水瀬さんの憂鬱










 梅雨入りしてからしばらく降り続いた雨がやみ、珍しく晴れ渡ったある日の放課後。

 夕焼けに染まった校舎の屋上に、二つの人影が向かい合って立っていた。


「水瀬さん、俺と付き合ってくださいっ!!」


 人影のうちの一方、角刈りの少年がそう叫び、勢いよく頭を下げる。

 その言葉に、水瀬と呼ばれたもう一方の人物はまるで置物にでもなったかのように動きを止めた。

 梅雨時独特の、湿った気配を含んだ風が吹き抜け、動きを止めた水瀬の長い髪をさらい、なびかせる。


「……えっと、突然そんなこといわれても困るよ」


 時間にして五分程度だったろうか。

 硬直から復帰した水瀬が、ようやく口にした返答はそんな否定の言葉だった。

 だが、しかし。


「俺、水瀬さんに一目惚れしたんですっ!!」


 勢いよく頭を上げた少年は、否定の言葉など聞いていなかったかのように叫ぶ。


「いや、あの、私の話、聞いてくれてるかな?」

「貴方のことを想うだけで、夜も眠れないんですっ!!」

「あのー」

「青みをおびた長く美しい髪、整ったお顔、柔らかな物腰……」

「えーっと」

「普段の姿とはギャップを感じさせる、競技場を駆ける姿もそうです。そのどれもが俺を熱くさせるっ!!」

「だから私の話を」

「貴方さえいれば俺は……俺はっ!!」


 困惑する一方を他所に、もう一方は際限なく興奮を高めていく。

 傍から見ていればコントじみて見えるかもしれない。

 そしてついには。


「だから俺のものになってくださーいっ!!!」

「いい加減にしてくださいっ!!」



 ぼぐっっ!!!



