真夏の暑い日のことだった。
俺は、一人の不思議な女の子に出会った。

そして、俺のひと夏の物語は始まりを告げた。
きっと俺は、この出来事を一生忘れないだろう。
約束を守る為に、俺は絶対あのごく普通で、でもやっぱりちょっと不思議な出来事を忘れないだろう。
目を閉じれば思い出す、あの海の虹と、彼女の笑顔。
そして、誓った言葉を、絶対に。











なないろのうみ─See You Off Mirabilis jalapa─

















「次はー、田宮総合病院前。お降りの方はお近くのボタンを──」

そんなバスの放送で長織黒光はまどろみの中から覚めた。
外を見れば先ほどまで木々に覆われていた景色も多少開けて、幾つかの建物が見える。
もう少し遠くを見れば、随分遠くなってしまった街があった。

「ふぁ……やっと着いたか」

欠伸を噛み殺しながら、窓側に設置してあるボタンを押す。
ビーっという特徴的な音がバスの中に鳴り響いた。
バスの中には黒光を含めて4人ほど。
それら全てがここで降りるようだった。
まぁ、ここが終点なのだからここで降りなければおかしい。

「………ねむ」

まだ覚醒しきってない頭のまま、黒光は隣に置いておいた荷物を持ってバスを降りた。
外に出ると今まで感じることがなかった熱気が身体の周りを包む。
さっきまでの涼しさが嘘のようだった。
なんの遮りも無く照り付けてくる日光で肌がじりじりと焼けるようだ。
靴を履いているのにアスファルトが熱く感じる。
これでもかと言うくらいの猛暑だった。
うん、暑い。

「くそ、太陽め! なんの恨みがあって、俺を蒸し焼きにするつもりだ!?」

あまりの暑さに、黒光は理不尽な怒りを太陽へと向ける。
その叫び声は、虚しく響いて消えていった。
気持ちは分からなくもない。
今の気温は30度をゆうに越えていた。
ニュースではひっきりなしに記録的な猛暑と取り上げており、それが殊更暑さを増長させているのではないか。
黒光はそう結論付ける。
太陽の抗議の代わりに、蝉の五月蝿い声だけが聞こえていた。
心なしか、日光がさらに強くなった気がした。
シャツに汗がへばりつくのが鬱陶しい。

「あー、さっさと中に入って涼むか……」

背中のバックを抱え直し、再び歩き出そうとした時。

──リン。

ふいに、背後から鈴の音が聞こえた気がした。
振り返ってみたが、そこには誰もいなかった。
蝉の鳴き声がさっきよりも五月蝿く感じた。











病院の中は冷房が効きすぎて、涼しいというよりも寒かった。
これじゃあ汗が冷めてしまって、風邪になりそうだ。
病院に来て病気になるなんて洒落にもならない。

「……こりゃ涼むなんて問題じゃないな」

ゆっくりしていこうと思ったが、予定変更だ。
早く部屋まで行こう。
どちらかと言うと田舎なのだが、受付の所には結構な数の人が座っていた。
診断を待っている人を横目に見ながら、その前を通り過ぎる。

薬や消毒液の匂いが混ざって、病院独特の香りがする廊下をペタペタと歩く。
この田宮総合病院は三つの病棟に別れている。
今いるのが診断や検査、献血などをするための中央棟。
ここが一番人が集まる場所だ。
そして短期の入院や、比較的軽い病気の患者が入院している東棟。
最後に、俺が目指している西棟。

西棟は、中央棟とは正反対に人がほとんどいない。
西棟は東棟とは違って、長期の入院患者や重度な病気を患っている患者が入院している。
ここは喧騒とはかけ離れた場所だ。
他の病棟はなにかしらの音が聞こえてくるが、西棟は常に静寂が支配している。
人も少なく、部屋までにすれ違うのは看護士くらいなものだ。
あまりに静かすぎるから、他の病棟の喧騒が聞こえてくる。
まるで、他の病棟が別の世界のように感じる。

いや、恐らく別の世界なんだろう。
ここには死の匂いが漂っている。
日常では決して感じることのない、死の匂いが。
だとすれば緑色のこの廊下は、グリーンマイルってとこか。
看護士が聞いたら激怒しそうな事を考えながら、どんどん先に進んでいく。
縁起の悪いことは考えるものじゃない。
ただでさえ、ここは縁起が悪いし。

俺の目的地は西棟二階の一番端の部屋だ。
ちなみに東棟はその全てが相部屋だが、西棟は逆に全部個室だったりする。
多分、それもこの病棟の静かさの一因だろう。
それに部屋数のわりには入院している人が少なかった。
まぁ、多いのも困るだろうが。
部屋のプレートも所々無記名の所が見られる。
名前が書いてある所には下に掛かっている診療科が記されている。
そのほとんどが聞いたこともないような名前ばかりだった。
それらを見ていくうちに、やっと端の部屋にたどり着いた。


【213 長織真白 血液腫瘍科】


このプレートを見るのはどうしても慣れない。
認めたくないだけなのか、それともまだ実感出来ていないのか。

「12年も経ってるというのに今更なにを」

苦笑を浮かべて、今考えていたことを頭の中から振り払う。
そして、ドアの傍に備えつけてある消毒液で手を消毒する。

──コンコン。

一応、ノックしてから入るのが俺と真白の暗黙の了解だった。
以前、ついノックせずに入ってしまい、着替えをしている所を見てしまったことがあった。
真白は顔を真っ赤にさせて、俺は手元にあった物を何回も投げつけられた。
花瓶がとても痛かった。
それ以来、入る前のノックは厳守させられるようになった。

「どうぞ」
「ん。 入るぞ」

そのままドアを開ける。
病室の中はいつも通り殺風景だった。
ほとんど物と呼べるものが置いていない。
あるとすればテレビと本棚、それに花瓶くらいなものだ。
それらも部屋に合せるように、全て白で塗りたくられていた。
花瓶にはこれまたというか、白百合の花が飾られていた。
誰かが見舞いに来たんだろうか。
そして唯一の窓のすぐ傍に置かれたベッドの上で、真白は黙々と本を読んでいた。
その髪は透き通るように白く、肌も全然焼けていない。
そしてなによりも瞳が赤かった。

真白は、先天性白皮症。
いわゆるアルビノという体質の持ち主だった。
普通の人とは違う容姿のせいで、昔はよく奇異の目で見られていた。
そのせいか真白は口数が減り、家族以外とはまったく喋らなくなった。
まぁ、喋るといってもほとんどこちらの話に相槌を打つくらいなのだが。

「ふぅ、やっぱりここが一番だな」
「…そうかな? 私はちょっと寒いと思うんだけど」
「外の暑さと、冷房のききすぎた病棟と比べれば、ここは天国みたいなもんだぞ?」
「へぇ……外、そんなに暑いんだ?」
「そりゃあもう」

外のことをほとんど知らない真白にとって、俺や看護士から聞く話が世界の全てだ。
小学生の頃はまだ病気も酷くはなく、学校にも通っていたが、それでも病院にいた時間のほうが長い。
中学生になってからに至っては、病院の敷地内から出たことも無かった。
だから、真白にとって外はまったくの未知の世界であり、最も関心を寄せているものだった。
本棚の蔵書を見てみれば、動物図鑑や植物図鑑、海の本もあれば山の本もある。
誰が撮ったのか分からない風景の写真集なんてのもあった。
ふと、本棚に見知らぬ本があるのを見つけた。
図鑑というには薄く、小説というには少々サイズが大きい。

「なんだこれ?」

手にとって見るとタイトルには『海藍』と書かれていた。
そしてそのタイトルの後ろには透き通った綺麗な海が広がっている。
表紙の画とタイトルを察するに、多分海に関係した本なのだろう。
真白は本なら何でも読んでいたが、その中でも特に海に関した本が好きだった。

