虹わたし虹わたり



 ガラス越しに、真っ黒な空を見上げる。
 そして、その下を歩く小さな子供たちを。
 この街は、いつも当たり前のように赤い雨が降っていた。
 今日もパラパラと、耳障りな音が響く。
 赤い水溜まりが、アスファルトの路面にいくつも、いくつも、いくつも並んでいる。
 地平線の彼方まで――




「何を見てるんだ?」

 傍らで頬杖をついて、窓の外を眺める名雪に話しかける。
 一枚ガラスを隔てた向こうにはベランダと、マロンクリームを塗って、丸一日冷蔵庫にしまっておいたような隣の家の壁と、雨に濡れて黒ずむ舗装道路が見えた。
 名雪はこの冬から二人で眺めてきた光景を、物憂げに揺れる瞳で、息を潜めるようにしてじっと見つめている。そのまま、こちらに視線を寄越さずに答えた。

「今日もまた雨だなあ、って思って」

 雲の向こうでは太陽が午後の光をそそいでいる筈なのに、この街には届かない。
 蛍光灯に照らされて、名雪の首筋や僅かに覗いた背中がぼんやりと白んでいた。

「雨、嫌いなのか?」
「嫌いってことはないんだけど。――雨をみるとね、思い出すの。お母さんが泣いてた記憶」

 名雪は相変わらず外をみたまま、振り返ってくれない。
 部屋には雨の匂いと、お互いの汗の匂いが漂っていた。
 もしかしたら、疲れてるのかも知れない。俺は名雪のくすぐったそうな笑みが見たくて髪を撫でたけれど、彼女は沈んだ表情を崩さなかった。

「秋子さんでも、泣くことってあるんだ」
「そりゃあ、あるよ」

 名雪は呆れたように俺に一瞥を投げた。それから俺の目を覗き込むと、少しだけ口元を吊り上げる。

「やっぱり、祐一は鈍感。お母さんだって、辛い事とか、寂しいときとか、たくさん、たくさんあるんだよ」

 微笑んだ、のだろうか? そう思う間もなく名雪の顔は、俺の胸の中に埋まった。

「祐一はいま、寂しい?」
「どうなんだろう……」



 胸の谷間を名雪の唇が吸う。キスマークが付くくらいに強く。
 ああ、俺は寂しいんだ。
 名雪を抱く度に、そのことに気が付いてしまう。
 家族がいても、友達がいても、それでも俺は寂しいんだ。
 だから彼女の体を強く求めた。
 溶け合うと、名雪の体の奥にも冷たい河が流れているのを感じる。
 ああ、名雪もきっと、寂しかったんだ。
 こうやって暖め合って、お互いに流れる河のことを忘れたかった。
 深く繋がると、お互いの河が触れ合い一つになる。


 水音がした。



「はあ、きもちよかったよ。祐一」
 とろんとした表情で名雪は俺を見上げてきた。ついさっきも見たばかりだけど、俺は名雪のこの顔が大好きだった。
「ほら、こんなにどきどきしてる」
 包み込むように顔を抱かれて、彼女の右の乳房の上にそっと耳を当てた。優しい早鐘が聴こえる。



                  #


 俺の誕生日は名雪より少しだけ早かったけれど、やはり雪の降る季節だった。
 だから、冬休みにこの街にやってくると、大抵初日の夜は俺の誕生日パーティーになる。
 7年前よりももっと前のある年、パーティーの後で名雪は俺を部屋に招いた。

「ごめんね。今年はプレゼントを用意するのを忘れちゃったの」

 俺は名雪のためにプレゼントを用意したことなんてなかったのに、そう言って彼女は謝った。

「だから、代わり」

 名雪は俺の手を、小さな両手で包むと自分の胸に押しあてた。

「わたしね、心臓が右にあるの」

 とくん、とくん、と名雪の鼓動が伝わる。
 
「このことは、お母さんとわたしだけの秘密だったんだよ。だけど、祐一には教えてあげる――音も聴いてみたい?」
「いや、いい……」


                  #



「祐一、この間までそのことすっかり忘れてたんだもん、ひどいよ」

 思い出話をしたから、昔の自分の感覚に浸っているのだろうか? 名雪は子供っぽく拗ねた。

「悪い。そういえばいつも左脇を下にして寝てるなぁ、とは思ってたんだが」
「あの誕生日プレゼント、本当にどきどきしたんだよ」
「やっぱりあの歳でも、男の子に胸を触られるのって恥ずかしいのか?」
「それもあるんだけど、祐一に嫌われるかも知れないって思ったから」