 興奮を抑えきれなくなったか、飛び掛ってきた物体を反射的に水瀬は殴り飛ばした。


「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」

「み、水瀬、さん……」


 殴られて地に伏せながらも、想い人の名を呟く少年。

 しかし、その表情は何処となく幸せそうだ。

 荒い息をつきながら、そんな少年を汚物でも見るかのように水瀬は見下ろし。


「はぁ、帰ろ……」


 肩を落とし、溜め息をついて家路についた。

 珍しく晴れた、梅雨の日のこと。

 そんな、些細な夕暮れのこと。










          ※          ※          ※ 










 梅雨も半ばに差し掛かかり、本格的な夏が近づき気温が上がってきたある日の放課後。

 相も変わらず振り続ける雨に辟易しながら、いつもの帰り道を水瀬は歩いていた。


「こうも雨ばっかり続くと、気分も沈みがちになっちゃうね……」


 どんよりと曇った空を見上げ、溜め息をつく。

 蒸し暑さに、浮き上がってきた汗が頬を伝う。
 

「うーん、イチゴパフェでも食べて気分を変えよう」


 そう思いつき、水瀬は行きつけの喫茶店へ向かうことにした。


「水瀬さーん」

「ん?」


 名を呼ばれた水瀬が振り返ると、まるでアンテナのように頭髪の一部が跳ねている少年が駆けて来るところだった。

 水瀬は立ち止まり、少年が追いついてくるのを待った。


「や、水瀬さん。今帰り?」

「そうだよ。北川君も?」

「ああ」

「そっか。あ、これからイチゴパフェ食べに行くつもりなんだけど、北川君も来る?」

「イチゴパフェ?」

「うん、美味しいお店があるんだよ。スウィーツ以外のメニューも充実してるし」

「ふむ、お付き合いしましょうか。ちょうど俺も小腹が空いてた事だし」

「それじゃ、一緒に行こう」

「おっけ」


 そして二人は並んで歩き始めた。


「ところで美味しい店って百花屋? にしては、道が違う気がするけど」


 道中、北川が水瀬に尋ねた。


「ん、あそこのも美味しいけどね。今日行くのは別のお店」

「ふぅん……ま、楽しみにしておきますか」

「それがいいよ」


 顔を見合わせて笑う。

 他愛も無い世間話をしながら、歩くこと十分ほど。

 二人は目的地に到着した。


「へぇー、随分と落ち着いた感じのお店だね」

「うん、そこが気に入ってるんだ」


 店構えを眺めながら北川が言う。

 シックな外観にあわせて作られた『エコーズ』という看板。

 派手さは無いが、良い雰囲気を持った店構えをしている。


 カランカラン……。


「こんにちわー」

「いらっしゃい」


 ドアベルを鳴らしつつ店に入ると、カウンターの中にいた青年が二人を迎えた。

 青年の奥では、ヘッドホンをつけてロッキングチェアに腰掛けたマスターらしき男性が二人を一瞥し、すぐに視線を戻した。


「どうも、いつもの奴でお願いします」


 水瀬がカウンター席に座りながら、目の前の青年にそう言う。

 それに続いて北川も席に着き、備え付けられているメニューを手に取った。


「はい、イチゴパフェね。ふぅん、水瀬さんが男の子連れてきたのは初めて見たな。女の子とはよく来てるみたいだけど」

「そういうこと言わないで下さいよ」

「はは、ごめんね。で、そっちの君は注文決まったかな?」


 二人の前にお冷とおしぼりを置きながら、青年が尋ねる。


「あ、アイスコーヒーとクラブハウスサンドお願いします」

「はい、アイスコーヒーとクラブハウスサンドね」


 注文を受けて青年はテキパキと作業を始めた。


「水瀬さんは結構このお店来るんだ?」

「ん、最近は百花屋よりもこっちに来る方が多いかな」

「そうなんだ」

「こっちの方が落ち着くしね」


 そういいつつ水瀬はお冷に口をつける。


「そういえばちょっと気になったんだけれど……奥に座ってるあの人ってここのマスター?」

「ん、そうだよ」


 心持ち小さめの声で、奥のロッキングチェアに腰掛けた男性を見ながら北川が尋ねる。

 豊かな髭と面長の顔が印象的な男性は、目を閉じて音楽に聴き入っているようだ。


「……あの人、いつもああなの?」

「んー、マスターしかいない時はちゃんと働いてるけどね」


 北川のもっともな質問に、水瀬は苦笑しながら答える。


「でも、コーヒーを入れるのが凄く上手なんだよ」

「まぁ、喫茶店開いてるくらいだしなぁ」


 そう言って、二人で笑う。


「はい、お待ちどう様」


 そうこうしている内に、二人の注文した品物が出てきた。


「じゃ、ごゆっくり」


 青年は二人の前にそれぞれの注文品を並べると、グラスを磨き始めた。


「来た来た。ホントにここのはどれも美味しいんだ」

「そりゃ楽しみだ」


 北川はそう言いつつ、早速クラブハウスサンドに齧り付いた。


「うほ、マジでうめぇっ!」

「ふふ、ありがとう」


 北川の言葉に、青年が礼を述べる。


「んー、コレ食べてる時が一番幸せー」


 水瀬は水瀬で、イチゴパフェを食べてご満悦の様子だ。


「そう言えば男では俺が初めてなんだって、ここに連れてきたのは?」

「ノーコメント、だよ」

「ちっ」


 何気なく切り出した北川の言葉を、ぴしゃりと遮る。


「んじゃ、こないだまた男に告白されたみたいだけど」


 にやにや笑いながら尋ねる北川とは対照的に、引きつった顔で固まる水瀬。


「相変わらずモテモテなようで」

「そ、そんなことないよっ」

「嬉しくないよっ」


 むくれつつもパフェをほおばる水瀬に、面白そうに笑っている北川。

 グラスを磨いている青年に、我関せずといった様子で音楽を聴いているマスター。

 店の中は至極穏やかな雰囲気に包まれていた。

 雨の続く、梅雨の日のこと。

 そんな、喫茶店でのこと。










          ※          ※          ※ 










 梅雨も終わりに近づき、ますます暑さが厳しくなってきたある日の放課後。

 水瀬は二人の少年と共に、『エコーズ』でくつろいでいた。


「むぅ、こんな良い店を知らずに居たとは……祐ちゃんショックだ」

「うむ。俺も相沢と同じで、水瀬さんに連れてこられるまで知らなかったしな」

「気に入ってもらえたみたいで良かったよ」


 北川と相沢の言葉に、水瀬が微笑みながら言う。