「あ、それ看護士さんがくれたの。 外国の色んな海の写真がたくさん載ってるんだよ」
「ふーん…」

ぱらぱらとページを捲ると、海底まで見えるほどに澄んだ海とか、夕日で紅く染まった海の写真が載ってある。
所々に写真と一緒に写真を撮った人のものと思わしきコメントのような文章も見えた。

「綺麗でしょ?」
「まぁ……確かに」

本を元あった場所に戻す。
…あらためて本棚を見るとすごい量だった。
おそらく、軽く200は超えてるんじゃないだろうか。
と、そこでここに来た目的を思い出した。

「あー、そうだった。 真白、着替え持ってきたけどどうする?」
「ありがと、後で看護士さんに頼むからそこに置いておいて」

言われた通り、ベッドのすぐそばに置いておく。
別に俺がやってもいいが、流石に女性ものの下着を整理するのは勘弁だ。
そして、代わりに洗濯ものが入ったバッグを手に取る。
大体3日に1度くらいは、こうやって着替えと洗濯ものを取り替えするのが俺の仕事だ。

その後はいつものように、椅子に座ってお茶を飲んで和む。
真白は自分から話すようなことはほとんどないし、俺も話題が無いので自然と二人とも無口になる。
暇だとは思ったが、退屈とは思わなかった。

「今日は調子良さそうだな」
「うん、分かる?」
「そりゃ、毎日のように見てるからな。 嫌でも分かるさ」

真白は調子が悪い時はほとんど喋らない。
普段でも喋る方ではないが、体調が悪い時はそれがさらに悪化する。
話掛けてもボーっとしていて、返すにしても生返事ばかりなのだ。
それを考えれば今日の真白は調子が良いと判断できる。

「今日はいい天気だからかな……朝から調子が良いみたい」
「そうか、この調子ならもしかしたら外出許可出るかもな……。 そん時はどっかに連れてってやるよ」
「あはは。 楽しみにしてるよ」

二人で笑いあうが、俺には分かっていた。
そんなの無理なんだと。
きっと、真白はずっとここにいなきゃいけないってことを。
真白も決して口には出さないが、多分わかってる筈だ。
だけど、俺たちはありえない希望だとしてもそれに縋るしかない。
笑う為に。

……俺は、無力だ。

「…さて、そろそろお暇させてもらうよ」
「もう帰るの?」
「特に用事もないし、ここに居てお前の調子を崩させでもしたら悪いだろ?」
「そうだけど……」
「まぁ、明日も来るからそう残念そうな顔をするな」
「うん……」
「じゃ、明日な」

そう言って真白の病室を出る。
まだ真白が何か言いたそうな顔をしていたが、黒光にはそれに気づかなかった。。













病院の廊下を、ぶらぶらと歩く。
看護士があちらこちらでせわしなく動き回り、見舞いと思わしき人達が通り過ぎていく。
さっきまでいた場所とはまるで違う。
…どうやら無意識の内に東棟まで来てしまったらしい。

「帰る筈なのになにやってんだ俺は……」

仕方ないので、休憩所で珈琲を飲むことにした。
特に急ぐ必要も無い、ちょっとゆっくりしよう。

「あれ? クロ公じゃない。 今日もお見舞い?」

その時、誰かに後ろから声を掛けられた。
声で誰なのか判断をし、ゆっくりと振り返る。
そこには想像通りというか、煙草を咥えた看護士が居た。
看護士が煙草を咥えているというのはいかがなものか。
そう思ったが決して口には出さない。
出せば、実力で黙らされるのがオチだ。

「……どうも、美弥子さん。 それとクロ公って呼ばないで下さい」
「何言ってんの、アンタはクロ公で十分よ」
「何処のガキ大将の言い分ですか……って痛ぁっ!?」

殴られた。 しかもグーで。

「まったく、誰がガキ大将よ。 変なこと言うと殴るわよ?」
「……既に殴った後で言わないで下さい」

殴られた頭がヒリヒリと痛む。
これで本気じゃないと言うのだから、この人は恐ろしい。
一体本気を出したらどうなるんだろう。
噂では田宮総合病院最強などと囁かれているらしいし。
……この人には逆らわないようにしよう。

「んで、なんでクロ公がここにいるのよ?」
「いや、ちょっとぶらぶらとしてたらここに……」
「まったく、ここはぶらぶらするような所じゃないよ?」
「確かに、そうですけどね」

それには、苦笑するしかない。
西棟に比べればそれほど危なくはないが、ここも病気と闘う人達がいるのだ。
そこに、目的も無くぶらぶらと歩くというのは、少しばかりというかかなり浮いている筈だ。

「ま、私も丁度休憩だし、ちょっと付き合わない? 別に後で用事なんて無いでしょ?」
「それはまぁ、そうですけど」
「飲み物一杯くらいなら奢るし、どう?」
「ご同行させていただきます」

黒光は奢りという言葉に弱かった。



この病院には、中央棟と東棟の間に病院が経営する喫茶店がある。
店の雰囲気は結構良いし、珈琲も美味いと評判だった。
きっと、普通に街中にあったとしても客足には困らないだろう。
今も、店の中は満員ではないにしろなかなか繁盛しているようだった。
その中で、黒光と美弥子の二人は向かい合わせで座っていた。

「さて、なに頼む? ちなみに200円以下限定ね」
「珈琲かジュースくらいしか頼めないじゃないですか」
「当然。 私は飲み物を奢るとは言ったけど、それ以外は自腹で払ってね」
「……じゃ、珈琲で」
「おっけ。 すいませーん!珈琲とアイスティー1つずつお願いしまーす」

店員に注文を伝えて、テーブルに置かれたお冷を一口飲む。
水は、これでもかというくらいに冷えていた。
美弥子さんはと言えば、煙草に火をつけて一服している。

「ふー……あー、生き返るわー」

この人は自他共に認めるヘビースモーカーだ。
たとえ勤務中であろうと煙草を手放すことはしないくらいの。
流石に勤務中は火はつけないが、それでも美弥子さんは型破りな看護士だと思う。
患者を叩く看護士なんて初めて見たし。

「んー、あんたも吸う?」
「遠慮しときます。 俺、煙草ダメなんで」
「あははは、子供だねぇ」

それでも、美弥子さんは病院では人気が高い。
確かに美人だし、面倒見もいい。
姐御肌と言うのだろうか。
だけど、怒ると怖い。
本当に、とんでもなく怖い。
一度怒っていたのを見たことがあるが、あれは小さな子供が見たらトラウマになるんじゃないだろうか。
その出来事以来、俺はこの人だけは絶対怒らせてはいけないと心に刻んだ。

「…別に煙草が吸えなくても、大人になれると思いますけど」
「はぁ、この良さが分からないなんてクロ公も可哀想だね」
「別に分かりたくもないので、どうとでも言ってください」

既に美弥子さんは2本目を吸っていた。
周りを見てみると他の席と違い、ここだけ紫煙が漂っていた。
別に禁煙というわけでもないが、やはり病院だから他の人は遠慮しているのだろうか。

「で、どうなのよ? 大学の調子は」
「普通ですよ。 講義でて、課題やって、テストしてるぐらいなもんです」
「今時の子なら合コンぐらいしてるんじゃないの?」
「確かに仲間で飲みに行ったりはしますけど、合コンはやったことないですね」
「ふーん……うちも若い子がよくやってるらしいんだけど、私は一度もお呼ばれしたことないんだよねー」

それは、その性格だからじゃないですかと言いたくなるのを必死で堪えた。
そんな事を言った日には明日の太陽を拝めなくなってしまう。
と、丁度ウェイトレスが珈琲とアイスティーを運んできた。
珈琲はとてもいい香りで、味も申し分ない。
なるほど、これなら評判にもなるわけだと納得した。

