誰かの夢を見せられることもなくなった朝を、以前と変わらぬように機械音がかき乱す。
枕元にはピピピピ、と鳴る目覚まし時計。
体を起こして、スイッチを切る。
「ん〜……」
二度寝を防ぐために、布団を蹴り飛ばす。
看護学校に通うために音夢がいなくなってからというもの、目覚ましでちゃんと起きられるようになった自分が誇らしくも恨めしい。
俺はこんなにしっかりとした男だっただろうか?
外からは、ザーという否定の声。
そうか、やっぱり俺のキャラじゃないよなあ。
「って、ザー?」
いや、それは否定の声じゃないだろ。
窓の外を見てみれば、なんで気がつかなかったのか、大雨。
運が悪くも、今日は平日。
「ぐぁ、かったりぃ」
これは、体調不良とかいって学校を休むのもありだと思わないか?
ブゥゥゥン、といきなり着信を告げる携帯電話。
表示を見れば、相手は音夢。
留守電に任せるのは何か怖いので、すぐさま出る。
『おはようございます、兄さん』
「おはよう、音夢。朝っぱらからどうした?」
『ええ、天気予報を見ていましたら、ちょっと嫌な予感がしまして。兄さん、そちらは雨がひどいんじゃないですか?』
「ん? ああ、確かに。それが何か?」
『まさか兄さん、「雨かよ、かったりぃ」なんて、学校をサボろうとしてませんよね?』
いきなりの電話だと思ったらこれか。さすがに鋭いな、妹よ。
「まさか! 俺がそんなフマジメな学生だと思っているのかい、音夢さんや。AHAHA」
『その笑いはなんだか気になるんですけど……』
「そんなことより、看護学校って朝早いんだろ? 時間、危ないんじゃないのか?」
『それはそうなんだけど……もうっ、兄さんたらすぐにごまかすんだから』
「まあ、ちゃんと学校行くって。お前も、ちゃんと看護師になるために頑張れよ。授業きつくても寝たりするなよ?」
『兄さんじゃないんですから、そんな心配はありません。兄さん、繰り返すようですけど、ちゃんと学校に行ってくださいよ?』
「もっと兄さんを信用しろっての。切るぞ?」
『はい。じゃあ、行ってきます、行ってらっしゃい、兄さん』
「ああ、行ってらっしゃい、行ってきます」
通話ボタンを押して、電話を切る。
「音夢のやつ……」
朝っぱらから電話をかけられたら、サボるにサボれないじゃないか。
しょうがない、覚悟を決めて、朝飯の用意でもするかね。
着替えて階段を下りると、今度はインターフォンが鳴る。
ピンポーン。ピンポンピンポンピンポンピンポンピンポン……!
「あー、うるさいっ! なんなんだよ、今朝は…」
朝からこんなにうるさいのは、アメリカに帰っているはずのさくらか、そうでなければ……
「あーさーくーらーせーんーぱーいーーー! 寝てるんですかーーーーっ!?」
「朝っぱらからやかましい! 起きてるってのっ!」
玄関を開けるとそこにいたのは、バナナ色の傘をさして、なにやら大きな包みを手に持った美春だった。
きっかけ
荷物を持っているせいでやや濡れている美春を家に上げてやる。
「どうしたよ、朝っぱらから」
「はい、朝倉先輩が、『雨なんてかったりぃ、今日は風邪引いたことにして休むかあ』なんて考えてないかなあと思いまして」
「風紀委員ってのは、エスパーなのか?」
「はい?」
俺の呟きに反応して、俺の顔を不思議そうに見つめる美春。
わざわざ言い直すことでもないと判断して、話題を変える。
「いや、なんでもない。で? 俺を学校まで連行するのか?」
「連行だなんて、そんな物々しいものじゃないですよ、ちょっと先輩と一緒に学校に行こうかなーと思っただけで」
「ちょっとで寄れる場所じゃないと思うけどな、ここ」
工場区にある美春の家と俺の家とでは、学校を挟んで逆の位置だ。
つまり、美春はわざわざこの家に来たのだ、朝から雨が強いというのに。
さすがはわんこ、なかなかの忠誠っぷりである。
「わかった。朝飯食うから、まあ、適当に体でも拭いて待っててくれ。バスタオルの場所、わかるよな?」
「それは勝手知ったる先輩の家ってヤツでバッチリですけど…って、そうじゃなくてですね、ちょっと待ってくださいよ」
言うと美春は、持ってきた包みを開いて箱を取り出した。
「びっくり箱?」
「そんなわけないじゃないですか! フフフ、この中にはですねえ」
「バナナが入ってるんだろ?」
「そう、バナナが、って、ええ!? なんでわかったんですか!?」
「どうせ、『バナナは完全栄養食品で、しかもすぐにエネルギーになるから朝ごはんにピッタリなんですよ!』とか言うんだろ?」
