あの時、マスターを救うために全ての力を使った私は確かに『リコ・リス』という存在を失った。
それからどれくらいの時が経ったのだろう。
気がつけば目の前に広がる光景は蒼穹の空だった。
(どういう……こと)
辺りを見回せばそこが空地だと知れた。
私は、自分に起きている事態もわからずにただ歩き出した。
何故か、そうしなければいけない気がしたから。
道を歩きながら、気が付く。
ここは、この世界はアヴァターでは……ない。
あの人の暮らしている地球という名の世界。
蓄積された己の知識が指し示すその事実は私を驚かせた。
だが、私の歩みは止まらない。
まるで、何かに導かれるように私は『そこ』を目指していた。
「こ、こ……?」
たどりついたのはこの世界では珍しくもない建物―――確かコンビニという名前だ、だった。
何とはなしに入店し、店内をうろつく。
店内には子供や若い男女、老人まで様々な人たちがいた。
その様子は皆、平和そうで、私にアヴァターとの違いを如実に感じさせた。
ふと、気が付く。
今更とも言えるのだが、自分の服装があの時のものとは違っている。
(これは―――っ!?)
思考の海に沈もうとした、その瞬間だった。
懐かしい、気配。
時間に直せばおそらくそれほど長い時間というわけではない。
しかし、私にとってその気配は酷く懐かしく、そしてとても愛しいもので
気がつけば私は出口へと向かっていた。
視線の先には一組の男女。
男の方は赤い装飾の本を愛しげに見つめ、女の方はそんな男を不思議そうに見ていた。
トクン、トクン、トクン
私の鼓動が激しく音を鳴らす。
喉はカラカラに渇き、体中の熱が全て集まったかのように頬が熱い。
胸が、苦しい。
「……!」
ドアが、開いた。
我知らず緊張していた私はそのままドアの向こうにいた男性とぶつかってしまう。
そしてその衝撃で男性の持っていた赤い本が地面に落ちた。
「あ……」
「あ、すみません……すぐに拾いますから」
私は地面に手を伸ばそうとして、その手を止めた。
何故なら、男性が私を見つめていたから。
驚いた表情で、でもそれは一瞬のことで
次の瞬間には満面の笑顔を浮かべて「みつけた……」と呟いて
世界で一番大好きなあの人が、目の前に、私のことを忘れずに立っていてくれたから―――――
「お嬢さん、俺と交換日記なんかしない?」
あの人がそう言いながら悪戯っぽく笑う。
答えなんて決まっている。
私は、そのためにきっとここにいるのだから。
だから、私も笑みを浮かべる。
きっとそのときの笑顔は、今までで一番のものだっただろう。
「…………はい、マスター!」
雲間に差し込む陽光のように
「よし、お客さんもひけたし時間も過ぎたし、あがってもいいよリコちゃん」
「あ、はい」
見るものが憂鬱になりそうなくらいの雨の日、私は百花屋という女性向けの喫茶店でバイトをしていた。
あの日、マスターと再会した後は大混乱だった。
感極まってマスターに抱きついた私の姿に未亜さんが放心したり
次の瞬間には我を取り戻した未亜さんの尋問をマスターが受けることになったり(未亜さんの第一声は『お兄ちゃんのロリコン!』だった)
何故か私の体が人間体になっていたことが判明したり
私の着ていた服が近所のお嬢様学校のものであると発覚したり
(今思えばあれって物凄く目立ってたんですよね。往来で男一人に女二人が大騒ぎだったんですから)
周りの人には痴話喧嘩でもしていたと思われたに違いない。
今更ながら恥ずかしい……
私は頬を薄く染めながら更衣室のノブを引いた。
突然この世界に現れた形になる私に戸籍や身寄りなどというものが存在するはずがない。
しかも今はなんの力もないただの人間である私がこの世界で一人で暮らしていけるはずもなく
当然のようにマスターが私を引き取ると宣言した。
無論、未亜さんがそんなことを簡単に了承するはずもなく、大いに難色を示したのは言うまでもない。
(でも、あの時のマスターは凛々しかったですね)
先ほどとは別の意味で頬を染めながら私は着がえる。
怪しさの塊とも言える私を毅然と庇い続け、一緒に暮らすことを未亜さんについに同意させたマスター。
