こなたより、はるかみらいへ






























『初めまして、未来。僕は彼方。君の父親だよ』








前奏.暖かい夢、冷たい現実





「彼方君、待ってっ!!」


 叫んで、手を伸ばした。

 でも、その先に彼方君が居るはずなんて無くて。

 伸ばした手は、ただ虚しく空を掴んだだけ。


「あ……」


 我に返って辺りを見回せば、そこは見慣れた自分の部屋だった。


「ゆ、め……」


 そう、夢だ。

 彼方君はもういない。

 もう、決して会うことは出来ない。

 彼方君は、遠い、遠いところへいってしまったから。


「彼方君……寂しいよ……」


 例え夢でも、彼方君と会えたことで、普段は押さえ込んでいた寂しさが一気にはじけてしまった。

 ぽたり、ぽたり。

 ぎゅっと布団を握り締めた手に、涙の雫が落ちる。


「か、なた……君……」


 彼方君が居なくなった時に生まれた、心の空洞。

 それは決してふさがる事無く、今も私の心の中にぽっかりと空いている。

 
「彼方君……」 


 ベッド脇のサイドボードに飾ってある写真を手に取り、それを胸に抱く。

 涙は止まる事無く、あふれ続けている。


「寂しい、よ……」


 彼方君の笑顔を思い浮かべる。

 暖かくて、優しい笑顔。

 今はもう想い出の中にしかない愛しい人の姿を思い浮かべながら、私の意識は懐かしい日々へと飛んでいた。


 





第一楽章 聖なる夜、聖なる約束





 「はぁ、はっ、見つけた、見つけたよ彼方君っ!」


 彼方君から拒絶されて。

 それでも諦める事なんて出来なくて、必死で追いかけようとして。

 そして耕介君に教えてもらった、“真実”。


『そんなに難しい話じゃないんだ。とっても、簡単なんだ』


 彼方君が末期の癌で、春まで持たないだろうということ。

 そして、あの日。


『俺が教えてもらったのは夏の盛り。今も覚えてるよ。お盆の前だったかな。確か八月の七日だ』

『君のところへは行かなかったのかい? 彼方は』


 来た。

 八月八日。

 私もはっきりと覚えていた。

 だって私はその日……。

 言ってしまったのだ。

 やがて来る別れを告げるために、決意を固めてきたであろう彼方君に対して。

 彼がそのことを告げる前に。

 『ずっとそばにいてください』と。

 何て残酷な言葉。

 もうすぐ死ぬという相手に対して、ずっとそばに居てくれと言ってしまった。

 そんなことは不可能だ。

 そして、あの優しい彼方君が、言える訳がなかった。

 『自分はもうすぐ死ぬからそれは無理だ』なんて、そんなことを言える訳が無かったのだ!!

 
『……そうか……』


 私の言葉を聞いた耕介君は、頭を書きながら大きく頷いた。


『それは、あいつはああするしかないわな、確かに……』


 そう言い、目を覆って空を見上げた。

 そして耕介君は星を見上げながら、続けた。


『あの馬鹿、佳苗ちゃんの事が大好きだから出来ちまうんだよ。こんな馬鹿な事が、さ』


 そう、全て私のため。

 冷たく当たるのも、恋人が出来たというのも、耕介君と一緒に居させようとするのも。

 ……想い出を、踏みにじるのも。

 全て、私を守るため。

 彼に理不尽なことを求めた私に、逃げ道を与えるため。

 自分が悪者になるために、だったのだ。

 それが解ったから、こうして彼方君を追いかけてきた。

 彼が私を嫌っていないことも解った。

 なら、私がやることは一つしかない。

 今も昔もひとつきり。

 だって彼方君は、初めて出逢ったあの日のように、涙なんか流さずに、一人静かに泣いているのだろうから。


「ようやく、追いついた、彼方君っ」


 呆然とした彼方君が、私のことを見つめている。

 そして、走りながら編み直した、一房だけの三つ編みに視線が止まった。

 いびつに歪んでしまった三つ編み。

 でもそれは、あの遠い日に、初めて彼方君が編んでくれた時を思い出させてくれた。


「佐倉、お前は馬鹿か。あれほど酷い目に遭わされて、まだ付いてくるのか」


 彼方君が強い口調で言う。

 でも、もうそんなものは何の力を持っていなかった。

 だから、私は当たり前のことを言い返す。


「そうだよっ! だって、もう、みんなみんな聞いたんだからっ! 耕介君からっ!」

「なっ」


 その言葉を聞いた彼方君は唖然とした。


「だから、もう良いんだよ。全部解ったから。彼方君が何で病院に通っているのかも」

「関係無いな、そんな事。勝手に結び付けて考えるなっ!」


 彼方君の拒絶。

 けれど、全て知ってしまった私には、そんな言葉は何の力も持たない。


「うん、関係無い」


 迷う事無く答える。


「では何で、そんな事を言う?」

「彼方君が私をどう思っているかなんて、もうどうでも良いの」

「お前は馬鹿か?」


 呆れてしまったのだろうか。

 彼方君がそう言った。


「はいっ!」


 それに対して私は、笑顔のまま答えた。

 止まっていたはずの涙が、また零れ始める。


「僕もそうなんだけどな」


 そう言って彼方君が溜め息をついた。

 それを見た私は、つい、笑ってしまった。


「いいよ、それで……」


 答えて、彼方君へと歩み寄る。

 涙と汗と泥にまみれて、疲れ果てているし、ドレスもヒールもぼろぼろだったけど。

 でも、私は嬉しかった。


「だいきらい、貴方なんて」


 言葉だけの拒絶を口にする。

 ありったけの想いを込めて。


「大っ嫌い」


 そう言って、スカートの裾をそっと左手で取り、すっと一礼する。

 そして彼方君に向けて、右手を伸ばした。


『踊っていただけますか?』


 拒絶されてしまった体育館での焼き直し。

 でも、さっきとは込めた想いも、私の気持ちも、全くの別物。


「そっか。僕も嫌いだ」


 そう答えた彼方君は、軽く一礼して私の手を取った。

 そして、私は優しく引き寄せられた。

 その言葉が少し可笑しくて、私は密着した状態で囁いた。


「彼方君、今ごろになってようやく直接嫌いだって言った」

「そうだったか?」


 彼方君の背に手を回して、しっかり捕まえる。

 もう決して離しはしないと心に決めて。


「うん」


 首をかしげると、涙がまた零れてしまった。


「だから、許さないんだから」


 そう言って、彼方君の胸元に顔を寄せる。


「おう、構わんぞ」

「そういう、嘘つきのところも、大嫌い」

「……僕もそう思う」


 彼方君が首を振った気配。

 何かどうでもいいような事でも考えたんだろう。


「大大大大っ嫌い。誰よりも何よりも」


 そう言って顔を上げる。

 彼方君を見つめると、彼の瞳が揺れていた。


「全てを引き換えにしたっていいくらい、大っ嫌いなんだから!」


 彼方君がさらに強く私を引き寄せた。


「ああ、佐倉。嫌いで良いから……」

「はい?」

「ずっとそばに居てくれ」

「はいっ」


 返事をして、背伸びする私に応えて、彼方君が顔を寄せてくる。

 初めて交わした口付けなのに、何故かそれは私たちに懐かしい想いを運んできた。

 そうして私たちは、聖なる夜に、美しい星空の下で結ばれた。





「出来るかな……」


 彼方君と結ばれた後で、服装を整えながら私はそっと呟いた。


「なにが?」


 彼方君が尋ねる。

 私はドレスの上から下腹部に手を当て、答えた。


「彼方君の子供」

「こどっ……」


 驚いたのか言葉を詰まらせた彼方君は、バツの悪そうな顔をして目を逸らしながら呟いた。


「悪かったよ」


 その言葉を聴いた私は慌てて首を振る。


「ううん、そういうんじゃないの。出来たら嬉しいかなって」

「アホ。その年で母親になるつもりか?」


 呆れたように彼方君が言う。


「うん。だから彼方君、父親ね」


 にっこりと笑って、私は答えた。


「バーカ」

「あははははは」


 そして私は彼方君に寄りかかって、微笑んだ。





「おい佐倉」

「なに?」


 公園から出て寄り添って歩いてると、彼方君が話しかけてきた。


「家に帰らんでいいのか?」


 全く、何てことを言う人なんだろう。

 私は眉を寄せ、彼方君に問い返した。


「帰らせたい?」

「……別にどうでもいい」


 そっぽを向いて彼方君が答えた。

 そんなしぐさを可愛く感じた私は、彼方君の頭に手を伸ばしてなでなでと撫でてから言った。


「私は後頭部のチェックが出来ない人の世話を焼きたいな」

「うるさいぞ、佐倉」

「ごめん」


 小さく舌を出し、彼方君の腕を取った。


「耕介にしとけばいいのに。あいつは絶対大事にしてくれるのに」


 以前話していた、クラスの中で誰と誰がくっつくかという賭けの話。

 私のせいで賭けに負けたと、彼方君は三千円を要求してきた。


「私もそう思う」


 本当にそう思う。

 耕介君の気持ちだって、気づいていない訳じゃなかった。

 それに耕介君も本当に優しいから。

 だから、彼と恋人になればきっと大事にしてもらえるだろう。

 でも。


「だったら」

「大事にし過ぎて冷たく出来ちゃう人のほうが気になるから」


 彼方君の言葉を遮るように言う。

 照れたのか、しどろもどろになりながら三千円を要求する彼方君の言葉を切り捨てる。


「どうして?」


 そう聞いてきた彼方君に対して、自身いっぱいに答える。


「千五百円なら」


 訳を尋ねる彼方君に、にっこり微笑んで彼を指差した。


「半分彼方君のせいだもの」

「……」

「うふふふふ」


 うっすら汚れてしまったドレスをひらひらさせながら笑う。


「さっきは嫌い嫌いって言っちゃったけどね」


 彼方君は『おつり出るか?』なんてぶつぶつ言ってるけど、それを綺麗に無視して身体を翻す。


「ほんとうのことを言えばね、そうでもないんだぁ」


 そう言って彼方君の首にしがみつく。


「嫌いだっ……五百円ないんだよ僕」


 私を振り払おうとしながら小銭を確認する彼方君。

 でも、離れてなんてあげないんだから。


「愛の始まりだね」
 

 いつか彼方君が私と耕介君に向かって言った、セリフ。

 古い映画の、意地っ張りの男女の恋物語。


「知るかー!! 聞けー!!」


 あの映画の主人公が最後に叫んだのと同じように、彼方君も叫ぶ。


「いやっ!」


 彼方君の首に絡めた腕にぎゅっと力を込めて。

 もっと彼方君に近づく。


「好きっ!!」

「言ってる場合かっ!」

「うんっ! 言ってる場合だよっ!」


 彼方君と一緒なら、何だって出来る。

 今ならどんな夢だって叶えられそうな気がしていた。

 時々彼方君が言う言葉。

 『在りたいように在る』というのは、きっとこういうことなんじゃないのだろうか。


「ね、彼方君。責任、取ってね?」


 そう言ったら、一瞬彼方君の動きが止まった。

 けれど、すぐに。


「あぁ、任せとけ」


 そう言ってくれた。


「ん、彼方君のお嫁さんにしてね……」

「……おう」


 聖なる夜に、私の想いはようやく届き、誰よりも大切な人と、何よりも大切な約束を交わした。








第二楽章 残された時間、遺される想い





 冬休みが終わり、学園が始まって、それまでと変わらない日常が戻ってきた。

 以前との違いといえば、私と彼方君の関係が幼馴染から恋人へと変わったこと。

 それと、私が彼方君のお家で生活していること。

 彼方君と一緒に暮らしたいという願いに、当然両親は反対したけれど、最終的には折れてくれた。

 穏やかで幸せな時間が流れる。

 でも、終わりの時は確実に近づいていた。

 卒業式も間近に迫った二月の終わり。

 遂に彼方君が倒れた。

 そして彼方君は、そのまま入院することになった。

 ただ、倒れた場所が学園ではなかったので、結局クラスメートの皆には知らせなかった。

 彼方君は親戚の都合で、急に海外に渡る事になったと、皆にはそう伝えられた。

 それが、彼方君の望みでもあったから。


「あと一月は持たないだろう」


 彼方君の主治医である板橋先生は、静かにそう言った。


「そうですか」


 それを聞いた彼方君の反応は、あっさりした物だった。


「もともと春まで持たないだろうって言われていたんだし。覚悟はもう出来てるよ」


 彼方君はそう言って笑った。

 きっと怖いはずなのに。

 怖くて堪らない筈なのに。

 彼方君は私を心配させまいと笑う。

 だから私も、微笑みながら頷いたのだ。


 