「ううっ……もしかして、先輩ってエスパー?」
「違うよ。まあ、バナナはありがたくもらうけどな」
「はい、どうぞどうぞ」
美春が開けた箱には、バナナが1房入っていた。
2本を千切り、一本を美春に渡す。
「あ、どうもどうも」
美春は嬉々として受け取り、すぐに皮をむいて食べ始める。
俺もバナナの皮をむくと、口にくわえて洗面所に。
バスタオルを持って玄関にUターン。
「ほい、これで拭いとけ。風邪引いても知らないぞ」
「うわあ、なんだか今日の先輩は親切ですねえ。美春が言わなくてもバナナはくれるし、バスタオルまで持ってきてくれるし……うう、感動のあまり、2本目のバナナに手が伸びてしまいますよう」
「どんな感動だ、それは」
俺と違ってちゃんと朝飯を食べてきただろう、美春は言葉通り2本目のバナナに手を伸ばしていた。
まあ、美春が持ってきたバナナだから、止める理由も無いけどな。
「じゃあ、行く用意してくるから」
「は〜い♪」
バナナを食べてご機嫌な美春からの返事を受け、俺もなんとなく明るくなって、顔を洗ったり歯を磨いたりといった諸準備を終える。
「よっ、待ったか?」
「いえいえ、全然。もう30分くらいあってもいいくらいですよー」
「それじゃ遅刻するだろ……」
「アハハ、そうですねえ」
美春は目をそらして笑った。
足元には、湿ったバスタオルと、5本分のバナナの皮が落ちていた。
まったく、本当にバナナをよく食べるやつだ。
「ほれ、行くぞ。雨が降ってる分、時間がかかるんだからな」
「あ、待ってくださいよう」
美春が玄関から出るのを待って鍵をかけ、自分の傘を開いて門を出る。
バナナ色の傘を広げた美春と並んで、通学路を行く。
「なあ、美春」
「はい、なんですか?」
「お前さ、なんでこんな日の朝っぱらから、ウチに来たんだ?」
「やだなあ、先輩。美春、ちゃんと言ったじゃないですか。もしかしてボケちゃいました?」
「ん、そうだっけ」
そういえば、音夢とエスパー同盟である美春は、俺のサボりを止めるために来たんだったか。
「あー、確かに言ってた。んじゃあ、その包みは何だ?」
美春が家に来た時から持っている、大きな包みを指す。
バナナの入っていた箱はうちに置いてきたのに、その包みはまだ重そうだ。
「コレですか? これはですねー、ヒミツです」
美春が悪戯っぽく笑う。
これは、俺が当てるか、美春が自分から言う時まで待たないと、聞いても教えてくれないって顔だ。
「ん〜、まさか、それも全部バナナとか?」
「さすがにこんなに沢山のバナナを学校に持って行きませんよ。カバンにだって1房入ってますし」
「いや、カバンに入ってるのはどうなんだろうな」
「普通ですよ! バナナさえあれば、いつでもパワー全開になれるんですから!」
「その分教科書とかが入らなければ、知力は半減って感じだけどな」
「ううっ、なんでそんなイジワルを言うんですか、先輩は!」
「図星か」
「むーーっ!」
声と表情で怒りを表そうとする美春だが、迫力が全然無い。
受ける印象は、かわいい駄々っ子、ってところだ。
そんな実のない、けれど飽きないやりとりをしてると、ゆっくり歩いてるはずなのに学園にあっという間に着くのだから、時間と距離っていうのは不思議だ。
「じゃあな、美春」
「あ、先輩。お昼、一緒しませんか?」
「いきなりだな。まあ、別にいいけどな。食堂で待ち合わせるか?」
「いえいえ、美春が教室に行きますよ。先輩は、しっかりと授業を受けて、おなかをすかせて待っててください」
「了解。んじゃ」
「はい、また後で、先輩!」
笑顔の美春は、しっぽを振りそうな勢いで走り去っていく。
「「まったく、元気なやつだなあ」」」
俺の呟きが、ステレオっぽくなる。
いつの間にか俺の後ろに立った野郎が、俺の心を読んだかのごとく言葉を合わせてきたからだ。
「さて、遅刻する前に教室に行くとするか」
「この俺を無視するか、朝倉よ」
「できることならな」
「ふふっ、そう照れるな」
「誰が照れてるか!」
「後輩との蜜月な場面を見せ付けられた程度で亡くなるほど、俺たちの間に生きている友情は弱くはないぞ。安心しろ」
ふざけた笑いを浮かべていたかと思えば、まじめくさった顔をしてふざけたことをぬかす杉並。
「何が蜜月だ。ただ昼飯を一緒に食おうって約束しただけじゃないか」
「フッ、あれがそういう風にしか見えないから、お前の目は節穴だというんだ」
「いや、お前に節穴なんていわれた覚えないけどな」
違うんだよ、杉並。そんなロマンチックな関係じゃないんだ、俺たちは。
