エピローグ「春風に吹かれて」
ネオパーシヴァルと別れたアイシアたちは、ホテル<ろんどん>の談話室でくつろいでいた。テーブルにはアフタヌーンティーセットが積まれている。
「お墓参り?」
シナモンティーを一口やって、アイシアは、まじまじとした視線を対面の紳士に向けた。
「うむ、せっかくイギリスに帰郷したのだから、サイラスの墓参りに行こうと思ってな」
孫であるサイラス・デッカーの墓は、地元ウェールズにある。二週間前のアイシアとの会話で、久しぶりに祖父らしいことでもしようかと思い至ったらしい。
「さくらはどうするんです?」
「ボクは……一月ほど休みを取ってきたから、あと半月はここに残るつもりだよ」
すぐにアメリカへ帰ってもいいのだが、ジョージ同様、せっかくイギリスに来たのだからというわけだ。
それを聞いたアイシアが、顔を弾ませ、ポンと手を打った。
「ならその間、みんなで何か探偵らしいことをしましょう!」
「うにゃっ? なんで唐突にそんなこと」
「だって、<倫敦魔法探偵団>を結成したのに、殆どそれらしいことしてないじゃないですかっ」
さくらはソファからずり落ちそうになった。
「いや、あれはノリで言っただけなんだけど……」
ジト汗を垂らして頬に指先を這わせたとき、来客を告げるチャイムが鳴った。
クッキーを頬張っていたマイトゥナが、いそいそとロビーへ向かう。
ホテル<ろんどん>のオーナー兼受付嬢が彼女の本業だ。
「いらっしゃいませぇ、お泊りですかー?」
やたらフレンドリーな接客。しかも容姿は十代前半のお子様ときているので、結構な客がここで引く。
必然的に繁盛とは無縁なのであるが、趣味でやっているようなものなので、マイトゥナ自身は別段気にもしていない。
「ここの人?」
来客は、白い帽子を被った日本人の女だった。年の頃は二十歳前後だろうか、少女にも見える容貌で、腰まで届く黒髪が印象的だ。
「ホテル<ろんどん>のオーナー、マイトゥナです。マイちゃんって呼んでね♪」
「マイちゃんっていうんだ……可愛いなぁ、持ち帰りたいな〜」
薄紫の瞳が妖しくきらめく。どうも普通とは少し感覚がずれているようだが、そこはマイトゥナ、全く動じない。
「褒めてくれてありがと。テイクアウトは無理だけど、互いが気持ちよくなるお相手ならしてあげるわよ?」
動じないどころか、タメ口でこの対応ときた。
そこへ、タイミングがいいのか悪いのか、さくらとアイシアが様子を見にきた。
女が振り向いた瞬間、さくらは、談話室に残っておけばよかったと心底後悔した。
「あれ、あれれ……あれあれ〜?」
たちまち女の視線が一点に吸い付き、対象である少女が身体をびくびくさせる。
その少女――さくらが浮かべる愛想笑いは、うっすらと汗の珠を滲ませていた。
「旅行で訪れた異国の地で、数年ぶりの再会……これはきっと縁の赤い糸だよね」
「あ、あはは……」
張り付いた笑顔は、正直逃げ出したいという気持ちの表れである。
女が数歩近づいたとき、さくらは思わずアイシアの後ろに身を寄せた。
「さくら?」
「うにゃ……ボク、この人苦手」
ぎゅっと背中にしがみ付かれ、困惑気味のアイシア。さくらがここまであからさまに萎縮するのは珍しく、マイトゥナは実に興味深げな様子だ。
「もしかしてあなたもここに泊まってるの? じゃあ、一緒のベッドで寝ていい?」
「あ、あうう……」
「ちょっとでいいから抱きしめさせてもらえるかなあ? あっ、別にそのまま持って帰りたいなーなんて思ってないよ、うんうん」
ほがらかな口調は天然の向日葵を連想させる。
何を考えているのかよく分からない。何も考えていないのかもしれない。
