たとえば、あの出会いが六十億分の一の確率だったとして。
その縁をただの知り合った仲という関係に終わらせたくなくて。
それが恋に恋しているだけなのか、自分でもよくわからないのだけど。
相合傘を書き足したのは、たぶん自己満足なんかじゃなくって。
こんな日に繋がるのではないかと、心のどこかで期待していたのかもしれない――
相合傘
「小雪ちゃん、どこか出かけるの?」
のどかな日曜の朝、なつみは外出の準備をしている妹に声をかけた。
「うん。みっちゃんの家で勉強会なの」
「ふーん。でも勉強会にそんな余所行きの服を着ていかなくてもいいんじゃ」
見ると、前に家族でデパートへ出かけたとき、両親に買ってもらっていた新品の洋服だ。
小雪はほんの少しだけどきっとした表情を浮かべたが、すぐに笑顔へとシフトした。
「ちょっとみんなに見せびらかせたくて」
「もう、しょうがないんだから。浮かれてうっかり汚さないように気をつけるのよ」
「わかってるよぉ。それより、今日はお姉ちゃんも彼氏さんとデートなんだよね。こんなところで妹に油売ってる場合じゃないと思うけど」
「わわわっ、どうして小雪ちゃんがそれを!?」
「カンナお姉ちゃんに教えてもらったの」
「はうン、昨日あれだけ言わないでって、念を押してお願いしたのに」
がくりとうなだれる。恥ずかしさも含んでいるのか、頬がほんのりと赤い。
「なつみお姉ちゃんが彼氏さんと仲良くする時間が多くなったから、そのぶん私とカンナお姉ちゃんの絆が深まったのですよ、ふっふっふ」
「ううっ、こんなカタチでかしまし三姉妹の関係に溝ができるなんて……家庭崩壊の危機は些細なところから始まっていた? わたしファイトっ」
ぐっと両の拳を握りしめて意味不明の気合を込めるなつみ。実際は彼女がカンナにお願いしているところを小雪が偶然盗み見てしまっただけなのだが、ノリとテンションが何となく似ている姉妹であった。
「あれ……そういえば、お姉ちゃん「も」って?」
「わーっ、もうこんな時間! 急がないと遅れちゃうよ〜っ」
小雪の慌てた様子が真に迫っていたのは、本当に時間がなかったためか。幸いにして姉に浮かびかけた疑問はそらせたようである。
「小雪ちゃん、傘は持った? 天気予報で今日は午後の降水確率が四十パーセントって言ってたけど」
「大丈夫、ちゃんとここに折り畳み傘を入れてあるから」
肩にさげた真っ赤なポシェットを、小雪は軽く揺らしてみせた。
「それじゃ行ってきます。お姉ちゃん、彼氏の人と「あさがえり」なんてしたら駄目だよ?」
「深い意味も知らないくせに、子供がそんな言葉を使わないのっ。今度お姉ちゃんをからかったら、ていていってするからね」
「えへへ、ごめんなさーい」
にっこりと笑って出て行く小さな背中を、なつみは苦笑まじりの暖かい目で見送った。まだまだ手のかかる年頃だが、大事に思えるのは確かなのだから。
「はっ、いけない……わたしものんびりと妹に構っている余裕なんてなかったのよ!」
わたしダッシュを発動させて部屋へ駆け戻る様は、先刻の妹とさして大差ない慌てぶりだった。
駅前のベンチに彼は座っていた。ラフな服装に身を包んだ二十代前半とおぼしき青年。
ズボンのポケットから携帯を取り出すと、眼鏡のレンズ越しに時間を確認する。その直後、ぱたぱたと小走りに近づいてくる足音が耳に入り、彼は携帯を戻すとベンチから腰をあげた。
「おにーさん、お待たせ」
「よ、時間ぎりぎりだな」
「出かけ際になつみお姉ちゃんの相手をしてたから……ばれないように何とか誤魔化したけど」
軽く息を切らせ、申し訳なさそうにはにかむ少女。
「なんだ、まだ内緒にしてるのか。別に俺とお前はただの知り合い同士なんだから、わざわざ隠す必要はないだろ」
「それはそうですけど……いまはただの知り合いでも、いつか、やがては、きっと……」
ぼそぼそとした、少し不満そうな小声は、当然ながら彼の耳に届くことはなく。
「それより、ばれないようにって、大丈夫なんだろうな」
