───最悪。

私こと天河日向(あまかわひなた)は心の中で溜息をついた。

まったく、今日という日はとことんついてない。

普段なら見れない朝の星座占いは最高のクセに、内容ときたらまったくの逆。

目覚ましは遅刻防止週間の日に限って鳴らず、結局遅刻。

苦手な数学の授業中、ウトウトしていたら大嫌いな教師に目をつけられ、たっぷりとイヤミを言われ、しぼられた。

おかげで昼の売店競争に出遅れて私の命の源と言っても過言ではない、コロッケパンを買い損ね、結局意地を張ってお昼を抜いた。


「何が素敵な出会いだ、何がこの期にリフレッシュだ!アンラッキーにしか出会わないし、ストレス溜まりまくりだっつーの!」


今にも泣き出しそうな曇り空に向けて一人意味もなくグチをこぼす。

最後に「バーカ」と悪態を吐き、緑生い茂る山にアスファルトをそのまま乗っけたような通学路を歩く。


ぽつん


大粒の水滴が鼻っ面を直撃した。

────口に出さなければ良かった。

激しく後悔しても、一度この口から飛び出した言葉は返ってこない。覆水盆に返らず。

空は数回水滴をたらすと私の八つ当たりで拗ねたのか、堰を切って号泣を始める。

寝坊で天気予報など見る暇はまったくなかったので、本来御活躍予定だった雨具一式は我が家で出番待ちとなっている。

────本当に最悪。

こうなったらヤケ。ポジティブシンキングでいかないと、16歳という年にして胃潰瘍を体験しそうだ。

だったら、こう考えよう。


『今日は暑かったけど、夕立に降られて濡れたので涼しくなりました。うん、ラッキー♪』


…………アホらし。

私は不幸の連続で故障気味の頭を二・三度振り、爆発したように走り出した。

忌々しい雨は時間が経つ毎に勢いを増していく。

息が切れるくらい全力で走っているにもかかわらず体はどんどん冷えていく。

まるで私の命を吸い尽くさんとするかのように、水は走っても走っても纏わりつく。



───────────────命、か───────────────



走りながら灰色一色の曇天を、仇のように睨みつける。

────また、お前は誰かを殺すの?で、今回の“誰か”は私ってコトでOK?

当然空は答えない。代わりに勢いを上げて、水は更に私を蹂躙した。

────上等。そのケンカ、買った。

勝手に売られていない喧嘩を心で買い、私はスピードを上げた。







      太陽と青空






薄手のシャツは肌にピッチリとへばりつき、スカートは太股に喰らいついて離れない。

靴の中は洪水状態、鞄の中身は全滅と見て間違いない。

髪は大量の水分を含み、前髪は視界の一部をジャックする。

今の私の体に、水が触れていないところなど無い。

ここまで濡れきっているのなら別に歩いても構わないのだが、もう宣戦布告は終わったのだ。

いくら体が重かろうと、足を止めるという選択肢は絶対に選べなかった。

暫く走っていると、やがて果てしなく続くかに見えたアスファルトのすぐ脇、緑の中にぽつんと一点の灰色が見えた。

────あそこに着けば、私の勝ち。

目標が定まったのなら話は早い。後は脇目も振らず、ソコを目指して駆け抜けるのみ。

自然と足は軽くなり、数秒後。



私は難なく箱のような廃屋に飛び込むようにして進入を果たしたのだった。

息も絶え絶えで、私はすぐにへたり込もうかと思ったが、体に纏わりつく不快感がそれを許さなかった。

もう上着の役割を果たしていないシャツと赤いスカーフを脱ぎ、雑巾を絞るようにして水気を切る。

次に後ろを団子状にして束ねた、若干長めの髪を乱暴に振りほどき先程と同じように軽く絞る。

靴と靴下を脱ぎ捨て裸足になり、スカートは脱ぐのが面倒なので穿いたままの状態で絞る。

これで一通りの応急処置は完了。まだ濡れているが、多少は我慢だ。

本当は下着も水気を切りたかったが、他に人が居ないとはいえ流石にそれは恥ずかしかった。

とりあえずはこれで満足しシャツを着なおそうかと思ったが、途端にじめじめした暑さが肌を刺激し、断念した。

それにこれだけ濡れればどうせ明日は風邪を引くに決まっている。

既に開き直っていた私は、上半身下着姿というデンジャーな格好のまま腰を落とし、全開のシャワーのような雨が上がるのを待つ。


「…っぷ、くすくす…はは、あはははは……」


端から見れば変態な格好で突然笑い出す私を見たら、クラスの皆はどう思うのだろう。

やっぱり気違いかな、なんて考えながら狂ったように、できるだけ嬉しそうに笑う。

勝った。勝ってやった。

どうだこの野郎。どうせお前はすぐ止むんだ。ここにいればお前は触れられまい。


ザアアアアアアアアアアアアアアアァァァァァァァァァァァァ────────


だからその鬱陶しい音を、今すぐ終わらせなさい。

ああ、うるさい。不快だ。もうお前の出番は無いんだぞ。

             
「はは…あはは、は………は………」


H2O(エイチ・ツー・オー)。

ただの水の塊に、こんなにもムキになる自分が馬鹿らしいから。

目が熱いから。

楽しいわけでもないのに笑う。






まだ身体は、濡れたまま。






──────────────シャ、バシャ──

ノイズのような雨音に混じった足音に、ハッとして我に返る。誰か来た。

─────ャ、バシャ、バシャ、バシャ─────────

私と同じ、この雨にやられた哀れな犠牲者。

その足音が大きくなり、朧気だが人影も見えてきた。

私は入口のすぐ横で身を固めた。

バシャ、バシャ、バシャ、バシャ、バシャ、バシャッ!!

………………来た。

滝のような雨水をかき分けるようにして、黄色のレインコートを羽織ったソイツはやってきた。

後姿しか見えずよく分からないが、男の人と言うことだけは分かった。

彼は何かを確認するように右左首を振る。

何だかさっきの自分みたいだ。

他人事に思えなくて、思わず笑い声が漏れてしまった。

びくん、と大きく一回のたうち彼は上半身をぐりん、と180度回転させ、そのまま。


「………………………………………………………………………」

「………………………………………………………………………」


まるで珍獣を見ているみたいな目で、全身を舐め回すように見つめる。

そんなに現役女子高生が珍しいのだろうか?

そりゃあまだ女子高生になってから3,4ヶ月の新人だけど、見た目は立派に女子高生だと思うんだけどな…

───どこか、おかしいところがあったのだろうか?────あと何か忘れてるような──────


「……………Cか」

「?」

「ふむ、これからに期待、といったところか。俺を誘惑したいのなら、最低D以上は確保して欲しいところだ」

「???」


こいつ、何を言っているのだろう?

彼は私の一点を見つめながら、何か独り言を繰り返している。

彼の視線の先を追ってみる。

私の目は彼の顔から体に移り、地面に移り、私のスカートに移り、そして、下着しか身に着けていない上半身で止まった。

私の中の時間が、止まる。


「制服のデザイン、色からして△△高校一年か。その年でそのサイズなら未来に希望を持っていいだろうよ」

「あ、ああ──あああアア」


────ああ、私のアホ、馬鹿、間抜け!!

慌てて手で胸を隠すも、時既に遅し。

顔の温度がどんどん上昇していく感覚がありありと分かる。

────見られた。しかも、濡れて透けた下着姿を。男には誰にも見られたこと無いのに!

わなわなと体を震わせ立ち上がる。

────ああもう、天河日向はどれだけ不幸になりゃいいのよ!

