第11話「銀の泡沫」



 ――何でも願いを叶えてくれる銀の珠。

 あらゆる事象と理を操作して、桜の樹の効果地域内でのみ対象者の願いを現実と化す、魔法の桜が生み出した副産物にして、窮極の神秘。

 危機的状況において稀に出現することがあり、そこで危機からの脱出を願わないと生き残れない、という状況下でなければ決して出現することはない。

 しかし、染井吉野は、稀代の魔都<倫敦>のエネルギーを利用して、通常ではありえない奇蹟――銀の珠の意図的な出現を成し遂げたのだ。

「あと十数分もすれば、銀の珠が完全に発動してボクの望みは叶う。悪いけど、君たちにはそれまで眠っていてもらうよ」

 アイシアが人差し指を頭上に掲げ、十数個の光弾が周囲に発生した。

 さくらは必死に立ち上がって、よろよろと、アイシアの前に立って両肩を掴んだ。

「アイシア……目を覚まして……お願い!」

 洗脳の解除を試みるが、全く効果は無かった。

「無駄だよ、ボクの魔眼は完璧だ。人の想いは魔法に打ち勝つこともあるけれど、どうすることもできない現実だってあるんだ」

 そんなことはさくらにも分かっていた。

 強い想いが道を切り開くのは、相応の土台と軌跡があってこそのものなのだから。

 やるせない表情で、さくらはぎゅっとアイシアを抱きしめた。

「ごめん、アイシア……もし正気に戻ったら、ボクのこと、思いっきり責めていいから」

「……さくらは嘘つきだから、責め返されそうで嫌です」

「――えっ!?」

 さくらと染井吉野が、同時に驚きの声を発する。

「ハッピートリガー・ファランクスシフト――――ファイアッ!!」

 意思のこもった張りのある声で、人差し指を頭上に向けたまま発動。光弾の嵐は、先程とは打って変わった無茶苦茶なコントロールで空中へ飛翔する。

 全く制御できていないそれらは、殆どがあさっての方向へ飛んでいったが、偶然にも一基のビットに命中。魔力核を失ったビットはその場で消滅した。

「やった! 一機撃破です――って、わわっ」

 喜びも一瞬、即座に魔力負荷がかかり、アイシアはさくらに抱きしめられたままの格好で尻餅をついた。

「アイシア……正気に戻ったの?」

「みたいです。その、さくら……ごめんなさい」

「ううん、いいよ」

 そっと目を伏せ、アイシアを優しく抱き寄せる。胸に伝わる温もりが心地いい。

 信じられないといった顔で、染井吉野が二人を見下ろした。

「そんな馬鹿な……どうやって意識を取り戻したの」

「そんなの知りません。私に暗示をかけたって、マイトゥナが言ってました」

「成程、ボクの行動を予測して保険をかけておいたってわけか」

 おそらく、アイシアが自分の心に届く行為――この場合は、さくらが真摯な想いを口にしてアイシアを抱きしめたこと――を受けたとき、洗脳の類を解除するような暗示の楔を打ち込んだのだろう。

「でも、君が正気に戻ったところで状況は覆らないさ」

「そーでもないわよ♪」

 明朗な一声に、その場の全員が驚きの表情を浮かべた。

「保険は自分にもかけておくのがベターってものでしょ?」

 あっけらかんと言い放った緑髪の大魔法使いが、左手を頭上に掲げて全身から燐光を発する。

 たちまち魔法の桜による魔力重圧が抑え込まれ、さくらたちの体は自由を取り戻した。

「ネオパーシィちゃんから摂取した愛のエネルギーが結構多量でね、余った分を利用して特製の宝具を作ったのよ。あたしの魔力補給は愛のエネルギーで賄っているけど、それは魔力核も同じみたいだから……もしリンカーコアが奪われたり消されたりした場合、自動的に完全回復を施すようにしたってわけ。――やっつけだから使い捨てだけどね」

 そう語るマイトゥナの、右手中指には、ピンクの指輪は影も形もなくなっていた。

 愛の女神と契約を交わしているマイトゥナは、リンカーコアの魔力素吸収量に限界がない。愛のエネルギーがあれば、どれだけ魔力核が消耗していても一瞬で全快できる彼女ならではの手段といえた。