「……で? ほんとの用事はなんなんですか?」
「んー? 別に、ただクロ公とお茶したかっただけだけど?」
「それは嘘ですね。 いつもの美弥子さんだったら奢るなんて絶対しません。 むしろこっちが奢らされます」
「……言ってくれるね」
「事実ですから」

しばし沈黙。
すると、美弥子さんはため息をついて両手を挙げて、降参のポーズをとった。
どうやら、話す気になったようだ。

「んー…こういうことを、看護士が言うのはダメだと思うんだけどね」
「何をもったいぶってるんですか」
「真白ちゃんのことなんだけど」

一瞬、心臓の音が聞こえた気がした。
何だか、胸騒ぎがする。

「実はね、あの子の容態最近良くないのよ」
「変なこと言いますね。 本人は調子がいいって言ってますけど」

これ以上、美弥子さんの話は聞いてはだめだ。
聞いたら、きっと後戻り出来なくなる。

「表面上はね。 だけど確実に、ゆっくりだけど悪化してるの」
「悪化……?」
「そう、悪化。 このままの状態が続けば……最悪の事態を覚悟してもらうことになると思う」

早く、この場から離れたい。
早く、ここから逃げ出したい。
だけど、心とは裏腹に身体はいまだに座り続けたままだ。

「最悪の事態って言うと……?」
「死ぬってことよ」

美弥子さんの最後の一言は、まったく感情が入っていなかった。
淡々と、事実のみを話すように。
その時、目の前が真っ暗になった。
身体に力がまったく入らない。
自分が何処にいるのかまったく分からない。
今、この人はなんて言った?
死ぬ?
真白が?

「そんな……だって、いままで大丈夫だったじゃないですかっ!?」

テーブルを強く叩いて、美代子さんに詰め寄る。
叩いた衝撃で珈琲がひっくり返っていた。
だけど、俺はそんなことを気にする余裕は無い。

「ちょっと落ち着きなさい! ここには他の客だっているんだから!」
「っ! す、すいません……」

どさっ、と力なく椅子に座る。
さっきの大声のせいで店中の視線が俺と美弥子さんに注がれていた。
……とても気まずい雰囲気だ。

「はぁ……場所、変えるよ?」
「分かりました……」

とりあえずその場は、美弥子さんに勘定を済ませてもらった。
その間、俺はずっとその場で立ち尽くしていた。

真白が死ぬと聞いたからだろうか。
今、立っている筈なのに実感がまったく湧かない。
まるで無重力の空間にいるような感じ。
周りの音も一切聞こえてこない。
ただ、自分の鼓動の音だけが響いていた。
絶望とは、このような状態を言うんだろうか。












屋上のドアを開くと、外は雲ひとつ無い青空が広がっていた。
この病院は山の上にあるから、ここからだと俺が住んでいる街が一望できた。
どこまでも続く街並み。
きっと夜になればネオンが光り、とても綺麗なことだろう。
その更にむこうには海も見える。
多分、この街の中で一番いい眺めじゃないだろうか。
だけど、今の俺はそれに何の感慨も抱かなかった。。
隣では美弥子さんが、既に何本目かも分からない煙草を吸いながら、手摺りにもたれて街を見ていた。
ここに来て、5分ほど経つが未だに2人とも口を開こうとはしない。
ただ、ボーっと外の街並みを眺めていた。

「本当……なんですか?」
「ええ」

何が、とは聞かずに美弥子さんは即答した。
だけど、先ほどのような衝撃は無い。
多分、心の何処かで受け止めてしまっているのだろう。
それが真実なんだということを。

「…なんとかならないんですか?」
「どうしようもないわね……ドナーが見つかれば別だけど、その可能性も低いと考えてもらったほうがいいわ」

真白は骨髄の病気だった。
なんて名前だったのかは、一度教えられたことがあったが長い上に覚えにくい名前だったので忘れた。
骨髄の移植には、HLAというものが適合しなければならない。
もし、それが適合しない骨髄を移植すれば、拒絶反応や移植片対宿主疾患というものを引き起こしてしまう。
ただでさえ真白は身体が弱いのに、そんなことになれば確実に彼女は死んでしまうだろう。

「一番確立の高かったクロ公でさえ、適合しなかったからね」
「……そうですね」

HLAというのは兄弟姉妹が一番適合する確立が高いらしいが、俺と真白はまったく適合しなかった。
親も駄目だったし、親戚中に頼んでみたが誰一人該当しなかった。
俺達は、あらゆる可能性に縋り、その全てが無駄に終わっていた。

「今は薬や輸血でなんとかしてるけど、それも何時までもつか……」
「…………」
「ほんとはこれって言っちゃいけないんだけどね……まぁ、長い付き合いだし」
「真白はこのことを……?」
「もちろん知らないわ。 だから、これは内緒よ? いいわね?」
「えぇ……分かってますよ」
「じゃ、私はこれから仕事だから」

そう言って、煙草を足でもみ消した後美弥子さんは屋上から出て行った。
後に残された黒光は、俯いたまま動けなかった。

「…………くそ…」

手を強く握りすぎて、血が流れた。
だが、痛みは全然無い。

「俺は……俺はなにもできないのか……っ!?」

思えばずっとそうだった。
常に、俺は無力だった。
真白を治すことも出来ない。
入院費を稼ぐことだって無理だった。
俺に出来たことなど、あいつに笑いかけてやるくらいだった。
働いているわけでもない子供に、いったいなにが出来るというのだろう。
なんて、無様なんだ。

屋上の壁を殴る。
殴った。
殴り続けた。
このまま、痛みで全て忘れてしまえばいい。
血が出ても、痛みを感じなくなっても殴った。
自分を責めるように、身体を襲う無力感を振り払うように。
白い病院の壁が、血で赤くなっていく。

どれほど続けていただろうか。
ついには体力も気力も限界を越え、殴る手が止まった。
壁はまるでバケツをぶちまけたように赤かった。
そして、そのまま崩れ落ちるようにその場で蹲ってしまう。
その時だった。
どこからか


──リン。


鈴の音が聞こえた。

「あなた、痛くないの?」

そして、すぐ後ろで声がした。
驚いて、黒光は咄嗟に後ろに振り返った。
先ほどまでここには誰もいなかった筈だ。
たとえ、呆然としていたとしても誰かが入ってくれば物音で絶対に気づく。
だが、それはまるで唐突に現れたようにそこにいた。
黒光のすぐ後ろに、その姿はあった。












女の子だった。
日にまったく焼けていない透き通るほど白い肌に、黒い大きな瞳。
赫い唇に、淡く白い髪。
小柄で真白よりも年下の印象を与えるが、同時にどこか大人びた雰囲気を感じさせる。
何処と無く、真白に似ているようでまったく違っていた。
真白は病弱だったが、彼女からはそんな印象はまったく無い。

「……え…?」

突然の少女の出現に、黒光は驚きの声すら出せなかった。

「ね、痛くないのソレ?」

少女は、黒光の血で染まった手を指差しながら言った。
そう言われて意識すると、今まで感じていなかった痛みが一気に黒光を襲った。

「…つ……痛っ!」

どうやら骨には異常はないようだが、とてつもなく痛い。
とりあえず、持っていたハンカチで止血をする。
すぐにハンカチが血で染まってしまうが、多分ないよりはマシだろう。

「自分で拳を痛めつけるなんて、なにが面白いんだか」

呆れたように、少女は薄く笑った。
よく見れば、不思議な少女だった。
真っ白のワンピースに全身の白に映える可愛らしい赫いシューズ。
そして、その手には身の丈の倍はあろうかという長い棒状のもの。
先端部分には大きなL字型のなにかがついていた。
あれはいったいなんなのだろうか。

「……鎌?」

もし、鎌だったとしても普通こんな少女が持っているか?
いやそもそも、この少女はいったい何処から現れたんだ?