自分の過失だから自分に文句を言うしかないのだが、今の私は気が動転していて、

目の前の男にまくし立てるという方法しか思いつかなかった。


「あほかお前は!女の子の裸見たらちょっとは恥じらいなさいよ!っていうかすぐに教えろ!」

「何だ、わざと見せていたわけじゃないのか」

「誰が好き好んでどこの馬の骨だか分かんない奴に見せなきゃいけないのよ!この変態!」

「たわけ者が!男は女性が脱ぐ瞬間に興奮するのだ!そして男はすべからく変態属性を持つ獣!それを理解していないな少女A!

 性欲は人間の三大欲求が一つ!それを否定する事をできはしない!否定できるとしたらただ一時、それは人間を止める時だけだ!」

「なっなっ…っ!」

「それに見せていたのは君自身だ、少女A。君が望んでなかろうと脱いでいたのは事実。俺に当たるのは筋違いというものだ」

「で、でも見たでしょ!責任取りなさいよ!」

「だからその責任が俺には無いと言っている。君は放置されたミロのヴィーナスを見ている者を犯罪者呼ばわりするのか?

 アレとて上半身は裸体だぞ?では世界の大半は犯罪者だな。勿論君も同罪だ」

「はあ!?ちょちょちょっと、無茶苦茶な屁理屈じゃない!人間と銅像は違うっての!」

「銅像じゃなくて石膏像な」

「どっちも同じよ!…ああもう、馬鹿……そんなこと言いたいわけじゃないのに…」

「はっはっは。心の乱れた君が俺に口論で勝つなど不可能の極み。実に1兆光年は遅い!」

「…光年は距離の単位よ」

「だから『遅い』と言っただろう?もっと言葉を勉強したまえ少女A」

「…はあ、もう何でもいいや。あんたと話してると疲れる」

「そうか?俺は結構楽しいぞ?まだ8回しかやり取りが無いぞ?もう主張は無いのか?受けてたつぞ少女A」


私は無視して男に背を向け、その場に座り込んだ。

男は満面の笑みで私のすぐ隣に腰を下ろした。


「……………」「……………」


立ち上がって男から少し離れたところに座りなおした。


「おや?何で離れるのかな?」

「あんたの隣に居たくない」

「だがそこでは俺が見てしまうが?それでもいいなら喜んで離れていようじゃないか」

「見ないで。後ろ向きなさいよ」

「それじゃ話ができない」

「あんたと話す事なんてこれっっっっっぽっちも無いから、後ろ向いてて」

「断る。俺が暇になる。何でもいいから話題出して話してくれ」

「あんたが暇だろうと急がしかろうと、私には全く関係無いんだけど」

「どうせ君も暇だろう?なら喋ったほうが楽しいじゃないか」

「─────────────ハァ…分かったわよ。話せばいいんでしょ話せば。いいわよ、暇だし、付き合ってやろうじゃない」


だめだ。この男、何を言っても無理で無駄。

……ま、これも運が無かったってことかな。諦めてとことん付き合ってやろうじゃないの。

再び立ち上がると、男の隣まで歩き、元に戻る。

まだべとつくシャツを羽織り、それでも透けるので胸を隠しながら隣に座る。

ここで男はフードを取った。思ったよりはいい男だ。

薄めのブリーチをかけた茶髪に小さな銀のピアス。細く整えた眉に少々垂れ気味の目。

肌にも濁りは見当たらない。相当気を使っていると見た。


「……俺に惚れんなよ、Baby?」

「───ッ!誰が見とれるか!!」

「見とれていたのか?そりゃ失礼」

「──────────────/////////」


さっきから調子が狂いっぱなしだ。

ちょっといい男な変人で変態に、どうしてここまでからかわれなきゃいけないのだろう。

ちらりと隣を見ると、男はおもちゃを見つけた子供のように、にやにやと笑っていた。

ああ、腹が立つ。兎に角主導権を握り返さねば。

とりあえずさっきから気になっていたことを口に出した。

何でもいいから、適当に話しておこう。


「そういえばさ、少女Aって止めてくれない?私にはね「ストップ」」

「お互い、名前を言うのはナシにしないか」


急に真面目な顔になったので、不覚にも心臓が一瞬大きく脈打った。

ポーカーフェイスの維持を心がけ、冷静に切り返す。


「…なんでよ」

「典型的な男女の出会いだ。ここから恋仲に発展するかもしれないだろう?」


その杞憂も一瞬だった。男はすぐに表情を崩し、元の小馬鹿にしたような表情に戻す。

私は肩の力を抜き、体操座りに姿勢を変えて、相手を覗き込むような感じで軽口を返す。


「しないしない。今ここで私が死ぬ確立よりありえない」

「雨に濡れた美少女。彼女を優しく包み込む美青年。まさに乙女心にキュンとくるシチュエーションじゃないか」
                    
「あんた少女マンガ読みすぎ。キモイわよ“美青年”。女が少女マンガしか読まないと思ったら大間違いね」

「いやあ美青年だなんて、照れる事言うじゃないか」

「…皮肉なんだけど」

「よしだったらコードネームでいこう。君はサンライト。俺はブルースカイでどうだ?カッコイイとは思わんか?」

「…君とあんたで十分でしょ。今度少女Aって言ったら殴殺決定」

「ふむ……仕方が無い、それで譲歩しよう。では後二時間、よろしく頼むぞ少…キミ」


チッ、と舌打ちをして振りかぶった腕を下ろす。

それにしても、表情の豊かな奴だ。

今のやり取りだけで笑い顔、残念な顔、照れる顔、怯える顔、興奮した顔…今時珍しい奴。

男はそれから外に視線を向け、そのままぼぅっと眺め始める。

そういえば、と思い、つい先程の会話にあった疑問点を素直に聞いてみる。


「後二時間、なんてよく分かるわね」


男は「ん?」、と外に向けていた視線を一瞬こちらに向け、すぐに外に戻した。

男は遠い目で外を眺めながら、ぽつりと。


「雨、嫌いなんだ。だから」


さっきとはまるで違う、もう一つの鼓動が聞こえた。

当然無視する。ただの偶然かもしれない。

お互い表情を変えずに続ける。


「ふうん。嫌いなのに詳しいんだ」

「嫌い“なのに”じゃない、嫌い“だから”ね。いつ降るか分かっていれば対策も立てやすい」

「暇人ね」

「いや、すっごい忙しい。よく大学生は暇人なんて言われるけど、実際そうでも無いんだなこれが」

「…あんた、大学生だったんだ。先輩とは思ったけど、てっきり高校生だと思った」

「こう見えても酒と煙草は合法の年だ。敬え。尊敬しろ」

「お断りよ。さっきから聞いてれば精神年齢がまるでガキじゃない」

「んー…だったら、君の中の大人像は一体何なんだ?」

「へ?」

「じゃあ言い方を変えよう。俺は何をすれば君に“大人”と認めてもらえる?」

「え、えーと……」


そうやって返されると、返答に困る。

くそ、認めたくないが、こいつ強い。

自分の主張を相手に認めさせる事が上手い。

ここで私が答えなければ、こいつを大人として認めなければならない、ということだ。

───いい案が思いつかない。

いや、そもそもこいつが本当に大人でも子供でも、実際どうでもいいではないか。

しかし心の奥底、本能とも呼べる感覚が、男を認めたがらない。

下を向いて唸っていると、不意に小さなくしゃみが飛び出た…ちょっと冷えてきたかも。

男はそのくしゃみに反応し、小さく唸りながら考え込むと、


「……よし!」


勢いよく立ち上がり、フードを被りなおし外に向けて歩き出した。

やっとここから出て行く気になったのだろうか?