「うん。みっちゃん……お友達の家に勉強会に行くって言ってきたから」
「そのことを友達は知ってるのか?」
小雪は首を振った。縦ではなく横だった。
「おいおい、恐ろしくアバウトだな。普通は根回しぐらいするだろ」
「ねまわし?」
「ああ、えーと、口ぐらを合わせるっていうか……」
「大丈夫ですよぉ、今日はお姉ちゃんも彼氏さんとデートで家にいませんから」
「……そうですか」
思わず敬語で返すほかなかった。「も」という個所はスルーしておくとして、休日だから両親だって家に居るだろうに。大体そっちに面倒事が起きたら、俺もそれを被ることになるんだぞ。
いろいろ頭に浮かんだが、どれも言葉にはしなかった。言ってもしょうがないことだし、彼女と違って大人である以上、責任は自分が持たないといけない。
「まあ、いいか。それでどこへ行くんだ」
気を取り直してさわやかに訊いてみる。よもや「えっ」というリアクションが返ってくるなど予想外であり、無声映画のように小雪の顔がこわばっていくのが見てとれた。
「まさか……決めてなかったのか? 今度の日曜付き合ってくださいとか電話で言っておいて」
「ご、ごめんなさいごめんなさい」
ぺこぺこ謝る小雪。嬉しさのあまり、どこに行くか考えるのを忘れていたのだった。
「とりあえず行き先はお前が決めてくれ。俺はまだこの街のことをよく知らないから、先導なんてできないし」
「はい……ええと……それでは……あっ、そうだ!」
ひらめいた視線の先は、彼女自身の服。
「結構大きいところだな」
少女の隣を歩きながら、彼はデパート内をぐるりと見渡した。休日という事もあり、それなりに人ごみも多く、親子連れの姿もちらほらと目に入る。
「この服も、ここで買ってもらったんですよ」
「へえ。そういやお前、俺と会うときは大抵学校の制服だから、私服姿が新鮮に映るな」
「あの……似合いますか」
「まあ、そうだな……可愛いんじゃないか?」
「えへへっ、ありがとうございます」
小雪はいまにも飛び跳ねそうなほど喜んでいた。軽口を挟まず、普通に素直な感想を漏らした甲斐はあったかもしれない。
「その、おにいさん、こういうのってまるで――」
「デートじゃないからな」
一応釘を刺しておく。機先を制され、小雪は明らかに口ごもった。
「デート……みたいですねえって続けようとしたのに」
「そんな不満そうな顔するなよ」
「じ、じゃあ、いまの私たちって他の人からどう見えていると思いますか」
矛先を微妙に変えて食い下がってきた。意図はわかるが、存外にしつこい。
「そりゃあ……お」
親子、と言いかけてやめた。それはさすがに自分の歳を考えると諸刃の刃というか、双方共にダメージがでかすぎる。
「いや、兄妹だろうな」
「ええー、そんなぁ」
「人が譲歩してやったのにその反応はなんだ」
いわゆる心の中での俺譲歩。
無論のこと小雪には何のことだかさっぱりだが、兄妹という答え自体はこの上なく的確だといえた。
「そんなことより、キラキラ星の一曲でも披露してみたらどうだ」
「話をそらさないでくださ……って、あれ?」
いつの間にか音楽器コーナーに足を運んでいたらしい。彼の指差した先には、小雪にとって見慣れた代物がずらりと並んでいた。
「ほら、縦笛がこんなにあるぞ」
「だからこれは、リコーダーって言うんだよぉ」
「どうだ一曲」
「勝手に吹いたら店員さんに怒られちゃうし、第一そんな恥ずかしいこと……」
そのとき、唐突にギターの音色が流れた。
突然の出来事に二人してきょとんと顔を見合わせる。
流れる、流れる、ギターの調べ。耳に響くはその旋律。誰かが、弾いているのだ。
「すみませんお客様。失礼ですが、それは商品ですので――」
「ごめんなさい。弾き勝手の良さそうなギターでしたので、つい」
声のやり取りに目を向けると、物腰の落ち着いた女性が店員に頭を下げていた。
「カンナお姉ちゃん!?」
びっくりして叫ぶ小雪。それからハッとして口を押さえるが、もはや遅かった。
「あら……小雪さん?」
聞き覚えのある声音に気づいた女性が二人に近づいてくる。