 雨音が大きくなったような気がした。
 そんなことで嫌うわけないじゃないか、と俺は答えることが出来ない。――軽く言葉で否定するには、7年前に俺が名雪にした仕打ちは、あまりに重すぎた。
 名雪もそれに気が付いたのだろう。悲しそうに目を伏せた。

「ごめんね。わたしたち、過去の話ばかりしてるよね」

 きっとそれは、俺たちが倦怠期に入っていることの証明だった。





「それじゃ、イチゴサンデーを食べに行こうっ。もちろん祐一のおごり」
「はいはい……」

 昼間からこんなことをした後には、百花屋に行くのが俺たちの習慣になっていた。
 何度行っても、名雪に奢らなくちゃならないイチゴサンデーの数は増えるばかりだ。俺は彼女に借りを作ってばかりだった。
 きっと、恋する男女には等しくあることなんだろう。二人の時間が代わり映えしなくて、窮屈に感じてしまう時期は。
 それでも俺たちが喧嘩をしたり、気まずくなったりしないのは、名雪が気を使ってくれているおかげだった。

 二人、雨の音を聴きながら歩く。
 ここから5分ほど歩いて、橋を渡って、鄙びた旧住宅街を通って、十字路を通り抜ければ商店街に辿り着く。そう思って川沿いの道に繋がる角を曲がった時だった。

「あれ?」
「どうしたの?」

 黒い人影が見えた。
 別にそれだけなら驚くことではないのだが、彼は傘を差しておらず、茶一色の服はよれよれで薄汚れていた。
 浮浪者かも知れない。この辺りでは珍しいけれど。

「いや、なんでもない」
「ヘンなの」

 いずれにしろ俺たちには関係ないだろう。そう考えて、その時の俺は無関心を装った。





「――わたしたち、きっと今幸せなんだよね」
「ああ」
「だけど、幸せって、ただ漠然と感じるんじゃなくて、もっと具体的な夢とか、もくひょうが必要なんだって思うの」
「ああ」
「きっとわたしたちに足りないのはそれなんだと思う」
「ああ」
「わたし、馬鹿だから上手く言えないけど……」
「ああ」

 あの男は、ずっと俺たちを尾けて来ている。
 そのことに気が付いたのは百花屋の二階席に坐って、何気なく窓から商店街の街並みを眺めた時だった。
 ファーストフード店と宝石店の間の暗がりにいるので顔までは分からないが、雰囲気で先ほどの男だと分かる。
 赤や黄の傘が動き回る霧雨の道で、傘を差さずに立ちつくす男は明らかに異様で、道行く傘たちも立ち止まったり、あるいは足早に通り過ぎて行った。
 男はこちらを伺っていたが、俺と名雪が二階席にいることまでは知らないらしく、店をただぼんやりと眺めている様子だった。

「ちょっと、祐一、聞いてる?」
「ああ」
「――もう、知らない」

 何となく空気が変わったのを感じて、名雪の顔を見る。
 彼女はフグのように頬を膨らませていた。





 名雪を不安にさせたくない、という気持ちはあったが、彼女と気まずくなりたくない、という思いもあった。
 俺の心の中で両者を載せた天秤は激しく左右に揺れたが、名雪に『気になることがあったら、何でも打ち明けてね』と促されたこともあり、名雪がイチゴサンデーを食べ終えるのを待ってから、俺は男のことを話すことにした。

「さっきから妙な男が俺達を尾けてる」
「えっ?」
「ほら、あそこの男」
「あっ、あの人……」
「知り合いか?」
「昨日学校の帰りにも見た気がする」
「とすると、気のせいってわけでもなさそうだな」
「ねえ、どうするの?」
「ああいう手合いは下手に刺激しない方がいい。気付かない振りをしてさっさと家に帰ろう」
「うん。分かったよ」

 思ったよりも名雪の動揺は小さいようだった。
 彼女は案外ポーカーフェイスなので、本当のところまでは分からないが。
 会計を済ませて外に出る。雨は先ほどよりもかなり強くなっており、土砂降りと言っても良いほどだった。
 道角の曲がりしなにちらりと後ろを振り返る。
 ――決定的だった。やはり、男は俺たちを尾いてきている。

