学生にとっての楽園、夏休みまで後一ヶ月あまり。
季節は梅雨。梅雨を季節に数えていいのかどうかは知らないが、梅雨前線がそりゃもう頑張っている時期なのだ。
よって外は雨が止む事なく降り続いている。
じめじめしているのが嫌いなのか、或いは外で思いっきり騒げないのが嫌なのかは分からない。
分からないのだが。
「むぁああああああああああああっ!! もやもやするっ!!」
「……あのね、人の家で騒がないでくれる?」
「高校の勉強なんて将来役に立つとも思えんもの、何故にこんなに必死になってしなけりゃならんのだ!」
俺の精一杯のシャウト。むしろ魂の叫び。
「そりゃ、大学に進学する為でしょ?」
ばっさり切り捨てちゃったりしてくれるのは目の前の女の子。
「――香里! お前はそんな意気込みで悔しくないのか!! 社会に踊らされている現状から立ち上がれ!」
そんな俺の勢いに、はぁと一つ溜息をついて開いていた参考書をぱたんと閉じる香里。
「で、現状から立ち上がって具体的にはどうするつもりなのかしら? 相沢君は」
「無論! 学校の支配より立ち上がり、我等の我等による自由を勝ち取るのだ! 具体的には夏休みを二倍とかに!」
あのねぇ、と香里が深い深い溜息をついた。
「夏休みを二倍にした分だけ、自分に返ってくるのよ? それとも休みの間、自堕落でいない自信でも?」
具体的には頭は弱るし、遊び呆けて財布の中身が寒くなるし。あ、夏だから丁度いいかもね。なんて言ってくる香里。
「だとしても! なんだこの課題の量は!! 俺達は受験生なんだぞ!」
そんな俺の台詞に、ピキっと空気が凍った気がした。
「――へぇ。中間テストで散々な点数を取った挙句、補習の代わりとして出された課題が分からないと人に教えを請うておいて、その台詞」
そういうのを何ていうか知ってる? なんてにこやかに聞かれた。
「――自腹炸裂?」
「自業自得よ!! 自しか合ってない上に四字熟語にそんなの在るかぁーーーーーーーーっ!!」
その後、鼓膜が一時間ほど痛んだのは言うまでもない。
梅雨時の相沢祐一をお送りします。放送局は美坂家にて。
とりあえず、香里が落ち着くのと俺の鼓膜が復活するのがほぼ一時間。
その間に部屋を覗きにきた栞と一緒にアイス喰ったり、小腹が空いたので勝手にカップラーメンを引っ張りだして喰ったりして。
最後にコーヒーを入れて戻ってきたら、怒りでフリーズした香里の意識が再生していたというわけだ。
「ほら、コーヒーだぞ」
「……ありがと。些細なことなんだけど突っ込んでいいかしら?」
「なんでポットや豆の場所知ってるの、とか。なんで人の家の台所をすいすい使えるのか、とかなら却下だぞ」
ちなみに前者は栞に聞いたからで、後者は台所なんてどこの家もそう代わりはしないからだ。
ああ、ちなみに水瀬家は別だ。あそこの台所は秋子さんの城だから、俺が入っても理解できんモノが多い。明らかに業務用のガスコンロとか、数々の調味料とか、棚の下のジャム瓶とかな。
「……これ、凄くおいしいんだけど。相沢君、コーヒー入れられたの?」
「そっちか!」
マグカップ持ちながら上目で見つめてくる香里。純粋な疑問なのか、その瞳には曇りがない。
というかそのポーズはぐっとくるものがあるんだが、どうしたものか。
「別に、昔っから家では俺がコーヒー係だったからな」
「コーヒー係って、やけにピンポイントね」
よいしょっとクッションに座り込みながら視線を向ける。
ここで話を切ろうかとも思ったのだが、香里の瞳が好奇心で輝いている。
別に、大した話でもないんだけどな。
「ウチは両親が働いてるからな、どっちもコーヒー党なんだよ」
ちなみに俺は紅茶党なんだが。相沢ってのは大衆に反する気概があるらしいね、どうも。
例に漏れず、俺も多数決とかはあまり好きじゃない。
閑話休題。
「それで? 相沢君がコーヒーを淹れるのが上手いのとどう関係するの?」
「どっちも仕事が好きな人種でさ。ガキの頃はそれが寂しくて、それで構ってもらおうと必死になって考えたんだよ」
それが上手いコーヒーを淹れて、飲んでもらうコトだったわけだ。
最初の頃はまずいまずいって言われたけど、一年ぐらいで極意を習得したのか、そっからはずっと俺が淹れるコーヒーを飲んでたんだよな。
「へぇ……昔は可愛いところもあったのね」
「昔は余計だ。今もぷりちーな祐ちゃんだぞ」
「はいはい。じゃあ、祐ちゃんの可愛いところを再発見したところで勉強再開するわよ」
明らかに信じてない的な態度。むむむ、どうしてやろうか。
ここは作戦Dでいくか、別名『Dは駄々っ子のD作戦』とも言うのだが。
「えー、熱いしじめじめするし、やる気が起きん」
やだやだーと腕をふりまわして床を転がるという恥死しそうな点を除けば、完全無欠の作戦だ。
ちなみに水瀬家での勝率は100%だぞ。
……使った相手は秋子さんだけだが。
「ふぅ……ほら、起きなさい相沢君」
やれやれと立ち上がる香里。必然的に俺の視線は下から上に向くわけなんだが。
ちょい短めのスカートがひらっと舞って、ぱんつもろ見えな事態に!
