六月。日本では定番の梅雨の季節。
 当然、この時期は晴れてる時間より雨の降っている時間のほうが長いわけで。

「……まぁ、当然こういう可能性もあるわよね」

 突如降り出した雨に、美坂香里は心底嫌そうな表情で呟いた。
 休日の午後。一週間ぶりに広がった青空に、ふと散歩でもしようと考え家を出たまではよかったが、それからほどなくして空一面が灰色に染まった。
 梅雨前線を甘く見た自分が悪かったのか、それとも今日一日快晴だと伝えていた朝のお天気キャスターが悪いのか、原因を数え上げればキリがない。むしろ、そんなことを考えるくらいならまず現状の打開策を考えた方がずっといい。
 そしてその結果、香里は雨の中を全力で走っていた。目指すのは彼女のいる場所から一番近くにある喫茶店。そこで雨がやむまで時間を潰そうというのが彼女の考えだったが、ほどなくしてそれは瓦解することとなった。

「なんで……こんな時に限って臨時休業なのよ」

 ようやくたどり着いた喫茶店の入り口に貼られた『本日臨時休業』という文字に、香里は思わず膝をつきそうになった。唯一の救いは、その場所にかろうじて雨宿りが可能な幅の庇がついていたこと。
 これ以上濡れるのも走るのも避けたかった香里は、仕方なくその場で雨が止むのを待つことにした。だが、空を覆っている雨雲はそう簡単には彼女の期待に応えてくれそうになく、最悪濡れて帰るしかないという状況に彼女はため息をつくしかなかった。
 そんな時だった。少し離れたところからこちらに向かって走ってくる人影が、香里の視界に入ってきたのは。
 最初はおぼろげだった人影も、近づいてくるにつれてだんだんとはっきりしたものになってきた。そこそこに高い身長。目にかかるくらい長い前髪。それら全てがとある知り合いの特徴と一致したとき、彼女は思わず声を上げていた。

「相沢君っ?」
「ん? おお、香里じゃねぇか。久しぶり」
「……昨日学校で会ったばかりでしょうが」

 その人影は、学校一のトラブルメーカー、相沢祐一その人だった。




  
偶然か必然か 





「お互いついてないわね」
「全くだ。あれだけ天気よさそうな時に傘持ち歩く奴なんざ、普通いないぞ」
「同感ね。その結果が今の状況なんだけど」

 そう言って盛大なため息をつく香里。その全身はかなり濡れていた。
 一方の祐一も似たような状況だったが、一つだけ香里と違う点があった。

「それは?」

 この雨の中でも全くと言っていいほど濡れた形跡のない紙袋。祐一の抱えるそれを指差しつつ、香里はその正体が何なのかを尋ねた。
 すると、彼はそれの口を閉じているテープをおもむろにはがして、自慢げな様子でその中身を取り出した。

「参考書。いい加減、俺も受験勉強始めようかと思ってな」
「参考書……ねぇ。何よ、今日の天気は相沢君のせいじゃない」
「……まて、どういう意味だコラ」
「言葉通りよ」

 かなり強引な香里の結論。無論、祐一には全くもって責任はなかったが、そう思いたくなるほどこの男と参考書は結び付けがたい関係にあった。
 三年になって受験生と言う立場になった彼だったが、この二ヶ月間を香里が見てきた限り、彼は親友の北川と馬鹿騒ぎをしていただけだった。そんな人物だからこそ、参考書と言う言葉はどうしても似合わないと思えてならなかった。
 そんなことを考えていた彼女の耳に、少し自慢げな祐一の声が入ってきた。

「ちょっと自分を変えてみようかと思ってな。受験勉強もその一環さ」
「……それはこの間の告白がきっかけかしら?」
「まぁ、そんなとこだな」

 告白。男女間におけるこの重大なイベントが、実は二人の間に起こっていたのだ。
 二日前の放課後。この日のように雨の降る中、教室で二人きりになった時に、祐一は香里にこう告げた。

――俺と付き合ってくれないか? 友人としてじゃなく、恋人として

 突然の告白に香里は言葉を失い、その原因である祐一はただ静かに彼女の返事を待つだけ。
 結局、そのままお互い無言の状況がしばらくの間続き、返事は急がなくてもいいと告げて祐一はその場を後にした。
 香里にとって、今年一番の驚くべき出来事だったことは言うまでもない。