「…お前、いったい何者だ?」
「名前を訊きたいんならまず、自分から名乗るのが礼儀じゃない?」
「そうだそうだ。 モモの言うとおりだよ」
「なっ!?」

今度は別の声がした。
慌てて周りを見渡すが、先ほどとは違って誰もいない。
いや、正確にはいた。
少女の隣に付き添うように何時の間にか猫が座っている。

少女と同じように、不思議な猫だった。
夜空に輝く黄金の月のような瞳に、夜の闇をそのまま染め上げたような毛並み。
首には少女の靴と同じ赫い首輪がある。
その首輪の先には大仰な鈴が付けられて、猫が動くたびにリンリンと鳴っている。
そして、その黒い毛並みのなかで尻尾の先端だけが、何故か白くなっていた。
黒猫はじっと俺を見ていた。
こちらもなんだか分からないけど、見つめ返す。
風が吹いて、鈴がリンっと鳴る。

「なるほど、さっきの鈴の音はこの猫のだったのか」

……そういえば、以前にも同じ鈴の音を聞いたことがなかったか?
ああ、そうだ。 確かに聞いたことがあった。
今日、ここに来た時に聞いた鈴のような音もたしかこんな音だった。

「おい」
「ん?」

またどこからか声がした。
声色からして少女が発したものではない。
どちらかというと少年のような声だ。
もう一度きょろきょろと辺りを見るが、やっぱり声の主はいない。
ここにいるのは、俺と少女と猫だけだ。

「どこを見てるんだよ! ボクはここにいるよ!」
「うわっ!? ね、猫が……喋ったっ!!?」

これには本当に驚いた。
なんと猫がこちらに駆け寄り、当然のように人の言葉を話していたのだ。
黒猫は器用に表情のようなものを浮かべている。
これは、怒りだろうか?

「猫が喋るのがそんなに不思議?」
「と、当然だろうがっ。 猫が喋れるなんて普通思わないだろ」
「猫って言うな! ボクにはダニエルってちゃんとした名前があるんだぞ!」

ダニエルは当然のように人の言葉を喋っている。
そして、それをこの少女は当たり前のように言っている。

「……本当に、何者なんだお前」

目の前の少女と猫の得体の知れなさに、黒光は恐怖を覚えた。
背筋からは冷たい汗が流れ、動悸が増していく。
なのに、頭には血が巡ってこない。
逃げるという判断すらその時の黒光には思いつかなかった。

「じゃ、自己紹介してあげるわね」

黒光の問いの答えるように言った。

「ダニエル」

少女が猫の名を呼ぶと、ダニエルは後脚だけで立ち上がり、尻尾を足元から前方へ丸めるようにもって来る。
さらにその尻尾を、器用に前脚を使って尻尾の白い部分を掴み環の形を作った。
そして、その環の中に少女がおもむろに手を差し込む。

「──なっ!?」

そこで黒光は不思議な光景を見た。
驚いたことに、彼女の手は環の向こうから出てこないのだ。
まるで、環の向こう側に別の空間があるかのように。

「えっと、何処にあったっけ……?」
「ちょ、そこ違うっ! 違うってばっ! は、はぅっ」

ダニエルが悶えるのもおかまいなしに、更に少女は手を肘関節まで入れて中を探る。
少しすると中から少女は白いカードケースのようなものを取り出した。

「あったあった。 はい、これ」

そして、ケースの中からカードを取り出して黒光に渡す。
そのカードには少女の何処か不機嫌そうな表情をしている写真と共に、

『死神「A」の100100号』

という文字が書かれていた。
どうやら彼女の身分証明書のようなものらしい。

「……な…し、死神…?」
「そ、死神。 Aの100100号って呼びづらかったら百々(モモ)って呼んでくれていいから。 そっちのほうが気に入ってるし」

モモと名乗った少女は、まるで冗談みたいなことを平然と口にした。
その顔はこちらを騙すつもりはなく、いたって真面目だった。
だが、黒光にとってそんなのは到底信じられる筈も無い。

「死神だって……っ!?」
「そうよ。 何度言わせれば気が済むのよ」
「そ、そんなこと信じられるわけないだろ!」
「信じられなくても、これは事実なの! モモは死神なの!」
「そうそう」

ダニエルの言葉にモモが続く。
確かに、猫が喋るような現実がここにある。
だったら死神がいてもおかしくはないかもしれない。

──ならば、何故自分の前に現れたのだろうか?

ふいに、そんな疑問が頭をよぎる。
何故、死神が?
誰かが死ぬということなのか?
だとしたら一体誰が?

「ま、まさか……っ」

最悪の予想が浮かぶ。
まさか、そんなことある筈が無い。
だが、それ以外に考えられない。
この少女の、この死神の目的はもしかして

「真白なのか……?」
「ご明察の通りよ」

そして、それを死神の少女は認めた。
真夏の筈なのに、気温が一気に下がったような気がした。

「ってモモ! そういうことは言っちゃいけないって決まりにあるだろ!?」
「別に大丈夫よ。 教えたところで結果は変わらないんだから」
「またそんなこと言って……。 局長にまたどやされても知らないよ?」
「その時はダニエルも一緒に怒られるから大丈夫よ」
「全然大丈夫じゃなーいっ」

一人と一匹がなにやら言い合っているが、黒光にはまったく耳に入らなかった。
今日、何度この言葉を聞いたのだろう。

『真白が死ぬ』

この言葉を聞くたびに、その現実味は増し、無力感に打ちひしがれた。
今度は死神を名乗る少女さえも肯定したのだ。
これはもう、嘘なんかじゃない。
現実なのだ。

「な、なぁ、どうにもならないのか!? 真白は死ぬしかないのか!? 頼むから、やめてくれよ!」

アスファルトに額を擦り付けんばかりにモモに頭を下げる。
モモとダニエルは黙ったままこちらを見ていた。

「まだ、あいつに見せてやれてないんだ! 春の桜とか、夏の広い海だとか、秋の紅葉や冬の白い雪とか…見せたいものが沢山あるんだ!
 必要だったら俺の命を代わりに持っていってくれたって構わない!だから、だから頼む……っ!」
「……無理よ。 決められた運命には誰だって逆らうことは出来ないわ」

モモは、淡々とその事実のみを話す。
顔を上げると、モモは悲痛な表情を浮かべてこちらを見つめていた。
何故、彼女はそんな悲しげな目で自分を見つめているのだろうか。

「もし、仮に今ここであなたを殺しても別の死神が彼女を殺すだけ…。 あなたが犠牲になったところで何も変わらないわ」
「そんな……」
「それに、私たちの仕事はあくまでも魂の導き。 だから無闇に命を奪うようなことは出来ないわ」
「そうそう、そんなことやったら局長にどんなことされるかわかったもんじゃないよ」

それはつまり、真白の死は避けられないということだ。
結局俺は真白になにも出来ないままなのか。

「…教えてくれ。 真白はあとどれくらい生きられるんだ?」
「よくてあと一週間。 もしかしたらそれよりも短いかもしれないわ」
「それだけしかないのか……」

あと一週間で真白は死ぬ。
それは死刑宣告のようなものだった。

「モ、モモ!こんな奴に、そんなことまで教えちゃっていいのっ!?」
「だから言ったでしょ。 教えたところで死ぬという運命は変わらないって」
「そ、そりゃそうだけどさ……」
「……その間に、あなたは彼女に一体なにをしてあげるんでしょうね?」
「──え?」


──リン。


モモの言葉に顔を上げると、そこにはもう誰もいなかった。
まるで、幻だったかのように突然に、モモとダニエルは消えていた。

「夢……だったのか?」

いや、違う。
あれは確かに現実だった。
それを証明するかのように、ハンカチに包まれた手が痛みを主張していた。
黒光はゆっくりと、その場から立ち上がった。
さっきまでの間に色々なことがありすぎて、思考が上手く回らない。
ただ、今の俺にすべきことは一つだ。

