三太から帰宅を報せる電話があってすぐ、夕方から怪しかった空が泣き始めた。ぐずぐずしていたのがようやく降り始めた雨は、爽子の予想通りなかなか止む気配を見せない。だから爽子は、三太が駅に到着する頃を見計らって駅に迎えに出たのだ。
 日中は暑いほどの天気だったが、日が沈んで雨が降るとまだ肌寒い。半袖を着替えないまま出てきたのは失敗だったかと二の腕をさする。結婚前より筋肉がついてきたようだ。爽子は心の中で苦笑いを浮かべた。
  改札の前にいると見世物のようで恥ずかしいので、少し離れたところに立って傘を差している。街頭に照らされた雨が段々強くなるのを、爽子はぼんやりと眺めていた。
 以前の彼女には、こんな愛想のない格好で三太を待つ事など想像もつかないだろう。Tシャツにジーンズにエプロン姿。つっかけたサンダルはゴミを出す時に使う実用品だし、化粧も日常の範囲でしかない。それを怠惰だと思う自分がいないではない。けれどこの数ヶ月で、結婚するとはそういう事なのだと、爽子は実感させられていた。そしてその事に幸せを感じる自分は、どうしようもなく三太に参っているのだろう。寿退社なんて有り得ないと、同僚と一緒に息巻いていた頃が懐かしく、また気恥ずかしかった。
 要するに爽子は幸せだった。だから数日振りの電話程度で舞い上がってしまうのだ。以前は待つことは苦痛でしかなかったのに、今はそれが嬉しくて仕方がない。どれだけ待ったとしても、三太は必ず帰ってくるのだから。
「あれ、どうしたの?」
 三太の声がした。爽子がぼんやりしていた視線をめぐらせると、改札口に三太が立っていた。濡れないように屋根のあるところにいて、爽子から少し離れている。雨音に負けないように大声をあげたからか、横を通り過ぎる人の何人かが二人に視線を向けた。
「雨が降ってきたから、傘持ってきた」
 爽子が傘を軽く持ち上げる。わざと傘を一つしか持ってこないような真似も考えたけれど、年齢と近所の目を考えてやめた。
「うわー、ありがとう。でもわざわざ来てもらわなくても、走って帰ろうと思ってたのに」
 だから雨が降ってきたのに気付いても連絡しなかったのだと、三太。爽子は溜息をついて三太を睨む。三太も背が低くはないけれど、爽子は彼よりも更に高いので見下ろす形になる。
「あのね。スーツを濡らしちゃって、明日どうやって出勤するつもりだったの」
 三太が言葉に詰まる。視線を彷徨わせながら言葉にならない声を上げ、ようやく礼服用のスーツがあると呟いた。
「ま、いいけどね」
 爽子が傘を渡す。三太はすぐには傘を開かず、不思議そうに手元の傘と爽子を見比べている。その意味に気づいて、爽子は慌てて三太から顔をそらした。
「ほら帰りましょ。半袖はちょっと寒いんだから」
 多分、真っ赤な顔には気付かれなかったはずだ。寒いという言葉を受けたのだろう、当たり前のように肩に回してくれる三太の手を、彼女はそっとほどいた。

帰宅路

 駅のロータリーと県道をつなぐ二百メートルほどの道路を八鷹銀座という。両端に名前を刻んだアーチが架かっており、道の両側には色々な店舗が並んでいる。とはいえ八鷹は、都心からJRと私鉄で一時間強の町。十九時には大半が店じまいで、今の時間に開いているのは居酒屋しかない。
 通勤時間帯からも外れているからだろう。人通りの殆どない道を、爽子と三太はゆっくり歩いていた。
「最近、忙しいの?」
「どうかなあ。前とそんなに変わらないけど」
「……ふーん。そっか」
 短い会話が、途切れ途切れに交わされる。以前、爽子はいくら話しても話し足りない気がしていた。外ではどちらかというと寡黙で通っていた爽子だが、家ではまるで口から生まれてきたようだと母親にからかわれていた。何度目かのデートで、三太が爽子のあまりに良く話すのを見て驚いた出来事が、いまだに二人の間で笑い話になっている。
「そういえばアレ、何の話をしたときだっけ」
「グレムリンとスティッチは、どちらが可愛いかって話」
「え、なんで分かったの」