「それで、あの後少しは考えてくれたか?」
「あたしから返事するまで待つんじゃなかったのかしら?」
「そこはほら、告ったほうからすればやっぱ気になるわけで」

 あの時の様子を思い浮かべつつ、呆れたように言う香里に祐一は苦笑を返すしかない。どんなに待つと言ったところで、自分から告白した手前早く答えを聞きたいという気持ちはどうにもならなかった。
 そんな彼の心情を察したのか、香里は現段階での自分の思いを正直に伝えることにした。

「正直、現時点でOKを出せるほどの好意は持ってないのよね。もちろん、相沢君のことは嫌いじゃないんだけど」
「……押しが足りなかったか?」
「大体、なんであたしなのよ? 相沢君だったら他にも彼女にできそうな娘はいるじゃない。名雪とか」
「そんなもん、俺が惚れたのが香里だったんだから仕方ないだろうが」

 普通の人間なら言ってるだけで恥ずかしくなりそうな台詞を、さも当たり前のように言われて香里は動揺した。それでも、そんな心の動きを表情に出さないポーカーフェイスぶりは流石だった。
 そんな彼女に、祐一はさらに自分の想いを伝えていく。

「栞の病気が治った後のお前って、明るくなったっつーか……よく笑うようになっただろ。そんな香里を見てると、他の事なんてどうでもよくなっちまうほど魅力的に思えてな。こんな気持ちになったのは、初恋のとき以来だよ」

 流石に最後の部分は恥ずかしかったのか、そのことを口にした時だけ顔を赤らめる祐一。
 そんな祐一の反応が面白かったのか、すぐさま香里は“初恋”という単語について追求を始めた。

「初恋の時はどうしたのよ?」
「言っとくが、それって俺が小学生のときだぞ。しかも、相手は高校生。むしろどうにかなるほうがおかしい」

 つまらない。それが香里の正直な感想だった。目の前の少年だったらそんな状況でも告白してそうな感じだが、昔はもしかしたら今よりも常識人だったのかもしれないと、彼女は勝手に結論付けた。
 そんな失礼なことを目の前の想い人が考えているとは露知らず、祐一は強気な表情で口を開く。


「でも、今の俺と惚れた相手は同い年。何もしないまま見てるだけなんて、ガキの頃だけで十分だ」
「それでついに告白した、と」
「断られるのを覚悟の上で、な」
「なら、はっきり断ったほうがよかったのかしら?」

 笑みを浮かべてそんなことを言う香里。挑発的なそれを見せられて、祐一が黙っていられるはずがない。

「さぁな。……けど一つ言わせてもらえば、俺はNOと言われてすぐに引き下がるほど諦めのいい男じゃない」

 一歩間違えれば危険人物ともみなされかねない発言を、自信たっぷりの笑みで告げる祐一。だが、香里はそんな彼の様子に不思議と悪い気はしなかった。
 そのことが理由か、それとも他に何か思うところがあったのか。彼女は唐突にとんでもないことを言い出した。

「……少し歩かない?」
「はぁ? 歩くったって、まだ雨は――」
「どうせあたしも相沢君もびしょ濡れ同然じゃない。今更気にすることもないわよ」

 そう言って、香里はその身を雨の中へ投じる。彼女を濡らす雨足は強いわけではないが、かと言って傘がいらないほど弱いわけでもない。
 そんな状況で動くことを祐一は可能な限り拒否したいところだったが、香里の足取りに戻る意思が全く持って見られないために、仕方なくその場から駆け出した。

「ったく、いきなりどうし……」

 先ほどまで雨宿りをしていた場所から少し離れたところで香里に追いついた祐一は、そう声をかけようとして、硬直した。
 そんな彼の視線は、ただひたすら何かに釘付けになっていた。

「……かなりいやらしい視線を感じてるんだけど、気のせいかしら?」
「失礼なことぬかすな! むしろ眩しすぎて健全な男子高校生には直視できんわっ!」

 そう言って祐一が露骨に視線を逸らしたのは、香里の服装だった。
 雨に濡れた衣服は、彼女の肌にぴったりと張り付き、そのボディラインをあらわにしていた。

「あたしって結構スタイルいいでしょう?」
「そりゃあもう。そのスタイルでそんな格好されたらもはや犯罪級だぞ」

 正直者が馬鹿を見る。誘いに乗ってあっさりと感想を述べてしまった祐一に対し、香里は責めるような視線を向けながら口を開く。

「思いっきり見てんじゃないの。どこが健全なんだか」

 その言葉に不服そうな様子の祐一だったが、香里はそれを全く意に介さず、さらに言葉を続けた。

「まぁ、相沢君が健全かそうでないかは後々追求するとして」
「いっそ、忘れてくれても構わんぞ」
「気が向いたらね。そんなことより相沢君……偶然と必然の違いってわかる?」