「なるべく後ろを振り返らないようにな」
「うん」

 心なしか、名雪は嬉しそうに見えた。
 案外、退屈を打ち破るこの状況を楽しんでいるのかも知れない。
 家の場所を教えてしまうのは危険とも思ったが、他にどうする手だても思いつかなかった。
 それに、家に帰ればそろそろ秋子さんが戻っている時間だ。秋子さんなら何か良い手段を考えてくれるだろう。
 そう思い、俺と名雪は普段通り――むしろ、いつもよりも会話を弾ませて家路についた。

「ただいま」
「ただいま、おかあさん」

 家に帰ると、秋子さんが出迎えてくれた。
 俺は声をひそめて言った。

「秋子さん。俺たち不審な男に尾けられてたみたいで、今も表にいるみたいなんですけど――」

『警察呼びましょうか?』『俺がシメましょうか?』『夕飯のおかずにしましょうか?』語尾を決めかねている内に秋子さんは行動に移っていた。
 わずかに眉を顰め、音を立てずに外の様子を窺う。

「あなたっ」

 一際大きな声に、俺と名雪はびくっと肩を震わせた。それからドアのけたたましい音。サンダルが水溜りを弾くばしゃばしゃという音。
 口が半開きになったままの俺たちの前で、秋子さんは電柱の影に佇む男の前に走っていく――

「あっ」

 マンホールの蓋に足を滑らせた秋子さんを、男は抱き留めた。

「ああ、ただいま――秋子」





 結局俺たちは、もう一度商店街に行くことになった。

「今日はお父さんのお帰りパーティだよね。だったら、もっと食材を買ってこなくちゃ」
「名雪? 別にそんなことしなくても……」
「ううん。折角だから。お母さんはお父さんとゆっくりしてて。積もる話もあるだろうし――」

 沢山買うから、きっとわたしひとりじゃ持ちきれなくなっちゃうと思うんだよ。そう言われて名雪に裾を引っ張られるまま、俺は買い物に付き合うことになった。
 そういうわけで、俺は今買い物袋を片手に、名雪の傘に描かれた猫さんを眺めながら歩いている。
 外に出てから彼女は無言で、わざと早足に歩いているようだった。

「なあ、気を遣ったのはわかるけど、おまえはあの場に居ても良かったんじゃないか?」

 話しかけると、少し歩く速度を緩めた。

「だっておまえはあの人の娘なんだし、気にすることは――」

 名雪は完全に立ち止まっていた。何か嫌な予感がして、俺は自分の傘を捨て彼女の傘の中に潜り込む。

「はぁ、はぁ……」
「名雪? おまえひょっとして――」

 額にあてようとした右手を、柔らかく制止された。

「ごめんね、祐一まで付き合わせちゃって。わたしは大丈夫。ちょっと色々な事が起こり過ぎちゃって興奮してるみたい」
「だけどおまえ――」

 そう言ってもう一度伸ばした腕を、今度は強く掴まれた。

「ごめんね。本当にごめんね。祐一は気を遣ったって言ってくれたけど、それは嘘。本当は逃げたかったの。――あの人にどんな顔をして会えば良いのか分からなかったから」

 俺の腕を握る手が、震えているのが分かった。傘が落ちる。

「さっき、お母さんが泣いてた記憶の話、したでしょ。あの理由、はっきりとは覚えてないんだけど、多分お父さんがいなくなったからだと思う」
「名雪……」
「祐一がこの街に来なくなった時は寂しかったけど、来てくれたときは嬉しかった。でも、わたしお父さんのことなんて知らない。ずっと寂しいとは思ってたけど、それは『あの人』がいなかったからじゃないもん」
「名雪っ」
「ずるいよ。男の人は勝手だよ。いきなり帰って来て『お父さんだよ』なんて。わたしあの人のことなんて知らないっ。お母さんを泣かせるような人の事なんて知らない知らないっ」

 洋服も、顔も、髪も、全部をくしゃくしゃにして震える女の子がただやるせなくて、俺は抱き締めた。
 弾みで買い物袋が落ち、ぐしゃりと音を立てる。――ああ、卵が潰れちまったな。いや、そんなことより名雪の方が大切なんだっ