美春は、音夢のいない寂しさを、俺と一緒にいることで紛らわそうとしてるだけだ。
だから、俺の目が節穴なんじゃなくって、お前が色眼鏡を掛けて見てるだけなんだよ、杉並。
そんな考えを持つと、さっきまでは気にならなかった雨が、急に重々しく感じた。
なんとなくブルーが入る。
「バナナが食い足りないのかねぇ」
呟いて、杉並とともに教室に向かった。
雨がザカザカうるさいせいか、俺にしては珍しく、午前の授業を全て起きて過ごした。
内容が理解できているかどうかは、別問題だが。
「あんたがずっと起きてるなんて、雨でも降りそうだわ」
「寝ぼけてるのか、眞子? 雨なら、ずっと降ってるだろ」
「それもそうね。じゃあ、雪が降るか、槍が降るか、それとも、飴でも降ったりして」
「言いたい放題言ってくれるな。俺だって、勉強したい日もあるんだよ」
「……もしかして、頭打ったとか?」
「お前、なんだか今日は容赦ないな」
「音夢がいなくなってから、あんた、ちょっと変だしね。一回くらい、ガツンと言っておこうかと思って」
「はいはい、ご忠告に感謝しときますよ。で、お前、萌先輩のところ行かなくていいのか? 昼始まってるぞ」
「こんな雨なのに屋上で鍋が出来ると思ってるの? 今日は別々よ」
眞子はカバンの中からピンクのナプキンに包まれた弁当箱を取り出す。
「あんたこそ、食堂に行くんならもう遅いんじゃないの?」
「いや、なんか美春に教室で待ってるように言われててな」
「美春ちゃんに?」
ドタドタという足音を響かせながら、噂の本人がドアを開けてやってきた。
「はぁっ、はぁつ……お、お待たせしました、朝倉先輩!」
「ん。じゃあ、食堂に行くか」
「ほぇ? なんで食堂に行くんですか?」
「だって、食うものが無いじゃないか」
「朝倉……美春ちゃんがお弁当を持っているように見えるのは、あたしの気のせいかしらね?」
「弁当?」
肩で息をしながら俺の近くの席に座った美春が持っているのは、朝も持っていたでかい包みだ。
サイズがでかいので、気付かなかったが、言われてみれば弁当に見えるし、弁当にしか見えない。
「重箱でも入ってるのか?」
「はい♪ なにせ、二人分ですからね。それに、先輩は男の子だから、たくさん食べるでしょう?」
じゃじゃーん、と言いながら美春が包みを開けると、出てきたのは5段重ねの重箱。
春先に持って歩けば、花見をするんだろうな、と思われそうなシロモノだ。
中身は卵焼きにきんぴらごぼう、から揚げなどなどオーソドックスなメニューが所狭しと、しかし色とりどりに詰め込まれている。
1段は完全にご飯のみに使われていて、さらに小分けにするために紙皿やら割り箸やら、至れり尽くせりだった。
問題点があるとすれば、ボリュームだ。
「多いな……」
「多いわね……」
「ささ、先輩。遠慮せずにどんどん食べてくださいね」
「あ、ああ」
美春から紙皿と割り箸を受け取り、まずはから揚げを取ってみる。
過度に油っぽくなく、冷めても十分に美味しい。
ほうれん草の白和えに手を伸ばしてみる。
舌触りも味もよく、プロが作ったのかと錯覚させるほどだ。
次は卵焼き。
バナナ好きの美春だが、卵焼きは塩味派のようだ。もちろん、加減は絶妙。
しっかりとつめられたごはんも、いい米をいい時間かけて炊いているようだ。
結論、文句無く美味い。箸が進むこと進むこと。
「相変わらず、美春は料理がうまいな」
「えへへ〜、手間暇かけてますからねー」
「いやいや、手間暇かけりゃ美味いってわけでもないだろ」
「そんなこと言ったら、音夢先輩怒りますよ?」
「あれえ? 俺は音夢なんて一言も言ってないけどなあ。美春はそう思ってたのかあ。そりゃあ、音夢に教えてやらないとなあ」
「ああっ! 酷いですよ朝倉先輩! 自分だってそう思ってるくせに、美春を人身御供にささげるんですね!?」
「口は災いの元だよ、天枷美春クン」
「うう、教授〜、勘弁してくださいよー」
「……仲いいわね、あんたたち」
俺と美春が談笑していると、眞子が自分の弁当をつつきながら、なんだか呆れた顔でこちらを見ていた。
「仲良きことは良きこと哉。水越、そんなに刺々しい目で見るものではないと思うが?」
「べ、別に刺々しくなんてないわよ! っていうか杉並、あんたいつからそこにいたのよ」
「フッ、それは匿秘事項だ。まあ、わんこ嬢が来る前にはいた、とだけ言っておくか」
いつのまにか俺の後ろに立って眞子と話しているのは、勿論杉並だ。
「田端と一緒に食堂に行ったんじゃなかったのか?」
