ヤサシイキミニアエタカラ



柊 小鳥
独白



全てに絶望したとか、全てを諦めたとか。

ドラマや小説ではよく聞く言葉。

私はそれを湛えた瞳というものを今日、初めて見た。

降りしきる大雨の中、傘を持たない私を怯えさせた瞳。

私はそれを初めて見ました。

普通なら、哀れみとかの感情を抱くのでしょうが、この時の私は違っていました。

私は本気で怒りました。

一人で勝手に泣いていろ、と。

自分が泣いていることも棚に上げ、必死になってその場を離れながら私は叫んでいました。

私はそれでも、そんな瞳をしていた彼のことを気にしていました。

深い絶望と諦めを湛えた瞳。

人を信じられない瞳。

裏切りを恐れて、悲しい拒絶を吐き出す口。

どうして、こんなことばかり考えてしまうのか。

それに対する解答は簡単で、それでいて難しくて。

そんな矛盾の上に成り立っていました。

それは――

「…やめた」

私は考えるのをやめた。

馬鹿馬鹿しい。

自分で肯定しといて、直後に否定する男のことなんて考えても意味がない。

――本当に?

私のなかの自分が問い掛けてくる。

「何が『絶対に釣り合わない』よ」

――それを信じてるの?

「何が『他にいい人がいる』よ」

――本当にそれでいいの?

「何が『幸せになれ』よ…」

――なれる?

「こんなことなら告白なんてしなきゃよかった…」

――どうして?

「こういうのって……最低」










大原 響
出会い




その日は、大雨だった。

俺は休日を利用して母親の経営する喫茶店の手伝いをしていた。

この街に移り住んで五年。

母とこの店はこの辺りではあって当然のモノとして認識されている。

俺が言った最後の我儘のために仲の良かった両親は離婚して、俺は母とこの街にやってきた。

我儘を聞いてくれた恩に報いるために、こうして店を手伝っている。

もう、何があっても母にだけは迷惑を掛けたくない。

だから、何かが欲しいとも、お金が欲しいとも言わない。

早く独立して、お金を稼いで母に楽をさせてあげたい。

本当は高校にも行かず、就職しようと思っていたが、母に高校くらい出ておけと言われた。

それから、母は毎日食事代と小遣いとして千円をくれる。

けど、俺はそれを使ったことがない。

今は貯金しているが、高校を出たらすぐに返すつもりだ。

“カランカラン”

客が入ってきた。

「いらっしゃいませ」

明るい母の声。

「いらっしゃいませ」

俺もそれに続いた。

「あ〜ぁ。びしょびしょ…」

客は女の子だった。

この雨の中、外を走ってきたのだろうか、全身から水が滴り落ちている。

同時に、夏も近いこの季節。女の子は薄着だった。

俺は慌てて視線を逸らし、待ち構えていた母からタオルを渡された。

極力床だけを見るようにしてタオルを女の子に渡した。

「どうぞ」

「あ、ありがとう…ございます」

ぎこちなく礼を言ってくれた女の子。

充足感もあったが、その裏で、本当は俺のことを笑っているに違いないと考える自分がいた。

そんな俺に気付いたのか、母が…

「あんた、もう帰りなさい」

と、言ってきた。

「しかし…」

今の俺は、母のために生きているといっても過言ではない。

だからこそ、まだ手伝いたくて食い下がろうとした。

「いいから」

そう言った母の瞳には、はっきりとした拒絶が浮かんでいた。

こうなったら、帰るしかないだろう。

「わかった…」

俺は傘を持って外に出ようとした。

「あの…」

「俺に…何か用?」

客の女の子が俺を引き止めていた。

「どうせ俺のことを笑いたいんだろう?馬鹿な奴だって。好きにしたらどうだ」

「え…?」

「そうなんだろ!!はっきり言えよ!!」

女の子の困惑の声を余所に俺は一気にまくしたてた。

俺は…いったい何をしている?