 彼方君が入院してから、二週間が過ぎた。

 倒れてから三日の間、彼方君は眠り続けた。

 今は小康状態を保っているけれど、いつ容態が急変してもおかしくない状態。

 私たちは終わりに怯えながら、それを決して顔に出す事無く日々を過ごしている。

 そして私はあの日から一日も欠かす事無く彼方君のお見舞いを続けていた。

 彼方君は参加できなかった卒業式も先週終わり、今は一日中、面会時間の許す限り私は彼方君と一緒に居る。
 
 今日もいつもと同じようにお見舞いに行くため、病院への道を歩いていた。

 ただ、今日はいつもと違うことが一つあった。

 少し前からそうなんじゃないかと考えていたこと。

 それが昨日、はっきりしたからだ。

 妊娠三ヶ月。

 私のお腹には、彼方君との子供が息づいていた。

 今日はそのことを彼方君に伝える。

 彼方君がどんな反応をするかは判らないけれど。

 それでも伝えるべき内容で、そして、伝えたい内容だった。

 そんな事を考えつつ、病院への道を歩く。

 三月も半ばに差し掛かり、随分寒さも和らいできていた。

 そこかしこに見え始めた春の気配を探しながら、私は歩き続けた。

 やがて目的地が見えてくる。

『県立がんセンター』。

 彼方君が入院している病院だ。

 入り口の自動ドアをくぐり、まっすぐ彼方君の病室へと足を向ける。


「あら佳苗ちゃん。いらっしゃーい」


 途中の廊下で、もうおなじみになった声が聞こえてきた。

 振り返ってみれば、そこに居たのは一人の看護婦さん。

 彼方君の担当をしている、鹿島いずみさんだ。

 
「あ、いずみさん。こんにちは」

「うふふ、今日もかなちゃんのお見舞い? 相変わらずアツアツねー」


 いつもの調子でからかってくるいずみさん。

 最初は慌ててたけど、毎日言われていれば流石に慣れた。

 だから私も、さらりと返す。



「はい、アツアツですよ」

「ありゃりゃ、惚気られちゃった。うーん、かなちゃんのこと狙ってたのに、残念だわ」

「ふふ、駄目ですよ? 彼方君は私のものですから」

「うふふ、ご馳走様。残念だけど、私はお仕事があるからこれで失礼させてもらうわね」

「あ、はい」

「かなちゃん退屈してるはずだから、早く行ってあげると良いわよー」

「ふふ、そうします」


 いずみさんに手を振って、彼方君の病室に向かう。

 コツコツと、足音を響かせながら歩く。

 毎日のように来ている個室の前に立ち、ドアをノック。

 コンコン。


「彼方君、入っても良いかな?」

「おー、佳苗かー。入れ入れ」

「お邪魔しまーす」


 一声かけてから病室に入ると、彼方君はこちらを向いて満面の笑みを浮かべていた。


「待ってたよ。退屈で死にそうだったんだ」

「あはは、いずみさんの言った通りだった」

「ん、いずみちゃんに会ったのか?」

「うん、すぐそこで。忙しそうだったから挨拶したくらいだけど」


 話しながら花瓶の水をチェック。

 うん、特に汚れてない。

 きっといずみさん辺りが交換してくれたんだろう。


「そっか。しかし意外だな、いずみちゃんが真面目に働いてるなんて」

「くすくす、そんなこと言っちゃ駄目だよ?」

「いいんだよ、あっちもどうせ僕のことであることないこと言ってるんだろうし」

「はいはい。あ、座っても良いかな?」

「ん、良きにはからいたまえ」

「なにそれ」


 そんなやり取りをしながらベッドサイドのパイプ椅子に腰掛ける。


「いや、でも本当に良く来てくれた。冗談抜きで暇で暇で仕方なかったんだ」


 彼方君がまじめな顔でそんな事を言う。


「そうなの?」

「ああ、持ってる本なんかもあらかた読みつくしてしまったしな」

「そうなんだ」

「そういうわけで、何か面白い本とか知らないかな?」

「うーん、じゃあ、少女漫画なんてどうかな。いくつかオススメがあるから、売店で買ってみたら?」

「あー、いや、それは流石にちょっと……」

「うふふ、冗談だよ。あ、でもホントに読みたいんだったら言ってね? 貸してあげるから」

「無いとは思うがその時はよろしく頼むよ」


 他愛のない会話を繰り返すだけの、穏やかな時間。

 とても幸せで、かけがえのない時間。

 普通なら取るに足らないような時間も、私たちには大切な想い出になる。

 しばらくそうして彼方君とお話していたけれど、ふと会話が途切れた。

 病室を心地よい静寂が包む。


「えっとね、彼方君」


 私はようやく今日の本題を切り出すことにした。


「ん、どうしかしたのか?」


 私の表情や仕草、声音から何かを感じ取ったのか、彼方君が真剣な顔で聞いてきた。


「うん、今日はね、大事なお話があるの」

「大事な話?」

「そう。とっても、とっても大事なお話」

「それは、僕に関わる事か? それとも、君に関わる事か?」

「どっちも。私たち二人に関わること、だよ」


 そう言って、私は大きく息を吸い込んだ。


「彼方君……あの、あのね!」


 心臓がバクバクいっている。

 顔が真っ赤になっているのが自分でもわかる。

 それでも、精一杯の勇気を振り絞って言葉を紡ぐ。


「子供が……出来たの」

「……は?」

 
 彼方君が目を丸くしている。

 まさに寝耳に水と言ったところなんだろう。


「すまん、今、何て言った……?」

「だからね、子供が、出来たの」


 もう一度、今度ははっきりと言う。


「子供って……誰の?」


 彼方君が心底『理解出来ない』って顔をして聞いてきた。


「誰のって……私と彼方君の、だよ。それ以外ありえないでしょう?」

「そうか、僕と佳苗の……って、なにぃ!?」


 彼方君が驚いて取り乱している。

 ちょっと新鮮かも。


「うん、それでね」

「産むつもり、なんだろ?」


 今度はこっちが驚かされてしまった。

 さっきまで慌ててた彼方君は、今は静かな目をして私を見ている。


「うん、そのつもりだよ」


 まっすぐ彼方君の目を見つめて言う。


「そうだろうな」

「良いの?」

「良いも悪いもあるか。どうせ何言ったって聞きやしないんだろう?」


 笑いながら彼方君が尋ねる。


「勿論だよ」


 だから私も、笑いながら答えた。


「だったら僕から言うことはないよ」


 そこで一旦言葉を切った彼方君は、再び真剣な眼差しで私を見た。


「ただ、責任を果たせない事が心残りだ。佳苗一人に全部背負わせてしまう自分の不甲斐なさが、恨めしいよ」

「彼方君は不甲斐なくなんてないよ」

「そんなことはないさ。どう言いつくろったって、二人を残して逝ってしまうことには変わりないんだから」

「……彼方君」


 彼方君が悲しそうに微笑む。

 そんな彼方君の顔を見ていられなくて、出来る限り明るい顔をして話を続ける。


「責任を果たせないって、今彼方君言ったよね?」

「ああ、言ったな」

「駄目だよ、責任は果たしてもらうんだから」

「そんなこと言ったって」

「クリスマスの晩に私、言ったよね?」

「クリスマス……って」

「そう、『私をお嫁さんにしてください』って。彼方君は頷いてくれた。だから、その約束果たしてもらうの」


 そう言って、私はポーチから折りたたんだ紙を取り出した。


「名前と印鑑だけで良いよ。後はもう、全部書き込んであるから」


 その紙の名前は、『婚姻届』と言う。

 彼方君は紙を見て、私を見て、もう一度紙を見て。

 そして天井を見上げて、笑い出した。


「は……はは、はははははは。参った、参ったよ佳苗。全く、随分と準備の良いことで」

「ふふ、だってやっと彼方君のお嫁さんになれるんだもの。準備は入念にするよ。絶対逃がさないんだから」


 私も笑う。

 実際、婚姻届自体は、一月以上前から用意していたのだ。


「さ、彼方君。名前、書いてくれるかな?」

「あぁ、判った。書くよ。いや、是非書かせてくれ」

「うん、お願いします」


 婚姻届を彼方君に渡す。

 彼方君はサイドボードのペン立てからボールペンを取り出し、綺麗な字で自分の名前を書き込んだ。


「あとは印鑑だな」


 印鑑を取り出すと、名前の横に押す。


「ありがとう。それじゃあ役場に出してくるから、彼方君はちょっと待っててね。

 ……帰ってきたら私は、『遙 佳苗』だよ?」

「あぁ、ちょっと待て。ずっと渡すかどうか悩んでたんだけどな……」


 そう言った彼方君は、サイドボードの引き出しを漁って、何かを探している。


「渡すかどうか悩んでいたって……?」

「えーっと、お、あった。これだ。佳苗、左手、こっちに出して」

「? はい」


 言われるままに左手を差し出す。


「ゴメンな、ホントはこっちからプロポーズするべきだったんだけど」


 そう言いながら、彼方君は取り出した指輪を私の左手の薬指に……指輪!?


