強い風に砂塵が舞い上がる。
少年は顔を俯かせながら砂塵の中を歩いてゆく。
風の中ふらふらと揺れつつも彼は少しずつ進んでいく。
彼の周りには砂しかなかった。
夕日に染まった黄色い砂漠は何処までも続いているかのような風に思える。
街を目指して砂漠を歩くこの少年の名はヴァイン。
長い旅を終えて故郷に帰ってきた……否、帰ろうとしている薬師である。
「ふあぁ、えらいめに遭った。身体中が砂だらけでヒリヒリする」
彼、ヴァインは自分の服の中に入った砂を軽く落としてから、あと僅かとなった故郷への道のりを急ぐ。
もう半刻もすれば街に着く。
半年振りに我が家に帰ることが出来る。
家には帰りを待つ者なんて誰もいないけど、それでも早く家に帰りたかった。
「ん?」
ポツ……と頬に滴が落ちてきた。
彼は空を見上げた。
空はもう漆黒に覆われており、上天には丸い月が顔を出していた。
はっきりと月が見えるのなら雲ってはいないのだが、それでも確かに……
ポツ、ポツ……と空を見上げた彼の顔に雨の滴が落ちる。
彼は口の広い瓶を取り出し、それを持って雨を瓶に入れながら歩き出す。
「雲も無しに雨が降るなんて珍しい事もあったもんだ」
誰とも無しにそう呟いて故郷へと急いだ。
確か家には大きな瓶があったはずだと思いながら……
彼が街につく頃には雨はどしゃ降りになっており、皆がそれぞれ入れ物を家の外に出して雨を集めていた。
砂漠で生きている者にとって雨は貴重である。
無料で水が手に入るのだから、この期を逃す愚か者は砂漠では生きてはいけない。
一応、オアシスもあるのだが、お金がいるのであまり利用者はいない。
それでも晴れの日が続き、水が無くなったらそこを利用するしか無いので、まったく役に立たないわけでもない。
何にしても、雨が降ったのなら水の相場は下がるだろう。
その隙に水を大量購入しておこう、街に着いた早々ツいてるな。と少年は思いながら街に入り我が家への道を急ぐ。
その道すがら、奇妙な光景を目撃する。
月だけが世界を照らす漆黒の夜。
雨は降れども雲は無く。
優しく儚い月の光が雨を照らし出す。
雨はまるで銀のシャワー。
世界が銀の祝福を享受する。
その世界の中で……
金の長い髪の少女が月を見上げ、瞳を閉じて、銀の祝福を身体全部を使って受け止めるように舞い踊っていた。
Healing oath
正直に言おう。
僕は見惚れていた。
幻想的な絵画の中でしか会えない様なその踊る少女に。
その全てを包み込む様な優しくも力強く……そして一途なその踊りに。
その全てに僕は見惚れていた。
どれくらいそうしていたのだろうか。
不意に少女が大きくなった。
それはもう、先程までは視界の五分の一くらい占有している程の大きさだったのに、今では目一杯まで大きくなっていて、それが少女がこちらに近づいてきたんだって認識すら出来ないまま、少女はこちらへ崩れるようにして寄りかかってきた。
「…………にぃ…さん」
かくて、最後に小さくそれだけ呟くと少女の意識は落ちた様だった。
僕は少女を抱きとめて……
「ああ、またロクでもないことになるんだろうな……」
なんて、ロクでも無い予感を感じ取りながらも、薬師として、人として、男としても放っておくわけにも行かずに少女を背負って家に向かった。
少女を背負って家まで辿り着く。
背中の少女の身体は冷たく冷え切っており、すぐにでも風呂にでも入れて身体を温めないと危険な状態だ。
僕は月明かりと家から漏れる明かりを頼りに、いつもは砂混じりだが雨ですっかり砂が洗い流された石畳を早足で踏みしめ進む。
僕は薬師だ。
だから、病気の人がいたら治してあげないといけないし、倒れた人がいるのなら看病してあげないといけない。
その為の薬師。
その為の僕なのだ。
だから、早足で歩きながら背中の少女を助ける為の手順を考える。
まずは家の鍵だ。
家の鍵はお隣のお姉さんに預けてある。まずそれを回収。
次に扉を開けて女の子と荷物を降ろして身軽になる。その後風呂に行き湯を張る。
幸い今は水には困らない、しかし火はどうする?
何でもいい、火打石でも木の棒と台木で火種起こしでも何でもいい、とにかく火をつける。
お風呂を最速で暖めて、少女を風呂に入れる。
その時点で意識が戻っていればいいのだけど、戻っていないなら服のまま湯船に放り込んで暖を取らせ、その後に布団に乗せる。
さらにその後、薬を調合する。
こんな所か……
雨の中そんな事を考えつつ歩いていると我が家に到着した。
頭の中で次の行動を考えていたので、すぐに隣の家へと行き、トビラをノックした。
「ライアさーん、いますー?」
ノックをして声をかけると、扉の向こうで『はーい』と返事が聞こえた。
それからすぐに扉が開いて、僕と背中の少女を見て目を丸くした。
「あ〜らぁ〜♪ ヴァイン君、帰ってきて早々お持ち帰りぃ?」
「や、あの……自分、薬師ですから」
「薬師だって人の子よぉ?」
「…………」
僕ってそんなに節操の無い人間に見えるんだろうか?
や、まぁ、確かにこの娘は見惚れる位に可愛いけどさ……
「やぁねぇ、冗談よぉ…………半分くらい」
「僕の残り半分の認識について一度深く語り合った方が良さそうですね、僕の生活の為に」
目の前でのんきに笑っているお姉さんの名前はライアさん。
お隣さんで、昔、弟さんの病気を診た時から、よく食べ物とか持ってきてくれたりもするんで、非常にお世話になっている。
特に今回みたいに薬草探し兼薬学研究兼気晴らしの旅に出て行くときには、家の管理とかを任せているもんで頭が上がらない。
家は旅に出ているその間、他の人に解放して好きに使ってもらっている。
以前までは、困ってる人がいれば好きに使わせるようにしてて貰っていたんだけど、無料で解放していたら何でもかんでも集まってきていたので、僅かばかりお金をとるようにはしている。
その方が本当に困った人が使えるし、こっちもお金が入るので悪いことは無い。
「今、急いでるんで鍵、返してくれますか? 早く湯を張って……ってよく考えたら僕が面倒見るより、ライアさんに任せた方が……ライアさん、風呂、沸いてます?」
「んー……ヴァイン君、うちのお風呂入りたいのぉ?」
「僕じゃなくて、後の娘。僕の見立てだと、早くしないと厄介なことになる可能性もあるんで」
僕が背負っている娘を『んー』なんて間延びした声を発しながら見たあと……
「大丈夫じゃなーい? 家に帰ったらね……はい、鍵」
「あ、どうも……って、なんでそんな事わかるんですか?」
「うふふぅ♪ 帰ったら解るわよん♪」
じゃあねぇ〜……なんて言いながらさっさと扉を閉めてしまう隣のお姉さん(未婚)
そりゃ、こんな夜遅くに帰ってきたけどさ……久々に会った隣人にもうちょっと、こう、言うものがあるんではないか?
とにかく、鍵を受け取ったし、当初の計画通り早く風呂を……って……
「そういや、解放してたんだっけな……僕の家……」
自分の家には、明かりが煌々と灯っていた。
近日中には出て行ってもらわないと……今はそれよりこの少女の身だ。
コンコンとノックをしてから暫らく待つと、中から人が出てきた。
背の高い男の人で、体つきは良い……傭兵か何かだろうか?
「すいません、家主のヴァインって言うんですけど……中に入れてもらえますか? 急を要してるんで」
「ああ、君が……話は聞いている。だが、今すぐ出て行けとは言わないでくれよ?」
「そんなこといいませんから……とにかく上がらせてもらえませんか? 急患なんで」
「……? おかしな奴だな君は……ここは君の家だ、家主が我が家に帰るのに気兼ねなど無用だろう」
「いえ、中には言葉が通じない人種もいるんで……それはともかく、湯を張らないと……」
「ふむ、それはちょうど良かった。今、もうすぐ娘が帰ってくると思って湯を張ったところなのだ」
「じゃあ、悪いですが先に使わせていただけませんでしょうか?」
「それは構わないが……君に一つ訊きたい事がある」
「……? なんです?」
「どうして君が私の娘を背負っているのだ?」
少女をお風呂にいれ(父親にしてもらった)自らも風呂に入り落ち着いたところで、話を伺う事にした。
この男の人はシコードさん。流れの傭兵らしい。
剣の腕の程はわからないけど、何となく強そうに思える。
少し前までは娘さんと一緒に旅をしていたんだけど、路銀が尽きたためにこの町で職探しの真っ最中だとか。
で、ベッドの中ですやすやと眠っている娘さんの名前はリネットさん。
シコードさんと共に旅をしていて、同じくこの町に滞在。
何でも雨乞い師らしく、踊って雨乞いをするんだとか。
なるほど、雨の中で踊っていたのも納得がいく。
でも、雨乞いって本当に効果があるんだろうか?
