第12話「静謐なるコルダ」



 空を見上げる少女へ、アイシアがそっと近づく。

「さくら……」

「うん、大丈夫。短い間だったけど……ボクも楽しかったから」

 顔を下ろして振り向くさくらは、どこか晴れた表情をしていた。

 出会いがあれば別れもある。大切なのは長い短いではなく、その期間がどれだけ充実していたかということだ。

「デバイスの性質はマスターに似るっていうけど、なかなか粋な最期だったじゃないの。作り手の勝手な気持ちを言わせてもらえば、ちょーっと残念だけどね」

 せっかく丹精込めて作ったのに勿体無い――そんな本音をポロリと滑らせるマイトゥナだが、それなりに愛着があったのだろう。

「このジョージ・デッカーも作り手の一人だということを忘れてもらっては困るな」

「そんなことより、彼女の様子が変よ」

 ネオパーシヴァルの言葉に、皆の視線が桜の樹の下へ集中する。

 魂の抜け殻のように呆然と立ち尽くしていた染井吉野が、やがて、びくんと身体を震わせた。

「う……うわああああぁぁぁぁぁぁッ!!!」

 虚ろな眼を大きく見開いて絶叫した途端、少女の全身から、膨大な量の淡紅色の魔気が、凄まじい勢いで溢れ出した。

 ジョージとネオパーシヴァルはマイトゥナを包む防御結界に逃れ、少し離れた前方に位置するさくらとアイシアは、ネオパーシヴァルが展開させた神聖術具による防御結界に包まれた。

 四方八方に荒れ狂う魔気の嵐は、見る間に公園内を破壊し、街へと広がっていく。

「ど、どうなってるんですか!?」

「精神が極度に不安定になって、魔法の桜から供給される<倫敦>の魔気を制御できなくなったんだ……このまま暴走が続いたら、ロンドン全域を包んでいる結界が壊れて、現実にも被害が及んじゃうよ」