ど、どうする祐一!
@知らん振り。役得役得。
A正直に教える。その後に命があるかどうかは分からんが。
B何事も無かったかのように立ち上がる。
……Bだ!! Bしかない、俺が生き残る為には。
「な、なんか喉渇いたなぁ!!」
――ずぼっ。
「……ずぼ?」
物凄く嫌な擬音が聞こえた気がした。というか目の前が真っ暗だ。
いや、正確には擬音は感じるもので聞こえるものじゃないし、真っ暗と言うよりもオレンジに近い色のような……。
「あ・い・ざ・わ・く・ん?」
「……香里?」
真上から香里の声。おかしいな、立ち上がろうとしたはずなのに。
いや、ちょっと待て祐一。先程から感じるこのとてつもなく嫌な予感と恐ろしい殺気は何だ?
よく考えろ、一瞬後の行動が生死を分ける状況だぞ、これは。
とりあえず、状況を把握しないといけないので、後ろを向いてみた。
ぴんくのぱん――――
「で? それがここに転がってた理由ですか?」
「うむ……どうもはっきりしないんだが。そんな感じだな、概ね」
気づいたら、外はすっかり雨も上がって宵闇。
ゆさゆさと感じる振動におきてみたら、眼前には栞の顔が。
状況説明を求められたので、覚えている限りのことを話したわけだ。
「それを天然でやる祐一さんに恐ろしさを感じるのはわたしだけでしょうか……」
「何を言う、あれは不慮の事故だ!」
「開き直るのはいいですけど、その前にもぱんつを覗いてたのは確かですよね?」
うぐぅ、痛いところを突いてくるな。さすが姉妹というべきか、口論で敵う気がしない。
「けど、香里もちょっと無防備だと思うぞ」
「……まぁ、それは否定しないですけど。でもお姉ちゃんだってそんな姿を見せるのは祐一さんの前だけですよ」
「それは――」
問おうとして、ちょんっと鼻先に指を突きつけられた。
「これ以上は自分で考えてください。わたしだってライバルに塩を送るのも限度があるんですから」
そのまま階下へ降りて行ってしまった。ちなみにここは美坂家2Fの廊下。目の前にぶら下げられた木製のプレートにはかおりんの部屋(はぁと)と彫られている。
とりあえず関係修復の為にドアをノック。栞の言ったことも気にならないって言ったら嘘になるけど、今はそれよりやることがある。
「香里? 居ないのか」
「……居ません」
めっちゃ居るし! というか拗ねてるのか、これは。ちょっと新鮮かも。
「えーっとだな……悪かった!」
「……」
無言。さすがに反応がないのは寂しい限り。だがこんなところで躓いてはいられないのが相沢祐一なのだ。
更にどんどんとドアをノックする。あまり騒がしいのはまずいと思うが、階下には栞の声のみ。ご両親はまだ帰ってきてないのだろう。
「最初のはともかく、香里のスカートの中に頭を突っ込んで振り向いた瞬間桃色ぱんつが見えたのはワザとじゃないんだ! 決して!!」
「……(扉の向こうから物凄い殺気)」
あれ……ちょっと声が大きかった、かな?