「もうすぐ死んでしまう身だから、言わないでおこうかとも思った」


 私に指輪をはめてくれた手で、そのまま私の左手を優しく包みこむ。


「でも、佳苗は僕に言ってくれたから。だから、僕からも言うよ」


 静かに微笑んで、彼方君が言葉を続ける。


「給料を貰っている身じゃないから、新しいのなんて買えなかった。

 だから、母さんのお古の指輪だけど……其処はまぁ、勘弁して欲しい。

 そんな僕でも良ければ……佳苗、結婚して欲しい」

「はい……はい!」


 涙が出てきてしまった。

 泣きながら、彼方君に抱きつく。


「僕にはもう殆ど時間は残されていないけど……よろしく、僕のお嫁さん」

「はい、あなた!!」


 そうして私は、『佐倉 佳苗』から『遙 佳苗』になった。

 窓からは柔らかく、暖かな日差しが差し込んでいた。








第三楽章 果たされる約束、結ばれる誓約





 私が彼方君にプロポーズして、彼方君が私にプロポーズしてくれて、三日が過ぎた。

 私は今、ウェディングドレスに身を包んでいる。

 まさか結婚式を挙げる事が出来るとは思っていなかった。

 二人でお互いにプロポーズしあったあの後。

 婚姻届を出すために役場へ向かおうとしていた私は、いずみさんとばったり出くわした。

 そして、私の左手の指輪を見つけたいずみさんに、洗いざらい全部喋らされた。

 話終わったあといずみさんは手を打って、嬉しそうに言った。


「そっかー、オメデトウ佳苗ちゃん。それじゃぁ、結婚式を挙げなきゃ、ね?」


 そしてにっこり笑ってさらに一言。


「あ、教会なら病院の敷地の中にあるし、神父さんなんかの手配も全部任せてもらうわよ。期待しててね」


 そう言ってナースステーションまで走っていった。

 私はと言えば、呆気に取られてただいずみさんの勢いに流されているだけだった。

 そしていずみさんは身内だけの小さな物とは言え、たった三日で結婚式の準備を全て終えてしまったのだ。

 今私が着ているドレスは、彼方君のお母さんが来ていたものだという。

 それをいずみさんは、あっという間に私用にサイズを調整してしまった。

 彼方君は、あのダンスパーティで彼が着たタキシードを着ている筈だ。

 
「うーん、やっぱり佳苗ちゃん、綺麗だわ〜」

「そ、そうですか?」

「うんうん、勿論よ。そう思いませんか、お母様?」

「そうね、本当に、綺麗ね……」


 お母さんが目じりに涙をためて、感慨深そうに私を見ている。


「あの、ごめんなさい、お母さん」


 そんなお母さんを見て、私は申し訳ない気持ちになった。


「どうして謝るの?」

「だって、私まだ、18歳で、それなのに子供まで作っちゃって……」

「あなたはそれを後悔してるの?」

「そんな事絶対無い!」


 お母さんの言葉を強く否定する。

 するとお母さんはにっこりと微笑んだ。


「だったら良いのよ。私から言うことなんて何にもない」

「お母さん……」

「彼方君がどんなに良い子か、私も良く知っています。だから佳苗、心配しないで幸せになりなさい」


 優しい目で、お母さんが私を見ている。


「もう時間は殆どないのかもしれない。でも、まだ終わってはいないでしょう?」

「……うん」

「だったら、精一杯今を過ごしなさい。何かあれば私達もついていますから、ね」

「うん! ありがとう、お母さん」


 堪え切れず、涙がこぼれた。


「あらあら、泣いちゃ駄目よ。せっかくのお化粧が崩れちゃうわ」

「もう、お母さんったら」


 そうして二人で笑いあう。

 少し離れたところで、いずみさんも優しい目をして私たちを見ていた。


「佳苗ちゃん、入っても良いかな?」


 そんな時、ドアをノックする音と耕介君の声が聞こえてきた。


「あ、うん、大丈夫だよ」

「それじゃ失礼して」


 私の返事を待ってから、耕介君が入ってきた。

 筋肉質のがっちりした体を、窮屈そうにスーツで包んでいる姿が少しおかしくて笑ってしまった。


「あ、俺のこと見て笑ったな。全く、彼方の奴も笑いやがったし。

 ……そんなに俺はスーツが似合ってないか」

「ご、ごめん……に、似合ってないって事はないんだけど……ふふふ」

「あー、いいよいいよ。どうせ“ソッチ”の筋の人間に見えるとかだろ? 彼方に散々言われたよ……」


 そう言って肩を落とす。

 大柄な耕介君がそういう仕草をすると、ギャップが大きくてどこかコミカルに見える。


「それにしても……綺麗だなぁ」

「えっ、そ、そうかな?」

「うん、凄く綺麗だよ。彼方になんて勿体無いくらいに」

「あはは、ありがと」

「な、佳苗ちゃん」

「何?」


 顔は相変わらず笑ったまま。

 でも、その瞳だけが真剣に私を見つめている。


「今、幸せなんだよな?」

「うん。とっても、ね」


 耕介君の質問に迷いなく答えた。


「そか」

「うん」


 会話が途切れる。


「良かったな」


 しばらくして耕介君が口にした簡素な一言には、沢山の意味が込められていたように感じられた。


「それじゃ俺は、先に教会のほうに行っとくよ。また後でな」

「佳苗、私も先に行っていますよ」

「それじゃ佳苗ちゃん、後でね」


 そして耕介君といずみさん、それにお母さんは部屋を出て行き、入れ替わりにお父さんが入ってきた。


「……佳苗」

「お父さん、今まで、有難う御座いました。佳苗は今日、お嫁に行きます」

「……そうだな」

「はい。それに、これからも面倒をかけてしまうと思いますけど」

「あぁ、それ以上言う必要はない。嫁に行っても、私の娘であることは変わらない。

 娘の面倒を見るのは親として当然のことだ」

「……はい」


 お父さんの静かな言葉が、私の心に沁みこんで来る。

 ああ、本当に私は素敵な両親の元に産まれたんだな、と思った。


「佳苗、後悔せずに済むように。思うように、生きなさい」

「はい」

「うん、それとな、今から孫の顔が楽しみだよ」

「はい」


 お父さんと交わした会話はそれだけ。

 そして、時間になった。

 案内の人の後について、お父さんと二人で教会へ向かう。

 ドアの前に立ち、目を閉じた。


『それでは新婦の入場です。皆様、盛大な拍手でお迎えください』


 拍手の音と共に、ドアが開いた。

 足元から伸びる、真紅のバージンロード。

 その先の神父様の立つ祭壇の手前、其処に彼方君はいた。

 真っ白いタキシードに身を包んで、一人では立つことの叶わない体を車椅子に乗せて。

 鳴り響くウェディングマーチにあわせて、お父さんと一緒に、一歩ずつ彼方君のそばへと歩み寄る。

 長いヴェールを持ってくれているのは、彼方君と仲の良い小児病棟の子供たち。

 彼方君の隣に立ち、顔を見合わせた後で、二人同時に神父様へと向き直った。


「本来ならば賛美歌の斉唱や、祈りの言葉などの手順を踏むべきでありますが」


 神父様が静かに語りだした。


「本日は、新郎である遙 彼方様の体調を考え、全て省略させていただきます」


 教会の中が少しざわめく。

 神父様はそれを見て、柔らかく微笑むと言葉を続けた。


「それでは早速、誓いの言葉を」


 そう言って神父様は彼方君の方を向いた。


「新郎、彼方」

「はい」

「あなたは、数ある人々の中からめぐりあった相手をただひとりのパートナーと認め」

 
 神父様の言葉を、彼方君は目を閉じて聞いている。


「敬い、慈しみ、富める時も、貧しき時も」


 そこまで言って、一瞬、神父様が言いよどんだ。

 けれど、一度目を伏せただけで、すぐに言葉を続けた。


「健やかなる時も、病める時も」


 そうか。

 確かにその一文は、今の彼方君にはある意味で残酷な言葉だ。

 けれど、その言葉を聞いても、彼方君は先ほどまでと全く変わらずにいる。

 何故なら、私たちにとって病気のことはもう関係ないのだから。


「互いに助け合い、堅く貞操を守り」


 神父様の声が、浪々と教会内に響き渡る。


「死が二人を別つ、その時まで。あるいは、こなたより、かなたまで」


 すぐそこに見えている死。

 終わりの時。

 その瞬間まで。


「変わらぬ愛を誓いますか?」

「はい、誓います」


 目を開いた彼方君は私を見て微笑み、そして神父様に向き直って力強く応えた。


「新婦、佳苗」

「はい」

「あなたは、数ある人々の中からめぐりあった相手をただひとりのパートナーと認め」


 彼方君への問いかけと同じ言葉。

 私も彼方君と同じように、目を閉じて神父様の言葉を聞く。


「敬い、慈しみ、富める時も、貧しき時も、健やかなる時も、病める時も」


 言葉にすれば、とても簡単なこと。

 けれど、ほんとうはとても難しくて、大切なこと。


「互いに助け合い、堅く貞操を守り、死が二人を別つ、その時まで。あるいは、こなたより、かなたまで」


 心の中で、神父様の言葉に付け加える。

 例え、死が二人を別つとも、その先まで。

 あるいは、こなたと、かなたに離れようとも。


「変わらぬ愛を、誓いますか?」

「はい、誓います」


 目を開き、神父様をまっすぐに見つめ。

 私も彼方君と同じように、はっきりと誓いを口にした。


「よろしい、それでは指輪の交換と、誓いの口付けを」


 まず彼方君が神父様から簡素なデザインのプラチナリングを受け取り、私の左手を取る。

 手袋を外し、三日前と同じように薬指に、指輪を嵌めてくれた。

 次に私も神父様から指輪を受け取り、彼方君の左手の薬指に嵌める。

 そしてそのまま身をかがめ、彼方君と向かい合う。


「やっと、小さい頃からの夢が叶うよ……」

「佳苗……」


 微笑んで、彼方君に顔を寄せる。


「彼方君、私、幸せだよ」

「ああ、僕もだ」


 彼方君との距離がゼロになった。

 病魔に蝕まれた彼方君の唇は乾いてかさかさしていたけれど、とても暖かかった。

 ゆっくりと彼方君から離れる。

 少し照れくさかったけれど、幸せだった。


「誓いは此処になされました。新たなる夫婦に、祝福を」


 神父様が大きな声で宣言した。


「さあ、新郎新婦の退場です。皆様、盛大に送り出して差し上げましょう」


 司会を引き受けてくれていたいずみさんの言葉を受け、結婚式に来てくれた人たちが静かに外へと出る。

 皆が外に出た後、神父様がそっとささやいた。


「どうやら皆さんの準備は良いようです。さぁ、お行きなさい」

「「はい」」


 二人声をそろえて応える。

 そして私は彼方君の車椅子を押しながら、ゆっくりと外へ出た。


「オメデトウ」

「おめでとう」

「おめでとー」


 祝福の言葉と拍手そして、ライスシャワーが私と彼方君を包む。


「ありがとう……みんな、ありがとう!」


 私と彼方君は、手を振って皆に応える。


「さ、佳苗ちゃん。早くブーケを投げて頂戴!」

「あ、はい! それじゃあ、行きますよっ。それっ」


 いずみさんに急かされて、ブーケを放り投げる。

 放物線を描いたブーケは……。


「きゃー、私! 私が取るのよっ!」


 大騒ぎしているいずみさんや、やる気満々な看護婦さん達ではなく。


「……あ」


 周囲の女性達の熱狂振りに呆気に取られていた朝倉 優ちゃんの手の中に納まっていた。


「あーっ、優ちゃんいいなぁっ」


 いずみさんが叫び声をあげた。


「ていうかコレは、私たち優ちゃんが結婚できる年齢になれるまでは結婚できないってことなのかしらね?」

「うわあー、それはヘヴィね……」


