それは、驚愕と共に始まった雨の日のこと















 ザァザァと降り続ける雨音を背に、ドアを開いたポーズのまま固まっている一人の少女。
 少女は自分の眼に映るものが信じられないのか、視線の先にいる部屋の主に挨拶することすら忘れて呆然となっている。
 口は大きく開いたままで、年頃の女の子としてははしたない状態だといえよう。


 「どうした? まるで地球外生命体、略してキチ〇イを見つけたような顔をして?」


 そんな少女をニヤニヤと悪戯を成功させた子供のように―――実際その通りなのだろうが、見つめる少年。
 少年の名は折原浩平。
 三度のご飯よりも人をからかったり驚かせたりするのが大好きだという生粋の悪戯小僧である。


 「なんで……」

 「ん?」

 「なんで普通に起きてるの?」


 現実を受け入れられないのだろう、ワナワナと指を震わせながら頭を左右に降る少女。
 それにあわせて少女のツインテールがゆらゆらと踊る。

 はっきりいって少女のリアクションは浩平に対して失礼極まりない。
 まあ、そのあたりは浩平の普段が普段なので自業自得ともいえるのだが。
 浩平本人もそれがわかっているのか特に気分を害した様子もない。


 「ふっ……逆もまた真なり。この言葉の意味がわかるか?」

 「……はぁ?」

 「つまりだ、いつも長森やお前を驚かせるような真似ばかりしていれば、こうやって普通に起きて待ち構えているのも十分ドッキリになるということだ」


 ベッドの上でふんぞり返る浩平。
 自分の思いつきに浸っているらしい。


 「アホかっ、それができるならいつもそうしなさいよっ」


 当然のごとくそんな浩平に怒りを向ける少女。
 それはそうだろう。
 自分を驚かせるためだけに普通に起きることができるというのならばいつもそうして欲しいと思う。


 (……それに、来た時に起きてるんじゃ起こすことが出来ないじゃない)


 実際はこっちが怒りの主原因である。
 彼が『帰って』きて以来、毎朝苦労とドタバタを与えてくれる浩平起こしであるが、実のところ少女はこのイベントを楽しんでいる。
 いつもはやんちゃな彼の見せる穏やかな寝顔を見るのはどこか心が暖かくなる。
 どこかに隠れている彼を見つけたときに彼が見せる悔しそうな顔を見るのも面白い。
 何よりも、こうしていることも恋人っぽいかな、とそんな風に考えられることが凄く嬉しいのだ。


 「だというのにこの男は……」

 「ん?」


 少女の考えなどまるで理解していませんといった風情で少女を見つめる浩平。
 少女はいつもそんな彼を見て思う。
 鈍感、デリカシーなし、アホ、バカ。
 浩平を表現する悪口はいくらでも出てくる。
 それでも、そんな少年に惚れてしまった女の性なのだろうか。
 どうしても本気で怒ることが出来ないのだ。
 まあ、過去に一度だけ例外―――告白のときだ、があるのだが。


 「どうした、そんなに俺の顔を見つめて。惚れたか?」

 「アホっ、んなわけないでしょうが!」

 「そんな……俺はこんなにもお前にベタ惚れだというのに! 裏切ったな、僕の心を裏切ったな!」

 「ベ、ベタ惚れって……」


 浩平の言葉はいつもの冗談。
 それはわかっている。
 わかっているのだが……頬が緩んでしまう自分の単純さが恨めしい。
 だが、それを浩平に見せるわけにはいかない。
 少女は自分の単純さを自責しながらもなんとか表情を整えた。


 「ほ、ほら、起きてるなら早く着がえてよ! 今日は雨なんだから走るのは嫌だからね!」

 「着がえさせてくれ」

 「自分でやれっ」

 「冷たいじゃないか。新妻よろしく『もう、忘れてるよ♪』と俺のネクタイを結んでくれたお前は何処へ行ったんだ!?」

 「そんなあたしはどこにもいないっ」


 「そういうのもいいかも」などと心に一瞬でも思ってしまった自分を深層に封印してツッコミを入れる少女。
 だが、いつまでもこんな漫才を続けているわけにもいかない。
 そう思い、少女は慣れた手つきでクローゼットから引っ張り出した服一式を浩平に押し付けそのまま退出―――