「――名雪? おい、大丈夫か? 名雪っ、名雪っ!!!」





 案の定、名雪は熱を出していた。
 俺が部屋を出ようとすると、傍にいて、と言われる。秋子さんと、名雪の父親にも薦められ、俺は一晩中傍にいた。

「名雪、もう夕方だぞ」

 こうなってしまったら無駄だと知りつつ、俺は声をかけた。
 ごめんね、と名雪は小さな声で呟く。わたし、また祐一に迷惑かけちゃってるね。

「俺のことは気にするな。ずっと傍にいるって約束しただろ? だけど、親父さんのことは、本当にあのままで良いのか?」

 名雪の父親は今日の夜ここを発ち、また暫く帰ってこないらしい。後、1時間余りしか名雪と父親が話す機会はなかった。

「言っておくけど、俺、あの人から何も聞いてないからな。――訊きたいことがあるなら、名雪自身が尋ねるべきだと思うんだ」
「訊きたいことなんて、ないもん……」

 後悔するんじゃ――そう言おうとして、話せばかえって後悔することもあるかも知れないと思った。
 以前とは違う。俺はこの事で名雪の支えになることなんて出来ない。これは名雪自身が考えて、解決するべき問題だった。だけど――

「名雪、丸一日食べてないじゃないか。何か胃に入れた方が良いんじゃないか?」
「その通りだ。戦場ではスタミナ切れは命取りになる」

 外から野太い声が聞こえた。俺は――名雪さえもが――驚いて窓の外を見る。
 今日も続く土砂降りの中、ベランダに名雪の親父が立っていた。

「何か食った方が良いぞ。――幸い、ここに秋子が作ってくれた戦場携行食(握り飯)がある。さあ名雪、食べるんだ」

 いやいやと名雪が頭を振る。

「ならば仕方がないな。とうっ」

 ガッシャーン。
 なんと名雪の親父さんは、窓を蹴破って入ってきた。

「ちょ、ちょっと足は!?」

 名雪は窓から離れていたが、俺や真琴という家出娘が使っていた部屋から回り込んできたなら、親父さんは靴下の筈だった。しかし、よく見ると靴を履いている。

「もしかして、電柱をよじ登ってきたのか? いや、握り飯を両手に持ちながら!!?」
「ん? その通りだが。まあちょっと雨に濡れてしまったが味は支障ないと思うぞ。さあ名雪、それから祐一君も食べるんだ」
 
 無理矢理手渡され、何が何だか分からないままそれを食べる。

「どうだ、美味いか?」
「……昔祐一が作ってくれたのよりはおいしい」

 それは結構悲しい。

「ふむ、それは良かった。そしてどうやら食い終わったようだな。――済まないが祐一君、少しあっちを向いていてくれないか?」

 壁を指さす。妙な迫力があって、俺は言われるままにそちらを向いた。

「いとこで彼氏でもあると聞いていたが、流石に見られたくはないだろうからな。さあ、名雪、おしおきだ。尻を出せ」
「えっ。ちょっ、いやっ」

 何だか服の擦れる音が聞こえる……。

「歯を食いしばれっ」

 ぱんっ。

「ひゃうっ」

 ぱんっ。

「にゃあっ」

 ぱんっ。ぱんっ。ぱんっ……。



「これくらいで勘弁してやろう。祐一君、こっちを向いてもいいぞ」
「は、はい」

 名雪は目に涙を溜めていたが、さっきまでの暗さが嘘のように引いていた。

「ひどい、祐一。なんで笑うの――」

 そう言って子犬のような表情を浮かべた彼女は、何だか可愛かった。

「俺を嫌うのは仕方ないとしても、だ。秋子や祐一君にまで迷惑をかけるとは、随分と甘やかされて育ったんだな」

 靴を脱ぎ、どっかと名雪のベッドに坐る。その様子はかなりワイルドで、でも、これも名雪の親父さんなりの、名雪に対する思いやりにも思えた。
 暫く、三人とも沈黙する。雨音が再び聞こえはじめ、それで俺は雨が降っていることを忘れていた自分に気が付いた。

「聞きたい」

 ぽつりと、最初に沈黙を破ったのは名雪だった。

「知りたい。お父さんがどんな人なのか」
「はじめて、俺を父と呼んでくれたな」
「本当は、なんとなくそうだって思ってたよ。ずっと昔に会ってた気がするんだもん。それに、とても懐かしい感じがする」