「この辺にコンビニはあるか?」

「そこ出て右に5分歩けばあるけど」

「何か欲しい物は?」


その考えはすぐに一蹴された。


「何もいらない。あんたに借り作りそうだから、別にいい」


っていうか、帰れ。あんたがいても腹が立つだけだ。

───と続けて言いたかったが、体が全力で反抗した。

くちゅん、とまたくしゃみがでて、更にくぅ、とお腹がなった。

慌てて意味も無いのにお腹を押さえる。

ちらりと男を盗み見ると、心底愉快そうに腹を抱えて震えていた。勿論笑いを堪えているのだ。

あーもう、意地張らずに何でもいいからお昼食べときゃよかった!


「く…くく……」

「──────────//////」

「オーライオーライ。じゃあ勝手に買ってくる。すぐに戻るから、寂しいからって泣くなよ?」

「とっとと行け!ばか!」

「はははっ!智恵熱出すんじゃないぞー」


去り際にまた私をからかって、男は出て行った。

やっと静かになった。これでしばらくは落ち着いていられる。

あと、二時間か。腕時計に目を移すと、短針は4、長針は12を指していた。

つまり、短針が6を指さないとここから出られない。

それまで冗談の塊みたいな男と過ごさなきゃならないと思うと、気が滅入る。

…ま、今日の不幸は今に始まったばかりじゃないし、我慢しますか。

目を閉じ大きく深呼吸をして、少々興奮気味だった心を落ち着かせていく。

生温い空気だったが、肺に溜まっていた暑い空気よりは随分冷たかった。

────よし、もう大丈夫。次は逆にからかい返してやる。

と決心した瞬間。


───ザ─アア──アアア───ザザザアアア─アアアァァァァァァ───ァァ──────


ノイズがぶり返す。

さっきまでアイツを相手にしていた時は全く聞こえなかった雨の音が、今は無性に耳に入ってくる。

────うるさいな。さっさと止みなさいよ。お前の出番はもう終わりなの!

…それとも、あの変人で嫌がらせ?だとしたらみっともない足掻きね。

雨に問いかけるようにして、外の雨雲を見つめる。

雨は変わらずにノイズを吐き、空は動かない。


ザアアアアアアアアアアアアアアアァァァァァァァァァァァァ────────


うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい!

今日この日に降らなくたっていいでしょう!?もう終わったんだから!

何度も泣いた!泣いて泣いて、泣き尽くした!それなのに、まだ足りないの!?

もう思い出したくないのに!余計な感傷はいらないから、消していたいのに!


ザアアアアアアアアアア“               ”アアアアアァァァァァァァァァァァァ────────


はっきり、聞いてしまった。

ノイズに混じったブレーキ音。

巨大な塊が繰り出した破壊音。

間違いない。幻聴でもない、紛れも無く現実の音。そして死を呼ぶ音。

それは一年前、あの日聞いた話と、あまりにも状況が酷似していた。







       *******







一年前、正確には365日前も激しい雨が降っていた。今でもはっきりと覚えている。

私は自分の部屋でのんびりと何度も読みふけった漫画を見ていた。

当時中三の受験生だった私は、本来なら必死に机に噛りついていなければならない立場だったが…

まあ、そんなこと本気で言うのは心配性の親と真面目な教師一同くらいなものだ。

友達は皆夏期講習だの名目をつけ親にご機嫌取りに大忙しなので一緒に出かけるといった選択肢はなく、

かといって勉強する気にもなれなかったので、こうしてマンガに精を出す私がいた。

…だが内容の分かりきった漫画ではいささか役不足だった。

一度大きく伸びをすると、外国のどこぞの泉のように漫画を後ろに投げ捨てると、携帯を取り出し暇そうな相手を探す。

一番の親友のハッちゃんは実家に帰ってるし、悪友のダイは電源を切っていた。

適当にメモリを流し見ていく。

タ行、ナ行、そしてハ行の一点で指と目が留まった。

画面には“ほたる姉”と表示されていた。


───天河蛍(あまかわほたる)。五歳年上で、近くの有名国公立大学に通っていた。

容姿端麗、成績優秀のほたる姉は私としても自慢の姉であり、同時に羨望の姉でもあった。

でも嫌いになった事は一度も無い。勿論一年経った今もだ。

物静かで人見知りで頭のいいほたる姉と、気性が激しく物怖じしない運動バカの私(自己申告)。二人はいいコンビだった。

ほたる姉の長所は妬むほど好きだったし、ほたる姉も私の長所が好きだった。

そのぶん家では遠慮しなかったし、悩みは打ち明けあった。

それだけ私達の距離は最長であり、同時に最短でもあった。


閑話休題。


私はほたる姉をどうやってからかってやろうかといろいろ思案していた。

というのも、このころのほたる姉は綺麗なのは勿論、同時に可愛さがグッと増した。

20にもなって可愛さが増すのは珍しいと思うが、原因はほたる姉の彼氏にあった。

彼氏が引っ込み思案の姉に声をかけた事がきっかけで互いの仲は急速発展、今では我が両親公認の関係にまで発展していた。

…私はその彼氏、お目にかかったことは無いが。

それからというもの、ほたる姉は結構変わった。


物静かに微笑む程度だった笑いが、時々だが本当に楽しそうに笑った。

彼氏の話題限定で。

しょっちゅう泊まりがけで外泊した。

彼氏に呼ばれて。

ご帰宅のほたる姉に『何があった?』なんて聞けば嬉々揚々と話すほたる姉が見られた。

彼氏と会った後だけは。


…ここまで言えば分かるだろう。嫌いなのだ、その彼氏が。

ソイツが悪い奴じゃないのは、ほたる姉の話で分かっていた。

そもそもそんな奴にほたる姉と付き合わせる気は妹としてさらさら無かった。

それでも嫌いだった。

別にほたる姉を盗られたことが原因じゃない。

いつかはお互い別々に暮らす時が来るのだ、そんなこといちいち気にしてたら身が持たない。

私がソイツを嫌う理由は、ただ一つだけ。

15年間かけて本気で笑わせようと努力したのに、そいつは一瞬でほたる姉を笑わせたから。

たったそれだけと思うなかれ、負けず嫌いの私にとって、屈辱みたいなものなのだから。



結局、ほたる姉にちょっかいを出すことにした。今頃は何をしているのだろうか。

彼氏とデート─── 十中八九ビンゴだろう。

彼氏に手料理─── ほたる姉ならやる。間違いなくやる。

彼氏とイケナイコト──── させてたまるか!

考えれば考えるほどほたる姉への心配と彼氏への憎悪(と呼べるモノでもないが)が募りに募り、

気付けば通話ボタンをプッシュしていた。

───しまった、何も考えずにかけちゃったけど……ま、いっか。

ちょうど昼時だ。『お腹すいたー』なんて言えばほたる姉はスッ飛んでくる…とまではいかないけど帰ってきてくれるだろう。

何せ私は料理が作れない。いや威張って言うことじゃないのは分かってるけどね。

───さ〜てさて、ほたる姉は何しておいでかねぇ。

くっくっく、と世界征服を企む悪の総帥に仕える博士の如く、含み笑いが漏れた。





しかし、私の耳に入ったのは表情の無い電子音だけだった。





……あれ、電源切ってる。おかしいな、ほたる姉は電源なんて切らないのに。

仕方なく通話ボタンを切り、先程の漫画よろしく後ろに放り投げようとした瞬間、

♪♪〜〜♪♪♪♪―――「はいはいただ今マイホームで優雅なバカンス中のヒナちゃんです」

イコール暇の意味。

ロクに相手を確認せずに通話ボタンを押したので対応がほたる姉や友達への対応になってしまった。

この時の相手は名前どころか姿形さえもまったく知らない相手だというのに。


『……天河さんのご家族の方でしょうか?私は○○医院の××という者ですが────』


一瞬目が点になり、思わずパチクリと擬音が鳴るような瞬きをしてしまった。

耳を離して相手を確認するためにディスプレイを見る。

知らない電話番号だった。

慌てて他人との事務的な口調に直し、平然を装い対応を続けた。








その対応が崩れるのに、さほど時間はかからなかった。







        *****







思い出したくないのに、思い出してしまう。

見えてないのに、一年前の画像が目に飛び込んでくる。

目を閉じても、耳を塞いでも、あの日の出来事が頭から直接染み出してくる。

白い布を顔に被った、冷たい人形。

─────止めろ、もう終わったんだ。今更、止めろ!