 「七瀬、愛してるぜ」


 ―――しようとして頭をドアにぶつけた。















 雨色の髪の乙女















 「全く、ああいう台詞を脈絡もなく言う!?」


 怒りと羞恥、それと嬉しさをブレンドした表情で少女―――七瀬留美は浩平に怒鳴る。
 対する浩平はどこ吹く風といった様子でそれを軽く受け流していた。


 「ああいうのは脈絡もなく言うからいいんだ」


 折原浩平という少年は真顔で冗談が言える。
 だが、それと同じように真顔でくさい台詞や愛の言葉が囁けるのだ。
 まあ、前者はともかく後者は留美限定であり、しかも突発的かつ希少的なのでそれほど問題ではない。
 留美以外の人にとっては、だが。


 「あ、あたしにだって心の準備ってものが……!」

 「それじゃあビックリしないだろ?」

 「あんたは人をビックリさせるためだけにあ、あ、愛してるとか言うわけっ!?」


 流石に公共の道を歩きながら「愛してる」という言葉を言うのは恥ずかしいらしくどもってしまう留美。
 だが、浩平はなんの気後れもなくそれを肯定してみせた。
 語尾に「もちろんそれは七瀬限定だけどな」とつけ、留美を真っ赤にさせることも忘れない。


 「こっ、こんな場所で何を言うのよ、このバカ! アホ! 朴念仁!」

 「なんで正直に言った言葉で怒られにゃならんのだ」

 「時と場所を考えろって言ってるのよっ」


 怒鳴り続ける留美だが、実のところ二人のやりとりは思い切り目立っている。
 特に今日の場合は普通の時間に家を出たため通学中の学生や出勤中のサラリーマンの方々に視線を向けられまくっているのだ。
 その視線の大半はやっかみと微笑ましさを含んだものなのだが。

 なお、このやりとりは留美が周囲の視線に気がつくまで続いた。















 「ううっ……あんなはしたないところをみんなに見られるなんて……もうあたしお嫁にいけない」

 「いつも見られてるじゃないか、何を今更」

 「誰のせいだと思ってるのよ!」

 「雪うさぎを壊した男の子のせい」

 「違うわよっ。っていうか誰よそれ!?」


 性懲りもなく―――今度は小声だが、口喧嘩を続けつつ道を進んでいく二人。
 留美としては、浩平にデリカシーというものを期待しても無駄だということは骨身にしみてわかってはいる。
 それでも、恋する乙女として恋人とのロマンチックなやりとりを夢想してしまうのは悲しい性なのだろうか。
 そんなことを溜息と共に考えていた留美だったが、ふと隣にいるはずの浩平の気配が消えていることに気がつく。
 慌てて振り返ってみると、浩平は数メートル後方で立ち止まっていた。


 「どうしたの?」

 「ん、ああ。あれ」


 怪訝に思った留美が訊ねると浩平はある方向を指差した。


 「里村……さん?」

 「そうそう、そんな名前だったよなあいつ」

 「あんな何もない空地で何をしているのかしら?」

 「待ち合わせって雰囲気じゃないしな」


 二人の視線の先にはピンク色の傘をさして、ただ一人で空地に佇む少女がいた。
 少女の名前は里村茜。
 浩平と留美のクラスメートなのだが、留美も浩平も交流はない。
 普段なら気にするほどの相手ではないのだが……


 (そういえば、何回か見たことがあるわね)


 いつも遅刻ギリギリの浩平は知らないようだが、留美は何回か同じように空地に佇む茜を見たことがあった。
 その時は特に気にしたこともなかったのだが、今は妙に茜の行動が気になった。
 まるで、茜があの時の自分の―――


 「しかしなんか絵になるな」


 と、留美の思考は浩平の言葉によって遮られた。
 茜の様子は気になるところではあったのだが、浩平の言葉の方がより気になってしまったのだ。


 「……どういうこと?」

 「ほら、なんかあの光景がしっくりくるっていうか、綺麗っていうか、絵画みたいっていうか……なんか違和感もあるけどな」


 俺って詩人みたいだろ? という浩平の言葉は留美には届かなかった。
 確かに浩平の言う通り雨の中少女が空地に佇む光景は絵になる。
 里村茜は間違いなく美がつく部類の少女であるし、またその儚げな雰囲気が情景とマッチしている。
 亜麻色の髪とピンクの傘のコントラストも彼女によく似合っていて浩平の感想も無理はない。
 無理はないのだが……