「で? ヴァイン君、君はその年齢にして医者だと聞いているが……杖や魔道媒体が見当たらないんだが……」
「ああ、確かに医者は医者ですけど……神霊師じゃなくて薬師なんです」
神霊師……僕ら薬師とは違い、神懸かった魔法で人々を癒す人達のことを指す。
魔道媒体っていうのは、魔法を使う時に必要な道具で大概は杖であることが多い。
で、僕ら薬師っていうのは、文字通り薬を調合して人々を癒す存在。
ただ、薬師は材料費がいるために、あんまり儲からないのだ。
「神霊師ではなかったのか……」
「普通、医者って言ったら薬師を連想すると思いますけど……どうして僕が神霊師だと思ったのですか?」
普通、医者と言われれば薬師を指す。
理由は単純に神霊師の数が少ないからだ。
神霊師としての素質は生まれもってもので、出来る出来ないの区別がハッキリしている。
で、完全に遺伝なことと、元から素質あるものの数が少なかったので、人気のある職業だとは言え数が少ないのだ。
故に大衆に浸透しているのは薬師なのだ。
だけどこの人は医者=神霊師と考えていた。
神霊師は数が少ないが優秀なために、お偉いさんとかの特権階級に抱えられている事が多い。
実はこの人、身分の高い人だったりするのかも……
「……まぁ、何となくだ」
「……そうですか」
シコードさんは少し視線を外してそう言った。
妙な沈黙が場を支配する。
「そういえば……」
「なんです?」
「娘を助けてくれた礼がまだだったな……すまない、助かった」
そう言ってシコードさんが頭を下げる。
普通、僕みたいなまだ若輩者と呼べる者には中々頭が下げれないものなんだけど……この人は人間が出来てるらしい。
「いえ、顔を上げてください。僕は薬師なんですから、困ってる人……それも目の前で倒れた人を放っておくわけにいかないだけなんですから……」
「いや、それは違う。薬師だろうと神霊師だろうと助ける者は助けるし、放っておく者は放っておく……それは君自身の人格の良さなのだ」
「そんなもんですかねぇ……」
「そういうものだ……余程、良い親、良い師に恵まれたのだろう」
「…………ええ……良い親、良い師でした。不出来なのは自分くらいです」
「…………一つ、訊いてもいいか?」
「どうぞ?」
僕が促すと、彼は少し躊躇してから切り出した。
「ここには……君一人で住んでいたのか?」
「…………そうです。父は僕が生まれてから一度も会ったこと無いです。母は……六年前に亡くなりました」
「君は今、十台半ばだと見えるんだが?」
「十八歳です」
「では、十二かそこらから一人で生きてきたのか」
「はい、でも一人じゃなかったですよ。本当の意味で僕一人なら僕は今頃死んでいます」
「……そうか」
「はい、それともう遅いですから寝ましょう。僕も旅帰りで疲れました」
「気が付かなくてすまない」
「いえ、こっちから話しかけたことですから」
「……それと」
「なんです?」
「辛い話をさせて悪かった」
「…………おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
男の人は寝室に向かっていった。
その背中は、はじめて見た時の威圧感は微塵もなく、何処か寂しげだった。
「さって! ちょろっと薬作ってからねーようっと!」
しんみりとした雰囲気を吹き飛ばすように明るい声を出して薬を作り始めた。
その後、寝る際に、自分の寝る場所が占拠されていることに気付き、仕方なく居間で寝ることになった。
『ごめん……なさい』
『…………』
『助けられなくて……ごめんなさい』
『…………』
『僕がちゃんと勉強しなかったから……何でも治せるって己惚れてたから……』
『…………』
『ちゃんとおかあさんの言うことを聞かなかったから……』
『…………』
『ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい! ……っく、ひっく』
『…………』
『ひっく……っく……ぅ……っ……ぅぁぁぁぁぁっ!』
『…………』
『殺しちゃってごめんなさい、おかあさん』
瞼を開くと目玉焼きがあった。
……おいしそうだ。
はむはむ……うまい……
「あーっ!? まだ食べちゃ駄目ですよ!?」
……横にあるウインナーもおいしそうだ。
はむはむ……おいしい……
「もー! 食べちゃ駄目だってばー」
何かに口を押さえつけられた。
でも……この指もおいしそう……
はむはむ……
「きゃっ!? ちょ、ちょっと何を、うひゃう!? だめっ、歯を立てないで……」
はむはむ……食べれない……
「ね、ねぇ、本当は起きてるんじゃ……って、ひゃん!」
「…………君達は朝っぱらからそんな声を出して一体、何をしているんだ?」
「おっ、お父さん! ち、違うの、私は……ひぃん!」
「…………」
ドゴン!
とてつもない衝撃が脳天を駆ける。
覚醒した頭を上げて何が起こったのか確かめる。
「おはよう、ヴァイン君」
「あ、おはようございます、シコードさん。ところでやたら頭が痛いんですけど……」
「大方、寝ぼけて頭を机にぶつけたのだろう」
「……でも、僕ってたしか椅子に座って、机にうつ伏せになって眠ったような気がするんですけど……何故後頭部が……」
「椅子から転げ落ちて、その後に机の足にでも頭をぶつけたんだろう」
「僕、起きた時、椅子に座っていましたよ?」
「ふむ、それならば、なにか? 私が朝起きて居間に行ったら、君が寝ぼけて娘に色っぽい声を出させている現場を目撃して、娘の嬌声にドギマギしながらも平静を装いつつ手にした剣の鞘を君の無防備な脳天に力の限り振りぬいたとでも言うのか?」
「……いや、そんなこと無いですけど……なんでそんなに具体的なんですか?」
直後、小さく『……装ってたんだ』と聞こえてきた様な気がしたけど話を進める。
「なに、ただ可能性の一つを例としてあげただけだ」
「……で、どうして娘さんは、こっちを涙目で警戒しながら、真っ赤な顔で恨めしげにこっちを睨んでるんでしょうか?」
「もしかしたら、君が寝ぼけて娘に色っぽい声を出させるような事をして、たまたま起きてきた父親にその姿と声を見られ聞かれて恥ずかしくて、その元凶たる君を恨めしくも恥ずかしい気持ちで睨んでいるのかもな……なに、あくまで例えばの話だが」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………みんな起きたことだし、ご飯にしませんか?」
「奇遇だな、私もそう思っていた。リネットもお腹空いているだろう? 早く席に着くといい」
「……うぅ、娘はお父さんの意外な本性を垣間見て、すこし心配だよ……」
起きた早々、わけのわからないまま食事が始まった。
「えっと、気を取り直して自己紹介しちゃいますねっ!」
気を取り直すようなことがあったのか……
などと、夢見の悪い朝に思う僕こと薬師ヴァイン十八歳。
こっちも、先の過去の悪夢のことはスポポーンと抜かして気を入れ替えよう。
「えっと、雨乞い師のリネットって言います。今はお父さんが無職のグータラと化してますので、私が稼がないと一家心中の危機です。よろしくっ!」
元気よくとんでもないことを言い出すリネットさん。
昨日は色々と切羽詰まっていてちゃんと見れなかったが、改めてみるとかなりの美人さんだ。
後の方で一つに束ねている黄金の髪、白磁の様な肌、澄んだ碧の瞳、どれを見ても一級品だ。
質素な麻の服を着ているが、その美しさはあまり損なわれてはおらず、また別の活発なイメージをかもし出している。
どこか底知れない不思議さ漂うシコードさんとは対極の印象だ。
「はっはっは、娘よ……朝っぱら、しかも自己紹介の席でその痛烈な皮肉は父さんへの愛情の裏返しか?」
「笑いながら言っても、駄目ですからね。ちなみに愛情の裏返しじゃなくて、怒りの直球だよ。いい加減にしないとお小遣い抜きなんだから」
「娘よ……小遣いを止められたら色町方面に行けないではないか」
ピキッ!
何となく、リネットさんの額辺りでそんな音が鳴ったような気がした。
それと、何となく表情こそ笑顔のままのリネットさんが恐ろしく見えてきた。
「お父さん♪」
「なんだ娘よ?」
「向こう三ヶ月お小遣い抜きね」
「待て、落ち着け娘よ。性急に結論を出すのはいささか慎重さに欠けるのではないか?」
「そんな場所に払うお金なんてウチには無いのっ!」
「馬鹿な! 父さんは娘の母を捜そうと……」
「前から言ってるでしょっ! まっとうな順序を踏まえて探しなさいっ!」
前にもあったのか、この会話……
っていうか、二人とも自己紹介の席ってこと忘れてるんだろうなー。
「しかし、やっぱり男女間の関係と言うのは一番の近道であり……」
「お父さん♪」
「解ってくれたか娘よ」
「向こう半年小遣い及びご飯代も無しね」
「娘よ、何故そういう結論に至るのかが謎だ」
「むしろ、シコードさんが理解された思った経緯の方が謎なんですけど……」
親子の会話に思わず突っ込んでしまう僕。
会話に参加した俺を見て、ハッと自己紹介の途中だった事を思い出したのか、彼女は何事も無かったかのようにこちらを向いて微笑んで……
「…って言うわけで、よろしくお願いしますね♪」
「今のやり取りの何処によろしくお願いされればいいんだ、僕は?」
「ヴァイン君、私の小遣い抜き発言の撤回要請をお願いされてくれ」
「はぁ、解りました……えっと、リネットさん、まぁ、きっとシコードさんも冗談で言った事でしょうし……」
「そういう場所の人からウチにツケの催促されたことがありました、もう恥ずかしいやら情けないやらで泣きそうになりました」
場が沈黙に支配された。
シコードさんって、真面目そうに見えて実はこういう人だったのか……
「ほら、でも、シコードさんだって男の人だし、溜まった物は発散させないと健康に悪いって言うか……」
「そうだヴァイン君、もっと言ってやれ」
しかし、何で僕は初対面の少女にその父親からのお願いでこんな説得を続けてるんだろ……
ちなみに、溜まった物っていうのはストレスの事であって、それ以外の物では決して無いのであしからず。
で、僕がそういう風なことを言うと、リネットさんの目がすぅ、と細くなっていく。
あの……むちゃ怖いんですけど……
「ふぅ〜ん、ヴァインさんもそういう事する人なんだ……」
「シコードさん、夜遊びはいけません。小遣いは半年とは言わず年単位で没収されてください」
「ヴァ、ヴァイン君!? 君は私を裏切るのか!?」
「裏切るも何も正論を言ったまでです」
「ほーら、ヴァインさんもそう言ってるんだし、お父さんもちょっとは反省してください!」
「……うむ、山より高く、海より深く反省した、だから小遣い抜きは無しってことで……」
その時僕は見た。
青筋を立てながら引き攣った笑顔でいる少女を。
「お父さん♪」
「おお! 解ってくれたか娘よ」
