――――――その“■”の名を“■■”と――は言った。









 ――――世界はとても残酷で不平等だ。



 そのことに気付いたのは、全てを失ってからだった。

 全てを奪われ、全てに嘆き、全てを否定し、全てに屈したあの日に気付いたんだ。

 この世に平等なモノなんて何一つ存在しないってことを。

 無神論者のオレは神様なんて信じてなかったが、その日を境に、オレは自分しか一切信じなくなった。

 …………それが、当時十七のオレ―――陣内誠吾が初めに立てた誓い。







     ◆ ◇ ◆ ◇ ◆







 五月蝿いくらいに鳴り響く雷と、風に流されて真横に突き刺す雨。

 八月も半ばに入ろうかという夏の夜。

 異常冷夏だと騒がれている今年の夏。

 連日残業が長引いて疲労が溜まった体は、脳に休息を求める声を送ってくる。

 だが、そんな疲れた体に鞭打って愛用のインテグラTYPE
Sに乗り込み、首都高速を駆け抜ける。

 慣れた動作でクラッチとギアを交互に操作し、アクセルを踏み、速度を限界まで上げていく。

 ギアをトップに上げて、後ろに掛かる重力を強引に押しやって更にアクセルを踏む。

 だが、この孤独なドライブに目的地などない。

 終着地点など無意味で必要なく、ただ走ることが今の俺にとって全てだった。




 ――――――私、雨って好きだなー。




 車内に俺しかいないのに、女の声なんて聞こえるはずがない。

 でも、それを皮切りに今度はある映像≠ェ視える。

 二つの目はフロントガラス越しの先を見ているのでそれ≠ェ視えるわけがないのに、記憶された映像が“頭の中”で高速映写される。




 ――――――ね、誠吾はどう? 雨、好き?




 胸の心臓が誰かの手で握られたように酷く痛い。

 体中の骨が熱しられた鉄芯のように酷く熱い。

 両肩から腰まで凍った何かを押し付けられたように酷く冷たい。




 ――――――あははっ、誠吾のそういう無愛想なとこ好きだよ。




 感覚器官がイカれたのか、全くわけの分からない状態に陥ったこの体。

 胸の心臓が痛い?

 ―――それは未熟にも思った罪悪感からか?

 体中の骨が熱い?

 ―――それは生涯に於いて課せられた罰か?

 背全体が冷たい?

 ―――それは無力さに溺れた泥水の所為か?




 ――――――うん。私も。愛してるよ誠吾。




 どこでも良かった。

 この嫌な思い出≠消し去ってくれるのなら、辿り着く先はどこでも良かったんだ。

 そう、例えそれが悪魔の棲む地獄でも良かったんだ。

 ……………それともアイツ≠ェいる天国でも……。



「う………おおおおおぉぉぉぉおおぉぉ!!!!」



 この記憶を忘れることが出来るのなら、どこでも良かったんだ。








     七年後に止んだ雨















「……………………はぁ、……はぁ…」



 獣のような咆哮は狭い車内という所為か、自分でも驚くほど大きく聞こえた。

 聞こえたアイツの声を叫びで打ち消したが、あれは空耳でも幻聴でもない。

 あれは、嘆くが如く後悔が具現化した様だ。

 俺自身が蒔いた弱さの種だ。

 今も尚忘れることが出来ない、俺という存在がどれだけ無力だったか思い出させる象徴そのものだ。



 減速しつつ、車はとある山中の高台で止まる。

 大きな木製の屋根に、木製の丸いテーブルと二組のイス。

 そんな普通の高台に車を止めたことに特に理由なんてなかった。

 強いて言うのなら、咆哮で更に疲れた体を少しでも休ませるために立ち寄っただけに過ぎない。

 車内の煙草臭い空気を吸うよりも外の自然な空気を吸おうと、車から降りて屋根の下の木製のイスに腰掛ける。

 ここなら傘は持ってきていなくても、問題ない。



「…………ふぅ、やっぱ俺は弱いな。あれから七年も経つってのに何も変わってない」



 誰に言うでもなく自虐的に言った言葉は、雷雨交じりの黒い空に消える。

 会社を出たときより雨はその勢いを増していて、車からこの屋根に入るまでの僅かな距離を走っただけでスーツが濡れた。

 スーツに付いた水滴が流れ落ちるが、俺の嫌な記憶も洗い流してくれればどれだけ楽なことか。

 確実に有り得ないことだと、無駄だと分かっていてもそんな可能性を考えてしまう。

 なんて莫迦らしい――――と、自分自身で罵倒する。

 何をガキみたいなことを言ってるんだか……。

 ネバーランドを追い求めるような、夢見るような歳じゃないというのに。



 しかし、この勢いじゃ朝まで止みそうにないかもな。

 ………そう言えば、あの日もこんな夏の夜で雨が降ってたか。

 ここ最近は夢にすら出て来なかったのに、同じような季節の同じような夜にアイツの声を耳にするなんてな。

 これも何かの因果、か――――――ん? 何だあの影は?



「………猿、か…?」



 高台の奥にある柵で何か動物のような影が見えるが、暗くて何か良く分からない。

 何故か少し気になって、近づいてみる。

 屋根の外に出た所為で雨に打たれるが、気にせずに近づいていく。

 何だろう…………俺にとって、その存在を確かめることが重要なことのような、そんな錯覚を憶えた。

 まるで大事な何か――――それがどこかに置き忘れた体の一部であるかのように。

 追い風が吹いているわけでもないが、影がいる柵のほうに自然と足が進んでいた。

 何を考えるわけでもないのに、一歩。



「………あ!」

「………え?」



 目が合った。

 何の予備動作を見せずに、突然こっちを振り向いたその物体。

 それは暗い空の下だからと言って、どう見ても人間以外の何者でもなかった。

 雷鳴が轟き、数瞬遅れで輝いた夜空の光が、それの横顔を一瞬だけ照らす。

 それはまるで暗闇がへばり付いた影を拭い去るかのように、白光は俺たちを包んだ。

 そうして見えた“彼女”の姿は、



「――――――なな、み?」



 俺の良く知る彼女≠ノそっくりだった。



 髪。雨に濡れた艶やかで細長い髪。

 表情。拙いモノを見られたと思わせる表情。

 ワンピース。塗れた薄白のワンピース。



 何の因果かあのとき≠ニ全く同じ外見で、俺は再び彼女≠ノ出逢った。

 もう七海≠ヘこの世界に居ないと分かっているが、それでもこの感情は嘘を言ってない。

 心臓の鼓動は大きく高鳴り、気分は激しく昂揚し、指先は歓喜に奮えていた。

 雨に打たれているにも関わらず、体全体は確かに叫んでいた。

 ――――嬉しい、と。

 だから、その行動は本当に無意識だったのかもしれない。

 “彼女”に向かって自然と一歩踏み出していた。



「………………あなた、誰ですか?」



 何を言うんだ?