 何を話していたかではない。爽子が何を考えていたかだ。
「だって爽子さん、今そういう顔してた。……何?」
 爽子が三太に指を突きつけている。心なしかふくれっ面である。ほとんど頬に触れるほど近くまで手が伸ばされていて、腕が濡れてしまうなと、三太は余計な事を思った。
「『爽子さん』禁止」
「……ああ!」
 三太の大声に、随分前のほうを歩いているサラリーマンが振り返った。三太はそれが気になったが、爽子は一向に動じない。三太を差していた指を天に向けて笑う。
「はい。ワンスモア」
 三太が唸る。唸ったところで爽子の意を翻せるはずもないと分かってはいる。それに今のは、自分が悪い気もする。しかし、照れくさいのだけはどうしようもない。しばらく唸っていると、爽子が底意地の悪い、とびっきりの笑顔を浮かべた。妙なイントネーションをつけた言葉で、三太を震え上がらせた。
「オーケー。リピートアフターミー」
「ちょっ、待った!」
 待ってくれた。待ってくれている間に、三太は言い直さなければならない。さもなくば、砂糖よりも甘い言葉を囁かねばならなくなる。一秒か一分か。タイムリミットが不明なので、三太は苦い薬を飲む思いでまくし立てた。
「だって爽子、今そういう顔してた」
 言い終えて、息をつく。照れくさかったけれど、そう呼べた事は嬉しかった。なんとままならないことかと、三太は内心溜息をつく。うっかり外に出して溜息をつくと、また爽子に叱られる。
 心の中に整理をつけて、三太は爽子の横顔を盗み見た。弛みきっていた。爽子には珍しく、表情を隠そうともしていない。
「どうしたの?」
「久しぶりに名前を呼ばれたから。嬉しい」
 あからさまな台詞に、三太が顔を赤くして視線を逸らす。自分が何を口走ったかに気付いて、爽子も顔を赤らめた。慌てて言い訳しようとして、しかし何も言い訳する事などなくて混乱する。何か言わなければ、しかし何も言う事がない。爽子は結局、別の話題を持ち出す事でそれに変えた。
「みんなは、どうしてる」
「ど、どうしてるって、何?」
 三太の声が上ずっている。笑いをかみ殺しながら、爽子は付け加えた。
「何って、色々。元気かなぁ、とかさ」
「そりゃあ元気だよ。坂井も菊池も湯沢も、黛さんと宗村さんだって」
「希美香は」
 三太の答えが返るまで、少し間があった。それだけで充分だったのに、三太は嘘を吐いた。
「中西さんも、元気だよ」
「……そう」
 会話が途切れる。この沈黙さえ愛しくなれたから、二人は結婚しようと決めた。
 雨音が止まない。時折、県道を通る車の水をはねる音が聞こえる。傘を叩く雨粒の音、雨どいのパイプを伝う滝のような音。居酒屋の中から、下手くそな演歌が漏れている。歩く二人の足音。
「それにさ、爽子さんが止めてからまだ三ヶ月しか経ってないんだよ? 異動のシーズンでもないし、そんなにみんな変わらないって」
 それでも三太は沈黙を破った。殊更に明るく。爽子が三太の鼻面に指を突きつけた。いつの間にか爽子は三太より前を歩いていた。並んでいた時より距離があって、爽子の腕が雨に濡れる。
「『爽子さん』禁止」
 爽子が笑う。底意地の悪い、とびっきりの笑顔だ。三太は泡を食って言い直す。
「爽子が辞めて空気が変わったってのはあるよ。クールビューティーがいなくなって、みんな残念がってる。うちら、結構いい同僚だったでしょ」
 優しい笑顔。爽子は満足したように前に振り返った。八鷹銀座を抜け、県道を渡る信号に出た。
 毎日欠かさずかかってきた帰りの電話。
 寿退社。
 幸せでないはずがない。
 車の来ない信号を待って、二人は県道を渡った。

       *       *       *

 二人の部屋は、タウンパレス八鷹という中層アパート群にある。八鷹銀座と同様、高度経済成長期に起こされた再開発計画の産物だ。若い夫婦が新居とするにはあまりに華がなかったが、二人はこの八鷹の少し寂しい雰囲気を気に入っていた。
