雨中の午後。

 屋上へ続く階段の側の、広くて静かな渡り廊下で。




 「失礼ですけど、お名前をお聞きしても?」




 にこやかに問われ。

 それに応えたとき。

 瞬時に反転した、十条紫苑の表情を。




 厳島貴子は、おそらく生涯忘れはしまい。


















































 雨上がりの空に































 「……鬱陶しい、雨」




 ティーカップ片手にぽつりと零した、独り言にも近い愚痴は、既に冷め切っていた紅茶をさらに不味くしたようだ。

 窓の外には黒い雲。

 未だ雨は止まず。

 いつかと同じく、傘を持ってない貴子は、延々とただ雨脚が弱まるのを待っていた。

 けれどいつかと同じように、屋上へ向かう気にはなれなくて。

 それでこうして、無人の生徒会室を、今も一人で占拠している。

 これが一般生徒なら問題も起ころうが、何しろ彼女の肩書きは次期生徒会長候補だ。

 別段、自惚れるわけでもないけれど。

 同学年の生徒全員、自分も含め、客観的に見渡せば。

 まあ、自分以外にはこれといって適任も見当たらないようだし。

 そもそも彼女はお嬢様学校へ花嫁修業に来たわけでもない。

 卒業後の展望としてまず第一に就職を考えていた。

 なればこそ、生徒会長という立場と責任、肩書きの持つ力、情報を処理する能力から上下関係の構築まで。

 近い将来、その経験は何かの役に立つかもしれないのだから。

 どう見積もったとて、不要ではあっても無駄ではない筈。

 故に、彼女は快く生徒会長の任を受けるつもりであった。

 つまりはまあ、そういうわけで。

 貴子は来春より自分の城となるであろう一室に居座り、かといって書類を整理するわけでもなく、文字通り我が物顔で紅茶を用意した後、取りとめもない物思いにふけっていた。

 もっとも憤怒と悲哀のブレンドは無論、上品な味わいと程遠かったわけだが。

 思い描くのは一人の先輩。

 会いたいが、会えず、その資格すらない、遠い背中。




 十条紫苑。

 気品に物腰、美貌に背丈。

 およそ考えうる限り。

 厳島貴子の欲する全てを、今代のエルダーは所持していた。

 傾きつつあるとはいえ、名家の息女に相応しいだけの器量を持ち。

 毅然として誇り高く。

 かといって傲慢ではなく。

 ほがらかに微笑み、たおやかに笑う。

 どんな時でも平静を保ち。

 いかなる場所でも我を失わず。

 筋の通った、芯の硬い、所謂『近頃の女子高生』とは対極に位置する黒髪の撫子。

 忘れもしない。

 エルダーとして選出され、壇上に立った紫苑を見たとき。

 貴子は、一目惚れにも近い感覚で、その涼やかな挨拶を鳥肌と共に耳にしていた。

 歳の差にして僅か一年。

 そう、たったの一年、三百六十五日である。

 しかし、では一年後。

 あの『お姉様』と同じラインに立っていられるかと聞かれれば。

 正直、そんな自信はどこにもなかった。

 なるほど、背丈やスタイル、成績その他は追いつく可能性もあるだろう。

 貴子とてその才覚は常人離れしているし、目標へ近づくのに努力を惜しむ性格でもない。

 けれどそれを差し引いたとて。

 一学年上のエルダーは、あまりに大きく見えたのだ。









 ――邪推をすればそれは。

 同世代の少女と比べ、明らかに違う大人びた姿勢はしかし、諦観から来る一種の達観でもあったのだろう。

 政略より尚汚らわしい、欲にまみれた策略結婚。

 新興財閥にその名を連ねる『厳島』からの求婚とあらば、落ち目の『十条』にソレを突っぱねるだけの力はなく。

 故に紫苑は、十代も半ばで婚約をした。

 その相手が即ち、新興財閥の馬鹿息子であり。

 そして同時に、厳島貴子の愚兄でもある――。









 ともすれば。

 貴子は一体どのような顔で。

 今代のエルダーを『お姉様』と呼ぶべきなのか。