 止めようにも、デバイスを失ったうえに魔力を消耗している今のさくらではとても対抗できない。マイトゥナも魔力重圧を抑えているため手が出せない状況だ。

「誰かが防御強化して特攻かけるしかないわね。暴走状態なら彼女自身の力は大幅に低下してるから、近接で強力な物理攻撃を加えれば倒せるはずよ」

「なら、適任者はあたしね」

 今この場で接近戦による物理攻撃が可能なのはネオパーシヴァルだけである。

「できれば無事に済ませてやってほしいけど……無理かしら?」

「あたしだって生け捕りにして連行したいところだけど……正直その自信はないわ」

 二人のやり取りを聞いたアイシアが、ぎょっとしたように顔を青ざめさせる。

 いくら鈍い彼女でも、その会話の意味するところは理解できた。

「そ、そんなの駄目です!」

 気がつけば大声で叫んでいた。

「マイトゥナは勝手だ! 自分が作ったくせに、どうにもならなくなったら殺すのもやむなしなんて……そんなのひどい! 横暴ですっ」

「非難は後でいくらでも聞くわ」

 苦笑するマイトゥナ。反論は一切しない。そして自分の意見を覆すこともしない。

 さくらは少なからずアイシアに同感だったが、他の方法を模索する余裕がないのも事実だ。

「こうなったら私が何とかします!」

 そう言って周囲を見渡し始めるアイシア。もちろん何も考えていない。

 彷徨う双眸は、遠方にあるベンチを捉えた。そこに腰を下ろすトレンチコートの姿も。

 見るのは初めてだったが、あれが不思議さんなのだろう。荒れ狂う魔気の中にあって、彼が座る一点だけが、何故か被害が及んでいなかった。

 もしそれが染井吉野の意思によるものなら、彼女はまだ精神崩壊はしていないことになる。

 そこまで思ったとき、脳裏にある光景がフラッシュバックした。

 去年の夏祭りの夜、幸せそうな顔で歌を響かせていた、一人の少女の姿が――

「そうだ……ハッピーマテリアル、歌声を届けて!」

『Yes Ma'am!』

 染井吉野のほうを向き直ると、アイシアは片手を胸に当て、すうっと唇を開いた。

 ♪〜 きっと幸せをあげる みんな大好きよ 

    ハッピーエンドにしましょ? 愛に包まれる街

 頭上できらめくエメラルドを通じ、柔らかな歌声がアリシス公園に響く。

 突拍子もない行動にきょとんとするマイトゥナたちに構わず、アイシアは歌い続ける。

 ♪〜 楽しい が 悲しいには 負けない方が素敵

    微笑みの呪文 修行の成果よ

「アイシア……」

 困ったような表情を優しく微笑ませ、さくらはアイシアの隣に立った。

 空いているほうの手を握り、横を向いた北欧少女に、軽くウインクしてみせる。

 繋いだ手から伝わる詩――さくらは片手を胸元に当て、そっと声を重ねた。

 ♪〜 つらい言葉の中に ヒントがあるのかしら

    めげないで明日は 恋も晴れるでしょう

 ときに交互に、ときに重なり、流れるように紡がれていく二人の歌声。

 最初は呆気にとられていたジョージとネオパーシヴァルも、次第に心地よさそうに耳を傾けていく。

 歌声に合わせるように魔気の暴走が少しずつ緩やかになっていくのを感じ、

「愛を奉じるあたしとしたことが……これは一本取られたわねえ」

 マイトゥナは感心した風に口もとを綻ばせた。

 ♪〜 きっと幸せをあげる みんな大好きよ

    ハッピーエンドにしましょ? 愛に包まれる街

    ハッピーエンドでラララ……

「響け幸せの鐘――サムシング・ブルー」

 一拍置いて声を重ねたさくらとアイシアの全身から、青白い燐光が溢れて広がる。

 淡い青蛍が広場を覆い、見る間に魔法の桜が枯れてゆく。急速に薄らいでいく魔気の根源――燐光に包まれた染井吉野の表情は、ひどく穏やかそうであった。



 桜の雨が止んだアリシス公園の広場。魔法の桜の樹は影も形もない。

 トレンチコートの男が、染井吉野の頭を優しく撫でる。およそ人間のものとは思えない異様な瞳からは、一筋の涙が伝い落ちていた。

「泣かないで……ボクは平気だから。ただ賭けに破れた――それだけのことだよ」

「……」

「ボクのわがままに付き合わせちゃってゴメンね。これで、さよならだから」

 ぎこちなく、乾いた笑顔を見せる。それが彼女の精一杯だった。

 トレンチコートの男は、少女の頭からそっと手を離すと、ゆっくりと背を向けた。

 一歩、また一歩と遠ざかる広い背中。帰ってゆくのだ――彼本来の生活へと。

 やがてその姿が完全に見えなくなったとき、染井吉野の涙腺は決壊した。

「ひっく……うう……うわああぁぁぁぁぁぁぁぁん!!」

 堰を切ったように涙を溢れさせ、大声で泣き出す。

 その様は、この上なく外見相応に見えた。

 泣きじゃくる少女をただ見つめるしかできないさくらたちの中から、体操着の人物が一人進み出た。