「響!!」

母の叱責の声。

俺は慌てて外に飛び出した。

「何を……何をやってるんだ!!俺は!!」

手に持っていた傘を地面に叩きつけ、俺は走った。










大原 葵
謝罪




息子の響が飛び出していった後の店の中。

私とお客さんの女の子だけがただ呆然としていた。

他には何もない。

元来、ご近所での語り合いを目的として作った店。

こんな大雨の日に来ようなんて考える人はまずいない。

だから、今は私と女の子の二人だけ。

「本当に申し訳ありません。お詫びといってはなんですが…今日はサービスということにさせていただきますのでお好きなものをどうぞ」

「いえ!そんな…」

「あの子…根はいい子なんです。ただ……私以外の人間を信じられなくなってしまって。だからというわけでもありませんが大目に見てやっていただけないでしょうか?」

半分は嘘だった。

響は私のこともあまり信用していない。

あの子は“誰も”信じていなかった。

「…大原響君、ですよね?」

「知って…いるんですか?」

私は少し身構えた。

「隣のクラスなんです、私」

納得した。

「笑ったらもっと人気出るのにって、みんなで話したりしてるんです」

笑ったら…か。

多分、何か大きなきっかけがなければあの子が笑顔を取り戻すことはないだろう。

そう、私は考え込んでしまった。

「どうかしました?」

「え?あ…いえ。そうね…笑えればいいんだけどね……」

最後にあのこの笑顔を見たのは五年前、まだあの子が中学に上がる前のことだった。

離婚したばかりの私を慰めようと無理矢理笑顔を作ってた。

それは到底笑顔と呼べるものじゃなくて。でも、それが嬉しくて…

何より悲しかった。

「名前…訊いてもいいかしら?」

「あ、はい。私、柊小鳥っていいます」

女の子――小鳥ちゃんにホットココアを渡す。

「これは知人としてだからお代はいいわ」

「え…でも」

「その代わりね、あの子を一人にしないでほしいの。私は…あの子にとって神様だから……今のままのあの子じゃ自分から離れていってしまうから」










柊 小鳥
再会




神様ってどういうことだったんだろう?

