「雨、だ」

 ポツリと呟いた僕の言葉は、突如として天から降り注いだ豪雨によってかき消された。
 ゴンゴンと弾丸のように勢い良く、水滴が窓を何度も叩く。
 僕はその光景を、無表情に見つめていた。
 窓ガラスに手を添え、外の風景を覗き見る。雨と風に叩きつけられ、泥酔した人間のごとく揺れる木々。

「桂介(けいすけ)、どうしたの?」
「ん」

 気付いたら、隣に恋人の彩菜(あやな)が立っていた。余程僕は変な顔をしていたのか、怪訝そうにこちらの様子を窺っている。
 僕は苦笑して頭を掻き、もう一度窓を方をゆっくりと振り向いた。
 振り続ける豪雨。
 鳴り止まない雨音。

「ちょっとね。雨には、少し思い出があって」
「思い出? 何? どんなの?」
「内緒」
「えーっ、何それ!?」

 ぷぅっ、と膨れる彩菜。そんな彼女の子供っぽいところに内心微笑ましいものを感じつつ、僕は窓の外に遠い目を向けた。
 雨は、過去を郷愁させる。時間を遡る記憶。巻き戻され、再生される映像。
 ……雨の中で微笑んだ、彼女。

「人に話すことじゃない。この思い出だけは、僕の心の内にそっと秘めておきたいんだよ」
「わ、桂介ってば詩人。……でもそう言われると余計気になる」
「おいおい」
「ねぇ、何があったの? 教えてよ〜」
「駄目だって」
「ケチ。だったら、最初から言わないでよ」
「最初に尋ねたのは彩菜じゃないか」

 あれ、そうだっけ、と首を傾げる彩菜に僕はもう一度苦笑して、過去の『彼女』に思いを馳せた。
 ……ああ、とても懐かしい。もう何年前の話だろうか。確か高校に入学して、初めての夏休みだったはずだ。
 僕は思い出す。彼女のことを。彼女の名前を。



 ――――――燐(りん)のことを。













 雨色ディスティニー













「私、燐! 突然だけど、あんた、私の恋人になってみない!?」

 出会って早々、いきなりそんなぶっ飛んだ挨拶をかましてくれたのが燐だった。
 季節は夏、七月の陽気はしかし雨によって遮られ、不快感を醸し出す湿気にまみれた午後のこと。











 その日、僕はようやく始まった夏休みの初日ということもあって、浮かれ気味に外出していた。
 出る時に天気予報を見なかったのが悔やまれるが時既に遅く、午前は暑苦しく姿を見せていた太陽はいつの間にかどんよりとした曇り空に覆われ、振り出した雨に直撃したのが午後の三時頃。歩道を元気良く歩いていた僕は、数瞬で濡れ鼠と化してしまった。
 思えば、自転車にも乗らずに徒歩で遠くまで来てしまったものだ。家まで歩いて三十分はかかる道のりを、十分程走ったところで足を止める。ここまで濡れてしまっては、急いで帰ってしまってもしょうがない。幸い荷物は持ってきていないし、暑い日々が続いているのだ、雨に濡れてひんやりしながら帰るのも悪くないかもしれない。
 そう考え、僕は降り注ぐ雨の中を、踊るように歩き出した。何だか、自然に顔が綻んでくる。童心に戻るとはこの事なのかもしれない、と未成年の身で考えてみて、自分自身に苦笑した。
 周囲に人影は無い。そんなに都会でも無いこの町中でも、いつもは人が幾人か歩いているものだ。それが、今では世界に僕がただ一人きり。とても不思議な気分である。

「ぴっちぴっちじゃぶじゃぶらんらんらーん、と」

 昔習った歌を口ずさみながら、僕はいちいち水溜りを見つけてはそこに足を突っ込んだ。靴も靴下も既に濡れてぐしょぐしょなので、別段気になりはしない。本当に子供に戻ったみたいだ、と微笑が零れる。
 やがて、公園の前に差し掛かった。ここまで来れば、もう我が家はすぐそこだ。僕は少しだけ惜しい気持ちになりながら、何気なく公園の内部を覗き込み、

