平日の本日、志貴さまと秋葉さまが学校へといらっしゃり、いつも通りわたしが邸内の、姉さんが庭の掃除をしていたときでした。
普段は中庭にいらっしゃる黒猫のレン様が、今日は珍しく邸内にいらっしゃるのを見かけました。
「レン様、お食事の時間も湯浴みの時間もまだですが」
レン様は、わたしの言葉が聞こえたのか、聞こえなかったのか、一声発することもなく、前足をなめては、その足で顔を擦っていました。
蚤でも付いているのかと、レン様の顔を覗き込んだとき、志貴さまが冗談交じりにいった言葉が、頭の中に蘇りました。
―猫が顔を洗うと雨っていうから、レンを見てれば天気予報代わりになるかな。
もしかして、これは……?
「翡翠ちゃーん、降ってきたみたいなのーっ! お洗濯もの、取り込むの手伝ってー!」
どうやら、予想は当たっていたようです。
姉さんの声に答え、わたしはスカートをはためかせながら、姉さんの元へと向かいました。
邸内にいた時には気付かなかったことですが、確かに空は黒く染められ、今はまだ僅かに降る雨は、すぐにも勢いを増しそうだと容易に想像できました。
中庭に辿りつくと、姉さんが取り込む反対側から洗濯物を取り込んでいきます。
「んー、天気予報では午後の降水確率は10%って言ってたんだけどねー」
取り込む手を休めずに、姉さんが呟く。
やっぱり受信料払ってNHKの天気予報を見たほうがいいのかなあ?という言葉は、遠野家で唯一テレビを持っている姉さん独特の悩みなのでしょう。
ほどなくして、洗濯物を取り込み終え、邸内へと運び込む。
「良かったね、翡翠ちゃん」
「はい」
ここまでの天気が良かったおかげか、洗濯物はちゃんと乾いていたようです。
姉さんが洗濯物をたたむ傍らに立ち、窓の外を見れば、やはり外は本降りになっていました。
いつ止むとも知れない雨の音を聞きながら、時計を見れば、志貴さまはまだ学校のお時間。
雨に降られて困っていらっしゃる、ということはないはず。
「あっ……」
けれど、それは今のことでしかない。
志貴さまがお帰りになられる頃に、この雨が止んでいる保証など、ない。
「どうしたの? 翡翠ちゃん、なんだか悩んでるみたいに見えるけど」
姉さんが、洗濯物をたたむ手を止め、わたしの顔を見ていました。
姉さんに隠すようなことでもないので、私は素直に伝えます。
「志貴さま、傘を持っていらっしゃらなかったの。お帰りになられる時、雨に濡れてしまわれるんじゃないかと思って……」
「そうだね。秋葉さまは車だからいいけれど、志貴さんは歩きだから……」
志貴さまは遠野家のお方なのだから、登下校には車をお使いになられればよろしいのに、「なんか調子が狂うから」という理由で、一度もお使いになられない。
「雨が止むまで雨宿りをなさってくださればいいのだけど」
志貴さまならば、雨に濡れながら帰ってくる気がする。
笑いながら、「いやあ、凄い雨だったよ」とお帰りになられる気がする。
笑顔を向けてくださるのは嬉しくても、それで志貴さまが風邪を召されたら、と思うと、喜ぶことなど出来ない。
「志貴さんなら、そのまま帰ってきちゃいそうだよね」
どうやら、姉さんもわたしと同意見のようです。
「翡翠ちゃん、志貴さんにカサ、届けに行く?」
「わたしが?」
「うん、わたしはお洗濯たたんだら、お料理の用意をしなくちゃいけないし。ね?」
わたしたち以外に、お屋敷には人がいないしね、と姉さんが悪戯っぽく笑いながら、言う。
確かにそれは事実ですが、何か他にも思惑があるのでしょう。
けれど、その思惑は、きっとわたしのことを思ってのこと。
ならば、なぜわたしが迷う必要がありましょう?