女がさらに歩を進めようとしたとき、<ろんどん>のロビーは新たな来客を招き入れた。
「はぁはぁ……さやかさん、こんなところにいたんですか」
十代後半と思しき青年は、女の関係者らしい。走ってきたのか、息を切らせている。
「蒼司くん、遅かったね。そうそう、宿はここに決めたよ♪」
「そんなことより、勝手にいなくならないでください……ここは常盤村でも、ましてや日本でもないんですから、はぐれたら対処できる自信はありません」
「蒼司くんなら、はぐれさやかになったわたしをも見つけてくれるよ」
「……あれ、さくら、どこ行くんですか?」
「あにゃにゃにゃ!」
忍び足で玄関に向かっていたさくらが、アイシアの声に飛び上がった。
時が凍ったかのような静寂。
「あっしには関わりのねぇことでござんす――」
フッと一息吐き、さくらはダッシュで玄関を駆け抜けた。
「はやや、逃げられると追いたくなるのが人の常。そう、白河さやかの名にかけて!」
「ちょ、さやかさん!」
殆ど間を置かずに女が玄関を抜け、青年がその後を追う。
アイシアも慌ててそれに続こうとするが、一瞬思案して、懐から何かを放り投げた。
「マイトゥナ、それ返します。今の私にはまだ必要ない物だからっ」
緑髪の大魔法使いが受け取ったのは、白銀のコイン。――思わず口もとが綻ぶ。
「なかなか殊勝じゃないのぉ。……それはともかく、こんな楽しそうな事態を誰が放っておくものかしら♪」
小悪魔的な笑みを浮かべ、うきうきとした足取りで最後尾をキープするマイトゥナ。
そしてホテル<ろんどん>には誰もいなくなった――
「やれやれ、騒がしいことだな」
ただ一人、談話室でティータイムを愉しんでいるジョージを除いて。
爽やかな昼下がり。陽光きらめく青空の下、テムズ川のほとりを駆ける複数の人影。
「うにゃっ!」
石につまずいてすっ転ぶさくら。逃げるのに夢中で足下の注意が散漫になっていた。
足をくじいたらしく、立ち上がることができない。かといって、人前で魔法を使うなどもってのほかだ。日常の怪我を魔法で治癒する気はさらさらない。
「はやや、大丈夫?」
心配そうに近づいてくる女の顔が、心なしか弾んでいるように見えるのは気のせいか。
もはやこれまで――そう観念したときである。
後方から猛スピードで駆けてきた小柄な影が、男と女を追い越して、さくらの前で急ブレーキをかけた。
「さくら、おぶってあげます!」
「えっ、アイシア、ちょ――」
返事も聞かず、アイシアはさくらを強引におんぶした。背丈体格は殆ど変わらないのに、それでもさくらの身体は驚異的に軽い。身長百四十センチ、体重三十一キロは伊達ではなかった。
「わあ、いいなあ、わたしも同じことしたいなぁ〜」
うらやましそうに目を輝かせるさやか。背後で、男――上代蒼司が諦めたように溜息をつく。
「あの、アイシア……ちょっと恥ずかしいから、できれば下ろしてほしいんだけど」
「駄目です! このまま病院まで直行します」
「いや、そこまでするほどの怪我じゃないし……」
「さくらは黙っていてください――って、わわわっ!?」
「わっ、アイシア、あぶな――」
その光景を、さやかと蒼司は、ぽかんと見つめるばかりだった。
足を真横につんのめらせたアイシアが、よたよたとバランスを崩す。いくらさくらの体重が軽くても、重力には逆らえない。
少女ふたりの悲鳴は、どぼん、という水音に掻き消された。
「あ〜らら、見事に「落ち」たわねぇ」
テムズ川の水面から顔を出したアイシアとさくらを眺め、陽気に笑うマイトゥナ。
吹き抜ける初春の風は、どこまでも爽やかだった。
(了)