 学園の伝統と家の事情とでは話が全然違う。

 伝統は伝統として受け入れ、次の世代へまた託さなければならないもの。

 紫苑も貴子も、それくらいの分別は当然のように持っている。

 持っているが、それでも。

 それでも尚。

 貴子に、紫苑を、姉上と呼ぶ資格はなく。

 また。

 紫苑も、貴子から、姉君と呼ばれることには嫌悪以上に憎悪を感じた。

 故に、偶発的なファーストコンタクト以降、互いが互いを避け合う日々が続く。

 家名を、女性を、その誇りを。

 ブランドか何かと勘違いしている、親の七光り以外の何物でもない下劣な男。

 そしてその男の元へ嫁ぐ他ない悲運と不運。

 その憤怒、その苦痛。

 それらが容易に解せる故に。

 貴子はその雑多な感情が混じった視線を、当然のこととして受け入れた。

 紫苑の立場を考えれば火を見るより明らかだろう。

 何が悲しくて厳島の人間――それも将来の義妹になりうる人物――と、にこやかにお喋りしなくてはならないのか。

 誰とでも分け隔てなく接する才色兼備のエルダーは家名と両親を何よりも重んじ。

 そのために今自分が何をすべきか、判断し、受け入れられるくらいには大人で。

 だがしかし、有り余る余生を人形として生きることには至極真っ当な憤りを覚え。

 私怨の混じった非難の視線で、責のない貴子へ八つ当たりする程度には子供なのであった。

 築く前からヒビ割れていた、修復不能な深い溝。

 家の名を背負って在る以上、一族の功績は少なからず個人の評価をも上げるだろう。

 逆もまた然り。

 十条の犯した罪は期せずして貴子への罰と相成った。

 引きちぎられた赤い糸を繕い直すことなど出来ず、どうあがいたとて所詮厳島の人間である貴子には、現在の破綻しきった関係を甘んじて受け入れる他なかった。









 それでもいつか。

 手を繋ぎ、心を結び、隣に立つ日を夢見ている。









 彼女が『十条』の長女でなければ。

 自身が『厳島』の血縁でなければ。

 『十条』が今尚名家であれば。

 『厳島』が成り上がれずに燻っていれば。

 何でもいい。

 違ったカタチで出会っていれば、と。

 ifの世界を夢見たことも、一度や二度の話ではない。

 出会い方一つ間違えば、まったく違う関係を築けた筈。

 親類縁者家族親戚。

 どうしても好きになれない身内と違い、心よりの尊敬と信望を注ぐに値する、一つ年上のお姉様。

 その視線、その声音、その温もりと、その匂い。

 貴子が貴子である以上、決して届かぬ紫苑の心。

 エルダーが貴子へ、常ならぬ視線を向けるのと同じように。

 貴子もまた、エルダーに向けるその眼差しは、他の生徒と一線を画していた。

 一途に、偏に、熱心に――それはある種、病的なまでの熱を帯び。

 事ある毎に彼女を想う。

 その胸の奥の感情はどこか。

 尊敬とはまた、違った意味での好意のようで――。




 「――何かしら?」




 半ば以上まで自身の世界に入り込んでいた貴子はふと、雨粒の弾ける音に混じって響く、甲高い靴音に気が付いた。

 日頃耳にすることなど皆無にも近い耳障りな連弾はもしや、廊下を駆ける生徒のものか。

 一体何を急いでいるのか、鳴り響く雑音は一向に収まる気配も見せず、どころか、むしろ刻一刻と大きくなっているようでもある。




 「……もしかして、この部屋へ?

  にしてもまったく、はしたないったら……」




 とは言うが、いくら温室育ちのお嬢様だとはいえ、最近の風潮、最新の価値観といったものは多かれ少なかれ学院内にも蔓延しているわけだし、貴子とてそうそう細かいことにまで口を出すつもりはない。

 かといってまた、誰も彼もがあの忌々しい御門まりやのようになられても困るわけだが。




 御門まりや。

 正真正銘、華族の流れを汲む身でありながら、その自覚など微塵もない――少なくとも貴子にはそうとしか見えない―― 何から何まで貴子と対極に位置する明朗快活な女子生徒。