 (だからといってあたしの目の前で他の女の子を誉められるのは面白くないんだけど……)


 昔はともかく、今は『乙女』であることにそれほどこだわっていない留美。
 だが、それとは別に羨ましいと思う気持ちがある。
 自分では絶対言われないと思われるであろう感想を浩平に言ってもらえる茜に対する羨望が。


 (……はぁ、こんなんだからあたしは乙女になれないのよね)


 なりたい、という気持ちはなくなっても憧れるという想いはなくならない。
 一人の女の子として、一番好きな人には誉めてもらいたい。
 浩平に他の女の子を誉めないで貰いたい。
 できるだけ他の女の子と親しくしないで貰いたい。
 そんな風に思うこと自体が乙女っぽいといえばそうなのだが、残念ながら留美にその自覚はなかった。


 「せっかくだし、挨拶でもしていくか?」

 「やめときなさいよ、一人でいるってことはそれ相応の理由があるんだろうし」


 浩平の提案に留美は即座に否定の意を示した。
 別にクラスメートに挨拶をするくらい、なんの支障もない。
 だが、なんとなく……嫌だと思ってしまったのだ。
 あの少女に浩平を近づけることを。


 「なんだ、嫉妬か七瀬?」


 ズバっと核心を言い当てられ、心臓を跳ね上げる留美。
 こういう時だけ乙女心を察する浩平を憎らしく思いながらも、留美は表面上何事もないフリをして浩平をせかすのだった。


 (はぁ……)


 チラリ、と茜へと振り返って羨望の溜息をつきながら。















 「わっ、浩平どうしたの? こんなに早い時間に……」

 「七瀬の愛の力だ」

 「何アホなことを言っとるかっ」


 スパーン! と教室に浩平の頭が叩かれる音が鳴り響く。
 が、その行動も後の祭りだったらしく、浩平の言葉を聞いたクラスメートの一部は好奇の視線を浩平と留美に投げかけていた。
 彼らの頭の中では色々な愛の力が邪推されているに違いない。
 ちなみに浩平の言葉を聞いて真っ赤になった瑞佳の脳内では浩平におはようのキスをしている留美の姿が映っていたりする。


 「な、七瀬さん……大胆」

 「瑞佳、あんたまで何を考えてるのよ!?」

 「え、あ? ううん、なんでもないよなんでも」


 どう見てもなんでもあるのだが、留美は深くつっこむことはしなかった。
 自分の友人の中でも最も常識人と言える少女にまで誤解されたことを自覚したくなかったのである。
 まあ、手遅れではあるが。


 「気にするな、七瀬。俺達は全校公認のラブラブバカップルじゃないか」

 「バカップルじゃないっ」

 「ていうかラブラブは否定しないんだな」


 ぼそっと呟かれた住井の一言は留美の動きを止めるのに十分な威力があった。
 そんな留美の背後では浩平がビッと住井に向けて親指を立てていたりする。


 「いや、ほら、その、だって、ね?」

 「意味がわからんぞ」

 「うるさいわねっ、あんたも何かいいなさいよ折原」

 「留美、愛してるぜ」

 「おりはらーっ!?」


 どっ、と教室に歓声があがる。
 二人の夫婦漫才はもはや日常茶飯事と化している。
 その熟練度は長森瑞佳とのそれには及ばないが、完成度は明らかに留美との方が上だと評判だったり。


 「なんだよ、今度はちゃんと時と場所を考えて言ったぞ?」

 「どこがよっ!?」

 「ちゃんと苗字じゃなくて名前というひねりも加えたのに」

 「加えんでいいわっ」


 うきーっと暴れる寸前の留美だが実は内心ドキドキしていたりする。
 付き合い始めてそれなりの時間が経過しているのだが、浩平が留美のことを名前で呼ぶことは滅多にない。
 というか記憶にある限りでは数回だけである。
 自分も「折原」と苗字で呼んでいる以上人のことは言えないのだが、やはりこういうことは男の子の方から言い出して欲しいものなのだ。