「ああ。しかし、席が一人分しか空いていなくてな。死闘の末に敗れた俺は、こうやって教室に敗走をしてきたというわけだ」
まあ、ジャンケンでもして負けたんだろう。
「つまり、食いっぱぐれか。この美春の弁当でも分けてもらえばどうだ? 俺と美春だけじゃ多すぎると思うし」
「え? あ、そうですね。どうぞ、杉並先輩、ご遠慮なさらずに」
「フ、ならばお言葉に逆らって遠慮させてもらおう。昼飯の1食や2食くらい、簡単に用意してみせるさ」
そういうと、杉並は教室から出て行ってしまった。
わけがわからず顔を見合わせる俺と美春に対して、なんだか納得顔の眞子。
杉並の言葉に、何か意味を感じ取ったのだろうか。
「眞子、今の杉並の行動の意味、わかるか?」
「杉並とあたしの考え方が同じとは限らないけど、あたしが杉並の立場なら、同じこと言ってるわ。多分ね」
「なんでだ? 美春の料理の美味さは知ってるだろ?」
「まあね。あんたや音夢が言ってるから知ってるけど、そのお弁当を食べようとは思わないわ」
「なんで?」
「そんなことをあたしが言う義理は無いわよ。せいぜい美春ちゃんと美味しいご飯に感謝しなさい」
眞子は自分の弁当箱が空になると、やはり教室から出て行ってしまった。
残されたのは、俺と美春、そして、まだまだ結構残っている弁当。
美味くて箸が進むのは事実だが、なんせ量が多い。
少しは減らすのを手伝ってくれればいいのに。
「なんなんだろうな、今日の杉並と眞子は?」
「さあ? あ、もしかして、美春と先輩があまりに仲が良いから、すねちゃったのかもしれませんよ?」
「はあ? 俺と美春は幼馴染で、兄妹同然なんだから、仲が良くって当たり前じゃないか。昔は美春だって俺のことを“お兄ちゃん”って呼んでただろ」
「……」
「美春?」
「え? あ、はい、懐かしいですね〜、その呼び方。音夢先輩の真似して呼んでたんでしたっけ」
「確かそうだったなあ」
それがいつの間にか、音夢は俺を「兄さん」と呼ぶようになり、美春は「朝倉先輩」と呼ぶようになった。
それが何時だったのか、何で呼び方が変わったのか、俺は知らない。
ただ、何かしら理由やきっかけは、あったと思うのだけれど。
今まで気にかけもしなかったことだが、今はなんだか妙に気になった。
「なあ、美春…」
「あ、もうこんな時間ですよ! お弁当箱、片付けちゃいますね」
「あ、ああ。美味かったよ、ありがとう。ごちそうさま」
「いえいえ、おそまつさまです」
結局食べきることが出来なかった弁当を嬉しそうに片付けて、美春は自分の教室に戻った。
俺は聞くことの出来なかった質問を抱えて、なんだか噛み合わないものを感じていた。
奇跡的に午後の授業も全部起きていたが、内容は頭に入っていなかった。
ただ、ぼーっと外に降る雨を見続けていた。
いや、外面的にはそうしていただけで、ずっと1つのことを考えていた。
噛み合わない今日の原因、美春のことを。
美春の態度は、多分いつもと変わらない。音夢がいた時との違いさえないほどに。
美春の天真爛漫さはいいことだし、俺はそれに違和感なんて感じたことはなかった。
だが、今日はなぜだか美春のことが気にかかる。
朝、濡れながら俺の家にわざわざ来てバナナを持ってきた美春。
なぜか五段重ねの重箱の弁当を持ってきた美春。
いつの間にか、俺を“お兄ちゃん”と呼ばなくなった美春。
なぜかバナナに狂ってる美春……だんだん関係がなくなってきたな。
とにかく、美春のことばかりを考えていた。
「今日も特に伝えることはない。日直、号令」
我らが担任は、いつも通りとてつもなく早くHRを終わらせる。
日直の杉並が号令をそつなくこなし、皆がわらわらと散る。
俺は、席を立つと下級生の教室を目指した。
「朝倉妹が居なくなって、やっと青春街道を進むようになったか、朝倉?」
早足で歩いてきたのにもかかわらず、なぜか待ち受けている杉並。
「青春なんて、そんなもんじゃねえよ」
「そうか? まあ、お前がそういうなら、そういうことにしてやってもよいが」
杉並は、ポンと俺の肩に手を置く。
「やりたいことやればいいのさ、俺たちは。バカなことやって笑いあってもいいし、好きな子に告白してもいい。
うまくいかないことがあるのなら、この降りしきる雨の中、泣いてみてもいい。
学生っていう宙ぶらりんな立場の俺たちには、その代わりに自由がある」
「へっ、歴史に残りそうな名言だこって」
「聞いたのはお前だけだ。これを歴史に残すためには、まずお前が歴史に残らんとなあ」