 看護婦さんたちは顔を見合わせて苦笑い。


「くすくす、優ちゃん、おめでとう。これで次は優ちゃんの番だね」

「あ……」

「ふふ、ゴメンね。大好きな彼方お兄ちゃん取っちゃって」

「え、あ、えと!?」


 私がそういうと、優ちゃんは顔を真っ赤に染めて俯いてしまった。


「佳苗、からかうのはそれくらいにしとけよ」

「む、彼方君、優ちゃんには甘いんだね?」

「そりゃいたいけな女の子には優しくしなきゃ駄目だろう?」


 私の言葉に、さも当然のような顔をして彼方君が答える。


「うーん、なんか納得がいかないなぁ」

「気にするなー。気にしちゃ負けだぞ?」


 お澄まし顔でいう彼方君。

 私は納得いかなかったけど、それでもそれ以上食い下がりはしなかった。


「はは、何だよその顔! あははははっ!!」

「あー、笑うなんて酷いよー!」

「ははは、だって、あっはははははははは!!!」


 彼方君が大声で笑ってるのを見て、皆目を丸くしている。

 でも、顔を見合わせた後、一斉に笑い始めた。


「はははははっ! 今日はめでたい日だ。皆笑おうぜっ!!」


 耕介君の声に応えて、笑い声がいっそう大きくなった。


「「「あははははははははっ」」」


 晴れた空の下に、朗らかな笑い声が響き渡った。








第四楽章 想い出に抱かれて、想い出を抱きしめて




 結婚式から二週間が過ぎた。

 三月ももう終わる。

 春の気配はあちらこちらに息づき、桜もその花をほころばせ始めていた。

 私と彼方君は、穏やかな時間を過ごしていた。

 一週間くらい前から、彼方君は起き上がることも殆ど出来なくなっていた。

 一日の殆どを眠って過ごす彼方君の傍らで、私はずっと彼方君を見つめていた。

 もう残された時間は本当に僅かだ。

 だから私は、出来る限り彼方君のそばに居て、彼の姿をこの目に焼き付ける。

 胸の奥の、深いところに刻み込む。

 決して忘れないために。

 想いが薄れることのないように。

 そして。

 彼方君がいなくなっても立ち止まらず、前に進むために。

 ぱさぱさになってしまった彼方君の髪を撫でながら、私は呟く。


「大好きだよ、彼方君……」

「……僕もだよ、佳苗」


 眠っていると思っていた彼方君が返事をしたので、私は驚いた。


「起きてたの?」

「ん、今起きたところ……あぁ、空が赤いね。もう夕方なんだ……」

「うん、もうすぐ日暮れだよ……」

「そうか……」


 頷き、彼方君は窓の外へと視線を飛ばす。

 しばらくそうして外を見ていた彼方君が、私に言った。


「ねえ、佳苗。お願いがあるんだけど」

「何?」

「屋上に、行きたいんだ」

「……屋上?」

「そう。それで車椅子を押してくれないかな。もう、僕一人じゃ歩くどころか起き上がることも出来ないから」


 彼方君がまっすぐ私を見つめている。

 ずっと変わらない、とても澄んだ瞳で。

 ずっと変わらない、強い意志を秘めた瞳で。


「わかった。屋上だね?」

「ああ。ゴメンね」

「謝らなくて良いよ。私は彼方君の奥さんだもの。もっと頼ってもらいたいくらいなんだから」


 左手のプラチナリングをかざしながら言う。


「ん、じゃあ思いっきり頼ることにするよ」

「そうしなさいそうしなさい」


 笑いあいながら車椅子の準備をする。


「はい、彼方君。こっちに体重かけて」

「すまないねぇ佳苗さん。わしがこんな体でなかったら」

「それは言わない約束ですよ。よいしょっと」


 彼方君の体を車椅子に乗せる。


「体が冷えるといけないから、日が落ちるまでだよ?」

「ん、わかってる」


 ころころ、ころころ。

 車椅子を押していく。

 エレベーターに乗って屋上へ。

 屋上に出たら、そのまま進んで夕日の良く見える西側のフェンスのそばまで行った。


「夕日、綺麗だな」

「うん、綺麗だね」


 二人並んで、真っ赤な夕日を眺める。


「なぁ、佳苗」

「何かな? 彼方君」

「うん、割と暇な時間が多かったんでな、いろいろ考えてみたんだが」

「考えたって……何を?」

「子供の名前」

「え……?」

「だから僕たちの子供の名前だよ。それとも僕には考えさせないつもりか?」


 彼方君が拗ねたみたいに言う。

 私は慌てて答えた。


「う、ううんっ! そんな事ないよ!」

「良かった。それじゃ、聞いてもらえるか?」

「うん、教えて欲しいな」


 彼方君はじっと夕日を見つめたまま、言葉を紡いでいく。


「いくつか考えたんだけどね。どれもいまいちしっくり来なかったんだ」

「そうなの?」

「うん。けど、一昨日、ふっと頭に浮かんだのがあってね」

「何ていう名前?」

「未来。遙 未来っていうのはどうだろうか?」

「はるか……みらい……」

「そう。女の子なら“みく”って読んでも良いかもしれないね」

「うん……」

「僕はもう見る事の出来ない未来まで、幸せであるように。僕の代わりに、未来を歩んでくれるように」

「うん」


 彼方君の言葉に、静かに頷く。


「うん、良いと思うよ、未来。それに決定しよう。

 “はるか みく”だと少し語呂が悪いから、やっぱり“はるか みらい”だね」

「はは……確かに、苗字のことを考えるとそうだな。僕は其処まで考えてなかったな」

「もう、相変わらず彼方君はどこか抜けてるんだから。大切な私達の子供の名前なんだよ?」

「ごめんごめん」

「ふふ」

「あはははは」


 黄昏時の空気に包まれ、二人で笑う。

 あたりはとても静かで、まるでこの世界に二人きり、ううん、お腹の子も入れて三人だけのような気分になる。

 そして訪れる静寂。

 やがて、彼方君が静かな声で話し始めた。


「僕の時間は、もうすぐ其処で途切れてしまっている。

 けど、佳苗や、生まれてくる子供には、まだ見ぬ未来が待ってる。

 僕自身は一緒にいる事は出来ないけれど、それでも、想いはきっと残るから」

「そんな……まだ、まだ終わりには早いよ?」


 変わらず彼方君は夕日の方を向いたまま。

 ただ、先ほどまでとは違って、今は目を閉じていた。

 そしてそのまま、夕暮れの紅から、夜の蒼まで美しいグラデーションを描く空を振り仰ぎ、続ける。


「なぁ、佳苗。この先、もし僕の事が君の重荷になるようなら、忘れてくれて構わない」

「え……?」

「勿論、ずっと憶えていてくれれば嬉しい。凄く、嬉しいよ。でも、想い出に、過去に縛られちゃ駄目だ。

 僕との想い出に逃げ込んで、目を塞いでしまう事は許さない。

 これは、僕の我侭だ。君に押し付ける、最後の我侭。

 どんな形でも構わない。佳苗は、そして生まれてくる子供には、必ず幸せになって欲しい。

 これから先、一緒に在る事の出来ない僕のためにも」

「彼方君?」


 穏やかな声で、まるで私を諭すかのように彼方君は言う。


「な、約束……してくれ。何があっても、絶対に幸せになるって。

 お腹の子を、幸せにしてみせるって」

「う、うん。約束する……」

「そっか、ありがとう……」

「べ、別にお礼を言われるようなことじゃないよ。

 私が幸せになるのも、お腹の子を幸せにするのも、当たり前のことなんだから」

「それでも、だよ。僕に出来ないことをやってもらうんだ。やっぱりありがとう、だ」


 そう言って、彼方君は大きく息をついた。


「さ、て……これで片付けることの出来る心残りは、あらかた片付いたかな……」

「え?」

「そろそろ……限界みたいだ。もう、眠くて仕方がない……」

「彼方君……彼方君っ!?」

「ゴメンね……それから、ありがとう。佳苗……元気で、ね」


 そう言った彼方君の全身から、力が抜け落ちた。


「彼方君! まだ、まだ死んじゃダメだよっ!!」


 取り乱しながらも、彼方君の様子を見る。

 まだ息がある。

 彼方君はまだ死んでない!


「彼方君、待っててね。今、人を呼んでくるからっ!!」


 そう叫んで私は駆け出した。

 一刻も早く、人を呼んで、此処に戻ってくるために。

 彼方君を助けるために。

 泣きながら、走り出した。

 彼方君は、とても満足そうに微笑んでいた。








間奏 なつかしいおもいで、さきほこるきんいろのさくら





 時は春。

 燦燦と輝く陽光の中、桜の花が満開に輝いている。

 僕は屋上からゆっくりと風景を見渡した。

 くすんだ色の町並みの中に、淡いピンク色の桜の花が見え隠れしている。

 柵に両肘をついて、ぼんやりする。

 これが、僕の生きてきた世界。

 それは、とても輝いて見えた。


「……彼方」


 僕は名前を呼ばれて振り返った。

 そこに居たのは美しい金髪の女性。

 クリステラ=V=マリー。

 ほんの短い間、奇妙な同居生活を過ごした吸血姫。


「クリス……ああ、そうか。見送りに来てくれたんだ」

「はい」

「今、車椅子の上で、意識を失った僕が運ばれていった」

「……はい」

「どうやら、もう時間が来てしまったみたいだね」


 クリスが悲しそうな目をして僕を見ている。

 泣き出してしまいそうな瞳。

 ああ、何故だろう?

 僕はあの瞳を知っている気がする。

 クリスの髪が風にさらわれ、なびく。

 眼下に広がった満開の桜からも、花びら達が舞い上がる。

 それを見た僕の脳裏に、少し前までよく夢に見たイメージが浮かんできた。

 美しく咲き誇る金色の桜。

 忘れかけた記憶。

 金色。

 桜。

 そして頭に置かれた手。

 子供。

 迷子の子供。

 現れた救いの手。

 迷子の僕。伸ばされた白い手。僕の頭をなでているのは……。

 頭の中で渦巻く言葉。

 やがてそれがひとつの記憶を引きずり出した。

 遠く霞み、埃を被ったそんな記憶。

 桜の綺麗な季節だった。

 そうか、彼女は、クリスは僕に会う為にやって来たのか。

 あんな些細なことを未だに覚えていて、訪ねてきたのだ。

 だとしたら、謝らなくてはいけない。

 彼女との約束を、破ってしまっているから。

 そして、お礼を言わなければならない。

 彼女は、僕に会う為にやって来て、何も覚えていない僕のために力を貸してくれたのだから。

 
「彼方、あの」

「なあ、クリス。楽しい事、無かったか」

「……え?」


 クリスが何かを言おうとしたが、それを遮って僕が言葉を被せる。


「世界をぐるっと見てきても。楽しい事無かったのか」


 彼女が大きく目を見開いた。

 それは驚き。


「どうだ?」


 戸惑い。


「うん」


 当惑。


「そうか」


 不安。


「か、なた……」


 そして、悲しみ。


「済まない。約束、破ってしまって」




 ぼくは、ひとりだった。

 おかあさんといっしょだったのに、いつのまにかぼくはひとりぼっちだった。

 ないてしまった。

 おとうさんはいつもかなしいときこそなくなといってたけど、ないてしまった。

 さびしいし、かなしかった。


「ぼうや、まいご?」


 きんいろのおねぇさんがいた。

 きれいなひとだから、ちょっとびっくり。

 どきどき。

 あたまをなでてくれる。

 うれしかった。

 こうえんのべんちでおはなしをした。

 おねぇさんはひとりでたびをしているんだそーだ。


「さびしい?」


 ぼくがきいたら、どうしてっていわれた。


「なんとなくそーおもったから」


 そういったらこんどはおねぇさんがないてしまった。

 どうしよう。

 おとうさんにばれたらおしりをたたかれる。

 たくさんたたかれないようにするにはどうするんだっけ?

