ぱらぱらと中空から下りてくる小さな粒。
それは、次第に勢いを増し、アスファルトをまだらに浅黒く塗り替えていく。
そして雫が地面に弾かれる音に紛れて、軽く早くテンポを刻む足音が聞こえてくる。
「ついてませんね……」
そう言いながら、一人の少女が洋服屋の軒先へと駆け込む。
ウインドウにうつる自分の姿をみて、濡れた所為で崩れてしまった髪を整えていく。
降り始めだったという事もあってか、その作業は簡単に終わる。
後は、雨よけに隠れて見える少し淀んだ空を眺めるだけ。
彼女にはそれぐらいしかする事が無くなってしまう。
「すぐに、あがるとは思いますけど……」
その証拠に雲の薄い部分は夕日を吸い込んで赤く染まっている。
この分だと、本当に気紛れといった程度の潤いを草木に与え、この雲は消えていくのだろう。
どうせすぐ止むのなら、小雨の中このまま帰路についても問題ないと言えば問題なかった。
でも、どうせそこに待つ人がいるわけでもない。
だから、彼女はこの場に留まっていたのだが……。
「……!?」
何の気無しに他に自分のように雨宿りをしている人々を見ていて、ありえない姿に彼女は目を見開く。
やっぱり、奇跡や偶然といった類は唐突に襲いかかってくるものらしい。
特に『あの子達』の場合は……。
あまやどり
「あぅーっ……」
先程の少女が雨宿りしている洋服屋。
その、対面にある床屋の軒先。
そこでは、少女を驚かせたもう一人の少女が途方に暮れていた。
あたたかな温もりのなかから目覚め。
春の木漏れ日に優しく起こされて、いつから一緒にいたのかは分からない猫に促されて少女はここまで丘をおりてきた。
そこで、少女の大っ嫌いな雨。
思わず駆け込んだのは良いのだが、気付いたら一緒にいたはずの猫は何処かにいってしまっていた。
なんだか、母親とはぐれたような寂しさのなかで、更に心細さを降り積もらせる空からの雫。
未だ、霞がかった記憶の所為だろうか。
彼女の不安は際限なく膨らんでいく。
大っ嫌いな雨は早く上がって欲しかったけど、それでも雨が上がってここから動けるようになたら……。
そうなったらどうすれば良いのか分からない彼女にはこのまま雨なんて上がらない方がましだとも思えた。
そうすれば、今以上の不安も寂しさも来ないような気がして。
少女にはそれが一番辛い事だったから。
「あの、貴方も雨宿りですか?」
そんな最中、ゆったりとした声。
振り返るとそこには、対面の店にいたはずの少女。
穏やかに、優しげに、彼女にむかって微笑んでいた。
「あ、うん……」
ひとりぼっちから解放されるかもしれない期待でどぎまぎして言葉につまる少女。
そんな、期待と不安の混ざりあったような視線をもう一人の少女は逸らすことなく受け止め、ゆっくりと口を開く。
「そうですか、奇遇ですね」
「うんっ」
良かった。
一緒にいてくれる。
少女は再び返ってきた言葉に嬉しくて、元気よく返事を返す。
「そういえば、自己紹介がまだでしたね」
少女の返事にもう一人の少女も嬉しそうに微笑むと今度は話をそう切り出す。
「はじめまして。天野といいます」
笑顔と共に耳へと差し出されるその響き。
少女は最初その意味を理解出来ずにきょとんと天野と名乗ったもう一人の少女を見つめてしまう。
「ほら、お名前は?」
その、言葉を言われて少女はっとする。
そう、名前だ。
どうして忘れていたのだろうか。
「あぅ……ま、まこと」
おずおずと、少女は……真琴は自分の名前を返す。
ただ、それは何処か頼りなくて……。
本当に自分を名乗っているのかおぼろげで……。
でも、
「そう」
もう一人の少女は、目を閉じ反芻するように頷くと、
「いい名前ね、真琴」
そう笑う。
真琴だ。
私は真琴だっ。
少女も嬉しくなって、
「うん、でしょっ」
万歳するように握り拳を宙に掲げる。
天野は柔らかい眼差しで、その姿を微笑ましそうにしばらく見つめる。
『でも、あの丘に住む狐が、みんな不思議な力を持ってるのだとしたら……』
『たくさん集まれば、とんでもない奇跡を起こせる、ということなのでしょうね』
以前、天野自身がとある人物と話していたときに言った言葉だ。
でも、とんでもない奇跡というのは、あんがいささやかな物なのだと天野は今日初めて知った。
「あぅー……」
そんな、天野の横から聞こえる情けない声。
「どうしました?」
思わず、何事かと尋ねる。
「これ、早く止まないかなぁ……」