 なお、余談ではあるが二人がお互いのことを名前で呼ぶ確率が高いのは健全な男女が密室で行うごにょごにょな行為の時である。















 (全く……折原ってば……)


 授業中、先ほどのことを思い出した留美は剣呑さと照れを半々の割合で含んだ目つきで浩平を睨んでいた。
 当の浩平は何か内職をしているようなので全く反応はないのだが。


 (我ながら……なんでこんな奴を王子様だって思ったんだろ……)


 自問自答してみる。
 だが、答えは一つしかなかった。
 すなわち、好きになったのが折原浩平だったから。
 単純かつ明快な答えだ。

 思えば浩平の第一印象は最悪と言ってよい。
 出会い頭に跳ね飛ばされるわ、次には肘を入れてくるわと自分を女の子だと思わぬ所業の連続。
 その後も嫌がらせとしか思えないくらいのことばかりされてきた。


 (なのに……あいつはあたしの心の中に入ってきた。あたしを―――七瀬留美をいつだって見てくれた。
  あたしが望んでいた……ううん、『本当に』望んでいた乙女にしてくれた)


 人気投票の時も
 広瀬真希から嫌がらせを受けていた時も
 デートもどきをしたときも



 ―――自分を迎えに来てくれた時も



 折原浩平という少年は王子様という柄ではない。
 留美の抱いている理想の恋人像ともかけ離れている。
 それでも、自分には浩平しか考えられないのだ。
 未来のことはわからない。
 それでも、確信に近い想いで留美は思う。


 (きっとこの人を好きになったことは一生の宝物になる)


 と。
 もちろん、彼と結ばれることにこしたことはない。
 だけど、彼の周りには長森瑞佳を始めとして魅力的な女性が多い。
 無論、現時点で浩平が浮気をしたり心変わりをしたりするとは欠片も思ってはいない。
 しかし、何事にも『えいえん』はないのだ。
 あの時、浩平が自分のいるこの世界に戻ってきてくれたことのように。


 (ってあたしったら何ネガティブになってるのよ……)


 ぶんぶんと頭を振って嫌な思考を追い出そうとする留美。
 本来、七瀬留美という少女は見かけに反してマイナス思考が多い。
 普段はそれを隠すかのように明るく装うところがあるのだが、このように一人で何かをする時はその本来の姿が首をもたげてしまうのだ。


 (綺麗、か……)


 視線を亜麻色の髪の少女に向ける。
 そこには確かに綺麗と評されることに遜色ない少女がいた。
 浩平はああ見えて意外に正直者である。
 特に人を評するときはそれが顕著に表れる。
 まあ、ずっと一緒に育ってきたせいか長森瑞佳だけは例外のようだが。


 (あたしは言われたことない……)


 可愛い、とは言われたことがある。
 だが、留美は無性に綺麗と評された茜が羨ましかった。


 「次の問題を……南、やってみろ」

 (やばっ……)


 順番からいって次に当てられるのは自分だ。
 そう察した留美は慌てて思考を打ち切って教科書に目を向けるのだった。
 そんな自分を見つめる浩平の視線に気が付くことなく。















 「あれ?」


 下校時、留美は下駄箱であることに気が付いた。
 置いてあったはずの傘がなくなっていたのだ。


 「どうした?」

 「傘が、なくなってるの」

 「はあ? また嫌がらせか?」


 浩平の声に少しだけ剣呑なものが混じる。
 過去に留美は広瀬真希を筆頭とした一部の女子生徒に嫌がらせを受けていたことがあったからである。
 最も、浩平の一喝のおかげで嫌がらせはなくなったのだ。
 主犯である広瀬真希とも留美は和解し、今では親友といって差し支えない間柄になっている。


 「ううん、そんなのじゃないと思う。多分、適当に選んだ傘がたまたまあたしのだったんじゃないかな」


 学校の傘たては基本的にごちゃごちゃに入れる方式になっているため、このようなことは多々起こる。
 今回はその被害にたまたまあってしまったのだろう。
 まあ、それほどお気に入りの傘というわけではなかったのでショックは少ない。
 むしろ……


