遣らずの雨
蝉の鳴き声が響き渡り、夏の風物詩である入道雲が空に浮かんでいた。
彼女、月代彩の家に冷房などと言う近代的で高性能な器具など備わっておらず、外から入ってくる
夏色に染まった風が唯一の避暑であった。
古風に風鈴を飾り、風が吹けばか細く鳴り響くその音色に耳を澄ませていた。
縁側に腰掛け、真夏の日差しを眺めながら、のんびりしているだけで彼女は暑さを凌げたのだが……。
その隣では現代人の代表として丘野真がへばっていた。
便利なクーラーなどに身体が慣れた彼にとって、真夏の気温を風だけに任せて過ごせるほど
境地には立っていなかった。
「…暑くない? 彩ちゃん」
「はい、今日は風が少し冷たいので涼しいですよ?」
夏の風に冷たいも何もあるのだろうか?
そう思うのは至極当然だろう。真夏の風が冷たいはずが無い。しかし、彼女はそう感じたようだった。
長袖のTシャツにスカート。
どちらも黒系統の色であり、熱をよく吸収するはずなのだが……。
汗もかかず、空を眺めていた。
どこまでも続く澄んだ青空。スカイブルーの名にふさわしい色を放っていた。
“チリン チリン”
微かに風が二人の間を通り抜けた。
湿気と高温を纏った風に真は顔をしかめ、その風に彩は目を細めた。
「……暑いな…」
「言ったところで変わりませんよ」
「分かってるんだけどな…」
手で仰ぎながら、分かっていながらも言わずには居られない、と心の中で呟いた。
紅玉の瞳は空だけを眺めていた。
蝉の鳴き声が耳にこびり付き、暑さをより一層のものにしていた。
「麦茶でも入れましょうか?」
「ぜひ」
暑さに疲れ始めた真に麦茶の提案は魅力的であった。
ひんやりとした透明茶色の液体。氷が中に入っているとさらに涼しく感じる。
あくまで見た目で感じるだけであって実際に涼しくなるわけではない。
彩ぐらいの境地に立てばなるかもしれない。まぁ、千回も夏をすごせば慣れるというものか?
彩が立ち上がり、真の傍を通り抜ける。
一瞬だけだが生暖かい風が真の肌を撫でた。それでも少しだけ涼しいと感じたのは何故だろう。
一人で縁側に寝転がり、凶悪なまでの青空を眺めているとどこか違う世界にきた感じがした。
後ろで氷の甲高い音と、注ぎ込まれるお茶の音が蝉の鳴き声の間を縫って聞こえてきた。
涼しげな音に若干、体温が落ちた気もするが、音を聞いただけで涼しくなるほど境地には立っていなかった。
「やっぱり暑いものは暑いか…」
遠くの入道雲が大きくなっていくのを見つめながらそう呟いた。
まだまだ気温が下るには時間が掛かるだろう。
とはいえ、夏の夜の気温はそれほど低いわけでもなく、暑い夜が待っているのは目に見えていた。
「どうぞ」
お盆の上に載せられた二つのお茶。
どちらも入れられたばかりだったが、すでにガラスのコップには水滴が付いていた。
それだけ暑いのだろう。
傍に置かれるとすぐに真は手を伸ばした。
ひんやりと手の体温を奪っていく。
しかし、それだけで身体全身が冷えるはずも無く、局部的に冷えた手が別世界のようだった。
「本当に暑そうですね」
汗一つかいていない彩が真の隣に座る。
強く降り注ぐ太陽の光に銀髪が輝く。冷たく流れる水を連想させるような煌めき。
もしかしたら彩は水の精かも…。
柄に無く変な事を考えたのは暑さの所為か?