「号泣してるところ悪いんだけど……宝具を返してもらえるかしら」

 奪われた宝具の奪還。もともと彼女はそれが任務である。

 染井吉野は、涙溢れる両目をごしごし擦りながら、ネオパーシヴァルに何かを手渡した。

 魔法の桜の苗木であった。さくらとアイシアに浄化され、もとの苗木に戻ったのだ。

 受け取ったネオパーシヴァルは、念のため本物であるか確認してから、回収箱に収めた。

 染井吉野は無言で両手首を差し出し、捕まえて下さいという意思を示した。<神の雷>に捕縛された者は異端審問にかけられ、その処罰を委ねられる事となる。

 ネオパーシヴァルは、すっかりしおらしくなった少女を見やり、ひとつ息を吸った。

 鈍い音がしたのはその直後。

 地を転がった染井吉野が、ぽかんと上体を起こす。頬に当てた片手からは、程なくして、じんじんとした熱が伝わり、痛みに思わず顔を歪めた。

 突然の出来事に、真っ先に反応したのはアイシアだった。

「な……なにするんですかっ!」

 染井吉野を殴り飛ばしたネオパーシヴァルに、憤然とした態度を取る。

「散々コケにしてくれた張本人を間近で見てたら、鬱憤が爆発しちゃってね」

「さ、最低です! 見損ないました!」

「あらそう? 人の言い分は最後まで聞いた方がいいと思うけど」

 涼しい顔でアイシアの抗議を受け止め、ネオパーシヴァルは言葉を続けた。

「でね、<神の雷>が異端を捕縛する際、素直に投降した相手に暴力を振るった場合、その時点で拘束力がなくなっちゃうの」

「……えっ」

 アイシアと、ふらりと立ち上がった染井吉野が、二人して目をぱちくりさせる。

 意図を察していたのか、さくらやマイトゥナは納得済みといった表情だ。

「そんなわけだから、非常に残念だけど、あなたを捕まえることはできなくなったわ。どこへとなりと消えなさい」

「さ、最高です、見直しました! さすがネオパー!」

「切り替わり早いわね……って、いい加減その略称で呼ぶのやめてくれる?」

 ジト汗を浮かべて、こめかみのあたりをピクピクさせるネオパーシヴァル。

 ぼうっと突っ立つ少女の視線に気づくと、表情をきりっと引き締めて彼女を見据える。

「言っておくけど、お咎め無しなのは今回の件においてのみだから。もしあなたが、また新たに異端的な事件を起こしたら、その時は容赦なく拘束ないし抹殺するわよ」

「……うん」

「それじゃ、晴れて自由の身になったところで、ホテル<ろんどん>に帰って一緒に新生活スタートですっ」

 明るく口にするアイシアだったが、染井吉野は微かに口もとを和らげると、軽く首を左右に振った。

「えっ、なんで――」

 困惑の相を浮かべる北欧少女を一瞥すると、背を向けて歩き出した。あてなき旅路へ。

 追いかけようとするアイシアを、さくらが肩を掴んで引き止める。

「決意して去り往く人を留まらせることは誰にもできない。それは君がよく知っているはずだよ」

 ハッとして、表情を沈ませるアイシア。半年前、初音島で桜の樹を枯らして、純一に別れを告げた時のことを思い出したのだ。

 遠くなっていく少女の後ろ姿は、緑の木々が屹立する並木道に差し掛かっていた。

 身につけていた黒マントが風に流され、風見学園付属の制服があらわになる。

 その小さな背中は、なんと切なく、寂しげであることか。

「あっ!?」

 さくらが叫んだ。続いて、アイシアたちも――マイトゥナまでもが驚きの声を発した。

 愕然とした様子で立ち止まる染井吉野の正面に、見覚えのある人影が立っていたのである。

 黒猫のぬいぐるみのような顔をした男。トレンチコートではなく、黒い学ラン姿だった。

 染井吉野は、信じられないという表情で涙の粒を浮かべ、目の前の男に抱きついた。

 さくらの母の記憶にある、当時の彼そのものの姿であった――

「あれは……きっと、不思議さんのドッペルゲンガーだよ」

 と、さくらが低く呟いた。彼女の言うドッペルゲンガー、即ち二重存在とは、ドイツの伝説にある、見たら数日のうちに死ぬとされている現象のことではない。

 二重存在の資質がある人間が、無意識のうちに生み出す、もう一人の自分のことを指す。いわば分身であるが、容姿性格は、本人と同じであったり、そうでなかったり、様々だ。

 本人と肉体的に繋がっているわけでもなく、ただ二重存在として生まれただけの、完全な一個人としての生命であるといえる。

「ねえアイシア……あのふたり、幸せになれるかな」

 誰に向かって訊いているのか、芳乃さくらよ。

「なれます――絶対に!」

 アイシアの声は、とても誇らしげであった。

 二重存在である以上、彼は不思議さん本人ではない。染井吉野の想いに応えてくれるかどうかも分からない。

 それでも、遠ざかる両者の手は、しっかりと繋がれていたのだ。

 アイシアたちの見送る先――寄り添うような二つの影は、白霧が立ち込めてきた並木道の彼方に溶けていった。