 一瞬咽喉まで出掛かった声を、悟られないように無理矢理飲み込む。

 足首は何者かに強く握られたように止まり、急に現実世界に引き戻されたような錯覚。

 そうだ。俺は今一瞬だけ忘れていたが、目の前にいる彼女は決して七海ではない。

 お互い初対面で、名前も住所も知らない関係だった。



 しかも、こんな夜遅くに高台の柵に乗り上げているなんて、彼女は絶対に普通じゃない。



 冷静になり事態を把握する。

 彼女はまるで柵を乗り越えて自殺でも試みようとしているようだった。

 こんな時間にこんな場所だからというわけじゃない。

 そう判断した決定的な理由は、その生きる気力が微塵も感じられない死んだような目だ。

 これ以上生きたくない――――と、その沈んだ目が俺に語っていた。



「……別に誰でもいいけどな。まだ人生の終わりを決め付けるには早いんじゃないのか?」



 お節介な一言だということは分かっていた。

 名前すら知らない赤の他人が一人死ぬというのは、地球の全人口からたった一人減るだけのことに過ぎない。

 そのことに何の感情も湧かないことは理解しているし興味もない。

 今だって、もうすぐ自殺をする生現場を偶然見てしまったというだけのことだ。

 余計なことに首を突っ込むことのメリットなんてない。

 人が死ぬことを望んでいるのなら本人の意思を尊重し、放って置くのが普通のはずだ。

 それが出来なかったのはきっと、



「――っ!? ……う、五月蝿いわねっ! 私のことは放って置いてよっ!!」



 彼女を七海にダブらせてしまった俺の私情が深く関係しているだからだ。

 悲鳴のような声を上げて涙ながらに叫ぶ彼女――――七海に似ている彼女を死なせたくなかった。

 そう思い、自然と伸びた手は強引に彼女の腕を掴み、柵の内側に引っ張っていた。

 柵の内側に引っ張られた彼女は咄嗟に思い出したように外側に戻ろうとする。



「話してみなよ」



 刺激させないよう出来るだけ冷静に努めて、俺は声を掛ける。

 すると、柵を掴んだ彼女の手が止まった。

 俺の願いが届いたのか届いてないのか、そんなことは分からないが彼女は自ら死ぬのを躊躇ってくれた。

 もしかしたら今一瞬のことかもしれないが、彼女はまだ完全に死ぬことを決意しているわけじゃない。

 そう感じ取った。

 俺の体はまるで発汗作用が壊れたように熱く感じるが、まだ脳は冷静さを失ってなく死んじゃいなかった。

 掛けた言葉とは真逆に、あり得ない速度でバクバクと鳴っている心臓。



「何があったのか話してみても遅くはないだろ?

 俺たちはお互い名前も知らない赤の他人だ。愚痴を吐くつもりで言ってみたら?」

「えっ……?」

「………見たところ遺書らしき物もないようだし、遺書を書くつもりで俺に話してみないか?」



 七海に似ている彼女を救うことで、俺は過去の罪から逃れようとしているのだろうか。

 いや、それも思ってはいたが、きっとそんなよりも別のことのほうが割合は大きかっただろう。

 でなければ、俺は彼女にこんな感情を抱くはずもない。



 ――――彼女を救うというよりも、彼女のことをもっと知りたいと思ったなんて抱くはずがない。



 そんな俺の戸惑いなんて知る由もなく、降り頻る雨は止むことを知らない。

 叩き付けるような横槍の雨に逆らわず、風は次第に追い風となる。

 五月蝿いくらい鳴っていた雷は既に止んでいて、今はやや大きめの雨粒だけが俺たち二人を包む。

 まるで敵意でもあるかのように、その勢いはやや強くなったような気がした。

 木製のテーブルの中に置いてあった、誰かの置き忘れた缶コーヒーが転がる音だけが雨音とは関係なく響く。



「……………な………よ」

「……?」

「…………な…んで……」



 途切れ途切れで擦れたような声が、風吹く雨中だというのに聞こえる。

 何故だろう、そのとき俺は風と雨雲が怒っているように思えた。

 そして、夜空に灯る一瞬の閃光。



「………な…んで…………………なん、で…………私、は………生きてるのよぉぉぉぉっ!!」



 止んだはずの雷が最後にもう一度、今までで一番大きく轟いた。

 腹の底から叫んだ声と同時に落ちた雷は、彼女の感情そのものを表現しているかのようだった。

 それは怒りか、悲しみか、苦しみか、憤りか、虚しさか。

 何を指しているのかまだ分からないが、彼女が持つありったけの思いをぶちまけたということだけは分かった。






     ◆ ◇ ◆ ◇ ◆






 ――――――その“雨”の名を“■■”だと――は言った。






 窓に当たる大粒の雨をボケーと眺めていたときに言われた。



「ねぇ、私たちって雨に縁があると思わない?」

「………はぁ?」



 ……また始まったよ。

 オレは肺にある空気全てを吐き出すように、深く重い溜息を吐いた。

 場所を選ばず、とりあえず思い浮かんだ唐突な話題を持ち出すという奇妙な癖を持つ隣の彼女。

 今のように、それまでの行動とは何ら関係ない話題を持ち出す。

 しかも、一度話し始めたら中々止まらないから、気が重くなるのは当たり前のこと。

 それが読み取られたのか、そんなオレの様子に少し文句があるのか、「むっ」と眉を吊り上げて、彼女。



「何よ、その疲れたような顔は」

「……ような、じゃなくて疲れたんだ。本当に。一気に。」

「まだ何も話してないじゃない」



 付き合いが長いんだ、話さなくても分かるさ………とは思ってても言わない。

 でも、一旦喋りだすと決して止まらない自分のことを、どうやら全然分かってないようだな。

 こうなると、暫くは彼女の口が止まることはない………というか、文句の一つでも来るかもしれない。

 いや、一つで済むならまだ良いほうか。

 二三個は覚悟しといたほうが良さそうだ。

 彼女は座っていた椅子から腰を上げ、オレの目の前に向かい合う。



「ちょっとちょっと。自分の彼女にそれはないんじゃない?」



 ……だからだよ。

 お前以外の誰かにこれほど正直な反応が出来るか。



「ふつーさ、彼女相手にそんな態度取ると怒られるよ?」

「…………お前は怒るのか?」



 腰に手を当てて、もう片方の手の人指し指をオレの鼻先に突き立てるなっての。

 鼻をぐりぐり押してきた指を払って、答えを待った。

 当の本人は、一瞬だけきょとんとした表情になるけど、



「……私? あはは、怒るわけないじゃん」



 何が可笑しいのか、笑いながら言葉を返してきた。

 嬉しそうに、楽しそうに、幸せそうに、穏やかな微笑みで言われた。

 ………だろうな。

 やっぱそうだろう、と思った。

 自分の彼女のことは良く分かってるし、どういう性格でどう反応をするかも想像出来る。

 理解し合える相手だからこそ、こういう軽口を言えるんだよ………とは言わない。

 ……恥ずかしいから。



「だって、誠吾のこと好きだからそんなことで怒ったりしないよー」

「――っ!? ば、バカかっ!? んなっ、な、何言ってんだっ…!」

「うわ、凄い動揺だ。そういう反応されると嬉しいなぁ」



 歯に浮くような台詞をそう簡単に言うな!