「……てへ?」
「何がてへだこのあほーーーーーーーーーーーっ!!」
ばーーーーん!! と壮大な音を立てて、香里が天岩戸ならぬ部屋の扉から飛び出してきた。
ついでに俺の首を完全に絞める高等テクつきだ。
「わざと!? わざと思い出させるように言ってるんでしょ!?」
ぶんぶんと俺の襟首をつかんで揺さぶる香里。というかそろそろ意識がやばいんですが……。
「ま、まて……おち、つけ……ぐふっ」
再び意識は闇へ……だったはずなのだが、寸前で振動が止まる。
「まったく……いつもいつもこんなのなんだから」
「げほっ……いつもながら激しい愛だな香里」
「なっ――」
「冗談だ」
「ミンチと轢死体、どちらがお望みかしら?」
それはあんまり違わないような……『何か言った?』すいませんごめんなさい。
「……まったく、状況を見て軽口は叩きなさい」
「ああ、肝に銘じとく。それと、ごめんな」
「何がよ?」
「さっきのこと。卑怯だった」
「……別に、もう気にしてない」
ぷいっとそっぽを向く香里。その横顔がちょっと赤いのは気のせいだろうか。
「よっしゃ、じゃあ勉強の続きと行くか?」
「……ええ」
赤い顔を隠すように、俯いている香里の背中を押して部屋に入る――まではよかったのだが。
見事に敷居に引っ掛かった。
ようするにコケた。ようしなくてもコケたわけだが。
「――え?」
「お――?」
しかも二人同時に。運命?
どさどさっと倒れこむようにカーペットに転がる。瞬時に香里が頭を打たないように手を挟み込んだ。
「――痛ぅ。香里、大丈夫か?」
「ああああ、あいざわくんこそ……」
良かった。どうやら無事らしい。犠牲となった俺の手も救われるというものだ。
「こっちは大丈夫。よっと……」
気合を入れて立ち上がろうとする瞬間、くいっと引っ張られる感触。
「香里? 香里さ〜ん? というか立てないんですが」
「……へ? あれ、あたし何を――っっっ!!」
ぼんっ、と呆然から一瞬で耳まで真っ赤に染めてしまう。
可愛い。素直にそう思える一瞬だった。
「そういえば香里、どうして今日は勉強を教えてくれる気になったんだ?」
「え? それはあいざわくんが先に頼んで……」
「いつもはな。でも今日は、香里のほうからだったろ?」
「……え?」
そう、今日はいつもとちょっと違った。
見開かれる香里の瞳がすぐ傍で。誘われたのも珍しくて。だから何かあるのかと、最初はちょっと緊張してたけど。
でもあまりにも普段どおりの会話だったから、すぐに忘れて。
で、気づいたら偶然でも香里を押し倒してる。
流れと行ってしまえばそれまでだけど、どうにも何かが違う感じ。
「べ、別にあたしは何も……」
顔を逸らす香里。何となく面白くないので、その頬をぷにっと突いてみる。
「……何よ」
「いや、頬赤いなと思って」
何故かじと目で睨まれる。緊張をほぐしているというのに。
「別に、あたしの頬じゃなくても相沢君には一杯いるでしょ? ほら、名雪とか栞とか」
「何でそこで名雪やら栞が出てくるのか分からんが……妬いてるのか?」
「ぶっ殺すわよ」
すんませんごめんなさい。……なんか俺、立場弱い?