「とりあえず、手の怪我どうにかしないとな……」

一応血は止まっていたが、ハンカチは血塗れで既にその役目を果たしていなかった。













黒光が家に着く頃には、時刻は既に夕方を指していた。

「ただいまー」

ガチャリ、と玄関の鍵を開けて中に入る。
ただいまとは言っても返事を返す者は誰もいない。
親は共働きで、帰ってくるとしたら9時過ぎ頃になる。
当然のように、玄関には誰の靴も置いてはいなかった。

とりあえず、夕食の支度をしなければいけない。
黒光はバイトはしていなかったが、その代わりに長織家の家事を任されている。
母がする家事なんて、洗濯ぐらいだ。
その他の炊事掃除諸々は全て黒光の仕事である。

「その前に着替えしないといけないな…」

シャツは先ほどのせいで所々血が飛び散っていた。
帰るときなんてそのせいで、通り過ぎる人にジロジロと見られたくらいだ。
絶対、誤解されたなあれは。
脱いだシャツは洗濯籠の中に放り、ついでに真白の洗濯ものの入ったバッグをその横に置いておく。
幸いにも、ズボンには血はついていないようだ。

「あー、冷蔵庫の中なに入ってたかな……」

リビングに戻って、冷蔵庫の中を漁ってみるがこれといったものがない。
鶏肉があるからから揚げとかは作れそうだが、今の状態では無理がある。

「安静にしろって言われたしなぁ」

屋上に居た時はハンカチで包まれていた手が、今は包帯で巻かれている。
あの後、美弥子さんに頼んで治療してもらったのだが、包帯は少し歪に巻かれていた。
ちなみに、美弥子さんに怪我を見せた時の第一声は

「なにしてんだよこの馬鹿っ!」

だった。
しかも拳のおまけ付きで。
怪我人に更に怪我を増やしてどうするんだ、まったく。
まぁ、その後なんだかんだで怪我の洗浄から包帯まできちんとやってくれたので、やはり面倒見はいいのだろう。
その時、美弥子さんから手を使うのは極力避けるようにと厳命されているのだ。

「まぁ、無難に素麺でも作るか。 茹でて盛るだけだし」

早速冷蔵庫の中から素麺を取り出し、鍋に水を入れてコンロに火をつける。
そして、沸騰した鍋の中に3人分の素麺を入れておく。
その頃には既に外は真っ暗になっていた。

「ふぅ……」

茹で上がるまでTVでも見て待つか。
TVの電源を入れると丁度なにかのお笑い番組がやっていた。
特に見たいものもないので変えずにそれを見ることにする。
番組では何組かの芸人がコントをしている。
彼らがボケる度に、TVの中から笑い声が聞こえてくる。
それをボーっとながら、俺は先ほどの出来事を思い出していた。

屋上。
白い少女。
喋る黒猫。
死神。
告げられた言葉。

俺は、これからどうすればいいんだろうか。
俺は、真白にどんな顔をして会えばいいんだろうか。
あと一週間。
あと一週間で真白は、死ぬ。
避けられない運命。
そして、最後にモモと名乗った少女が放った言葉。

『……その間に、あなたは彼女に一体なにをしてあげるんでしょうね?』

その言葉が延々と俺の頭の中で繰り返される。

「俺は……真白になにをしてやれるんだろうか」

それは、今までもずっと自問してきたことだ。
だが、今までその問いに答えを出せたことはない。
俺は真白に何をしてやればいい?
彼女はなにを望んでいる?
思考の海に溺れていく。

そんなことを考えていたら、素麺のことなどすっかり忘れていた。
伸びてしまった素麺は、あんまり美味しくなかった。













次の日も、俺は真白の病院に行くことにした。
正直、どんな顔をして会いに行けば分からなかったが、どうしても真白の顔が見たかった。

「珍しいね。 2日連続で来るなんて」
「……別に、用事もなかったからな」

真白は、昨日と同じく本を読んでいた。
まぁ、この病室で出来ることといったらそれぐらいしかないのだが。
どうやら読んでいるのは昨日と同じ本のようだった。

「お前、またそれ読んでるのか?」
「うん。 これ見てるとね、なんだか不思議な気持ちになるんだ」
「へぇ…」
「……一度でいいから、こんな海を見てみたいな」

ぽつり、と黒光に聞こえないように真白がそう呟いた。


「え? 今なんか言ったか?」
「う、ううん! なんでもないよ」

そう言って、真白は再び本に視線を落とした。
覗いてみると、そこには夕陽に染まった海と、そこに佇む2つの影の写真が載っている。
寄り添っているところを見ると、多分2つの影は恋人なんだろう。
ジロジロ見るのも失礼かもしれないな。
覗くのをやめて、本棚から適当な本を持ってきてパラパラと流し読みをする。

……気まずい。
こうやって話題も無く二人とも喋らないということはよくあるのだが、今日はそれが気になってしまう。
話題を振ろうにもなにも思い浮かばないし、真白も話すほうではないのでどうしても会話が出来ない。
なにか喋らないといけないことがある筈なのに、それが出せない。
そんな感じだ。

「なぁ、真白……ちょっと聞きたいんだけどさ…」
「なに?」
「お前…俺になにかして欲しいことってあるか?」
「………え?」

真白はとんでもなく驚いた顔をしていた。
しまった、いくらなんでもストレート過ぎただろうか。

「い、いや特に理由はないぞ? ただ、今までお前の望みって聞いたことなかったらかさ」

なんとか取り繕おうとするが、どうにも言い訳のようなことしか言えなかった。
うぅ、情けない。

「ほんと珍しいね。 お兄ちゃんがそんなこと言うなんて。 昨日なにか変なものでも食べた?」
「変なものなんて食ってないぞ? ……そりゃあ伸びた素麺は食べたけど」
「あははは。……んー、そうだな…海が見たいかな?」
「海?」
「うん、一度でいいから海が見てみたい。 ほら、近くにあるのに一度も行ったことないし」

そう言って、真白は外を見た。
正確に言うなら、海を見ていたのだろう。
でもここからでは、海は見えない。
ただ、海があるであろう方角に羨望の眼差しを向けていた。

「見てみたいなぁ……」
「真白…」
「あ、でももしもの話だし、外出届けが出なきゃ無理だよね」

だから、無理だよ。
そう、真白の目は語っていた。
多分彼女は分かってるんだろう。
もう二度と外出届けなんて出ないってことを。
それはつまり──。

「……そうだな。 外出届け、出るといいな」
「うん」

真白は、微笑みながら頷いた。
だが、その瞳の中に悲しみの色があったのを黒光は見逃さなかった。


「はぁ……」

昨日と同じように、黒光は屋上に上がっていた。
今日も、うざったいほどの快晴で、日差しがきつい。
あの後、黒光は真白の病室から出た。
あれ以上あそこにいたら、なにを言ってしまうか分からなかった。

結局、俺は逃げ出してしまった。
なんとかしなければいけないとは思う。
でも、俺はどうすればいいのか分からないのだ。
いや本当は分かっている。
だがそれを行動にうつせる程の勇気が俺には足らない。

「どうすりゃいいんだ……」

そう言って頭を抱えたその時、屋上に誰かが入ってきた。

「よ、クロ公。 こんな暑い日にひなたぼっこ?」
「美弥子さん……?」

屋上にやってきたのは美弥子さんだった。
多分、煙草を吸いにきたのだろう。
その手には火の着いた煙草を持っていた。

「どうしたのよ、そんなに落ち込んだ顔で? あ、もしかして彼女に振られたとか?」
「……振られる以前に俺に彼女なんていませんよ」
「じゃあ、やっぱり……真白ちゃんのことかな?」
「ええ。 というかその原因は美弥子さんにもあるんですけど」
「それを言われると、痛いなぁ」