っていうか、娘の表情見て理解されたと理解したシコードさんの頭が理解できない。
「お父さんなんて……お父さんなんて……一生お小遣い抜きっ!!!」
「ぶふぉあ!?」
リネットさんはいつの間にか食べ終えていた食事の乗っていた皿を思いっきり父親に叩きつけてプンスカしながら、僕の腕を取って家から出て行く。
なんでもいいけど、今叩きつけたお皿って、ウチのお皿なんだけどなぁ……
「へぇ、薬師なんですか」
ガヤガヤとうるさい朝の市場を歩きながら、リネットさんは僕の自己紹介を聞いていた。
家じゃお父さんがいて話が進まないから、と言って外を歩きながら自己紹介をすることになったのだ。
それと、その父親に最初にちょっかいかけたのはリネットさんだと僕の頭は認識してるんだが、それは言わない方がいいだろう。
それにしても、目立つ目立つ。
リネットさんは簡素な麻製の服を着ているのだが、それでもその容姿の特異性の為か非常に目立っている。
基本的に砂漠の民は日に焼ける為に肌は褐色だ。
だけどリネットさんは女性は皆羨む様な白い肌で器量も良い。
故に目立っていて、なんだか自分まで注目されていて落ち着かない。
「それにしても、人気者なんですね、ヴァインさんは」
「や、一体どこからそんな突拍子も無い意見が……」
「だって、みんなヴァインさんのこと見てますよ。いつも私一人でも多少は目立ってますけど、今日の注目度はすごいです」
「そうなのか?」
「はい」
僕が首を捻っていると、不意に声をかけられた。
振り向くとそこには、ガタイのいい何でも屋のおっちゃんがいた。
「おう! ヴァー坊! 帰ってきたのか!」
「おっちゃんこそ、元気だった?」
「あたぼうよ! やー待ってたんだぜヴァー坊。ヴァー坊が半年分って言って渡してくれた薬が三ヶ月で切れちまって、薬はもう無いのかって客ばっかりだったんだぜ」
「うーん、売れ残ったら嫌だから控えめには渡したんだけど、三ヶ月とは……」
「ヴァー坊の薬は安いからなぁ、飛ぶように売れちまわぁ」
「薬が沢山売れるのって素直に喜べないんだけどなぁ……」
「旅の途中の一団とか遠出でここに来た客とかに凄い売れてなぁ……何でも他所の町じゃ何倍もするらしいとか言ってな」
「そりゃ、他所が高すぎるんだってば。でも色々見て回ったけど確かに高かったなぁ……あれって詐欺店じゃなかったんだ……」
「まー、そーゆーこった、だから早速、薬を頼むな。ヴァー坊が帰ってきたって知ったら、また薬はまだかって言われるに決まってらぁ!」
「無茶言わないでよ、昨日帰ってきたばっかりで、まだ材料の状態だってば」
そう言うとおっちゃんは、顔を近づけて声を落としてヒソヒソと話を続ける。
「でもその材料も旅先で格安で仕入れてきたんだろ?」
「へっへっへ、もっちろん。これがまたそこらの道に生えてるんだけど、みんなそんな身近にある草が薬になるってわかってないみたいで、とり放題むしり放題さ」
「げ! って事は材料費はタダかよ。うまいこと儲けやがって」
「だから、もうちょっと薬の値段が下げれると思う。まぁ、そういう経緯だから材料に犬の小便とかかかっている可能性も無きにしもあらずだけど」
「ヴァー坊も悪だねぇ…」
「それを知りつつも何食わぬ顔で売りさばくおっちゃんには負けるよ」
「「あーっはっはっは!」」
笑う馬鹿二人。
ちなみに会話が聞こえていたのか、リネットさんは笑顔が微妙に引き攣っていた。
「ほら、やっぱりヴァインさんは人気者だよ」
「いや、僕が人気っていうか、僕の薬が人気なんだろ?」
「ふふっ、同じ事だよ」
おっちゃんから解放されたあと、近所のおばちゃんや子供に声をかけられて、やれ身体の調子がとか、やれ新しい面白いことは無いのかとか色んな人に捕まった。
で、解放されて現在に至る。
一方、リネットさんもおばちゃんによく捕まっており、主婦な会話を繰り広げていたりした。
ちなみに、シコード、リネット親子が僕の家に住んでいたのは結構広まっており、二人でいるのも当然のものとして受け入れられていた。
「そう言えば……リネットさんってお兄さんとかいないの?」
「え? 何ですか? 藪から棒に」
「いや、初めて会ったとき、意識失う前に、兄さんって言っていたような気がしたから」
「う〜ん、いると言えばいるんでしょうか……」
唇に人差し指を当てて黙るリネットさん。
どうやら話す気は無いらしい。
気になる物言いだったけど、無理に聞き出すほどのことでもない。
妙な間に耐えかねたのか、リネットさんが話題を変えてきた。
「ところで、ヴァインさんに一つお願いがあるんだけど……」
「なに?」
「その……恥ずかしい話なんだけど、お父さんがアレで私も安定した収入が無くて、お金が一向に貯まらなくて……」
「……は、はは」
笑うしか無かった。
「それで……もう少しの間だけでいいですから、家に置いてもらえないでしょうか? ヴァインさんのお仕事も手伝いますから」
「いいよ」
「もう、なんでしたら父の身包み全部取り上げて、内臓とかも二、三個ほど持って行っても……って、いいんですか?」
「か、構わないよ」
中々にデンジャラスな人だなぁ……
シコードさんも普通に虐待されてるし……
「じゃあ、早速だけど手伝ってもらえる?」
「え? 今からですか? 先にちょっと行かないといけない場所があるんですけど……」
「どこ?」
「領主さまの所へ……」
「じゃあ、行く場所は一緒だ」
「えっ?」
驚くリネットさんを後に、僕はどうしてだか不思議と暖かな気持ちで領主の館へと足を向けた。
僕達は領主の館に通されて、品のいい椅子に座らされていた。
目の前のテーブルには湯気の立ちこめる美味しそうな料理。
何故か領主様だけでなく、僕らの目の前にも同じものが鎮座している。
「うわ、すごくおいしそう……一体、どういうことなんです、ヴァインさん?」
「そりゃこっちが聞きたいよ、リネットさん」
中に通された所までは経験通りだったのだけど、こんなケースは初めてだ。
いったい、なんなんだろう?
ひそひそと話し合う僕とリネットさんに領主様が声をかける。
「ヴァイン……それにリネットちゃん……よくやりましたわね」
領主様はなんだか満ち足りた笑顔でそう言った。
領主様は五十歳くらいの女性で僕の母の親友であり、仕えるべき方だった。
最近はただの主婦みたいな雰囲気を纏っているのだが、決めるところはきっちり決める人だった。
だから、親友の息子とはいえ、僕のことは公的な面ではキッチリ一般人として扱っている。
故に今の状況は謎だ。
「もう、そんなに硬くならないでもいいですよ。ヴァイン、貴方は今日はただいまを言いに来たのでしょう? だったら親友の息子として迎えます」
「はぁ、でもそれだけってわけじゃ……」
「でも、それもあるんでしょ? だったら問題はないはずね?」
「はぁ……まぁ、美味しいもの食べれる部分には何の問題も無いわけなんですが」
「で、リネットちゃんは別件で来たのでしょうけど、ヴァインと一緒に来たのならその親友……いえ、恋人として扱います」
ぶふぁ!?
思わず飲んでいた水を仲良く噴出してしまう他称恋人同士。
「あら、なんです二人して行儀の悪い」
「あの、何がどういった経緯でそういった結論に至ったのかご説明を……」
うん、リネットさん、いいこと言った。
まったくもって僕も同じことが聞きたい。
「だって貴方達、ヴァインが帰ってきて早々に同棲しているのでしょう?」
「いやまぁ、確かに間違ってはいないのですが……」
「で、二人で朝っぱらから市場でデートでしょ?」
「デートじゃないです」
「で、最後に私の所に来てただいまの挨拶と、付き合いますっていう報告しにきたんでしょ?」
「後半部分が激しく勘違いです」
「じゃあ、なんで二人連れ立ってくるのよ?」
「そりゃ、住む所いっしょで、目的地もいっしょなら当然でしょう」
「ふぅ〜ん、何が何でも違うと言うのね?」
「「違います」」
ユニゾンしながらもそう答えた僕らを、領主様がまるで獲物をいたぶる肉食獣の様な笑顔になる。
ああ、まずい、なんだか敵に回しちゃいけないものを敵に回したようだ。
「ねぇ、ヴァイン?」
「なんです?」
「リネットさんって可愛いわよねぇ? 白い肌に長い黄金の髪、弾ける様な笑顔、どれをとっても一級品よ?」
「そ、そりゃまぁ、リネットさんは綺麗だけど……」
と、言ってしまった時にはもう遅かった。
隣のリネットさんが何とか笑顔を保ってはいるものの、もう真っ赤で俯いている。
「あららぁ? どうしたのかしらリネットさん? さてはヴァインにえっちなことでもされた事でも思い出したのかしら〜?」
「してないっ!」
即座に否定するが、リネットさんの顔は赤くなる一方だ。
っていうか、そこで赤くならないで欲しい。
「ヴァインには聞いて無いわ。リネットちゃんに聞いてるの。どう? されたの?」
「領主様、発言がそこらのおばちゃんですよ」
「いいのよ、どうせおばちゃんですよ。で? どうだったのかしら?」
「…………されて、ません」
「あーら、そんな俯いたまま言われても説得力が無いわ。ちゃんとこっちを見て言って頂戴」
「うう……」
なんとか顔を上げるリネットさん。
顔がありえないくらい真っ赤だ。
「されて……ません」
「本当に?」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
沈黙のまま見詰め合っていたが、リネットさんの瞳が泳いだ。
それを見て、鬼の首を取ったかのような領主様。
「ヴァイン……」
「なんです?」
「よくやったわっ!」
「何でそうなりますか……」
「そりゃなるわよ、だってねぇ……」
「あーもう! 俺達はそんな話をしに来たんじゃないんです!」
「まーまー、怒鳴ってばっかりいないで料理食べないと冷めるわよ?」
「怒鳴らせてるのは何処のどちら様なんでしょうねぇ……」
「私だけど、元凶はヴァインよねぇ?」
「全くもって身に覚えがないんですが」
「まっ! 駄目よヴァイン、ちゃんと認知してあげないと!」
「いいかげん、怒りますよ」
「ほーら、そんな顔しなーい。リネットちゃんも食べた食べた。これ美味しいわよ〜?」
やっぱりこの人を敵に回しちゃいけないと再確認させられた昼食だった。
「で、ヴァインの用事は水のことかしら?」
領主様が母の親友からこの町の領主の顔へと変わる。
食事も済んで、こちらから切り出そうとする前に、先に言われた。
「あれ? でも雨なら昨日、私が……」
「まぁ、そうなんだけどね。僕は薬師だから生活用水程度の水じゃ足りないんだ。蒸留水やらなんやら色々な種類の水を作らないといけないし」
「なるほど、すごいんですねヴァインさんって」
「別にすごくないさ。薬師なら誰もが習得してる技能だよ」
「謙遜しなくてもいいわヴァイン。その齢にして完全な水成法を習得しているのは誇れることよ。それに水成法すら出来ずに薬師を名乗ってる輩だって少なくは無いわ」