 確かに昨今、家名、性別、肩書きを問わず、あくまで個の能力によって評価を下される時代において。

 血筋や伝統、家柄のように、年月をかけて引き継がれてきたものというのは、個人が生きていくのに不要と言っても良い産物だ。

 けれども、それは決して、無意味や無価値と同義でない。

 極端に言えばつまり、実家が裕福ならただそれだけでも幸福だろう。

 お金がないというただそれだけの理由で、大切な人を失った、大事なものを諦めたという、そんな人だって、学院の外には山といるのだ。

 入学金だけでもそこらの医学部か何かと勘違いせんばかりの名門、恵泉女学院。

 そこの生徒であれば皆裕福な家に生まれ育ち、お金に困ったことなんて、ただの一度もないわけで。

 だというのに、あの女。

 まるで自分が一人で生まれ、一人で生きてきたかのように、自由奔放、やりたい放題、傍若無人に振舞ってみせる。

 一応、それらはすべて、彼女なりに考えての行動らしいが、先にも言ったとおり、何から何まで真逆に位置する犬猿の仲の二人である。

 貴子にはまりやの行動原理など1ミリたりとも理解できないのであった。









 ――何よりも。









 血筋を呪い、家名に縛られ、家の方針のために敬愛する『お姉様』を失った貴子には、華族たる風格を片鱗も持たない御門まりやという存在が、心の底より気に入らなかった。




 「――会長! いらっしゃいますか、会長!」




 ノックもせず、また返事も待たず。

 唐突に、突然に、切羽詰った様子で生徒会室の扉を開いたのは貴子が一番目をかけている一つ年下の優秀なる後輩、菅原君枝であった。

 校則も推奨する結った黒髪に無駄な化粧は一切しない、レンズの厚いメガネをかけたその少女は生徒会役員の一員であった。

 想像違わず、全速力で走りぬけた結果だろう。

 何か言うべきことがあるにも関わらず、荒い息を整えるのに精一杯といった按配のその後輩へ。

 貴子が先手を打って出た。




 「……君枝さん、まず一つ。私はまだ正式に就任したわけではありません。

  会長と呼んで頂けるのは嬉しいのですけど、出来れば選挙の後まで待ってくれないかしら」

 「――は、はい! 申し訳ありませんでした!」

 「次に二つ目。貴方がそこまで取り乱すからには何かしら急を要する事態なのでしょうね。

  それでも、廊下を走り回り、扉をノックもせず勝手に開けた挙句、  大声で叫ぶなんて、とてもじゃありませんが褒められた行為とは言えませんよ?」

 「あぅ……。申し訳、ありませんでした……」




 さっきまでの勢いはどこへやら。

 あっという間に気勢を削がれた君枝は猛省と共に自己嫌悪、派手さのない整った顔立ちを暗く曇らせて俯いてしまった。

 そんな様子に、苦笑を一つ。

 この可愛い後輩は、どうにも少し抜けている。

 優秀ではあるが貫禄が足らず、機敏であると同時に落ち着きもない。

 それでもまだ上を目指し、努力に精進を積み重ね、教師や先輩から少しでも多くを学ぼうとするその姿勢はとても好感が持てた。

 少なくともあの小憎らしい御門のご息女などよりは余程。

 だからこそ貴子は彼女を好み、また君枝も貴子にはよく懐いていた。

 ともあれ――。




 「――それで、君枝さん。一体何が?」




 宙ぶらりんになっていた火急の用件。

 その詳細を尋ねるまでは、貴子も和やかな笑顔を保っていられた。

 十条紫苑には及ばないとて彼女ももうじき最上級生である。

 後輩の動揺は先輩である貴子の冷静な対応で以って鎮火すれば良い。

 そんなことを、思っていた――。