 その公園は二人の部屋とは逆方向にあった。公園というのもおこがましい、ベンチと箱ブランコがあるだけの申し訳程度の空間だ。パンツが濡れるのも気にせず、爽子は箱ブランコに乗った。三太もそれに倣って爽子の向かいに座る。スーツの尻に染みていく嫌な感触を感じながら、明日は礼服で出社しなきゃと思った。
 雨の日に何故公園にいるのか、三太には良く分からなかった。前に座っている爽子も特に楽しそうな顔をしていない。いまだに三太は爽子の表情を読み間違える時があるから、断言は出来ないけれど。
 爽子が傘を畳んだ。雨足は衰えておらず、肌に当たると痛いほどだ。三太が慌てて自分の傘を差し出すと、爽子は三太の手からそれを取り上げて畳んでしまった。
「ちょ、何するのさ」
「だって、傘差したまま漕ぐと危ないでしょ」
 当たり前のように爽子が言う。
「漕ぐ?」
「えぇ。箱ブランコに対面で乗ったら、漕ぐものでしょう」
 そう言って爽子は脚に力を入れた。雨のせいで滑ってしまう。爽子はどうしたものかと考えて、一旦箱ブランコから降りた。ベンチの背もたれに傘をかけてブランコに戻り、手すりに両手を伸ばす。傘があっては邪魔だったらしい。両手で身体を椅子に押し付けながら脚を突っ張る。ぎぃ、と箱ブランコが揺れた。
  タイミングをはかって数度繰り返すうち、箱ブランコはそこそこの揺れを生じた。しかし、通常のブランコから比べたら僅かなものでしかない。よほど錆びているのか、揺れて戻るまでの減衰が大きい。揺れるその度、今にも壊れそうな、鉄同士の擦れる音が雨音に重なる。
 床は雨で滑りやすくなっている。独りでこれ以上揺らす事は不可能だろう。しばらく揺れを大きくする事に夢中になっていた爽子が顔を上げた。足元から三太に視線が移る。
「いや、危ないよ?」
「漕ぎなさい」
「はい」
 三太が脚に力を入れる。滑った。慌てて手すりに手を伸ばし、椅子から落ちるのを防ぐ。爽子が吹き出す。三太が睨んでも、爽子の笑い顔は変わらない。
 姿勢を正す。両手は手すりに。力を伝えるために最善の瞬間を見極める。汚名を返上せんとして、三太は再び脚に力を入れた。二人分の力を得て、たちまち倍以上の揺れが生じた。爽子が口を開けて笑う。何の屈託もない、子供のような笑顔だ。
 雨音と箱ブランコの錆びた音のほか、何も聞こえない時間が過ぎていく。顔に当たる雨は痛いけれど、肌に張り付いたワイシャツが気持ち悪いけれど、爽子が笑っていた。それで充分だった。
 あまりに純粋に笑うから、三太の目は夫が妻に向けるものでなく、いつの間にか父親が娘に向けるものに変わっていた。
 あまりに自然に笑うから、爽子が声をあげていない事にずっと気付けなかった。
 大声で笑っているような顔で、全く声を上げていない。その不条理に背を撫でられ、三太の脚は凍りついた。ブランコが爽子独りの大人しさを取り戻す。
 爽子の不満そうな視線を受けても、三太の脚は動かなかった。爽子はしばらく独りで漕いでいたが、三太が乗ってこないのを受けて諦めた。
 爽子は三太を見る。三太が爽子を見る。
  前髪が額に張り付いている。長く漕いでいたからだろう、肩で息をしている。Tシャツもエプロンも透けて、下着の形がはっきりと見て取れた。水を含んだジーンズがぬらぬらと光っている。呼吸が楽なように口を半開きに、頬を上気させ、少し笑って三太に問いかけている。「どうしたの」と。
「爽子さん」
 笑顔が消えて、ふくれっ面になる。その後に来る言葉は分かっている。それでもこの呼び方を選んだ。夫になりきれていない自分の言葉は届かないと思ったから。
 今までで一番近くにいられたときの言葉で、呼んであげるべきだと思った。
「笑ってる?」/「『爽子さん』禁止」
 それきり。二人とも黙りこんで続かなかった。
 言葉が重なったが、聞こえなかったはずがない。爽子は一度たりとて、三太の言葉を聞き逃した事はない。さん付け禁止の遊びは、その爽子だからこそである。
 これは三太の確信だった。聞こえなかったはずがない。そしてなかった事にするはずもないのだ。その言葉が何処から出てきたか、爽子は理解できるから。