 (折原が、怒ってくれたし……)


 不謹慎だとわかってはいるが笑みが抑えられない。
 一瞬のこととはいえ、浩平が滅多にみせない真剣さを見せてくれたのだ。
 それも、自分のために。
 傘の一本くらい安いものだとさえ思える。


 「……何ニヤついてるんだ?」

 「あ、ううん! なんでもないのよ! けど、困ったわね、どうやって帰ろうかし―――」


 そこで留美の頭に一筋の光が差し込んだ。
 チャンスだ。
 これは前々から憧れていた相々傘をする絶好のチャンス。


 「あ、あのね折原」

 「七瀬、傘がないなら俺の傘に入るか?」


 機先を取られた。
 だが、これは願ってもないことだ。
 自分から申し出るよりは相手から申し出てもらった方が良いに決まっている。
 珍しく自分の思考通りに進む展開に留美は顔を綻ばせながら了承の意を示すのだった。















 ザァァァ―――

 絶え間なく降り注ぐ雨音が留美の耳をうつ。
 二人には会話がなかった。
 いつもなら浩平が何かバカをやってそこから話が広がるのだが、何故か浩平はおとなしい。

 一方、留美は慣れない、というか初めてのロマンチックシチュエーションに戸惑っていた。
 とく、とく、と心音が鳴り響く。
 二人っきりで過ごすことは今まで何度となくあったのだが、シチュエーション一つ変わるだけでこんなにも心境は変わるものなのか。
 まるで初めてのデートの時のような気持ちで留美は歩いていた。


 「なぁ」

 「うえへっ!?」


 唐突な呼びかけに留美は乙女らしからぬすっとんきょうな声を出してしまう。
 「不覚…!」と自分を叱責しつつ無理やり笑顔を作る留美。
 浩平はそんな留美を不思議な生き物を発見したかのような表情で見ていた。


 「どうした、背中に氷を入れられたときの長森のような声を出して」

 「そ、そりゃあんたがいきなり声を……ってあんたは瑞佳に何してんのよ」

 「小学生のときの話だ、気にするな。それよりお前、どうしたんだ?」

 「へ?」


 どうしたんだ、はむしろこっちの台詞だ。
 そんな言葉が喉まで出かかったのだが、留美は浩平の台詞の先を促した。


 「授業中といい、今といい……おとなしすぎるぞ? エクストリームに出場してチャンピオンを倒すと燃えていたお前はどこへいったんだ?」

 「そんなあたしはどこにもいないっ」

 「朝と同じツッコミか。これはますます重症だな。いつもなら多彩なバリエーションでつっこんでくれるというのに」

 「あのねぇ……」


 脱力する留美。
 心配してくれたことは嬉しい。
 こっそり浩平を見ていたはずの自分すら気が付かないところで自分を見ていてくれたのだから。
 だが、こんな心配の仕方はないんじゃないかと思う。
 そもそも授業中の方はともかく、今は乙女モードなだけだったというのに。
 まあ、浩平にそのあたりの機敏を察しろというほうが無理があるのかもしれないが。


 「んで、何かあったのか?」

 「別に何もないわよ。今は相々傘だからちょっと緊張していただけ」

 「相々傘? ああ、そういえばそうだな。でもなんでそんなことで緊張するんだ?」

 「普通女の子は緊張するものなのっ」

 「そうか? 長森はそんなことなかったぞ?」


 軽い調子で話す浩平の姿にちくり、と留美の心が痛んだ。
 わかっている。
 浩平の言葉に他意はない。
 ただ、過去の事実をそのまま述べただけだ。
 だが、それと乙女心は別物だ。
 恋人である自分の前で他の女の子との思い出を話されて愉快であるはずがない。
 それも、自分以上に浩平のことを知っていて、自分以上にたくさんの思い出を浩平と共有している女の子のことを。


 (あたしは……)


 浩平に綺麗だと言われた茜。
 浩平の傍にいることに違和感がない瑞佳。
 一つのことだけを見るのは愚かなことだ。
 それでも―――


 「七瀬っ!」


 ―――え?
 と思った時には留美の身体は引っ張られて浩平との位置を入れ替えられていた。
 数瞬後、留美のいた場所のすぐ傍を車が通り抜け、水しぶきが盛大にあがる。

 バシャアッ!!