「さあ、さくらんぼ! あまり時間がないみたいだから、あの銀玉を消滅させてケリをつける方法を簡潔に言うわよ」

「銀の珠を消滅させるって、そんなこと出来るの!?」

「できるわよ。都市全域という広範囲で事象と理を操作するほどの神秘が、物質世界で存在するには、あたしたちの理解を超えた途方もない維持力が必要なの。いわば僅かな狂いも許されないデリケートな代物ってわけで、そんな超精密機械に少しでも衝撃を与えたらどうなるかしら?」

「――壊れる!」

「そゆこと♪ どんなやり方でもいいから、銀玉自体に衝撃を加えて消滅させちゃって!」

「さすがマイちゃん、わっかりやすい!」

 簡潔にと言いつつ謎かけ的な答え方をされたことは、この際気にしない。

 ドーンモードのイブニングスターを構えて勢いよく急上昇するさくらの進路に、染井吉野が黒マントをはためかせて立ちはだかった。

「あと少しでボクの願いが叶うんだから、それまで待っていてよ」

「江戸っ子は、せっかちで気が早いって言ったのは君だよ」

 激しく衝突して拡散する互いの攻撃魔法。その威力と速さに殆ど差がないことを感じ、染井吉野は思わず目を剥いた。

 いくらアイシアが増幅魔力を打ち消しているとはいえ、能力は自分の方が上のはずだ。

 よく見ると、さくらの背中についているファンシーなデザインの羽が、淡く明滅していた。

「その羽……そうか、エネルギータンクの役割を」

 体内には収められないエネルギーを溜め置いておくことで、個人出力ではあがなえないエネルギーを放出することができる。それにより、高速かつ円滑、さらに強力な魔力運用が可能となるのだ。

 反面、制御が難しくなるため、さくらの能力では十分ほどの使用が限界である。

 だが銀の珠を消滅させるタイムリミットもほぼ同じだ。

「ここぞという時に使ってこその切り札だからね」

「なんで……どうして、そこまでしてボクの恋路を邪魔するんだ!」

 ここにきて初めて、染井吉野が怒りの感情を発露させた。

「ボクはただ、あの人と恋仲になりたいだけなんだ。あの人に嫌われたくないから、誰も殺さないし、大きな被害も出さないって約束した。銀の珠が発動して、ボクの望みが実現しても、誰にも害は及ばないんだよ? それの何がいけないって言うのさ!」

 夜明けの戟の魔力刃先端と染井吉野の右手が激突し、一種の鍔迫り合いのような形になる。

「さっきも言ったけど、人の心を操作してまで願いを叶えたって、ろくな結果にならないからだよ」

「決め付けないでよ。自分の観点を人に押し付けようなんて、傲慢にも程がある」

「じゃあ……ちゃんとした、御大層な理由を付け加えるよ。本来、銀の珠は人為的に出現しないもの。都市全域もの事象と理を操作する神秘が、天理に反した出現で発動されたら、その歪みによる反動が起こるかもしれない。そうなったらロンドンは、十中八九、壊滅するだろうし、その周辺にまで大きな被害が広がるのは間違いない。――君はそのことを不思議さんに言ったの?」

「そんなこと――」

「言えるわけがないよね。そんなことを伝えたら、不思議さんは君のお願いを聞き入れてくれないかもしれない。それに、もし反動による大災厄が起きるとしても、最低でも百年は後のことだから、自分たちが生きている間に何事もなければ問題ない――そうだよね?」

「天理を歪めた反動は、確実に起きるとは限らないじゃないか!」

「うん。でも確実に言えることがあるとすれば……それは、君が自分に嘘をついたってことだ」

「!!」

「銀の珠を人為的に出現させて発動させたら、天理を歪めた反動が起きる可能性がある……ボクをベースにして作られた君が、そのことに気づいていないはずはないんだ。気がついていながら、頭の隅へ追いやったのなら、それはただの臆病だよ」