美弥子さんは苦笑して、俺の隣にやって来た。
そして、目は街のほうに向けたままにして話してきた。

「……やっぱり、言わないほうがよかったかな?」
「いえ、多分教えられなかったら教えられなかったで怒ると思います」
「そうだね」
「でも、なんであんな大事なことを俺に……? 普通は親とかに教えるものでしょうに」
「んー…なんとなく、かな」

そう言うと、美弥子さんは手摺りに背をもたれ掛けた。
そして、空を見上げるとぽつり、と言った。

「……クロ公には、後悔してほしくなかったからね」
「後悔? 俺がですか?」
「うん。 多分、何も知らないまま真白ちゃんが死んだらクロ公はとっても後悔すると思う。なんであの時こうしてやらなかったんだとか、
 何も言ってやれなかったんだ、とか」
「…………」

多分、その通りだ。
何も知らないままで、真白が死んでしまったら俺は凄く後悔しただろう。

「だからね、教えようって思ったんだ。 クロ公が後悔しないように。 真白ちゃんが、笑っていられるように」
「そうだったんですか…」
「まだ真白ちゃんは生きてる。 だから、今のうちに出来ることならなんでもやってあげなさい。 死んでしまったら、
 何も出来なくなっちゃうから」
「でも、俺は……」
「なにもできない? 馬鹿じゃないのアンタ。 クロ公はね、なにもできなんじゃない。 なにも、やってないだけよ」

美弥子さんの言葉が鋭く胸に突き刺さった。

「クロ公は逃げてるだけ。 本当は真白ちゃんの為にしてあげられることがある筈なのに、勇気がないからそれから目を逸らしてるだけ。
 それじゃあ、何時まで経ってもいじいじと悩むだけよ」
「……じゃあ、どうすればいいんですか?」
「そんなの簡単よ。 クロ公が真白ちゃんにしてあげたいと思うことをすればいい」
「俺のしてやりたいことを……?」
「難しく考えなくていいわよ。 こういう時は、本心に従えばいいだけ。 素直になりなさい」
「俺は……」

俺は、真白になにをしてやりたいんだろう?
今思えば、俺は真白が望んでいることばかり考えていた。
だけど、そんなの分かるはずが無い。
口にした望み以外を推し量れる力など俺には無いのだから。
なら、俺が望むことはなんだ?

「……簡単なことじゃないか」

俺は、あいつの笑顔が見たい。
それだけが、俺の望みだ。
なんだ、簡単なことだったじゃないか。

さっきまでの陰鬱な気分が一気に消えた。
その代わりに、ふつふつと力が湧き上がってくる。
今なら、なんでも出来るような気がする。

「よし」

やることは決まった。
あとは、実行に移すだけだ。

「美弥子さん」
「なによ?」
「ちょっと、頼みたいことがあるんですけどいいですか?」

そのためには、まず美弥子さんの協力が必要だ。
俺が考えていることを話すと、美弥子さんはとんでもないいたずらを考え付いた子供のような顔をしていた。
にまーっと意地の悪い笑みを見せると、俺の肩を力強く叩いた。

「おっけ。 そういうことなら力を貸してあげるよ」











翌朝、俺は病院の前で人が来るのを待っていた。
その後ろにはバイクが停めてある。
バイクは、美弥子さんがもっているものだ。
そして、その座席にはヘルメットが二つ。
なんとも用意がいいことだ。

時間は、早朝ということもあって誰もいなかった。
辺りには霧が出ていて、真夏だというのに涼しかった。

「お待たせー」

しばらくそこで待っていると、正面玄関から美弥子さんが出てきた。
隣には、真白の姿もある。
真白はいつものパジャマ姿ではなく、白のワンピースにカーディガンを羽織っていた。
昨日、美弥子さんと二人でデパートで見繕ったものだ。

「え? お兄ちゃん? えっと、どういうこと?」

真白のほうは今の状況が分かってないようだ。
当然だ、こんな朝早くに起こされてわけも分からず外に連れ出されたのだから、訳を聞きたくもなるだろう。
だが、今はそれを説明している時間はない。

「真白、乗れ」
「え? の、乗れって……で、でも、私外出許可無いし……」
「それは大丈夫。 私が誤魔化しとくから」

そう言って、美弥子さんは真白の背を押した。
ちなみに、病院の許可は取っていない。
きっと、真白が抜け出したことがばれたら美弥子さんは減俸くらいじゃ済まされないだろう。
それを覚悟して美弥子さんはこうして付き合ってくれている。
本当に、感謝しても感謝しきれないくらいだ。

「真白、行こう」
「行くって…何処に?」
「海、見たいんだろ? 俺が、連れてってやる」
「…………」
「嫌って言っても、無理やり連れてくからな。 さ、どうする」
「…………………………行く」

長い沈黙の後、こくり、と小さく真白は頷いた。
ならばやることは一つだけだ。
美弥子さんから預かっていたキーをバイクに差し込み、エンジンをかける。
エンジンの低く、唸るような音が静かな病院の前に鳴り響く。
振動が、その力強さを伝えてくれた。

「座って」

真白にヘルメットを渡し、バイクに跨る。
原付を運転したことはあるが、こんな大型のバイクに乗るのは初めてだった。
なるべく、前のほうに座り真白の座るスペースを空けてやる。
その空いたスペースに、真白はゆっくりと座った。

「よし、ちゃんと掴まってろよ」
「う、うん」

そっとと、俺の腰にほっそりとした腕がまわされる。
そして、しっかりと指を組み合わせて俺から離れないようにする。

……そういえば今までこんなに真白と密着したことなかったな。
意識すると、なんだかシャンプーのような良い香りがした。
これが女の子の匂いってやつだろうか?
そんなたわいもないことを考える。

「行くぞ」
「……うん」

アクセルを捻ると、バイクから甲高い音が早朝の空気を震わせた。

「じゃ、行って来ます」
「頑張ってきなさい」

美弥子さんに一礼して、ペダルを思い切り踏む。
さあ、行こう。
バイクが走り出した。
目指すは、海だ。



早朝の風は、とても冷たかった。
今俺が着ているのはTシャツとGパンだけという薄着だ。
あまりの寒さに腕ががちがちと震える。
それでもなんとかハンドルだけは震えまいとしっかりと握り締める。
後ろの真白も寒そうだったが、何も言わないので多分大丈夫だろう。
早朝の街は、まるで誰もいないかのように静まり返っていた。
物音は、鳴り響くバイクのエンジン音のみ。
色んなものが目についた途端に後方へ流れていく。

さらにアクセルを回して加速。
スピードは、交通規程をとっくにオーバーしているので気にしない。
ついでに信号も全部無視だ。
今は一秒でも早く海に行きたかった。
信号に構っている暇なんてない。
もし、警察に捕まったらその時はその時だ。

そうこうしている間に街を抜けた。
普通なら二十分はかかる道のりも、その時はたった5分で通り過ぎる。
そして、最後のカーブを抜けて俺たちの目に飛び込んできたのは

「見ろ、真白。 海だ」
「わぁ……」

どこまでも続く、広く、蒼い海だった。













昼間は海水浴客で賑わう海も、流石に6時なんて時間だと誰もいない。
人で賑わっている時には気づかなかったが、ここってかなり広かったんだな。
誰もいない海はなかなか綺麗だったが、砂浜には誰かが捨てていった花火の燃えかすなどが転がっているのが、ちょっと残念だ。

「ほら、これ被っとけ」

しまっておいた荷物から麦わら帽子を取り出して、真白の頭に被せた。
まだ完全に日が昇っていないとは言え、やっぱり日差しは身体に毒だろう。
ちなみに、この麦わら帽子も昨日買って来たものだ。