「……あ」

 そこに、少女が立っているのを認めた。
 公園の真ん中に、ただ一人。僕に背中を見せて、ポツンとそこに起立している。その服装は隣町の高校指定のセーラー服だ。その高校はまだ終業式が終わっていないので、今日は授業がある日のはずだ。
 サボり、なのだろうか。
 こんな冷たい雨の中、彼女は何をしているんだろう。傘も差さずに、このままでは風邪をひいてしまう。
 僕は自分のことを棚に上げてそう思い、彼女に興味を持って近づいてみた。
 近寄る足音に気付いたのか、彼女が僕の方を振り返った。長い前髪の隙間から、無表情にこちらを見ている。
 その瞬間、

「え」

 ―――何故だろう。
 僕には、彼女が泣いているように見えた。

「……」
「……」

 僕と彼女、お互いに見つめ合う。
 彼女は僕と同じくずぶ濡れで、顔も同じく雨による水滴が付着していた。彼女が涙を流していたのか、よく判別が付かない。
 何故、僕は彼女が泣いていると思ってしまったのだろう。……分からない。流れ落ちる水滴を、涙だと勘違いしたのだろうか。

「ねぇ」
「……」
「勘違いだったらごめん。……もしかして、泣いていた?」

 分からないので、聞いてみることにした。
 彼女は変わらず無表情に、僕の目を見つめている。その大きな黒い瞳は、まるで僕の心を覗き込もうとしているかのようだ。
 少し、不躾すぎただろうか。見ず知らずの他人に、突然そんなことを言われて。
 しばし、無言。やがて彼女は急に顔を弛緩させると、

「……どっちだと思う?」

 そんなことを訊ねてきた。
 僕は戸惑いつつ、彼女が表情を見せたことに安心感を覚えていた。理由は無いけど、何となく彼女が人形のような、作り物みたいな感覚を覚えていたからだ。彼女が微笑みを作ったことで、僕は彼女が人間であると、そう認識することが出来た。
 顎に手を沿え、少し思案してから、

「泣いていた、と思う」
「……どうして?」
「さぁ。何となく、寂しそうに見えたから」

 そう答える僕。そして答えはどっち、と尋ねると、

「……秘密だよ」

 と、彼女は悪戯っぽく笑顔を作った。
 何だよそれ、と膨れた僕に、彼女は微笑んだまま近寄って来る。身長差から僕を見上げる形になり、濡れた唇の艶やかさを間近に見て、僕は少しだけ心臓がドキドキした。
 問いかける、彼女。

「ね、名前は?」
「僕? 僕は桂介。君は?」

 僕が名乗り、続いて問い返すと、彼女は今までの弱々しげな、神秘的な雰囲気は何処へやら、『ニヤリ』と唇の端をひん曲げた。
 ―――瞬間、何故だか、背筋に薄ら寒いものが走る。
 突然得体の知れない悪寒に苛まれる僕の気持ちを知ってか知らずか、急激に元気さを醸し出した彼女は失礼にも僕に向かって右手の人差し指を突き付け、

「私、燐! 突然だけど、あんた、私の恋人になってみない!?」
「はぁ!?」

 季節は夏、七月の陽気はしかし雨によって遮られ、不快感を醸し出す湿気にまみれた午後のこと。

 僕と燐は、こうして出会ったのだった。
























 ジリリリリリリリーン!!!
 目覚まし時計の大音量が耳朶に響く。僕は軽く寝返りを打つと、布団をモゾモゾと這い出し、瞼も開かぬまま右手を突き出して目覚ましのスイッチを切った。
 カチッ。
 小気味の良い音と共に、部屋の中に静寂が舞い戻る。

「ふあ〜ぁ……」

 大きな欠伸が漏れた。未だ全身を包み込む睡魔の誘惑を無視して上体を起こし、目を擦る。
 左手を宙に彷徨わせてカーテンの端を掴むと、思い切り横に引っ張った。
 シャーッ!!!