 尻が? と言おうと思ったが、どうやらそういう空気ではなさそうなので黙っていた。

「祐一にどことなく似てるし。――わたし、やっぱり知りたいよ。知って、お父さんのことが許せそうだったら許してあげる。それでもお父さんを許せなかったらわたしは憎む」
「おい、名雪、それは言い過ぎじゃ――」
「いいんだ」

 名雪の親父さんが右手を挙げて制止する。

「俺は確かに、許されないだけの不義理を秋子と名雪に重ねてきたからな。――だが、全てを知るのがいつも良いとは限らない。時には知らない方が良いことだってある。それでも、知る覚悟はあるんだな?」
「お父さんがどんな人でも、わたしはそれを知らなきゃいけないと思う」
「一応俺も」

 一応、などと余計な言葉をつけたせいか、名雪の親父さんにジロリと睨まれる。

「一応……俺も彼氏として、親族として知っておいたほうがいいかなと……なんて」
「どっちなんだ。ふん、まあいい」

 だって、この親父怖すぎるよ。





 それは、目を覆いたくなるような凄惨な写真だった。
 俺達が知る日常とあまりにかけ離れた日常が、そこにあった。
 名雪も口元を手で覆って、言葉を失っている。
 その写真こそが、親父さんがまず俺達に知らしめた真実だった。

「俺は元々新聞社に勤めていた。大学時代は陸上部に所属していたんだが、まあ、エスカレーター校であった上にその部は高校から大学、OBまで含めて上下関係が厳しく、かつお互いの交流も盛んでな。秋子とは彼女が高校のマネージャーを務めていた時に知り合った――

 一目惚れだった。
 秋子には既に、付き合っていた男がいたのだが、OBの権力を利用して奪い取る形であいつを手に入れた。
 秋子も初めは抵抗したが、俺の熱意に段々本気になっていって、やがては俺の子供を腹に宿すことになった。
 そして、秋子が高校2年になった冬、俺たちは結婚しその冬の内に名雪――お前が生まれたんだ。
 それからは幸せな日々が続く――筈だった。だが、その時浮かれていた俺の心を、一つの衝撃的な事件が刺し貫いた。
 チャイルドソルジャー、という言葉を知っているか? 言葉の意味の通り、子供の兵士だ。お前たちよりもずっと幼い子供たちが、戦場の兵士として働かされているという話を俺は耳にした。
 その言葉と出会ったのは、他愛もない他国情勢のコラム編集作業がきっかけだった。
 衝撃だった。それから、自分をどうしても許せなくなったんだ。一目惚れだの奪い取るだの、小さな世界の中で何も知らずにゲロゲロ吼えていた自分が情けなくなったんだ。
 これでも、俺は世の中のことをそれなりに知ったつもりでいた。だが、そうやって俺が自惚れている間にも子供たちは戦場に駆り出され、あるいは性処理の道具として慰み者にされ、大切な未来をずたずたに引き裂かれる。
 俺はそのことを友人や同僚に話したが、誰一人として本気で耳を傾けてくれた者は居なかった。それはそうだ、俺自身、その現場を見たわけではなかったからな。だから、実際に確かめてやろうと思った。
 ――今振り返れば、純粋な正義の心でなかったことは認めるよ。俺はとにかく、世の中の間違っている部分が嫌で、そして、それを若い反骨心に任せて――名雪、お前を捨てて日本を飛び出した。
 お前だけじゃない。秋子のこともだ――あいつには本当に迷惑をかけっぱなしだった。まだ高校も出ていないのに結婚だ、妊娠だ、出産だ、そして挙げ句の果てにダンナに逃げられたとあっちゃ――秋子の親類からは散々言われてきたよ。多分、今も許して貰ってはいないだろうな。
 そして、俺は実際に戦場をこの目で見てきた。それは、想像以上に凄惨な光景だった。
 日本なら、まだランドセルを背負っているような子供が大人に拳銃で小突かれ、鉄砲で無関係の人を撃ち殺している。
 十人殺せばチョコレートが一粒貰えるんだそうだ。飢えた子供たちにとって、それはとても魅力的な報酬らしい。
 一人の少年と出会った。名前はガズ。俺が写真を撮ると、お礼だと言ってチョコレートを一粒くれた。異臭がしたので割ってみると、中が腐っていた。だが、彼にとってはそれでも好物だったらしい。腐ったチョコレート一粒が、十人の命の価値だった。
 俺は彼に、何人殺した? と尋ねた。彼は多すぎて覚えてないと答えた。
 少年は次の日に死体になっていた。拳銃は取り上げられ、服は剥ぎ取られ、体中に拷問の跡があった。
 それが最初の一週間の出来事だった。
 だが、自分でも分からないんだが、俺は、日本よりもあの地獄こそが、俺の中の真実に近いと思ったんだ。
 だから、それから十数年間、ずっと俺は戦場の中を生きてきた。

