第4話「たいせつなひと」
「染井……芳野?」
「そうだよ、芳乃さくら。もう君がこっちに来てるなんて、ふふ、マイちゃんも打つ手が速いね」
「マイちゃんを知ってるんだ」
「ボクは君だからね。そして、大人しく捕縛されるつもりもない」
染井吉野と名乗った少女の青い双眸が、さくらの碧眼を一直線に捉えて離さない。
さくらは肉体の異変を感じ取った。両手を見ると、狼とおぼしき動物のそれが映る。戦慄が走る間もあればこそ、全身が獣へと変貌していく実感の恐ろしさよ。
「波動関数干渉系の精神魔法!?」
古来より、瞳には不思議な力が宿ると言われている。強い魔力を持った者が、魔法の力を込めて「視る」ことにより、観測対象の構成を変質させることが可能だとしたら――
さくらは必死に自分の姿をイメージした。視覚による変質と、心象による復元。それは魔力と精神力を含めたイマジネーションの戦いである。
「……へえ」
感心したような呟きを漏らしたのは染井吉野。荒い呼吸を整える金髪碧眼の少女は、一寸の狂いもなく芳乃さくらの姿であった。
「江戸っ子は、大きなお灸をすえられたって、熱くないと強がるものさ。今度はこっちの番だよ」
勢いよく右手をかざすと、噴水の水が巨大な泡と化して水上の少女を包み込んだ。
「つかまえた!」
「江戸っ子は、せっかちで気が早い」
染井吉野の手が水泡の壁に触れた途端、飛沫となった。目を見張るさくらに、飛散した無数の水槍が降り注ぐ。軽快な動作で避け捌く背後から、水槍に隠れるように移動していた淡紅色の光球が飛来した。
「ちょこざい……なっ!?」
咄嗟に展開させた防御魔法が一撃で粉砕される。光球も破裂したが、反動で吹き飛んださくらは地面に身体を叩きつけ、苦痛に顔をゆがめた。
「な、なんて魔力なの」
地に両手をついて上体を起こしたとき、目に入ったのは、噴水のそばで風になびくトレンチコート。さくらは大声で呼びかけてみるが、返事は無言の眼差しだった。
仕方なく、中空に浮かんだままの少女へと視線を移す。
「どうして不思議さんと一緒にいるの。君の目的はなんなの?」
「君の知らない過去に答えは在る。そういうことだよ」
「それはいったい……」
「ええっ、さくらが二人!?」
馴染みの声が会話を掻き消した。黒マントを羽織った亜麻色の髪の少女が、驚きの表情で顔を上下させる。
「アイシア、来ちゃ駄目!」
まだ半人前とはいえ、アイシアも魔法使いの端くれである。近くで結界が張られていれば感知できるし、遮断系のものでなければ結界内に入る事も可能だ。
不思議さんと、自分そっくりの容姿をした謎の魔法使い。立て続けの衝撃が、さくらにこの事態を失念させていた。
「君は初顔だね」
「ど、どっちのさくらが本物なんですか……きゃああっ!」
「アイシア!」
足元から湧き出た触手に巻きつかれたアイシアが、ぎりぎりと胴体を締め付けられて苦鳴をあげる。
助けようと駆け出すさくらの足元からも複数の触手が出現し、進路を阻んだ。
「く、苦しい……やめて……お願いッ」
掠れた息を漏らしながら強く念じた瞬間、アイシアの全身が淡く発光した。身体を締め上げていた触手にも浸透してゆき、瞬く間に光の粒子と化して散っていった。
発光がおさまり、何が起きたか分からないといった表情のアイシアが、きょとんとまばたきするばかりだ。
「うそ……」
これには唖然とした顔つきになる染井吉野。その身体を、桜色にきらめく光の鎖が縛りつけた。光鎖はさくらの手の平から伸びていた。
「無駄だよ」
余裕たっぷりの冷笑。華奢な手が触れて数俊の後、桜色の鎖は呆気なく砕け散った。
「この拘束魔法は力押しじゃ破れないはずなのに……まさか、そんな短時間で解除したっていうの!?」
「さくら、危ない!」
「えっ……わああっ!!」
動揺するさくらに迫る淡紅色の光球。アイシアのおかげで直撃は避けたが、バランスを崩したところへ二撃目が飛んできた。
回避が間に合わず、防御も突き破られると踏んださくらは、ダメージ覚悟で相殺目当ての攻撃魔法を繰り出そうとしたが、その必要はなかった。
突如として眼前に展開された魔力障壁が、淡紅色の光球を跳ね返したのだ。
「ふーっ、間に合ったみたいね♪」
「マイちゃん!」
間一髪の救援はマイトゥナだった。その後ろでは、偉そうに腕を組んだジョージが、「むう……本当にさくら嬢と瓜二つだな」と好奇心丸出しで感心していた。