「違いない。ま、せいぜい、胸のもやを晴らしてくるよ」
俺の笑顔に答えるように、にやりと笑みを浮かべて杉並が去っていく。
その背中に、声をかける。
「ありがとよ、杉並。やっぱ、お前は俺の親友だよ」
「フッ、ようやく気付いたか」
杉並は振り返らず、右腕を高く挙げた。
俺も右腕を挙げ、再び下級生の、美春の教室に向けて歩き出した。
クラスに着くと、HRが終わったのか、ちょうど美春が出てくるところだった。
「あれ? 朝倉先輩? ウチのクラスに何か用ですか?」
「いや、クラスには用事はない。俺は、美春を迎えに来たんだから」
「え!? み、美春をですかぁっ!?」
「そんなに驚くことでもないだろ?」
「え、ま、まあ、そりゃそうかもしれないですけど」
「朝と昼の礼に、バナナでもおごってやろうと思ったんだけど、乗り気じゃないなら仕方ないか」
「うわ、不肖天枷美春、ゼヒ、ぜひ行かせていただきます!」
予想通りの言葉に、俺は嬉しくなる。それが、天枷美春だ。
「じゃ、善は急げってことで。行くぞ」
「はいっ!」
美春は、廊下でも、学校を出る時も常にご機嫌といった様子で、鼻歌を歌ってる様子なんて、見ているこっちも明るくなる。
意味もなくへこみがちな雨も、美春といると忘れられる。
そんなことに気付いたのは、今日だった。
「なあ、美春。聞きたいことがあるんだけどさ」
「なんですか? 今なら、どんなことでも答えちゃいますよ」
「じゃあ、スリーサイズ」
「上から78、54、83ですよ。公称ですけど」
「お前、本当に答えるか…乙女の秘密ってヤツじゃないのか?」
「それくらい、今の美春はご機嫌なんですよう。そもそも朝倉先輩に隠し事をしたいって思いませんけど」
「そっか、じゃあ、他の質問も答えてくれるか?」
「身長体重血液型、なんでもいいですよ?」
「お前が朝にウチに来たのってさ、俺がサボらないように見に来たんじゃなくって、俺と学校に行こうとした、ってことか?」
「え?」
美春の足が、ピタリと止まる。
「あれ、やっぱ俺の自信過剰か。いや、なんでもない、忘れてくれ」
「い、いいえ、違いますよ! むしろ、あってたから、驚いてるんです。先輩、どうしてわかったんですか?」
「いや、お前、朝に聞いたときに、思わせぶりな言いかたしてたし。第一、俺にサボらせたくないなら、音夢みたいに電話をしてくればいいんだ」
「音夢先輩から電話があったんですか?」
「ああ、美春が来るちょっと前にな。学校サボるなーって」
「……」
先ほどから止まった美春の足は動かず、顔も次第に沈んでいく。
「美春?」
「そっか、そんなことも、音夢先輩と同じだったんですね」
美春は歩き出す。だが、おかしい。
音夢とおそろいなんて、美春が喜ばないはずがないのに、その顔は沈みっぱなしなのだ。
「美春、『音夢先輩と同じこと考えてたなんて、嬉しいです!』とか言わないのか?」
どうしても、それを聞かずにはいられなかった。
先ほどまで気にならなかった雨の音がうるさい。
美春が何を言っても聞き逃してしまいそうだ。
「……あんまり人には聞かれたくないですけど、外よりはお店の中のほうがいいですよね」
美春といたときに感じたことのない暗鬱さを感じながら、クレープ屋に入る。
美春に席取りを任せ、俺は店員に注文をする。
バナナクレープとチョコクレープ、メロンソーダにバナナジュースを抱えて、美春の待つ席に行った。
「ありがとうございます」
「うむ、遠慮なく食べるがいい。おかわりは許さないけど」
「ケチですねえ……」
「俺の財布事情は、あんま明るくないんだよ」
軽口を飛ばしあうが、なんとなく空気は重い。
だが、俺はなんという質問をすれば正しいのか分からず、美春が何かを言ってくれるまで待つことにした。
クレープを食べ終わり、ジュースをストローで混ぜながら、美春が言う。
「先輩。美春にとって、音夢先輩は憧れでした」
「でした? 過去形なのか?」
「今でも憧れなんですけど、ただ、今は過去形で言いたい気分なんです」
「わかった。それで?」
「小さい頃から、音夢先輩にあこがれて、あの人が『お兄ちゃん』と呼ぶ人を美春も同じように呼ぶようになりました」
美春は、天井を見る。
いや、何か遠い過去を見ているのだろうか。
「音夢先輩が、どういう経緯で先輩の『妹』になったのかは知りません。さすがに、それは聞けませんでした」
確かに、語りづらいことだ。
もしかしたら、さくらでさえ、音夢のことの詳細を知らないかもしれない。
