第9話「魔都<倫敦>に降る桜」
ロンドンに桜が舞っていた。
桜の雨が降る。淡紅色の花びらが英国の首都に咲き乱れ、淡い色彩を放っているのだ。
ホテル<ろんどん>――朝食を終えたアイシアたちは談話室に集まっていた。
「魔法の桜ねえ……あんなものを発動させて、よっしーは何がしたいのかしら」
窓の外に広がる桜の雨を、ちらりと見やるマイトゥナ。染井吉野が<神の雷>の管理庫から奪った宝具は、以前初音島に咲いていた魔法の桜と同種類の樹であることが判明した。
現在ロンドン全域は結界に包まれており、その中心地がアリシス公園である以上、そこに魔法の桜の樹と染井吉野がいるのは間違いないだろう。
「でもおかしいです。魔法の桜が効力を発揮するには、数年単位の長い年月を必要とするんですよね? それなのにどうして二週間ちょっとでこんな」
半年前に初音島でアイシアが魔法の桜を復活させたとき、即時効果が発現したのは、あくまでもその二年前まで、樹が完全状態にあるという土台があったからだ。
「それはきっと……ここが<倫敦>だからだよ」
「ロンドンだから何だっていうんです?」
「アイシアにはまだ実感できないかもしれないけど、ロンドンは世界でも五本の指に入る魔都なんだ。この街に漂う霊的エネルギーは物凄いんだよ。ロンドン中の人々の想いや願いが、樹を植えてたった数週間で蓄えられるほどにね」
だからこそロンドンの魔法学院は、この世界の魔術協会においての登竜門であり、多くの優秀な魔法使いを輩出している。匹敵するのはチェコのプラハくらいのものだろう。
「なんにしても、これは英国教会に対する挑戦だわ。場所が分かっているのなら、今すぐにでも向かいましょ!」
「ネオパーの言うとおりです! このままだと大変なことになっちゃいます」
「何が大変なのかはともかく、ボクも二人に賛成。手遅れになってからじゃ遅いしね」
「少女たちは斯様に申しているが、マイちゃんはどうだ?」
正直どちらでもよさそうな態度のジョージに、意見を丸投げされ、マイトゥナは暫し黙考した。
「そうね……長距離探知してみたけど、とくに罠も張られていないようだし、あたしも異存ないわ。――でもその前に魔力補給させてね? デバイス制作やアイシアの特訓やらで、このところ魔力が消耗する一方だったから」
「それは構わないけど、ボクとアイシアは駄目だからね」
「何で私もダメなんですか?」
「いいから君は黙ってて」
納得いかない顔で口を挟むアイシアと、それを断固としてあしらうさくら。
そんな二人の様子を見て、マイトゥナはさも可笑しそうに笑った。
「あはは、いくらあたしでも、ラストバトルの主力とキーパーソンを直前に疲労させるようなことはお願いしないわよー」
「なら私がお相手してやろうではないか」
「うーん、ジョージでもいいんだけど……マリアちゃんに悪いしねぇ〜。そういうわけで、ネオパーシィちゃんをご指名しまーす♪」
「はあ?」
いきなり視線が集中し、眉をひそめるネオパーシヴァル。嫌な予感がする。
「聞いてたでしょ? あたしの魔力を補充するのを手伝ってほしいのよ」
「ちょっと、魔力って……誰が邪悪な魔法の手助けなんか!」
「なんだったら神の力って言い替えてもいーよ。――って、百年前にも同じこと言った気がするけど、まいっか。それじゃあさっそくいってみよー♪」
小悪魔的な笑みを浮かべ、言葉巧みにネオパーシヴァルの手を引っ張るマイトゥナ。その笑みの意味を知っているのは、さくらとジョージの二人で、味わったことがあるのはジョージだけだ。
見学せんと後に続こうとするアイシアだが、さくらに首根っこを引っ掴まれて止められた。
「マイちゃん、防音と施錠を忘れないで。あと、なるべく早く済ませてね」
「はいはいはい。ホントはノンビリやりたいところなんだけど……まあ仕方ないわね」
少々残念な様子を見せながら、マイトゥナはネオパーシヴァルを寝室へ連れ込んだ。
ドアが閉じたとき、さくらは、
「愛のエネルギーって、アンドロイドからでも摂取できるんだ……」
しみじみとそんな呟きを洩らしたのだった。
三十分後、寝室から出てきたマイトゥナは、すっきり爽やか全開といった様子だった。右手の中指にはピンクの指輪がきらめいているが、さっきは身に着けていなかった。
それよりもアイシアの目を引いたのは、疲れを知らないはずのアンドロイドが、妙に顔を火照らせていたことである。
「ああ……こんなこと、神が許さないわ……こんな気持ちのいい……じゃなくて、背徳的な……」
千鳥足だ。まだ意識が朦朧としているらしい。
ネオパーシヴァルをそんな状態にした張本人が、鼻歌交じりに談話室を見渡す。
