その日、家を出た俺の目に映ったのは、気の滅入るような曇天だった。










雨とコーヒーの昼下がり










街に、雨が降る。

陣取った窓際の席から、ぼんやりと外を眺めていた。

コーヒーが美味いと評判の、家から30分かからないところにある喫茶店。

評判を聞きつけて来て見てからもう半年、今じゃ俺もすっかり常連の一員だ。

コーヒーはキライじゃないけど味の違いなんてよく分からないし、苦いのもあまり美味いと思わないから、もっぱらアメリカン。

それでも喫茶店なんて所に来るのは、やはり店の雰囲気に魅かれたからだろうな・・・などと、意味もなく自分観察をしてみる。

広すぎない店、落ち着いた内装、静かめのBGM、染み付いたコーヒーの匂い・・・そして評判に反して何故か少ない客。

俺以外に客は、ほとんどいないことが多い。たまに騒がしいのがいることもあるけど。

ま、落ち着きたいときは、ココが一番。




ホントは、休日とはいえ雨の日はあまり外出したくない。

でも、今日はココへ来るしかなかった。

というか、気がついたらここに来ていた。

のんびり昼前に起きて、家でボーっとしてたら、掃除の邪魔だと言われた。

居座ってもよかったのだが、結局なんとなく出てきてしまった。

その時はまだ雨が降りだしてなかったし。

しかし、出てきたら出てきたで、やることがない。

友人は、みんな手が空いてなかった。

その上、男一人で出てきて楽しめる場所なんて、そんなに心当たりがない。

ゲーセンっていう気分でもなかった。

そのうち雨が降りそうになって、ここに来ることを思いついた。




最初に頼んだコーヒーは、半分くらい残ってるけどもう冷めた。

コーヒーは熱いうちが美味いんですよ、とはマスターの言葉。

確かにアイスならいざしらず、冷めたコーヒーというのはそんなに美味くない、気がする。

まぁ、冷めたら美味くなくなるのはコーヒーだけに限った話でもないけど。

視線は依然、外に向けたまま。窓越しに見えるのは、色褪せた雨の街。

カップを口に運ぶ。

冷めたコーヒーは、確かに美味くなかった。




緩やかに時間が流れていく感覚。

ただ、窓の外を眺めている。

特に何かを期待しているわけでもなく、見ているわけでもなく、聞いているわけでもなく。

緩やかな時間に身を任せ、その流れの中を泳ぐ、魚。

意味のないイメージが、頭の中に浮かんでは消えていく。

BGMが、替わる。




「何してるの?」

「別に」

突然声をかけられた。

突然とは言っても、足音が聞こえていたので、驚きもなく返事をする。

姿を確認するまでもなく、声で分かる。マスターの娘で、クラスメイトの祐紀だ。

明るくて誰とでも仲良くなるような娘だし、俺自身が店にもよく来るので、仲はいい。

「なにそれ、適当な感じ」

そりゃ適当にも聞こえるだろうな。適当に返事したんだから。

「誰かヒマな友達とかいないわけ?」

「みんな多忙なんだと」

「ふ〜ん」

相槌をうつと、そのまま断わりもなく向かいに座る祐紀。

「・・・で、何か?」

ひじをついた体勢はそのままで、顔だけ動かして祐紀に目をやる。

「ん?別になんでもないけど」

何故か少し、嬉しそうな顔。

「ふ〜ん」

また目を外に。

雨に濡れた街を、かさの群れや車が通り過ぎていく。




「で、今日はなんで来たの?」

祐紀が話しかけてくる。

「常連客に何で来たの、か」

「あー、いや、そういう意味じゃないんだけどな。ホラ、雨も降ってるし」

いやまぁ、分かってるけどな。

「まぁ、イロイロあったりなかったり」

「なにそれ〜」

取り留めのない会話。

「いいじゃん、客の方にもイロイロあるんだって」

「ふ〜ん」

今はそれが何故か、とても居心地がよかった。




「そういえば、さ」

しばらく静かなままだったのだが、祐紀が唐突に話しかけてきた。

「雨って、いいよね」

「・・・そうか?」

いきなり自分の価値観とは反対のことを言われて、少し戸惑う。

「雨はキライ、って顔だね」

「そりゃまぁ」

濡れるし、蒸し暑いし、暗いし。

気分まで暗くなりそうだ。

そう言ったら、少し笑われた。

「ま、そうよね」

「笑うなよ、一般論だろ」

「ゴメンゴメン。でもね・・・」

一拍、間をおく。

「いつもと違う風景、ってのも楽しいじゃない?」

いつもと違う風景?