  爽子が箱ブランコの脇に目をやった。三太もそれを追ってみるが、特に何も見当たらない。爽子に目を戻すと、どうやら彼女はもっと遠くを見ているようだった。いつの間にか、表情が剥落していた。
「雨が降ると。何だか窮屈な感じがするでしょ」
 爽子はそんな事を口にした。分からないまま、三太は曖昧に頷いた。
「私はね、あれを傘のせいだと思っていた。傘を差すと、雨の降っている部分とそうじゃない部分が出来る。その雨の降っていない部分だけが自分のいられる場所で、それで窮屈に感じるのだろうと」
 爽子が天を仰いで目を細める。腕を伸ばして雨を避けた。
「だから傘を捨ててみた。小さい頃にね。それでも世界は広がらなかった」
 一度言葉を切って三太を見た。その視線が解答を求めていたので、三太は爽子を想像して答えた。
「雨が降ると、視界が悪くなる」
 爽子が笑った。あけすけで寂しそうな顔。三太がいつか見た、二度とさせまいと思った笑顔だった。
「そう。雨が視界を覆うから。雨が降れば降るほど視界は悪くなる。雨音が他の音を掻き消す。雨が強くなれば、手を伸ばした先さえ見えなくなる。耳元に口を寄せられても、何の言葉も届かなくなる」
 両腕を抱え、視線を逸らす。
「窮屈は、私にとって寂しさと同じだった」
 手を伸ばし、三太は爽子の肩に手を回した。母親のように優しく抱きしめる。胸には、苦い後悔があった。
 環境変化によるストレスを想像しなかったわけではない。三太自身は爽子を妻に迎えるほか、特に何も変わってはいない。結婚を決めてからは本格的に同棲するようになり、その生活の変化は緩やかだった。
 爽子のそれは劇的だった。会社を軸にした生活が一変、家事一切を任される事になった。ご近所づきあいに営業のノウハウは無力だ。家の電話に出ても、かつて名乗り馴れた姓ではなく、三太のものを口にしなければならない。それは結婚の喜びを与える一つの出来事ではあろうが、確かにストレスにもなりえる。
 電車を乗り継いで会社に通っていた毎日。彼女にとっての世界が、結婚を期に家とその周辺だけになってしまった。空間的に狭くなった彼女の世界は、人格的にも狭くなっただろう。人間関係は会社のものがほとんどで、結婚すれば畢竟それは断たれる事になる。
 そうではない。携帯電話でもなんでも、連絡は取れる。現代日本で、物理的な理由で人間関係が断たれることなどまず無い。しかし、会社の人間ともう付き合えないだろう事を三太は知っていた。だから今、思考を誤りかけたのだ。
  まさか、と思う。思いが身体を強張らせ、爽子に回した腕に力が篭もってしまった。それに気付いた爽子が顔を上げる。その瞳の奥を覗き込んで、三太は尋ねた。
「知ってたの?」
「希美香とは、どっちが先に過労死するかって笑いあっていたからね」
 表に出さない程度の分別は誰もが持っていた。それでも、仕事一筋の鋼鉄の女と後ろ指を差された彼女が寿退社するのを、喜ばなかった人間は多い。
 能力上の嫉妬もあったかもしれない。三太が同期の女性社員の中で密かに人気があった事もあるだろう。とにかく彼女の結婚は、かつて彼女と仲が良かった者達にさえ、歓迎されるという事はなかった。
 一度、上司にこんな嫌味を言われた事がある。曰く、「君が彼女を取っていったお陰で、うちの会社は大損害だ」
 男の同僚には、もとより連絡する気はなかったのだろう。結婚した今、彼女が頼っていい異性は三太を置いて他に無い。女性社員は、下手に彼女が連絡を取ればそちらの立場まで危うくしかねない。
 ならなんで頼ってくれなかったのか。三太はそう問おうとしてやめた。気付けなかった自分に彼女を問い詰める資格などない。今それを告げてくれた事に感謝して、三太は彼女を慰めようと思った。
 雨は小降りになってきている。この分ならじきに止むだろうが、すぐにでも身体を乾かさないと風邪を引いてしまう。肩を抱いて立ち上がらせ、三太は箱ブランコから降りた。とにかくまずは傘を差そうとベンチに歩くと、爽子が三太の手をほどいた。駅からの道よりもあからさまだった。