お嬢様風の可憐な容姿と服装、外見からして二十歳前後だろうか。以前に姉二人の話は聞いた事があるが、たぶん大学生の長女のほうだろう。
おろおろしている小雪の隣で、青年はそんなことを考えていた。
「小雪さん、こちらの方は?」
「えっと、その、えと……」
「それになつみさんに聞いた限りですと、小雪さんはご友人の家へ勉強会に行くと言っていたそうですけど、そのあなたが何故ここにいらっしゃるんです」
「わわわ、それは、あのっ、はうん」
必要以上に取り乱す小雪。
言わんこっちゃない――そんな顔をしたのも束の間、青年はおもむろにカンナの前に立った。
「もしかして、この子のお姉さんですか?」
「えっ」
姉妹の声が見事にハモる。そして、あくまで平静な声が続いた。
「実はこの子が迷子になっているのを見つけて、出口まで案内している途中だったんです」
内心ちょっと苦しいかなと思いつつも、姉はとくに口を挟まず普通に聞いている様子だったため、このまま押し切ることにした。
「お姉さんが来てくれてよかったね。それじゃ俺はこれで、後をお願いします」
「え、ちょ、おにーさ……」
何か言いたげな小雪を目配せで黙らせると、彼はカンナに軽く頭を下げ、そのまま背中を向けた。
本来なら正直に話すのが一番なのだが、小雪の意思を思いやって他人を演じる事にした。逃げるような形になるのは心苦しいが、後はうまくやってくれることを期待するしかない。
「…………」
カンナは腕を組んで妹の様子を眺め、そして、遠ざかる背中へ目を向けると、
「あの、少しよろしいですか」
「えっ」
今度は青年と少女の声が合わさった。
「迷子になっていた小雪さんに親切にしてくださったのですよね」
「え……ええ、まあ」
「でしたらデパート内をご一緒しませんか? もしお時間がよろしければ、お礼代わりに喫茶店で飲み物でもご馳走させていただこうかと」
「お姉ちゃん……」
ぽかんとする二者を交互に見やり、上品で穏やかな微笑を浮かべるカンナ。
「とまあ、そう私は思っているのですけど、お二人とも異存はありますか?」
是非も無かった。
デパートの屋上で、小雪がカンナの手を引っ張って端の方へと移動していた。対する彼女はどうも乗り気ではないようで、腰が引けているのか、なかなか前へ進まない。
あれから三人は色々と見てまわり、喫茶店で休憩したあと、小雪の希望で屋上にやってきたのだ。
そのとき一瞬カンナの表情が曇ったように見えたのだが、つまるところ――
「お姉ちゃん、ここの望遠鏡から覗く景色はとても気持ちいいんだよ」
「え、ええ、それは素敵な事ですけど……前にも言ったとおり、恥ずかしながら私、高いところが苦手というか……」
当然ながら望遠鏡が設置されているのは端付近なわけで。
このままでは埒があかないと思ったか、小雪はくるりと姉の後ろに回りこんだ。
「ほらほら、早くしないと他の人に使われちゃうよぉ」
「わ、きゃ…………つーか、押すな小雪ッ!!」
「……えっ」
言われた当人ばかりか、面白そうに眺めていた青年まで唖然と口を開く。
「あ……私としたことが、つい、はしたない言葉使いを。失礼致しました」
ドスの利いた恫喝から一転、僅かに慌てた様子で取り繕うエセお嬢様。
小雪はわけが分からずぽかんとしているが、つかつかと寄って来た人影はジト汗を浮かべていた。
「お姉さんは調子が優れないみたいだから、そのぶんお前が楽しんだらどうだ。ほら、二回分出してやるから」
「え、いいんですか? わーい、ありがとうございますっ」
硬貨を受け取って嬉しそうに足を弾ませる小雪。苦笑して見送った彼のそばで、見かけは清楚な雰囲気を漂わせた姉が、一息ついたように顔を覗かせた。
「助け舟を出してくださって助かりました。一応お礼を述べさせていただきます」
「いや、まあ別に……はは」
エセ部分を見てしまっただけに、笑いも少々引きつらざるをえない。
無邪気に望遠の景色を堪能している少女を、しばし見つめる二対の視線。ふいにその片方が目標を変えた。