「う……」

 窓から降り注ぐ日の光が、閉じた瞼を貫通して僕の瞳に突き刺さる。
 右手で顔を覆い、そうしてようやく僕は目を開けた。
 視界の上半分には僕の右の掌。下半分には浅黄色の布団。ゆっくりと、脳が活動を開始する。

「朝か……」

 そんな当たり前の事を一人ごちて、僕はゆっくりと立ち上がった。
 時計を見れば、昨日セットした八時から二分だけ過ぎた八時二分。
 今日も、一日が、始まる。














 ……昨日は摩訶不思議な一日だった。
 僕に突然告白らしきものをした燐はその後、僕からOKどころか返事をする前に強引に僕の携帯電話の番号を聞き出すと、その場から「じゃーね」と手を振り振り笑顔で帰ってしまったのだ。
 僕は一体全体何が起こったのか理解出来ずに唖然呆然、硬直した脳味噌と肉体がようやく活動を再開した頃には既に雨は止んで、雲間から太陽の光がさんさんと差し込んでいた。どのくらいの間、僕の時は止まっていたのだろうか。
 ……まったく、ワケが分からない。彼女は何がしたかったんだろうか。
 まるで悪い夢だ。それも、かなりタチの悪い。
 僕は昨日の出来事を反芻しながら、ゆっくりと階下へと降りていった。階段横の扉を開く。

「……」

 ……誰も居ない、居間。昨日、寝る前に見た光景と、何も変わりはしない。

「……ふぅ」

 知らず知らずのうちに、溜め息が漏れた。一体、僕は何を期待したんだろうか。
 腕まくりをして台所に立ち、毎日の習慣で料理を作る。食べなくては生きてはいけない。朝食は一日の源だ。
 ご飯と味噌汁、目玉焼きやキャベツの千切り等、朝飯に相応しい軽い食事を作り終えると、自分で皿に盛り付け、テーブルに乗せた。
 そのまま椅子を引いて座り、両手を合わせて挨拶を吐く。

「いただきます」

 答える者は誰もいない。ただ僕の発した言葉だけが、空しく居間に響き渡った。
 ……これも、いつものことだ。すっかり、慣れてしまっている。
 おじさんは、いつ帰ってくるんだろう。確か、最後に帰ってきたのは三ヶ月前だったっけ……

「ごちそうさま」

 一人だけの朝食が終わる。
 僕の言葉は再度、居間に空しく響き渡る。
 食器を水に浸すと、僕はテレビの近くに鎮座するソファに寝そべった。

 ……夏休み。どうやって、過ごそうか。

「暇だな……」

 最近、独り言の回数が増えた。その割に、思考回路は段々と機械化され、第三者的視点になっている気がする。
 ……僕という個人が、うつろっているのだろうか。
 くだらない。
 僕が手持ち無沙汰に携帯を指先で転がしていると、

 ビルルルルルルル!!!

 携帯が、鳴った。

「……は?」

 有り得ない出来事に身体が一瞬硬直、携帯が僕の手を離れて床の絨毯に衝突、地面を転がる。
 その間も、転がり終わった後も、携帯は着信音と共にバイブレーションを繰り返していた。

「……え、……えっと……?」

 頭が混乱する。突然の出来事に脳は白熱化、だがパニックの一歩寸前で思い止まる。
 ……落ち着け。ただの悪戯かもしれない。
 取り合えず、出よう。その後のことはそれから決めればいい。
 僕はそう結論付けると、恐る恐る携帯を拾い上げた。

「非通知か……」

 僕の電話帳には唯一、おじさんの携帯の番号だけが掲載されている。これでおじさんの可能性は無くなった。
 ……電話はまだ、鳴り続ける。
 僕は意を決して、携帯の通話ボタンを人差し指で押し込んだ。

「……もしもし、誰で」
「あー、やっと繋がった! まったく何してるんだよ、もしかして今起きたばっかりとか言わないよね!?」

 …………
 ………
 ……

 は?