 「あ、そっ、そう! そうです! 大変なんです! お姉様が――」




 ――倒れられたそうです、と。

 目下、一番の信頼をおく後輩が。

 そんな、無慈悲な言葉を口にする、その瞬間までは。




 「お姉様が……倒れ――た?」

 「はい! その、意識が中々戻らなくて、つい先ほど病院の方へ搬送された、みたいです……」




 さしあたり命に別状があるとか、そういうことではないようなのですけど。

 そう続く言葉に、がんとして頷く。

 当たり前だ。

 あの人に何かあってみろ。

 病院丸ごと取り潰してやる。

 加熱する思考回路、本人には自覚もない。




 「とにかく一度検査をして、もしかしたら、そのまま入院なさるのだとか……」

 「入院って――」

 「わ、私も又聞きの又聞きなので詳しいことはよくはわかりませんけど……。

  でももし本当に入院なさるのでしたら……」




 そうだ、この時期に倒れる――まして本格的に入院するだなんてことになったら、それはつまり。




 「――そんな! 来週からはもう中間考査なんですよ!? それに、期末考査だってその後すぐに――」




 言いかけて、思い当たり、そして一気に血の気が引いた。

 知識としては知っている。

 十条紫苑は生来病弱であるそうな。

 幼少より幾度となく入退院を繰り返し、その都度手術の話も見え隠れしていたとか。

 それらを踏まえた上で、迫る定期考査二つとの兼ね合いを考慮すれば――。




 「……エルダーの……留年?」




 我知らず零した、呆とした呟きに、眼前の君枝が泣きそうな顔で頷いた。

 背筋が凍る。

 何かとてつもない、空恐ろしい事態になりかけている。

 そんな予感が渦巻いていた。

 恵泉でもご多分に漏れず、1学期に2回、2学期に2回、そして学期末に1回と計5回の定期テストを執り行い、その結果如何によって単位取得の判定を行う。

 果たして、全5回のうち2回を欠席し、それで単位が取れるものなのか?

 よしんば病み上がりの体を推して受けたとしても、満足な成果は望めまい。

 本来、全校生徒の模範であるべきエルダーシスター。

 その期待に充分すぎるほど応え続けてきた稀代のエルダーが今、反面教師に片足を突っ込んでいる。

 数刻前までは確かに存在していた筈の貴子の中の冷静さなど、最早欠片も残さず吹き飛んでいた。




 「そのっ、私も本当に、詳しいことはわからないので……もしかしたらただの貧血ということも……」




 説得力に欠けた涙声が虚しく響く。

 けれどそもそも、ただの貧血なら長時間の意識不明など異常だ。

 現に紫苑は今までも何度か貧血を起こして倒れている。

 そしてそういったときはただの一度も例外はなく、即座に意識を取り戻していたのだ。

 今までにない異常事態。

 後輩より伝播した動揺は貴子の胸を強く激しく締め付けた。




 「……ふぅ」




 呼吸を一拍。

 唇を強く結ぶ。

 瞳には力を、強い意志を。

 味も香りも底辺まで落ちきった紅茶を一息で飲み下し、下品な音を立ててカップをペアのソーサーに戻す。




 「付き添いはどなたが?」

 「は、はい?」

 「ですから、しお――」




 『紫苑様』と言いかけて、止める。

 幸か不幸か、本人は不在。

 後輩の手前でもあるわけだし、今だけは『お姉様』と呼ばせてもらおう。




 「――お姉様の付き添いです。

  救急車か何かで運ばれたのでしょう?

  どなたか先生が同乗していたのではありませんか?」

 「あっ、も、申し訳ありません! そこまではその、頭が回らなくて……」

 「別に、貴方が謝る必要はないでしょう?