 お前には恥ずかしいという感情がないのか!

 …………言われたオレのほうが恥ずかしい。



「……ねぇ、誠吾は私のことどう思ってるの?」



 オレの思いを知ってて、そういうことを訊くか普通…?

 しかも、にや〜とした確信犯な悪戯っぽい笑みまで浮かべやがって。

 ……って、机を跨いでオレに寄りそって来るなーー。



「…………きちんと答えて欲しいな。せ・い・ご」

「お、おまっ、分かってて訊くなよ。つか、この体勢は色々ヤバい。いや、それよりも今はそんなことしてる場合じゃ」

 ―――ガラガラッ!

「「えっ……?」」

「…………………ほぅ、随分と余裕だな、坂下、陣内。とても再試験の真っ最中とは思えない余裕っぷりだ」



 “七海”には怒られなかったが、見回りに来た担任の先生に怒られた。






     ◆ ◇ ◆ ◇ ◆






 まだ止まない雨の中、俺と彼女は二人して屋根の中にあるイスに腰掛けた。

 ずぶ濡れになった俺――の手元だが――を温めてくれたのは、二つの無機物。

 少し離れたところにある自動販売機から買ってきた温かい缶コーヒー二本だ。

 無意識だったのか、彼女のための飲み物は七海が好きだった銘柄の缶コーヒーにしてしまった。

 俺のとは違うが、こっちのほうが良かったら交換すればいいことなので…………別にいいか。



「………どっちがいい?」



 まだ名前を訊いてないので、敢えて主語を抜いて問い掛ける。

 両手それぞれにぶら下げた別々の缶コーヒーを、彼女の見易い位置に持ってくる。

 ぼんやりと見上げた彼女の濡れた髪の毛は目を囲むように肌にぴったりと密着している。

 だというのに、手で払おうともしないでゆっくりと左手の缶コーヒーを指差した。



「ん、こっちね。……とりあえず体の中から温めたほうがいいぞ」

「………………ありがと」



 左手の缶コーヒーのプルを開けて、彼女にそっと渡す。

 それは二分の一の確率だったかもしれないが、七海が好きな銘柄の缶コーヒーだった。

 一口一口をスロー再生をしたようにじっくりと時間を掛けて、体中に熱を浸透させていくように飲み始める彼女。

 違うのだと分かっていながら、その飲み方に七海を思い映してしまう。

 そうして様子を見ていたのが不思議に感じたのか、彼女は俺のほうをちらっと向き、目が偶然合った。

 何か言いたげな彼女に一言「いや、なんでもない」と言い、俺も倣うようにゆっくりと右手の物を飲み始める。

 目を瞑りながら飲むだけで、雨の音が聞こえなくみたいに意識が外ではなく中に向いているのが分かった。



 ――――何故生きてるんだ、と彼女は確かに言った。



 あの叫びの後、彼女は何かが切れたようにぺたんと地面に座り込んでしまった。

 それからはまるで幼児退行でもしたように、ただひたすら赤ん坊のように、涙と声が枯れるまで泣き続けた。

 ……俺は……………動けなかった。

 それが余りにも悲しい光景のようで、それが余りにも七海に似ていたから。

 俺に対して怒っているようで、助けてと訴えているような気がしたから。

 手を差し伸べてあげないといけなかったはずだが、俺はただ突っ立っていた。



「……………ぇ………ね……ぇ」



 ――――助ける?

 それはいつの話だ?

 ――――手を差し伸べる?

 それはいつの話だ?

 ――――誰に?

 それは誰にしてだ?



 今か、昔か、彼女か、七海か。

 今自分は何歳で、今自分は誰といるのか。

 この意思はオレのものか、それとも俺のものなのか。



 全てが不確かで虚ろな情報だった。



「…………ね……ぇ…………ちょ……と」



 頭が重い。足が軽い。何も見えない。何も聞こえない。

 俺は今、立っているのか、それとも座っているのか。

 頭が重く痛いということしか分からず、目はきちんとあるのか、耳はきちんとあるのか。

 そもそも、俺という人間が実在しているのかさえ、分から―――



 コン!

「―――っっぅ!?」



 …………い、痛い。

 何か硬い物が突然額にぶつかってきた。

 一体何だって言うんだよ。

 箇所を掌で押さえながら足元に落ちたそれを手にとる。



「……やっと戻ってきた」

「……は?」

「…………何度呼び掛けても返事しないし、顔は真っ青に変色してたよ」



 いつの間にか目の前の彼女は缶コーヒーを飲み終わっていて、俺が手に取った缶コーヒーを指で指していた。

 その意図は、これを使ったということ、なのか…?

 良く分からないが、どうやら俺は彼女に助けられたらしい。



「…………大丈夫?」

「……あー………いや、うん………何とか…………ありがとう」



 必死に捜し求めた返事がそれだった。

 七海の顔で、七海の声で、七海の口調で、七海のような彼女だから、完全に動揺してしまった。

 久しく感じてなかった、この速まる心臓の鼓動は七海が再び戻ってきたような錯覚に陥る。

 そんなことは実際にあるはずないが、やはり俺はどこか嬉しかったのだと思う。

 彼女が心配そうに見てくれるその顔だけで、俺をあのとき≠ワで遡らせるような奇妙な感覚。

 じっと見つめてくる彼女と視線を合わせないで、手元に残った缶コーヒーの中身を全て飲み干すことにした。

 何故か物凄く照れ臭くて、恥ずかしかった。

 ………うわ、物凄くぬるくなってる。



「………………西里美樹」

「えっ……?」

「……私の名前。西里美樹。貴方の名前は?」



 突然のことだったからか、何を言われたのか分からなかった。

 それとも、彼女の名前が『坂下七海』ではないことに無意識ながら否定していたのか。

 でもそれは、



「……俺の名前は陣内誠吾」



 俺の思い過ごしだと思いたかった。

 だから、早速本題に入ることにした。



「…………生きるのが嫌になるほど死にたかったんだな」



 おそらく生きる意味を無くしたのだと思った。

 彼女自身にしか分からない希望という名の活力を失ったんだろう。

 それはあのとき≠フオレと同じような瞳をしていたから、何となくそう察した。



「………………そう、よ。……もう私には生きてても見てくれる人がいないんだからっ!!

 お父さんもっ! お母さんもっ! 家族がいないこの世界でっ! 誰も愛してくれる人がいないのにっ!

