雨が降っていた。

 雨が降っていると、人通りが少なくて、好都合だった。

 雨が降っていると、余計な声が聞こえなくて、楽だった。

 雨が降っていると、顔がよく見えなくて、気にならなかった。

 だから、

 死神の鎌は雨の日に振られることが多かった。


 風は、大抵止んでいた。










       一人の雨、二人の風










「あなたが……」

「ええ、そうです。そして、あなたは今からこの世からいなくなる。神隠しに逢ったかのように」

 たとえ、それが『死神』という名の神の仕業だったとしても。

 それを知る者はおらず、知った者は同じ道を辿ることになる。

「心配する必要はありませんよ。抵抗しても無駄ですから」

 ついさっきまで降っていた雨は、ほとんど止みかけていた。

 雨の音はなく、周囲を静寂が支配している。

「抵抗する気はないの。私の力では、私も、あなたも救うことはできないから」

 私も、救う……?

「戯言を……」

 頭の中でイメージを保ち、明確な意思を持って刀を取り出す。

 即ち、目の前のモノを斬る。

 面倒なことになる前に、同化体にする必要がある。

 彼女の存在は、私を脅かすから。

 自分の気持ちを静め、一気に間合いを詰める。

 念のため反撃には備え、最低限の動きで斬りつける。

 狙いを違わず、まるで動かない人形を斬ったかのように正確な位置に斬撃が入った。

 即座に距離を取り、何も起こらないとわかってはいても身構える。

 だんだんと彼女の身体を淡い光が包み、その存在を解かしていく。

「あなたは、まだ助かる道があるわ。彼と出会えれば……」

 完全に光となって消える前に、その人は笑顔を崩さずにそう言い残した。

 ほとんどの人が、消えてなくなる前に何かを言っていたが、その時の言葉だけは強く頭に残ることになった。

 『彼と出会えれば』

 それが、終わりへと向かうプロローグの言葉だった。

 そして、鳴風琴葉の残した最期の言葉だった。

 その言葉の意味は、当時の私にはわかるわけもなく、

 私がその言葉の意味を知ることになったのは、終わりの始まりの時。

 彼が、全てを終わらせるために行動を始めた後だった。


 風の吹く街に、新しい風が吹いた。








 飛行船が飛んでいる。

 風の流れに乗り、風の強さを示すように。

 その本当の意味を知る者は少なく、あるいは誰もいないのかもしれない。

 昨日まで降り続いていた雨は止み、足元に広がる水溜りに白い雲が写っている。

 太陽はもう少しで頭上に差し掛かる頃で、人通りはまばらだった。

 辺りを見回すまでもなく、人の気配は家屋にちらほらと感じる程度。

 静かな、風の吹く街の日常が広がっていた。

 坂や階段の多い関係上、車はあまり見られず、交通機関は専ら自転車や路面電車という現代では珍しい街。

 風音市。

 根津村という古い地名から、周辺の都市事情にあわせるようにして改名され、今に至る。

 街の人には不思議な力があり、誰もが認め当然のようにそこに存在している。

 その側面を知ることはなく。

 およそ全てを見てきた者にしてみれば、幸せなことであり、また不幸なことのようにも思えた。

 それは、まるで母親の手の中で眠る子どものように。

 子どもにとっては、その時そこに存在するものこそが全てだから。

 疑問を持つこと、不思議に思うこと、それが当然の世界では起こるはずもなかった。

 不思議な力があったとしても、周囲に似たようなものがあればそれが普通だとでも言うように、風音市で生まれた者にはそれが常識だった。

 特別何をというわけでもなく思考を巡らし、道を歩いて行くと、大きな水溜りにぶつかった。

 思わずその天然の水鏡を覗き込むと、ちょうど飛行船が映っている。

 それこそ、風音市の日常を象徴するもの。

 それは、平和に保たれていた。

 道のほぼ全てを覆うように広がる水溜りに、足を止め思案にふけっていると、水溜りに揺らめきがはしった。

 風は止んでいて、周囲に人の気配はない。

「結界を、破った……?」

 風音市全体を覆っている境界線。

 どうやら誰かが通過し、且つ無効化したらしい。

 風音の常識に捕らわれない来訪者。

 その内会うことになるかもしれない。

 再び水溜りに視線を落とすと、それは相変わらずそこに存在しており、軽くため息をつく。

 適当に距離を測り、数歩下がる。その分助走をつけ一足飛びで飛び越えた。

 そのまま両足で着地し、頭の帽子を少し整えると、また道を歩き始める。

 気まぐれで空を見上げると、水溜りで見た飛行船が変わらず飛んでいる。


 風が少し出てきていた。








 雨が降っている。

 音を立てながら降る雨にうたれながら、何かを探しているかのように、虚空を見つめていた。

 制服の上に着込んだコートは既にずぶ濡れで、頭の上に被っている帽子もその下の髪も例外ではない。

 力なく垂らした両手の先から、濡れたせいで重力に素直に従っている髪の先から、全身を伝って雨が流れていく。