 そーだ。

 げんきにするんだ。

 そしたら、おしりぺんぺんはんぶんだ。


「ひとりはさびしい?」


 ぼくはおねぇさんにきいてみた。

 そうしたらおねぇさんは、こっくりとうなずいた。

 でもまだないてる。


「……じゃあ、ほんとにそうかぐるっと見てきてよ」


 えっと、えっと。

 なんていえばいいかな。

 えっと。


「ぐるっと?」


 おねぇさんはぼくをみている。

 きれーだ。

 わわわ、どうしよう。

 どきどき。


「うん。そうしたらぼくもおとなになるし、おねぇさんもみてこられる」


 おねぇさんのかおをちらちらみながらいう。


「……そう、だね」


 おねぇさんはぼくのあたまをなでながら、ぼくのいうことをきいてくれる。

 やった。

 うれしい。

 ちゃんとはなしをきいてくれるおとなのひとだ。


「それでももしだめだったら……ぼくとけっこんして、こんどはふたりでいってみようよ」
 

 おとうさんがいってた。

 けっこんしようは、おんなのひととともだちになるひっさつわざだって。

 けっこんかぁ。

 このおねぇさんならいいな。

 うん。

 このきんいろのおねぇさんがいい。

 おねぇさんはめをぱちくり。

 そしてもっとないてしまった。

 だめだおとうさんにおしりぺんぺん、にばいだ〜。

 どうしよう。

 ぼくはこまっておねぇさんにげんきになってもらおうとがんばることにした。


「きっとたのしいよ。ね? ね?」





「世界をぐるっと回って見て、それでも楽しいことが無かったら」


 とうとう泣き出してしまったクリス。

 ああ、僕が泣かせてしまったんだな。


「結婚しようって、そう言ったのにな」

「そうです……。でも、彼方は……佐倉さんのものになってしまった」

「ゴメンな」

「いいえ」


 クリスが涙を拭いながら言う。


「いいえ、彼方は約束を破ってなどいませんよ」

「どうして?」


 クリスのその言葉に驚いて、思わず尋ねる。


「だって、彼方との約束は『世界をぐるっと回って見て、それでも楽しい事が無かったら』、という前提ですもの」


 そう言ってクリスが微笑んだ。

 とても優しくて、綺麗な笑顔。


「世界をぐるっと回ってみても、楽しい事、ありませんでした」

「だったら」

「『此処』に来るまでは」

「クリス……」


 クリスがくるりと回り、僕に背を向ける。


「ほんの短い間でしたけど、此処での生活は、間違いなく楽しい物でしたから」

「……そうか」

「はい、だから……だから、彼方は約束を破ってなどいません」


 クリスの肩が震えている。

 けれど、僕はそれに気づかない振りをした。

 クリスはああ言ってくれたが、それはただの詭弁だ。


「そうか」


 だから、僕はもう何も言う事が出来なかった。


「まったく、こんな美しいお嬢さんを泣かすなどとは、とんでもない男に育ってしまった物だな」


 その時聞こえてきた懐かしい声に、弾かれたように僕は振り返った。

 そこに居たのは―――。


「これはお仕置きをしなきゃいけないかな?」

「ふふ、そうですねえ」

「とう、さん……かあさん……」


 もう二度と会えないはずの、僕の大切な家族。


「迎えに……来てくれたの?」

「ふん、花見だ花見」

「そうですね、あんなに綺麗な人ですもの。まるで桜の花みたい」


 本当に、懐かしい声。

 心が、温かくなる。


「それに、もう一輪の花もな」

「ええ、彼方の良い女(ひと)ですね。あの子も、凄く素敵な女性」


 父さんと、母さんが笑っている。

 だから僕も、笑った。


「クリステルさんだったね。馬鹿息子が世話になりました」

「いえ、私こそ、彼方にはお世話になりました」


 クリスも笑っている。

 笑いながら、涙をこぼしている。

 拭いてやろうと思ったけれど、よく考えたらもう出来なかった。


「そろそろ行くの?」


 クリスは自分で涙を拭き、笑顔を見せてくれる。


「うん」


 短くそう答える。

 暖かい風が、吹きぬけた。


「どうだった?」


 何が、とは言わない。

 クリスはただ、柔らかな表情を浮かべている。


「そうだねぇ……」


 目を閉じ、想い出を振り返る。

 楽しかった事や苦しかった事。

 嬉しかった事や辛かった事。

 それらが泡のように浮かんでは消える。

 みんなの笑顔。

 クリスの笑顔。

 そして、佳苗の笑顔。

 瞳を開き、クリスに伝える。


「よかったと思うよ」


 クリスは頷いた。


「これからどうするの?」


 僕の言葉に彼女は表情を緩め、クスクス笑う。


「世界をぐるっとみてきます」

「ぐるっと?」

「はい」
 

 幼い日の会話を思い出し、僕もクスクス笑う。

 クリスも笑っていたが、堪えられなくなったのか、再び涙が溢れはじめた。

 その泣き笑いは、妙に目をひきつけた。

 けれど、このまま見ているわけにもいかない。

 僕は一人苦笑した。

 『その時』何かが決定的に終わったような気がした。

 階下が騒がしくなる。

 佳苗や耕介、いずみちゃんに優や先生、馴染みの看護婦さん達の切羽詰った声が聞こえてくる。

 彼等の声が、叫びが、僕の名前を呼んでいる。

 けれど、僕にはもう彼等のもとへ戻ることは出来ない。


「ああ、いよいよ本当に終わりが来ちゃったみたいだね」

「彼方―――」

「じゃあ、クリス。もう行くね」


 ほんのひと時、道を共にした女性に別れを告げる。 


「そんな顔をしないで、クリス」


 幼子を諭すように、クリスに語りかける。

 それはきっと間違っていない。

 だって、今のクリスは、迷子の子供と一緒なのだから。


「僕は君と歩むことは出来なかったけれど。でも、きっと何処かに、君の全てを受けて止めてくれる人がいるよ」


 心から、そう思う。

 そして、最後に一つ、ふと思いついた。


「もしぐるっと回っても、それでも駄目だったら、今度こそ僕が貰ってやるかも知れんぞ? だから、頑張れ!」

「はい」


 僕が最後に見たものは、泣き濡れて、しかし咲き誇らんばかりの、金色の桜だった。

 ああ、父さんたちの言い分ももっともだな。

 そうだ、クリスにあのことを頼んでおかなくては。


「クリス。図々しいかも知れないけれど、一つお願いがある」

「なんですか?」

「僕の―――にある、―――を、―――……」

「はい、確かに引き受けました」

「あり……がとう……」


 良かった。

 これはきっと、クリスにしか頼めないから。

 だんだん意識が白く染まっていく。


「……ごめんな。それと、ありがとう、佳苗……どうか、幸せに……」





 そしてぼくのいしきは、そらにとけた。








最終楽章 別れの涙、別れの微笑み





 屋上で彼方君が意識を失ってから、一週間。

 暦は4月に入り、桜の花も満開に咲き誇っている。

 そんな中、彼方君は意識を取り戻す事無く、眠り続けていた。

 何時、その命の鼓動が止まってもおかしくない状態。

 生気を失い、痩せこけた彼方君の顔を見つめながら、私は祈る。

 もう一度だけでも良い、どうか、彼方君が眼を開いてくれますように。

 お別れの前に、せめてもう一度、彼方君の声を聞きたかった。


「彼方君……」


 彼方君は、穏やかな顔をして眠っているように見える。

 けれど、それはただの眠りではなくて。

 少しだけ開いた窓から、暖かい春の風が吹き込んできた。


「彼方君?」


 一瞬、彼方君の姿がぶれたような気がした。

 目を擦ってみると、そこには先程までと変わらぬ彼方君の姿。


「気のせい……?」


 そう思った瞬間だった。

 ピー。

 彼方君の容態をモニターしていた機械が、以上を示す。


「か、彼方君!」


 私は狼狽したけれど、でも、何も出来ない。

 バタバタと、すぐに看護婦さんと板橋先生が病室に駆け込んできた。


「く、青少年。まだだっ、もう少し堪えろ」


 板橋先生がそう言いながら、処置を始める。

 目の前で、目まぐるしく動く人々。


「そうだ、耕介君に伝えないと」


 少しの間ほうけていた私は、ようやくそのことに思い至った。

 病室を見渡すと、いずみさんの姿もあった。


「わたし、耕介君に電話してきます!」

「あ、佳苗ちゃん、それだったらついでに優ちゃんもお願い!」

「わかりました!」


 いずみさんの言葉に頷き、私は駆け出した。