「わかりました。志貴さまに傘を届けに行きます」
答えた私の足元で、りん、と鈴の音。
見ると、レン様がわたしの足に寄り添っていました。
「レン様?」
「………」
「レン様も、ご一緒しますか?」
レン様は、肯定を示すかのように、体をさらに寄せてきます。
「あ、レンさんは駄目ですよー。濡れるの苦手でしょう?」
レン様は、その言葉の意味がわかっているかのように、ピタリとお止まりになる。
「それに、帰ってきたらお風呂に入ってもらいますよ? それでも、翡翠ちゃんと一緒に志貴さんのお迎えに行きますか?」
レン様は、逡巡するように歩き回って、結局、姉さんの足元へ行きました。
「レンさんは行かないみたいよ、翡翠ちゃん」
「そのようですね」
なんとなく、姉さんと微笑みあう。
もう一度時計を見ると、今から出れば、ちょうど志貴さまの学校が終わる時刻くらいに着けそうな時間。
自分の傘を差し、志貴さまの分の大き目の傘を持って、玄関に。
「では、行ってきます、姉さん」
「行ってらっしゃい、翡翠ちゃん。気をつけてね」
姉さんとレン様に見送られ、わたしは遠野家を後にしたのでした。
雨中恋愛事情
「雨か……」
俺こと遠野志貴は深く溜め息をつく。
学校に置き傘をしているなどという用意周到さは持ち合わせていない。
朝から青空が広がっていたのに、普通の傘を持ってくるなどという奇行は尚更にない。
雨合羽を持っているなんて心理的盲点をついているってことも、ない。
要するに、雨が降ってて途方に暮れている。
「カバンに入ってるのは、こんなものだけか……」
『七つ夜』と刻まれたナイフ。
ナイフでしかないので、もちろん雨除けにはならない。
このナイフでできるのは、せいぜい何かを殺すことくらい。
雨雲を『殺し』てしまえば、雨は止むだろうか?
「くだらないことを…」
このメガネの下にある直死の眼を持ってすれば、おそらくは雨雲も殺せるだろう。
といっても、普通の人間である俺には雨雲の『点』は見られないだろうから、『線』を切ることになる。
しかし、おそらくこの方法では、雨雲を分断できこそすれ、本当の意味では殺せないだろう。
かといって、ただでさえ頭痛がするっていうのに、目を凝らし、酷い頭痛に耐えてまで雨雲を本気で殺そうとは思わない。
それ以前に、この眼をそんなに軽率に使おうとは思わないし、思ったとしても……
「遠野志貴では、雨雲までとどく脚力が存在しないのでした。おそまつなことで」
だから、これは本当にくだらない考えなのだ。
だから、もっと建設的で現実的な意見を出さなければならない。
「まあ、止むまで待つか、濡れながら走るか、誰かに傘を借りるかってところか」
第三の意見、誰かに傘を借りる、は自動的に却下だ。
雨の中、長々と教室に留まってくだらないことを考えているのも遠野志貴だけのようで、既に自分以外の姿が教室にない。
まあ実際には誰かがいたとしても、遠野志貴が傘を借りるほど近しい友人といえば乾有彦以外に思いつかないが、アイツは今日一日、教室に姿を見せていない。
さらにいうなら、有彦が来ていたとしても、俺に傘を貸してくれる公算などありはしない。
ああ、また愚考に走っている。冷静に状況を分析しなければ。
遠野志貴に与えられた選択肢は2つ。
雨が止むまで待つか、一気に帰るか。
「いや、待てよ? 有間の家に駆け込んで、傘を借りるっていう手もあるのか」
遠野邸に住むようになってから会う機会がめっきり減った啓子さんや都古ちゃんに会うのも悪くない。
ただ、この選択肢をとった場合、秋葉に「有間の家にわざわざ行くなんて、そんなにうちは居心地が悪いですか?」なんて嫌味を言われそうではあるが。
それとも、「兄さんは遠野の長男なのですから、車をお使いください」か?