「ど、どちら様ですか?」
「何言ってるの、私は燐だよ、燐! 昨日会ったばかりじゃない!」

 リン? リンって、誰?
 …………
 ……思い出した。
 昨日の、少女。あれは、夢じゃなかったのか。

「えっと……燐さん?」
「燐でいいよ」

 一蹴された。
 こほん、と咳払いして気を改め、

「ええと、燐、昨日会ったばかりの僕に、一体何の用だい?」
「鈍いよ、桂介。彼女からの電話なんだから、勿論デートの誘いに決まってるじゃない!」
「……かのじょ?」
「そうだよ」
「ちょ、ちょっと待って、彼女って、デートって、大体僕は返事を返してな」
「じゃあ、駅前に三十分後に集合ね。待ってるよ!」

 ブツッ、と電話が切れる音。それきり、部屋に静寂が舞い戻る。
 ……僕は、そう、例えるなら……ロダンのような格好で唸っていた。
 考える、僕。
 状況がサッパリ理解出来ない。
 何が起こった。
 彼女って何だ。
 デートってどういうこと。

「……ほぇ?」

 奇声が漏れた。
 誰も見てないのだがとりあえず頬を赤らめながらも空咳をして誤魔化す。
 ……とりあえず、状況を整理してみよう。

「昨日未明、雨天の中、僕は彼女、燐に出会って突然告白された」

 ……自分で言ってみて頭が痛くなってきた。
 会っていきなり告白……彼女は何者だ。馬鹿か、ストーカーか、それ以外の何かか。
 昨日以前、彼女と何処かで出会ったことが無いか、記憶を探ってみる。
 ―――無い。少なくとも、覚えている限り、無い。

「今日先程、燐から電話があった。内容はデートの誘い」

 ……ええ、と。
 何処からツッコめばいいんだろう……
 いや、果たしてツッコんでいいものなのだろうか……

「あー……つまり。昨日、彼女は理由は不明だが、僕に告白した。
 僕は返事を返してないが、燐は僕がOKしたものと思い込んでいる節がある。
 その理由は、燐が自分のことを『彼女』と呼んでいたから。
 そして、『彼女』とはつまり恋人関係にあるということ。
 だから、燐は僕にデートの誘いを申し込んできた。以上」

 ……頭を抱える。彼女を精神病院に連れて行きたい。今すぐに。
 狂ってるとしか言いようが無い。
 一般的な男性は可愛い少女からデートの誘いを受ければ喜び勇んで行くのかもしれないが、少なくとも僕は、そんな得体の知れない見ず知らずの少女と明るく楽しくデートを満喫する気持ちなんてこれっぽっちも存在しなかった。
 怪しい。
 怪しすぎる。
 ていうか、胡散臭い。

「さて……」

 僕には、選択肢が四つ存在する。
 @、デートに行く。
 A、デートをすっぽかす。
 B、燐の携帯にリダイヤルして真意を問いただす。
 C、駅前に黄色い救急車を呼んでおく。

「まぁ、Cは流石に選ばないとして……」

 Bも駄目っぽい。先程のやり取りで、如何に彼女が人の話を聞かないのかが容易に理解出来た。
 そうなると、@かA。順当に考えればAが正しい気がするが……

「……もし、彼女が僕のストーカーであった場合」

 @、そんな酷いわ、私が何をしたのと近所迷惑な叫び声と共に家へ乱入。
 A、電信柱という電信柱に僕への中傷、もしくは僕の個人名を表記した愛の言葉が羅列するポスターを貼られる。
 B、延々と携帯電話が鳴り続ける。僕はノイローゼとなって飛び降り自殺。