 いっそ全てを流し去ってしまえばいいのに。

 身体は冷え切っていたが、だからといってどうするわけでもない。

 身体よりも心が冷え切り、ただ孤独に雨にうたれている。

 一人でいることは、昔は嫌いだった。

 今となっては、一人でいる方が楽だった。

 別れが待っているのなら、出会う必要もない気がした。

 自らの手で別れを作るのなら、出会いもなくしてしまえばいい。

 隠れ身の結界。


 それは、孤独を縛る鎖。

 それは、自分を戒める錠。

 それは、他者を跳ね除ける壁。

 その、はず、だった。

「こんなところで何してるんだ?」

 突然背後から声がかかり、驚いたのか、寒さを思い出したのか、反射的に身震いする。

 声を聞いた時点で、誰だかわかっていたが、何も考えずに振り返る。

「丘野さん……」

「今更濡れるって言っても無意味だよな」

 そう言う彼自身も十分濡れていた。

 少し時間が経ってから、初めに質問をされたことを思い出す。

 私が、何をしているか……?

「何をしているんでしょうね……」

「え?」

 軽く下がっていた視線を、再び彼の視線とあわせると、不思議そうな顔をしていた。

 変なことを言っただろうか?

 雨にうたれ、何をするでもなくただ佇んでいるだけ。

 何をしているのか、何がしたいのか。

 確かに目的もなしにいるだけではおかしかったかもしれない。

「自分でも、わかりません……」

 嘘ではなかった。

 頭は冷えていたが、何も考えてはいなかったかもしれない。


 昔のことを考え始めて、耐え切れなくなったのかもしれない。

「泣いているのか?」

 泣いて、いる?

 私が?

 そう言われると、視界が少し滲んでいるが、雨のせいかもしれない。

 顔を上げていたから、その雨で濡れているだけ。

 でも、違うと思った。

「丘野さん」

「何?」

 一度気づいてしまうと、もう抑えることはできなかった。

 今なら、それでもいいかもしれない。

「少し、甘えても、いいですか……」

 自分でも少し驚いていたが、私がそう言うと、彼はもっと驚いていた。

 それでも、無言で肯定の意を示してくれる。

 いつの間にか、結界のことなんて忘れていた。

 彼に声をかけられて、優しさに触れて、堪えていたもの全てがこみ上げてきた。

 飛びつくように胸に顔をうずめると、何がなんだかわからなくなった。

 本当は自分にだけはわかってはいても、雨か涙かわからない滴が流れる。

 頭上に何かの重みを感じた。

 間に帽子があることが少し残念な気もしたが、それでも十分だった。


 ほんの少し吹いていた風は、不思議と止むことはなかった。








 忘れているものがあった。

 忘れてはいけないものだった。

 たった二回会っただけで、私の中の何かを動かした。

 三回目に会った時は、音を立てて壊れた気がした。

 でも―――壊れたのは『偽りの仮面』



 一人では孤独を生んだ雨。

 一人では見つけられなかった道。

 『彼と出会えれば』

 訪れたきっかけ。

 風に示された未来予知。



 私を導いていく手。

 自分より他人を気にかける性格。

 あなたに出会えたから。



 『一緒に海に行かないか?』

 『考えておきます』



 『風蛍……』

 『こんなに嬉しそうなのを見るのは、初めてです』



 『全部自分のせいだなんて思い込むなよ』

 『私は、あなたの母親も同化体にしたんですよ?』



 巫女として生きていた私に、普通の生活を思い出させてくれた人。



 『眠っている風を起こしにいくだけですよ』



 他人のことで、とても優しく笑える人。



 『必ず戻ってこいよ』

 『戻ってきたら、普通の女の子として、あなたの側にいさせてくれますか?』



 最後まで、自分のことより、私のことを考えてくれていた人。



 『ああ。でも、いい女になれよ。なってなかったら今の約束はなしだ』

 『覚えておきますね』



 あれからどれくらい時間が経ったのだろう。

 あの人はまだ、私を覚えていてくれるだろうか。



 『思いは遠く離れていても届く

  思いを忘れなければまた会える』




 風は、思いを届けてくれただろうか。








 風が吹いていた。

 空に飛行船の姿はなく、春の暖かな日差しが降り注いでいる。

 噴水が光を反射して煌き、その上を歩く人がいたことは、今では遠い昔のように思えた。

 少し強い風が吹いた。

 鍔の広い帽子を片方の手で押さえ、舞い踊るスカートをもう片方の手で制する。

 木々のざわめきに誘われて、思わず閉じていた目を開くと、

 とても見覚えのある人を見つけた。

 その表情はとても驚いていて、しばらくするととても優しい顔に変わった。

 思わず緩んでしまう表情を笑顔に変えて、抑えきれない思いを踏み出す一歩に変える。

 すると、身体の向きを少しこちらへ向け、軽く手を開いて待っている。

 飛び込めとでも言うのだろうか?