翌日の私は、この疑問で一杯だった。

授業中に惚けてて、先生に当てられて取り乱したり、いつもなら解ける問題が解けなかったり…

とにかく、私は“らしく”なかった。

響君のお母さん――葵さんは、彼にとっては神様。

自分を育ててくれたことへの感謝とそこから来る憧れ。

それでも神様というのは行きすぎだと思う。

「う〜ん…」

これがわからないと、とてもじゃないけど葵さんのお願いはできそうにない。

「小鳥、お昼食べないの?」

「あ、ごめん。すぐ行く」

私は思考を中断して立ち上がった。

「どうする?やっぱり学食にするの?」

「んー…そうだね」

友達と並んで歩く。

いつもの光景。

「そういえばさ、隣のクラスの大原君、後輩の子をすごく泣かせてふったって話聞いた?」

「え?」

「何かさ、すごいひどいこと言ったらしいよ?その女の子、授業になっても帰ってこなくて、友達が迎えに行ったらそこで大泣きしてたって」

そこで私は思った。

昨日のはまだ序の口程度なんだ、と。

「みんな、自分はああならないって思っちゃうんだろうね」

「そんなにひどいの?」

私は意外に思って聞き返した。

猫と一緒に木の下で寝てたって話くらいしか知らないから。

「うん、有名な話だよ。不登校になった子とか、学校辞めちゃった子もいるし」

「嘘!?」

「本当」

人間不信の人が仲間を増やしているようにしか思えなかった。

「あ」

そんなとき、正面から本人――響君がやってきた。

響君も私に気付いたらしく、顔を背けながら擦れ違った。

「何かあったの?」

「あ…うん。昨日誰かさんが約束すっぽかしてくれたおかげで」

「あ、ひどいなぁ…好きですっぽかしたわけじゃないのに」

友達が唇を尖らせる。

「わかってるよ。いい子だもんね」

「それはそれでムカつく」

そんな感じで昼休みは終わる。

そして、それが私たちの再会だった。










大原 響
悩み




参った…

昨日母に説得され、彼女に謝ることにしたのに、できてない。

もうじき放課後になる。

彼女が帰ってしまえば謝ることなどできなくなる。

「あの!!」

声をかけられて振り向く。

そこには知らない女の子の姿があった。

「どうして、香乃にあんなこと言ったんですか!?振ったにしてもひどすぎます!!」

どうやら朝のことを言っているらしい。

「知るかよ…」

俺に用意できる言葉はこれくらいだ。

「そんな言葉であの子の涙を片付ける気ですか!?」

「あぁ。他人だからな」

俺はそう言って立ち去った。

このままじゃいけない。

そう思っていても、結局はこうなってしまう。

こんなんじゃ、母に顔向けできない。

そう思いながら、俺は昇降口へと向かう。

柊小鳥。

昨日、店に来た彼女の名前。

俺は彼女を知っていた。

分不相応の憧れと、幻想のなかの存在だった。

俺は彼女に恋をしていた。

でも、俺はそれを否定した。

考え直せ、と。

俺はそうやって、信じて裏切られたんだ。

きっと今回も同じだ。

だからやめろ。

信じなければ、近付かなければ裏切られることはない。

だから忘れろ。

それが自分のためなんだ。

あの日、最後の我儘と決めて言った日に誓ったはずだ。

もう誰も信じない。

母に恩を返しきるまでが俺の存在が意味を持つ間だ、と。

それ以外に意味はない、と。

そして、俺は何も考えずに家に帰った。










柊 小鳥
告白




私は今日も葵さんのところに来ていた。

「今日は響君いないんですね」

「あの子は…休日だけだから」

カフェオレを飲みながら考える。

結局、今日一日使っても『神様』の結論は出なかった。

「何か訊きたそうな顔ね」

「わかります?」

「えぇ。と、偉そうなこと言っても…自分の子供のことはわからないんだけどね」

そう言った葵さんの表情は悲しそうだった。

「それで、何を訊きたいの?因みに、小鳥ちゃんがあの子のこと好きだってことはわかってるからそのつもりで」

言われて、私の顔は真っ赤になった。

会って二日目なのにいきなり気付かれた。

「私ね、この年になって夢ができたのよ」

「え?」

「一つは、あの子の母親として、対等に並ぶこと」

それは唐突な独白だった。

もしかしたら、私の訊きたいこともわかってるのかもしれない。

そう思って、私は黙って聞くことにした。

「もう一つは、あの子に見離されること」

「何ですか、それ」

信じられなかった。

実の息子に見離されることを夢見る母親がいるなんて。

「前にね、興味本位で訊いたことがあるのよ。私が死んだりしたらどうするのって」

あの子、趣味も生き甲斐も何もかもが親孝行だから、と葵さんは言う。

そして、そんな葵さんは笑っていた。

でも、それは悲しいくらいの自己被虐の笑顔で。

「そしたらね、何て言ったと思う?生きる理由も何もないから一緒に死ぬって……わかる?あの子の中に自分の幸せって言葉はないのよ。あの子にとっての世界は私。だから私は神様。世界を支える柱。だから、いなくなったら崩れてしまうの」