「彩ちゃんはぜんぜん、暑くないんだな」
「全くというわけではありませんが、慣れというものですよ」
再び定位置に腰掛けると空を眺めていた。
眺めている事が面白いのか、それともまた別の理由なのか。
どちらにせよ、彩は眺め続けていた。
「楽しい?」
「そうですね。雲ひとつ無い空は面白くはありませんけど、珍しいと思いますよ」
入道雲以外に目立った雲が無く、吸い込まれそうな青空だけがあった。
天気ではこれを快晴と呼ぶ。
晴れは確か雲量が2〜8の時だったと、学校の授業で言っていたのを思い出した。
「あれ…雨を降らせるのかな」
「そうですね。夏の夕立は入道雲が原因ですから」
少し遠くに見える入道雲。小さいが、それは間違いなく雨を降らせる代物だ。
彩は真の問いに何処と無く、楽しそうに、そして何かを期待しているような表情でそう返した。
自分の家ならもっと涼しいと思うんだけどな。
今は無人の家に思いを馳せた。
ひなたが出かけており、一人でも暇だからという理由で彩の家を訪ねたのだが、こちらでもやはり暇だった。
ただ、自分の想い人が傍に居るという点では家に居るより遥かに有意義ではあった。
「暑い…」
本日、何度目かの言葉。
多分、二桁は言っているんじゃないかな? と疲れた頭でそう思った。
「さっきからそればかりですよ?」
「暑いから…」
暑さに疲れるという事はこういうことか…。
少しずつ思考が鈍り始めているのは、連日の睡眠不足からのようでその暑さが心地よく感じ始めた。
熱帯夜続きで寝不足がたたっていた。
夜は暑さの為に熟睡できず、昼はそんな睡眠不足から昼寝となる。
ひなたに「だらけている」と良く文句を言われているがそれもしかない。
「少し眠たげですね」
「ああ……多分、熟睡してないからかな。彩ちゃんは眠れてる?」
「ええ、毎日快眠ですよ」
笑みを浮かべ返す彩をうらやましそうに見つめならが、襲ってくる睡魔に身を任せようとした。
そろそろ船は出港するだろう。
「目が落ちてきていますね」
「うん……」
縁側に横になると、片方だけ明るく映る。
彩は真の頭を持ち上げると、自分の膝の上に置いた。
「ありがと…」
「いえ、良い眠りを」
「…うん」
もうすでに船を漕ぎ始めている真は曖昧な返答を返してから、瞳を閉じた。
少しでも顔が見えるように、彩は髪を撫で分けた。
「あどけない表情ですね」
幼い見かけとは不相応な慈悲と母性に満ち溢れた表情を浮べると、持ってきた麦茶に口をつけた。
水滴が真の顔に落ちた。
少しだけ顔をしかめただけで、再びあどけない表情に戻る。
「……」
彩はそれを飽きることなく、眺めながら丁寧に撫でていた。
「んぁ……」
うっすらと真が目を開けたとき、随分と日が傾いていた。
西日の赤さが目覚めの目に沁みる。
入道雲はその大きさをさらに大きくして覆い包もうとしていた。
ずいぶんと覆われてしまい、そろそろ赤い西日も見えなくなるのではないだろうか?
「お目覚めですか?」
「あ、うん…」
起きたばかりの頭はまだ眠気を欲し、本能を誘惑していた。
ただそろそろ起きなければ夜が眠れないかも…そう思いながらもこのまどろみが心地よく、眠りたいという衝動に駆られる。
昼寝覚めの誘惑というものだろうか?
昼にしてはいささか遅すぎる気もするが、意味合い的にはあっている。
充足した睡眠。それに惹かれる本能。
どうやら彩の膝枕のほうが真にとって快眠をもたらしたようだった。
「ほら、起きないと駄目ですよ」
「うー…」
分かっているんだけど…と微かに開いた目で彩に訴えかける。
それに気付き、微笑む彩。
「目を覚まさせてあげましょうか?」
「……ん……」
昼寝覚の真にとって、その時間が心地よく手放したくないものであった。
しかし、それもすぐに手放した。
「んっ……!!」
再び眠りの沼に沈もうとしていた真は彩の行為によって急激に引き上げられた。
真の唇に伝わってくる少し冷たい温度に目が覚めた。
それでも彩は離さない。
むしろ積極的に動いていた。
真が完全に覚醒してから数秒経ってから離した。
頬を赤く染めながら真を見つめた。
「目が覚めましたか?」
「思いっきり醒めたよ」
「なら良いです」
真も笑みを浮べて彩を見つめ返した。
“ボーン、ボーン、ボーン……”
古ぼけた振り子時計が五時を告げた。
そろそろ帰る準備をしておかないとひなたに怒られるな、と真は思いながら彩の膝から離れた。
「どうしました?」
「いや、そろそろお暇しようかな、と思ってな」
「そうですか…」
彩は少し寂しげに答えた。
真としても帰りたくないのは本音であったが、ひなたもいる以上どうしようもなかった。
明日も会える。
当然の事柄だ。しかし、やはり好きな人とは離れたくないものである。
真が立ち上がり、玄関へ向かおうとした。
二人は気づいていなかったが、夕暮れの赤はすでに雲に覆われ姿を消していた。
空の前面を入道雲が覆ったのだ。
「それじゃ…」
「はい」
と言って店の方から出ようとしたとき、外から音が聞こえてきた。
「ん?」
「どうしました?」
「いや…何か音が」