 …………生きてる意味がないのよっ!! なくなったのよっ!!」



 枯れるほど泣き腫らしたであろう瞳から涙が零れ落ちた。

 彼女の瞳から、じゃない。

 それを聞いていた俺の瞳からだ。

 彼女の悲痛な思いの言葉一つ一つが、俺の枯れたはずの涙を呼び起こした。

 ………心臓が、痛い。

 ………胸の奥が、痛い。

 名前しか知らない人の不幸話を聞いただけで、何故こんなにも涙が止まらないのだろう。



「………な、何で……貴方ま…っで泣…て……っの…よ…!?」



 彼女も泣いている。

 俺の涙が止まらない理由、それはきっと彼女だ。

 彼女が必死で堪えながらも泣いてる姿が全ての原因で、俺まで悲しいんだ。

 だから、どうか泣き止んで欲しい。

 そうすればきっと俺の涙も止まるから――――俺の涙を止めてくれ。



「――――きゃ」

「……泣くな。君には笑っていて欲しい」



 気付いたら抱き締めていた。

 テレビドラマで良く見るように、お互いの身長差で俺の胸の中にすっぽり入った彼女。

 彼女の泣き顔は七海を思い出すから見たくなかった。

 だから、早く泣き止んで欲しかった。



「………わ、私……おか…さん……と、……っおとう…さ……しかいな…か…ったの…っに」



 暫く俺の胸の中で泣いていた彼女だが、序々にその泣き声は弱くなっていった。

 代わりに雨音が五月蝿いくらい大きくなり、風もその強さも増してきている。

 その間、俺はずっと彼女の背中と後頭部を両手で抱いていた。

 ふと、そのまま顔を起こしてキスをしそうになる焦る感情を抑え、動きを止める両腕。

 …………彼女は七海じゃない。

 七海によく似た他の誰かで、明らかに別人に過ぎないことを必死に頭に叩き込んだ。

 小さな鼓動が確かに聞こえるのが、それは俺の心臓なのか、それとも密着している彼女の心臓なのか。

 七海より若干小さいのではないかと思う背丈だが、嫌でもあの頃を思い出してしまう。

 …………彼女は七海じゃないんだっ!



「…………………………ねぇ」



 どれくらい経ったのか。

 彼女が泣き止み、俺が泣き止み、それでも暫く抱き締めて合っていた俺たち。

 そんな時間がどれくらい続いたのか分からないが、彼女は言葉を掛けた。



「………ん? 何だ?」

「……………………何で私を助けたの? 私たち赤の他人なのに、どうしてここまで優しくしてくれるの?」



 抱き締めていた指先がピクリと弾けた。

 彼女の言葉に決して悪意はないし、少しも俺のことを疑っていない。

 だが、心臓の鼓動が激しく大きく、激しく速くなったような気がする。



「………答えられないの?」

「……………」

「………それは――――左手の指環の痕が関係してるの?」

「――っ!?」



 彼女から離れた。

 突き飛ばすように彼女から両手を離して、後ろに跳ぶように下がる。

 体の毛穴という毛穴全てから汗が滲み出たような発汗を感じる。

 心臓の鼓動が彼女にも聞こえるのではないか、と思わせるくらい大きく脈動する。

 ……………左手の指環の痕……だと…?



「……貴方は一体何を見ているの?」

「…………な、何をって……?」



 痕を右手で隠しながら、言葉を返す。

 咽喉から出た声は、水分が全て汗となって消え失せたように、枯れたそれをしていた。

 雨に降られた後で体はまだ冷たいはずなのに、体中が熱しられた鉄のように熱い。

 額からは汗が零れ落ちた。

 動揺を隠せない視線は最早彼女を見ていなく、彼女の後ろの雨をじっと見ていた。






「――――――私を透して、誰を見ていたの?」






 ドクンッ―――!



 心臓を握り締められたような痛みを感じた。

 彼女に悪気は一切ない。

 単純に思った疑問を俺に投げ掛けただけに過ぎない。

 でも、俺にはその質問に答える勇気がなかった。



「貴方が私にここまで優しくしてくれた理由。それは一体何…?」

「………………た…ただの、気紛れ…だ」

「嘘。貴方は何かに苦しんでる。何かに悲しんでた。それは一体何…!!」

「――っ!? …………き、君には関係ないだろ!!」



 年下相手に何を激昂しているのだろう、と自分自身で情けなく思う。

 気分は最低最悪で、このまま彼女を放って帰ろうかと思った。

 でも、



「――――私たち赤の他人じゃない。愚痴を言うつもりで話してみたら?」



 彼女が今日初めて見せてくれたちょっとした笑顔が、俺をここに留まらせた。

 いや、さっきの俺を真似した彼女の言葉は、何よりも優しくて力強い説得力があった。

 気が付いたら、あのとき≠フことを口に出していた。






     ◆ ◇ ◆ ◇ ◆






 ――――――その“雨”の名を“■■”だと七海は言った。






 視界に映るのは七海だけ。

 赤い水溜りに横たわる七海しか見えなかった。

 口から赤い水を吐き出して、苦しそうに呼吸を繰り返している七海。



「…………ご…めん、ね。……せい、ごの部屋…を……ゴホッ………よご、しちゃ……って」



 ………何が起こったのかさっぱり分からなかった。

 いつものように七海を部屋に招いて、共通の趣味………音楽バンドのことで盛り上がってた矢先。

 それは突然だった。



「………………い、いや……そうじゃなくてっ! どうしたんだよっ! 七海っ!!」



 血を吐いて胸を押さえている七海に寄り添う。

 下から抱き上げるように体を起こさせて、現状を理解出来ないオレは問い掛ける。

 頭の中は真っ白で、オレは何がどうなっているのかさっぱり分からなかった。

 普段はキレる頭が全く機能してなくて、頭が死んでいるように視界も唯一つしか見えてなかった。

 真っ赤に色づけられた絨毯のことも、後から気付いたものだった。



 ――――七海が血を吐いて倒れた……。



 これは夢か…?

 酷い悪夢を見ているのか…?

 手の込んだ悪戯なのか…?



「………お、どろいて、るで…しょ?」

「………………あ、あぁ」



 何だ、これがオレの声なのか…?

 今にも千切れそうな、水分がなくなった擦れた声。

 …………って、今はそんなこと言ってる場合じゃないっ!



「七海………その血は……………」

「…………うん。……私ね……………ゴホッ………………びょ…うき、なん…だ」



 病気………。

 その言葉が、鋭く磨かれた刃物で脅されているように、胸に響く。

 そういえば、七海は頻繁に病院に通っていた。

 以前にそのことで訊いたことがあったけど、確かあのときは喘息のための薬だって。

 そうじゃ………ないのか。



「喘息…………って嘘だったのか」

「…………ごめん。………わた、し……う、そついて…た」

「……なん…でだよ…っ!」

「…………たぶん………………せ…いご、に……………きらわ……れるの………が……………こわか……ったん、だ」



 ………………目頭が、熱い。

 体全体が妙に汗ばんで、でも頭は冷たくて………もう、何がなんだか分からない。

 足に力が入らなくて、頭は重りが乗っ掛かってるみたいだ。



「――――そうだ、病院っ! 大丈夫だ、七海。今からすぐに病院」

「………………む、り……よ」

「え……っ?」



 …………何故、無理なんだ…?