 「うわぷっ」

 「あ、だ、大丈夫折原!?」


 留美の代わりに泥を多量に被った浩平を心配し、素早くハンカチを取り出す留美。
 だが、所詮ハンカチ程度では顔を拭くくらいが関の山で、びしょぬれの浩平は気持ち悪そうに制服を引っ張っていた。


 「うげ、気持ち悪い……」

 「ごめんね……あたしがぼーっとしてたから……」

 「気にすんな。それより早く家に帰りたい。お前も寄ってけ、完全には庇い切れなかったしな」

 「あ、うん……」


 確かに浩平の言う通り、軽微ではあるものの留美も水しぶきの被害を受けている。
 留美は浩平に促されて雨の中を走り出すのだった。















 「悪いけど、先にシャワー浴びさせてもらうぞ」

 「あ、うん。あたしはそんなに被害受けてないし……本当にごめんね」

 「だから気にすんなって……タオルはそこに置いとくからな?」


 そういい残すと浩平はリビングから姿を消す。
 留美はしばらくの間、浩平がいるであろう浴室の方向を向いていたが、やがてのろのろとタオルを手を伸ばした。


 「はぁ……あたし、何やってるんだろ……」


 しゅるっ

 両サイドの髪をとめている赤のリボンをほどきながら留美は自嘲の声をもらした。
 一人で浮かれて、落ち込んで、考え込んで、そのせいで浩平に迷惑をかけて。
 こんなの全然『乙女』じゃない。
 空と同じようにどんよりとした表情で留美は髪を拭き続けるのだった。















 「おーい、あがったぞ。メシにするか? フロにするか?」


 体から湯気を立ち昇らせながらボケをかます浩平。
 が、留美にはそのボケにつっこむ気力はないらしく、曖昧に返事をするだけだった。


 「本当にどうしたんだ七瀬? まるで真っ白に燃え尽きたボクサーみたいだぞ?」


 タオルを頭に被ったままうなだれている留美が流石に心配になってきたのか、浩平は留美へと近付いていく。
 そして、タオルをひっぺがして―――浩平は息を飲んだ。

 留美は、泣いていた。
 いや、厳密に言えば目を潤ませているだけだった。
 だが、浩平はそんな留美の姿に目を奪われた。
 湿ったディープブルーの髪の毛がいつものツインテールではなくストレートにおろされている。
 初めて見るその髪形と留美の表情は、浩平に新鮮さと驚き、そして感嘆を与えた。


 「……綺麗だな」


 するり、と自然に声が出た。















 「……え?」


 瞬間、留美は落ち込んでいたことも忘れて上擦った声がでた。
 彼女の瞳には、珍しく上気した浩平の表情が映っている。


 「き……れい?」

 「おう。髪をおろしたところは初めて見たけど……お前、ストレートも似合うな、正直不覚にも見惚れてしまったぞ」

 「……」

 「いや、マジだぞ? これなら美男子星人たるこの折原浩平様と並んで歩いても違和感がない。
  あ、もちろん普段が駄目っていうんじゃないぞ? 七瀬は普段も美乙女だしな」


 はっはっは、と見とれたことを誤魔化すかのように笑う浩平。
 彼らしいストレートな賛辞。
 それ故にその言葉に嘘の色は見えなくて。

 ―――留美の瞳に溜まった涙が、零れ落ちた。


 「ってうわ!? なんで泣くんだよ!? 今のは誉め言葉だぞ!?」

 「だって……だって……」


 ポロポロと涙をこぼす留美に大慌ての浩平。
 留美は困惑している浩平に構わず、しがみつくようにして彼へと抱きついた。
 まるで、自分の居場所がそこだとばかりに。















 「あー、なんだ。つまり……嫉妬していたわけだな?」

 「一言でまとめられるとちょっと嫌なんだけど……うん」


 ちーん、と鼻をかみながら留美は恥ずかしそうに頷いた。
 子供っぽい態度をとってしまったことへの羞恥なのか、鼻を基点に留美の顔は真っ赤になっている。
 なお、そんな留美の態度にぐっときた浩平が思わず「よしよし」と頭を撫でて過剰に照れた留美に殴り倒されたのは余談である。