「雨のにおい、濡れた街、反射するしずくの光、かさの花、水の音・・・」

「あ〜・・・なるほど」

それで、いつもと違う風景ね。

「なるほどって、今まで何を見てたのよ?」

「何も」

実際、視線を外に向けてはいたが、特に何かを見ていたわけではなかった。

「ただ単にぼーっとしてただけ。何も見てないし、聞いてもないし」

「ふ〜ん・・・」

でも、そうか。そういうものの見方ってのも、アリだなぁ。

祐紀の言葉を噛みしめながら、改めて外を見てみる。

晴れの日よりは暗いが、その分優しい昼の明かり。

しずくや飛沫の光り。

BGMに負けず、静かに聞こえる、水の音。

晴れの日には見られない、雨の日特有のいろいろなものたち。

「・・・そうだな」

「え?」

「雨の日も、たまにはいいかも・・・しれないな」

その時、俺の視線はまだ窓の外に向いていた。

「・・・うん」

その嬉しそうな声を聴いたとき、俺は外を見ていたことを後悔した。




なかなか減らなかったコーヒーも、ついになくなった。

というか、なくなったことに気づかず、カップを口に運んだもののいくら傾けても飲めなかったところで、ようやく気がついた。

「あ〜・・・マスター、もう一杯お願いします」

ちょっとの照れ隠しとともに、お替りを注文する。

と。

「・・・あたしが淹れてあげよっか」

は?祐紀がコーヒーを?

「あ、あたしのウデを信用してない顔〜」

信用するもしないも、初めてなんだから分からないって。

「見てなさいよー」

と空になったカップを持って、カウンターの奥へ入っていった。

あ〜・・・まぁ、いいか。

たまには、祐紀の淹れるコーヒーを飲んでみるのも、面白いかもしれない。




静かな時間。

話しかけてくる祐紀が向かいにいないのだから、まぁ当然といえば当然。

いや、カウンターの中でコーヒーを淹れているだけなのだけど。

俺の視線は、また窓の外へ。

祐紀が教えてくれた、雨の世界の美しさ。

でも、一人で見る濡れた街は、やはりどこか色褪せて見えた。

最初と同じに戻っただけなのに、少し寂しさを感じる。




しばらくすると、湯気の立つコーヒーカップを持って祐紀が戻ってきた。

「お待たせ」

「ん、サンキュ」

カップを傾ける。

マスターの淹れるコーヒーよりも、少し苦め。

ふと顔を上げると、何かを期待したような顔。

・・・ニヤリ。

「3」

「何が?」

「評価」

「ひど〜い」

何が悪いってわけじゃないんだけどな。

・・・もうちょっと意地悪してみよう。

「ん〜・・・せめて常連の好みくらいは把握しとかなきゃな」

「だから、もうちょっと薄めの方がいいって言ったろ?」

カウンターから、苦笑しながらマスター。

「ぶー」

俺の顔にも、知らず笑みが浮かぶ。

・・・この際、3段階評価だったことは内緒にしておこう。

祐紀のぶーたれ顔を見ながら、そんなことを考えていた。




ふと時計を見ると、もう少しでこの店に来てから3時間になろうとしていた。

コーヒー一杯で1時間半か・・・どこぞの歌でもあるまいに、迷惑な常連客だな、俺も。

「ん?どうしたの?」

思っていたことが顔に出たらしい。

「いや、迷惑な常連客だなぁ、と思って」

「だれが?」

「俺。回転率悪いだろ」

自分で言うのもアレだけどさ。

「そう?こんなもんじゃないの?」

祐紀の言葉に、そうなの?とマスターを見る。

「むしろ上客ですよ。よく来てくれますしね」

ふ〜ん・・・そんなもんか?

「私は、一見さんよりは常連さんの方がいいですね。こっちもやりやすいですし」

なるほど。

「そういうこと。だから気にしなくていいのよ」

ファーストフードやファミレスとかじゃないんだから、と祐紀がしめた。




雨はまだ止まないが、空が少し明るくなってきた。

「もうじき止むかな」

「・・・そう、かもね」

微妙な間と、それにさっきまでとは違う声色。

それが少し気になったが、しかしそのまま外を見ていた。

祐紀に気づかされた、新しい雨の見方。

他にもあるのかもしれない。

苦手なものが、楽しくなる見方が。

だが、窓の外を一人で見たときの、あの色褪せた風景が脳裏をよぎる。

何が違うんだろう・・・?