「広いね……」
「そうだな」
「綺麗だね……」
「あの写真の海には劣るけどな」
「海ってすごいね……」
「そりゃ地球の大部分は海だからな」

二人で砂浜に並んでずっと海を眺め続けていた。
どれくらいそうしていただろうか。
気がつくと、空が曇っていてぽつりぽつりと雨が降り出してきていた。

「やば、何処か雨宿りできるとこに行くぞっ」
「う、うん」

真白の手を引いて雨宿りできそうなところを探す。
丁度いいところに、海の家があった。
シャッターは閉まっていたが、軒先を使わせてもらえばなんとか大丈夫だろう。
軒先まで行くと、さっきまでは小降りだった雨が一気に強くなった。
雨が屋根を打つ音だけが、辺りに響く。

「これは当分止みそうにないな……」
「そうだね…」

多分、通り雨なのだろうが一向に雨足が弱まることはない。
その間、俺と真白はじっと動かずに海を見続けていた。
二人とも何も話さなかったが、不思議と前のように気まずさは感じなかった。

「ね……」
「ん?」

珍しく、真白が自分から話しかけてきた。
ぽつりと、独り言のように口を開く。

「私、もうすぐ死んじゃうのかな……」
「……」
「だからお兄ちゃん、私を海に連れてきてくれたのかな……?」
「……違う!」

確かに、それも一つの要因だけどそんなのは些細なことだ。
俺がここに連れてきたかった本当の理由は

「俺は……お前の笑顔が見たかったんだ」

死ぬからじゃなくて、ただお前の笑顔が見たかっただけで。

「お前と、海が見たかった」

昨日、あの写真を見てそう思った。
俺と真白は恋人では無いけれど、そうやって海を見ることはきっと素敵なんだろうなって思った。
だから

「だから、死ぬからって……そんな考え、するな」
「……大丈夫だよ」

そう、真白は囁くように言った。

「私、死ぬことは怖くないよ。 怖いのは、大切な人に忘れられることだけ」
「真白…」
「人はね、二回死ぬの」
「二回?」
「うん、まずは寿命とか、病気とか事故とかで亡くなること。 それが一回目の死」
「うん」
「それで、二回目の死って言うのは人から忘れられること。…忘れられたら、その人は本当に死んでしまうの」
「……」
「人から忘れられるっていうのはとても悲しいこと。一人ぼっちは寂しいから」
「…そうだな。一人ぼっちは、寂しいもんな」
「だから、お兄ちゃんがずっと私を覚えていてくれるんなら、怖くない。 ……覚悟は、出来てるよ」

その目は、じっと海を見つめていた。
まるで、その景色を目に焼き付けるように。
きっと、真白は分かってるんだろう。
これが海を見る最後の機会だということを。

「安心しろ、お前のことを、俺が忘れるはずがない」
「うん……。お兄ちゃんならそう言ってくれると思った」

にこ、と真白が笑顔をこちらに向ける。
まるでもうすぐ消えてしまうような儚い笑みだった。
でも、それと同時にそれは真白の心からの笑顔だった。

「ね……指きりしよ?」
「指きり?」
「うん。 お兄ちゃんが、私を忘れないようにって約束しよ」
「ああ、分かった」

真白が小指を差し出してきた。
俺は、それに自分の小指を絡める。

「「うっそついたらはりせんぼんのーます。 ゆびきったっ」」

指を離して二人で笑いあう。

「そういえば昔、よくこんなことしたよね」
「ああ、昔はよく無茶な約束ばっかりさせられたな」
「えっ?。 そ、そうだったっけ?」
「そうだったんだよ。 特に、熊と戦ってと言われた時なんて俺にどうしろと」
「そんなこと言ったっけ?」
「言ったんだよ。 まったく本人は忘れてるし……散々だな昔の俺」
「う…ご、ごめんなさい…」

そんな他愛もない話も初めてだった気がする。
こうやって、二人で笑いながら話すなんて一体何年振りだろう?

ふと、軒先を出てみるととっくに雨は止んでいた。
さっきまでの土砂降りが嘘のように空は晴れ渡っている。
やはりあれは通り雨だったらしい。
雨が止んだばかりの独特の匂いが鼻腔をくすぐる。

「やっと止んだか」
「みたいだね」

雲から顔を覗かせた太陽が、さっきまでの曇りを帳消しにするかのように照りつける。
とっても眩しかった。
その時だ

「……あ」

空を見上げた時、それはあった。

「真白」
「なに? お兄ちゃん」
「虹だ…」
「……え?…わぁっ、すごいすごい!」

七色に輝く虹が、俺たちの目の前に掛かっていた。
そのあまりの綺麗さに目を奪われた。
真白が見ていた本にも似たような風景は載っていたが、やっぱり実際に見るのとでは全然違う。

「すごいな」
「うん…。 私、虹なんて初めて見た…」

真白は初めて見る虹に見惚れている様子だった。
確かに、見惚れるのもおかしくないぐらい立派な虹だった。
それを、俺達は飽きもせず、虹が消えるまでずっと見続けていた。
離れないよう、しっかりと手を繋いで。

「お兄ちゃん」
「ん…?」
「…………ありがと」
「……ああ」


──リン。


その翌日、真白の容態は急変した。
そしてそのまま目を覚ますことは無かった。
真白は、逝った。
結局俺は、さよならの一言も言えなかった。













それからはあっという間だった。
通夜が済んで、葬式が終わり、真白の遺骨は実家の墓に埋葬された。
リビングには真新しい仏壇が建てられた。
遺影は最後に海に行った時に撮ったもので、その表情はもうすぐ死ぬというのにとても幸せそうだった。
その間、俺は泣くこともできず、ただ呆然としていてなにがあったかよく覚えていない。
美弥子さんが会いに来て、なにかを話したのは覚えているが話の内容までは忘れてしまった。

病室の荷物は全部家に運んだ。
服や調度品は処分したが、本だけは俺の部屋に置かせてもらった。
改めて見ると凄い量だった。
今も俺の部屋には、整理しきれない本が幾つも山になっているほどだ。
それは、真白が生きた一つの証だった。

もう、真白がこの本たちを読むことは無い。
俺に話しかけることも、笑ったりもしない。
からかわれて拗ねたり、わがままを言うことも無い。
バイクに乗ったときに腰に回された手の感触。
柔らかい髪と、シャンプーの匂い。
それを感じることは出来ない。
二度と、真白には会えない。

彼女は死んだのだから。



「よ、来たぞ」

俺は今、海が見える丘にいた。
目の前には『長織家之墓』と書かれた墓標が佇んでいる。
波の音だけが辺りに静かに響いている。

「ここはよく海が見えるよな……はは、毎日海が見れてよかったな」

そう言って墓と面を向かうように腰を下ろす。
線香は持ってきていない。
今日は墓参りに来たわけじゃないからだ。
俺の目的は、ただ真白に会いに来ただけなのだから。

「俺さ、この前決めたことがあるんだよ。 今日は、その報告に来たんだ」

そう言って、墓石を撫でる。
すべすべとした石の感触と、日で篭った熱の熱さを感じた。

「こんなこと言ったら、お前は呆れるかもしれないけど」

そして、俺が決めたことを告げる。
当然の如く、それに答えるものは誰もいない。
その代わりに、海の方から一陣の風が吹いた。
同時に


──リン。


懐かしい、あの鈴の音が聞こえた。

「……よ、久しぶりだな」
「ええ、久しぶりね」

鈴の音がした方を見れば、予想通りそこにはあの白いワンピースの変わった死神の姿があった。
その隣にはあの黒猫の姿もある。
モモとダニエルだった。

「今日はなんの用事だ? 今度は俺の命でも取りにきたのか?」
「まさか。 あなたが死ぬのは当分先よ」
「皮肉で言ったんだけどな」

そう言って、苦笑。
不思議なことに、以前のように恐怖は感じなかった。
それどころか、彼女に親しみを感じるくらいだ。

「で、ほんとになんの用事だ? 世間話をしに来たわけでもないだろ」
「ええ。 今日は、彼女との約束を果たしにきたの」

彼女とは、つまり真白のことだろうか?
…それは不思議なことではないかもしれない。
なにせ、俺の前に現れたのだ。
当事者の真白にも会っていて当然な筈だ。

「約束って?」
「この手紙を、あなたに渡してくれって。 私が頼まれたのはそれだけよ」

そう言って彼女は一通の便箋を取り出した。
表には『お兄ちゃんへ』と真白の字で書かれていた。

「これを真白が?」
「そうよ」
「ここで開けてもいいか?」
「別に、何時渡してくれとは頼まれたけど、何処で開けるなんて言ってなかったからいいんじゃない?」
「そっか」