 嫌な予感が、悪い胸騒ぎが、胸を締め付ける痛みが…………オレを包む。

 ………駄目だ、……“それ”だけは考えちゃいけない。

 心臓の鼓動が五月蝿いくらいに悲鳴を上げている。

 音が鳴っているのは、オレの胸か、部屋全体か分からないくらい五月蝿く聞こえる。

 考えちゃいけないのに、“最悪”な予想が頭を離れない。



「――――――は、っけつ………びょう」



 血管が、筋肉が、神経が、ビクついたような気がした。

 考えたくない最悪な事態が、冷たい予感と共にオレの肌を突き刺した。

 混乱の余り、思考が事態に付いていけなくて狂ってしまいそうだった。

 ……………鳥肌が止まらない。



「…………………ま、っき…………なの、よ。………もう、た…すから………ゴ、ポッ………ない……の」



 咳と共に出た大量の血が足元を汚していた。

 七海は苦しそうに体を押さえて、それでいてオレには平気そうに顔を作りたがっていた。

 その様子が痛いくらい伝わって、言葉が真実だと物語っていた。

 …………な……んでだよ……。



「………………びょ……いん………いって、も………む……だ、なの。

 ………だ、から………せめ……て……………せい…ごの…………むね、のな……か……………で、……」



 ――――抱き締めた!

 もう、これ以上七海の辛そうな言葉を聞きたくなかった。

 もしかしたら、オレは涙していたのかもしれない。



「…………い、たい…………よ、せい………ご」



 分かってるっ!

 分かってるよ、七海っ!

 ……でも、こうさせてくれっ!



 神様。

 もし、この世に神様という存在がいるのなら、頼むよ。

 七海を助けてやってくれ。

 オレはそのためだったらどんな犠牲でも払う。

 ――――だから、頼む。



「………………ねぇ…………………わた……しの………お…ねが………い、…………を……きい…て…………」

「…………あ、あぁ。…………何でも聞いてやる。……何だ?」



 既にオレは涙声どころじゃなかった。

 鼻水の所為で鼻声になり、涙で視界が歪んで見えた。

 肩が、腕が、指先が、震えているのが分かる。

 ……………分かってる。

 これは恐怖だ。

 否定したい理性とは裏腹に、本能は全てを理解している。



「……………さい、………ご、に……………わ……ら、った…………か……お………みせ………て……………よ」

「――――――…………なな、みぃぃぃいいぃぃぃぃ!!」



 泣きながら、もっと強く抱きしめた。

 ――――涙が止まらなかった。

 決して思わないようにしていた“最期”という言葉が、オレの胸を熱くさせる。

 獰猛な牙でオレの胸を食い破られたような、感じたことないがそんなイメージを持った。

 それと同時に、どうしようもない怒りがオレの体中を蛇のように駆け回っていた。



 ―――――――――私さ、誠吾の笑った顔見ると凄くほっとするんだよね。



 ふと、七海の口癖を思い出した。

 …………そうだ、オレは七海の期待に応えないといけない。

 今オレがすべきことは、泣き叫ぶことじゃない。



 ―――笑え!

 ―――笑うんだ!



「…………どう、だ……なな、み……? ……オレの顔見て、ほっとしてく――――………っ!」



 ………………な、七海…?

 目蓋は閉じて、苦しそうな吐息もなく、静か…………だった……。



 ――――何故っ! 何故だっ! 何故だっ!!



 ………………何故、こうなるんだよ……。

 ……………七海が一体何をしたっていうんだ……。

 …………な、ぜ…だ……。

 ………何故、七海は――――



「……………………ぉ………ぃ…………じょ、ぅ……だろ……? …………目ぇ、………開けろよ……。

 ……なぁっ! ……………開けてくれよぉぉぉおおぉぉぉぉ!! ――――ななみぃぃいいいぃぃぃぃっ!!!!」



 ――――死ななくちゃいけなかったんだよっ!!






     ◆ ◇ ◆ ◇ ◆






 指先が震え、体中が熱く、心臓を物凄い力で圧迫する痛み。

 七年前のことを思い出すだけで涙が出て来るというのに、こうして他人に話すときが来るなんて……。

 しかも、その相手は親しい人ではなく、初めて会った人で、七海に似ている人で……。



「……陣内さんは、本当にその人のことが好きだったんですね」

「………………あぁ。今でも愛してる」



 例えどれだけの月日が流れても、この想いだけは俺の心から消えることはない。

 そしてもう一つの想い≠焉A生涯消え失せることはないだろう。

 もう一つの想い………それは、






「――――でもっ! 俺が七海を殺したんだっ!! 俺さえいなければっ!!」






 俺という存在が七海を殺したという罪。



 吼えたときに、握った拳から血が零れ出た。

 爪が皮膚を破った所為で出血したのだろうが、手の痛みより胸を締め付ける痛みのほうが大きい。

 七海を死に追い遣ったのは確かに白血病かもしれないが、七海の生きる時間を奪ったのは、他ならぬ俺だ。



「――――ちょ、ちょっとっ! どういうことなんですかっ!! 何で陣内さんがっ!?」



 七海が亡くなり、葬儀も終わりに近づいた頃。

 度々世話になり、お義父さんお義母さんと呼んでいた七海の親御さんから、俺は一通の手紙を受け取った。

 真っ白で可愛らしさの欠片も感じさせない便箋に、丸っこい字で黒鉛筆の文字は並んでいた。

 字の特徴から言うまでもなく、生前書いたのだろう七海の手紙だった。

 書き出しは…………誠吾、ごめんね…………。






『誠吾、ごめんね。

 お父さんとお母さんには、私が死んだらこれを誠吾に渡すように伝えてあるの。

 だから、きっとこれを読んでるということは私は既にこの世にはいないんだ。

 ちなみにこれを読んでる誠吾は、今何歳なんだろうね?

 私が死んだ次の日かな? それとも一ヵ月後? まさか十年後ってことはないよね?

 とりあえず、たくさん謝ることがあるんだ。

 私はきっと、白血病ってことを誠吾に話すときは、死ぬことを覚悟したときになると思う。

 昔に比べて医療技術が発達してきているし、白血病も不治の病じゃなくなってるよね。

 でも、そんな技術の前でも、私の病気が判明したときの手術での成功確率はかなり分が悪かったんだ。

 それで、これは私の自分勝手な願いなんだけど、私は危険な手術を受けるよりも死ぬ直前まで誠吾と一緒にいることを望んだの。

 手術の失敗って可能性も勿論あるけど、一番は青春真っ盛りに二人の思い出が作れないのは嫌じゃない?