「ただ、あの人が『兄』として慕って、大好きになった人のことが、美春も好きになりました」
「……」
「そして、あの人が『兄』から『男の人』として好きになった人を、美春も同じように心情を移していきました」
音夢が俺を「お兄ちゃん」ではなく、「兄さん」と呼ぶようになって、美春は、俺を「先輩」と呼ぶようになった。
ああ、言われてみれば確かに、二人は同時期に呼び方を変えた気がする。
「あの人を追いかけるように、風見学園の風紀委員に入って、同じように努力したつもりです」
お勉強はおいつけませんし、お料理は音夢先輩が絶望的ですけど、と軽く言う。
「ただ、あるとき思ってしまいました。美春は、天枷美春として行動できているのか? と。朝倉音夢の影のように生きているのではないか? と」
「おいおい、随分深刻だな……」
美春の口から、そこまで重い言葉が出るとは、さすがに想像していなかった。
「美春の口から、そんなに重い言葉が出るなんて思ってませんでしたか?」
「…………」
「ですよね。先輩は、わたしは元気な“わんこ”だと思ってますし。でもね、先輩」
美春は、ストローでジュースを軽く吸ってから、言う。
「犬は、飼い主に似るんですよ。美春の元気さも、音夢先輩の隠してる部分が出てるだけ、そうは思えません?」
ガツン、とハンマーで殴られた気がした。
元気よく尻尾を振って、まるで邪気がない、そんな犬みたいな美春が、音夢の裏モードのごとく、冷静な一面を見せていることに。
「だから、音夢先輩がいなくなったとき、寂しかったけど、チャンスだと思いました。美春が、美春として行動できるのではないか、と」
「……続けてくれ」
「音夢先輩がいなくなってからすぐに行動しても良かったんですけど、それこそ、先輩は美春を音夢先輩の代替物として見るかもしれなかった。だから、間をおきました」
「で、ちょうどいい間があいて、口実も出来た。大雨なら、俺がサボろうと考えるかもしれない」
「そうです。この雨の日をきっかけに、美春は、美春として、先輩を見ることが出来るかもしれない。そう思いました。けど」
「音夢も、同じことを考えてた。俺がサボるんじゃないかって」
「ええ。ちょっと絶望的でした。美春の考え方は、もう、音夢先輩に支配されちゃってるみたいです」
美春がジュースを飲み干す。
ズズズ、と音がしても、美春はストローで吸っている。
店員にジュースのおかわりを頼み、俺は美春と向き合う。
「ねえ、先輩。美春はどうしたらいいと思いますか? このまま、音夢先輩の代わりみたいに生きていけばいいんですか?」
「……」
「あの人が風見学園に居たらこうだっただろうなあ、って皆が思うような、そんな生き方をすればいいんですか?」
「……」
「ジュースのお代わり、持ってきました」
「あ、どうも。先輩がメロンソーダで、美春がバナナジュースです」
重苦しいかと思ったら、この受けのよさ。裏美春、といったところだろうか。
確かに、美春は音夢と同じようなことをしている。
だが、
「考えすぎだよ、美春」
「大ざっぱよりはマシですよ」
「そうか? 俺は、朝倉純一って誰のせいでこんなにかったりぃかったりぃ言ってるのかなんて、考えたこともない」
「先輩は、オリジナリティの塊ですから。けど、美春は違います」
「違わない。美春だって、個性の塊だ」
「バナナが好きで、よく転んで、頭はよくないですし、家事はおおむね得意ですけど、あとは音夢先輩とそうは変わりませんよ」
「あのなあ、そんなこといったら、かったりぃが口癖で、ちょっとした魔法が使えるだけの俺は、よっぽど平均値に近いぜ?」
右手をぎゅっと握って、イメージ。
和菓子にバナナをイメージさせるものはないので、とりあえず饅頭を作ってみる。
美春の目の前でやるのは初めてだ。
「こんな風に和菓子を出せるけど、それだけだ。あとは、普通の問題児。音夢みたいな優等生に似てるんなら、美春はよっぽど羨ましいよ」
「そんなことないですよ。手品が出来る先輩の方が、よっぽどすごいです」
「いや、魔法なんだけど、まあ、これはいいや。とにかくさ、美春は、考えすぎ」
ストローを使って、ビシリと指してやる。
「お前は天枷美春。音夢に憧れて行動が似たし、俺の心情を読めるけど、それは俺たち3人が幼馴染なんだから、普通なんだ。俺たちだって、美春の行動が読めるしな」
「そんな簡単なことじゃないですよ」
「いいや、簡単だ。お前が料理が得意なのは、俺と音夢に美味しいものを食べさせたいと思ったのがきっかけだし、勉強が出来ないのは、音夢よりも遊びが好きだからだ」