「お、恐ろしい……っ!」

 ……いや、待て自分。
 どうやら、最初の混乱がまだ残っていたらしい。軽く深呼吸すると、僕は腕を組んでまた考えに没頭し始めた。
 ……残るのは、@のみ、か。
 こうなった以上、他に選択肢も思いつかないし、仕方が無い。
 実際に燐と会って、話をしてみることにしよう。
 そう結論付けると僕は顔を洗い、髪を整えて服を着替え、家を出て駅に向かって歩き出した。




















 二十分で駅に到着する。彼女はすぐに見つかった。
 柱にもたれかかり、人混みを何とは無しに見つめている。特徴的な長い前髪は頬にかかる程度まであり、後ろは肩ほどまで。
 服装は夏らしいノースリーブのシャツとミニスカート、身長は164センチの僕より少し低いくらいだ。
 長い前髪のおかげで少し見えにくい彼女の表情は、心なしかわくわくしているように見えた。
 そこに、昨日の雨に濡れた子犬のような儚い姿を見出すことは出来ない。

「……」

 僕は少し面食らって、燐に言葉をかけずにその場で佇んでいた。
 印象が違うというか……彼女は、本当に昨日の彼女と同一人物なのだろうか?
 と、その時。

「……」
「……あ」

 目が合った。視線が絡まる。
 一秒、二秒。二人共、しばらくそのままの姿勢で硬直する。
 やがて、

「遅いよ、桂介っ!」

 燐は手を振って僕に駆け寄り、僕の右腕を引っ張った。
 そのまま、歩き出そうとする。

「ちょっ、待って、燐!」
「待たないよ!」

 慌てて止めようとする僕の方を振り返り、彼女は満面の笑みを浮かべてそう言った。

 ―――その笑顔を見た瞬間、僕は何故だか、陽光を浴びて天を仰ぐ向日葵を想像した。

 事情を聞こうとしていた僕の思いが、すぅっ、と抜け落ちていく。

(……まぁ、少しくらいは)

 こんなに楽しそうな彼女の気分を阻害するのも気が引ける。
 事情を尋ねるのは、ゆっくり落ち着いてからでもいいだろう……きっと。

「さ、行こう!」
「何処へ?」
「何処かっ!!!」

































 僕と燐が付き合いだして、二週間。
 いや、付き合うと言うのは正しくない。僕は未だに彼女の告白に対して返答していないからだ。
 それでも僕達はこの十四日間を毎日一緒に過ごし、共に遊び歩いた。
 やれることは全てやったと思う。ゲーセン、カラオケ、ウィンドウショッピング、ハイキング、海水浴、プラネタリウム。
 僕達は遊び、歌い、買い物し、歩き、泳ぎ、天体観測をした。他にも花火をしたり、スイカを割ったり、祭りの露天巡りをしたり、他にも色々、色々。
 彼女は自分のことを何も話さなかった。
 僕も自分のことを話さなかった。
 知っているのは、お互いの電話番号のみ。僕と燐の関係は、彼女が一方的に電話を掛け、僕がそれに応じる、そんな歪なものだった。
 でも、それはきっと……立派な、恋人関係だったのだろう。
 僕は燐に付き合っている内に、彼女の笑顔に魅せられて……燐のことを、好きになりかけていた。
 惚れた弱みなのか、これはこれで良いものかな、と思ってしまう。
 今日も、デートの最中だった。繋いだ手を強引に引っ張り、燐はずんずんと前を歩いていく。
 彼女は終始笑顔だった。いつもいつも青空の下の向日葵のように、彼女は毎日笑い続けていた。雨の中、佇んでいた彼女は何処へ行ってしまったのだろう。そんなことも、今となってはどうでもいいことだ。燐が笑顔でそこにいる、それだけで僕は良い。