「この娘は俺の大切な人なんだ」と未亜さんに言い切ったあの勇姿は今でも忘れられません。
……未亜さんには、悪いことをしたと思うのだけれど。
ちなみに何故私がバイトをしているかというと、ズバリお金のためだ。
元々マスターと未亜さんは親戚の家に厄介になっていたのだが、前から二人暮しの計画を練っていたらしく
私を引き取ることを切欠に、思い切って2LDKの部屋を借りたのだ。
だが、元々の計画でも予算が厳しかったのに、私という同居人が増えるのだから当然お金は厳しくなる。
そこで手の空いていた私がバイトをすることになったのだ。
幸い、マスターのつてでバイト先はすぐに見つかった。
マスターは私を働かせることを渋っていたのだが、現実的な問題としてお金がないのだから最後には渋々納得してくれた。
効率的に考えて私が働くことは間違いではないのだが、マスターいわく「男のプライド」らしい。
未亜さんは呆れた目でそんなマスターを見ていたのだが。
「店長、お疲れ様です」
「ああ、お疲れ様リコちゃん」
着がえを終えた私に店長さんが声をかけてくれた。
マスターの亡くなったご両親の友人であるこの女性は、マスターや未亜さんを実の子供のように可愛がっている。
また、マスターの紹介とはいえ素性の知れない私をあっさりと雇ってくれたのだから実に良い人だと思う。
最近は私のことも娘のように思ってくれているらしく、親というものが存在しないはずの私に温もりを教えてくれた人でもある。
「大河くんの恋人なら私の娘も当然よ!」と笑いながら大声で言うのは恥ずかしいのでやめて欲しいのだけれど。
「今日はどうするの? 直帰? お迎え? それとも……」
「いえ、今日は待つ日です」
「そう。じゃああっちの窓際の席で待ってていいわよ。雨のせいでどうせお客さんも少ないし」
店長の好意にお礼を言いながら席につく。
外は相変わらずの雨だった。
アヴァターにも雨はもちろんあるのだが、基本的に外に出ることが少なかった私には目に映る雨が何か珍しかった。
(この世界はこんなにも平和……)
こんな日はふと昔に思いを馳せてしまう。
書の精霊として生を受けた私の一生はずっと悲しみの雨が降っていた。
裏切り、嫉妬、憎悪、悲観、絶望、失望。
一瞬の正の感情と悠久の負の感情の連鎖。
世界の全てを知るが故に私はその役割に苦しんできた。
けど、今私はこんなにも平和な世界にいる。
何の役割も持たず、ただ一人の人間として生を謳歌している。
もちろん、気になることがないわけではない。
私がいなくなった後の救世主システムはどうなったのか。
アヴァターはこれからどうなるのか。
別れた仲間達は今どうしているのか。
そして、自分はここにいていいのか。
そんなことを考えてしまう自分を自嘲する。
今、私は幸せで。
それは誰にも遠慮する必要のないことだとマスターに言われたのだが、一人になるとどうにも考えずにはいられないらしい。
不安なのだと言ってしまえばそれまでなのだが……
と、そんなことを考えていると店長さんがやってきた。
手にはビッグサイズのパフェ。
この世界に来てから食べたものの中で一番の好物だ。
「はい、どーぞ」
「あの……?」
「いつもリコちゃんはがんばってくれているからね、サービスよサービス」
「でも」
「いいからいいから。それになんか不景気な顔してたじゃない? それ食べて元気出してね、なんせリコちゃんはうちの看板娘なんだし」
そう言いながら豪快に笑う店長さん。
私はそんな店長さんに感謝の言葉を言い、ゆっくりとスプーンに手をのばした。
一口食べると上品な甘味が口一杯に広がる。
「美味しいです……」
「でしょ? しかしリコちゃんは本当に美味しそうに食べてくれるねぇ。作り甲斐があるよ」
「美味しいですから」
「うんうん、嬉しいねぇ。でもその笑顔を接客の時にも出せればもっといいんだけどね?」
「あぅ……」
店長さんの言葉に私は少しうなだれた。
店長さん曰く接客の時の私の表情は固いらしい。
元々人との関わりを避けてきた私には、接客業はなかなかの難仕事だ。
マスターや未亜さんのように親しい人ならばともかく、名前も知らない人と接するのはまだ慣れない。