「あれれ、さくらんぼは?」
「ちょっと調べ物があるからって自分の部屋に戻っていって、それっきりです」
アイシアの返事を耳にした途端、マイトゥナは瞬間的に広域魔力探知を発動した。
「……うわー、ラストバトルの主力が何を先走っちゃってるのよ」
苦笑い。さくらの魔力反応は既にアリシス公園内にあった。
マイトゥナがさくらを対染井吉野戦の主力扱いするのには理由がある。染井吉野は、さくらをベースに作られた人工生命体だが、それを構成する核はマイトゥナの魔力に他ならない。特殊処理を施して密接に結びついているため、マイトゥナは、染井吉野の攻撃を防ぐことはできても、ダメージを与えることはできないのだ。
彼女が染井吉野を厄介な相手だと言ったのはそれが原因だった。
「マイトゥナ、早く私たちもアリシス公園へ! ホップの呪文なら一瞬ですよね」
「さくらんぼもそれを見越して突っ走ったんだろうけど……おっと、忘れるとこだったわ。アイシア、あたしの目をじーっと見てくれるかしら」
ポンと手を打ったマイトゥナに視線を合わせられ、アイシアはきょとんと眉を寄せた。
「なんなんです?」
「大したことじゃないわよ。ちょっと保険をかけておこうと思ってね」
薄い青緑の双眸に魔力が伴い始め、次第にアイシアの意識は遠くなっていった。
淡紅色の花びらが、静かに降りしきる雨のように、ひらひらとアリシス公園を漂う。
芳乃さくらの正面にそびえるのは大きな桜の樹。その下に佇むのは黒マントの少女。マントの中は、風見学園付属の制服姿だ。
染井吉野――さくらと寸分違わぬ顔が、濃い冷笑を浮かべた。
「ふーん、一人で来たんだ……それって余裕?」
「じきにマイちゃんたちも来るよ。ボクが先に来たのは、ひとつ確かめたいことがあったからさ」
揶揄には取り合わず、ただただ真面目な視線を向ける。
「君の望みは、不思議さんを自分の恋人にすることだね」
染井吉野の笑みがさらに深まった。相対する少女の視界の隅、遠く離れたベンチにトレンチコートの男が腰を下ろしている。
「ボクのママがまだ日本の初音島にいた頃、風見学園に通っていたときに、恋仲だったクラスメイトがいたらしいんだ。でも、その人は父親の仕事の都合で海外に引っ越していったから、結局失恋に終わったんだって」
昔さくらの母親と恋仲だった相手――それが不思議さんだった。
「ふふふ……そうだよ。そして、ボクを構成する魔力の一部は、君の母親のもの。偶然この街に来ていた彼と会った瞬間、ボクの中で、君の母が当時抱いていた最も熱い想いが膨れ上がって、いてもたってもいられなくなったんだ」
「それで、魔法の桜の樹を<神の雷>の管理庫から?」
「彼には今の生活があるし、強制的にボクのものにしても意味が無い。だから、ボクはお願いを申し込んだ。もしこの街の皆がボクとあなたの仲を祝福して認知してくれたら、ボクと恋人同士になって一緒に暮らしてほしいって」
一方的な申し出だったが、不思議さんは受けてくれたという。当時応えてやれなかった想いに対する同情なのか、昔恋仲だった女性と瓜二つの容貌をした少女からの真摯な気持ちに打たれたからなのか、その辺の理由は分からない。
「でも、それはママが昔抱いていた想いであって、君とは……」
「きっかけはそうでも、今は違う。この胸に燈る、身を焦がすような強い想いが、ボク自身のものでないなんて、どうして言えるの?」
さくらは口ごもった。染井吉野の言うとおり、彼女自身の想いに昇華されたことも考えられるからだ。
「分かったよ、否定はしない。それが君の気持ちで、この事件を起こした理由なんだね」
「そうだよ。それとも……人類を新たなる段階へ――次なる進化へと導くために、とか、そんな御大層な理由のほうがよかった?」
「ううん……心から好きな人への気持ちが抑えられなくて何かを起こしてしまうのは、ボクだって経験があるからね。――でも、これだけは言える。魔法で人の心を操作して自分の願いを叶えようとしても、決してろくな結果にはならない。魔法は万能じゃないんだ。それに、いくらロンドンの魔気を糧にしたって、魔法の桜の力は絶対じゃない!」
自らの経験と、半年前にアイシアが起こした事件。だからこその断言。
「ろくな結果にならないっていうのは、君の観点でしょ? それに魔法の桜を発現させたこと自体は、ボクの目的の前段階に過ぎないよ」
「なっ……他に何かあるっていうの」
「すぐに分かることになるよ。ボクとしては、それまで大人しくしていてくれると嬉しいんだけど」
「……イブニングスター」
『了承!』
首から提げた桜色のビー玉がきらめき、さくらが魔法少女姿に変わる。