脳への命令を繰り返しても効果は無かった。

暴走を止めようとして頭を両脇から思い切り押さえつけても、痛いだけ。

目は熱くて、止まらなかった。

耳にはあの耳障りな音が否応無しに飛び込んでくる。


「止めろ止めろ止めろ止めろ止めろ止めろ止めろ止めろ止めろ止めろ!!」


声に出しても、目の熱さと雨の音は何も変わらない。

手が足りない。もっと傷を押さえつける手が欲しい。

頭を押さえて目を拭って耳を塞いでしまえるほどの手が欲しい。

これならまだ、あいつに腹を立て続けていたほうが───────


ザアアアアアアアアアアアアアアアァァァァァァァァァァァァ────────


慌てて腕時計に目をやる。

ほたる姉が受験に、と買ってくれた防水仕様の腕時計の長針は、6を指していた。

寒くも無いのに、寒くなった。

映像が、見てもいない幻覚だけど、一瞬だけ視界を満たす。

それだけで、十分だった。

体も意識も、既に外に向け動いていた。

そして私は、死が降り注ぐ雨に向けて、二度目の喧嘩を売った。


浮かんでは消え、浮かんでは消える最悪の、地獄の光景。

デジャヴでもない、脳内で勝手に構成されたただの幻想。それは分かっている。

分かっているのだが────


「はあ、はあ、はあ、あ、く…っ!──っはあ、はあ、はあ!」


体は絶望しか見せてくれない。

あの人を小馬鹿にした笑い顔が、今では懐かしくさえ思える。

走る、走る。無我夢中で、走る走る。

何時間も、何十時間も、何日も走り続けるような感覚。

永遠とも呼べる時間の中で、私はたったの一分と三十秒ほど、走り続けた。

そう、現場へは実にあっさりと到着できたのだ。そして皮肉にも、同じ場所だった。

土砂降りの雨の隙間から垣間見るようにして大きくひしゃげた鉄塊を眺める。

この道はここのすぐ手前で下りの急カーブがあり、よく事故を起こす。

今回もその数多くの事故の一つだろう。

しかし、そんなことは関係無い。事故なんて、起きても起きなくてもどうでもいい。

今はただ、確認したかった。

遠巻きからでは、カーテンのような雨が邪魔をしてよく様子が分からない。

だから、もう少しだけ近づく必要があった。

なんてことはない。ただ近づいて電話するだけだ。

もしあれば、警察を呼ぶ。無ければ救急車も呼ぶ。その後は───

────その後は、どうなってしまうのだろう。

足が動かない。大量の接着剤で固められたみたいに、アスファルトにへばりつく。

息が上手くできない。この雨で溺れた金魚のように、口をだらしなくあけたまま呼吸する。

このままじゃ、いつまで経っても埒が明かない。落ち着け。まだ決まったわけじゃない。

目を閉じて、呼吸をしやすくするために下を向き、大きく息を吸い、ゆっくり吐く。

…よし、後はなるようになれ、だ。

意を決して一歩、近づこうとした矢先、見たことのある黄色い人影を見てしまった。

違った意味で、私は動けなかった。

人影はゆるゆると坂を上っていたが、やがて私に気付くと、早足でこっちに突進してくる。

手には大きく膨らんだビニール袋、もう一方の手には透明なビニール傘の花を開かせている。

ちらり、と下から覗き込むように、人影を確認する。

見知ったばかりの人影は、多少面食らったような顔で、私の前に立った。


「まさか、本当に寂しかったのか?」


ノイズが、止まった。


「計算外だ。君がここまで純情だったとはな。悪かった。一人にして、悪かったな」


同時に、またあの不快感が戻ってくる。

同時に、安堵感が広がっていく。


「…勘違いも、ここまで来たらもう神業レベルね。私はただ大きな音がしたから来ただけ」


嘘だ。嬉しいのに、今度は生きていてくれて嬉しいのに。

こんな嘘、すぐに見破られるだけなのに。

だって、鞄を持ってない。飛び出してきたんだって、すぐにばれる。

ああ、また、からかわれるんだな、なんて思ったのに。

なのに、コイツは。


「なんだ、そうだったのか。いや俺もけっこう驚いたぜ?帰りにあんな馬鹿でかいトラックが横倒しになっててさ…

 そうそう、運転手は大丈夫みたいだった。連絡もしたし、後は警察が来て後始末してくれるだろ」


……何てコトだ。

こいつは、明らかに無視している。

気付いているクセに、気付かないでいてくれる。




何て、嫌な男なんだ。

何て、良い男なんだ。




「そ、良かった」

「ああ、良かった…またもっと濡れるぞ、入れ」

「うん」


素直に透明のビニール傘の中に入る。

ひねくれた言葉なんて、出なかった。声を出すだけでも大変なのに。

だから、黙って下を向くしか、私には出来なかった。

そんな私に、私の雨でぐしゃぐしゃに濡れきった頭に、ぽん、と手が置かれる。

そのまま、わしゃわしゃとかき回す。


「ほれ、もう行こう。君にとっておきを買っておいた。冷める前に、食っちゃおう」


子供扱いされているみたいで嫌だったけど、振り払おうという気は一切無かった。

だって、その手は冷たいけど、とてもあたたかくて、確かに生きていたから。


今日の私は、変だ。

なんで名前も知らない男を、こんなにも心配しなくちゃいけないのだろう。

なんで名前も知らない男を、こんなにも目の敵にしてるんだろう。

なんで名前も知らない男に、こんなにも心を動かされるのだろう。

なんで名前も知らない男に、こんなにも落ち着かされるのだろう。




────やっぱり、この雨、なのだろうか。

だとしたら。

やっぱり今日は最悪の一日だ。







          ****







「…何よ、コレ」

「何って、見ての通りコロッケパンと牛乳。君の」


体を服に染み込んだ水をかき出した後、男は袋をかき分けて、ブツを放り投げてよこしてくれた。

のはいいんだけど、さ。


「何で、よりにもよって、コレなの?」

「俺のフィーリング。ナイスセンスだろ?」


男は狙ったかのように、私のお昼の定番メニューと完全一致の食べ物を買ってきていた。

牛乳は普通のパックの牛乳だった。

問題は、コロッケパン。

小さなお子様から大人の女性にまで大人気の、ハムスターのマスコットキャラクターのパンだった。

年に数回オマケ内容も更新され、コレクターにも大ウケされている長寿ヒット商品だ。

実は、私もこれに付いているオマケであるミニ人形を密かに長年コレクションしているコレクターなのだった。

勿論、時期毎に変わっていく応募キャンペーンも欠かしてはいない。

ちなみにこの事を知っているのは家族の他には親友のハッちゃんだけ。

私のイメージに合わないので、上の人以外には絶対に秘密にしている。

動揺を押し隠し、ひたすらクールに保つ。

さっきまでのネガティブな思考回路はどこへやら、もう嬉しいやらムカつくやら。


「どんな基準で選んだか知らないけど…あんた、恥ずかしくなかったの?」

「いーや全然。君の困惑した顔が見られると思ったら、寧ろ逆。速攻でかごに放り込んでた」

「あ、あっそう、ふーん。食べなかったら悪いし、い、頂いとく」


別の意味で困惑しているが。

とりあえず気分も落ち着かせたいし、お腹も減っていたので頂く事にした。

…なんか視線が気になるけど、いただきます。




………………………………

……………………

………ああ、美味しい。

安物と分かっていても、やはり美味しいものは美味しい。

惣菜パンの中で、コレだけはやっぱり別格だ。何度食べても飽きない。

思わず頬がほころんでいく。

そしてこのパンの最大の特徴は、二度美味しい事。

さて、今回のオマケは…………………ッ!!!