「ところで、小雪さんとあなたはどういった関係なんです」
「えっ……と。彼女はどう思ってるか知らないけど、ただの知り合いですよ。ちょっと出会いが変わっていただけで」
「あら、そうなのですか。てっきり甘くとろけた蜜のような間柄だと夢想してしまいましたのに」
「何を溜息ついてるんですか……第一彼女はまだ小学生でしょう、本人は否定してるけど」
「まだ、ですね」
「揚げ足とって見つめられても困るというか」
どうにも居心地が悪い。自分の方が年上であるのは間違いないと思われるが、さして離れてもいないだろうし、初対面の女性という事で敬語を使っているのだが。
しばらく青年の顔を眺めていたカンナは、やがてそっと目を伏せた。
「とりあえず、小雪さんはあなたのことを気に入っているようですし……あなたさえ嫌でなければ、これからも彼女のことをよろしくしてやって下さると嬉しいのですけど」
「はあ……まあ、それくらいなら別に」
無難な返事であるはずなのに、目を伏せたままの相手は口元を綻ばせていた。
別れ際に元気よく手を振り、少女は姉と一緒にデパートを後にした。満面の笑顔は、姉妹の天に広がる曇り空さえ吹き飛ばしそうである。
「今日はとっても楽しかったぁ」
「それはよかったですね」
「そうだ、カンナお姉ちゃん。なつみお姉ちゃんには内緒にしておいてね」
「ええ、それは構いませんけど……でも、小雪さん」
ふいに変わった声のトーンに、小雪は「?」という表情で姉を見上げた。
「ばれたときに誰かを心配させるような嘘なら、つかないほうがいいですよ」
「……カンナお姉ちゃん?」
「何でもありませんわ。さあ、帰りましょう」
そっと繋がれる手。どんよりとした雨雲の下、姉妹の歩みが再開する。
空はまだ、灰色だ。
「さて、何で俺とお前はここにいるんだろうなあ」
「…………」
駅前のベンチに腰を下ろす二人。無言でうつむく少女の表情は、既にどす黒く変色した暗雲の空を、そのまま鏡映しにしたかのように暗かった。
「いきなり真剣な声で呼び出されて、何かあったのかと急いで戻ってきて、それで黙られたらどうすりゃいいのか分からないぞ」
別れてから一時間半くらい経った頃に携帯が鳴り、声の様子から心配になって引き返したのだ。とりあえず無事なようで内心胸を撫で下ろしたのではあるが。
「俺だって暇じゃないし、ここに戻って来るのにも僅かなお金と労力を使ってるんだ。これでもし大した理由じゃなかったら――」
「家を飛び出してきたの」
「……そ、そうか」
また面倒事に巻き込まれた気もするが、大体察しはついていた。ここは腹を括るしかない。
「もしかして、今日のことがばれたのか?」
小雪は顔を上げた。頼りなく沈んだ瞳が、すがるように青年を捉える。
「なつみお姉ちゃん、彼氏さんとデート中にばったり外出中のみっちゃんと鉢合わせちゃったみたいで、家に帰ったらそのことを問い詰められて……」
「いっそ見事なアバウトさだしなぁ」
「それで、カンナお姉ちゃんが間に立ってフォローしてくれたんだけど、私がうっかりおにいさんのことを口滑らせちゃって……」
「なんというか、お約束にも程があるな」
はあーっ、と溜息をついて天を仰ぐ。そのときの光景が目に浮かぶというか、ある意味これ以上ないくらいの予定調和だった。
「で、どうして家を飛び出してきたんだ。お姉さんと口論になって、喧嘩でもしたのか」
「…………」
「お姉さんのことが嫌いになったのか?」
ぶんぶんと小さな首が否定の形に振られたのは、精一杯の意思表示に違いない。
「だろうな」
傍らの少女がどれだけ家族の事を好きなのか、それはこれまでの会話で充分に分かっている。
だから彼女が姉の事を嫌いになってという可能性は限りなく低いわけだが、別の理由を考えてみても、これといったものが浮かんでこなかった。
「じゃあ、どうして」
「おにーさんのことを悪く言ったから」
「…………は?」
「そんな見ず知らずの人と黙って付き合うのはよくないって……おにいさんのこと、なんにも知らないのに!」