 (これは初めて二人だけで旅行に行く前日に書いてるんだ。)

 これを読んでる私の愛してる人。

 貴方は坂下七海と居て、楽しい思い出が作れましたか?

 たくさん思い出は作れましたか?

 作れていれば私は嬉しいなぁ。

 もし、作れてなければ私の運の無さを恨んでね。

 いや、この場合、私を選んだ貴方の運の無さ……かな(苦笑

 あまり長すぎても明日に支障が出るかもしれないので、そろそろ筆を下ろすね。

 私から言えることは、たった一つ。

 ――――誠吾、泣かないでください。

 私の愛した人は、普段は子供っぽく頼りない感じで、人前でベタベタすることを恥ずかしがるシャイな人です。

 でも、本当は誰よりも心が強くて、笑顔が可愛くて、いざってときは誰よりも頼りになるカッコいい男です。

 以上、私の彼氏自慢…………じゃなくて、誠吾は涙もろいところがあるので、きっと泣いてると思います。

 きっと、目が真っ赤になるほど泣いてるんじゃないかな?

 うん。絶対そうだよね? そうじゃなかったら薄情者だぞ!

 …………と、まぁ、何が言いたいのかというと、誠吾は優しすぎるんだよ。

 たぶん、私のことをいつまでも忘れることが出来なくて、新しい恋愛に進めないと思ってる。

 ………………あ、勿論自惚れじゃないよ?(苦笑

 誠吾の人生はまだまだこれからなんだから、私のことを忘れて新しい道へ進んで欲しいんだ。

 そのため、私のために流す涙はこれを読んだ日までにしてよ。

 明日からは泣いたことなんて忘れたような笑顔で、新しい人を探してよね。

 じゃないと、私は誠吾が心配で心配で成仏できないかもしれないよ?

 ………もしそうなったら、誠吾、責任とってよね♪



 以上、天国のべりーびゅてぃほーな天使ちゃんからのラブレターでした』






 明らかに内容は遺書だった。

 読んでいる間、俺は涙が止まらなくて………いや、止めようともしなかった。

 出来るだけ七海の言葉を守ろうと誓ったが、それでも駄目だった。

 相変わらず七海のことは忘れることは出来ず、七年間も先に進めず、七海のことを思い出すだけで涙が零れ落ちる。

 あの日から涙を流すことは七海のことだけだったが、今日初めて七海以外の女のために泣いたような気がする。

 ………………でもっ! 俺はっ!



「俺と居た所為で七海は人生を……っ!!」

「…………陣内さん」

「俺と関わってなければ七海は手術できて助かってたかもしれないんだっ!!」

「――――それは間違ってますっ!! 私には詳しいことは分かりませんが、陣内さんのその考えは間違ってますっ!!」



 隣に座っている彼女が叫ぶ。

 彼女自身の主張は俺の考えを全面から否定するものだが、何も知らないというのに何が分かるというんだ。

 たった今、耳で聞いたことだけだというのに、君に何が分かるというんだ。

 他人に俺の何が分かるというんだ。

 他人に七海の何が分かるというんだ。



「人は誰かを愛し、愛されることで幸せになれるんですっ! 時間じゃないですっ!

 その時間が長くても誰かに必要とされなければそれは幸せな人生じゃないですっ!!」



 それは詭弁だよ。

 綺麗事を言うのはよせ。

 言うだけなら誰にでも言えるし、そういうことを簡単に言う奴に虫唾が走る。



「好きな人と楽しい時間を共有したいと思う気持ちは、その人も陣内さんも一緒のはずです。

 その人の最期の表情を思い出してくださいっ! 後悔していましたか? 違うはずですっ!」



 何故、赤の他人の君にそんなことが断言できる。

 慰めか気休めか知らないが、そんなことを言われても所詮は口だけで、信じる要素には成りえはしない。

 それは哀れに思ったための同情か、それとも助けてくれたお礼にそんな言葉を掛けてくれるのか。

 真剣な表情の裏で何を考えているか分かったものじゃない。

 なぜなら、俺たちは今日初めて会っ……






「―――――――――世界で一番幸せだったよ、誠吾」






 ………っ!?

 その…………声……口調……瞳……仕草……。



「私がもしその人だったらそう思うはずですっ! ……きっとその人も今の陣内さんにこう言うと思います」



 ………………七海。

 俺はずっと自分の存在が嫌だったよ。

 もしかしたら俺と出会わなければお前にとって、もっと素晴らしい人生があったんじゃないかと思ったりもした。

 手術を受けて完治したお前の未来は、俺と出会うよりも幸せなことだったんじゃないかって。

 だから、お前を殺したのは俺で、俺は自分の罪を今まで背負ってきた。

 でも、そうじゃないのか…?

 彼女はお前じゃないけど、何かお前に言われたような気がしたよ。

 救わないといけないのはお前だったのかもしれないけど、俺が救われたような気がした。

 ………………駄目だな。

 これだから七年間経っても全く成長してないと思うんだ。

 俺は自分の存在と、自分の無力さが嫌いだったよ。

 たった今までは、だけど。

 彼女の言うことを100%信じたわけじゃないが、少しは考え方を変えて生きてみようと思った。






 ―――――――――やっと分かってくれたんだ? 私は誠吾と生きてて誰よりも最高に幸せだったんだよ。






 …………い、今の声は……!?

 …………いや、声が聞こえたのは耳にじゃない。

 彼女の声とは少し違うこの声は、経験ないが直接頭に響いたと言った感じに似ている。



「陣内さん? どうしたんですか? もしかして、私が生意気なこと言ったので怒ってしまいました?」

「………………今……何か言ったか?」

「え……?」



 …………そうか。

 お前なんだな、七海。



「いや、なんでもない。それより、ありがとうな」

「え……?」

「何か救われたような気がするよ」

「そうですか、それなら良かったです。確かにさっきまでの陣内さんと違って刺々しい感じが若干なくなってますね」



 そうなのか…?

 自分では全然分からないが、他人が言うのならきっとそうなのだろう。

 それにしても、陣内さん…………か。

 会ったときと違い、妙に丁寧な口調で彼女は俺に話し掛けてくる。

 それは、一体何故なんだ…?