私は何も言えなかった。

彼はどこか人とは違うって、そう思っていた。

そう、彼には自己がなかった。

すべてをこの人、母親のために注ぎ、自分には何も残らないようにしていたんだ。

「どうして…そんなことになったんですか?」

「う〜ん……話してもいいんだけど」

「どうかしたんですか?」

「響、来ちゃった」

私は振り返った。

ドアの前に彼が立っていた。

「あ…」

彼が逃げるように立ち去る。

「また戻ってきますから!!」

私は叫んで店を飛び出した。

私の望み通り、葵さんの望み通り、彼を変えよう。

告白しよう。

今にも雨が降りそうな空だけど、大丈夫。

私は負けない。

「大原君!!」

私は往来の中心で叫んだ。

彼が立ち止まる。

チャンスだ。

そう叫ぶ自分がいた。

「私は、君が好き!!」

三日三晩泣き寝入りしたっていい。

私はこのままでいたくない。

「遊びとかじゃなくて、本気!!私は君が好き!!」

恥ずかしかった。

でも、それ以上に妙な達成感があった。

「俺も…柊さんのことは好きだ…」

彼が振り向く。

そして、その暗い瞳を見て恐怖を覚えた。

何も見えていない――違う、何も見ていない瞳。

すべてに色も意味も見出だせない暗く、冷たい瞳。

恐い。

そんな私の感情を増長させるかのようにポツポツと、雨粒が私の頬を叩いた。

「だけど、やめた方がいい」

「え?」

「俺と柊さんじゃ絶対に釣り合わない」

雨足が強くなってきた。

「どこか他にいい人がいる」

そして、雨は激しくなって20m先も見えないほどのスコールになった。

ここまでくると、痛い。

「だから、その人と幸せになれ」

雨は、彼の心情を如実に表現していた。

他者の拒絶。

そして、絶望と諦め。

「何それ…私は大原君に告白して、大原君は私を好きだと言った」

私はゆっくりと距離を詰めた。

「私を……嘗めてるんですか」

同時に、私は彼の頬を叩いた。

「あなたのした事は最低です」

それだけ言い残して私は駆けた。

荷物のことなど忘れて、家へと。










大原 葵
抱擁




あの後、雨に濡れた響だけが店に戻ってきた。

そして、いつまで待っても小鳥ちゃんが来ることはなかった。

「ねぇ、響。小鳥ちゃんと何かあったの?」

“何かあった”ことをわかってて訊いた。

すると、響がビクッと震え、“何か”あったことを肯定してくれた。

「何があったか話して。母さんね、響の力になりたいの」

偽りない本音。

「……母さんに迷惑かけたくないから、いい」

「あのね…家族なのにそうやって遠慮されるほうが迷惑なのよ。だから、もう少し母さんに頼りなさい」

思ったとおりの解答に少しカチンときた。

「できるかよ……俺の所為で離婚したのに!!これ以上母さんに頼れるかよ!!」

「響!!」

“パァンッ!!”

私は響の頬を叩いた。

「あんたの所為で離婚した?いつ誰がそんなこと言ったのよ」

「だってそうだろ!?結局、俺があんなこと言ったから離婚することになって、俺たちは逃げるようにここにやってきて!!」

それは、久々に聞いた息子自身の本音だった。

確かに、離婚する前は万年新婚夫婦とか言われたりもしていた。

それ程に仲が良かった。

私もあの人もこんなことになるなんて思ってもみなかった。

学校での陰湿なイジメに耐えかねて、自殺しようとした響に気付くまでは。

私もあの人も、その時になって響がいじめられていたことに気付いた。

私たちは仲が良すぎて、真面目で出来の良かった息子をあまり心配していなかったのだ。

だから離婚した。

私もあの人もそれについては異存はなかった。

「私はね、あんたが自分のことを誰も知らない場所に行って、全然違う自分になりたいって言ったから『逃げたい』って我儘聞いたのよ?母さんね、幸せなあんたが見たかったの。なのに自分はどうでもいいとか言って、挙句、私が死んだら一緒に死ぬ?

ふざけるのもいい加減にしなさいよ?

あんたどう変わったのよ?いじめられないように腕っぷしを鍛えた?最初から人と関わるのをやめた?あんたやること間違ってんのよ。一人でも友達がいたらそれだけでも違うのよ。毎回毎回保護者面談に行くたびにあんたが孤立してることや不登校とか、自主退学者を出したって話ばかり。いい話なんて聞いたことない」

「一人で居続けたら誰にも迷惑なんてかからない」

「心配なのよ!!いつも一人で、普段は部屋に閉じこもって、暗くなっても電気点けないでぼーっとしてるか勉強してるかで、休みは休みで朝から夜遅くまで店の手伝い。これが高校生のすることなの!?