「いえ、僕に誇れるものなんて何一つないですから……」
「ヴァイン……貴方まだ……」
「それより、リネットさんの用事ってなんだったの?」
「リネットちゃんの用事は雨乞い師としての報酬を受け取りに来ただけよ」
僕は話題を変えたくて無理矢理話を変えた。
領主様も何か言いたかったみたいだけど、特に何も言わず乗ってきてくれた。
「雨乞い師って具体的に何するんです?」
「えっと、基本的に踊るだけです。ただ無闇やたらに踊っても効果は無くて、雨の降れそうな環境が整った時に踊れば確実に雨を呼ぶことが出来るんです」
「へぇ、なるほど……踊ったらすぐに雨が降るわけじゃないんだ。納得」
何時でも何処でも雨を呼び寄せれるなら貧乏しているわけが無いんだ、この少女は。
まぁ、それでも環境さえ整えれば降らせることが出来るのは、十分驚愕に値することだとは解る。
「では、リネットちゃん、報酬よ」
領主様がテーブルに置いてあった小さな鐘を鳴らすと、置くから魔術師の格好をした白髪の老人が結構大きな布袋を持って現れた。
布袋の中身は金貨銀貨の類だろう。
結構な報酬である。
確かにこれだけあれば、安定していなくても結構の期間は生活可能だろう。
「リネット君、これが今回の報酬だ」
「ありがとうございます」
「で、ヴァイン、水の件はワシが一任されておる。付いて来なさい。それと……おかえり、ヴァイン」
「……ただいま、オリン師」
「この半年……遠き地にて何を学んできたか、道すがら聞かせてもらおうかの」
そう言って目の前の魔術師は歩き出した。
僕とリネットさんもそれについて部屋を出る。
「「それでは、失礼します、領主様」」
「ええ、暇になったらまたいらっしゃい」
挨拶を済ませて、僕らは老魔術師についていった。
魔術師オリン。
僕はオリン師と呼んでいるが、別に僕の薬学の師というわけでもない。
オリン師は魔術師であって、薬師ではないのだから当たり前なのだが。
それでも魔術師と言うだけあってその知識は色々と精通しており、所持する蔵書も多岐大量だった。
薬学を学びたい僕に薬学関係の本を見せてくれたのがオリン師で、オリン師がいなければ今、僕はどうなっていたか想像もつかない。
オリン師自身は領主に仕える魔術師で、かなり強力な魔術を行使できると囁かれている。
ちなみにその噂は真実であることを僕は知っている。
「で? どうだったのだ? 遥か異国の地にて新たな発見はあったか?」
「ええ、いい事から嫌なことまで多岐にわたって新発見です。……それに」
「それに?」
「見つけましたよ。やっと」
「そうか……どうだった?」
「……この地方には無い植物が必要でした。一応それは持って帰ってきました。あとは神霊術の方も見ましたが、神霊術じゃ先ず無理ですね」
「ワシが聞きたいのはそういった事ではないぞ、ヴァイン」
「はぁ……では何がお聞きになりたいんです?」
「それを見知った時、お主がどう思ったかを聞いておるんじゃ」
「…………」
「…………」
「…………あのー、ヴァインさん、それにオリン様? 一体、何のお話を?」
先程から二人にしか解らない会話をしていて、リネットさんも暇だったのだろう。
会話に参加したいのか、ただ聞いていても意味が解らなかったのが気にかかっただけなのかは解らないが、説明を求めてきた。
先程までは屋内だったのだが、今は屋外にまで来ており、もうすぐ目的の場所。
このまま言わずにいてもいいし、言ってもいいような目的地までの微妙な距離。
少し黙っていれば目的地に着いて、話は有耶無耶になるだろう。
僕は少し迷ったが言うことにした。
「うん、旅先でね、見つけたんだ…………母さんを死に至らしめた病の治療法」
「あ……ごめんなさい……」
薮蛇だった、と言わんばかりに申し訳なさそうな顔をするリコードさんに笑いかける。
「気にしないでいいよ。僕だってビックリするくらい何も感じなかった。僕の悲願で望みだったのに、何も感じなかった。ただ知って終わり。それだけ」
「…………」
「…………そうじゃったか」
その後、会話は無かった。
ただ、目的地のオアシスについて、オリン師と水の交渉を事務口調で終わらせて、その日一日分の水を持って帰宅した。
『どうしてもかの?』
『うん、僕は薬師になりたい』
『どうして薬師なんじゃ、お主には……』
『……薬師がいい』
『…………』
『……薬師じゃなきゃ駄目なんだ』
『…………ヴァインよ、お主も聞いた事はあるじゃろう? あの言葉を』
『…………』
『神霊師はろくなのがいない、薬師はろくなもんじゃない……医者の事を悪く言う人達のよく言うセリフじゃ』
『…………』
『お主はいつかその言葉の本当の意味を知ることになる……悪いことは言わん。薬師なぞ止めて……』
『…………知ってる。おかあさんから教えてもらった。ほんとうの意味もちゃんと教えてもらった』
『…………なんと言うことを教えておったのじゃ、あやつは……』
『おかあさんを悪くいうな!』
『…………ならば解るじゃろう? 薬師とは神霊師よりも茨の道。お主はまだ子供なんじゃ、何もせんでいい。ワシの息子になっておいたほうがいい』
『…………僕は……僕はおかあさんの息子だ』
『…………』
『…………』
『…………』
『…………』
『…………』
『…………』
『…………やれやれ、頑固なやつじゃ。好きにするがいい。本はそこらにある勝手に読むがいい。ワシゃ手伝わんからの』
『……………………ありがとう、オリン師』
『やれやれ……礼より、薬師なぞ止めてくれる方が何倍も嬉しいんじゃがの』
『…………僕、頑張るよ。頑張っていつかきっとたくさんの人を癒してから……』
瞼を開けると、すり鉢があった。
薬による異臭が部屋に充満している。
しばらく、ぼーっとすり鉢を見ていると記憶が覚醒してきた。
「あ……確か新らしい薬の調合に失敗したんだっけ……」
嫌な……嫌な夢を見た。
この前は母さんが死んだ時の夢で、今日は死んだ後、僕が薬師を志す夢。
「ヴァインさん! ヴァインさん! 大丈夫ですかっ!?」
「あ……」
隣にリネットさんがいた。
こちらを心配そうに覗き込んでいる。
心配、してくれたんだ……
「おはよう、リネットさん」
「おはよう、じゃないですよっ! 大丈夫なんですか!? なんかすごく苦しそうでしたけど……」
「ああ、ちょっと夢見が悪かっただけだから気にしなくてもいいよ」
本当は薬の調合を失敗したせいなんだけど、わざわざ言って心配をかける事も無いだろうと思った。
「やあ、ヴァイン君、おはよう。しかし朝っぱらから何だねこの臭いは? リネットが料理でも失敗した臭いか?」
「じゃあ、お父さんにそんな料理食べさせるわけにもいかないから、ご飯抜きね」
「なっ!? ま、待て娘よ。それは非常によろしくない結論だと言えるだろう。一家の大黒柱に食を与えないというのは、どの点から見ても見返りが無いと思うのだが」
「食費が浮きます」
「落ち着け娘よ。そんなはした金をケチって……」
目の前で繰り広げられる日課の親子喧嘩を前にして、僕はただ黙ってご飯を食べる。
シコード、リネット親子が来て一週間が経つ。
リネットさんは働き者で、細かい所までよく気が付く人で、手伝いとしては申し分ない。
シコードさんは……まぁ、なんと言うかまったりと働いている。
「ヴァインさん、ヴァインさん! 今日のお仕事はなんですか?」
朝からやる気いっぱい、元気いっぱいのリネットさん。
やる気があるところ申し訳ないんだけど……
「んーと、今日はまったりと開店休業状態かな?」
「かいてん……きゅうぎょう……ですか?」
「まぁね、ほら一応、急患とかあるかも知れないから開けとかないといけないけど、自発的には何もしないってこと」
「どうしてまた急に……何かあったんですか?」
「う……まぁ、ちょっと薬の調合に失敗して……」
「あれ? でもお薬は全種類、まだ予備があったはずですけど……」
ウチにきて僅か一週間足らずで薬の種類を憶えたリネット助手。
結構多い上に見分けがつきにくい物もあるのに、それをものともせずに全て憶えてしまった。
もしかしたら彼女はこういった事に天性の才能があるのかもしれない。
彼女とは反対に父親の方は全く役に立たない。
まぁ、お客さんの相手(女性限定)は中々に堂の入ったものがあるけど。
「うん、まぁ、そうなんだけど偶にはゆったりと過ごすのも……って何です?」
「いや、ヴァインさんの偽者かなー? って思って」
ペタペタと遠慮なく顔を触りまわすリネット助手。
何でもいいけど、顔を触りまわしても本物かどうかなんて解るのだろうか?
「う〜ん、本物っぽいしなぁ……」
「どういう基準で、本物と偽者を区別してるのかしらないけど、そんなに変なことです?」
「変ですよ! お父さんが真面目に働いて女の人口説かないくらい変!」
「落ち着け娘よ。それでは私がまるでろくでなしの様に聞こえるではないか」
「うわ、それってすごく変って事じゃないか!」
「だから、変なんですってば!」
もう、一体どうしちゃったんですか!? と人差し指を立ててお説教モードに移行しつつあるリネットさんの近くで父の存在意義について深く悩むシコードさん。
「もう! いつもは無償で身体の悪そうなお年寄りのお家まで見回りに行っちゃうくらい、お人好しで優しいヴァインさんは何処行っちゃったんですか?」
「本日は自分に優しい日になったんだ」
「そんな事言ったって、患者さんはどうするんです?」
「辛くなったらウチか他所の医者んとこ行くだろ?」
「……………………」
「そういうわけで、僕は少し寝る。お休み」
そう言ってそのまま机に突っ伏す僕。
そんな僕を見て、もー! 真面目にしてくださいってば! と服を引っ張って起こそうとするリネット助手。
その瞬間……
ドン。
そのまま僕はテーブルから転げ落ちた。
僕が無抵抗に引っ張られるとは思っていなかったのか、無抵抗に引っ張られた僕に押しつぶされるように倒れるリネットさん。
「ヴァインさん……どいてください」
どこかぼーっとして心ここにあらずなままそう言うリネットさん。
「うーん、やだ」
それを一言で拒否する僕。
「やだ、って……何するつもりなんです? お父さんだって見てるんですよ?」
「いや、見えてるけど認識はされて無いから大丈夫だ」
動揺して揺れる碧眼が綺麗だと思った。
床を背にして散らばった金髪が美しいと思った。
意思とは反して力が抜けて頭が下がってくる。
「なっ、何が大丈夫なんですかっ! ちょっと、これ以上は本当にシャレにならない……いえ、本気なら別に良いというわけでもなくて……」
あわあわと色々まくし立てるリネットさん。
真っ赤になって困ってる様がすごく可愛いと思った。
「ちょっ、そのっ、ちゃんと責任とってくれるっていうなら、考えなくも無いというか、吝かでもない……って私ってば何を言って……」