胸の内を吐露する小雪の横で、ただただ面食らうばかり。開いた口が塞がらない。
「……そりゃ……大変だったな……」
お姉さんが――とは口にしなかった。
ひとつ深呼吸。できるだけ落ち着き、諭すような口調で穏やかに話し出す。
「なあ、大人と子供の違いって、何だと思う」
「…………?」
「相手の立場になって物を考えられるかどうかってことだ」
「相手の、立場ですか」
「そう。お前がお姉さんだったとして、大事な妹が、まったく知らない男と何度も交流を重ねているって分かったらどう思う? しかもその相手が自分よりも年上だったら」
「あ……」
手を口元に添える小雪。見る見るうちに後悔の色に曇ってゆく。少しの間、考える仕種をしてから、ぴょこんと立って青年に頭を下げた。
「えと、わたし、家に帰ってお姉ちゃんに謝ります」
「そうか。まあそれが一番だろうな」
「おにいさん、本当にありがとうご……」
「……降り出したか」
二人して空を見上げる。
雨雲の世界から水滴が落ちてきて、ぽつり、ぽつり、としたそれらは、見る間に周囲を線状に染め上げていく。
「こりゃすぐに土砂降りになるな」
「あっ」
小雪がハッとして情けない声を発した。カッとなって後先考えずに家を飛び出してきたため、完全に手ぶらなのだ。急いで帰らないとずぶ濡れになってしまう。
慌てて駆け出そうとしたとき、少女の頭上で傘の開く音がした。
「まったく、しょうがないやつだな。送っていってやるよ」
「ええっ、わわ、そんな駄目ですよぉ。おにーさんにそこまで迷惑はかけられないです」
「ああそうだ。明日からまたバイトだし、子供と違って生活があるんだから」
「はい……だから」
「だから、責任もって家まで案内しろ」
今にもコンタクトがずれそうなほど見開かれる大きな瞳。
「迷惑かけてすまないと思ってるなら、先導くらいしてくれ。俺はお前の家がどこなのか知らないからな」
「あの、でも……」
「返事は「はい」か「YES」か、ふたつにひとつだ!」
「は、はいっ」
「よし決まった。じゃあ行くぞ」
「わかりましたよぉ……って、あれ?」
歩き出しかけて、首をひねる。そして、彼の意図に気づいて思わず上目遣いになった。
「ま、一度きっちりと事情を説明しておいた方がいいだろうし、ちょうどいい機会ってことで」
小雪はしばし無言でいたが、すぐに身体を弾ませて、傘を持っていない方の腕にしがみつく。
「えへへ、おにーさーん」
「言っとくが、甘えたって何も出ないからな」
言葉とは裏腹にまんざらでもなさそうなのは、少女の笑顔があまりにまぶしいからだろうか。眼鏡の奥の眼差しはどこか優しく、ほんの少しだけ心地良さそうだった。
「あの、どうでした?」
「とりあえず、これから送っていって経緯を説明する事をちゃんと伝えたから」
「……ごめんなさい」
「それは家に着いたら、なつみお姉さんに言ってやれ。めちゃくちゃ心配してたぞ」
携帯を仕舞い、自由になった片手で少女の肩をポンと叩く。家に連絡したとき、最初に電話に出たのは三姉妹の次女だった。妹の事を心配しているのを差し引いても、面白いくらいに慌てていたのが印象深かったが、それは仕方ないだろう。
しとしととした灰色の世界は、水溜りを避けて進む二人を外界から隔離するようで。
不思議な縁で出会った青年と少女――降りしきる雨の中を一つ傘の下で歩く。
その現状に気づいたとき、小雪は「あっ」と声を上げた。
「どうした」
「あ、いえ、なんでもっ」
「……なにか妙に嬉しそうだな」
「な、なんでもないですよ〜」
頬を赤らめ、口元を緩ませ、喜々とした表情で、
「相合傘なだけですっ」
ただ一言が雨に吸い込まれた。
私たちの出会いが六十億分の一の確率だったとして。
相合傘を書き足したのは、こんな日に繋がることを期待していたからかもしれなくて。
そんないくつもの偶然のなか、自分にとって正しい道を選べたのなら。
望んだ未来に進んでいけているのだとしたら。
まあ、その、なんとかなるのではないかと思ったり。
(了)