百花屋は女性客がメインなのでまだ良いのだが、たまに来る男性客にはどうしても苦手意識が働いてしまう。
この前など、ナンパされてしまったので警戒心まで出てくる始末だ。
まあ、ナンパしてきた人はたまたま店に来ていたマスターが追い払ってくれたので嬉しさもあったのだけど。
「けどまあ、接客の振る舞いとかは段々サマになってきたと思うよ? リコちゃんは飲み込みが早いしね」
「本当ですか?」
「ええ。最初はとんちんかんなことばっかするから少し不安だったんだけどね、ふふふ」
百花屋でのバイトはお金のためということがメインなのだが、その他にも社交性と常識を学ぶことが目的にある。
社交性はさっきも言った通りで、常識に関してはマスターの要望だ。
私は元が書の精霊であっただけに知識だけなら膨大にある。
しかし、知識があるこことそれを実践することは別だ。
現に食物摂取もマスターとデートするまでは単なるエネルギー補充の意味あいしかなかったのだから。
そんな私は二人と暮らし始めてすぐ、いかに自分が人として未熟なのか思い知らされた。
幸い、慣れるのは早かったので今はそれほど問題は起きなくなったが、マスターや未亜さんには本当に迷惑をかけてしまった。
「けどまあ流石は大河くんの推薦だね。そんなリコちゃんも今では立派な看板娘なんだし」
「そんなことないです、まだまだです」
「しかし大河くんはよくリコちゃんみたいな良い娘をひっかけることができたね……今でも不思議に思うわ」
「マス……大河さんは、素敵な人ですよ。私はあの人に出会えたことを神様に感謝しています」
そう、本当の意味で神様がいるのなら。
私はどんなに感謝しても足りない。
私をマスターに出会わせてくれて。
私を人間にしてくれて。
マスターとまた出会わせてくれたのだから。
とはいえ、マスターは神様という表現がお気に召さないらしく、しきりに
「愛の力が奇跡を起こしたんだ!」
と、私に言うのだけど。
「いやー、そこまでリコちゃんに想ってもらえるなんて大河くんも果報者ね」
「そんな……」
「まあ、少し前から大河くんもなんか雰囲気が変わったっていうか……モテるようになってはいたけどね」
店長さんの「おっと、これは失言だった?」という言葉に私は笑みを返した。
心中は実のところあまり穏やかではなかったのだけれど。
マスターはどうやら最近女の子から人気があるらしい。
不機嫌そうな顔で未亜さんが私に教えてくれたので間違いはないだろう。
現に、私のバイトの同僚の中にもマスターに気がある女性がいる。
話を吟味すると、どうやらマスターがモテるようになったのはアヴァターから帰ってきてからのことらしい。
確かにあれだけの経験をつんで帰ってきたのだからマスターがそこらの男性より魅力的に見えるのは当たり前なのだが……
私としてはあまり面白いことではないのは事実だ。
もちろん、自分の想い人が良く思われているのはとても嬉しいことなのだけれど。
「ふふっ、リコちゃん、心配?」
「いえ、私はマ……大河さんを信じていますから」
「あらあら、ご馳走様」
くすくすと笑う店長さんに、私は少しだけ自分の言った言葉に恥ずかしくなる。
だが、実際に浮気ということに関しては私は心配していない。
マスターはあれだけ女の子に対して軽かったのが嘘だったかのように身持ちが固くなっていたのだ。
それもどうやらアヴァターから帰ってきた時期と一致するようで……
原因に心当たりがある私としては恥ずかしさと嬉しさがこみ上げてくるのだ。
今では、私の方がマスターの隣に立っていることに不安を感じるくらいである。
からんからん
半分ほどパフェを食べ終わったところでドアのベルが店内に鳴り響く。
ドアの方に目を向けるとそこには人の悪い笑顔の店長さんとその隣を挨拶しながら通り抜けていく私の大切な人。
「マスター」
「おう、リコ。待ったか?」
「いえ」
「悪いな、少し後片付けがな……ってリコ、人前でマスターっていうなって」
「あ、すみません……」
苦笑してマスターが私をたしなめる。
アヴァターではともかく、この世界でマスターをマスターと呼称するのは色々問題があるのだ。