その言葉を聴いて、僕の頭がが下がりきった。
僕のファーストキスは……
「床の味がした……」
「え?」
ぐったりと頭を床にくっつけている僕。
瞳をきゅっ、と閉じていたリネットさんが恐る恐る目を開ける。
「ヴァイン……さん?」
「あっはは……目測、間違った」
今だリネットさんにのしかかりつつも、その体勢から動こうとしない僕を不審に思ったのか疑惑の視線を投げかけてくる。
僕はふいっ、と視線を逸らしてあさっての方を見る。
「ヴァインさん、もしかして……」
リネットさんがのしかかったままの僕の身体をどけて、立ち上がる。
そして僕の身体を立ち上がらせようと引っ張って……
ドサッ。
僕の身体がリネットさんの支えを失った瞬間、無様に地面に転がった。
「あ〜あ、バレちゃったか」
「ヴァインさん、一体、どうして……」
「恐らく薬の調合に失敗した副作用だろう。薬師というのは自分で効果を確かめる為に飲むからな。おそらく全身が麻痺だか高熱だかの要因で動けなくなっているのだ」
「お父さん! 見てたの!?」
冷静に分析する父親に、真っ赤になって声を荒げるリネットさん。
「見えていないとでも思ったのか、娘よ?」
「見てたんなら助けてくれたっていいじゃない!」
「いや、本気で止めて欲しそうにも思えなかったんでな。それに娘もそういうことを知ったら、私の言い分も理解してくれるだろうという期待もあったが」
「り・か・い・し・ま・せ・ん!」
「それは残念だ。それよりも今はヴァイン君を寝かせる事が先決なのでは無いか?」
「くっ、こんな時だけ正論を……お父さん、ヴァインさんを背負って。私が扉開けるから」
「了解した…………ところで娘よ?」
「なに? いま変な事言ったら、未来永劫、お金を持てなくなると思ってね?」
「私はいつも真面目だ。と、そうではない。ヴァイン君の部屋というのは何処だ?」
「え? …………あれ? ヴァインさんっていっつも居間で何か調合してますよね?」
「うむ、我々が先に眠りについても一番遅くまで薬の調合をし、朝は誰よりも早く起きて調合している……故に私達はヴァイン君の部屋を知らない」
「そもそも、ヴァインさんの部屋って見たこと無いんだけど……ここってヴァインさんの家よね?」
「ふむ、一つ考えが思いついた。もしかしたら、ヴァイン君の部屋と言うのは我々が使っている部屋なのではないか?」
「……………………」
「…………故にヴァイン君は自分の部屋でなく、いつも居間で眠っていたという考えなのだが……どうだろうか?」
「そ、そうなんですか?」
シコードさんとリネットさんがそうなのか? という視線を向けてくる。
その問いに僕は文字通り最後の力を振り絞って応えた。
「大正解…………がくっ」
どこか遠くで、僕の名前を呼ぶリネットさんの声を聞きながら、僕の意識は闇に落ちた。
「もうっ! 体調が悪いなら悪いって素直に言ってくださいっ! 私、すっごく恥ずかしかったんですからねっ!」
「ごめんってば」
意識を取り戻したのは昼頃だった。
意識を取り戻すと、そこはリネットさんの部屋のベッドだった。
なんでシコードさんの所じゃないのかと聞いたら……
「あんな場所じゃ、看病なんて不可能ですっ!」
と、ものの見事に父親の部屋と父親の弁解を一刀両断し、こちらへと連れて来たらしい。
「でも、本当に大丈夫ですか? 痛いところとか無いですか?」
「まぁ、大丈夫だって。職業柄、こういったことはザラだし、一日休めば治るよ」
「自力歩行も出来ない状態で馬鹿言わないで下さい。三日は安静ですからね!」
これは譲りません! って言うような拗ねた顔でリネットさんが止めるが……
「…………リネットさん、薬師を甘く見てもらっちゃ困る。薬師って言うのはこういった事には滅法強いんだ。これは強がりでも何でもないただの事実だ」
「でも、薬師だって人間です。休む時にちゃんと……」
「人間じゃないよ、薬師ってのはね……」
「……………………」
余程怖い顔つきをしていたらしい。
リネットさんの表情が強張った。
「薬師っていうのは、薬を作るのが仕事だ。でもその薬が本当に効くのかどうか、人体に有害じゃないかどうか……そういった責任もある。だったら何かで試さないといけない。そういったとき、薬師っていうのは自分で作った薬を飲む。他人で試すわけにもいかないし、動物で試しても人間に効くかどうかはわからない、だったら自分しかない。だからこう言った事は日常茶飯事なんだ。僕の身体には既に色んなものに対する抗体が出来上がっている」
「……………………」
「そんな身体をした薬師っていうやつは、もう、半分ほど人間、辞めてるんだよ」
「……………………それでも……ちゃんと休んで下さい。ヴァインさんに今、必要なのは休息なんですから……」
「……………………」
「…………それじゃ、私、部屋から出て行きますね。ヴァインさん、今はちょっと落ち着いたほうがいいから」
「……………………」
バタン、と扉が閉まる音。
出て行くときのリネットさんの表情は、いつもの元気さは無く、酷く寂しそうだった。
「……何言ってるんだろうな……僕」
こんな、自分の醜いところをさらけ出して、相手を追い払って……それも単なる八つ当たり同然に。
そんな事を話して……何がしたかったというんだ僕は。
何も考えたくなくて、布団をすっぽりと頭から被った。
布団からはリネットさんの、匂いがした。
何となく、お日様のような匂いの様な気がして……
「ごめん、リネットさん……」
お日様の匂いに包まれて、少しだけ涙した。
お昼を少し過ぎた頃、来客があった。
「あ〜らぁ〜。ヴァイン君、大丈夫ぅ〜?」
「その間延びした声はライアさんか」
「え〜? 間延びなんてして無いわよぉ〜」
「いや、してますから、思いっきり」
布団から顔をだして、来客を迎えた。
ライアさんの手にはご飯があった。
湯気の出ているほかほかのスープだ。
「今日、玄関の掃除していたらヴァイン君の家が閉まったままだったからぁ、久々に失敗したかなーって思って来てみたら案の定ねぇ〜♪」
「いや、なんで嬉しそうなんですか……」
「そりゃ、ヴァイン君てばお姉さんになかなか甘えてくれないからよぉ〜。これならた〜っぷり甘やかせるわぁ〜♪ お姉さんの密かな楽しみなのよぉ〜?」
「人の不幸を心待ちにせんでください……」
僕は溜め息をつくと、さっきまでの鬱な気分を放り出して笑顔で迎えた。
「我が家へようこそ、ライアさん」
「素直なのはいいことよぉ〜?」
ライアさんはベッドに近寄ってその指先を僕の額に当てた。
冷たくて気持ちいい。
「熱が少しあるみたいねぇ、でもヴァイン君って丈夫だからすぐ治っちゃうよねぇ〜♪」
「ま、これくらいなら」
「じゃあ、さっさと治しちゃおうねぇ〜♪ はい、スープ飲ましたげるから、あ〜んして?」
「あ〜ん」
経験則から、この人は『あ〜ん』をするまで決して諦めないので、体力が僅かしか残っていない僕は抵抗せず、受け入れてさっさと終わらせようとした。
それに、ライアさんのスープも美味しいので、恥ずかしい事さえ耐えたら悪い事でもないのだ。
が、天は僕を見放したのか、大きく口を開けて馬鹿面を曝している瞬間に扉の開く音。
「ヴァインさん、病人食なんて作った事無くて遅くなりました、ご飯です……よ……」
「……………………」
「……………………」
「……………………」
何故だか、いや〜な沈黙が訪れた。
リネットさんの表情が華が咲いたような笑顔から、一週間前の朝のような笑顔に変化していく。
でも、目は段々と細められていき、氷点下を思わせる視線を発している。
対してライアさんも何だか不穏なオーラを発している。
顔がいつものふにゃけた笑顔なだけに逆に恐ろしい。
「ふ〜ん、病気で辛くて立てもしない割には、随分とお元気そうですね、ヴァインさん」
「そうねぇ〜、もうヴァイン君、大丈夫そうだから、新参者の手を借りなくても大丈夫よ〜ん?」
なんでこんな一言交わすだけで、こんな険悪な雰囲気になるんだ……
言葉の節々から棘が感じられるんだけど……
「でも、ヴァインさんも中古品より、新しい人の方が新鮮味があって嬉しいんじゃないかしら?」
「ぐっ、このアマ……じゃなくて、貴女みたいなお子様じゃヴァイン君、落ち着かないんじゃないかしらぁ?」
「っ! そうでしょうか? むしろ勝手に上がり込んで来た、いきおくれのお隣さんがいる方が余程、落ち着かないと思いますけど?」
怖い、怖いよ母さん。
なんで二人とも笑顔でそんな事言い合えるんだよう。
笑顔ひきつってるけど。
っていうか、もう見舞いなんていらないから一人にしてください。
「……………………」
「……………………」
「……………………」
「……………………」
「誰がお子様ですかっ!」
「誰がいきおくれよっ!」
……うわぁ、ライアさんの間延びした声以外の声って初めて聞いたなぁ……
なんて軽く現実逃避している場合ではない。
恐らくヴァイン史上最大の危機だ。
「いいも〜ん、仮にいきおくれたってぇ、ちゃ〜んとヴァイン君が貰ってくれるからぁ♪」
何時の間にそんな人生設計が組まれていたんだろう?
少なくとも僕は知らない。
「なに寝言いってるんですかこのおばさんは……ヴァインさんはもう私のものです。今朝だって私を押し倒してきたんですから」
いや、間違っちゃいない、間違っちゃいないんだけどっ!?
なんていうか、そのいかにも、何かやらしいことしちゃいましたっぽいニュアンスを含んだ言い方は止めてくれっ!?
ピキピキっ!
笑顔で額に青筋浮かべてる二人は怖いです、はい。
そんな二人がこっちを向いてきた時は、ちょっと何か漏らしちゃいけない物を漏らしそうになったのは秘密です、はい。
「ヴァイン君……」
「ヴァインさん……」
うわ、なんかすごく嫌な予感するんですけどっ!?
「ヴァイン君はこんな小娘より、お姉さんを選んでくれるわよねぇ〜♪」
「ヴァインさんはこんな年増より、私を選んでくれますよねっ!?」
やっぱりー!?
なんかどっち選んでも片方に殺されそうなんだけどっ!?
っていうか、勢いに任せて言ってて、相手が僕ってこと理解してるのだろうか、この二人は。
あとで正気に戻った時、絶対後悔しそうだ。
「ぼ、僕としては二人、仲良くしてくれる方がいいかなぁ……なんて」
「無理よぉ!」
「無理ですっ!」
二人とも即答かい。
ってゆーか、そこの扉の隙間から覗いてる父親! 店番はどうしたんですかっ!
「私達の間に引き分けはありません、倒すか滅ぼすかの二つしかないんです!」
退く気は無いって事だけは、よーくわかりましたとも。
ついでに、僕がかなり危うい状況に陥っているって事もね。
「いやー、まぁ、競うのもいいけど、僕、お腹空いてるから先にご飯にしたいかなぁ……なんて」
「じゃあ、食べさせてあげ……」
ドンドンドン!