いや、そんな金持ちのボンボンがしそうなことは、遠野志貴の肌に合わない。
結局、新たに浮かんだ選択肢は、思考の海に沈み行く。
「考えると泥沼になりそうだな……とりあえず、昇降口まで行くとしますかね」
荷物をまとめて席を立ち、教室のドアを開けて廊下へと出る。
廊下には、見慣れた人物が赤い傘を持って待っていた。
「あ、出てきましたね、遠野くん」
「シエル先輩? 出てきましたねって、もしかして俺のこと待ってた?」
「ええ、遠野くん、どうせ傘を持ってないだろうと思って、ならわたしの傘に入って一緒に帰れば、と思いまして」
頬を染めて提案してくる先輩。
その真意は測りかねるが、傘に入れてくれるというのならありがたい。
「ありがとう、先輩。じゃあ、近くのコンビニまで一緒に入れてもらっていいかな? そこでビニール傘を買うから」
「…………」
「あの、先輩?」
「ええ、いいですよ」
先輩は、一瞬きょとんとした顔をしたものの、笑顔でそう答えてくれた。
昇降口に向かう間に、「遠野くんにロマンを求めるだけ無駄だってわかってたんですけどねー」と聞こえよがしに言っていた。
傘を買いに行くことにロマンがあるのだろうか?
なかなかに解しがたいロマンに思いをめぐらせていると、校舎が終わりを告げ、外との境界となる。
先輩が傘を広げ、どうぞ、と隣に入ることを促してくる。
愚かなことに、遠野志貴はそこで初めて、これが相合傘というものだと悟った。
「ええっと、本当にいいのかな?」
「何言ってるんですか。いいに決まってますよ」
先輩はにこやかな笑みを浮かべ、さあ、と促してくる。
俺は、少々照れくさいというか恥ずかしい決心をしながら隣に入ろうとする。
「志貴ー! 傘持ってないだろうと思って、迎えに来たよー!」
その呑気な声が聞こえた瞬間、先輩の笑みが固まる。ついでに、場の空気も。
ピシリ、という音が聞こえた気がした。
「アルクェイド……」
君ってやつは、なんでこんな時に限って、気が利くんだ…。
アルクェイドは、右手で黒い傘を掲げ、左手を大きく振りながら笑顔で近づいてくる。
が、俺の隣にいる人物に気付き、アルクェイドの顔が険しくなる。
互いが“敵”として認識し、周囲の空気が一気に殺伐とした、重く冷たいものへと変容する。
「あら、シエル。まだ学校に通っていたの? とっくにこの町を出たと思っていたのだけれど?」
「ええ、元凶がなくなったとはいえ、死者は完全に片付いたわけではいませんし、貴女のような存在もまだいますしね」
「わたしのことは聞き流してあげるわ。ついでに死者もかたしておいてあげるから、とっとと故郷に帰ったらどうかしら?」
「いつの間に真祖の姫君は慈善事業を行うようになったんです? 教会の仕事は協会に任せ、貴女こそとっとと故郷に帰って眠りにつきなさい。それを誓えば、今は見逃してあげますよ」
お互い、一見親切なことを言っているようで、全力で喧嘩を売っている。
既に一触即発、というやつだ。
巻き込まれないうちに逃げたいところだが、この喧嘩の原因は俺のようなので、微妙に気が引けた。
「フンッ、まあいいわ。志貴、こんな女放っておいて、とっとと帰りましょう」
「何を戯言を。遠野くんはわたしと一緒に帰るんです」
「一緒に? そんな小さい赤い傘1つで? ハッ、あんたはどうでもいいけど、志貴が可哀想だわ」
「遠野くんは喜んで一緒に帰ると言ってくれましたよ。それに貴女こそ、そんな無骨で、しかも穴の開いた傘に人を入れようとは……」
「へ? アルクェイドの傘に、穴なんて見えないけど……」
先輩が右手を閃かせ、アルクェイドに向けて何かを投げるような動作をする。
否、本当に投げた。銀色に煌く何かを。
アルクェイドは、この不意打ちに驚きの表情を見せるが、それを見切り、自分の服が裂けることすら厭わずにその軌道の先にあった傘を動かす。
「いきなり黒鍵投げつけて傘に穴開けようだなんて、やってくれるじゃないの、シエル。こっちも、黙ってはいないわよ?」