「はぁ……相沢君が真面目に出来ないのはわかったけど、とりあえずどいてくれない?」
「だってほら、俺が真面目にやったら、香里が倒れるかもしれないし」
「――はぁ?」
心底疑ってますな反応。祐ちゃんちょっと悲しい。
そこまでだと逆に意地でも信じさせたくなるのが男ってモンだ。
「信じない?」
「普段の言動から照らし合わせてやり直してきなさい」
「きついなぁ、それ」
そういって香里の上から体をどける。座るために態勢を立て直す俺達。
必然的に二人の顔が接近する。
「あのさ、今日はご両親は?」
「生憎と、今日は出張で泊まり。母さんも着いて行ってるから。言ってなかった?」
「なるほど、そこで祐ちゃんとしては姉妹ど――いや冗談です、はい」
「……なんでそう落としたがるのよ」
そういう性分なんだよ。性分。
好きな女の子をからかうのも性分なら、どうしても真っ向からシリアスができないのも性分。
ついでに意地になると絶対に達成するまで気がすまないのも性分なんだ。
「だから?」
「信じない?」
「別に……一から十まで信じてないわけじゃないわよ」
「そりゃ、僥倖」
どこか嬉しそうな香里の顔に手を添える。
「……強引」
「知ってたろ?」
そのまま顔を近づける。とりあえず唇と唇は衝突コース。
「……知らないわよ、ばか」
――ちゅっと、額に。
「な――!?」
「あははは! 言ったろ? からかうのが好きだって!」
呆然としている香里を他所に、部屋を脱出。
このまま居たら命が危ないからな。
ほら、噴火が間近。5・4・3・2・1――――
「あ、ああ、あああ、あいざわぁーーーーーーーーーーーーーーーっ!!」
大噴火、っときたもんだ。
とりあえずほとぼりが冷めるまで階下に退避。と、階段の途中でしおりんとエンカウント。
「……天然ですか?」
「計算だったらとんだ策士だな、俺」
「ヒントの答えは?」
「ああ、最初から。あの時は確認しようとしただけなんだけどな。流れに身を任せるのも好きなんだよ」
そーゆーのこそ、俺らしいからな。
別に、考えなしってわけじゃないけど。
「というか、聞いてたのか?」
会話とか、諸々全部。
「趣旨返しですよ。ちょっとだけのつもりでしたけど」
何の趣旨かは聞かないでおこう、怖いし。
「そっか。ま、別に聞かれて困ることもないしな」
ついでに聞かれて困ることもな。
「……そうですか?」
今日はとことん信じられない日なのか、或いは俺の普段の言動が悪いのか。
目の前のしおりんはあたかも意外そうに見つめてきた。
「ああ、嘘は嫌いだからな」
嫌いなんであって、言ってないとはそれこそ言ってないが。
ただ、栞にはこの言葉遊びは通用しなかったようで。
「嫌いなのと、言ってないのは別ですよね?」
「……敵わないな」
時々姉以上の聡明さを感じさせるしおりん。
同時に怖さと重圧も与えてくるんだから、油断ならない相手だ。
「別に。それこそ大したことじゃない。誘われたのも本当だし、性分なのも真剣だし、ぱんつの件についてはほんとに偶然だからな。ただ――」
「ただ?」
とっっっっても楽しそうに、栞の瞳が俺を捉える。答えが分かっていて言わせるのが快感なあたり、絶対にSだ、それも重度の。
怖いから言わないけど。
「からかって誤魔化したのは……嘘かもな」
「ええ、そうでしょうとも。わたしがこんなにアプローチを掛けてるのにちっとも靡いてくれないんですから」
男を靡かせようって考えがそも間違いなことに気づけ、しおりん。
「……まったく、最初に出会った頃に比べて天と地だな」
「病弱でしたから、色々押さえつけてたんですよ」
にっこりと、何の影も見せない笑顔。
逆にそれが恐ろしかったりする辺り、本当に鼻持ちならない相手だと思う。
「まぁ、元気になったんだから良しとするか」
「祐一さん? どこに行くんですか?」
とんとんと階段を降り出した俺の背中に声が掛かる。
さて、今度はどんな落とし方をしてやろうか――
「――トイレ。栞の姉ちゃんに殴られない内に鍵の掛かるとこに逃げ込んどく」
「あはは。残念ながら、冗談では済みそうにないですね」
「む――?」
「あ、い、ざ、わぁーーーーーーーーーーっ!!」
振り返った俺の視界には、力一杯麦茶のボトルを握り締めた香里!
まずい、この距離だと一足で追いつかれる!?
「さらばだ栞、香里っ!!」
「待ちなさいーーーーーーーーーーーーーっ!!」
さて、どうやって逃げおおせようか。
折角偶然とは言え招かれたんだから、楽しんで行かないとな――――。
どたたたた、と家中を走り回る気配。
はぁ、と一つ溜息を付く。どうやってお父さんとお母さんに説明したものか。
あの二人が追いかけっこなんてしたら家中滅茶苦茶だ。
お姉ちゃんも理性が効いてるときは聡明な姉なのに、一歩外れるととたんにへたれになるんだから。
「今日も今日とて世界は回る……恋も遊びも一生懸命、か」
by相沢祐一と、前に聞かされた言葉だ。
いたく感銘を受けた覚えがある。お姉ちゃんは呆れた顔してたけど。
そう、手持ちのカードで今出来ることを精一杯やればいいのだ。
「やっぱり、お姉ちゃんに祐一さんを独り占めにさせるのは気に入りませんね」
軽快に、且つ慎重に。
その一歩を踏み出した。
――そんな梅雨の一時。
誰とも結ばれなかった、相沢祐一の未来の一筋――