真琴の指差す先には今だ降り続ける雨。
それどころか、雨脚は少しだけ強くなっているような気もする。
「雨はお嫌いですか?」
「うん、嫌いっ」
べーっと舌でも出さんばかりの表情。
そのクルクルと変わる、姿に天野は目を細める。
あの時は見られなかった……これが、この子本来の表情なのだ。
それをもう一度、いや、初めて見られてとても嬉しかったのだ。
「あぅ……もしかして、雨、嫌いじゃないの?」
真琴は、自分だけ……ひとりぼっちな考えなんじゃないかと思わず心細くなる。
寂しいのは嫌いだから、もし自分だけが雨が嫌いなら、真琴も少しぐらいなら雨を好きになってあげても良かった。
「そうですね……昔は好きでしたけど、私も今はあまり好きではありませんね」
「そっか、良かったぁ……」
その言葉に。
自分だけじゃないという事に真琴はゆっくりと安堵。
「でも、真琴はどうして雨が嫌いなんですか?」
そして、少女から投げかけられてくる、ささやかな疑問。
真琴はなんて答えようか迷う。
でも、何も思いつかなかったからそのまま嫌いなところを言う事にする。
「あぅ……冷たいし、濡れるし、当たると痛いし、あと外が暗くなるし」
指折り数えるように、真琴は嫌いな所を一つずつ挙げていく。
あげてく度に、その感覚が蘇ってくるようで、思わず身震いをして、そして最後に一番嫌いなところを言う。
「それに、雨が降るとひとりぼっちになるから」
「そうですか」
少女は穏やかに一つ一つの言葉を受け止めていくと、
「確かにそれでは好きになる要素がありませんね」
そう苦笑する。
「うん、無いのっ」
真琴は真琴で、自分の言った事を認めて貰えたうれしさから、手を腰に当て得意げに胸を突き出す。
だけど、折り曲げた肘だけが少しだけ外に出てしまい、少量あたった雨の冷たさに慌てて引っ込める。
その仕草がおかしくて天野は思わず吹き出してしまう。
「あぅ……笑わないでよぅ」
「ふふ、本当に嫌いなんですね」
少し恥ずかしそうにする真琴に、ごめんなさいと天野はあやまると、「でも」っと言葉を続ける。
「雨だって悪い事ばかりでは無いですよ」
「……そうなの?」
「ええ」
少女の言葉を真琴は不思議に思う。
やっぱり、どう考えたって雨で良い事なんておもい浮かばないからだ。
「そうですね、例えば雨は草や木に潤いを与えてくれます」
そう言って、天野は近くの花壇を指差す。
そこには、雨露に揺れる小さな花々が可愛らしく咲き乱れている。
「ほら、あの花たちは喜んでいるでしょう?」
「うん」
真琴には花が喜んでる顔なんて全然分からなかったけど、揺れるようにダンスを踊っているんだからそうなんだと思った。
「あぅー、でも……」
「でも?」
「真琴は花じゃないから、やっぱり嬉しくない」
「ふふ、そうですか」
天野はまた、真琴のその言葉におかしそうに笑う。
真琴はなんで笑われているのかは分からなかったけど、つられて同じように笑う。
「そうですね……。なら、真琴にはお迎えなんてのはどうですか?」
「お迎え?」
真琴にとっては初めて聞く言葉。
それがどういう物なのかよく分からない。
それが表情から少女にも伝わったのだろう。
天野は穏やかに微笑むと説明を始める。
「雨で立ち往生していると、自分の家族が傘を持って迎えに来てくれるんですよ」
「迎えにって真琴のところまで?」
「ええ、だって真琴を迎えに来るのですから」
そんな、凄いものがあったのかと真琴は驚く。
でも、ふと心配になる。
家族という物が真琴にはよく分からなかったからだ。
「家族って……どんな人が来てくれるの?」
「そうですね、それは人によって違いますから」
「あぅ……そうなの?」
「ええ、お父さんだったりお母さんだったり、お祖父ちゃんやおばあちゃんだったり……」
そう言いながら今度は天野が指折るように、少しずつどんな人が来てくれるかをあげていく。
「お兄ちゃんやおとうとという兄妹だったり、お姉ちゃんやいもうとといった姉妹だったりもしますね」
「へぇー。そうなんだぁ……」
「その他にも、自分の子供や孫だったり、仲の良い友達や、恋人だったり、奥さんや旦那さんだったりもするんです」
天野の言葉に真琴はキラキラと目を輝かせる。
「お迎えってすごーい」
「ふふ、そうですね」
すごい、すごいとはしゃぐ真琴。
そして、くるりとまた天野に向き直ると
「じゃあ、真琴にもお迎え来てくれるかなぁ」
と聞いてくる。