何とか審判の時を先延ばしにしようとしていたところで、玄関が激しく叩かれる。
シコードさんは既に扉を開けに行ったみたいで、扉からは見えなかった。
修羅二人もどうやらただ事じゃない気配を察知したみたいで、表に行った。
もちろん、僕だってじっとしているわけにもいかない、ここは僕の店で薬師なのだから……
ふらふらとよろめきながらも、何とか自力で歩いて表に出る。
「ヴァインさん! まだ無理ですよ! ここは私達に任せて……」
「任せれるような事なら任せてる。だけどただ事じゃないだろ、この騒ぎは……」
確かにただ事じゃなくなっていた。
どうやら患者は一人。
だけど、その患者について何人もの人が店内に押しかけてきていた。
「頑張っておかあさん! おかあさん! ヴァイン兄さんの所についたから、もう少しで治るからっ!」
「おい、ヴァー坊! なんかヤバいぜこれは。早く診てやって……ってヴァー坊!?」
患者はこの町の主婦で顔なじみの人だ。
が、その苦しみ方が尋常じゃない。
慌てて診ようとしたのだけど、身体が言うことをきかずに倒れる。
「ヴァインさん、無茶です! 今のヴァインさんじゃ、歩くだけだって辛い筈です! そんな状況で診察だなんて……」
「そうだヴァイン君、別に何もするなと言っているわけではない。ただ指示さえもらえればあとは私達が……」
「駄目だ。こりゃ普通の薬じゃ効きそうにない。僕が……僕が作らなきゃいけないんだ」
僕はなんとか患者の所まで辿り着いて、症状を確認する。
凄まじい発汗と荒い呼吸、それと腕に黄色く斑模様に浮かび上がっている痣のようなもの……
まさか、こんなことって……
僕のしかめっ面を見て子供が泣きそうになる。
まずいまずい、これはちょっと……いやかなり、最高に難しい調合になる。
少なくとも、こんなふらふらの状態で指示飛ばすだけで作れるような代物じゃない。
……………………
……………………
……………………
……………………もう、使うまいって思っていたんだけどな……仕方ないっか。
「リネットさん、一つ持ってきて欲しい物がある」
「なんですかっ! 薬鉢ですかっ?」
「ううん、居間に置いている、僕の荷物袋があるんだけど……それを」
「わかりました!」
僕はそれだけ言うと、ずるずると壁を背にして床にへたりこむ。
息を整えていると、子供の不安そうな視線があった。
僕は子供に向かって手招きして子供を呼ぶ。
寄ってきた子供の頭に、だるい腕を持ち上げて手をぽんぽんと乗せて言ってやった。
「大丈夫、僕が治してやる」
「……………………ほんと?」
「ほんとほんと、だから泣くなよ?」
「……………………わかった」
子供をあやしていると居間からリネットさんが戻ってきた。
「これですかっ?」
「うん、それ。悪いんだけど中からロザリオを取り出してくれないかなぁ?」
「へ? ロザリオ……ですか?」
薬とは全く関係の無いもののリクエストに困惑するリネットさん。
訝しがりながらもロザリオを探している。
「ヴァイン君……今まで何を思って使わなかったのかは聞かないわ……でも、いいのね?」
「うん、本当は使いたく無いけど……でも、今はそれよりももっと嫌な事が起ころうとしている。それを止める為だったら……それにこれは僕が今朝、調合を失敗したミス……それのせいで人を死なせるわけにはいかない」
「そう、頑張ってね」
「うん」
「ヴァインさん! 見つけました! このロザリオですかっ!」
リネットさんが真ん中に緋色の石がはめ込まれた銀十字を取り出す。
何故だかシコードさんの目が見開かれた。
まだ驚く場所じゃないんだけどな……
僕は頷いて、それを受け取って首にかけた。
そして……
「 Physical boost&Poison purification 」
身体が光に包まれてゆく。
淡い光に包まれて、僕の身体の底から吐き気が催してくる。
「げはっ……」
血を吐いた。
でもこれで大丈夫。
力が漲る。
倒れていた身体を起こして、何事も無かったかのように立ち上がる。
「よしっ、完全復活! さってと、次はこっちだな」
「ヴァ……ヴァインさん!? い、今なにを……ぴかーって光ったって思ったら、いきなり吐血して……急に元気になって……」
「う〜ん……今まで隠していて悪かったと思うけど、実は僕って神霊術も使えるんだよね。で、魔道媒体がこのロザリオってわけ」
「でも、なんで吐血したんです?」
「あれはただの吐血じゃなくて、体内に溜まってた毒素を抜いただけ」
「ふむ、ヴァイン君、ではこのご婦人も一気に治してしまおう」
「ところがそうもいかないんだよね……この病気は神霊術の類じゃ治せないんだ」
「何故、そんな事が解る。試してみる価値はあると思うが」
「残念、もう何度も何度も……それこそ気の遠くなるくらい試したよ」
そっと瞳を閉じる。
かつて何十年に一人の逸材だと言われ、有頂天になっていたあの頃。
何だって母から教わった神霊術で治せるって、そう信じていた幼い日。
そうさ、過去に何度も何度も……力使いすぎて意識を失っても意識を取り戻した瞬間にまた限界まで力を高めて神霊術を行使して、それでも治せなかった。
何度やっても治せなくて、不可能だって悟った時、泣いた。
泣いて泣いて、何度も謝った。
「この病気はね黄砂熱っていうんだ。過去、僕が治せなかった唯一の病……母さんの命を奪った病気……」
母さんの亡骸に何度も何度も謝った。
ごめんなさい、ごめんなさいって。
何一つ出来なかった自分が悔しくて……
心の底で優越感に浸っていた自分があまりにも情けなくて……
「だから試さなくてもわかる、神霊術じゃ……少なくとも僕の神霊術じゃ無理なんだ」
それでも、母さんを死に至らしめたこの病気だけは許せなくて……
同時に母さんを救えなかった自分自身も許せなくて……
だから薬師になろうと思った。
今度こそ負けないように……
今度こそ間違わないように……
母さんの形見のロザリオも身から外して……
「だから薬だ。その為に僕は薬師になったんだから……」
神霊術を封印した。
また一からやり直しだったけど、もう間違わない。
間違いは一度っきりで十分だ。
「さぁ、調合を始めよう。薬鉢と材料一式、全部取ってきてくれ!」
その日は夕方までこれにかかりっきりだった。
でも、やり終えた時の子供の笑顔が、何よりも嬉しかった。
今度はもう、間違わなかったんだって感じ取れた。
「雨乞い師を辞める?」
「はい、私って踊ってるよりもこっちの方が性に合ってるかなって……」
例の隠れ神霊師暴露事件(命名:シコードさん)から早いもので一月が経っていた。
あれからというもの、店は薬と神霊術の両方の治療が受けれるという、触れ込みで大盛況。
まぁ、神霊術は使わずに、何でもかんでも薬で解決してきているわけなんだけど。
で、店が大盛況なもんだからライアさんがよく手伝いに駆けつけてくるんだけど、やはり相性なのか事あるごとにリネットさんと衝突している。
二人が衝突するのは勝手だけど、毎度毎度僕にとばっちりが飛んでくるのはどういうことなんだろうか?
シコードさんはシコードさんで、暢気にその様子を見ているだけで介入しない。
仕事面ではなんだか有名になったせいか、がらの悪いのにも来られるようになったのだが、シコードさんの剣の腕はすごいもので今や無敵の用心棒の扱いを受けている。
まぁ、そんなこんなでいくら生活に浸透するようにと価格を極限にまで下げた薬といえど、かなりの量が売れている為に収入もかなりのものになっている。
その為なのだろうか、リネットさんはそうくりだしてきたのだ。
「うーん、もったいないな。正直、踊ってるリネットさんって凄く綺麗だから、見れなくなると寂しい」
「そんな……私なんて……」
「でも、初めて会った時なんて……普通に見惚れちゃったんだけどなぁ」
「もー、煽てたって何も出ないですからね!」
顔を真っ赤にして照れるリネットさん。
そして笑顔のまま、とんでもない事を言い出した。
「それで……出来れば私も薬師になってみたいなー、って思うんです。ヴァインさん、私にも薬の知識を教えてくれませんか?」
「……………………」
「…………ヴァインさん?」
「…………却下。僕は誰にも薬師としての知識を教える気は無い」
「もうっ、いじわるしないで教えてくださいよ」
「少なくとも……リネットさんには教えないよ、絶対」
先程までの穏やかな雰囲気が一変して氷のような冷たい雰囲気になった。
リネットさんは僕の言葉にカチンときたらしく、膨れっ面になった。
「ふん! いいです、ヴァインさんになんて頼みません」
「リネットさん……」
「ヴァインさんの馬鹿っ!」
そう言って彼女は家から出て行った。
恐らく他の薬師の所にでも行くつもりなのだろう……だけど……
「無理だよ、リネットさん。きっと誰も教えてくれない」
僕も玄関にでて、リネットさんの走り去った方を見てそう呟いた。
砂漠の町の特色である乾いた風が頬を凪ぐ。
湿気の含まない風は気持ちよかったが、心の中には暗雲がたちこめている気がした。
『神霊師はろくなのがいない、薬師はろくなもんじゃない』
かつての忠告が思い出された。
そう、本当にろくなもんじゃないんだよ……リネットさん。
薬師も、僕自身も……
ヴァインさんの馬鹿……ヴァインさんの馬鹿……ヴァインさんの馬鹿……
そりゃあ、私だって薬師が危険な事くらい承知の上ですよ。
でも、最近のヴァインさん、倒れるとまでは行かないものの、その手前までくることが多くなってきています。
だから、私も薬のことを覚えたら、ヴァインさんも楽になる筈なんです。
…………それに、いっぱい薬のこと覚えたら、ヴァインさんの隣に立てるかなって思ったのに。
「……でも、まだ出会って一月とちょっとなんですよねぇ」
確かに私たちは出会って一月ほどしか経っていない。
だけど……だからって好きになっちゃいけないなんて話も無い。
少なくとも、家から出て行けとも言わず、いつも優しく見守ってくれる人を相手にしては、憎からず思ってしまうでしょう?
あの人はとても危うくて……
あの人はとても優しくて……
あの人はいつも無理して……
あの人はいつだって苦しんでいる……
だから私はあの人を癒してあげたい。
他人ばっかり癒していて、癒されたことなんて無いあの人を。
それが叶わないのなら、せめて守ってあげたかった。
でも、あの人はそれを拒否した。
「でも、私諦めませんよ。絶対に……」
私は他の薬師の所に向かって歩き出した。
同じ町にそうそう何人も薬師はいないけど、それでも一人くらいは教えてくれるよね。
「ダメダメ! 悪いこたぁ言わねぇ、帰りな」
「薬師の知識っていうのは、人に教わるものじゃないの。だから諦めなさい」
「残念だが、君に教えるようなものは何一つ無い。人々を癒したいなら他の方法で癒す事をおすすめする」
甘かった。
一応、町にいる全ての薬師……って言ってもヴァインさんを除いたら三人しかいないんだけど……にお願いしてみたらそろいもそろって門前払い。
もちろん、私だって簡単に引き下がったわけでは無い。
だけど、三人は教えてくれなかった。
どうして教えてくれないの!? って聞いたら三人とも全く同じ事を言った。
『神霊師はろくなのがいない、薬師はろくなもんじゃない』
だから止めときなさい……って言ってそのまま三人とも何も言わなくなった。
強い日差しが照りつける青空市場を歩きながら私は少々、頭を働かせてみることにした。
あの口ぶりからして、薬師の仕事って言うのは他人に教えるようなものじゃないらしい。
それでも彼らだって薬師になった。
理由は解らないけど、彼らだって最初から薬師だったわけではないはず。
だったら、望めば薬師になる為の道が存在するはずなのだ。
彼らは望んだ。
だから薬師になった。
だと言うのに……
『神霊師はろくなのがいない、薬師はろくなもんじゃない』
そう言う彼らの表情は酷く儚く見えた。
後悔はしていない、だけど正しい事だとも思えない。
彼らは自分が間違っている道だと言うことを承知で自分から間違いを貫き通している。
だけど、自分が間違っている事を知っているから他人には間違った道を教えるわけにはいかない。
そういう、突き放した優しさのような気がした。
でも、私だって中途半端な覚悟で薬師になりたいなんていい出した訳じゃない。
誰も教えてくれないならそれでいい、だったら私も彼らやヴァインさんと同じ道を行くだけだ。
でも、その道はどこにあるんだろう。
ヴァインさんや、あの人達は一人でどうやって薬師になったのだろう。
……一人?
いや、違う。一人の筈が無い。
三人の薬師はどうだったかは知らないですけど、少なくともヴァインさんは違う。
「オリン『師』って言っていた……だとしたらヴァインさんに薬学を教えたのはオリンさん?」
でも、腑に落ちない。
オリンさんは魔術師だ、薬師ではない。
実は薬師としての技量も持っているのでしょうか?
だとしても、オリンさんはどうしてヴァインさんに薬師としての知識を教えたんでしょうか?