「一つ、訊いてもいいですか?」

「………あぁ、何だ?」

「私がその……坂下七海さん、に似ていたから助けてくれたんですか?」



 彼女は、真剣に俺の目を見て問い掛けてくる。

 …………その質問は、いずれ来るだろうと思っていたが、やはり困る。

 何故って、それは、



「………………たぶんそうなんだと思う。

 でも、助けたいと思うより、七海に会えて嬉しかったという思いのほうが大きかったのは事実だ」



 自分でも良く分からないからだ。

 七海が生きているわけがなく別人なのは分かっていたが、七海に会えた喜びみたいなものはあった。

 姿を見るだけじゃなく、話を、声を聞きたいと思い、結果的に助けたということに……。

 助けるという意思は確かにあったが、それは彼女なのか七海だったのか。

 きっと、俺は彼女ではなく七海と再び会って、話を聞きたいだけがために結果的に彼女を助けることになったのだと思う。

 俺は自分自身の願いのために彼女を助けた、そう取って貰っても構わなかった。



「…………君自身を助けたいと思わなかったことには素直に謝るよ」

「いえ、理由はどうあれ、陣内さんは私を助けてくれました。私はきっと誰かに聞いて欲しかったんだと思います」

「……そう言って貰えると、少しは罪悪感が薄まったような気がするな」



 ……………俺が助けられてどうする。

 彼女だって深刻な悩みを抱えているというのに、何を安堵しているんだ俺は。

 いや、家族を失ったという彼女は一人ぼっちだ。

 辛い道を歩まなくてはいけないはずだ。



「君なら幸せになれるさ。人は誰かを愛し、愛されることで幸せになれるんだろ?」

「あ……」

「確かに両親を失ったかもれないけど、両親は何より君の幸せを望んでいたはずだ。

 君が死ぬことを望んでいたわけじゃない。そうだろ?」



 詭弁、奇麗事、他にも色々とあるが、何故か今日はそれを言いたい気分だった。

 まぁ、半分は彼女がさっき俺に言った台詞なんだが……。



 彼女は、愛してくれる人がいなくなった、と言った。

 だから、生きている意味がない、と言った。

 だが、彼女が俺に向けた言葉を返すなら、人は人を愛し、愛されることで幸せを感じ取るという。

 それなら、彼女はまだ死ぬときじゃない。



「…………そう、ですね。私、頑張って生きてみようと思います」

「……………………一応、これ俺の住所だ」



 仕事で使う名刺の裏に、俺が住んでる住所を走り書きする。

 それをそっと彼女に渡す。



「もし、何か困ったことがあれば来ればいい。出来る限り助けになろう」

「………………………あ、はい」



 ……………ん?

 彼女は俺の住所を書いたところを何度も読み直している。

 ………どうしたというんだ。

 そう思ってたのも束の間、突然彼女は俺の顔を真剣に見て、とんでもないことを言い出した。



「――――――それじゃ、今日から泊めてください」



 ………………………………な、ん……だ、……と…?

 彼女の言葉を理解するのに数秒の時間を要した。

 聞き間違いかと思った。

 聞き間違いであって欲しかった。

 彼女は今、何て言った…?



「おい、今なんて―――」

「陣内さんって実はうちと近所だったんですね。なら泊めてください」

「…………君、今まで住んでた家は…?」

「………………………火事で全焼してしまいました」



 ……そういえば、昨日か一昨日に近所が大火事で消防車が三台ほど来てたな。

 あれは彼女の家が火事で燃えてたからなのか。

 野次馬の人たちやニュースでも言ってたな、一人娘だけ助かった、と。

 ということは、勿論彼女には帰る家が、ない。



「………わかった。君の好きなだけ俺の家で暮らせばいい」

「ありがとうございます! 誠吾さん」

「…………………ちょっと待て。何故突然名前で呼ぶ?」



 俺は別に下心があって家に住むことを許したわけじゃない。

 乗り掛かった船だから、仕方なく承認しているだけだ。

 ………………いや、嘘だ。

 俺はまだ彼女に七海の面影を残して見ている。

 …………それとも何だ、彼女が俺に気があるというのか…?

 …………………………あー、やめやめ。

 そんなことは考えたくないし、どうでもいい…………そう思いたい。



「え……? 一緒に住むとなったら上の名前で呼ぶのは可笑しくないですか?」

「……別に可笑しくないさ。俺は別に君のこと―――」

「美樹!」

「は……?」



 何故か、いきなり怒鳴られた。

 物凄い真剣な表情で俺を睨んでくるその顔は、やはり七海に似ている。



「さっきから言おう言おうと思ってましたけど、私のことずっと『君』って言ってますよね。

 私にはきちんと『西里美樹』っていう名前があるんですから、君って呼ばないでください」

「…………………あー、それは悪かった―――西里さん=v

「…………むぅ。誠吾さん、素直じゃないです」



 いや、別に否定しないけどさ。

 俺はそこまで口に出さないで、ポケットから車のキーを取り出す。



「それじゃ俺からも一つ。何故突然敬語になってるんだ? 会ったときは敬語じゃなかったのに」

「……………七海さんの話を聞いたら、私より年上だって分かったから、それで」



 ってことは、それまでは俺が年上だと思ってなかったのか。

 …………俺ってそんなに幼く見えるのか?

 こう見えても、実年齢より下に見られたこと初めて――――って、一回だけあったな。



 ――――――へぇ。陣内くんって私と同じ歳だったんだ。てっきり年下だと思ってた。



 七海と知り合って間もない頃、そんなことを言われたな。

 偶然って怖いもんだな。



「…………俺こう見えても二十四なんだけど?」

「う、嘘…っ!? 私より五つも年上なんですかー!!」



 ということは、十九か。

 だからどうなんだって思うが、何故か一安心した俺がいる。



「………あっ! 誠吾さん、雨が止みましたよ」



 屋根から出た彼女―――美樹が闇空を見上げながら言う。

 それを聞いて俺が向けた視線の先は雨が止んだ空ではなく、水溜りの上で楽しそうにばしゃばしゃと遊んでいる美樹だった。

 何が面白いのか、妙に嬉しそうに遊ぶその姿は、雨上がりに降り立った踊り子のよう。

 ……………ふふっ、あれが本当に数時間前まで自殺しようとしてた人の顔かよ。



「………ははっ、あははははっ」

「ったく……………遊んでないで、さっさと帰るぞ。俺は眠いんだ」



 ふふ、と微笑しながら車に向かう。

 頬の筋肉が緩んだこの感じを味わうのは久々だと自分自身でも思った。

 今の美樹を見ていると、この七年間の長かった思い出が少しだけ癒されると思ってしまう。



「あ―――っ! 誠吾さん今笑いましたっ!」

「………………笑ってない」

「嘘です。少し優しそうな顔してました。……私、あんな“可愛い”誠吾さん初めて見ました」



 可愛い…………だと。

 全くどこまで七海と似てるんだろな、同じことを言われるとは思わなかったぞ。

 …………でも、年下に可愛いって言われるのムカつくな。

 というか、男にとってそれは褒め言葉にならない。



「………………………………お前、置いて行っていいか?」

「わあーっ、ちょっと待って下さいよー」



 キーを差し込み、車のドアを開ける。

 慌ててやって来た美樹も俺とは反対側、助手席のドアを開けた。

 でも、あれだけ激しかった雨が止むなんて、思っても見なかったな。

 シートに座らず雨上がりの夜空を見上げて、ふとそう思った。



「――――――狐の嫁入り」



 いつの間に俺と同じ空を見上げていたのか、美樹はそう。

 狐の嫁入り……だと…?