未亜さんや店長さんに聞かれた時のマスターの顔色は、ある意味モンスターと対峙したときよりも悪かったのを覚えている。
私としてはマスターはマスター以外の何者でもないし、何よりこの呼び方は私だけのもの。
例えマスターの頼みでも譲ることは出来なかった。
あまりに必死なマスターの表情に、譲歩案として二人っきりの時以外は「大河さん」ということになったのだけれど。
それでも時々うっかり口に出てしまうのでマスターは周囲の人から誤解を受けまくっているらしい。
実際は、誤解ではないのだけれど……
「はい、おひや。それと大河くん、お疲れ様」
「あ、ども」
「相変わらず頑張ってるわねぇ大河くん」
「一家の大黒柱ですから」
「あはは、でも無理は駄目よ? 体調でも崩そうものなら今は未亜ちゃんに加えてリコちゃんも心配要員に加わったんだから」
「大丈夫ですって。これでも俺は世界を救った男ですよ?」
な? と私に自信たっぷりの笑みを送るマスター。
私としては、店長さんのいうように無理はしてほしくないのだけれど、マスターにそんな様子が見られないので口をつむぐしかない。
私は心配と頼もしさを半々に含んだ笑顔をマスターに向けながらパフェの残りにスプーンをのば――――
「あら頼もしい。じゃあ夜の生活のほうもバッチリよね? それだけ体力が余っているのなら」
―――そうとしてスプーンを手から落とした。
「おばさん、それ下ネタだから。ほら、リコが真っ赤になったじゃないか」
「でも不便じゃない? 隣の部屋には未亜ちゃんが寝てるでしょ?」
「話を聞けこのアマ」
頭を抱えるマスターを尻目に店長さんは軽快に話を進めていく。
2LDKである私たちが住んでいる部屋では、私とマスターは相部屋だ。
当然、未亜さんは難色を示したがマスターが意見を押し切ったのである。
そうなるとマスターも若い男性なので……その……
「えー、でも未亜ちゃんからたまに愚痴られるわよ? 少しは気を使えって」
「うげっ」
マスターが店長さんの言葉に冷や汗を流す。
私はもう首まで真っ赤だ。
「ええい、この話はこれまでだっ。おばさんも店長なんだからいつまでも客に構わないの!」
「ちぇー」
「ちぇーじゃない」
しっしと店長さんを追い払うマスター。
店長さんは去り際に「ちゃんと避妊はするのよ〜」と手を振って奥へと引っ込んでいった。
……は、恥ずかしい。
「ごちそうさまでした」
「ん、それじゃあ帰るか? 未亜もそろそろ帰ってくるだろうしな」
「はい」
パフェを食べ終え、席を立つ私たち。
これから家に帰るのだ。
未亜さんの待つ、私と、マスターと、未亜さんの住む家に。
「お、まだ暗いけど……雨はやんだかな?」
マスターの言う通り、雨はほぼやみかけだった。
前に店長さんに言われたことがある。
「リコちゃんはいつも雨が降っているみたいな表情ね」と。
そして続けて言われた。
「でも、大河くんといる時は違うのね。まるで―――」
「マスター」
「ん?」
「手を……つないでもいいですか?」
「もちろん。なんなら腕を組んでもOKだぞ?」
「くすっ……それはまた今度お願いしますね」
私は単純だ。
マスターが傍にいるだけで嬉しくなる、楽しくなる、笑顔になる。
さっきまで感じていた不安なんて吹き飛んでしまう。
それはまるで雲間に光が差し込んだ時のように。
「マスター、私は……ここに、ここにいてもいいんですよね?」
「どうしたんだ急に?」
「なんとなく……です」
「当たり前だろ? 俺はもうお前を放さないって誓ったんだ。証拠だってあるしな」
そう言ってマスターはあの赤い本を取り出した。
マスターと未亜さんの運命を変えた、赤い本。
それは、もう一人の私。
だけど今は二人の交換日記に使われている。
それは証。
ずっと私がマスターの傍にいてもいいという証。
だから私は微笑む。
これから私は数多くの人と関わりを持つことになるだろう。
だって、それが人間なのだから。
だけど、この微笑みはいつだって貴方のためだけに。
「はい、いつだって私の居場所は……あなたの腕の中ですから」
雨は去り、空にはうっすらと陽光と共に虹が見え始めていた。