私、高校であんたにとって大切な、一生モノの友達ができたらいいって思ってた。

少しは人を信じてみてよ。だから、母さんのことも信じてほしいの。何があったか話してほしいの。ちょっとの迷惑なんて恐くない。寧ろ、親としては子供に頼ってもらえないことが淋しいの。頼ってもらえたらすっごく嬉しいの」

最終的には涙声になってた。

私はそれだけ必死だった。

「本当に…嬉しい?」

「子供に頼ってもらえるってことは、親にとっては最高の誇りよ」

私は胸を張って言った。

「それにね、母さん、ずっと悩んでた。響にとって一番幸せなことって何だろうって。響は、私の幸せだけを願ってたでしょ?私は響が幸せになってくれたらもう何もいらなかったの。

だって、あの人のいた証、愛し合っていた象徴の響がいてくれるから。私は、それだけで幸せだったの。

なのに響は私に迷惑を掛けまいと、手助けしようと頑張ってくれた。自分の幸せを無視してやってたことなのに嬉しいって思っちゃったから…

どれが本当の私なんだろうって」

響が迷った顔を見せる。

「でも、わかった。全部本当の自分。響の幸せを願うのも、響に色々としともらって喜ぶのも全部母さん。だから、響。話して」

「なら、話すけど……その」

「なぁに?」

「叱って…ほしいんだ。自分じゃ、悪いことをしたのかわからない。いつも疑ってばかりで、でも、少しだけ本音が出て……だからすぐに否定して…」

響は泣きそうな顔をしていた。

「ほら、ちゃんと言ってみなさい。それが悪いことならきちんと叱ってあげるから」

変なことを言ってるのはわかった。

だけど、それがよかった。

「実は…柊さんに好きだって言われたんだ」

そっか…小鳥ちゃん、頑張ってくれたんだ。

そう思うと嬉しくなった。

「それで、嬉しくて、本当はそんなこと言うつもりじゃなかったのに、好きだって言ってしまって…」

「何で?いいことじゃない」

「だって…俺と柊さんとじゃ絶対に釣り合わない。柊さんに迷惑じゃないか」

「本人に向かってそう言ったの?」

響は頷いた。

「後…他にいい人がいるから、その人と幸せになれって」

「そしたら、どうなった?」

「叩かれて、最低だと言われた」

響は泣いていた。

それはきっと自分がしたことに対する罪悪感からだろう。

本人はそれを自覚してはいないだろうけど。

「そうね…確かに最低ね。あんた、裏切られるの嫌なのにあんたが裏切っちゃったんだもん。信じられないからって、何もかもを拒んじゃダメなの。信じたいなら、信じてほしいなら、まず自分が信じるところから始めないと。それから、それを人にアピールするの。どうなるかはわからないけど、まずはそこからじゃなきゃ」

「母さんもそうだった?」

「えぇ。あの人を振り向かせたくて、あの人を信じて、近付いて。今は響のことを信じて、近付いてる。でも、響ったらいつも逃げてく」

「…ごめん」

響が謝った。

「謝るくらいなら、お昼くらいきちんと食べなさい。知ってるのよ、いつも渡したお金をこっそり貯金してるの」

「え?」

「お小遣いだってずっと用意してるのにせがんでくれないし。服も靴も昔のままだし…少しくらいの我儘だったら何だって聞いてあげる。そんなことで響を責める人は誰もいないよ」