言うが早いか、アルクェイドは先輩に走りより、その爪をもって切り裂こうとする。
が、先輩はその攻撃を予期していたのか、アルクェイド並の速さで間合いを広げ、その爪から傘を守る。
「攻撃をしてきたということは、敵対したと判断して構いませんね、真祖よ?」
「先に仕掛けておいて、よく言う」
二人の間の空気が張り詰めすぎて破裂しそうなほどになっている。
「ちょ、ちょっと、二人とも……」
静止をしようとする俺の声など聞こえないのか、先輩とアルクェイドが同時に疾る。
校舎からやや離れたところ、先輩の黒鍵が飛んだかと思えば、アルクェイドが舞うように爪を振るう。
お互いに、純粋に殺意をぶつけあった攻撃に思えるのだが、自分が濡れようとも傷つこうとも傘を守って戦う光景というのは、なかなか異様な光景だった。
二人とも、理性は残して戦っているのだ。
校舎から離れたのも、傘を守るのも、俺と一緒に帰る、という最終目的を実は忘れていないという証だろう。
「まずいな……」
結局のところ、二人は仲がいい気がするので、本当で相手を殺すことは無いだろう、多分。
だが、だからこそ、お互いに、息せき切らして戦い、疲れ果てたその時、俺のことが視界に入ったら、いきなり醒めてこう言うだろう。
「遠野くん、わたしと帰ってくれますよね!?」「志貴、わたしと帰るんでしょう!?」
きっと、信じがたいくらいに息ぴったりに言ってくるのだ。
しかも、俺が片方を選べば、残った片方から手痛い反撃を受け、二人とも選ばないと、二人がかりで攻撃をしてくる。
未来視の能力などない俺だって、経験則というヤツでこれくらいはわかる。
ならば、取る手は1つだ。
「まだ二人とも戦いに夢中な間に、逃げる……!」
この選択も、なんだかんだで後日責められる可能性はあるが、確実にやられる現状に甘んじるよりは数段良い。
先輩とアルクェイドの目を盗んで、校門へと一気に駆け、遠野家に向けて走る!
決意と同時に行動を起こし、校門を出て直角に曲がったところで、
「志貴さま!?」
「翡翠!?」
翡翠の姿を認めるが、ダメだ、全力で走っている足は、止まってくれない。
ドンッという音がしてぶつかり、俺と翡翠はお互いに尻餅をついてしまう。
「〜っ、ごめん、翡翠、大丈夫だったか?」
「……はい」
そう返事をした翡翠を見てみれば、翡翠には大き目の閉じた傘を抱え、受身さえとらずに水溜りに突っ込んだのが見て取れた。
近くには、翡翠が衝突寸前まで持っていた傘が落ちていて、今は雨から彼女を守るものは無い。
総合して、全然、大丈夫ではない。
「翡翠、わざわざ傘を持ってきてくれたんだろうに、すまない」
「いえ、わたしは志貴さまの使用人ですので」
翡翠は傘をこちらに寄越してくる。
普段どおりの無表情を装っているつもりなのだろうが、服が濡れたことからくる不快感やら悲しみやらが隠しきれていなかった。
しかし、その努めて作った無表情のまま翡翠は傘を拾うと、こちらに一礼してくる。
「では、先に屋敷に戻っております」
何事も無かったかのように、翡翠は帰途につこうとする。
が、いくらなんでも、濡れ鼠といっていい今の状態の翡翠をそのまま帰らせるのは気が引ける。
気付けば俺は、翡翠を呼び止めていた。
「ま、待て、翡翠」
「なんでしょうか、志貴さま」
「ああっと、だな。そうだ。今から街に買い物に行くから、ちょっと付き合ってくれ」
「今から、ですか?」
「ああ、そうだ。俺1人じゃ、というより翡翠がいないとどうにもならないんだ。来てくれないか?」
「……わかりました、お供します」
やや強引な理由付けだったが、翡翠は頷いてくれた。
翡翠から受け取った傘を開き、やや足早に歩く。
翡翠は俺と並ばず、俺のやや後方をちゃんとついてくる。
ほどなくして街に着いたが――
「後先考えてなかった……とりあえず、翡翠の服を着替えさせないといけないんだけど……」
ブティックに入るか? と考えて逡巡。
濡れたエプロンドレス、平たく言えばメイド服の少女を、学生が連れ込む場所か?