「コーヒーは美味いし、何よりも百花屋と違って女ばかりじゃないところが良い」

「だな」


 相沢の言葉に、北川が相槌を打つ。


「美味いことは美味いんだけどなぁ……男一人で気軽に、とは行きづらい店だな」

「そうだね」


 その言葉に、水瀬も同意した。


 カランカラン……。


 その時ドアベルが鳴って、新たな客が店に入ってきた。

 ニットの帽子を目深にかぶり、サングラスをかけているが一目で美人と判る女性だ。


「お、おい、相沢っ。あれって……!?」

「ああ、北川、そうだよな!?」


 相沢と北川の二人は興奮した様子で、女性客の方を見ている。


「二人とも、そんなふうにじろじろ見たら失礼だよ」

「お、おう……」

「そ、そうだな」


 対照的に水瀬は落ち着いていた。


 カランカラン……。


 再びドアベルが鳴り、また一人女性が入ってきた。

 綺麗なストレートヘアの、素朴な感じのする女性だ。

 そのまま先に入ってきた女性の座るテーブルにつく。


「今度は……!?」

「だから、気にしちゃ駄目だってば。あの二人よく来るんだから」

「そ、そうなのか!?」

「うん。私は、二人が興味本位で騒いだりしないって信じてるよ?」

「む……そう言われると、な」

「ん、まぁ、この店の雰囲気が壊されるのも嫌だしな」


 水瀬の言葉に、二人は落ち着きを取り戻す。


「二人とも、注文は?」

「いつもので」

「わたしもいつもと同じの、お願いします」

「了解、すぐに用意するよ」

「ん、短い休憩時間だから早くしてよね」

「はいはい」


 青年と女性客達がそんなやり取りをしているのを他所に、水瀬が本日の本題を切り出した。


「それで、二人はどの辺がヤバイのかな?」

「あー、えっと……強いて言うなら、全部?」

「……右に同じ」

「……はぁ」


 二人の言葉に水瀬は溜め息をつき、頭を抱える。


「じゃあ、範囲の最初からざっと通してみて、どの位理解してるかから確かめようか」

「お願いします、先生」

「右に同じく」


 水瀬の言葉に応えて、教科書を取り出す二人。


「全く、中間の成績が悪すぎてこんな時期に特別追試だなんて……」

「あはは、そんなに褒めてくれるな」

「褒めてないよっ」


 それからしばらくの間、教科書を元に水瀬が二人に内容を説明していく。


「なんだ、意外と理解しているじゃないか俺たち」

「全くだな」

「ホントになんでコレでテストできなかったの……?」

「世の中不思議が一杯だな」

「「あっはっは」」


 何故か酷く詰まることも無く、試験範囲の確認を終えてしまった。

 笑う相沢と北川に対して、水瀬は頭痛を感じていた。


「まあとりあえず、特に詰まることも無かったんだし今日はこのぐらいで良いよな?」

「そうだね。明日までに簡単な問題を用意しておくから、今日はもう終わりにしようか」

「よし、では北川さん」

「はいよ、相沢さん」


 にやりと笑う相沢と北川。

 そして、二人は声をそろえて言った。


「「昨日もまた男から告白されたようですが、それについて何か一言っ!!」」

「な、なんで二人がそのことを知ってるのっ!?」


 驚愕に目を見開く水瀬。

 相沢と北川の二人は、してやったりと笑みを深くした。


「ふふふ、我々の情報網を甘く見ないでほしいものだなぁ、水瀬クン?」

「然り、然り。しかしその表情、昨夜必死こいて試験範囲のおさらいをした甲斐があったというもの」

「そんなことのためにコレだけ出来るなら試験の本番でやろうよっ!?」


 今日の勉強会があっさり終わった理由を知り、再び頭を抱える水瀬。

 そして相沢と北川は、とてもイイ笑顔でサムズアップしていた。


「いやぁ、モテモテでうらやましい限りですなぁ、相沢さん」

「全くです、北川さん」

「男から告白されたって、嬉しい訳ないじゃないかっ!」


 水瀬が強く吐き捨てる。


「大体、私には可愛い彼女も居るんだよっ」

「あぁ、だからこそ、こういうネタで楽しませてもらわないと」

「全くです、北川さん」

「結局ただのやっかみなのっ!?」


 武者小路 水瀬。

 彼は良家である武者小路家の家訓に従い、髪を伸ばしている。

 母親譲りの中性的な顔立ちと、線の細い体つきに家で仕込まれた優雅な物腰も相まって、よく少女と間違えられる“少年”。

 目下、彼の悩みは男性から愛の告白を受けることと、街で寄って来るナンパどもだ。

 水瀬はこの二人の友人を辞めるかどうか、本気で一瞬悩んだ。


(全く、一個年上の私に、含むところ無く友人付き合いしてくれるところなんかは、本当に嬉しいんだけどね……)


 中学生の頃に交通事故で大怪我を負った水瀬は、一年留年していた。

 多くのクラスメート達が腫れ物を扱うように水瀬に関わるのに対し、この二人は違った。

 開けっぴろげに接してくる二人に対し、水瀬もすぐに打ち解けたのだった。


「しかしこれで九十九人切りか……栄えある百人目は、何時だろうな?」

「ああ、楽しみだよな」

「もう、勝手にして……」


 げんなりする水瀬の横で、相沢と北川の二人は盛り上がっていた。

 夏も近い、梅雨の日のこと。

 そんな、友人達のこと。










          ※          ※          ※ 










 梅雨も明け、夏真っ盛りといったある日の放課後。

 照りつける日差しの中、水瀬は恋人である小柄な少女と共に歩いていた。


「全く、あの二人と来たら……」

「あはは、でも先生って本当にモテるんですね」

「君までそういうことを言うか……」

「ふふ、ゴメンなさーい」


 おどける少女の頭を、水瀬は少し乱暴に撫でた。

 がくがくと揺れる頭の動きにあわせて、ツインテールに結われた少女の黒髪も揺れる。

 二人はじゃれ合いながら『エコーズ』に向かって歩く。


「あ、でも男の人相手でも浮気は許しませんよ?」

「しないよっ」

「どーだか。それに、女っぽく見られたくないなら自分のことを『私』って呼ぶのやめてみたらどうです?」

「長年躾けられたものは、そう簡単に変えられないんだよ……」


 二人、他愛も無い話をしながら歩く。

 梅雨も明けた、夏の日のこと。

 そんな、恋人達のこと。







 梅雨が明けて、雨ばかりの日々ではなくなって。

 けれど、相変わらず男性から愛の告白を受けている水瀬だった。

 穏やかに流れ行く、いつも通りの日々のこと。

 そんな、水瀬の憂鬱のこと。