響は俯いて、震えていた。

床にぽたぽたと水滴が落ちていた。

「今日から始めようよ。だから、まずはこの荷物を持って謝りにいこう?母さん、またこうやって響と話が出来て最高に幸せだから、今度は響が幸せになろう?」

私は泣いたままの響を抱き締めた。

自分も泣いていることを自覚して。










大原 響
過去




一番仲がいいと思っていた友達に裏切られた。

その友達が万引きをして、俺がそれを先生に報告した。

俺は今でもその行為を間違いだとは思っていない。

ただ、そいつは俺を裏切り者と呼んだ。

それが始まりだった。

友達と呼んでいた奴らが一人ずつ消えて、敵になっていく。

まだ小学生だった。

そんな小さな存在にとって、一対多数というのは恐怖でしかなかった。

それだけでも恐かった。

でも、終わってはくれなかった。

彼らは自分達の結束を確認すると一斉に牙を剥いた。

そういう意味では彼らは狼であり、ハイエナだった。

靴の中に砂や石は当たり前。

掃除の時間になれば水をかけられ、さらにはチョークの粉をかけられる。

給食になったら牛乳をかけられて、洗いに行くために教室を空ける。帰ってきてみれば牛乳に塗れた机。

それでも俺は学校に行き続けた。

負けたくなかったから。

学年が上がって、クラスが変わっても何も変わらなかった。

寧ろひどくなった。

教師は無責任にこちらに問題があったんじゃないか、と言う。

今ならば間違いなくこう言う。

「小学生が友人の万引きを先生に報告する。間違っていないその行為が原因なのに放置するのか」

それから時間が流れ、小学六年の秋。

耐え切れなくなった俺は手首を切り、死のうとしたが仕事から帰ってきた母に見つかって病院に運ばれた。

母さんと父さんが泣いていたことを覚えている。

母さんと父さんが怒っていたのを覚えている。

退院して、学校に行っても何も変わっていなかった。

俺はここで何もかもを諦め、絶望した。

そして、屈伏した。

俺は母さんに言った。

「逃げたい」

たった一言だった。

何より、久々に発した言葉だった。

それから、本当に急だった。

両親が離婚し、親権が母に移った。

そして、母さんは俺に言った。

「私たちのことを誰も知らない場所に行こう」

その言葉と供に差し出された手を俺はとった。

だから今俺はここにいる。

そうだ。逃げたいと言ったのは俺だ。

そして俺は母さんの幸せだけを願い続けた。

子供の幸せが親にとっての幸せであることも忘れて。

俺は本当に逃げていたんだ。

逃げ道を用意して、逃げるその手を引いて導いてくれた母さんからも。

明日からはきちんと昼を食べよう。

全員にできるかどうかはわからないけど、泣かせてしまった人たちに謝りに行こう。

母さんと買い物にも行こう。

友達も作ろう。

そして、願わくば…

「母さん」

「何?」

「恋人ができたら…お祝いしてくれる?」

「もちろん!友達ができた日も、買い物に行った日も、お昼を食べてくれた日も、いつでもおっきなケーキ焼いちゃう」

「それじゃ、頑張らないとな。母さんのケーキ、美味しいから」

恋人になってくれる人がいてくれたらいい。

「……ぁ」

「母さん、どうした?」

「初めて…美味しいって言ってくれた……」

一緒にいてくれる人がいたら……それでいい。

「か、母さん!何で泣いて…俺何かまずいこと言った?」

「違う、違うの。嬉しくて…」










大原 葵
愛情




住所録を頼りに、何とか小鳥ちゃんの家に辿り着いた。

私は荷物を全部響に渡して、インターホンを鳴らした。

「響、頑張れ」

響は黙って頷いた。

そして、すぐに、

「どなたですか?」

チェーンのかかったドアが開いて、中から中学生ぐらいの女の子が顔を覗かせた。

「あの…大原といいます。その……今日、母の喫茶店に柊さん、もとい、小鳥さんがこちらの荷物を忘れていったのでお届けに上がりました」

多分、ここに来るまでに何度も何度も心の中で練習したであろう言葉。

その中には何よりも響の一生懸命が籠められていた。

「え…それって全部じゃないですか。ちょ、ちょっと待っててくださいね。すぐに呼んできますから」

一度ドアが閉まる。

「どうするか、決まってる?」

「まず、何よりも謝りたい。許してもらえるとも、許してほしいとも思ってないけど…謝る」

「告白はしないの?」

「できると思う?今まで泣かせた人を放って、自分だけがのうのうと」

“カチャ”