「うっそ!?え、夢じゃないよね!?」


ほっぺを引っ張っても痛いだけ。そりゃ、現実なんだから当然だ。

出たのは、レアの中のレアモノ、ウルトラなんてメじゃないくらい、もうミラクルレアな物だった。

確立にして100万分の1、つまり一個100円なので単純計算1億円払ってようやく手に入るか入らないかの幻のオマケだった。

しかも、これまたふさふさで触り心地も最高。おまけに一番好きなキャラクターときた。

そりゃ可愛くって、もう小さくても抱きしめ


「…へぇ」


れるかあいつの居る前で!

ああもう、最高なのに一気に最悪になった。


「…何よ。何か可笑しいところでもある?」

「いんやべっつに〜。ただ、もの凄く可愛いな〜って思っただけだ」

「!?!?!?」

「そのちっちゃいぬいぐるみ」

「──────────へ?」

「だから、そのぬいぐるみ。もしかして、君自身のことだと思ったのか?」

「そ、そそんな訳無いでしょう!欲しかったらあげるわよ!」

「いらない。冗談だし」

「な─────なぁんだ、冗談だったの。紛らわしいわね」

「ま、君が可愛いいのは言うまでもないけどな」

「そ、そうよね私のほうが……………………………………」





思考、一時停止。





「ごごごごごごごめん、げ、幻ん聴がき、聞きこえちゃった、たななあ。あ、あはははは」

「だから、君が可愛いって、はっきり言った」


絶句。


「もちろん素面の正気で言ってるが?」

「───────────////////」


自分が何を言ってるのか分かっているのだろうか、この男?

明らかに口説いてるって分かるんだけど、なぜこんなに動揺してるんだろう?

男は相変わらずあの表情。心底愉快そうな顔。

その顔は更に歪んでいき、そして、瓦解した。


「ぷっ、くく…あっははははははっははははははははははっ!も、もうダメ、は、ははは、ははっあは、わり、だめ、はははは!」

「うううううううううう─────ば、ばかぁ!!変態男!!女ったらし!!助平!!えっち!!」

「こ、ここまでストレートなのも…ぷくはははははははは、く、くひ、はははっ…はー、はー…………あー、笑った笑った…さて、と」


男は一瞬にして、きりっと真面目な顔になる。

顔を真っ赤にしたままの私は男の変化に着いて行けず、思わず首をかしげる。

しかし男の顔が思いのほか真剣だったので、私も気持ちを無理矢理切り替える。

何回か深呼吸をして、相手の目を見つめ返す。


「落ち着いたみたいだな」

「?」

「泣いた顔よりは、ずっといい」
 
「!!…気のせいでしょ……」


…雨で誤魔化せると思ったけど、やっぱダメか。

まあ、今日この日に雨が降れば、泣きたくもなるだろう。

雨の日の不安定な私は、家族にも見せたこと無いんだけどな…

こいつだけに見られてしまったことに、なんだか腹が立つ。

私は口直しに冷たいパックの牛乳を、ちびりちびり飲みながら───────牛乳?



「………ねえ、牛乳の他には、何か買ってきた?」

「口直しに、甘めのコーヒーを一本。あったかいやつにしておいた」



─────────────あれ、何か、おかしい。

こいつが帰ってきてから、何か引っかかってたけど、今、大きくなってる。

突然、ぐるぐると大量のキーワードが、私の頭から湧いては溢れ、溢れては湧いてくる。

本当に突然の、導入もへったくれも無い、完全なる不意打ちに、感覚以外の意識が飛ぶ。

頭の中に、額縁と、バラバラになったジグソーパズルが現れた。

ただし、ピースが足りないので、まだはめられない。



「おぉーい、大丈夫か?何か、ぼーっとしてるが…牛乳、そんな不味かったか?おかしいな…どれどれ…」



雨、お調子者、男、雨、牛乳、事故、水、ほたる姉、天気…



私、知ってる。

この男、見たこと無いけど、“聞いたことがある”

一つ、また一つとピースが増えていく。


「ふむ、味は特に問題無し…ではコロッケパンだったか?はたまた、この雨か?いや、人形か!?」


雨、変人、コロッケパン、ひなた、オマケ、雨雲、雨、太陽…


言葉から言葉が次々と連鎖して生産される。

思い出せ。あと一言で、この混乱が理解できる。

決定的な、キーワード。ラスト、ワン。

これが無いと、絶対に繋がらない物。探せ、探せ探せ────

あと、ピースは一つ。それがあれば、この難解なジグソーパズルも解けてくれる。

恐らく、今現在の額の中は満天の曇天で、最後がはめ込まれればたちまち雲は消え、青い青い空が、広がってくれるだろう。

…だめだ、思い浮かばない。

せめて、こいつの顔を見てれば思いつくかも…


「…本当に、大丈夫か?やっぱ、やぶ蛇だったか?」

「…え?あれ、私……?」


男があまりにも心配そうに覗き込んでいたので、思わず我に返った。

どうやら、中々長い間意識を外していたらしい。

何か話しかけられていたような気もしたが、憶えていない。


「まあ、無理矢理だったかもな。すまない」

「ん、あ、ああ、ごめん、違う事考えてたの。ちょっと、ね?別にあんたは関係…直接じゃないけど、あるか」

「?」

「なんかあんたの事、私知ってるような気がする…なんかよく分かんないけど、今それを思い出してた」

「…運命の恋?実は前世で一緒だったとか?いや、もしかしたら10年前に別れた際に将来を誓い合った幼馴染とかか?」

「ごめん、逆にあんた見てると忘れそう。ちょっと黙ってて」

「君、けっこう酷い事サクっと言うね…うわ、涙出そう」


どうでもいい。勝手にやってろ。

とはいえ、きっかけも何にも無いんじゃ話にならない。

…またおさらいしてみるか?


「折角デッドオアアライブのパシリに行ったのに、この仕打ちかね?はっ、それなら君がセピアモードなら、俺ブルーモード入るもんね」


ああ、いちいちやかましい。セピアでもブルーでも何でも……


「…今、何て言った?」

「ただ今ブルーモードに移行していますので、お答えできませーん」

「ブルー!?ブルースカイ!?それ、それだ!!」

「は?」


…見つけた。最後の、1ピース。なんだ、もう既にあったんだ。

ぱちり、ぱちりと凄まじいほどのスピードでピースがはめ込まれていく。

一つ一つが幾重にも絡み合い、額はみるみる色彩を変えていく。

そして最後の一つがはめ込まれた時。

曇天は、蒼天になった。


「あーそっかそっか、うんうん───あ、気にしなくていいわよ。あんたには全く関係ないことだから」

「…あの、ホントに頭やられてないか?」

「気にするなって言ったでしょ。あんたは大人しくコーヒー飲んでなさい」


今日の私の不調の理由。こいつが気になる理由。こいつが気に入らない理由。

なんだ、簡単じゃないか。『ほたる姉』が散々言ってたじゃないか。

ブルースカイ。それが、彼の正体。

私にとっての嫌悪の対象であったと同時に、理想の対象であり、憧れの対象だった男。

一夜にして、憎悪の対象であり、憤怒の対象になった男。

さて、あんたは私を知ってるようだけど、私はあんたを知ってしまった。

雨が上がるまで、蛍に代わって太陽が、空を隠す雲を吹き飛ばしてやる。

あんたも運が悪かった。私のために、ほたる姉のために、キッチリ言い訳用意しときなさい。

私の中では、あんたがほたる姉に犯した罪は、決して軽くない。





       ***





未だ勢いの衰えない雨を二人で眺める。

彼は特に何も考えていないだろうが、私の頭は超高速のフル回転で回り続けていた。

伝えたい事、聞きたいことは山ほどある。





突然だが、私は名乗ることにした。

と言っても、『今ここにいる私』ではないが。


「天河日向」

「?」


今度は彼が首をかしげた。


「…っていう名前の“友達”の話なんだけど、聞く?」


彼は、ああ、と苦笑しながら、大きく頷いた。

お互い“自分”は名乗らないルールだ。これならいいだろう。

私は外を見つめながら語りだした。

雨は、ほんの僅かだけど、勢いを落としていた。


「一年前のちょうど今日。ほたる姉が…あ、日向の一番親しかった姉の名前ね……その人、死んじゃったの」


ここで彼の顔をちらり、と見る。

こちらの顔をじぃっと見つめて、目で続きを促していた。

見るからに困惑した表情で、私を見つめていた。彼は、今の自分の表情に気付いてるのだろうか?