 病院内を走っちゃいけないことは分かっているけれど、今は一秒が惜しい。

 ロビーに備え付けの公衆電話に辿り着き、もどかしく思いながらも必死で耕介君の電話番号をプッシュする。

 ……1コール、2コール、3コール。


「もしもし?」


 4コール目で耕介君が電話に出た。


「もしもし、佐倉です。耕介君、彼方君が……彼方君がっ!」

「どうした、佳苗ちゃんっ」

「彼方君の容態が急変してっ! 今、先生たちが処置をしてるけどっ……!」

「分かった、すぐに行くっ!! 君は彼方のそばに!!」

「うん、早く、早く来てね!」

「ああ!!」


 それだけの会話を交わして、電話を切る。

 次は小児病棟だ。

 折りよく来たエレベーターに飛び乗る。

 エレベーターから出て、渡り廊下を経由、小児病棟へ。

 今度はエレベーターは出たばかりだった。

 迷わず階段を駆け上る。

 息が切れる。

 苦しい。

 でも、止まってはいられない。

 途中、ナースステーションに立ち寄ってその場にいた看護婦さんに協力をお願いする。

 快く引き受けてくれた看護婦さんと共に、優ちゃんの病室へと向かう。

 今日が優ちゃんの点滴の日ではなくて本当に良かった。

 ベッドの上で身を起こして本を読んでいた優ちゃんに声をかける。


「優ちゃん!」

「佳苗さん、どうしたんです……まさかっ!?」

「はぁっはぁっ……うん、彼方君の容態が……」

「っ。……お願いします、私もお兄ちゃんの病室に!」

「うん!」


 優ちゃんの言葉に一も二もなく頷く。

 一緒に来てくれた看護婦さんが、優ちゃんをおんぶした。


「ありがとう御座います」

「気にする必要なんてないわ。あなたを連れて行かなかったら、私がいずみに怒られちゃうしね」


 優ちゃんのお礼に、看護婦さんが笑いながら答える。


「行きましょう!」

「はい!」


 ここまで来た時ほどのスピードは出せない物の、出来るだけ急いで来た道を戻る。

 彼方君の病室に辿り着いた時には、あれから40分が過ぎていた。


「お兄ちゃん!」

「彼方君!」


 看護婦さんは優ちゃんを彼方君のベッドの隣の椅子へと下ろす。

 機械が示す彼方君の状態は、部屋を出る前よりも、僅かに落ち着いているように見える。


「彼方! 佳苗ちゃん!」


 その時、汗だくになった耕介君が病室に駆け込んできた。


「様子は?」


 汗を拭いながら耕介君が私に尋ねる。


「少しだけ、落ち着いたみたい。でも……」

「予断は許さない。いや、恐らくもう、一時間は持たないだろう……」


 先生が力なく言った。

 そして、私のほうを向いて最後の確認をする。


「佳苗さん、彼方さんの延命治療は……」

「はい。彼の希望通り、延命治療はしないで下さい」


 涙を堪えながら、先生の言葉に答える。

 皆が揃う前なら、或いは延命をお願いしたかもしれない。

 けれど、彼方君を見送るべき最低限の人間は、ここに揃っている。


「お兄ちゃん……死んじゃ、駄目だよぅ……」


 優ちゃんが泣きながら、彼方君の手を握っている。


「彼方……畜生っ……!」


 耕介君が拳を握り締めている。


「かなちゃん……」


 いずみさんが、少し離れた場所からそっと見守っている。


「青少年……」


 板橋先生が、やりきれないといった表情で呟く。

 その言葉を最後に、病室を静寂が満たした。

 僅かに聞こえる音は、機械が刻む、彼方君の鼓動の証だけ。

 誰も声を出せず、ただ、眠り続ける彼方君の姿を見守る。

 ただ、時だけが過ぎていく。

 そして、ついに。

 機械の刻む音の間隔が、次第に緩やかになり。


「かなちゃん!」

「お兄ちゃん!!」

「く、青少年!」

「彼方!」

「彼方君!!」


 少しずつ、少しずつ、終わりが忍び寄ってくる。


「クソっ! 何でだっ! 何でお前なんだよっ!? 彼方、死ぬな。死ぬんじゃねぇっ!」


 耕介君が叫ぶ。


「お前が死んじまったら、佳苗ちゃんが一人になるだろうがっ!!

 そんなの、許されると思ってるのか!? 答えろ、彼方ぁっ!! 答えてくれよっ!!」


 ガンッ!!

 耕介君が、握り締めた拳を壁に叩きつけた。


「畜生……何で、お前なんだ……何で、俺には何も出来ないんだっ……! 畜生ォォォッッッ!!!」


 そう叫んで、項垂れる。


「お兄ちゃん……お兄ちゃん!! やだ、優を……優を置いていかないで!!」


 優ちゃんが必死で声を出す。

 病に冒された、小さな体で、必死に訴えかける。


「嫌だよっ……もう、お兄ちゃんとお話できなくなるなんて……二度と会えないなんて、そんなのやだぁっ!!!」


 かわいらしい顔を涙でくしゃくしゃにして、優ちゃんが泣いている。


「青少年……君は、満足できたのか? 限りある、僅かな時間の中で……君は、納得できる答えを見つけられたのか?」


 板橋先生が静かに問いかける。


「いつか言ったな……君はもう少し人に甘えたほうがいい、と。君の心は、安らぐことが出来たのか……?」


 その問いかけに対する答えは、ない。


「かなちゃん……ホントにもう、さよならなんだね」


 いずみさんが静かに見守っている。

 その瞳は、悲しみに揺れているけれど、しっかりと彼方君を見つめていた。

 いくつもの悲しい別れを乗り越えてきた、強い心と意志を秘めた眼差しで。


「全く……女泣かせなんだから……。こんな良い女を三人も泣かせるなんて……ホントに酷い男の子ね」


 微笑むいずみさんの瞳から、涙が一筋零れ落ちる。


「あっちにいって、他の女の子に手を出したりしたら……後が怖いんだからね? しっかり憶えておきなさい」


 そう言って、涙を拭う。

 それ以上の涙は見せず、いずみさんは笑っている。


「彼方君……」


 私はそっと、眠る彼方君の髪を撫でた。


「小さい頃から、色々あった、ね。小学校の時から、私、ずっと彼方君のこと見てたの。

 いつも図書室で一人きりでいる彼方君を。初めて声をかけた、あの日よりずっと前から」


 ゆっくり、ゆっくり。

 彼方君の髪を撫でながら、話しかける。


「何時も一人でいる彼方君のことがずっと気になってたの。

 寂しさを閉じ込めた目で、涙を流さずに泣いている彼方君のことを、ずっと見てた」


 あの頃の彼方君の姿を思い浮かべる。

 後で本人から聞いた話だけれど。

 当時の彼方君はお母さんを亡くした影響で、自分の殻に閉じこもっている様な状態だったそうだ。


「それでね、とうとう我慢できなくなって、あの日、声をかけたんだ。

 それからは、それまでよりもずっと、あなたのことを考えるようになってた。

 本当にもう、寝ても覚めてもっていうぐらいに」


 左耳の辺り。

 一房だけ垂らした三つ編みに手を添える。


「この三つ編みも、彼方君が編んでくれて、似合うって言ってくれて、凄く嬉しかった。

 もう、あの時から、私は彼方君以外見えていなかったの」


 なれない三つ編みに一生懸命になっている彼方君。

 出来上がった少しだけ不恰好なそれを、彼方君は似合うと言ってくれた。

 それからこの三つ編みは、私のトレードマークとでも言うべき物となった。


「ね、彼方君。私、幸せだったよ。今も、幸せだよ」


 過ぎ去った日々を想う。

 それは、きらきらと輝く宝石のような宝物。


「去年のクリスマス、とっても悲しかったけれど、とっても嬉しかった。

 それからは、凄く短い間だったけど、何よりも素敵な時間だった。

 彼方君の子供が出来たってわかった時、泣いちゃった。

 彼方君の証はここにあるんだって。

 彼方君がプロポーズを返してくれて、本当に嬉しかった。

 私の全てを受け入れてくれて、包んでくれて。凄く暖かかったよ」


 涙が溢れる。

 堪えることなんて出来ない。


「彼方君、私、約束するから。必ず、幸せになるよ。この子も、未来も、必ず幸せにする」


 そっと自分のお腹に手を添える。

 今はまだ目立たないけれど、そこには確かに息づいている生命がある。

 私と彼方君の想いの結晶。

 彼方君との、約束の証。


「彼方君……かなた、くんっ……」


 もう、言葉にならなかった。

 ただ、彼方君の傍らで泣くことしか出来ない。

 そして。

 ピーーーーー……。

 機械が冷たい音で、終わりを知らせた。

 その瞬間。


(……ごめんな。それと、ありがとう、佳苗……どうか、幸せに……)


