」


頷く。


「15年前の話だ。孫の誕生日でやってくるはずの娘夫婦の車が落石に巻き込まれてな……」


頷く。


「それからは、ずっと1人だ……」


頷く。


「もしかしてキョウミは、ずっと傍にいてくれたのかい?」


頷く。


「ありがとう、恭美。誕生日、おめでとう……」


頷く。


「ありがとう……お祖父ちゃん」


その呟きが届いたか、わたしにもわからない。





メイドが部屋へと戻ってくる。

その傍らには、屋敷に住み込みで働いている医者がいた。

だが、2人が部屋の中に駆け込んだとき、そこは静まり返っていた。

カチッ、と音がして室内に明かりが点る。

ベッドの上に横たわる、屋敷の主人の姿が見えた。


「駄目だっ、心停止している!」

「そ、そんなっ」


医者は慌てて心配蘇生法を開始する。

わたしは、それを見送って部屋の外へ抜け出した。

段々とざわめき始める屋敷を背に、わたしは外の世界へと飛び出す。

梅雨の雨が、パラパラと地面へと吸い込まれていくのをじっと見つめていた。

耳を澄ませば、あちこちから水の流れる音が聞こえてくる。

それはまるで、水の大合唱だった。


「安らかな眠りを……」


魂が空へと昇っていく感じがして、わたしは空を仰ぎ見た。

そうすることで、顔面を雨粒が打ちつける。

そうすることで、きっと泣いていることを誤魔化せる。



――――願わくは、この雨がもう少しだけ止まないでいてくれることを祈ろう。



わたしの手には、赤色の紫陽花が握られている。

それは降りしきる雨を全身で感じて、綺麗に輝いていた。