「泣かせた人に私は含まれてないんですか?」

ドアが開いて小鳥ちゃんが表に出てくる。

「それに、もう吹っ切ってる人だっているんですよ。自分一人がとか、考えないほうがいいです」

「それでも謝りたい。何も考えずに、ただ拒んできたから。それで泣かせてきたから。だから謝りたい」

響の目の色が変わった。

何というか…熱意の色に。

「まず、悪かった。本気で言ってくれただろうに、あんな言い方をして…それに、昨日のことも……本当に悪かった」

響は頭を下げた。

後ろから少し押しただけで倒れそうなほどだった。

「それだけですか?私としては、もう一度きちんとした告白の答えが聞きたいんですけど」

「一度振った相手だから…」

「まだあなたのことが好きな私はどうでもいいんですか!?」

小鳥ちゃんは本気で怒っていた。

「俺としては…嫌ってほしい」

「それ…私に対する最大級の侮辱ですよ」

小鳥ちゃんの声は据わっていた。

その時だった。

「小鳥、お友達?」

ドアが少し開いて小鳥ちゃんの母親らしき人が少しだけ顔を覗かせた。

「お母さん…そういうわけじゃなくて」

「まあ、何にしても、立ち話も何だから上がってもらいなさい」










大原 響
素直




結局、強引に押し切られる形で俺たちはリビングに通された。

「お二人は恋人同士ですか?」

「「え!?」」

俺と母さんは同時に声を上げた。

確かに、母さんは若く見えるけど…

「お母さん、親子だよ」

何というか、居心地が悪かった。

それは、きっと家族という空気が。

求めることが恐かったあの空気が。

「あら、そうなの?それよりも小鳥、先に荷物を置いてきなさい。それから、楓にお茶を準備するように言っといてね」

「はぁい」

柊さん――もとい、小鳥さんがリビングから消える。

「それで…大原響君だったかしら?」

「え…はぁ」

「小鳥のこと好き?」

「な、何を言って…」

俺は誤魔化そうとした。

「響」

母さんに咎められた。

「いや…しかし」

俺としては諦めたい恋だった。

「別にあの子に告白しろって言うわけじゃないの。ただ、あの子の母として知りたいだけ」

断れという自分と、答えろという自分がぶつかり合う。

結局、勝ったのは答えろという自分だった。

「確かに、好きです。ですが、一度振った以上それでお仕舞いです。

諦めたくない気持ちは大きいですが、それ以上にこれ以上彼女に関わるのは折角諦める覚悟を決めたのに、それを台無しにしてしまいそうで…」

「つまり、今でも好きだっていうことでいいのね?」

「そうですね。まぁ、今の話は聞き流してください」

「ふぅん…だ、そうだけど、小鳥。どう?」

「え?」

小鳥さんがリビングからドアを開けて入ってくる。

「どこから、聞いていた…?」

「殆ど……全部。部屋…隣だから」

そこで気付いた。

はめられた、と。

自分の顔が紅潮するのが自覚できた。

それと同時に、俺はリビングを飛び出し、そのまま家を飛び出した。

外に出た瞬間、走る。

すぐに後ろから足音が聞こえてきた。

俺と同じように、全力疾走。

「何で追ってきた!!」

振り返ると小鳥さんが走っていた。

「何でって…逃げるからです!!」

「幻滅しただろ!?嫌いになっただろ!?ほっといてくれ!!」

「そんなことできますか!!私、諦めてないから!!」

「何でだよ!!」

俺たちは夜の街を絶叫とともに走り抜けた。










柊 小鳥
星空




三時間に及んだフルマラソンを越えた追跡劇は、バス、タクシー、電車、自転車、挙げ句の果てにはコンビニでバイクに乗ろうとしてた人に体当たりをかまして奪って高速道路に突っ込んだりした。