「三太」
 いつもの強い声音だった。三太に見せた弱さを恥じている様子はない。それも含めて自分なのだと、爽子は爽子の立ち位置を弁えている。それ故に強く見える。
「はい」
 三太が姿勢を正す。雨は関係ない。爽子に傾注せよと呼ばれたのだから、応えねばならない。
「私は優しいウソなんて嫌いだ。優しいウソは大抵の場合、ウソを言う側に優しい。私にはウソをつくな。優しくなくて構わない。私はこれまで来た道を捨てた。私は、三太と同じ道を行きたい」
 左手を差し出す。エンゲージリングが雨に濡れて光っていた。
「私に、三太と同じものを見せて」
「──はい」
 左手を差し出す。二つのエンゲージリングの重なった音が、確かに聞こえた。
 左手の薬指には愛の血が流れているという。故にそこに誓約を顕すのだと。重ねた掌を伝って、互いの脈が溶け合うような気がしてくる。
 どれだけ握手を交わしていただろう。三太がふと気付くと、爽子は万力のような力で三太の手を握っていた。陶酔していて気付かなかったが、とても痛い。
「ところで」
 先ほどとは別の何かが三太の背筋を撫でる。伸びている背筋を更に伸ばし、三太は畏れた。
「最近、帰りの電話がなくなってきたんだけど、どうしたの」
 虚をつかれた三太の顔から表情が抜ける。のろのろと頭が思考を再開し、三太は思わず顔を背けた。
「……何で笑うの」
「いや、だって、その」
 三太が囁いた言葉を爽子は聞き逃さなかった。顔を真っ赤にして怒る。
「なっ、馬鹿。怒っている人間に向かって可愛いとは何事よ」
 大層な危機に陥ったが、何の事はない。その切っ掛けはごく些細な事だったのだ。
「ちょっと順番があべこべになっちゃったけど。結婚して爽子さん大変だろうから、それを労おうと思ってさ」
 そういって三太が鞄の中から取り出したのは、ワインだった。
「これっていう銘柄を決めていったらなかなか無くてさ。最後はちょっと意地になってたかもしれない」
 爽子の顔が別の色で赤くなる。言いたい事がありすぎて息を一杯に吸い込み、どれから言えばいいのか分からずにそのまま吐いた。それだけで伝わったとばかり、三太が神妙な顔で頷く。事実、伝わっているのだろう。
 もう疲れたといわんばかりに肩を落とす爽子。濡れた服を気にしながら、ベンチの背にかけた傘を拾う。
「それじゃ、家に帰って月見酒と洒落込もう」
 爽子の言葉に三太が空を見上げる。雨は止み、雲間から月がのぞいていた。雨に洗われた空に浮かぶ、どこか寂しそうな月だった。
「綺麗な満月だね」

       *       *       *

 信頼を超えた境地に至って初めて結婚できるのだと思っていた。
 でも実際には結婚する前以上に過酷で、互いを信じる為にエネルギーを使う事なのだと知った。
 もしかすると恋愛は、付き合う前が一番楽しいのかもしれない。
 けれど、一番幸せなのは結婚し、同じ道を行く事だと思う。
 生涯添い遂げた末に何が見えるのか、確かめてみたい。
 この二人ならそれが可能だと思う。
 今回の事で、それを本当に確信できた。
 今から楽しみだ。

       *       *       *

 アパートの階段を登る。人がすれ違うのにも苦労するような狭い階段だ。爽子が前を歩いて、三太はその後に続いている。
「実を言うとね、楽しかったよ」
「何が?」
 酒の肴や明日の朝食など、他愛ない話(不思議と食べ物の話ばかりだった)を続けていてふと、爽子が口にした言葉。何の事を指しているのかは分かったが、三太は反射的に聞き返してしまった。爽子が嬉しそうに言う。
「今の公園の話。駅から公園まで歩いてさ、ちょっとデートっぽかったでしょ。久しぶり」
 デートと言うには鬼気迫るものがあったろうとか、こんな近場で久しぶりのデートを済ませてしまっていいのかとか、色々言いたい事はあったけれど。
「そうだね」
 爽子が笑っているだけで充分だった。
 二人は、扉を開けた。