おいそれと他人に教えれるようなものじゃ無いって思っていたんだけど……
「直接聞いたほうが早いよね」
私は詰まった薬師への道に、僅かに希望を見出してオリンさんに会いに領主様の館へ向かった。
「あら、いらっしゃい。どう? ヴァインとの蜜月は楽しんでる?」
「蜜月なんかじゃないですから……」
中に通されて何週間かぶりに会った領主様は相変わらずだった。
「で? 今日は何の用? 話をしに来ただけならとことんまで話をしたいんだけど?」
「いえ……今日はオリンさんに聞きたいことがあって」
「オリンに? 何だか妙な組合せねぇ……まぁ、いいわ」
そう言って小さな鐘を鳴らす領主様。
鳴らしてすぐにオリンさんが何の前触れも無く、その場に出現した。
「お呼びですかな?」
「呼んだわ。なんでもリネットちゃんがオリンに聞きたい事があるそうよ」
「ほぅ、珍しいですな。それで、聞きたいこととは?」
老魔術師がこちらを向いて質問を促がす。
別に躊躇する必要も無いので、素直に聞いてみた。
「オリンさんって、ヴァインさんのお師匠様なんですよね?」
「そうじゃのぉ……大分と昔の話になるがヴァインの母……トラスと共に神霊術を教えていたの。母が亡くなってからは薬師なんぞになりたいとか言い出しおって、それからは何も教えておらぬが」
「あ……そうですか……」
そうだ、いくらオリンさんがヴァインさんのお師匠様だって言っても、薬師のお師匠様だって限らなかったんだ……
はぁ、と溜め息をつく私。
「あら? 溜め息なんかついてどうかしたの?」
「はい……実は……」
最早、完全に手詰まりとなった私は洗いざらい全部言ってみる事にした。
ヴァインさんが好きとか、その辺りは伏せましたけど。
「なるほど……大体の事情はわかった。結論から言わせてもらうと……」
「リネットちゃんは薬師になるべきじゃないわ。雨乞い師なんていう才能があるんだから、雨乞い師を続けるべきよ」
「同感ですな……ヴァインと同じ道を通ったからといって、その隣に立てるわけでも無いからの」
「どうしてみんな薬師になるなって言うんですか……そんなに薬師って悪いものなんですか? そんなにヴァインさんのしている事はろくでもないことなんですかっ!」
ヴァインさんから否定されて……
他の薬師からも否定されて……
領主様やオリンさんからも否定されて、思わず気持ちが高ぶって怒鳴ってしまった。
オリンさんは、そんな私を見て静かに語り始めた。
「『神霊師はろくなのがいない、薬師はろくなもんじゃない』先程お主はその言葉をもらしていたが……本当の意味を知っているかの?」
「……神霊師の方は知りませんけど……薬師の方は薬の調合を失敗して危険な目に遭うってことなんじゃ無いですか?」
ふむ……と老魔術師をあごに手をやって言葉を捜していた。
そして出た言葉がこれだった。
「半分正解……かの」
「半分……ですか?」
「神霊師っていうのは、人格がまともな奴がいないんじゃ。神にでもなったつもりで力を振るう……まぁ、一言で言うと傲慢な奴が多いんじゃ。事実、高度な神霊術を会得した幼き日のヴァインもそうじゃった」
「そうなんですか?」
「最初はそうでもなかったんじゃがのぅ……さて、次に薬師の方じゃが……」
「…………」
「基本的にはお主の言う通りじゃよ。だが、ちと認識が足りていないのぅ……薬師っていうのは薬を作るのが仕事じゃ」
「はい」
「じゃが、薬と言うのは効果があってこそ初めて薬たりえる……そこまではいいかの?」
「はい、解ります」
「病気というのは常に一定ではない。常に変化し、さらに無数にある……それも解るの?」
「はい」
「だったら、薬だって常に変化する。変化しない薬は効果が無くなる……つまり薬では無い。つまり薬師というのは常に変化し続ける病に対応して薬を作らねばならぬ」
「そうですね」
「つまり、薬には教科書は先人の知恵などというものは基本的な部分くらいにしか通用せぬ。後は己の溜め込んだ知識、経験、勘に頼るしかない」
「はい」
「簡単な薬なら失敗はしないだろう。だが簡単にはいかぬ病の薬が必要な時、そんな未知の要素が絡まった薬が必ず完成すると思うかの?」
「いえ、だってわからないんですよね?」
「そうじゃ、だから薬師はあらかじめ薬を作って試す。自分自身に投薬してその効果を感じ取る。それを続けるうちに抗体は出来るじゃろう……だがの……」
「だが?」
「それは己の命を削る行為に相違ない。いくら抗体が出来ていようと、いくら身体が丈夫でも確実に未知の薬を相手に寿命をすり減らしているのじゃ」
「……!?」
「解ったかのぉ? 薬師と言うのは材料を磨り潰して薬を作っているわけではない、命を磨り潰して薬を作っているんじゃよ……」
「…………」
「『神霊師はろくなのがいない、薬師はろくなもんじゃない』確かにその通りじゃ、命を救う薬師が一番命を粗末に扱っている矛盾。そんな矛盾を受け入れている薬師がろくなものであるはず無いからのう。だから薬師は誰にも教えぬ。命を救うのが彼らの本分じゃからの」
「ちょっ! ちょっと待ってください! だったらヴァインさんは……」
「長く……生きれないじゃろうな……せっかく神霊師としての素質を持ちながら薬師になると言ったあの日の事はいまだ憶えておる……あの時はトラスを殺した病気を殺すために薬師になったのかとばかり思っておったが……今じゃ違う理由があったように思えてきてのぅ……」
「違う……理由?」
「ヴァインは……死にたかったんじゃないかのう……そしてただ単に死ぬより、どうせ散らす命じゃ……『ついで』に他人の命を救って死のうと……そう思っていたのではないかと思うようになったのじゃ……トラスを死に至らしめた病の治療法が判明しても何も感じなかったと聞いたあの日から……」
老魔術師はそれっきり黙りこんだ。
重苦しい雰囲気が漂う。
もう、薬師になろうなんて思わなかった。
薬師たちの儚い表情が少し理解できた気がした。
薬師っていうのはみんな優しいんだ。
命を削って他人を癒しても、削った場所を埋めてくれる癒しは持たないし、望んでいてもそれを突っぱねる。
何故なら、彼らは優しくて削る辛さを知っているから。
だけど……だけどだけど、それはあまりにも悲しすぎます。
他人を癒すくせに癒される事は無いなんて馬鹿げた話ありません!
「解りました、ありがとうございましたオリンさん! 私、ヴァインさんに薬師を辞めさせて見せますね!」
そう言って席を立って簡単な礼だけして領主様の館から飛び出していく。
待ってて下さいねヴァインさん!
今、私が貴方を癒してみせますから!
「ヴァインさん!」
バン! と束ねた黄金の髪を振り乱し、扉を壊すような勢いで家に帰ってきたリネットさん。
何を息巻いているのか知らないけど、またロクでもないことだろう。
「ヴァインさん、私、貴方のこと愛してます!」
「……………………は?」
一瞬、リネットさんが何を言っているのか解らなかった。
ただ、それを理解したら自分の顔が真っ赤になっていくのを自覚した。
「だから、ヴァインさんの隣に立ちたいな、って思って薬師になろうと思いましたが諦めました。だから逆転の発想です。ヴァインさん、薬師を辞めてください!」
「……はぁ?」
やたら早口でとんでもないことばかり喋る彼女についていけず呆然となる。
薬師をやめる?
誰が?
僕が?
「断る。僕は死ぬまで薬師だ」
「じゃあ、一つ、勝負しませんか?」
「勝負?」
「そう、勝負です。勝った方が負けた方に何でも一つ好きな事を命令できるっていう条件で。ヴァインさんが勝ったら、二度とこんな事言うなでも、家から出て行けでも、私を好きにするでも何でも従います。私が勝った場合は……さっき言いましたよね?」
分の悪い勝負だ。
僕からリネットさんに求めるものは何も無い。
別に出て行って欲しいわけでも無い。
確かに何度も辞めろと言われるのは勘弁して欲しいけど、聞かなければいいだけの話。
リネットさんを好きに……いや、それはそれで非常に興味あるんだけど、薬師を辞める条件には釣合わない。
それに、僕はどうせすぐに死ぬ身だ、恋人を作る気も無い。
だから僕がこの勝負を受ける必要性は無いのだ。
だけど……
だからと言うのに……
「解った、その勝負、受けよう」
その勝負に乗ってしまった自分がいた。
勝負の方法は至ってシンプルなものだった。
彼女は雨乞い師だ、だから雨を降らせれたら彼女の勝ち。
降らせなければ僕の勝ち。
踊れなくなった時点で雨が降っているか否かが勝負。
開始時間は今から。
僕には雨の降りやすい環境というのは解らなかったが、少なくとも今はその環境が整っていないと判断した。
ちなみに、勝負は今から開始と申し出た僕に、リネットさんは拙いといった顔をしていた。
おそらく、かなり拙い環境なんだろう。
ちなみに、彼女は現在、部屋に行ってちゃんとした踊り子の服に着替えている。
「お待たせしました」
ガチャリと部屋の扉が開いて、布が無駄にひらひらとしていて露出度の高い服を着たリネットさんが出てくる。
髪は束ねられておらず、見慣れない銀細工のアクセサリーとかを所々につけていて一種の神々しさを感じさせた。
「綺麗だ……」
「煽てたって手加減しませんからねっ♪」
思わず言ってしまったセリフに、彼女は少し赤くなって嬉しそうに微笑んだ。
僕は恥ずかしくなってそっぽを向いて歩き出す。
リネットさんは後でクスクスと笑いながらついてくる。
目的地は町の外の砂漠。
そこが勝負の舞台だった。
「では、踊り始めますね。ちゃんと私のこと見ててくださいね」
「ああ、踊れなくなるまでな」
「その頃には雨にぬれている事を願います」
そう言って彼女は踊り始めた。
ゆっくりと軽やかに。
ゆったりと落ち着いて。
ひらひらと風に流れるように。
その全てが僕を魅了した。
あの日の光景が甦る。
雲ひとつ無い雨の夜、銀色の雨を一身に受け止めるかのように踊っていたリネットさん。
思えば、あの時も僕はただただその踊りと彼女の美しさに魅了されていた。
今だって魅了されている。
だけど、勝負には負けるわけに行かない。
僕は男で……人間である前に、薬師なんだから。
「……………………」
「……………………」
「……………………」
「……………………」
ただただ無言で踊り続けるリネットさん。
彼女は大量の汗をかいていた。
夕日が見えることに驚いた。
踊りだしたのは昼を少し過ぎたくらいだ。
つまりそれからずっと踊り続けていたということ。
その間、ずっと彼女に見惚れていたということ。
それくらいの時間が経っても雨の気配は見えない。
もともと、雨が降ることの少ない土地だ。
そうそう簡単に雨が降るはずも無い。
リネットさんだってそんな事は承知している。
それでも踊り続ける。
そんな彼女を見て胸が痛んだ。
助けてあげたい、けどこれは勝負なんだ、恐らくどちらにとっても一世一代の。
僕も彼女も負けるわけにはいかない。
胸の痛みを隠して、僕は踊る彼女を見続ける。
「……………………」
「……………………」
「……………………」
「……………………」
月が見えてきました。
もう夜……まだ夜……果たしてどっちの言い方が正しいのでしょうか?