と。

「・・・ねぇ」

「ん?」

祐紀の、真剣な声。

向き直ると、祐紀は真面目な顔をしていた。

「あんたって、さ・・・あ〜、いいわ、やっぱり」

突然、話の途中で変な笑いとともに打ち切る祐紀。

「・・・変なヤツ」

とは言いつつも、祐紀の訊きたかったことは、そのらしくない反応でなんとなく分かってしまった。

ついでに、自分の本心までも。

いや、さ。

分からざるを得ないだろ?

あんな顔、見せられたりしたら。




ようやく、雨が止んだ。

「じゃあ、そろそろ。雨も止んだことですし」

「ありがとね。祐紀、レジよろしく」

「は〜い」

結局あれからもう一杯コーヒーを飲んだから、都合3杯か。

時間つぶしとしちゃ、まぁこんなもんかな。

会計を済ませ、店を出る。

「じゃぁマスター、また来ます」

「どうも、ありがとう」

ドアを開けると、カランとベルが鳴る。

ふと見ると、祐紀まで外に出てきていた。

「えへ、お見送り」

つい苦笑してしまう。

「笑わないのー」

「悪い悪い」

ぶ〜となる祐紀に、苦笑のままで軽く謝る。

さて、と。

「あー、その、明日なんだけど、さ」

「ん?」

あ〜・・・やっぱ照れるな。

「放課後、空いてるか?」

「店番のあるような店じゃないでしょ?」

確かに・・・いやいや、そうじゃなくて。

「クラブとかバイトとかしてないの、知ってるでしょ」

「んじゃ・・・アレだ、その」

「何?歯切れ悪いじゃない」

あーもう、いいや言っちゃえ。

「んじゃ、予約な、明日の放課後」

意味が分からないらしく、祐紀はぽかんとしている。

「は?何、それ」

「・・・デートしよう、って言ってんだよ」

あー恥ずかしい、真っ赤になってんのが自分で分かる。

「・・・誰、が?」

「お前に、俺が、申し込んだの。OK?」

「あ・・・」

段々と事情が飲み込めてきたのか、祐紀も赤くなってきた。

「で、でも、なんであたし?」

「カタコトになってるぞ、お前」

ニヤリ。

あまりに祐紀があわてるもんだから、逆に冷静になってきた。

しかし、意地の悪い笑顔を引っ込めて、真面目に聞きなおす。

「・・・イヤか?」

「い、いやじゃ、ないけど・・・その、なんでかなー、って」

うっわ〜、楽しいかも、こういうのって。

おっと、からかってばっかりでも悪いな。

「雨の話」

「雨の話?」

「そ。雨の日もいいところあるよ、って言っただろ?いろんなものの見方があるって」

祐紀は黙って聞いている。

少し視線を外して、続ける。

「それで、他にも何か違った見方が出来ること、あるんじゃないかって思ってさ。その時、その・・・祐紀がいてくれたら、いいな、って」

ぐっは、恥ずッ!また赤面しそうだ。て言うかしてる。間違いなく真っ赤だわ俺、今。

「あー・・・ごほん。で?」

咳払いでごまかして、反応を見る。

「で?って・・・」

「まだデートの承諾、頂いてないんですが」

「あ、あれ?そうだっけ?あははは・・・あー、うん、その」

あー、こういう祐紀を見るの、そういえば初めてか。こういうのも新しい一面、ってヤツかな。

しどろもどろになりながらの、祐紀の返事は。

「・・・うん、よろしく」

「ッ・・・じゃ、じゃぁ、また明日、な」

「あ、うん、また明日」

「コーヒー、美味かったよ。次からは・・・祐紀が淹れてくれると、嬉しい」

嬉しさと恥ずかしさが手伝って、帰り道の足を軽くさせる。

振り返ると、祐紀がまだ見送っていた。




帰り道は、明日からのことで胸が一杯だった。

これからは、色褪せた風景も姿を変えていくに違いない。

いろんな物事の、新しい一面を見てみたい。

祐紀と、一緒に。

そう、思った。






その日は、絶対に忘れられない一日になった。