と真が店の窓から外を覗き込む。と、地面に黒い染みの量が増えていっていた。
“パラパラパラ”
「夕立とかぶったか…」
「そのようですね」
「もう少しここにいるよ」
「はい」
雨が降ったことに残念そうに言っているが、声色は二人ともどことなく嬉しそうであった。
再び店から彩の家に戻ると、二人して居間で雨が止むのを待つことにした。
「あ、彩ちゃん。電話借りてもいいかな?」
「はい、どうぞ」
過去の遺物とも取れる黒電話のダイヤルを回す。
ジーコ、ジーコと何ともいえない懐かしさにとらわれる音に真は笑みを浮かべて自分の家にダイヤルした。
数回のコール音の後、応答があった。どうやらひなたがもう帰っていたようだった。
「ひなた?」
『あ、お兄ちゃん? 今、どこにいるの?』
「彩ちゃんのところだ。雨が降ってきたからしばらくこっちにいる」
『うん、分かったよ。夕飯どうする? 彩ちゃんのところで食べてくる?』
「あー……どうするかは考えてなかったな」
『それじゃ食べてきて。お兄ちゃんの分の料理だけあとでするのはめんどくさいから』
「あ、おい、彩ちゃんにはまだ相談してないから」
『大丈夫だよ。問題ない。それじゃあね、お兄ちゃん』
「お、おい」
真の言い分も聞くことなくひなたは電話を切ってしまった。
ツーッ、ツーッとむなしく音が聞こえてくるだけだった。
「ひなたのやろう…」
「どうしました?」
「いや…その…彩ちゃん。悪いんだけど、こっちで夕食、食べさせてもらえないかな?」
受話器を元に戻しながら、氷の解けた麦茶を飲んでいる彩にそう言った。
「あ、はい、別に私は構いませんが、ひなたさんは良いんですか? 一人で夕食になると思いますが?」
「……俺の分の夕食を作るのがめんどくさいんだと」
ひなたのその発言に彩は心の中でお礼をいった。
どうも変な気を使わせてしまったらしい。今度、何かお礼をすべきかな? と思いながら、ひなたと雨に感謝した。
「ふふふっ、ひなたさんもすごいこと言いますね」
「ああ。でも、まぁ、彩ちゃんとはまだ一緒にいられるから良いか」
と笑みを浮かべて言う真に彩も笑みを返した。
彩は立ち上がると「では、作ってきますから待っていてくださいね」と言って台所に姿を消した。
真は勝手が分かっているようで、座敷机の上におかれているお茶に手を伸ばした。
外は雨が激しい音を立てて降っていた。
「どうぞ」
「ああ」
テーブルに並べられる夕食のおかず。
家庭的な雰囲気を持つ料理に真は懐かしさを覚えていた。
あまり他人の料理を食べたことの無い真にとって、彩の手料理は数少ない他人の作った料理といえる。
さらに純和風の料理はやはり千年という月日の賜物か?
「いただきます」
「はい。いただきます」
二人して手を合わせて夕食が始まる。
たまに真が彩の家に来て夕食を食べていた。今日は雨のおかげでというべきだろうか?
「うん、おいしい」
「ありがとうございます。ご飯はお代わりがありますから遠慮しないでください」
「うん」
味噌汁を一口飲んだ真は素直に感想を述べた。
濃くもなく、薄くもなく。真にとってはちょうど良い加減だった。
雨はすでにやみ、おそらく食事が終わって一息つけば家に帰るか、時間によってはとまりだろう。
「夕立に感謝ですね」
「ん、そうかも」
おひたしに手を伸ばす。ほうれん草と鰹節をあわせ醤油で味付け。
魚とはちょうど良い具合にあうおかずだった。
「真さん。先ほどの雨をなんというかご存知ですか?」
「ん? 夕立じゃないのか?」
「いえ、真さんが帰ろうとしたときに降ってきた雨の事は別の言い方があるんですよ?」
「へー」
「遣らずの雨。または留客雨と言うんです」
真は魚を崩しながら聞いていた。彩も同じように魚を崩しながら話を続ける。
「どういう意味?」
「帰って欲しくない人が帰るときに降る雨のことで、帰ろうとしている人を引き止める雨のことなんです」
笑顔で話す。
真も彩の声が明るい事に気づき、うれしさをもって聞いていた。
「言ってくれれば帰らなかったのに」
「言わなくても分かって欲しいです」
「何となくは分かっていたけど…やっぱり迷惑かなって」
変な気遣いをする真に優しいため息を吐いた。
やはりどこまでも他人を気遣う真に彩は強くは言えない。
「私はいつまでも真さんには傍に居て欲しいと思っていますよ?」
「俺だって彩ちゃんがいつも傍に居て欲しいさ」
「なら、これからは泊まる時は気にせず言ってください」
「分かった。泊まりたい時は言うよ」
箸がさらに進む。
夏の夕立がもたらした幸運。それが二人をさらに近づけた。
二人が同棲生活に入るのは、このときからそう遠くない未来のことだった。
遣らずの雨は、どうやらいつまでも彩の元に真を、そして真の元に彩をとどめ続けたようだった。
あとがき
えー、かなりの間、休息していた氷人です。
リハビリも兼ねて少し前のコンペに出そうと書いていた作品に手を加えて完成させたものです。
なんとなく感覚が戻ってきていない気もするのですが、とにかく今はCatharsisを完結させることを
目指して頑張っていかないといけませんね。
それでは、またどこかのあとがきで……。