 俺はカメラのガラス越しに、真っ黒な空を見上げる。
 そして、その下を歩く小さな子供たちを。
 この街は、いつも当たり前のように赤い雨が降っていた。
 今日もパラパラと、銃撃の耳障りな音が響く。
 赤い水溜まりが、アスファルトの路面にいくつも、いくつも、いくつも並んでいる。
 地平線の彼方まで――

 戦場で撮った写真は、せいぜい煙草が一カートン買えるほどの値段にしかならない。
 それを地元の老人に話したら、馬鹿馬鹿しい、あなたはすぐに日本に帰るべきだと言われた。
 だから俺は問い返したのさ。なんで貴方は俺に写真を撮らせるんですか? って。そしたら彼はこう答えた。『世界の人々に、真実を知って欲しいからだ』と。
 その老人の毛がまだふさふさ――いや、チリチリと言った方がいいかな? あっちはそういう髪質なんだ――だったころは、平和とは言えないまでもまだマシだったらしい。少なくとも、当時の子供たちは明日を夢見ることができた。

 子供たちが明日を夢見ることの出来ない世界ほど、酷いものなんてあるだろうか。

 老人はそう言ったよ。
 あんたにも子供がいるんだってな。顔向けできないかも知れない、許しては貰えないかも知れない、だけどあんたのつまらない意地でいつまでも会わないでどうする。
 子供は親の顔を知っておいた方が良い。親も子供の顔を知っておいた方が良い。儂は息子を既に亡くしたが、ほれ、この通り孫がおる。この子には銃を持たせたくない……。この子が、儂の生きる希望じゃよ。
 
 その言葉を聞いて、俺は戻って来る事にしたんだ。戻って、そうだな……娘が他人に迷惑をかけていたら、叱ってやるつもりだった。
 その老人の言葉は、俺の求めていた真実そのものでなくとも、かなり近いと思ったし、それに正直、俺はもう疲れていたんだ。
 俺は三日ほどかけて荷物と、それから地元の人間関係を整理した。
 その中には――俺の愛人もいた。ああ……これだけは本当にお前にも秋子にも許して貰えないことかも知れない。だけど俺も男なんだ。俺がいなければ彼女は――いや、言い訳はよそう。ただ、彼女に子供だけは作らせなかった。
 多分あの三日は現地にいた中でも、最も幸せな三日だったと思う。秋子やお前の姿を想像して、早く会いたいと思っていた。もう、この街には帰ってくることはないだろう。そんな風に思っていた。――だけど、それは俺の甘い考えだった。あんな地獄にいてもなお、俺は幻想を――夢を捨てきれなかったんだ。
 最終日、俺は荷物を持って駅に向かった。激しい雨の降る日だった。そんな中、パン、と乾いた音が響いた。あまりに聞き慣れてしまって、最初は何の音だか分からない程だった。
 気が付くと、また少年兵が倒れていた。それから、ようやく彼が俺を庇って倒れたことに気が付いたんだ。
 どうやらゲリラ部隊の襲撃だったらしい。一発の銃声、一人の死者を戦端に激しい銃撃戦が始まった。俺は荷物を持っていたからな、スパイか何かと勘違いされたのかもしれん。
 いずれにしてもこの場にいればまた奪われ、辱められる。俺は銃弾が飛び交う中、少年兵を抱き上げて駆けた。今思うと、何がしたかったんだかよく分からん。ただ無我夢中だった。
 どうにか物陰に入り込んで彼の顔を見たとき、俺はこれが夢なんじゃないかと疑った。彼は、先日話した老人の孫だった。
 名前はガズ、そう、俺が最初に会った少年兵と同じ名前だった。名前だけでなく姿形さえ、どことなく彼に似ていた。
 もう俺は、何が真実で何が嘘なんだか分からなくなってしまった。掴みかけた夢が、また両腕から飛び去ってしまったんだ。
 ただ、秋子とお前には会いたい。ただ会いたい。一度火のついたその想いだけは消せず、その日彼を弔い、もう一晩だけ休んでからこっちに帰ってきたんだ。