「ねぇ、桂介」
「ん?」

 遊びに遊んだ帰り道、燐が僕に話しかけてきた。空を少しずつ曇り空が覆い始め、一雨来るかなと心配して空を見上げていた僕は顔を燐の方に戻す。
 彼女は相変わらず僕の手を引っ張りながら、だけど僕の方を見ずに前を向いていた。そのため、燐がいつもの笑顔なのか、それとも別の表情を形作っているのか、いまいち判断が付かない。

「何、どうしたの」
「……」

 僕が訊いても、燐は僕の顔を見ないまま、ずっと前方を見据えて黙っていた。何となく嫌な沈黙が、二人の周囲を包み出す。
 そのまま、一分ほど経過した。僕が息苦しさを感じ始めた頃、燐が唐突に口を開く。

「公園、行こう」
「……公園?」
「うん、公園。私達が、初めて出会った所」




















 公園には、人影一つ見当たらなかった。子供達はちゃんと天気予報を見て、雨が降り出す、と分かってるのかもしれない。
 僕達はブランコに並んで座り、悠然と空を仰いだ。
 太陽の姿は雲に遮られ、暗雲が立ち込める、空。
 唐突に、僕と燐が出会った日、雨が降っていたことを思い出す。

「……」
「……」

 燐は黙っていた。僕も黙っていた。元々僕に用があるらしいのは彼女だ、僕から話しかけることもない。
 ……わざわざ思い出の公園に来たのだ。何か、重要な用件があることは察せられる。
 並んで座ったブランコをギコギコ揺らしながら、ちらりと彼女の顔を覗き見た。出会った時と同じく長い前髪が顔を隠し、その表情は窺い知れない。

「……」
「……」

 ―――思えば、歪な関係だった。
 偶然、雨の中で出会った僕と燐。彼女は唐突に僕に恋人にならないかと問いかけ、僕が答える前に去ってしまった。
 その日から毎日来る、デートの誘い。二週間ずっと一緒にいながら、未だ恋人関係では無い、僕達。
 あの時、燐は何を思って僕にあんなことを言ったのだろうか。僕は燐のことを何も知らない。知っているのは、名前だけ。
 最初の第一印象は『寂しそうな少女』。現在の第一印象は『笑顔が似合う少女』。
 彼女はよく笑った。どんな時も。
 ……でも。思えば、僕は彼女と出会った日以外、彼女の笑顔『しか』見ていない……

「桂介」
「ん」

 不意に、燐が口を開いた。

「私達、恋人同士、だよね?」
「……」

 質問の意図がよく掴めない。燐は、何が知りたいのだろう。
 僕は顎に手を添えて少し考えてから、

「違う」

 と、答えた。

「だって、僕はまだ、君の告白に返事を返していない」
「……」
「……」

 雨の中で受けた告白。
 返答しないまま続けられたデートの日々。

「……だったら、私のこと、好き?」

 ―――その質問には、今なら迷うことなく答えられる。

「好きだけど」
「うん、私も好き」

 燐はようやく僕の方を振り向き、微笑んだ。
 ……その笑顔が、何だか、偽りの仮面に見える。
 僕の手をそっと握る燐、頬を赤く染めて僕に囁きかける。

「良かった。非常識なことばかりしてたから、変な娘だと思われてるんだと思ってた」
「非常識っていう自覚はあったんだね」
「あ、酷いなぁ」

 彼女はクスクスと笑った。今の僕には、非常に薄っぺらいと感じられる、笑い方で。
 ……分からない。この燐は本物の燐なのか。
 それとも、今までの燐が偽りの燐だったのか。

「分からない」
「えっ?」

 気が付いたら、僕は無意識に呟いていた。
 疑問の声を上げる燐、僕は彼女の瞳を見つめて、

「分からないんだ」
「……何、が」
「燐。君は今、何を考えてるんだ?」

 燐は驚いたようだった。前髪の隙間から、窺うように僕の顔を覗き込む。
 僕はそんな彼女の姿を見ながら、急激に心が冷めてくるのを感じていた。
 ……思い出す。これは、燐と出会う以前の……