  凶報とはいえ、一番先に私の元へ来てくれたことは感謝しています」




 こちらも同じく、眉を八の字に寄せた状態で言っても、説得力などないだろうけど。




 「とにかく教員室へ行って……いえ、それよりも学院長はこのことを?」

 「はい、ご存知だと思います」

 「そう。では、そちらの方が早いでしょう」

 「は、早い……ですか?」




 そう、早いのだ。

 何が早いのかなんて、そんなのは勿論――




 「病院でお姉様のことについて何かわかったら、付き添いの先生はまず真っ先に学院長へお知らせするのではなくて?」




 ――情報だ。




 「私はこれから学院長のところへ参ります。

  君枝さん、この後何か予定はあって?」

 「ないです! 全然! ちっとも! これっぽっちも!」

 「なら、一緒に行きましょう。ついてらっしゃい」




 暢気に洗ってる暇などない。

 カップとソーサー、それにスプーンを、使用済みのまま流しに置いて、わき目も振らずに部屋を飛び出る。

 直後、貴子は生まれて初めて『廊下を走りたい』という衝動にかられていた。

 なるほど、君枝の混乱ぶりも頷けるというものだ。

 緊急時だというのに、見てくれを気にしてしゃなりしゃなりと歩くのは思った以上にストレスが溜まる。

 歩き方一つとっても最低限の礼儀作法として、幼い頃より仕込まれてきた、その貴子でさえこうなのだ。

 君枝がはしたなくもスカートを翻して疾走したとて、無理からぬことであったと言える。




 「――学院長、よろしいでしょうか?」




 どうあれ、学院内がいくら広いと言っても距離は必ず有限だ。

 歩行であれ走行であれ、いつかは必ず学院長室へ辿り着く。

 貴子はドアの前でノックを二つ。

 声をかけ、返事を待った。




 「ええ、どうぞ」




 ガチャリ、と。

 ノブを回し、ドアを開けて、室内に踏み入ったとき。




 「まあまあ、生徒会の役員さんがお二人も……何かありましたか?」




 年配の、温和で、落ち着きがあり、同時にどこか茶目っ気もある、学院長の。

 その表情に差した、曇天のソレとは異質の翳を見て。

 今更ながらに、十条紫苑の身に起きた事象の重大性を思い知る。

 吐き気にも似た不快感を押さえつけるように無理やり飲み込み、勧められるままソファーに腰掛け、話を促す学院長へ、一太刀目から直入した。




 「学院長、お姉様が倒れられたというのは本当なのでしょうか?」




 わずかに見開かれる双眸。

 小さく飲み込まれた吐息。

 学院長の小さな豹変は室内の空気を大きく変えた。

 だからそう、事実確認はこれで終わり。

 あとはそれがどのような症状なのか、退院の可否と、学院への復帰予定日を聞いて終わり。

 不躾な二人の客人へ紅茶を淹れようと立ち上がった学院長に『結構です』と短く告げて、けれどそう言えばついさっき『紅茶の出来損ない』をガブ飲みしてきた自分と違い、ソファーの隣に腰掛けて緊張に震える後輩は喉が渇いているのかもしれないなぁ、などと。