「ええ、きっと来てくれますよ」
「ホントっ! やったぁっ」
そしてまた、ぴょんぴょんと嬉しそうに跳ね回る。
天野はそんな真琴を優しく見つめながら、ゆっくりと尋ねる。
「それで、真琴は誰に来て欲しいんですか?」
「あぅ?」
その言葉に真琴はぴたりと動きを止めると、
「えーとねぇ……」
真剣に悩み始める。
そして、
「さっき出てきた人、全部!」
元気よくそう返す。
「それは、ちょっと無理だと思いますよ」
その、言葉に思わず苦笑する天野。
でも、この子達らしいと天野は思う。
「ええっ!? 駄目なの?」
なぜ、駄目なのか分からず、不思議そうな顔をする真琴。
「ええ、来てくれるのは真琴の家族だけですから」
「そうなんだ……」
そう言われて、真琴は自分の家族について考えてみる。
そして、真琴は家族と言われても誰も思い浮かばない事に気付いた。
もしかしたら、真琴には誰もお迎えなんて来てくれないんじゃないだろうか。
そんな考えが頭をよぎり、涙が出そうになってくる。
「真琴にもだれか来てくれる?」
だから、思わず少女にそう尋ねる。
「ええ、もちろんですよ」
美汐は笑顔で真琴を安心させるように肯定する。
真琴はその言葉に安堵すると、嬉しそうにさらに少女へと質問を続ける。
「じゃあ、真琴には誰が来てくれるの?」
「そうですね、真琴には優しいお母さんと、綺麗なお姉ちゃんと」
そして、ちょっと間を空けて天野は微笑む。
「ちょっと意地悪だけどとっても優しい旦那さまになってくれる男の子が来てくれますよ」
「そうなんだぁ……」
自分にはそんなにも家族がいた事を知って真琴は嬉しくなる。
「じゃあ、真琴。お母さんがいいなぁ……」
「そうなんですか?」
「うん、だってお母さんはあったかいから」
お母さんというものが真琴にはまだどんなものかは、思い浮かばなかったけどなんとなくそんな感じがした。
暖かくて、少女の言うように優しいならお母さんが一番好きなのだ。
「男の子は嫌なんですか?」
「祐一みたいに意地悪なのは嫌なの」
そう言ってぷいっと真琴は横を向く。
その口から『男の子』のおぼろげにしか記憶に無いはずの名前が出ている事には気付いてはいない。
「そうですね。でも、意地悪でも真琴には一番優しい人ですよ」
「……そうなの?」
「ええ」
真琴にはよく分からなかったけど、少女が言うならそんな気がした。
なら、男の子でも良いかもしれない。
そんな風に真琴は思う
「なら、お迎えに来てくれるかなぁ……」
「ええ、きっともうすぐ来てくれますよ」
だって、とんでもない奇跡というのは案外、ささやかなものみたいだから。
きっとこんなささやかなお願い事ぐらい叶えてくれるだろう。
天野はそんな風に思って商店街の入り口へと目を向ける。
「ほら、やっぱり」
そこには傘を片手にシャム猫を追うように走る一人の少年の姿が見えた。
「あ、祐一だーっ。おーい!」
真琴もその姿に気付いたらしく、祐一の方へとぶんぶんと手を振る。
その声にばっと顔を上げる少年。
信じられない物を見たように目を見開いて。
そして、その顔は泣きそうな笑いそうな表情をめまぐるしく駆け回る。
天野は横の少女をもう一度見つめてみる。
先程までのどこか不安定で今にもまた消えてしまいそうな気配は消えてしまっている。
少年の名前を呼んでいた事からきっと、もう思い出も取り戻しているのだろう。
「真琴ーっ」
「あぅーっいたい、いたいーっ」
声を揺らして、それでも喜びを隠そうとせずに一心不乱に少年は少女を力強く抱きしめる。
少女も戸惑いはしつつも、何処か嬉しそうにそれを受け止める。
「良かったですね」
美汐はそう微笑んで、二人から目線をそらし空を見上げる。
雨は今だ降り続いているのに、そこにはいつの間にか雲が散り、太陽が顔を出していた。
「狐の嫁入りですか」
もう、真琴が消える事は無いのだろう。
なんとなくそんな風に思う。
「きゃっ」
そう思った瞬間、額に何かがあたる。
天野は地面を見下ろし、ぶつかったであろうそれを見つけると拾ってみる。
それは小さな飴玉だった。
「最近の狐は嫁入りの時に菓子撒きでもするんでしょうか?」
ぱらぱらと、雨に混じって落ちてくるそれを見ながら一つ口に含んで見る。
「とっても甘いです」
雨と飴に祝福されながら今だに抱き合う二人を見ていたら
「でも、やっぱり素敵ですね」
その、甘い夢の欠片は淡く口の中で溶けていった。