俺が奇異の目で見られることは甘んじて受けても、翡翠がそう見られるのは不快だ。
となると、新しい服を買うのではなく、濡れた服を洗う、最低限乾かすことができる場所が必要だ。
条件を満たす場所……クリーニング屋では、おそらく時間がかかりすぎるから、コインランドリーか。
だが、コインランドリーで翡翠に服を脱がせるわけにもいかない。
服を脱いだ翡翠を見られたとき、最悪の場合、俺の両手が後ろに回ってしまうだろう。
どこか、翡翠が服を脱いでも誰も不審に思わず、見られることも無いところ……。
……アレか。
「翡翠」
「はい、志貴さま」
「ホテルに入ろう」
「え……?」
翡翠は、俺の言葉を唖然とした表情で受け、
「はい、志貴さまがお望みなら……」
と、顔を赤くして答える。
なんか、とてつもない誤解をされた気がするが、とりあえず、翡翠の顔は可愛かった。
なけなしの金で『ご休憩』分の金を払って部屋に着く。
「はあ、なんていうか、こういう部屋って、本当にあるんだなあ」
どんと置かれた大きなベッドには、枕が2つ。
それから視線をそらせば、ガラス張りの浴室が視界に飛び込んでくる。
極め付けに部屋全体をピンクっぽい薄暗い照明が照らし、なんともいやらしい。
翡翠など、顔を真っ赤にして、うつむいて黙り込んでいる。
いや、翡翠は普段から無口だし、顔が赤いのも証明に照らされているだけなのかもしれないのだが。
「あのさ、翡翠」
「……」
「とんでもない誤解を招くかもしれないけど、落ち着いて聞いてくれ」
「……はい」
「服、脱いでくれないか?」
「……!」
もともと赤く見えた翡翠の顔は、耳まで完全に真っ赤になった。
「いや、ほら、その、誤解しないでくれよ? その濡れた服のまま、外を歩かせたくなかったからさ、脱いでくれれば、俺がコインランドリーにでも行って、乾かしてくるから、な?」
「……」
「あの、翡翠?」
「志貴さま、あちらを向いていてください」
「あ、ああ、うん」
翡翠に指示されるまま、ガラス張りの浴室を眺める俺。
後ろからは翡翠がベッドの方に歩み寄り、シュルシュルと衣擦れの音を立てながら服を脱いでいる音が聞こえる。
なんというか、とてつもなくエロチシズムの溢れる場面だ。
振り向いて翡翠の姿を確認したい衝動に駆られるが、理性で無理矢理押さえつける。
天国とも地獄とも感じられ、一瞬とも永遠とも言える時間が過ぎ、翡翠が志貴さま、と声をかけてくる。
「脱ぎ終わったか?」
「はい……」
翡翠を振り返って、思わずクラリときた。
翡翠はメイド服を綺麗にたたんでベッドボードの上に置き、代わりにシーツを身にまとっていた。
シーツの白さと翡翠の肌の白さがあいまって、妖精のような非現実的な美しさを醸し出していた。
「…………」
「あの、志貴さま……何か、おかしなところがあったでしょうか?」
「ん!? い、いや。なんにもおかしくなんてないよ」
「そうですか?」
「うん、それは間違いなく。ええっと、じゃあ、俺は服を乾燥機にかけてくるから、翡翠はここで待っててくれよ。
濡れて冷えたのなら、シャワー使ってもいいからとだけ言い残して、逃げるように立ち去る。
いや、逃げたのだ。あのままいたら、翡翠に何をしでかすかわからない自分が不安で。
コインランドリーに着き、翡翠の服を乾かしている最中も、とにかく落ち着かなかった。
なんとか落ち着いても、先ほどの翡翠の姿がフラッシュバックしてきてしまい、取り乱す。
そんな悶々とした繰り返しをしていた。
「そもそも、なんでホテルになんて連れ込んでるんだ、俺は……」
タクシーを拾ったりとか、とにかく走って遠野家に帰った方がよかったじゃないか。
翡翠と一緒になって帰りが遅かったら、秋葉や琥珀さんにどんな追求をされることか…。
はあ、考えるだけでも怖い。
乾燥機が仕事を終え、翡翠の服はちゃんと乾いた。
コインランドリーを出て、ホテルに戻ろうとしたときに気付く。
「下着……」
流石にそれは聞いてみなかった。
服が乾いても、その下が濡れていては気持ちが悪いだろう。
しかし…
「翡翠のサイズなんて、知らないぞ、俺」
いや、翡翠だけじゃなくって、女性のサイズなんて把握していない。
把握していたとしても、男1人で買いにいくのは心理的に相当ツライ。
これこそまさに、翡翠がいないとどうにもならないものだ。
「コンビニで下だけ買っていくか」
服の上から見ても、翡翠の細い線はわかるから、まあ、市販のもので大丈夫だろう。
コンビニの店員が男性だったのは、救いだったといえる。
乾いた服と新しい下着を持って部屋に戻ると、翡翠はベッドに入ってすやすやと寝息を立てていた。
「寝てるのか、翡翠。……疲れてたのかな」
起こすかどうか悩んで、とりあえず乾いた服をベッドボードに置こうとして唖然とした。
そこには、翡翠の下着がまとめて置いてあったのだ。
つまり、今そこで眠っている翡翠は、ハダカ?