 胡乱な頭で考える。




 「そう……もうお二人はご存知なのですね?」

 「はい。つい先ほど菅原さんからお伺いしました」

 「あ、ああああああの! 私はその、緋紗子先生からお聞きし――」




 言いかけた君枝が、発言を中途で取りやめる。

 本来敬うべき教師を下の名前で呼ぶのはまあ、梶浦緋紗子という職員に関してのみ例外が適用されるから良いとしても。

 こういう場合、教職員は生徒の混乱を避けるために情報を提示しないのが常だ。

 ならば今自分がついうっかり滑らせた口は何かしら緋紗子の立場を危うくしないだろうか、と。

 半ば以上まで青ざめた表情が彼女の心境を雄弁に物語っていた。

 が、それはもはや杞憂というよりもむしろ心配性の領域にある。

 元より有事の今現在。

 学院長も貴子も紫苑の容態以外に割く神経など持ち得ない。

 面と向かい合った二人の側で、あまり余計なことは喋らないようにしようと一人密かに決意を固める。




 「……そうですね、生徒会の役員であるあなた方には説明しておくべきでしょう」




 同じくして決意を固めたのが一人。

 エルダーシスターといえば生徒の規範、生徒会役員は生徒の代表。

 似て非なるとはいえ真に近しい間柄。

 まして貴子は来春より三年生で、次期生徒会長候補でもある。

 ならば尚更言うべきだ。

 例え貴子から聞きに来なかったのだとしても、遅かれ早かれ学校側から彼女へ通達することになっただろうし。




 「十条紫苑さんは身体的な事情により、しばらくの間休学なさるそうです」

 「……それは、いつまででしょうか?」

 「どうにも、今回は症状が重いらしく……紫苑さんの復帰はどんなに早くても――」









 その一言を告げるのに。

 勇気と、時間と、力があった。









 「――来春。3月以降になるそうです」




 瞬間。

 無数の憧憬を一身に集めた、エルダーシスターの留年が決定した。

 十条紫苑は、卒業式にも出られない。

 もし出られたとしても、在校生徒の側なのだ――。













































 空は暗く、雨が止まない。

 下校時刻を迎えた学院は傘を持たない生徒に貸し出し、校舎から強制的に追い出し始める。

 もっとも貴子の場合は君枝との相合傘により、学校の備品に手を付けずとも済んだのだが。

 実際問題、規定の用紙に学年、クラスと、番号に名前を書かされていた生徒もいて。

 義務付けられずとも借りた傘くらい返しに行くというのに、と。

 どこか不満そうな面持ちでペンを動かしていたのが印象に強い。

 そんな中で言えば、貴子はまだ知り合い―― それもごく親しい後輩――が傘を持っていて、尚且つ遅くまで校舎に残っていた、という点で僥倖だったと言えるだろう。









 もっともその相合傘とて。

 ムードも雰囲気も情緒もない、ただ鬱屈とした世界であったわけだが。









 かねてよりの天候と相まって。

 紫苑の留年が二人へもたらした負の衝撃は尋常ならざる規模となる。

 さして達者な方でもないが、貴子も君枝も二人揃えば事務的な会話以外に世間話だってするし、冗談を言い合って笑うくらいの仲でもある。

 それがただの一言すらなく、ただ単に足を動かすだけ、雨水を避けるので精一杯という現状はもはや、傍目から見れば険悪以外の何物でもない。

 両者とも、思考が現実に追いついてないのだ。

 エルダーが、それも優秀極まりない十条紫苑が。

 長い歴史を誇る学院の中でも滅多に出ない留年となるなど。

 緘口令に近いものが布かれるらしく、貴子たちも口を閉ざすように言われたが、それもどこまで通じるか。

 情報とは流れるもので、噂というのは止められない。

 ましてやこんなスキャンダル。

 お嬢様方には分別もあるが、年頃の女生徒は耳聡く口が軽い。

 雨天で部活動もおおむね中止の放課後、校内にそれほど多くの生徒が残っていたわけではないだろうが。

 それでもやはり、人の口には戸を立てられないわけで。




 「そもそも、そういう問題ではないのでしょうけどね……」

 「は、はい? 何か仰いましたでしょうか?」

 「いいえ、何も」




 ため息を、すぐ隣にいる後輩には気づかれない程度に、小さく零す。

 別に噂などどうでもいい。

 情報の真贋などすぐ割れる。

 紫苑が来年も在学していれば、それが何よりの答えだからだ。

 十条紫苑は来るだろう。

 あの人は逃げたりしない。

 強く、毅然として、我を失わず、また何事もなかったかのように。

 三年生をやり直すのだ。

 成績優秀、なれど体調不良により出席日数が確保出来ずに留年したエルダー。

 悲劇のヒロイン、憐憫の対象、珍しいものでも見るかのような目。

 影でいかに囁かれようと、どんな噂が流されようと。

 人前で取り乱したりは絶対にしない。

 同情は不要。

 気遣いは無意味。

 結局のところ、一から十まで。









 厳島貴子に出来ることなど、この世のどこにもありはしないのだ。









 それとも、憧れの人のために何かしたいと。

 そう思うことさえ、傲慢だろうか。

 焦燥に駆られ、憂鬱を孕み、苛立ちを宿して葛藤に落ちる。

 そんな折、君枝の声が耳に届いた。




 「……でも、お姉様はエルダーとして日夜励まれていたのですから、何とかその、特例みたいな処置は取ってくれないのでしょうか?」




 即断する。

 不可能だ。

 エルダーとは努力してなるものではない。

 努力しているものがエルダーに選ばれるのだ。

 人よりも少し遅くに寝て、人よりも少し早くに起きる。

 勉学に励み。

 汗を流して。

 秩序を尊び。

 規律を重んじ。

 目上の者を見習って。

 目下のものを正しく導き。

 家族には愛を。

 恩師には感謝を。

 清く正しく美しく。

 日々、一人前の淑女を目指し精進する。

 誰に言われるまでもなく、こういったことをこなせる生徒が――。









 ――エルダーシスターと呼ばれるのだ。









 心がけ次第で誰にでもできる、案外当たり前のこと。

 何も特別なことではないし、エルダーに限ったことでもない。

 その時々において、自分に出来る精一杯をこなす。

 それは多分、一番大事で。

 そしてきっと、何より一番難しい。

 だからこそ、その難しいことを平然と行い。

 それでいて、その難しさを寸分たりとも感じさせない。

 そんな紫苑が眩しかった。

 いつか自分もああなれれば、と。

 そう、いつの日か。

 手を繋ぎ、心を結び、あの人の隣で――。




 「――あ」




 ふと、気づく。




 「会長? どうかなさいました?」

 「……君枝さん、『会長』は止めてくださいと言ったはずですが?」

 「あっ! も、申し訳ありません!