さらにはバイクを返した後、川へダイブしたり、トライアスロンも越えたところで、下水道で私が大原君を追い詰めて決着を迎えた。

「はぁー…はぁー…はぁー」

「ぜぇー…ぜぇー…ぜぇー」

お互い、言葉が出なかった。

それから三十分後。

「お、追い詰めました。観念してください」

「さ、三十分前にした…」

やっと回復して話し始めた。

「てゆーか、俺たち、何でこんな所まで来たんだ?」

いつのまにか、大原君の中では目的が逃げることから走ることに変わっていたらしい。

「大原君がお母さんに私のこと好きだって言って、それを私に聞かれて逃げたんじゃないですか」

「そういえば…そうだった」

泥だらけ、水浸し、汗だくの大原君はコンクリートの上に座り込んだ。

「もう…逃げないんですか?」

同じく泥だらけ、水浸し、汗だくの私もその正面に座った。

今更汚いとかは関係なかった。

「意味ないだろ?それに、このままだと顔を合わせる度に同じことをやりかねん」

「た、確かに」

私は納得した。

「だから、告白したい」

事もなげに言ってくれる大原君。

そんな風に言われると今日一日はいったい何だったのだろう、と考えてしまう。

「俺は、柊さんのことを信じたい。柊さんのことを好きだっていう気持ちには一切の嘘も偽りもない」

告白っぽくない言葉だったけど、より真剣な大原君の気持ちを表現していた。

ただ、何気なくさらっと言われたりするのは気に入らないけど、これがこの人だし。

「泥だらけで水浸しで汗だく。しかも、場所は下水道。ロマンチックの欠けらもないね」

「上に上がってもいいんだぞ?月も星も多分綺麗だろうからな」

「冗談!どうしてこんなかっこで人目に晒されなきゃなんないの?」

「同感だ」

だったら最初から言うな。

「それで、返事は言わなきゃダメ?もうわかってると思うんだけど」

さすがに同じ日に同じ人に二回も告白するなんて恥ずかしいにも程がある。

「心変わりって言葉、知ってるか?」

「あー言います。是非とも言わせてください」

ある種の脅しだった。

「私、まだ大原君のことを好きだよ。信じていいけど、裏切らないでね」

「それはこっちの台詞だ。裏切ったら殺してやるからな」

と、言って大原君は鼻で笑った。

「言ったな?」

「言ったがどーした?」

私たちは下水道という暗闇の中で睨み合った。

「きっと、コンクリートの天井の向こうは綺麗な夜空なのだろうけど、私たちにはこれでよかった」

「綺麗に纏めに入ってるところ悪いが、水嵩が増した。雨だぞ」

暗闇の中でも彼がニヤリと笑ったのが見えた。

そして、外に出た私たちを待っていたのは…

「あったかいね…」

「いや、暑いの間違いだろう?」

雨の中、激しく燃える民家と放水車だった。

「なあ、この火事は火事でショッキングな光景だが、もう一つショッキングな現実というものを知っているか?」

「奇遇だね。私もショッキングな現実をしってるよ」

言いたいことは、絶対に一緒だ。断言できる。

「「ここ、どこ?」」










大原 響
幻想から現実へ




雨で泥とかを洗い流し、交番を探して二時間歩いた。

そして、それから四時間後…すでに周囲は明るくなり始めた頃に柊家でシャワーを浴びた俺たちはすぐに床に倒れこんだ。

疲れた…学校なんぞ行きたくない。

「学校(墓場)、逝く?」

かなりニュアンスが間違っている気もしたが気にしない。

「逝きたくな〜い」

賛同を得られたところで、体が欲して止まないものがあるのに気が付いた。

「昔のこととか、話してくれるよね?」

「もちろんだ。だが、その前に」

「あー、私もその前に一つだけ」

何となく、言いたいことは同じだろうと思った。

「「先に眠らせて」」

それを言ってすぐに、俺の意識は闇に呑まれた。










柊 小鳥
雨上がりの青空




目が覚めたのは翌日の昼下がりだった。

一度夜中に目が覚めたから、大原君を叩き起こして部屋に連れ込んで二度寝を決め込んだらこの時間。

学校は昨日と同じくサボり確定。

「デート、しよっか?」

私は隣で寝ていた大原君に言った。

「デート!?」

当の彼は外の青空に負けないくらいの真っ青な顔で跳ね起きた。

「に、二時間待ってくれ!!」

そして彼は我が家を飛び出していった。

目的は…軍資金の調達と、服とかの入手かな?

「さって、着替えよっと」

私は立ち上がって着替えを準備した。

「…んぅ」

少し考えてから、シャワーを浴びることにした。

「さて、二時間後には名前で呼べるようにしないとダメだよね」

頑張ろう。

そう思うと同時に、私は彼に…響君にも頑張ってもらおうと決めた。

もちろん、文句なんて言わせない。

これくらい、いいよね?