「じゃあ、美春は劣化品ですね」
「んがー! なんで今日のお前はそこまでネガティブなんだ!? 雨か、雨のせいか!?」
窓越しに雲に怒鳴るが、雲はうんともすんとも言わず、雨を降らし続ける。
「ええい、美春。この際はっきり聞く。お前、俺に何を言って欲しいんだ!?」
「え?」
「俺に相談持ちかけたんだから、何か答えて欲しいとか、俺に何か言って欲しいんだろ? かったりぃから、それを教えてくれ。オウム返しに言うから」
「ええっ? それは先輩が考えて、美春を感動させてくれるんじゃないですかぁ?」
「俺がそんなに頭回るわけないだろ!? 杉並とか眞子なら、いいこと言ってくれるかもしれないけど、俺だって頭悪いんだから」
「はあ、そうですねえ。じゃあ、美春のほうが、音夢先輩よりずっと可愛いとか、綺麗とか、好きだとか」
「美春の方が音夢より可愛げがある」
「…即答の割に、1つしか言ってくれないんですね」
「心にもないこといっても、美春は納得しないだろ。悪いけど、音夢のほうが綺麗だと思うし、美春と音夢のどっちが好きか、断言できない」
「あー、正直ですねえ。美春も、音夢先輩の方が綺麗だと思いますよ。音夢先輩の方が可愛いとも思いますけど」
「そりゃ贔屓目だ」
「朝倉先輩は、逆に音夢先輩にマイナスの贔屓目持ってますよね、“妹”だから」
「そうかもな。けど、美春だって、妹同然だ。贔屓目の持ち方は、同じくらいだよ」
「ん〜、結局、音夢先輩と美春の立場はイーブンってところですか」
美春が2杯目を飲み終わる。
「先輩、もう1杯いいですか?」
「ダメ。財布が厳しいって言っただろ?」
「じゃあ、自腹でもいいですよ」
「ダメだ。太るぞ」
「バナナは消化にいいですから、大丈夫ですよう」
「本当の過重ならともかく、ジュースは大量の砂糖などを含んでいます。諦めましょう」
「う〜」
美春は諦めきれないのか、コップを傾けて氷を口に含み、ガリガリと噛む。
そういう直接的な拗ね方は、音夢には一切見られないことだ。
「やっぱり、全然似てないな、音夢と」
「そりゃそうですよ! 音夢先輩と美春は、違う人間なんですから」
「あれ? さっきまでと言ってること違わない?」
「まあ、お芝居ですし」
「…………は?」
言葉とともに、美春は『天枷美春伝説〜わんこと呼ばないで〜』と書かれた台本を取り出した。
下のほうに『杉並印刷謹製』と書いてある。
ぱらぱらとめくれば、確かにこの店に入ってから、さっきまで美春が言っていたことが書いてあるのが見てとれる。
ついでにいうと、俺の分まで。
「あの、先輩も同じ台本読んでたんじゃないんですか?」
「俺が? 何のために?」
「ええと、確か、有志の劇に、朝倉先輩が出て、相手はゼヒ美春に任せたい、って先輩が言ってたって、杉並先輩が」
「……ちょっといいか、美春。そのヘアバンドあたりが怪しい。」
美春のヘアバンドをめくると、わざとらしく盗聴器がある。
「ちょっと耳塞いでろ、美春」
「え? あ、はい」
すう、と大きく息を吸い込む。
「絶対に許さん、次にあったときがお前の最後だ、日の目を拝めると思うなよ、俺を侮辱した罪は重い……」
大声を出そうかと思ったが、場所を考えて、息の続く限り呪詛を吐き続ける。
最後に、踏み潰す。
「あの、朝倉先輩。なんだか黒いオーラが見えた気がしたんですけど」
「気のせいだ。そろそろ出ようか、美春」
「はい。支払いはお願いしますね、先輩」
きっちり覚えていたか。
ごまかしてワリカンにしようと思ったのに。
しょうがないので、2人分の食事代を払って、店を出る。
「雨、止みませんねえ」
「気圧図から察するに、今日は一日中雨だな」
「なんで平然といるんだ、杉並ィィィィィ!」
奇襲の右ストレートを、あっさりとかわす杉並。
「いや、やっぱりドッキリは仕掛け人が全員出てこなくてはダメだろう?」
「全力で反撃をされることを理解して言ってるんだろうなあ」
「ふっ、相応のリスク、といいたいが。やはり遠慮しておこう。今回の件、お前にとって有意義なものだったはずだしな」
杉並はちょいちょい、と俺を呼び寄せ、耳打ちをしてくる。
「台本は即興だったが、わんこ嬢のことを見直すいい機会だったろう?」
「お前の思慮深さと執筆力は驚くけどな、けど、所詮は芝居だろ?」
「だが、彼女も、自分に対する認識、お前に対する認識を改めるだろうさ。そのリアリティを狙ったからな」
つまり、これは俺と美春をくっつけようとする、杉並の陰謀か?