  何度も何度も、本当にごめんなさい!」




 いや、そんなことはいい。

 年上の誰かを名前で呼ぶのに照れが入るのは仕方ない。

 けれど今は『会長』じゃ困る。

 あの偉大な背中に追いつくためには、『会長』だけじゃ足りないのだ。




 「……お姉様、と」

 「は?」

 「お姉様、と。一度だけで結構です。そう呼んでくれませんか?」




 我ながら、自分が何を言っているのかわからない。

 きっと言われた方はもっとわかっていないだろう。

 けれど一度でいい。

 一度でいいのだ。

 この身にも種があるのか否か。

 芽吹く可能性はあるのか否か。

 あの大樹とまではいかなくとも、せめて一輪綺麗な花を。

 期待と不安は五分五分だが、少なくとも今の今まで、貴子は貴子なりに精一杯をこなしてきた。

 だから一度でいい。

 一度で充分。

 お姉様、と。

 そう呼んでほしい。




 「え、あ、あの!? わ、私がですか!?」

 「この場には私と貴方しかいないでしょう」

 「そ、それは確かにそうなのですけど、でも、でも!?」

 「まあ、他に誰かいたとしても、私は君枝さんにお願いしたでしょうけど」




 その、さして他意もなく言った言葉が。

 純な君枝の導火線に、無音で特大の火をつけた。




 「お!」

 「お?」

 「お、お、お、おね! お、おね――」




 冷や汗が一筋。

 君枝は何か、物凄い頑張っている。

 脳のあたりで気合いの調合率を間違えてるかのような勢いで。

 アクセル全開フルスロットル、ギアはトップでノーブレーキ。

 一生懸命、一意専心、一球入魂、一言千金。

 そうして、万感の思いを込め。

 やっとのことで放たれた言葉は。









 「――お姉様っ!」









 貴子の迷いを、綺麗に両断してみせた。

 もしかしたら、厳島貴子も『お姉様』になれるのかもしれない、と。

 そんな自信がわいてくる。




 「――はい。ごきげんよう、君枝さん」




 返す言葉に、朱が応える。

 真っ向から微笑みかけられた後輩の、耳まで染まったその赤色に――確信する。

 そうだ。

 私は、私たちは。

 いつもあの人を、あのエルダーを、十条紫苑という女性を。

 こんな表情で眺めていたのだ。




 「ふふっ、こんなときに変なこと言ってごめんなさいね」

 「い、いえいえ!? そんなっ、こちらこそ恐縮です!」

 「それと、付き合ってくれてありがとう、君枝さん」

 「ど、どういたしまして、です……」




 迷いは消えた。

 やるべきことは、こんなにもハッキリしている。

 先代に比べればまだ至らぬところだらけの、未熟極まりない生徒だが。

 それでもいつか、目標を胸に。

 十条紫苑の在った場所まで、いつか必ず辿り着く。

 決意をここに。

 エルダーになろう。

 生徒会長と兼任になるかもしれないが、そんなことは些事瑣末。

 来年度、エルダーとなった厳島貴子を見て。

 前年度、エルダーであった十条紫苑が。

 ほんの少しでも貴子を認め、また、ほんの少しでも、紫苑自身の糧としてくれたなら。

 こんなにも幸せなことは、そうそうないと思うのだ。




 「雨、止みませんね」

 「そうですねっ!」

 「明日には止んでくれると助かるのですけど」

 「そうですねっ!」

 「明日はきちんと傘を持ってこないと、また君枝さんにご迷惑かけてしまいます」

 「そうですねっ!」




 どこかちぐはぐな問答も一向に気にならない。

 雲行きは怪しく、天気予想図がグダグダであっても、貴子自身の未来予想図は決して悪いものでなかったのだから。









 そうしていつか、あの遠い背に追いつけたとき。

 そのときはまず虹を見よう。

 初めて会ったときと同じ。

 渡り廊下で雨上がりを待ち、七色の橋を特等席で。

 今度は笑顔を、目に焼き付けながら――。