バトン型ステッキから薬莢が二個飛び出し、デバイスがスターモードに変形した。
星の錫杖を構えるさくらを瞳に映しても染井吉野の笑みは崩れなかった。
「カートリッジシステム付きの魔法デバイス……それでボクをどうするつもりなのかな」
「チェリーブロッサム・トルネード!」
吹き荒れる桜の花びらが染井吉野を包み込む。竜巻の中で微動だにしない少女へ、続けざまに錫杖の先を向けた。
「スターバスター!!」
戦闘開始直後に「個人要塞」を葬った魔法コンボ。手加減一切無しである。
星屑のスパークが収まると、右手を突き出した姿勢の、無傷の染井吉野が立っていた。
「少しは通ると……思ったんだけど」
「残念ながら、ボクに能力低下とか状態異常系の魔法やスキルは効果が無いよ。デクラインタイプの補助魔法だって同様さ」
そうなるとアイシアのハッピートリガーも効果は無いのだろう。
「そっか……でも、それを聞いて安心した」
「ん?」
「魔法防御を低下させてノーダメージというわけじゃなかったってことだからね」
「ポジティブなのはいいことだけど、安心するのは早いよ」
染井吉野が繰り出した手の平から、淡紅色の光球が飛んだ。
すかさずシールドを展開させるさくらだが、
「え――わあぁっ!」
粉砕されこそしなかったものの、あまりの衝撃に吹き飛びかけた。
デバイスの力で防御魔法の効果も上昇しているはずなのに、なんという威力か。染井吉野の魔力は、二週間前の彼女と比べ、段違いに増幅していた。
「驚いた? いまや魔法の桜を通じて、<倫敦>の魔力がボクに流れ込んでいるんだ。以前のボクと一緒にしないことだ」
「それは、ぞっとしないね」
さくらは内心舌を巻いた。稀代の魔都であるロンドンの魔力を一身に受け、染井吉野はそれを完全に制御しているのだ。並の魔導師なら膨大な魔気に呑まれて暴走は免れない。
「ふふふ、これだけじゃないよ」
「――――っ!?」
突然、全身を異様な負荷が襲い、さくらは思わず片膝をついた。
「こ……れは」
「魔法の桜はボクのために咲いている。ボクの目的を邪魔しようとする相手には、桜の樹が魔力重圧を絶え間なく発生させるんだ」
「さっきから説明のオンパレードご苦労様……それって余裕?」
「うーん、自己顕示欲が強いのかも」
人差し指を口もとに添え、可愛らしく小首をかしげたのも束の間、離した指先から淡紅色の光球が飛翔した。
桜の樹が発する重圧の負荷で、思うように体が動かないさくらは、かろうじて防御魔法で防いだものの、衝撃に耐え切れず地を転がった。
「あいたた……これはまずいかも」
「――んもう、せっかちさんはしょうがないわねえ」
新たに加わった声。二つの双眸の先でシャボン玉の泡が溢れ、複数の人影が姿を現した。
自称現代の賢者。<神の雷>のメンバー。そして、二人の魔法使い。
「よかった! さくら、無事だったんですね」
アイシアは既にバリアジャケット装着済みで、頭上近くをエメラルドが浮遊している。
そんな一同を見渡し、染井吉野はふてぶてしく笑顔を振りまいた。
「いらっしゃい、やっと役者が揃ったね」
「みんな、気をつけて。魔法の桜が負荷を……」
「はいはい、そんなことは先刻承知よ。ジョージ、あたしのガードはよろしくね♪」
軽くウインクし、マイトゥナは左手を頭上へかざすと、その手首に右手を添えた。
「愛の女神よ、敬虔なる愛の信徒マイトゥナの名において、加護を与え給え――」
少女の全身が燐光を放った途端、さくらの体を覆っていた負荷が一瞬で消失した。
「魔力重圧はあたしが抑え込んでおくから、後は頼んだわよ、さくらんぼ」
「さっすがマイちゃん、花のお江戸は日本晴れー♪」
拍手喝采を送りたい気分だった。ロンドンの魔気を蓄えた魔法の桜が発する負荷は、一流の魔導師でもどうすることもできないほどのエネルギーなのだ。それを完全に抑え込んで、維持できるなど、大魔法使いたるマイトゥナたればこそである。
「でもこれでマイちゃんは動けないよね」
染井吉野が余裕たっぷりに言う。マイトゥナさえ手出しできなければこちらのものだ。
「ボクがいる。君の思い通りにはさせない」
すっと星の錫杖を構えるさくら。
「わ、私だっています。いこう、ハッピーマテリアル!」
『Yes Ma'am!』
斜め後ろでアイシアが両の拳を握って気合を込め、デバイスがそれに応える。
そんな様子を愉しそうに眺め、
「それじゃあ……ボクの目的が成すまでの間、遊び相手になってもらおうかな」
ふわりと中空に浮かんだ少女の周囲に、魔力生成された六基のビットが出現した。
「魔都<倫敦>の申し子――染井吉野の力をとくと思い知らせてあげる」