 あれだけ激しく雨が降ってたというのに、それはないだろ。



「誠吾さんの心には、狐雨が降っていたんですね」

「………な……に?」

「表面上では決して弱い部分を見せませんけど、七年間ずっと苦しくて、悲しくて、痛くて…………泣いていたんですね。

 それはあたかも、日が照っているのに降り落ちる雨みたいに」

「……………………………………ふん。何言ってんるんだか。いくぞ」



 かなり自分自身で動揺していた。

 だから、なるべくそれを悟られないようにハンドルを持って車を走らせた。

 尤も、隣の美樹は俺が何を考えているのか全てお見通しと言いたげな顔つきだったが。






 ――――――そうして、俺は昨日までとは違う日々を送ることになった。






     ◆ ◇ ◆ ◇ ◆






 ――――――その“雨”の名を“狐雨”だと七海は言った。






 再試験を無事に終えたオレと七海は、暗くなった帰り道の中にいた。

 いつも通り、分岐点まで一緒に歩いて帰っている最中、それは突然言われた。



「誠吾ってさ、まるで狐雨みたいだよね」

「は……?」

「両親を早くに亡くしてるっていうのに、寂しいって顔を全然してない。でも、心の奥底では常にそう思ってる。………違う?」

「…………はんっ、真剣な顔して何話すのかと思えばそんなことか。くだらない」



 確かにオレの両親は小さい頃に事故で死んだけど、今更どう思ったって死んだ人は帰ってこないんだ。

 それに、爺さんと婆さんがオレを引き取ってくれた。

 だから、寂しいなんて思ったことないさ。



「表面上ではそう思ってても、誠吾自身知らない心の奥底では寂しいっていう感情はあるんじゃない?」

「…………オレに? 面白い冗談だな」

「誠吾は優しいからさ、誰にも迷惑をかけないように毎日耐えてるだけなんだよ。

 表面では楽しそうにしてても、心の中では毎日泣いてると思う。………それはまるで、狐雨のように」

「……………………それは想像だろ?」

「きっと、いつか耐え切れなくなってその気持ちが爆発するときが来る」

「………………おい、人の話聞いてるか」



 これは…………七海の癖、じゃない。

 話し始めたら止まらない七海の癖と似てるけど、何かが違う。

 今の七海には危うさが滲み出ているような感じだ。



「………爆発したとき、私が傍にいるとは限らないんだ。誰かが支えてあげないと」

「七海………?」



 今の七海の雰囲気は何か嫌だ。

 まるで、今生の別れのような言葉のように聞こえる。



「……………おい、七海……?」

「…………………………………なぁーんちゃって!」

「は……?」

「どうよ? かなりシリアス雰囲気出てたでしょ? 私女優さんになれるかなー」

「…………は? …………………えーと、………つまり、………これはどういうことかというと………」

「………ギャグ?」

「お前が言うなーーーっ!!」



 追い掛け回すのは楽しい。

 怒るところなのかもしれないが、何故かオレにはこの瞬間が楽しかった。






     ◆ ◇ ◆ ◇ ◆






 あの日、雨に出会った美樹との夜から一週間が経とうとしていた。

 俺は一人、車を走らせてある場所へと向かった。

 最後に訪れたのは果たしてどれくらい前のことになるのだろうか。

 無意識ながら仕事の忙しさを理由に、ずっと行ってなかったような気がする。

 そうして辿り着いた目的地のドアベルを押す。



「はい、どちらさ――――………久しぶりね、誠吾くん」



 玄関から顔を出したのは、四十代になるだろうか一人の女性。

 一瞬驚いた後、柔らかい微笑みで俺を出迎えてくれたその女性は、少し変わっていた。

 暫く会わない内に、随分痩せ細ったような気がする。

 顔や目元の皺は勿論だが、無理して笑ってくれた表情が窺えた。



「ご無沙汰してました、法子さん。ここ暫く顔も出さずにすいませんでした」

「あら、別にそんなこと気にしなくていいんですよ」



 あの頃と全く変わらない感じで接してくれる法子さん。

 何だか少し懐かしい。



「…………でも」

「……?」

 ―――ペシッ!

「私のことは“お義母さん”……ですよ?」



 突然軽いチョップを俺の頭にやった法子さんはそう言う。

 法子さん……本名、坂下法子さん。

 七海の母親であり、俺の家族の事情を知っている人でもある。

 それを知って以来、法子さんは俺にお義母さんと呼ばせているのだ。

 曰く『男の子が欲しかったのよねぇ』らしい。



「…………ふふっ。そうでしたね、お義母さん」

「……………………いい表情で笑えるようになりましたね。七海のことをやっと過去≠ノ出来たんですか?」



 過去………それは忘れるということですか…?

 法子さんと夫の和紀さんは、あの日から俺に良くしてくれた。

 まるで本当の両親のように、落ち込んだ俺の面倒を見てくれた。

 二人とも分かっていたんだ。

 俺が七海のことで心に深い傷を負ったことを。

 法子さんも和紀さんも、自分の娘のことで傷を負ったというのに、俺に優しく接してくれたんだ。



「俺にとって七海は、何があっても過去≠ノはなりません」

「…………………」

「でも、教えてくれた人がいるんです。気付かせてくれた人がいるんです。………やっと分かったんです」

「…………本当にいい表情してますね。今日は七海に会ってくれるんですよね?」

「えぇ。今日は思い出話と先日俺に大事なことを教えてくれた人のことを、七海に話そうと思っています」



 法子さんは優しく「そう」と微笑むと、俺を招いてくれた。

 久々に上がる坂下家は、あの頃と何一つ変わっていないように思う。

 まるでこの家だけが時が止まったような感じで、今にも七海が二階から降りてきそうなほどだ。

 たった一つ違うところがあるとすれば、それは和室に設けられた一つの仏壇。



「私はリビングにいるので、報告が終わったら私と少し世間話でもどうです?」

「長くなりますけど、いいですか?」

「えぇ、構いませんよ」



 法子さんが居なくなった和室で、仏壇に向かい合う。

 さて、話すことはたくさんあるが、まずは何から話そうか。



「………………いつかお前言ってたよな、俺たちは雨に縁があるって。……確かにそうかもしれないな。

 覚えてるか? 俺たちが初めて出会ったときも、お前の誕生日のときも、俺の誕生日のときも、旅行に行ったときも、そして、……」



 ――――お前が逝ったときも、全てが雨だった。






 そんな始まりと共に、俺は先日のことを語り始めた。


 成長してなかった俺を一歩前進させた、あの夜の出来事を。


 長い話の後、俺は変わらぬ想いをそっと一言だけ口にした。






 ―――――――――七海、愛してる。