 唐突な香里の問いかけ。問われた方の祐一は一瞬反応が遅れたが、それでもきちんと答えを返した。

「んー……偶然はたまたま起こったことで、必然は起こるべきだったこと、か?」
「相沢君らしい単純明快な答えね。確かに間違ってはいないけど」
「ならいいじゃねぇか。大体、何でそんなこと聞くんだよ?」
「ちょっとした疑問よ。じゃあ、次の質問。今日、あの場所であたしたちが出会ったのは偶然? それとも必然?」

 さらに続いたその質問に祐一は大きな疑問を抱くが、現状では香里の意図が読めないこともあり、素直に答えることにした。

「そんなもん、偶然に決まってるだろ」

 そう、祐一が答えたときだった。香里はその答えを待ってましたといわんばかりに笑みを浮かべ、どこか楽しそうに口を開いた。

「そうとも限らないわよ? もしかしたら、あたしたちは今日あの場所で会うべきだったのかも」
「そんなことあるわけ……いや、確かにそういう風にも考えられるな」

 ようやく香里の言いたかったことを理解した祐一。
 わかってもらえたのが嬉しいのか、香里はさらに話を続けた。

「でしょ? 結局、偶然と必然って考え方次第で変わるものなのよ。それにもう一つ。必然って、言い方を変えれば運命にもなるんじゃない?」
「ってことは、今日俺たちが出会ったのは運命だったのかもしれないってわけか」
「どうかしら? でも、この雨が降らなかったらあたしたちは会うことはなかったかもしれないわね」

 そう言って、未だ雨を降らす空を見上げる香里。

「この雨が俺たちの運命の分岐点になった、とでも言うつもりかよ?」
「そう考えた方がロマンチックじゃない。女の子は大抵そういう話を好むものよ」

 それを聞いた祐一が思い浮かべるのは、一人のドラマ好きな少女の姿。

「さすが、あの妹にしてこの姉あり、だな」
「褒められてるのかけなされてるのか、よくわからないところね」

 その言葉に苦笑を浮かべるしかない香里。妹のことを誰よりもよく知ってるが故の反応だろう。
 しかし、彼女はすぐにいつものポーカーフェイスを取り戻し、

「それで、これからが本題なんだけど……相沢君、あたしと勝負しない?」

 突然そんなことを言い出した。そんな彼女にこんどは祐一が苦笑する番だった。

「随分といきなりだな。しかも、勝負って何だよ?」
「あなたが、あたしにYESと言わせることが出来るかどうかで、よ。もしこの勝負に勝てば、美坂香里っていう捻くれた女が手に入るわよ」
「なら、俺が負けた場合は?」
「一生あたしが相沢君に振り向かないだけよ。どう? 魅力的でしょ」

 これが勝負といえるのかどうかはさておき、祐一にこの申し出を断る理由は何もなかった。
 そして彼はおもむろに空を見上げ、口を開く。

「……これも雨のおかげってやつか?」
「そうかもね。二日前のことを考えたのも、相沢君にチャンスを上げようって気になったのも、きっかけは全部この雨だから」

 それを聞いた祐一は、今日雨が降らなかったら一体どうなっていたのかを考えようとしたが、すぐにやめた。そんな意味のない考察よりも、今は雨に対する感謝の念が強かったのだろう。

「こりゃ、二度と雨に文句なんて言えないな」
「負けても同じことが言えるかしら?」
「絶対に勝つさ。この勝負だけは譲れねーよ」

 そう、はっきりと言い切る祐一。
 こうなった時の彼がとんでもないことをしでかすという事実を、香里は知っていた。
 
「じゃあ、楽しみにさせてもらうわ。あたしが負けを認めてもいいと思えるようになるのを、ね」

 その言葉とともに、今日一番の笑みを見せる香里。それは雲の隙間から、青空が見え出すのと同時だった。