モモに背を向けて、便箋から手紙を取り出す。
別に、見られても構わないがやっぱりこれを読むべきなのは俺だけだろう。
中には、真白らしい文字でこう書かれていた。


『お兄ちゃんへ。

 多分この手紙を読んでいる時、私はもうここにはいないと思います。
 今日、死神って名乗った女の子に自分の余命を告げられました。
 よくて、あと1週間って言われました。
 誰かにこのことを伝えたいって思ったけど、迷惑になると思ったので言うのはやめます。
 でも、他にも言いたいことがあったのでここに書いておきます。
 私は口下手だから、上手に口では伝えられないので手紙で我慢してください。
 あと、字が汚いのも我慢してください。
 お兄ちゃんには今まで色々とお世話になりました。
 もう、たくさん感謝してもしきれないくらいお世話になりました。
 今思えば、私はおにいちゃんにいっぱい迷惑をかけてました。
 お兄ちゃんはそんなことないって言うけど、やっぱり私は迷惑をかけてたと思います。
 もっと、私が元気だったらお兄ちゃんに迷惑かけないのにって何度も考えました。
 でも私の身体は弱っていくばかりで、お兄ちゃんに迷惑をかけっぱなしでした。
 だめな妹でごめんなさい。
 本当は、こんなこと言ったらお兄ちゃんに怒られると思うけど、今だけは言いたいと思います。
 私の気持ちを全部、お兄ちゃんに伝えたいって思うから。
 私はもうすぐ死にます。
 今までも何度もそのことを考えていたけど、これだけ明確に分かるとちょっと怖いです。
 でも、頑張って受け止めようと思います。
 これ以上、お兄ちゃんに迷惑はかけられないから。
 きっと、私が怖いって泣き出したらお兄ちゃんは困ると思うから。
 だから私は、受け止めようと思います。
 死んじゃうってことも、もう二度とお兄ちゃんに会えないってことも、外に出れないってことももっと生きたいけどそれも無理なのも、
 他にも色々と全部。
 多分受け入れたとしても怖いっていうのはなくならないと思うけど、お兄ちゃんの前では弱音を言わないくらいには大丈夫になれると
 思います。
 お兄ちゃんはいっつもなにもできないって言うけど、そんなことありません。
 いっつもお兄ちゃんは私の支えになってくれました。
 それだけで、私は十分です。
 お兄ちゃんのお陰で、私は強くなれました。
 お兄ちゃん、ありがとう。
 ありがとうって言うのはこれが初めてだと思います。
 今度、口でも言えるようにします。
 でもやっぱり恥ずかしいから言えるかどうか、ちょっと不安です。
 だから、もう一度書いておこうと思います。
 お兄ちゃん、今までありがとう。
 それと、大好きです。
 私は、お兄ちゃんとずっと生きていたかったです。

 真白』


最後の一文は、線が引いてあった。

「馬鹿だな、お前は……」

生きたかったら、そう言えばいいのに。
なにもかも全部、我慢する必要は無かったじゃないか。

「迷惑だって……? 馬鹿野郎、何時お前が迷惑だって言ったんだよ……っ」

ぽつり、ぽつりと手紙に水滴が落ちる。
紙が水を吸って、文字が滲む。

「泣きたいときは、泣いたっていいじゃないかっ!」

真白が死んだ時も、葬式の時も泣かなかったのに、今俺は涙を流していた。
拭っても拭っても止まらなかった。
なんだか、ようやく泣けたって気がした。

「ごめんなさい」

振り返ると、モモは涙を流しながら頭を下げていた。
死神のくせに、変な奴だと思った。

「なに言ってるんだ。 別に、お前のせいじゃないだろ」
「でも、ごめん」
「お前が謝る必要なんて、何処にもないぞ」
「でも、本当ならもっとあなたと彼女の時間を延ばしてあげたかった。 …でも、私にはあの日、彼女の身体を健康な状態にするので
 精一杯だった……」
「あー、もう! モモはそのせいで局長に怒られたんだからなっ! 死神は本来対象者に接触しちゃいけないのに、その上身体に干渉
 までしたりするなんてホントは職務規程違反なんだぞっ」
「ダニエル、それは内緒って言ったでしょ?」

そう言ってモモは、ダニエルの口をつまんで思いっきり引っ張った。

「いたたたたたたたっ! いたっ! 痛いよモモ!」

モモが手を離すと、重力のせいでダニエルは下にまっ逆さまに落っこちた。

「まったく、ダニエルはいっつも余計なことを言うんだから」
「……モモはいっつも余計な真似をしているじゃないか」
「なにか言った?」
「いや、何も言ってないよ!? だから尻尾を掴むのはやめてーっ」

そんなモモとダニエルの遣り取りは、なんだかおかしかった。

「ははは。 そうか、ありがとうモモ」
「ええ。どういたしまして」

そう言ってモモはにっこりと笑った。
とても綺麗な笑顔だった。

「お前は、死神なのに変わってるな」
「あら、他の死神を見たことないのに分かるの?」
「分かるよ。 それに、おせっかいだ」
「それが恩人に対する言い草かしら?」
「そうだな」

微笑みながら、彼女の頭を優しく撫でる。
想像したとおり、髪はさらさらでとても撫で心地がいい。
そして、自分が出来る精一杯の笑顔で付け加える。

「ありがとう、モモ。 真白の分も合わせて、感謝してる」

その言葉に死神の少女は、さきほどと同じ綺麗な笑顔を返した。













そして、今日もここにいる。
でも、この前とはちょっと違った。
今日は美弥子さんも一緒に来ていた。
手には花束が一つ。

「で、あんたやっぱりすることにしたの?」
「ええ。もう真白にも言いましたし」

俺の首には今、カメラが掛けられていた。
これが、俺が決めたことだ。

「俺、カメラマンになります」
「へぇー、クロ公がカメラマンにねぇ…。 一体どんな心境の変化?」
「えっと、色々ありまして…」

あの日、あの虹を見たとき俺はそれを撮りたいと思った。
真白が好きだった海を自分で撮ってみようと思った。
今は大学を辞めて、色んな風景を写真に収めている。
この前は、とあるコンテストで賞も取った。
どうやら、少しは才能があったらしい。

「ま、クロ公が決めたことなら反対はしないけどね」

そのカメラマンになりたいという夢を話した時、賛成してくれたのは美弥子さんだけだった。
親は、最初は反対していたが俺がどれだけ真剣なのか分かったのか、今では応援してくれている。
とりあえず今の俺の目標は、あの日に見た海と同じくらい綺麗な海を撮ることだ。

「その時は、お前にも見せてやるからな」

もう、この墓を見て泣くことは無い。
いつも、ここに来る時は笑顔でいる。
それが一番いいことだって思うから。

「だから、お前もきっと笑顔でいてくれるよな」

それに応えるように、墓に添えられたオシロイバナの花が風に吹かれてゆれていた。


オシロイバナの花言葉は『あなたを思う』

「ずっと、忘れないからな。 真白」

お前を、一人ぼっちにさせないために。


──リン。