 雨音はいつの間にか止んでいた。

「理解してくれとは言わない。だが、俺はまだやらなくてはならない事が残っている。――俺は戦場での出来事を一冊の本にまとめたいと思っている。その最後の仕上げの為に、もう一度だけあの地に戻るつもりだ」

 名雪の親父さんは立ち上がった。雲間から夕日が覗き、世界は今暖かな橙色に染まっている。
 風が少し出ていた。壊れた窓を通して、オレンジの光と湿った風とが部屋に射し込んでいた。
 親父さんはベランダに出た。その向こうに、虹が架かっていた。

「ああ、とても綺麗だ。虹なんて見るのは久しぶりだよ」
「待って下さい、今更親父さんが行くことは――」

 名雪の親父さんは一度だけ、振り返った。何故だろう、俺は親父さんの表情がとても幼く見えた。

「俺はね、それでも夢が諦め切れないんだ。そうだなあ、世界中にこんな綺麗な虹を沢山かけられたらっていうような夢をね。――祐一君、俺みたいな親にだけはならないでくれ。家族を不幸せにするような親にだけは」

 後半は背を向けたまま話した。そのまま彼は躊躇うことなく、電柱を降りはじめる。

「名雪、幸せにな。お前に出会えて、本当に嬉しかった。――秋子にはもう、別れを言ってあるんだ。だからこのまま行く。もしもこの仕事が無事終わったら……お前が許してくれるなら、その時は――」

 唐突にまた雨が降り出した。その音に消されて、親父さんの最後の言葉は分からずじまいだった。





「どんな親だって子供に愛されたいと思っているし、理解もされたいと思っているものよ。でも、あの人はそれでも、自分のことを名雪に言いたくなかったみたい」

 何故、親父さんは俺たちの後を尾けたりなんかしたんだろう? そう訊ねた時の秋子さんの答えがこれだった。

「『どんな子供であれ、子供は親の背中を見て育つ。俺は名雪が戦場に立つ姿など想像したくない。あいつを、殺したり殺されたり、そんな世界に放り込みたくないんだ。だから俺の事は、決して名雪には教えないでくれ』あの人は、そう言っていました。あの人が姿を消したのは自分勝手だったからじゃなくて、本当はわたしと名雪を守るための、精一杯の夢への妥協だったんじゃないかしら?」

 もちろん、妻の欲目ですけれどね。そう言って秋子さんは笑った。

「じゃあ、何で今頃になって?」
「今頃なんじゃなくて、今だからこそじゃないかしら。きっとあの人は祐一さんと名雪がもう一人前――とまでは行かなくても、半人前くらいだとは思ったからこそ、教えてくれたのね」
「わたし、泣いてばかりだったのに」
「でも、お父さんやわたしや、それから祐一さんを傷つけまいと、必死に自分の弱い心と戦っていたじゃない。それくらいはわたしにもわかりましたよ。祐一さんとの倦怠期にも、辛抱強く向かい合っていたみたいだし」
「わっ、わっ」
「で、でも、親父さんは俺たちが質問する前から戦場とか言ってましたけど?」
「それはきっと……」

 秋子さんは頬に手を添えた。

「あの人『俺が戦場とか言っていれば、まさか俺が本当に戦場に立っているとは思わないだろう』とか考えたんでしょうね」

 どうやら、名雪の健脚と天然ボケは、親父さんからの遺伝らしかった。





 数週間後、一通の封筒が届いた。それは、親父さんの訃報を知らせるものだった。
 親父さんは少年兵を庇って銃弾を浴び、即死したそうだ。同僚が発見したときにはカメラや衣服などは既に奪われ、遺体は原型を留めていなかったらしい。
 その為、葬式は親父さんの当地での知り合いだけで行い、遺体はその地の共同墓地に埋められたそうだ。
 ただ、親父さんが書いたと思われる日記の断片だけが遺っており、それも封筒に同封されていた。