 前の私なら、絶対にしなさそうな、

 でも、今の私は

「丘野さんっ!」

「うわっ、彩……だよな?」

 自分でやっておいてその反応はどうかと思う。

 違ったらどうするのだろう……。

「えぇ、お待たせしました」

「思ったより早かったな」

 あれから半年程経っていた。

 何年かかるかわからないと思っていたことを考えれば、確かに随分と早い。

 私にとっては、それほど時間の概念はなかった。

 でも、丘野さんにとっては長い時間だったかもしれない。

 そう、あの時から大分時間が経っている。

 そんなことを考えていると、自然と手が引かれ、どこへ、というわけではなく並んで歩き出す。

 普通の何気ない会話。

 けれど、普通であること。それこそ望んだことだったのだから。

 ただそれだけで、幸せな気持ちになれる。

 二人の空白の時間を埋めていく。

 思った通り、風音市から不思議な力がなくなったらしい。

 もっとも、一人だけ、確かめられない人もいるのだが。

「そういえば、もうすぐ梅雨になるな」

「そう、ですね」

 梅雨。

 雨の多い季節。

 過去を思い出すモノ。

 でも、忘れるわけにはいかない。

「去年はひなただったけど、おふくろも洗濯物で文句言いそうだな」

「家事ですか……そういえば、私も苦労して………?」

 何か、違和感がある。

 言いそう……?

 それは、つまり……

「ん? あぁ、おふくろ、戻ってきたよ。いつもみたいに、さ」

「どう、して……?」

「俺にもわからない。でも、よかったよ」

「……はい」

 そうか、そうなんだ。

 ……でも、私がここにいたのは数年だけの話ではない。

 例え、ここ数年の罪を少しでも和らげることができたとしても、それで終わることはない。


「雨は、まだまだ降り続けるんですね」

「……雨?」

 そう言いながら、少し立ち止まって空を見上げる。

 つられて見上げると、今は、雲一つない晴天。

 一人でなければ、この人と一緒なら、雨ももう大丈夫。

 そんな気が、した。

「大切なことを思い出させてくれるモノですから」

 不思議そうな顔をしていたけれど、何かに納得してくれたらしい。

 そして、またゆっくりと歩き出す。

「そうだ。言い忘れてた」

 そう言って、突然立ち止まるので、私は繋いだ手に引っ張られるようにして立ち止まる。

 何かと思って顔を見上げると、

「彩、おかえり」

 向かい風が吹いて、帽子をさらっていった。

 でも、そんなことが気にならないぐらい嬉しくて、心が温かくなる。

「ただいま……真、さん」

 少しだけ変わった世界。

 もう、一人じゃない。

 帰りを待っていてくれる人がいるから。

 目的を持って歩いていける。

 あなたが側にいてくれるだけで。

 とても、大切な人。

「ずっと一緒にいてください」

 言った途端に、向けられる視線がとても恥ずかしい。

 なんだか、ぽーっとしてきて……。








「彩、起きたか?」

 ぼんやりと開けた視界の右半分ぐらいに、大好きな人の顔がある。

 太陽を背にしていて、表情はよくわからないけど、なんだか笑われている気がする。

 ちょっと、まぶしい。

「真、さん……」

 ザワザワと木々の揺れる音がする。

 ここは、どこだろう。

 すっと、顔が横に引っ込み、開けた前方、崖の下に風音市の街並みが広がる。

 綺麗な景色だ、と思う。

「綺麗な景色だな」

 思った通りの感想が、なぜだか頭上から聞こえる。

 まだ少し寝ぼけたまま、声のした方に顔を向ける。

 なぜか途中で頭が動きにくくなるが、少し捻って見上げる、と

「…………」

 真さんの見下ろす顔があって、

 同時に肩が視界に入

「っ?!」

 現状に気づいて、同時に覚醒し思わず立ち上がろうとする、と

「あっ……」

 前に被さる手にその動作を止められた。

「真、さん……?」

 思わず振り返ると

「今更逃げることないだろ」

 苦笑い、といった感じで私を見つめ返してくる。

 包み込むように抱きしめられて座っている現状に対して、今更?

 今、更……?

 今の今まで私は眠っていて、

 昔、数年前の夢を見ていて、

 つまり、私が寝ている間ずっとこの……

 そういえばなんだか温かい感じがずっとあって……

 ということは、私はあの体勢で眠ってしまったということで……

 私が眠ってしまっている間、真さんはずっとそのままでいてくれたわけで……

 何か、急速に身体が熱くなるのを感じる。

 心臓もいつになく脈が速くなって、なんだかうるさい。

 逃げるようになってしまった格好に気づいて猛烈に気まずさが増してくる。

 さっきまで夢で振り返っていたことが、より一層今の真さんに意識を向けさせる。

 なんだか、優しいけどいじわるな目をしているような気がする。

 その目から逃れられなく、固まってしまう。

 客観的に見れば二人が至近距離で見つめあっている。

 意識すればするだけ動きを縛られている気がする。

 こういう時に限って、無言で、質問しているような目線。

 敵わない……。

「……もう、好きにしてください」


 二人を包み込むように、優しく穏やかな風が吹いた。