再び視線を外に向けて、続けて語る。


「雨でスリップした車にはねられて。それが原因で彼女はあんたと同じで、雨が嫌いになった。

 雨が彼女の命を狙ってるようって…ただの被害妄想ってのは分かってるけど、ほたる姉を思い出すと、ね」


本当は、こんなもんじゃない。

こんな、一言で終わらせるような内容じゃない事は、唐突に肉親を失った私自身、思っている。

しかし今更事故の時の様子を話しても、自身の体験と被るだけで何ら私と変わらない内容のはず。

かさぶたを無理に剥がして悪化させても痛いだけ。時間の無駄だ。


「音を聞いたら情緒不安定になるし、水が落ちてきたら外に出るのも怖くなるし、天気予報を聞くだけで不安になる」


だったら、彼の知らない話をしよう。私のアフターストーリーと、ほたる姉のビフォアストーリーを。


「最近は結構落ち着いてきたんだけど、やっぱり一周年だし、再発しちゃったみたい。

 一人だと、寂しくなって、どうしても憂鬱な気分になっちゃう。好い加減ケリをつけたと思ったんだけどね」


たはは、と頭を掻きながら笑う。笑える内容じゃないけど、自嘲を含めた笑いだった。


「それだけの話。つまんなかったでしょ」

「…いや、そうでもない」

「もう、こればっかりは彼女自身でなんとつきあっていくしかないかな」

「災難だったな、彼女」

「別に、一人にならなきゃいいんだし。そこまで苦労してない。もう慣れたって」


牛乳をまたちびり、と飲んで口から放す。隣で彼が缶コーヒーをぐびりと飲む音が聞こえた。

私の記憶の中では、雨を嫌いになった原因は共通だろうと推測される。

理由は知らないが、まあ聞いても聞かなくてもどっちでもいい。

私と同じで、何となく下らなそうな理由だろう。


「ハイ、彼女、天河日向の話はおしまい。で、ここからは絶対に聞いて欲しいこと。できれば逃げないで聞いて欲しい。いい?」


『逃げないで』

彼には、どのように聞こえたのだろうか。どのように、捉えたのか。

顔を曇らせる彼の表情は弱々しく固いものだったが、


「………了解、聞こう」


腑抜けた奴では無いようだ。さて、どんな反応を見せてくれるのやら。

こちらでは罵られ続けた、彼は、どう切り返すのだろうか。

実際こうやって会って見たけど、とてもじゃないけど憎むべき対象じゃあない。

でも私だって彼には腹を立てていた。男なんだからちょっとくらい、痛い目にあってもらおう。

さあ、聞かせてもらおうか、ブルースカイ。


「死んじゃったほたる姉の話なんだけどね。

 当時のほたる姉は幸せだった。恋人がいて、そいつとはラブラブだった。

 恋人の名前は、青森空太(あおもりそらた)。ちょうどあんたみたいな奴。

 で、事故の三日前に日向とほたる姉は何を思ったかそいつとの婚約話を持ちかけるかどうかで議論した。

 日向は早すぎるんじゃないか、って言ったけどほたる姉の意志は固くて、とてもじゃないけど説得は無理だった。

 じゃあ、ということで日向は条件を一つ出した。恋人に会わせろって。まだ一度も会った事無かったからね。

 そしたらほたる姉、反発した。理由を聞いてみたら、なんて言ったと思う?」


恐らく引っ込み事案のほたる姉の事だ。私にしか話してないだろう。

彼の答えは案の定、小さく唸って、「続き、頼む」だった。

その声は微かに震えていた。

私は彼の正面を向いて、心底愉快そうにこう答えてやった。


「『空に蛍は輝かないけど、太陽はいつだって空に輝いてるから』だって」


彼は、あからさまに動揺してたから、ここで一旦区切りを入れる。

今の話は、これからの話への布石。揺さぶりをかけてやった。

牛乳を少しずつ飲み込みながら、彼が落ち着くのを待って、再開する。


「日向はもう、笑った笑った。今までで一番笑った瞬間だったね。

 お腹が痛くなるまで笑って、笑い終わる頃にはほたる姉拗ねちゃって大喧嘩したくらいに、笑っちゃった。

 だって、二十歳にもなる大学生が、名前の相性が自分よりいいからって、実の妹に会わせたがらなかったのよ?