「僕には、君が何か急いでいるような気がする」
「……」
「今まで何も言わなかったのに、今日になって急に、僕との恋人関係について話し出した。何故だ? 気が変わったと言ってしまえばそれまでだが……どうしてだろうね、僕は違和感を感じるんだ」
「……違和感?」
「うん。色々あるけど……まず第一に、どうして二週間前の雨の日、出会ったばかりの僕にいきなり告白なんかしたんだ?」
「……」
「第二に、翌日のデートから今まで、君はずっと笑顔だった。そりゃ、笑顔は悪いものではないけどさ。でも僕は、君の笑顔しか見ていないことに気付いたよ。それは明らかにおかしい」
「……」
「第三に、今この瞬間だ。今まで何も言わなかった僕達の関係についての言及。僕の推理としては、何か期限みたいなものがあって、それが今日、もしくは明日で終わるというものだけど」
「……」
「答えてくれ、燐。僕は君が好きだ。君がどんな秘密を抱えていようが、そんなことはどうでもいい。
 でも、もし二週間前のあの日、出会ったのが僕じゃないとして、それでも君はその出会った人間に告白していたのだとしたら……
 ……僕は、とても悲しい」

 ぽつぽつと。
 雲より漏れ出る雫が地面に、ブランコに、僕の頬に当たり、やがてその量は勢いを増してきた。
 出会ったあの日のような、豪雨。
 僕達は雨に打たれながら、じっとお互いを見詰め合っていた。
 僕は無表情に。
 燐も無表情に。
 ……笑顔という仮面を脱ぎ捨てた、燐がそこにいる。

「……私は」

 燐が口を開いた。雨で髪の毛が肌に張り付き、その表情が隠れて見えなくなる。

「……明日、引っ越すんだ」
「……」
「お父さんと、お母さんが死んだから……親戚の家に引き取られることになったんだ」
「……そういうこと、か」

 知らず知らずのうちに、溜め息を付いた。
 雨の中、セーラー服で立ち尽くす少女。
 あれはきっと、

「燐の両親が亡くなったのは、二週間前だったんだね」
「……うん」
「……」
「……」
「……燐。これは、代償行為と言うものだよ」
「……でも、桂介は」

 燐は右手で前髪を振り払うと、真っ直ぐ僕の瞳を視線で貫いた。

「……桂介も、両親が亡くなってるんでしょう?」
「―――」
「分かるんだ。だって、私と同じ瞳をしていたから」
「瞳?」
「絶望という名前の、瞳」

 燐の瞳は―――言うなれば、混沌としていた。
 瞳の中の、歪んだ世界。
 ……確かに、僕の両親は僕が小学の頃に、よりにもよって僕の目の前で死んだ。
 死んだ、というか、殺された。
 世間でよくある、押し込み強盗というやつだ。
 それが、ちょっとした偶然で、殺人事件になってしまっただけのこと。
 ……でも、それから、僕の心は僕の主観から離れ、客観的な世界に行ってしまったように感じられる。

「鏡で見た私の瞳を持った貴方があの瞬間、私の前に現れたことを、私は運命だと思ってる」
「……運命」
「私は、この町から離れたくない。お父さんと、お母さんの思い出の詰まった、この町を。
 私の通う高校は隣町だけど、私が住んでるのはこの町。暖かくて、優しくて、大好きな世界」

 唄うように言葉を紡ぐ燐。
 ……でもね、燐。それは、ただの郷愁というものだよ。

「親戚の人は嫌いだ。今、遺産の問題とかで、私の家にちょくちょく来るんだけど……みんな、私の心配なんて上辺だけ。
 夜中になると聴こえて来る。あの人達は、ただ両親の遺産が欲しいだけ。
 おじさん達はいやらしい目で私を見る。
 おばさん達は私を邪魔者扱いする。
 もう、うんざりだよ。私と、私の両親の世界を、勝手に壊さないで」

 ……燐。
 毎日のデートは、それから逃げるために?