相変わらずヴァインさんはこっちを静かに見つめたまま。
う〜……この格好、かなりえっちっぽくて恥ずかしいんだけど……布地すくないし……
雨の降る気配は全く無いし……どうしよう。
ううん! 泣き言なんて言ってちゃ駄目!
今まで、ヴァインさんや他の薬師さんはもっと辛い目に遭ってきたんです。
その薬師という道を賭けてるんです、これくらいのことで砕けるわけにはいかないよ!
足は重いし手だって同じ。
お腹だって空いたし、お風呂にも入りたいけどそんなことは無視。
今の私がするべき事は、この想いが届くまで踊り続ける事。
それまでは止まるわけにはいきません……何があっても。
「ヴァイン君……」
「シコードさん……」
「……………………」
月がもう真ん中にまで昇ろうかという時間になってシコードさんが音もなく現れた。
そう言えば書置きも何も残していなかったっけ……心配をかけてしまった。
「……………………」
「……………………」
「……………………」
僕達がこんな場所で何をしているのかも聞かずに、シコードさんは僕の隣に腰を下ろした。
静かな時が流れる。
「何をしているんだ?」
「勝負です。雨を降らせればリネットさんの……降らせれなければ僕の勝ち」
「そうか……」
月下の踊り子を前に静かな時が再開する。
シコードさんは瞳を閉じて座っている。
何も言うことは無いのか、言う言葉が思いつかないのか……
しばらく無言だった。
「リネットは……何時頃から踊っているのだ?」
ぽつり、とシコードさんが問いかけてきた。
僕はただ単に事実だけを述べた。
「昼過ぎくらいから……ですね」
「ふむ……そうか」
また黙り込む。
だが今度はすぐに口を開いた。
「で? 何をしているんだ?」
「……ですから勝負です」
「そうではない。君はそんな長く踊り続けている娘を目の前にして何をしているんだと言っているんだ」
「……何もしていません。勝負ですから……」
「君は薬師だろう? 『僕は薬師なんですから、困ってる人……それも目の前で倒れた人を放っておくわけにいかないだけなんですから……』確か君の台詞だったな」
「よく憶えてましたね、そんな台詞」
「それで? 薬師の君は娘が目の前で倒れるまで放っておくのか?」
「…………」
「君は何を思って医者なんて始めたのか、私には理解できないな」
「…………僕は母さんを救えなかった。だから母さんを死なせた病を殺す為に……」
「違う。君は薬師の前に神霊師だったのだろう? 君はなぜ神霊師の技術を学んだのだ」
「…………」
「よもや、トラスとオリンがその心構えを教えなかったとは言うまいな?」
「…………どうして母の名前……知ってるんですか」
「……そんな事はどうでもいい。今は君の心構えを問いただしているのだ。君は何を思って神霊術を学んだ? トラスやオリンから何を教えてもらった?」
遠い遠い昔。
地面で転んだ僕を母さんが神霊術で治してくれた。
今思えば大したことの無いことだった。
でも、子供の頃の僕にはそれはとても凄い事だった。
だから、それに憧れた。
僕もそんな風に魔法を使いたい。
みんなの痛みを取り去ってしまいたい。
そうしたら僕もみんなもきっと幸せになれるって思った。
母さんにそう言ったら、お母さんは微笑んで『その気持ちを忘れないでね』と言って抱きしめてくれた。
オリン師も母さんが用事の時はいつも僕の相手をして神霊術を教えてくれた。
その時に、事あるごとに『初心忘れるべからずじゃ』と言っていた。
母さんが死んですぐ、僕は薬学を学びだした。
よくよく考えればこの選択はおかしかった。
死ぬ気ならば、余程危険の高い傭兵なりなんなりになればよかったのだ。
まどろっこしく命を削る必要なんて無い。
そもそも今すぐ自分を殺したいのなら、舌を噛み切るなりなんなりすればいいのだ。
それでも薬師になったのは何故か……そんなの考えるまでもなくて、身体に染み付いていたから自然とそうなったのだ。
自殺願望と過去の想いの両立できる薬師……それが今の自分。
結局のところ、自分が何を思おうが、どんな状況に置かれようが、この身体に染み付いた想いは既に僕自身の一部で切り離す事なんて出来なかったんだ。
「僕は……みんなを癒してあげたい」
「だったら、こんな所で何をしているんだ? と私は聞いたんだ。どうするのだ?」
「決まってる」
この想いは僕の一部で切り離す事が出来ない。
たとえ、それの所為で勝負に負けることであっても、その想いが自分自身なのだから。
僕は持っていたロザリオを首にかける。
ロザリオは使わなくたって僕の母の形見だ。常に手の届く場所に置いている。
「リネットさん!」
僕は今にも倒れ伏しそうなリネットさんに飛びついて精神を集中させる。
「Healing!」
淡い光が腕の中のリネットさんを優しく包む。
虚ろだった瞳に生気が宿る。
最早、何も言うべき事が思いつかない僕はただギュッとリネットさんの身体を抱きしめた。
我に返って暫らく状況がわからず目を白黒させていたリネットさんも何も言わず僕を抱きしめ返してくれた。
暫らく抱き合ったままでいた僕が何とか言葉をこぼした。
「僕の……負けだ」
「はい……雨は降りませんでしたけど、私の勝ちです……いえ、降りましたね、雨」
そう言ってリネットさんは、何時の間にやら泣いていた僕の涙をすくい取って、ほら……と笑った。
僕も笑って、同じように泣いているリネットさんの涙を指ですくって見せた。
「ほらっ! ヴァインさん、起きてください! 朝ですよー!」
「朝か……朝が来て、昼が来て、夜が来る……と言うことでお休み」
「もう! なにわけの解らないこと言ってるんですか……起きないととんでもないことしちゃいますよ?」
「おはようのチューなら随時受け付けてるぞ」
「熱いフライパン押し付けてのヂューで、よろしいんでしたらいいですけど……って起きてるならさっさと起きてください」
ぷんぷん! と起こった声を出しているリネットさん。
なんだか本当にヂューをされたらかなわないので起きる事にする。
「おはよう、リネットさん」
「はい、おはようございます、ヴァインさん。朝食できてますから早くしてくださいね」
僕はベッドから降りて着替えてから居間に向かった。
「おはよう、ヴァイン君。昨晩こそ娘と愛を交わしたか?」
「あ、朝っぱらから何言ってるのっ!」
「落ち着け娘よ。さすがに熱したフライパンを武器するのは非人道的だと思うのだが」
「だったら、毎朝毎朝、同じ事を聞かないでよっ!」
「いや、娘もそういうことを知ったら、私の行為にも理解が広がり金銭面での心配が減ると思ってな」
「理解なんてしないっ!」
「そうだ、ヴァイン君。今度一緒に夜の町へと繰出さないか? そこでテクニックを磨いておけば口ではああ言ってる娘も多少は軟化するだろう」
「えっ!? い、いや、その……まぁ、多少は興味あり……」
「ヴァインさん……」
「遠慮しときます」
「そうか、だが気が向いたらいつでも言うといい」
「お父さん……ヴァインさんをそんな場所に連れて行ってみなさい……色々とちょん切るからね……」
朝の会話も相変わらず。
最近はどうもそっち系の話が多くなっている傾向が見えるがいつもどおりの朝だ。
あれから一週間。
約束通り、僕は薬師を辞めた。
在庫としてある分の薬を売ったらそれでおしまい。
今は再び神霊師として店を開いている。
薬師は辞めちゃったけど、幼い日の誓いは消えたりはしない。
その旨を領主様とオリン師に伝えたら二人とも飛び上がらんばかりに喜んでくれた。
今ではオリン師に再び師事し、幼い日から相当に鈍っていた神霊術を鍛えなおしている。
オリン師曰く、すぐに勘は取り戻すだろう、とのこと。
「じゃあ〜、ヴァイン君、お姉さんと夜の町に繰りださなぁ〜い? 色々、教えてあげるわよぉ〜?」
「なっ!? 一体何処から湧いたの、この年増っ!」
「あ〜らぁ、この小娘まだいたのぉ〜? とっくに子牛と一緒に馬車に揺られて売られていったと思っていたわぁ〜」
相も変わらずライアさんとリネットさんの関係も最悪で、やっぱり最後は僕に災難がふりかかってくる。
さてと、今日は災難がふりかかる前に聞いときたいことがあるんだった。
「あの、シコードさん、一つ聞いておきたい事があるんだけど……」
「夜の町に繰出すお金なら私持ちでいいぞ?」
「いや、そうではなくって……どうしてシコードさんは母さんの名前を知っていたんです? それにオリン師の事も……」
僕がそう聞くと、シコードさんだけではなく、リネットさんやライアさんまで『どうしよっか?』とでも言いたげな微妙な表情になった。
一体何なんだろうか?
「ふむ……昔、私には妻がいてな……その……名前をトラスという……」
「……………………は?」
トラスって母さんの名前で、でもシコードさんの妻もトラスで……
ちょっと待って? 今、恐ろしい結論が出てしまった。
「別に隠していたと言うわけでも無いのだが……言い出しにくくてな……」
「ヴァイン君が旅に出ている間にシコードさんが来て……追い返すわけにも行かないでしょ? シコードさんの家でもあるわけだし……だから鍵渡して住んでもらってたわけ」
「……リネットさんも……知ってたの?」
「え? あ、はい。お父さんにお母さんとお兄さんがいるって聞かされていて……」
「安心しろ。リネットは拾い子だ。血は繋がっていない。遠慮なく愛を交わしたまえ」
「あらぁ? 駄目よおじ様ぁ? ヴァイン君はお姉さんのものなんだからぁ♪」
「寝言は寝てから言ってください、この年増。ヴァインさんは私のです」
シコードさんが父さん?
…………母さん、趣味悪すぎ。
そりゃ、顔はいいけどさ。
「で、シコードさんは今まで何していたんです?」
「ふむ……実は冤罪で追っ手から逃げていてな……まぁ、全部倒したんだが……その際に深手を負ってしまい、動く事すらままならず、歩けるまでにかなりの時を要した」
「……まぁ、冤罪で逃げてるって話は母さんから聞いてたけどさ……本当だったんだな」
「まぁ……そういうことだ」
「……おかえり……父さん」
「……ただいま……と言うのは六年ほど遅かったな……」
僕らはゆっくりと再会……と言ったら変だけど、親子の抱擁を交わした。
長い長い道のりだった。
時の流れは覆せない。
死んだ人は甦らない。
それは当たり前だけど悲しい事だ。
だけど、長い間傷付き磨耗したその傷口はきっと癒せる筈だから……
ゆっくりと癒していこう。
癒すのは僕の仕事だし、僕を癒してくれる人だっている。
だったら問題なんて一つも無い。
六年前に間違った道も修正した。
母さんは帰ってこないけど父さんは帰ってきた。
さらに僕を好きで癒してくれる人だっている。
何の問題があろうか?
今はまだみんな傷が残っていても……
それがどんなに大きい傷だったとしても……
この胸に癒しの誓いがある限り癒せないものなんて無いのだから……
Healing oath 【終】