 顔真っ赤にして、小学生みたいな理由で駄々こねたほたる姉、もう女の日向でも可愛いって思っちゃった。

 それだけほたる姉にとってはいい男だったんだろうね。会ってみたかったな、そいつに。

 でも、事故の後は別の意味で会いたくなっちゃった」


きしし、と小悪魔のように笑って、見返してやる。

彼また、表情を崩さず、真剣に見返している。

ただ、唇は真っ青になっていて、目も多少泳いでいる。

彼のダメージは決して小さいものでは無いことは一目瞭然。


「…どんな、意味だ?」


自分でも、心が一気に冷えていくのが分かる。

一度ナイフで切った傷を、チェーンソーでまた削り取る。そんな気分にさえ感じる。

でも、妹の私は、知る権利があると思う。

だからあえて、何でもないように、彼に、言った。


「それほどほたる姉に好かれていたクセに、葬式にも出ず墓参りに来た形跡もまるで無い。

 そんな薄情通り越して無情な青森空太のどこをほたる姉は好きになったのかな、ってね」


ザアアアアアアアアァァァァァァァ────────


ノイズが、少しだけぶり返す。

いや、少しだけではなかった。もう勢いが弱まっているのだ。

これなら、雨が上がるのはもう近いだろう。


「さて、ここであんたに質問」


彼は胸を押さえつけて、震えていた。

そんな彼を歯牙にもかけず、何事も無いかのように話を進行させる。


「どうして彼はそんな冷たい態度だったのだと思う?あんたの意見を聞かせて」


これで、私のアフターストーリーもほたる姉とその恋人のビフォアストーリーも終わり。

後は彼の話を聞くだけ。


「………俺の意見でもいいのか?聞いて、どうするんだ?」

「今までそいつに最低だの散々言ってきたからね。もし誤解だったらそいつに謝らなきゃいけないし…

 まあ、回答次第では、そいつの事、許してやろうかな、と」

「………ちょっと、時間をくれ」



別に言いたくなければ言ってくれなくても良かった。

どちらにせよ雨が上がったら、お互い、ただ「さようなら」と言って帰るだけだ。

沈黙は続く。もう牛乳は飲み終わってしまった。

それを確認した彼は、今度は缶コーヒーを取り出して私にくれた。新しく彼自身の分も手に持っていた。

私は甘めのカフェオレ、彼は二本目のブラック。

温めの缶のプルトップを開け、口に少しずつ流し入れる。


「そいつは、青森空太は、蛍の死を、受け入れてなかったんだと思う」


ぼそりと、呟くようにして語り始めた。

私は彼の横顔を眺めながら、黙って耳を傾ける。

彼は、悔やむような目で外を眺めて、まるで大きな罪を犯した咎人が打ち明ける懺悔のようにすら見えた。


「つい前まで、誕生日のプレゼントをあげたら嬉しそうに笑って、嬉しそうに泣いていた彼女が、

 つい前まで、他の女の子と軽く喋っていたら、怒って何日も口を聞いてくれなかった彼女が、

 つい前まで、悲劇の恋愛映画を見て、悲しくてぼろぼろ泣いていた彼女が、

 つい前まで、空太のバカに声あげてケラケラ楽しそうに笑っていた彼女が、

 ここからすぐそばのコンビニに寄った帰りに、あっけなく死んだ事を、受け入れられなかった」


声がどんどん昂っていく。手に持った缶コーヒーに、ぎりぎりと力が込められていく。

私はその様子を、自分のコーヒーを飲むことも忘れ、ただただ見つめていた。


「実はドッキリで、またひょっこり会いに来るんじゃないか。

 事故に遭ったのは赤の他人で、本人は至って無傷なんじゃないか。

 また一緒に講義を受けて、帰りにちょっとしたデートして、それから二人で愛し合えるんじゃないか。

 そんなことばかりしか思い浮かばなかった。

 もうありえないって分かっているんだけど、どうしても駄目だった。

 だから、墓には寄れなかったし、事故現場には近づけなかったし、仏壇に線香さえやれなかった。

 そんなガキみたいな理由だったんじゃないか?」


一通り話して、彼は缶を煽る。そしてそのまま黙り込んだ。

どうやら私の回答を待っているようだ。

────そんなもの、決まっている。

彼は彼なりに苦しんでいた。それでいいじゃないか。


「…そっか、納得。それが本当なら、少なくとも最低なクズ男じゃあ無いって事ね」

「…そうやって、言ってもらえると、俺としても、嬉しい」


彼は目に手の平を当てた。

決して演技では出せない、雨の水とも違う、暖かな水。


「なあ、君」

「ん?」

「ありがとう。今日ここで、君に会えて、良かった」

「……………ん」


────ほたる姉、分かる。惚れるのも仕方ない。


「ねえ、今からあんたに、ちょっとセクハラするけど、いい?」

「…ストリップなら断る」

「誰がやるか、大馬鹿」


彼の頭を、多少強引に私の胸と肩の間の辺りにそっと抱き寄せる。

私の服は濡れているが、構わず抱きしめて髪をくしゃくしゃと、できるだけ優しく撫でる。

…懐かしいな。私が泣いてる時も、ほたる姉はこうやって抱いてくれたっけ。

私がやるとは思わなかったけど。


「男に涙はダサいけど、雨に濡れた男は、ダサくないと思う。だから、大人しくしてろ」


最初はちょっと抵抗していたが、意を解してくれたのか、大人しくなってくれた。

そのまま私の腰と背中に腕を這わせると、遠慮無しに力を入れるのだった。

私は、ただ撫で続けた。









「俺、思ったんだけど」

「何よ」

「君は、二人目の、最高の女だ」

「…ありがと」







        **







「もう、上がるかな」

「ああ、上がるな」


もう雨の音はほとんど聞こえなくなっていた。

空の色が変わっていく。灰色の空が、少しずつ赤く染まり始める。

暫くすれば灰色は消え去るのではないだろうか?

まるで、彼の心境がそのまま投影されているかのように。

今日この雨も、実は彼が気付かずに流した涙なんじゃないか。そのようにさえ思えてくる。

ありえないことを頭に浮かべながら彼と空を見比べてると、彼は内ポケットから煙草を取り出して一本咥える。

安物の、軽い煙草だった。


「煙草、嫌か?」


首を横に振る。彼は確認するとジッポのライターを点火させた。

独特の臭いが、すぐ鼻につく。と思うと、ほのかに赤く光る先端と、口から白い煙が浮き出た。

つい以前まで煙草の煙は苦手だったが、最近は特に気にしなくなった。私も少しは成長している証だろう。

彼は2,3回ゆっくりとくゆらせると。


「青森空太」


不意に、切り出した。


「っていう俺の知り合いの姉の彼氏で、偶然にも同じ名前の奴がいるんだが、そいつの話、聞くか?」

「当然、聞く」


ん、と頷くと、彼は吸っていた煙草を揉み消し、もう一本咥え火をつける。


「正確には、そいつの彼女の話なんだけどな。ちなみに、偶然にもその彼女の名前も天河蛍。

 青森空太と天河蛍は、同じ大学同じ学部だったが、ひょんなことから接点を持ち、相思相愛の関係になった。

 途中経過は省くぞ。君だって他人のノロケなんて聞きたくないだろ?…これもノロケに入りそうだけどな…

 でだ、ある日蛍は空太に向かって、『突然私が死んだら、貴方はどうする?』なんて言ってきた。

 そこで空太はフッと、俺の知り合いであり、蛍の妹の、偶然にも君の友達と同じ名前の、天河日向の名前が頭に浮かんだんだ。

 空太は蛍が嫉妬するところが見たくて冗談半分に、『じゃあ、蛍の妹をもらいに行く』って返したら、蛍は何て言ったと思う?」


どうやらさっきの仕返しのようだ。目が僅かに笑っている。

私はほたる姉の行動パターンを思い返し、苦笑しながら答えた。


「もう半端じゃないくらいに怒って、そいつを引っぱたいて帰って拗ねた」

「残念無念。違うんだなあこれが」


煙草片手にくっくっく、と声をあげて笑う彼は、楽しそうだった。


「『貴方だったら、ひなを安心して任せられる。ひなも、多分貴方を気に入る。

 もし付き合ってくれれば、貴方もひなも幸せになると思う。もし本当に死んだら、ひなには勝手だと思うけど、お願い。

 でもひな以外の人だったり、二度と恋人は作らない、なんて言ったら別れようかと思った』

 だってさ。最高だろ?」


…そうきたか。


「確かにいい迷惑ね。心配性のほたる姉らしいけど」

「いや改めて惚れ直したよ。元々ぞっこんだったけどな。

 死んだ後も大切な妹の心配も、俺の心配もしてくれたんだぜ?