「んん、志貴さま……」
「はいっ!?」
いきなり名前を呼ばれて心臓が飛び出しそうになる。
翡翠を注視するが、翡翠は何も言葉を継がず、身を打つ。
どうやら、寝言だったようだ。
「驚かせてくれる。……俺の名前を呼ぶなんて、一体どんな夢を見てるんだ、翡翠?」
寝返りを打ったせいで、翡翠の顔は見えない。
しかしそのかわりに、うなじやほっそりとした肩のラインは覗ける。
それは限りなく扇情的で、俺はまた理性を働かせる。
「ああ、志貴さま! そんな、激しいっ…!」
「ちょっと待てぃ! 起きろ、翡翠っ!!」
人が理性を働かせている瞬間に、なんと不穏当な発言をしてくれますか、この人は。
いや、場所が場所だけに、むしろ正しい発言であるのかもしれないが。
ともかく、これ以上は色々とヤバイ。
翡翠の肩あたりを布団越しに触れ、軽くゆする。
「翡翠、起きろ。翡翠〜」
「……志貴……さま…?」
翡翠が起き上がろうとする気配を察知して、俺はすぐさま目を、体全体をそらす。
寝ぼけている翡翠は忘れているかもしれないが、彼女は今何も着ていないのだから、見るわけにはいかない。
壁を見つめたまま、翡翠に話しかける。
「翡翠。服、乾いたからさ、早く着ちゃってくれ。下着も、下だけなら新しいの買ってきたから。必要なら履きかえて」
「はい。志貴さまのお手を煩わし、申し訳ありません」
「いやいや、翡翠が謝ることなんて何も無いよ。元はと言えば、俺が体当たりをしちゃったせいだし、むしろ謝るのは俺の方だ。ごめん、翡翠」
「いいえ、あれはわたしの不注意です。志貴さまこそわたしに謝られる必要などありません」
「いや、あれは俺のせいだって」
「いえ、わたしの責任です」
「いや、だから俺が」
「いえ、私です」
「だから俺が悪いんだって!」
進まない議論に業を煮やして俺は翡翠を振り返り、停止した。
翡翠も、俺の姿を見たまま停止する。
翡翠は、時間が十分にあったはずなのにも関わらず、未だに何も着ていなかった。
我に返った俺は、再び視線をそらす。
「ひ、翡翠! 早く服を着ろよ!」
「志貴さま、どうして目をそらすのですか?」
「どうしてって……見るわけにはいかないだろ!?」
「……わたしはそんなに魅力がありませんか、志貴さま?」
悲しげな声に、俺は翡翠へと視線を戻す。
声に負けない悲しげな瞳をした翡翠が、こちらを見返す。
「別にそういう意味じゃないよ、翡翠」
「では、なぜ触れてくださらないのですか?」
「なぜ、って……」
「先程、わたしの夢の中の志貴さまは、わたしを求めてくださいました」
「お、おい、翡翠?」
「いくらわたしでも、この建物が、何か知らないわけではありません。入ったときから覚悟を決めていましたし、志貴さまなら、と思っていました。
ですから、先ほどのことも、夢だとは思っていませんでした。それほどに実感があり、幸福に満たされていましたから」
「翡翠……」
「しかし、本当の志貴さまは、わたしを見てさえくださらない。先ほどの夢は、夢というより、わたしの妄想なのでしょう」
「違うよ、翡翠。それは、少なくとも翡翠だけが抱く妄想じゃないし、そもそも俺は翡翠のことを嫌ってない、いや、好きだ」
翡翠が、疑わしげにこちらを見る。