「……彼方、君?」


 私は彼方君の声を聞いた気がした。

 けれど、彼方君は目を閉じたままで。

 その腕を取って、先生が自らの時計で時間を確認する。


「……午後、一時二十七分。ご臨終です……」


 静かに、先生が言った。


「彼方……彼方ぁぁぁぁっ!!」

「あ……おに、い……ちゃん……うぁ、あ……あああああぁぁぁぁぁぁっ」

「かな……ちゃん……」


 皆が泣いている。

 私も、泣いている。


「彼方、君……。私こそ、ありがとう。そして、さようなら、彼方君……」


 けれど、私は泣きながらでも微笑む。

 せめて、最後の別れは笑顔で。

 どうか、彼方君が安らかでいられますように……。








独唱 彼の遺した宝石、彼女の手にした宝物





「おかあさん?」


 声を殺して泣きながら、懐かしい日々の想い出に沈んでいた私は、未来の声で引き戻された。


「おかあさん、ないてるの? こわいゆめ、みたの?」


 時計に目をやると、いつも起きる時間を既に過ぎていた。

 昨夜は母さんと寝ていた未来は、起きてこない私を呼びに来たんだろう。


「おかあさん……」


 とてとてと、不安そうな顔をした未来が駆け寄ってくる。

 いけない。

 こんな顔をしていちゃ駄目だ。

 未来に心配をかけてしまっている。

 しっかりしなくちゃ。


「ごめんね、未来。お母さん、大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」


 そう言って、未来を抱きしめる。


「おかあさあん……」


 未来もしっかりと抱きついてくる。

 今年7歳になる未来は、彼方君に似たのか年のわりにとても聡明だ。

 多少は親の欲目もあるのだろうけれど、それを抜きにしても未来は人の感情に敏感だ。

 そして、感じ取った感情に対して、とても素直に行動する。

 それは無遠慮な物ではなく、慎重に距離を測った上で、相手が許すギリギリにまで近づいての行動。

 天性の才能か、未来は決して人の嫌がる領域には踏み込まない。

 本当にギリギリの場所を感じ取って、そこで自分の思うままに振舞うのだ。

 お父さんやお母さん、そして耕介君は、未来の人との距離の測り方は私にそっくりだという。

 そして、その後の行動は、彼方君にそっくりだと。

 稀に、その行動が原因で他の誰かと衝突することもあるらしいけれど、いつの間にか仲良くなっているという。

 私にとって、誇るべき娘だ。

 そんな娘が今、私のことで心を痛めている。


「未来……」


 ゆっくり、ゆっくりと未来の頭を撫でる。

 凍ってしまいそうに冷え切っていた心が、未来の暖かさで解けていくような錯覚。

 今までに、何度こうして未来の温もりに救われただろうか。

 私は彼方君みたいに強くはなれなかったから、いつも未来に支えてもらっていた。

 そして。


「母さんー、未来ー。どうかしたのー? ごはんが冷めるよ?」


 ドアから入ってきたのは、未来と同い年の男の子。

 驚いたことに、あの時私のお腹にいたのは双子だったのだ。

 お腹にいるのが双子だと分かり、それが男の子と女の子だとわかった時。

 女の子には、彼方君と一緒に考えた“未来”という名前を。

 そして男の子には、“彼方”という名前をつけようと思った。

 お父さんもお母さんも賛成してくれ、二人の名前は決まった。

 孫の名前をつけることができなかったお父さんが落ち込んでいたのが、少し可笑しかった。


「母さん、未来……何かあった?」

「ううん、なんでもないよ。ちょっと、怖い夢を見ただけ」


 私の言葉に、彼方が少し顔をしかめる。

 けれどすぐになんでもなかったように元の表情に戻って言った。


「そ。ならいいけど。ほら、未来。台所に行ってお祖母ちゃんのお手伝いしよう。母さんも早くね?」

「ん、分かった。すぐに行くね」

「早くねー? 行くぞ、未来」

「わわ、おにいちゃんまってー」


 そう言って彼方は、未来を連れて行った。

 彼方は、未来よりもさらに聡明で、大人びていた。

 未来は感受性は鋭いものの、その言動は同い年のこと比べても若干ゆったりとしたところがある。

 けれど彼方は、時に3,4歳も年上に見られることすらある。

 最近では耕介君が師範代を勤める道場で、空手を習い始めたりもしていた。

 そうして彼方に教えている耕介君が言うには、きっと男である自分が、私と未来を守ろうと思っているのだろうとの事だった。

 そして多分、それは的を射ているのだろう。

 彼方の行動の端々に、自分を強く律し、大人であろうとしているのが見え隠れしていた。

 そしてそれは、彼方君にそっくりだった。


「さあ、何時までもこうしてはいられないね」


 一言呟き、ベッドから降りる。

 チェストから着替えを取り出し、手早く着替えた。

 鏡台の前に座って、見苦しくない程度に髪を整え、一房だけの三つ編みを作る。


「母さん、まだかー?」

「はーい、今行くよー」


 彼方に答えつつ、台所へ向かう。

 彼方君が逝ってしまったあの後、私は合格していた大学には進学しなかった。

 未来と彼方を出産するだけなら、一年休学するだけでも良かった。

 けれど、私はそれよりも別の道を見つけたから。

 だから私は、一年浪人をする道を選び、二人の出産と、その育児と平行して勉強を続けた。

 それはとても大変だったけれど、とても充実した日々だった。

 そして、私は今、医大に通い、医者を目指している。

 そのせいで、お母さんやお父さんにも負担をかけてしまっている。
 
 子供たちを構ってあげられる時間も随分犠牲になってしまっている。

 けれど子供達は、決して私を責めようとはしない。

 それどころか、一生懸命応援してくれる。

 きっと寂しいはずなのに。

 そんなそぶりは全く見せない。

 だから私は、今はそれに甘えてる。

 自分の決めた道を歩くために。

 さあ、今日も一日が始まる。

 彼方君、見てくれていますか?

 泣いてしまいそうな時もあるけれど、それでも私は前に進んでいます。

 あなたと交わした約束を守るために。

 だからどうか。

 どうか、私たちの子供が真っ直ぐにいられるよう、私が真っ直ぐにいられるよう、見守っていて下さい。

 そう心の中で祈り、私は今日も精一杯に生きる。

 
 











主題『こなたより、はるかみらいへ』








 満開の桜並木を一人で歩く。

 一緒に入学式を迎えた兄は、一人でさっさと帰ってしまった。


「もう、兄さんも待っていてくれれば良いのに」


 私が兄さんにおいていかれた理由は単純だった。

 入学式の後、溢れかえっていたサークル勧誘に捉まっていたからだ。

 私の優秀な兄は、そういう所の手際も非常に良くて一人ですいすいと帰ってしまった。

 やらせればなんでも出来るくせに、きっと高校の頃と同じで帰宅部を決め込むつもりなんだろう。

 ……まぁ、帰宅部は私も一緒だろうけど。

 そも、サークル活動なんてしている時間があるのならば、バイトに精を出す。

 私の家庭は所謂母子家庭だ。

 父さんは、私と双子の兄である彼方が生まれる前にガンでなくなっている。

 お母さんと同い年だったというから、18歳という若さで逝ってしまったということになる。

 その歳で結婚して、私たちを産み、今も一人身を通しているお母さんの苦労はいかばかりのものか。

 私には到底計り知ることなんて出来ないし、それを知ったところで何が出来るわけでもない。

 だから私は私に出来ることでお母さんを手伝うんだ。


「あの、すみません」


 そんな事を考えながら歩いていると、唐突に声をかけられた。

 美しく透き通った、ソプラノボイス。

 足を止め、声の主を見てみれば、成る程声にふさわしい美貌の持ち主だった。

 砂金をまぶした絹糸のように細く滑らかな、風をはらんで柔らかくなびく髪。

 その人はまるで、金色に咲き誇る桜のように見えた。

 顔を形作るパーツもそれぞれがこれ以上ないほどに整っている。

 なかでもとりわけ目立つのが、その瞳。

 深く澄んだ青色は、まるでサファイアのよう。

 見た感じ、私と同じくらいの歳に見えるけれど、その瞳が湛えた静謐な知性は、まるで永い時を歩んできた賢者のようで。

 気が付けば私は、吸い込まれるようにその人に見入っていた。


「あなたは、『遙 未来』さんではありませんか?」

「え? あ、はい……そうですけど」


 突然私の名前を呼ばれて驚く。

 何故私の名前を知っているのだろうか。

 これほど印象深い人だ、一度でも会ったことがあるのなら多分忘れている事なんてないと思うけれど。

 少々訝しく思いながらも、私は尋ねた。


「あの……失礼ですけど、何処かでお会いしたことはありますか?」

「ああ、いいえ。すみません、突然すぎましたね」


 女性が優雅に礼をする。

 その様はとても洗練されていて、まるで映画のワンシーンのようだった。


「はじめまして。私はクリステラ。クリステラ=V=マリーと申します」

「クリステラ……さん?」

「はい。宜しければクリス、とお呼び下さい。近しい者達は、皆そう呼びますので」

「はぁ……」


 とりあえず自己紹介されたが、私には何がなにやらさっぱりだ。

 クリス、さんも『はじめまして』と言っているし、初対面なのは間違いないようだけれど……。


「未来、と呼ばせていただいても構いませんか?」

「あ、はい」

「それでは、お言葉に甘えさせていただきますね」


 そう言ってにっこりとクリスさんが微笑む。

 それは同性の私から見てもとても魅力的で、思わず赤面してしまった。


「あ、あの、それでっ。わ、私に何か……」


 動揺して声が裏返ってしまった。

 うう、恥ずかしい……。


「ああ、そうでした。すみません、あまりに懐かしく感じたものでつい……」

「懐かしい……? えと、初対面なんですよね……?」

「はい、初めてです。けれど、私はあなたのお父様にお世話になったことがありまして」

「おとう、さん……に?」

「ええ。あなたの持つ雰囲気は、本当に彼方に、あなたのお父様によく似ていらっしゃいます」


 クリスさんから聞かされた驚くべき言葉。

 私のお父さんを知っていて、尚且つそれをしっかり覚えているとなると、クリスさんは私よりかなり年上ということになる。

 そしてもう一つ気になることがあった。


「あの、失礼ですが父との関係は?」

「ふふ、そう警戒なさらないで下さい。私はあなたのお父様に振られた身ですから」


 ……。

 絶句。

 お父さんは、この美女を袖にしてお母さんを選んだのか。

 確かにお母さんも綺麗だとは思うけれど、この人は別格だ。

 よくお母さんはこの人に勝てたなぁ……。

 いや、まて。

 しかしお父さんが生きていた時この人はまだ子供だったんじゃあ……?