 こいつ選んで、良かったなあって、心底思った。

 でも、蛍の奴、悔しそうに涙浮かべながら言ったんだ、その台詞。

 その後空太はきっちりフォローしたけどな」


成る程、それもほたる姉らしいな。


「っぷ、く、ふふ…」

「く、くくくくく…」


重苦しい雰囲気は、いつの間にか消えていた。

私も自然に、笑いが漏れていた。

お互い笑っていることに気付くと、とうとう我慢できずに。


「あ、あはははははは!あー、駄目、可愛すぎ!ほ、ほほたるねえ、か、可愛すぎ、ふ、あは、くふ、ははははっ!!」

「あ、はははは!!だろ!?可愛いよな?これで、かふ、感じない奴、男失格だよなあ!!く、くくくく……は、あはははは!!」


お互い、暗い話なのは分かってるけど、笑いは暫く収まらなかった。

生者が死者を笑う。本来なら完全に冒涜行為。

だけど、話題が話題だから、私達なら許してもらえるような気がした。

きっと今ほたる姉がいたら、ほたる姉は拗ねて、私達はご機嫌取りに必死なんだろうなあ。







『そ、そら君!それは言わないでって言ったのに!!嘘つき!!』

『だって、ホントの事だろ?こんな可愛い蛍を、君にも知ってもらいたいじゃないか!』

『うん、あんた、いい拾い物したわね。おめでとう、そして、いい話ありがとう』

『未来の妹にそうやって言ってもらえると、俺としても嬉しいなあ』

『もう、そらくんのばか!!変態男!!女ったらし!!助平!!えっち!!』

『照れないでほたる姉。まあこれなら兄になっても、許したげる』

『ひ、ひなまで……もう、知らない』

『げ、マジ拗ね…す、すまん蛍。ちょ、ちょっとからかいすぎた』

『知らない』

『頑張ってね〜オニイサマ。応援してるよ〜』

『ひな。今度からごはん頑張って作ってね』

『え゛!ごめんなさいほたる姉!…ほら、アンタももっと謝れ!元はと言えば─────』







そんな光景が、あっさりと、簡単に浮かんできた。

どうやら相手も同じ事を考えたらしい。お互いの顔を見て、お互い吹出す。

散々笑い転げた後、息を整えるために必死に息を吸い込む。

ひいひい言いながら、やっと落ち着いた頃には、刺すような雨の勢いは無くなり、柔らかく包み込むような雨に変わっていた。

どうやら終わりは近いらしい。


「本当に蛍はいい女だった。青森空太の人生の中でも胸張って自慢していい恋人だった」

「そりゃそうよ。天河日向の、自慢の姉だからね。ほたる姉がいい女じゃなかったら、他の女は妖怪よ」


また二人で軽く笑い合うと、彼は袋から使い捨てのレインコートと未使用の傘を私に手渡す。

私は無言で受け取り、髪を結びなおすと、レインコートを羽織って、傘を開いた。

しかし私はすぐに考え直して、傘を閉じて外に出た。

鞄が濡れてしまうけど、元々浸かるくらい濡れているので、関係ない。

だって、もっと空を見たいじゃないか。

こんなにも、綺麗な空なんだから、もったいない。

後ろから出てきた彼も、思わず感嘆の声を上げた。






太陽の光は、雲を突き破って。

茜色の空と私の町に光の柱を下ろす。

虹なんて豪華なモノじゃないけど。

十分に、綺麗だった。

ただ今まで隠れていただけで。

確かに太陽は、空にあった。








       *








「しかし、いつどうやって分かった?」


ばしゃり、ばしゃりと、勢いよく流れる雨水を踏みしめながら歩く。

足音は、二つ。


「それを、私の昼食定番メニューにしたのは失敗だったわね。

 コロッケパンのセンスはズバリ見事だったけど、飲み物のセンスはイマイチね。

 私だったらもっと捻りのある物にしてる。ミルクセーキとか、ジュースのカロリーメイトとか。

 最初から缶コーヒーを出さなかったのもマイナスね」

「…成る程、確かに失敗した。君を侮ってた」

「頭悪いからって、舐めんな…そのまま返すけど、いつから?」

「見た瞬間」

「え、嘘!?早っ!!」

「色気はぶっちぎりで負けてたがね」

「わ、悪かったわね、ガキで!」


軽口を叩きあいながら、いわくの坂を下っていく。

あと数歩歩けば、あの現場だった。

既に警察は到着しており、撤去作業も始まっていた。

現場に近づくにつれ、お互い無言になる。

本当は雨が上がったら、花でも買って添えてやろうかと思ったが、どうやら立ち入り禁止区域になってしまったようだ。

私は軽く目を閉じて、手を合わせ、黙祷する。

今はこれくらいしか出来ないけど、次は花と線香持ってここに来なきゃいけない。

…その前に、家の仏壇で長い報告しなくちゃいけないか。

ゆっくりと目を開ける。

一瞬、目の前にほたる姉が複雑な表情で立っているような錯覚を覚えたが、

実際は警察がせわしなく動き、巨大な鉄の塊を必死にどかしている作業着の人々だけが、確かに存在していた。


「あそこの廃墟、さ」


不意に後ろから彼の声が上がる。

無表情のようでもあり、懐かしむような表情でもある。


「空太と蛍が初めて出会った場所なんだ。あの日も、こんな雨だった。彼女も、君と同じように濡れていた。だから一発で見抜けた」


────少しだけ、雨が強くなったような気がした。まるで最後の抵抗みたいだった。


「そっか。少女漫画みたいね」


私は、なんて勘違いをしていたんだろう。

いや、違うか。勘違いじゃなくて認めたくなかったんだ。

雨は何もしていない。ただ落ちているだけだ。

偶然に出会いを生み出し、偶然に別れを生み出す。

私達は雨に勝手に喜んで、勝手に怒って、勝手に悲しんで、勝手に楽しむ。

私と雨は、ただそれだけの関係だったのだ。

なんで、こんな当たり前の事を忘れていたのだろう。

私は意識を現実に戻すと、坂を再び下りだした。

そういえば───と、今日の占いの内容を思い出す。


『今日のラッキー星座は、蟹座のアナタ!今日一日はあなたの一生の中でも特に心に残る一日になるでしょう。

 素敵な出会いあり、長年の悩みもスッキリ解消でもう心は完全にリフレッシュ!そんなあなたのラッキーカラーはイエローです!』


────占いも、バカにできないな。そのまんまじゃない。

私は内心苦笑しながら、坂を下りていく。

途中で足音が一つになっている事に気付くと、振り返る。

彼の足は、止まっていた。

とうとう、終わりが来たのだ。


「帰るのか?」

「うん。あんたは?」

「行ってくる」

「そう。じゃ、ここでお別れね。二度と、会えないわね」

「そうだな、これが今生の別れだ」


事前に打ち合わせたかのような台詞の応酬。

どうやら彼とは波長が合いすぎるようだ。

だから、あんなに不快感を覚えていた。

気付いて慣れればどうって事は無かったけど。


「でも近いうちに、必ず君の前に似たような人物が現れるな」

「私も、まったく同じ事考えてた。あんたに本当にそっくりな奴に、すぐ会えそうな気がする」

「実に名残惜しいな。折角蛍以来の素敵な女性に出会えたと思ったんだが」

「───────あんた、よくそんなセリフ堂々と吐けるわね」

「俺は常に正直に生きているつもりだ。だから、これもまた事実。もっと自信を持て。君は十分魅力的だ。好みは分かれるけどな」

「────────////////」

「このまま後5年も経てば、多分見た目は俺好みに育つな。うん、楽しみだ」

「勝手に夢見てろ、ド変態!」


はあ、と溜息をつく私。からからと朗らかに笑う彼。

悔しいけど、これが彼と私の差。いつか、追いついてみせる。

でもその前に、別れの儀式と再開の約束を。

一息つくと、私と彼の視線が絡んだ。

…どうやら思ってることも言いたいことも全く同じのようだ。


「天河日向と青森空太は、いつか必ず出会う時が来なくちゃならない…そうよね?」

「…だな。確かに、そうじゃなきゃつじつまが合わない」

「だって」「なあ」

「「太陽はいつだって空に輝いてるから」」


お互いの顔が歪む。もう彼に語る言葉は残ってない。

だったら、言おう。たとえ、分かってていても、この名前で、言ってやろう。


「さようなら、サンライト」

「さようなら、ブルースカイ」


…まさか、ここまで一緒だったか。

内心驚きながら、彼に背を向けた。

坂を下り始めて数歩のところで、一度だけ振り返ってみた。

彼の姿は、もう無かった。


「またね、青森空太さん」












さて、忙しくなりそうだ。

ほたる姉は、この気持ちを許してくれるだろうか?

今日笑った分も含めて、次に供える物はほたる姉の好物にしておこう。

何だかほたる姉の思い通りに動いているみたいで何だか癪だけど。













私は夕焼けの空の下、下り坂をゆっくりと歩いていった。

レインコートを畳んで、上を向いて一歩一歩。














空と太陽を眺めながら。