「ありがとうございます。そのお心遣いだけで、翡翠は十分です」
「いや、ダメだ。もっとちゃんと言わせてもらう。が、まずは服を着てくれ。その綺麗な肌が見えてると落ち着かないから」
「……後ろを向いていてください」
後ろを向き、耳で翡翠が服を着ている音を確認する。
「俺はさ、翡翠。ここに来るとき、あまり何も考えていなかった。翡翠の服を乾かさなきゃ、ってだけ思ってたんだ。
考え足らずだよな。翡翠に服を脱げ、って言おうとした瞬間に、俺が何やってるのかわかったくらいだ。
まあ、結局やることは変わらないんだけど」
もう大丈夫です、と翡翠が言うので振り返る。
そこには、いつもの見慣れた服装の翡翠がいた。
「誤解しないで欲しいのはさ、翡翠。そもそもここに来たのは、翡翠のためだって思ったからだし、下心はなかったんだ。
けど、翡翠の寝姿とか見て、はっきり言って、体を理性で抑えるの大変だった」
「……」
「俺だって健全な男子だからさ、可愛い子には欲情だってするよ。けど、翡翠は、ただの可愛い子じゃない」
「わたしは…………可愛くなんてありません」
「いや、それはない。琥珀さんだって、秋葉だって、翡翠が可愛いって認めるよ。もちろん俺も」
「…………」
「ただ、翡翠は、可愛い子である以前に特別な子なんだ、遠野志貴にとって。だから、本来の目的からそれて、なりゆきで体を合わせるなんて、俺には納得できない」
翡翠は、何も答えず、俯いてしまう。
「俺の勝手な都合だと思うよ。翡翠が期待したっていうのなら謝るし、翡翠が迷惑だって思うなら、俺を殴ったっていい。いや、翡翠に嫌われたくはないけどさ」
翡翠は、しばらく俯いていたけれど、顔を上げてハッキリと言った。
「わたしが、志貴さまを嫌うことなんて、ありえません。志貴さまは、わたしの理想の男性そのものですから」
「そっか……ありがとう。そこまで言ってくれて嬉しいよ、翡翠」
「いいえ、わたしの本心ですから」
翡翠は、可憐に笑った。
「お、もう止んでるな」
「そのようですね」
ホテルを出てみれば、世界は赤く染まっていた。
夕焼けの時間になってしまったようだ。
「あー、こんなに遅くなっちゃって、琥珀さんや秋葉が怖いなー」
「姉さんは、怒らないと思いますよ。秋葉さまとレン様はわかりませんが」
「そっか、レンもいるんだった……琥珀さんは、翡翠が言うからには大丈夫なんだろうけど、あの2人は怖い。とっとと帰ろうか」
「はい」
二人並んで帰路に着く。
「志貴さま」
「ん? なんだい、翡翠?」
お耳を、というので、やや屈んで翡翠に耳を寄せる。
「志貴さま、わたしは……夢が現実になる日を、待ってもいいのでしょうか?」
離れ際に、頬に柔らかな感触を残して、翡翠の顔が離れる。
翡翠の顔が赤かったのは、彼女の感情ゆえか、雨上がりの夕焼けのせいか。
俺の顔が赤くなったのは、喜びか、恥ずかしさか、それとも、やはり雨上がりの夕焼けのせいなのか。
「言うまでも、ないだろう?」
いつか、なんて断定は出来ないけれど、それはきっと、次に雨が降った時。
翡翠が望んでくれるのなら、俺たちが結ばれることもあるだろう。
その時まで、この赤さは、引くことはない。
雨上がりの空に、遠野志貴はそんなことを思ったのだった。