 少し混乱してきてしまった。

 そんな茹ったことを考えながら目の前の美女の顔を見ていると、クリスさんは少しだけ頬を染めて言葉を継いだ。


「私は彼方との約束を果たすため、あなたに会いに来たのです」

「約束……?」

「はい、彼方からあなたへ向けた手紙を預かっています」

「手紙……。私宛に?」

「はい」

「えと、兄には……」

「彼方は生まれてくる子供が双子だと知る前に亡くなりましたから。

 ただ、男の子でも女の子でも、生まれてくる子には“未来”と名づける、と決めていたそうです」


 そういえばお母さんから聞いたことがあった。

 あれは小学校の時、作文で『自分の名前の由来』というテーマが出題された時のことだ。

 その時私は、お母さんから自分の名前の意味と、そして兄さんがお父さんと同じ名前である理由を知ったのだ。


「それでは、未来。これを」

「……これが?」

「はい。あなたのお父様、彼方より預かっていた手紙です。

 世界を一回りしてみて、またこの地に戻ってきた時に、もし機会があれば渡してくれ、と。

 私が言付けられた物です」

「世界を、一回り?」

「はい」


 私の目の前で、華のような笑みを浮かべているクリスさんは、一体いくつなのだろうか。

 ここまで来ると全くもって想像の埒外だ。


「それでは、私はこれで」

「え、もう行ってしまうんですか?」

「はい」


 唐突な出会いと同じくらい、唐突な別れの言葉。

 少し寂しく感じた。


「とは言え、もう少しこの街に留まるつもりですし、事と次第によっては、長く住むかもしれません。

 この街はとても良い街ですし。ですから、また会う機会もあるかもしれません」

「そう……そうですか」

「はい。それでは、未来。ごきげんよう」

「あ、はい。さようなら、クリスさん。手紙、ありがとう御座いました!」


 そう言って、クリスさんは手を振り、桜並木を歩いていった。

 姿が見えなくなるまで見送って、私も家路につく。


「お父さんからの手紙、か……。どんな内容なんだろうなぁ」


 考えるのは受け取った手紙の内容。

 とりあえず帰って読んで、それからお母さんとお話しよう。


 ザァァァァァァ――。


 暖かな風が吹きぬけた。


「わあぁぁ!」


 桜の花びらが舞い散る。

 まるで、空から降り注ぐように。

 私を、世界を、優しい桜色の雨が包み込む。


「綺麗……」


 我を忘れて魅入られる。

 ようやく花吹雪も落ち着いて、弾んだ胸を押さえる。


「ああ、何か良いことがありそうっ」


 弾む心を抱えて、私は家への道を駆け出した。








































主題・裏『はるかかなたより、とわのこなたへと』





 ――――――未来がクリスと出逢う、三十分程前。





 僕は何かに導かれるように、桜並木を歩いていた。

 双子の妹と一緒に合格した大学の、入学式の帰り道。

 人の感情には聡いくせに、妙にトロい所のある妹はサークル勧誘に捉まっていたのでほったらかしてきた。

 まぁ、あのくらいは自分で切り抜けてもらわないと。

 普段は『シスコン』と呼ばれている僕だが、別にいつも甘やかしているわけではない。

 それに今日は。

 なにか、奇妙な『予感』があったのだ。

 僕は幼い頃から、不思議な夢を良く見た。

 『きんいろにさきほこるさくら』の夢だ。

 それが何なのか、全く分からなかったけれど、それでもそのイメージは僕の心の一番深いところに確りと根付いていた。

 とても大切で、どこか懐かしいイメージ。

 そして同時に。

 僕は、僕が生まれる前に死んだはずの、父さんの思い出を『知っていた』。

 このことは、誰にも話していない。

 妹はおろか、母さんにでさえ。

 話しても不気味がられるか、頭がおかしいと思われるだけだ。

 そして、このことを伝えるべき相手は、決まっている気がするから。

 
 ザァァァァァァ――。


 春の薫りをふんだんに含んだ風が吹きぬけた。

 満開の桜の花びらが風に攫われ、視界を埋める。

 そして、その隙間から。

 僕の目に映ったのは。

 まさしく、『きんいろにさきほこるさくら』だった。

 どくん、と。

 瞬間的に脳裏に浮き上がってくる無数のイメージ。

 気が付けば僕は走り出していた。


「クリスっ!!」


 そして、知るはずも無い“その人”の名を叫ぶ。


「……え? か、なた?」


 美しい金髪の女性が、目を丸くしてこちらを見ている。

 ああ、彼女だ。

 いつも夢に見ていたのは、間違いなく彼女なのだ。

 そして、僕がずっと捜し続けていたのも。

 彼女の前で立ち止まり、お辞儀を一つ。


「初めまして、お嬢さん。僕の名前は彼方。遙 彼方です。宜しければ貴女のお名前をお教えいただけませんか?」


 微笑、問いかける。


「ぁ……クリス。クリステラ=V=マリー、です」


 先ほど脳裏に浮かんだ名前と同じ。

 我知らず胸が高鳴る。


「クリス、と呼ばせてもらっても良いかな? 僕のことも彼方で構わないから」

「は、い……」


 クリスはまだ、事態が飲み込めていないようだ。

 そして、先程僕が名乗る前に僕の名前を呟いたことから推測すれば。

 彼女は恐らく父さんの近しい知り合いだろう。

 僕は父さんの若い頃に瓜二つだ。

 いや、若いころも何も父さんは今の僕と同じ歳でこの世を去ったのだけれど。

 とにかく、僕自身写真でも確認したが、全く見分けが付かないほどなのだ。

 それぐらい僕と父は良く似ていた。


「それでクリス、ここで何をしているんだい?」

「人を、人を捜しています」

「ふむ、それはひょっとして『遙 未来』?」

「……はい、そうです」


 ふむ、と。

 一人納得する。

 成る程、成る程。


「だったらここで待っていれば、そのうち通るはずだよ。父さんのことを知っているなら見れば分かるだろうし」

「あ、はい……」

「それまでの間、ちょっと僕の話に付き合ってくれないかな?」


 そう切り出す。


「はぁ、構いませんけれど……」

「それは良かった」


 微笑む。

 彼女は頬を染めて俯いてしまった。

 まぁ、気にせず話を続けることにする。

 未来が来る前に退散したいしな。


「僕はね、幼い頃から良く見る夢があるんだ」

「夢、ですか?」

「うん。内容をはっきりと覚えているわけじゃないんだ。でも、共通してるイメージがある」

「イメージ?」

「そう、イメージ。『きんいろにさきほこるさくら』のイメージだ」

「えっ……?」


 顔を上げたクリスが目を丸くする。


「それは」

「うん、きっと君のことなんだと思う」

「でもっ」

「でも、僕と君が会うのは今日が初めてだ。そうだよね?」

「……はい」

「うん、僕もそこが不思議なんだ。母さんからも、周りの人たちからも、あなたらしき人のことを聞かされた記憶は全く無い。

 けれど、僕は夢に何度も見た。何故か、君のことを知っていた。そして、今日に至っては。『予感』がしてた」

「予感?」


 クリスが鸚鵡返しに尋ねる。


「うん。なんともいえないものだったけれど、でも、確かな『予感』だった。

 そして、それに導かれるままに、君に出会った。運命だね?」


 そう言って僕は笑う。


「ねぇ、クリスが今まで何をしていたのか、聞いても良いかな?」

「あ……はい」

 
 僕の問いかけに肯定の意を返したクリスは、一つ息をついてゆっくりと話し始めた。


「私は、彼方が、あなたのお父様が亡くなられてから、世界をぐるっと回ってきました。

 あなたのお父様に最後に伝えたとおりに。世界を回って、楽しいことを捜しました」

「楽しいこと、みつかったかい?」

「いいえ」


 僕の問いにかぶりを振る。


「そか」

「はい。私にとって、この街で過ごしたほんの数週間が、あなたのお父様達と共にあった時間こそが、

 何よりも楽しいことでした」


 クリスが言葉を続ける。


「ですからまた、ここに戻ってきました。それに、あなたのお父様との約束もありましたし」

「約束?」

「はい、手紙を預かっているのです。未来さん宛に。生憎彼は、佳苗さんのお腹のお子が双子だと知る前に逝ってしまいましたから」

「僕には無いわけだね」

「はい……」


 クリスはしゅんとして項垂れる。


「わぁっ、なんで君が落ち込むのさ」

「だって」

「君が落ち込む必要なんてないじゃないか。分からなかった物はどうしようもないのだし。誰が悪いわけでもないよ」


 そう言ってクリスの頭を撫でた。

 柔らかい金髪の感触が、とても心地よい。


「彼方……」


 クリスが蕩けそうな笑みで僕を見ている。

 これは、マズい。

 こんな魅力的な顔を見せられたら……。


 ドクンッ!!


 心臓が高鳴る。

 それと同時に、脳裏にまたイメージの奔流が湧き上がる。



『僕は君と歩むことは出来なかったけれど。でも、きっと何処かに、君の全てを受け止めてくれる人がいるよ』


 
『もしぐるっと回っても、それでも駄目だったら、今度こそ僕が貰ってやるかも知れんぞ? だから、頑張れ!』


 ああ、そういうことなのだろうか。

 だとすれば、僕がここにいる意味は……!


「なぁクリス。君は世界をぐるっと回ってみたけれど、君の全てを受け止めてくれる人にも、

 ずっとそこに居たいと思えるような楽しいことにも、出逢えなかったんだな?」

「はい。私を受け止めてくれる人など……っ!? 彼方、どうして、それを……!?」

「あは、あはは、あっははははははははっっ!! だ、だったら僕も発言の責任をとらなきゃな。

 とは言え、僕が直接言ったわけでもないしな。少し、執行猶予をくれるかい?」

「彼方……あなたは、いったい……?」


 クリスが揺れる瞳で僕を見つめる。

 だから僕は、精一杯やさしい笑顔をしてクリスを見た。


「そうだね、とりあえず。改めて君のことを知るための時間が欲しいな。君と共に永遠を歩いていくかどうかはそれから決める。

 それでどうだろうか、吸血鬼のお姫様?」

「彼方……? 貴方は、『彼方』なのですか?」

「それはどうだろうね。そうとも言えるし、違うのかもしれない。ただ、僕が思うにね。強い想いは受け継がれる物なんじゃないかな、きっと。

 吸血鬼や魔物や、それを狩る人々が存在するんだ。だったら、父の姿と想いをそっくり受け継いだ息子が居たって良いとは思わないかい?」


 僕は笑う。

 楽しくてたまらなかった。

 そして、これからはもっと楽しくなるだろう。

 もしも、彼女と共に歩くと決めれば、僕は多くの物を失うだろう。

 けれど、僕はそう簡単にあきらめるつもりはない。

 何一つ失わずに済む道を見つけてやる。

 そんな道がないと言うのならば、作ってしまえば良い。

 全てを失わずに済む、なんて都合の良いものはないかもしれないけれど。

 それでも僕は、その理想を追いかけよう。

 何はともあれ。

 まずやるべきことは。


「あはははははっ! クリス、これから宜しくっ!!」

「はい……はいっ! よろしくお願いします、彼方っ!!」


 笑う。

 互いに挨拶を交わし、笑いあう。

 ひとしきり笑ったところで、彼女にとりあえずの別れを告げる。


「さ、て。未来と鉢合わせしたくないから、とりあえず行くよ」

「はい」

「それじゃあ、また!」

「はい、また、すぐに!」


 ぱぁん!


 ハイタッチを交わし、ひとまず分かれる。

 僕は家への道を歩き始め。

 彼女は待ち人のためにその場に留まる。


 ザァァァァァァ――。


 また、風が吹いた。

 一旦空高く上った花びら達が、ゆっくりと降って来る。

 まるで、乾いた大地を潤す雨のように。

 永い永い旅で、疲れきったクリスの心を少しでも軽くしてくれないだろうか。

 僕はこの優しい雨にそう願いを掛ける。

 幼い頃から漠然と感じていた、僕の歩むべき道が、今はっきりと見え始めた。

 この先、きっと僕たちは、いくつもの分かれ道に出逢うだろう。

 けれど、きっと最後には、彼女と同じ道に合流する。

 そんな確信があった。

 ああ、今日は素晴らしい日だ。

 今にも走り出しそうな気持ちを抑え、僕は住みなれた街の道を、一歩ずつ踏みしめて歩き始めた。
 































アンコール 彼方より、此方へと



【僕の愛する人達へ


    初めまして、未来。僕は彼方。君の父親だよ。

    と言っても、一度も会ったことがないのだからぴんと来ないかも知れないけれどね。

    君の顔を見ることも叶わず、勝手に死んでしまう、いや、君からすれば死んでしまった、かな。

    まぁ、そんなダメな父親でゴメンね。

    僕ももっと生きて、君の顔を見たかったけれど、こればっかりはどうしようもなくてね。

    さて、未来。僕は君に対して、何一つとして父親らしいことはしてやれない。

    だから、この手紙で、僕の知り得た中で、一番大切なことだけを伝えようと思う。

    『在りたいように在るということは、とても難しい』ということ。

    それは、生きるということが難しいということだと思う。

    そんな当たり前のことは分かっていると、君は笑うかもしれない。

    けれど、僕は敢えて、君に伝える。

    僕が、このことを本当に実感したのは、この命が尽きる果てが見えたときだったから。

    だからこそ、その実感し得た物の、ほんの何分の一でも良いから、それが君に伝わればと思っている。

    在りたいように在るには、他人を考えずに行動しなければならない。

    しかし、おおよそ人間は他人の感情を無視して行動することを良しとしない。

    それはどこまでも『自分』に付いてまわる、永遠のジレンマだ。

    本当に自分のしたいように生きるためには、たった一人孤島で暮らすことが必要なのかもしれない。

    でも、もしかすると、在りたい自分、というものをはきちがえているのかもしれない。

    時折、そう思うことがある。

    本当に大事なことは、例外なく成り立つはずなのだ。

    他人が居ようが居まいが、時間がどれだけあろうがなかろうが、そんなことは関係なく成り立つはずなのだ。

    それでも人は迷う。どうしても、人と時とに迷う。迷いを断ち切ることが出来ない。頭で考えた事を、こころが拒絶する。

    その当たり前の現実に、押しつぶされそうになる。

    砂時計が落ちきる前に、こころと折り合いを付かなければならない。

    そうでなければ、生きることにならない。諾々と、起きて、食べて、寝る、そんな生きるためだけの人生など願い下げだ。

    生きているうちから死んでいるようなものだ。

    もっと、違う人生を。

    それはきっと……。

    平凡で幸せな日々を無限に生きるように。

    そう、行き着く場所は、そんな単純なことなんだ。

    けれどそれは、いよいよ失なってしまうというその時まで、気づくことすら難しい事なのだ。

    だから未来。

    君はくだらないことと思うかもしれないけれど、どうか日常を精一杯に生きて欲しい。

    それは僕に出来なかったことだから、どうか君にはかなえて欲しい。

    僕の勝手な願いだけれど、聞き届けてくれれば嬉しい。

    それじゃあ未来。

    僕の手紙はここまでだ。

    どうか、僕の大切な君と、君の大切な人たちが、幸せでありますように……。

                                                 遙 彼方より 】