                  #


 今日、俺を庇って兵士の一人が死んだ。年は十五から十八ほど。国に残してきた娘と同じくらいだろうか。
 俺には理解できない。彼は一体何を考えて俺を庇ったのだろうか? 彼が俺を庇ったところで得なことは一つもない。助かったとしても上官に叱責されただろう。彼は貴重な戦力の一部であり、ここでは医療物資も貴重品だ。
 どこの馬の骨ともしれない戦場カメラマンの為に命を張る理由などありはしないのだ。
 だが、実際はどうなのだろう? 俺が彼の立場だったとして、茂みから近くの誰かを狙っている銃口の存在に気付いたのなら、咄嗟にその誰かを庇うのだろうか?
 人間、誰かを助けるのに理由などいらないのかもしれない。
 なのに、どうしてそんな人間がここでは殺し合いをしているのだろうか。
 耳元で蚊が喧しい。右胸が締め付けられるようだ。今夜は眠れそうにない。
 雨は止まない。――ああ、血の雨はいつまで経っても降り続けている。


                  #



 それは、梅雨のようやく開けたある朝の事でした。

「それじゃあ、お母さん、行ってくるね」
「お義母さん、長い間お世話になりました」

 わたしの――いえ、わたしたちのかけがえの無い子供たちは、何か平和に役立てる仕事をと考えて、国連に務めることに決めました。
 もちろん命の危険が無いわけではありませんけれど、あなたがしていた仕事よりは、ずっと安全だと思います。
 ただ、残されるわたしは少しだけ寂しいけれど。

「しばらくは帰ってこられないと思いますけれど、……必ず戻ってきますから」

 祐一さんは、わたしの心を見透かすように言った。本当に、あなたがいない代わりに、祐一さんは名雪にとってだけでなくわたしにとっても心の支えになってくれました。

「手紙は毎月出すから。ううん、毎週、毎日出すから」

 とうとう、名雪は貴方の最期を知っても、泣くことはありませんでした。逆に『お話を聞いた時に覚悟は出来ていたから。それに、わたしはお父さんとお母さんの子供だよ』なんて、わたしの方が励まされたりして――本当に、この子は立派に育ってくれたと思います。わたしには勿体ないくらいに。
 でも、名雪が誇りに思ってくれているんですから、わたしも強くならないと。――でも、今この瞬間が切なくて、名残惜しくて、わたしはいつからこんなに弱くなってしまったのでしょう。

「ねえ、名雪、祐一さん。もう一度だけあなたたちの決意を聞きたいの。聞かせて」



                  #


「ねえ、名雪、祐一さん。もう一度だけあなたたちの決意を聞きたいの。聞かせて」

 秋子さんは、静かにそう訊いた。その問いの答えはもう決まっている。俺と名雪は顔を見合わせて、せーの、で息を揃えて答えた。



     お義父さん、俺たちにはあなたほどの勇気は持てないけれど、
     あなたから受け継いだものを、
     二人で未来に伝えていきたいと思っています。
     あの時、あなたに会えてよかった。



 長い梅雨もやがては明けるように……。
 いつか世界に光が差し、虹が架かることを祈って、俺たちは平和を紡ぐ旅に出る。





FIN.










■略歴

1981年  11月祐一誕生。同年12月名雪誕生。少年兵の存在と実態を知り、名雪の父親(家族の希望により固有名詞は伏せる)は葛藤する。
1983年  スーダンで政府と南部地域の反政府勢力間に内戦が勃発。同年名雪の父親は大手新聞社を希望退社し、同国へ向かう。
1986年  祐一と名雪が初めて出会う。
1989年  この年よりスーダンの内戦激化。
1992年  祐一、この年を境に名雪の住む街に来なくなる。
1995年  カーター元大統領の仲介により、スーダンの一時停戦が実現。だが、かえって内戦が広がる結果に終わる。
1997年  SPLA(スーダン人民解放軍)を除く反政府勢力4派と政府が和平協定に調印。但し東南部を中心に未だ戦闘は継続。
1999年  名雪と祐一、再開する。秋子の事故を経て、二人は強い結びつきを得る。
   同年  6月名雪の父、帰郷。同月スーダンのとある街にて少年兵を庇い死亡。
2000年  祐一・名雪、大学に入学(国連の仕事に就くためには最低でも学士の資格が必要)
2001年  名雪の父親の最初で最後の写真集「PRISM」発行。
2003年  政府とSPLA、和平交渉を再開。
2004年  祐一・名雪、大学卒業。同年AE(アソシエイトエキスパート)試験合格。
   同年  5月26日、21年続いた内戦を終結させるスーダン政府とSPLAの包括和平協定調印に至る。
2005年  祐一・名雪、共に国連平和維持局(DPKO)就任

       現在も、祐一と名雪は平和の為に働いている。だが、未だに戦火は止むことがない……