 「しかしお前もつまらないことを気にするなぁ」

 「つまらないってなによ。あたしには結構切実な問題だったんだからね」


 ギロリ、と擬音のつきそうな勢いで留美は浩平を睨みつける。


 「そう言われてもなぁ、そんなに気になるもんか?」

 「だって、里村さんは綺麗だし、瑞佳は客観的にみても非の打ち所がない上に折原とずっと一緒の幼馴染だったし……
  今はこうやってあたしのことを好きでいてもらえてるけど、いつか折原があたしから離れていくんじゃないかって、そう思って」

 「お前、それは俺を信じていないということか?」

 「違うの。ただ、未来なんて誰にもわからないじゃない。ただでさえ折原の周りにはあたしよりも魅力的な女の子が多いし」

 「そういうのを信じてないって言うと思うんだが」

 「だって……」


 なおもぐずる留美。
 そんな様子に業を煮やしたのか、浩平はがっしと留美の両肩を掴み「一度しか言わないからな」と前置きをして口を開いた。


 「あのな、七瀬。お前は永遠なんてないっていうけどそりゃ当たり前だ」

 「やっぱり……」

 「まあ聞けって」


 ごほん、と咳払いを一つ。
 そして浩平は留美の瞳を見つめた。
 その瞳の奥の心の中に言葉よ届けとばかりに。


 「俺は初めてお前に会ったとき、こうなるとは欠片も思っていなかった。けど今はお前が好きだ。まあそういうことだ」

 「……は?」

 「わからんか? 想いは変わる。けどな、そりゃ当たり前なんだよ。
  一ヶ月前の七瀬よりも、一週間前の七瀬よりも、昨日の七瀬よりも、一時間前の七瀬よりも……今のお前が俺は好きだからな」

 「え、え?」

 「だ、か、ら! ずっと同じ好きってことはないって言ってるんだよ! これからも俺はお前を好きになる!
  好きから大好きに、大好きから超好き、みたいにな!」

 「な、何バカな事言ってんのよ。つまりそれって永遠に好きっていうんじゃない!」

 「違う! 永遠ってのはずっと変わらないことを言うんだ。変わっていくこの気持ちが『えいえん』なわけないだろ?」

 「そ、そんな無茶苦茶な論理……」

 「いいんだよ、これが俺だからな。まあぶっちゃけ流石の俺も今の台詞はそこはかとなく恥ずかしかったけどな」


 そう言葉をきってニカっと笑う浩平に、留美は言葉を返すことが出来なかった。
 だけど、不思議とその言葉が胸に暖かくて
 今まで悩んでいたことが馬鹿らしく思えるくらいに馬鹿に思えて


 「……折原、かっこつけすぎ」

 「当たり前だ。俺は美男子星の美男子星人だからな」

 「バカ……でも、ありがとうね」


 とん、と額を浩平の胸に置く。
 トクントクンと鼓動を繰り返す浩平の心臓の音が留美を酷く安心させた。


 「ねえ、あたし本当に綺麗だった?」

 「過去形で言うな、現在進行形で綺麗だ」

 「……ねえ、こんなこと聞いちゃ駄目なんだろうけど……里村さんとどっちが綺麗?」

 「こだわるな、お前」

 「乙女の心は複雑なのよ」

 「……んー、まあ彼氏の贔屓目も入れて七瀬かな」

 「一言多いわね」

 「とか言いながら顔は滅茶苦茶緩んでるぞ、お前」


 顔は胸に押し付けているのだから浩平に表情が見えるはずがない。
 それでも、留美はその言葉を否定する気になれなかった。
 何故なら、自分の顔はこれ以上ないくらいに緩んでいたのだろうから。


 「くっくっく……単純だな、お前」

 「あは、そうかもね。でも、今はそのおかげで不安は感じない……その、綺麗って言ってもらえたし」

 「やっぱ単純だ」

 「いいの……あっ」


 ふと顔をあげれば二人の顔は至近距離。
 そのままムードに任せ二人は―――
















 「ぶあっくしょい!!」


 湯冷めした浩平のくしゃみを留美がもろに食らう形で台無しになるのであった。















 「もう……折原のっ……! ばかぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」