「お前、なんでこんなことするんだ?」
「なぁに、鈍い親友に可能性の一面を示しただけだ。感謝されるほどのことではない」
「感謝の言葉を言った覚えはないんだが?」
「素直じゃないからな、お前は」
「お前よりはヒネくれてない」
「あのー、先輩方、お話まだ終わりませんか?」
放置され続けた美春が、声をかけてくる。
「美春、お前は杉並に文句を言わないのか? 勝手にネガティブ美春を作られたのに」
「え? 結構面白かったですよ? それに、美春には収穫がありましたから」
「そうなのか?」
「ええ。だから、こうやって杉並先輩が逃げる時間を稼いだりしちゃうんです」
笑顔で言う美春から視線を戻すと、杉並が既に消えている。
「忍者か、アイツは…」
「かもしれませんねえ…。杉並先輩のことは、美春に免じて許してもらえませんか?」
「まあ、別にいいけどさ…」
同じような立場にあった美春が許すのに、俺が許さないというのも大人気ないだろう。
雨の跳ね水がぴしぴしと当たり続ける。
ちょいと寒い。
「あー、とっとと帰るか。美春、どうする? ウチに寄ってくか? バナナの箱、置いていったよなあ」
「そうですね、じゃあ、ついでに、お夕飯のお買い物して行きましょう。おごってもらったお礼に、美春が腕を振るいますよ」
「お、いいのか?」
「ええ。バッチリと、先輩の好感度を勝ち取っちゃいます」
「好感度?」
なんだ、そのゲームのステータスみたいなのは。
「先輩が、音夢先輩並みに美春のことを思ってくれているのなら、今先輩の周りにいる人たちの中では最高ってことじゃないですか」
「ん〜、そうなるのか?」
「ええ! だから、音夢先輩がいない今のうちに、ちゃっかりと朝倉先輩のハートを頂いちゃいます」
「へ?」
「えへへっ、言いましたよ、先輩? 美春は、先輩のことが好きだって」
「え、だって、さっきの芝居だって」
「美春だって、思ってもないことは言いません」
屋根から外れれば、ものすごい雨だっていうのに、美春は太陽みたいな笑みを浮かべる。
「朝がいいきっかけになれば、って思ったんですけど、杉並先輩のおかげで、もっといいきっかけができました」
右手でビシィッ!と俺を指してくる。
「この雨が降り終わるまでには、先輩のハートを掴んでみせます! なにせ、今日1日は降り続けるらしいですしね」
それは、なかなかチャレンジャーな発言だ。
俺もついつい、挑まれたように返してしまう。
「俺の心が、そんなに簡単に掴めると思ってるのか?」
「ふふっ、美春にかかればイチコロですよ。なにせ、音夢先輩より、美春は可愛いらしいですから!」
美春、君はなかなかに記憶力がよろしい。
「さあ、勝負です、先輩! 先輩が美春のものになるか、美春が先輩のものになるかっ!」
「いや、それは違うと思うけどな」
ただ、今日という日がきっかけで、俺たちの関係は変わるだろう。
それは、きっと間違いなく、いい方向に。
恋人になるかどうかなんて、そこまではわからないけれど。
天邪鬼な親友が無理矢理導いた、俺たちの物語のこんな展開。
その先が、どこに行くのか、それは雨雲が知っているのかもしれない。
俺は珍しく、雨が止まない方がいいかも知れない、と思っていた。