「桂介。私の大好きな桂介。お願いがあるんだ」
「……お願い?」
「うん。……私を、桂介の家に住まわせて」
「……」
「私、何でもする。料理も洗濯も掃除も、桂介が望むなら身体だって……
 だから、一緒にいさせて。この町に私を居続けさせて。
 お願い、桂介。私は」
「狂っている」

 燐の言葉を遮って、僕は吐き捨てるように言った。
 燐の目が見開かれる。僕はその顔から視線を背け、ブランコから立ち上がった。
 雨はザーザー。風はゴウゴウ。髪も顔も服も、全てが濡れてしまっている。

「君は逃げているだけだ」

 何かの歌詞で、雨を涙に例えた歌があった。
 ……では、今こうして振り続ける雨は、誰の涙なのだろうか。

「傷の舐め合いなんて真っ平だ。……燐、君は思い違いをしている。
 君と、君の両親の世界なんてものは、二週間前に、既に壊れて無くなってしまってるんだよ」
「……っ! そ、そんなこと……っ」
「いつまで現実から目を背けるつもりだ」

 ゆっくりと、歩き出す。
 燐に、背を向けて。
 口元が歪む。自嘲の笑みが零れる。
 ……偉そうに。そういう僕は、何なのだ。
 でも、僕は彼女が好きだから。
 燐のことを想っているから。
 だから、言おう。

「……僕達は出会うべきじゃなかった」

 終わりの、言葉を。

「……さようなら燐、大好きだったよ」

 ……本当に、好きだったよ。
 僕が、また一歩足を踏み出した……その時。
 背中から、腕が飛び出して……僕の腰に回った。
 引っ張られる。背後に、体温。

「……燐」
「嫌」

 ぎゅっとしがみ付かれる。
 僕は天を仰いだ。
 ……ナミダは、止むこともなく降り注いでいる。

「……君が本当に好きだったのは、君と君の両親の世界。
 僕のことなんて、本当は」
「違うよっ!!!」

 悲痛な叫び声だった。
 僕は燐の両腕をゆっくりと解き、彼女と向かい合った。
 ……そこにいたのは、二週間前に出会った少女。
 二度目の、再会。

「好きだから! 桂介のこと、本当に好きだから!
 桂介と離れたくない、桂介と一緒にいたい、桂介と共に生きたい!
 桂介、お願い、私の側にいて、私を側にいさせて、ねぇ、桂介!!!」

 ――――――。
 ……彼女の本音の言葉が、僕の心を揺さぶる。
 ―――ここで。
 ここで彼女を抱きしめたのなら。
 ……燐。雨に打たれる燐は、その名の通り消えてしまいそうに儚くて。
 ……悲しくなる。
 本当に……どうして、僕達は、出会ってしまったんだろう?
 僕の頬の流れるもの。
 涙?
 雨?
 ……僕は。
 …………僕は。




















「さようなら、燐」




















 もう、振り向かなかった。
 雨は、ずっと降っていた。
 いつまでも。
 いつまでも。






























 あの時、彼女は果たして泣いていたのだろうか?
 今の僕には、もうそんなことすら分からない。
 結局燐とは二度と会わなかったし、電話番号も削除して忘れてしまった。

 ……時々、思うことがある。
 もしも、あの時、彼女を抱きしめていたのなら。
 僕達は、どんな未来に進んでいたのだろうか。

 結局、過去を変えることは出来ないけども。
 少しばかりの後悔が、今も尚、僕の心に小さな棘となって残っている。
 雨の中で出会った、運命に弄ばれた二人。
 これは、そんな二人のすれ違いの話。



 悲しき、雨色ディスティニー。