「うるさい! 君なんかにボクの気持ちをとやかく言われたくはない。戯言を垂れ流す時間的余裕があるの?」

「言うことが、どんどんぞんざいになってきてるね……余裕がないのはどっちなんだか」

 なんか呼ばわりされたのはアイシアに言われたとき以来だなと、そんなことを思った。

 染井吉野の言うとおり、一刻の猶予もないはずなのに、心は冴え渡っていくばかりだ。

「ボクも弱い人間だからあまり人のこと言えないんだけど、それでも、君は間違ってる」

「好きな人に振り向いてもらえなかった負け犬が、ボクを馬鹿にするな!」

「馬鹿にだってするよ! 好きな人に受け入れられなくなるのが怖いから、災厄の可能性に気づかないフリをした。自分を誤魔化して、リスクを背負うことから逃げた。――そんな人間が恋路を口にするなんて、ボクは絶対に認めない!!」

 声を大にして言い放ったさくらの気迫に押され、染井吉野が僅かに距離を開ける。

 瞬間、それを見計らったかのように、戟の先端から膨大な魔力が溢れ出した。

『乾坤一擲!』

「ヴェスパー……ブレイカー!!」

 宵に輝く明星のごとき光芒が、瞬く間に染井吉野を飲み込んで通り抜け、二基のビットは跡形もなく消滅。そのまま銀の珠を貫くかと思われた光芒は、直前で霞のように消失したのだった。

「中和された!?」

「ボクが展開させておいた渾身の全方位魔力障壁だよ」

 多少よろめきながら、染井吉野が不敵な笑みを浮かべる。さくら最大の砲撃魔法の直撃を至近距離で受け、この程度で済んでいるのは、<倫敦>の魔気に護られているからだ。

「それなら!」

 さくらが、戟を突き出した姿勢でさらに上昇を始めた。

 全速力――銀の珠への突貫である。

 心を細くした一撃が繰り出され、魔力刃の先端が、ほんの少し障壁を通過した。

「くっ……これでも……通しきれないの?」

 障壁には魔法を中和する効果があるらしく、先端から攻撃魔法を放つことはできない。戟で直接攻撃を加えるしかないのだが、少しでも気を緩めると、突撃の反動で吹き飛ばされてしまいそうになる。

 貫通の余波で誰も近づけないうえ、障壁近くでの魔法は全て中和されるため、染井吉野の妨害を受けることがないのが救いだが、残された時間は僅かしかない。

「あと、少しなのに……っ!」

 歯を食いしばるさくら。全身全霊の一撃も、あと少しがどうしても通らない。

 そのとき、戟自体が前進を始めた。

「えっ……」

 デバイスが勝手に動き出し、ゆっくりとだが、障壁を通過していっているのだ。

 同時に、その分だけ、さくらの手からすり抜けていくのは言うまでもない。

『主と一緒に通るのは無理だが、我だけなら突き抜けられる』

「で、でも、そんなことしたらイブニングスターが!」

『武士道とは死ぬことと見つけたり! 忠誠を尽くすに値する主の為に死すのならば本望也!』

「うわっ、ちょ、ストップ! なに勝手なこと言ってるのっ」

 慌てて戟を握る力を強めるが、摩擦なく進行されてしまう。

「ボクは命をかけられるような立派な人間じゃないよ! 死んで花実が咲くものかって言うし、ボクは犠牲の上での勝利なんか望まない!」

 必死の言葉が通じたのかどうかは分からないが、不意に、デバイスの動きが止まった。

 ホッとした表情を見せるさくらだったが、

『ならば、主は我のようにはなるな……』

「えっ?」

『誰かのために死ぬのではなく、誰かのために生きる道を選ぶことだ』

「ちょ――あっ!」

 気が弛んだ一瞬、戟は少女の手を離れ、両の拳は空を掴んだ。

『短い間であったが、楽しかったぞ。――さらばだ』

「イブニングスター!!」

 夜明けの戟がするりと障壁を通り抜け、凄まじい余波が放出された。

 あっという間に、さくらは、染井吉野もろとも、地上すれすれまで吹き飛ばされた。

 天の一角で閃光がきらめく。

 見上げると、銀の珠が浮かんでいた場所は、ただ青空が広がっているだけであった。

 さくらが目を下ろすと、バリアジャケットは既になく、いつもの普段着姿。

 それが何を意味しているかは明白で、

「……ありがとう」

 とだけ呟き、さくらは澄み渡った蒼穹を瞳に映した。