「みんな、ひとまず撤退よ。闇夜の翼よ、我に力を……『ホップ』!」
マイトゥナが子供の玩具のようなステッキを振ると、周囲に無数のシャボン玉が浮かびあがる。次の瞬間、マイトゥナたちの姿は影も形もなくなっていた。
『ホップ』の呪文はマイトゥナ独自の転移魔法。魔方陣を展開させることなく即時発動が可能で、任意の複数対象もまとめて瞬間移動させることができる。
静けさを取り戻した噴水近くの地面に、黒マントの少女がふわりと着地した。
「流石に引き際が迅速。次は対抗手段を整えて本腰入れてくるだろうから、こっちもまごまごしている余裕はないかな」
片手を顎に添えながら、先刻の戦闘を思い出して目を細める。
「アイシア……だったっけ。彼女のこと、少し調べてみる必要がありそうだね」
「……………………」
「あ……っ。殺すつもりはないから大丈夫だよ?」
それまでの不敵な表情が、いま初めて不安と怯えを浮き彫りにしたものに変わった。
親に叱られるのを恐れる子供のような、そんなある種の可愛らしさが滲み出ていた。
トレンチコートの男は無言で彼女を見つめていた。どう見ても両目が異様にディフォルメされた黒猫のぬいぐるみという顔だが、不思議と哀しみの色を佩びているように思える。
「あなたに嫌われたくないから、ボクは誰も殺さない。お願いだからそんな悲しい顔をしないで……ボクはただ、あなたのそばに居たいだけなの」
「…………」
「だから、誰も殺すような真似はしない。多少傷つけることにはなるけど……それだけは許して。お願いだから、お願いだからボクを嫌いにならないで……」
小刻みに肩を震わせ、少女は男の胸に顔をうずめて泣きだした。演技の様子など欠片もない真摯な態度と純粋な涙だった。
しゃくりをあげる少女の頭を、ぬいぐるみのような黒く太い手が優しく撫でた。
ホテル<ろんどん>のさくらの部屋で、当人を含む三人の少女と一人の青年が思い思いの場所に腰を下ろしていた。
「くぅぅ〜、夕餉後の番茶は五臓六腑に染み渡るねえ。コーヒーと紅茶も悪くないけど、やっぱり日本茶が一番しっくりくるよ」
湯飲みを両手に持って感嘆と顔を綻ばせるさくら。テーブルにはどこかの銘菓らしい胡桃饅頭や金鍔など、様々な和菓子が置かれている。いずれも日本から取り寄せたものらしい。
「それにしても怪人の正体が、ボクをベースにした魔法生命体だったなんて……道理でボクが編み出したオリジナルの特殊拘束魔法が簡単に解除されたわけだよ。完全に人間と変わりない生命体を生み出すのはいいけど、なんで容姿をボクにするのさ」
湯飲みをテーブルに戻し、マイトゥナを軽く睨む。隣からはアイシアが固焼きをバリボリ噛み砕く音が聞こえてきて、そこはかとなくシュールな雰囲気を演出している。
「だって可愛い娘のほうがいいじゃない。それに本物のさくらんぼは、いくらあたしが迫っても愛の行為を受け入れてくれないし」
「うむ、至極当然の理屈だな」
「……愛の行為ってなんです?」
「ジョージとアイシアはちょっと黙ってて。まあそこには深く突っ込まないでおくけど、とりあえず自我があるから勝手に行動するのは問題ないとして……彼女は一体なにをしようとしているの。<神の雷>の重要施設から宝具を奪ったみたいだし、おかげでボクが犯人だと間違えられて厄介なことになってるんだから」
その気になれば軍や警察をも動かせる権限を持つ<神の雷>だが、基本的には非公式組織扱いなので表立って活動することはない。加えて宝具関連の管理施設は存在自体が機密事項ゆえに、まともに外を出歩けない状態にはならないことが救いといえる。
「何が目的なのか分かれば苦労はしないわよー。うーん、エッセンスとしてさくらんぼのお母さんの魔力を混ぜてみたのが裏目に出たかしら?」
「呆れた……そんなことまで試してみるあたりがマイちゃんらしいよ」
「でも欠陥はないんだってば。絶対とは言わないけど、完璧なのは確かなのよ。だから出かけたきり帰ってこなかったのには驚いたんだけどね」
マイトゥナは考えなしにアバウトな実験をすることはない。とくに魔法においては、知識経験実力どれをとってもプロ中のプロであることをさくらはよく知っている。
それを考慮すると、何らかの外的要因が絡んだ可能性が高いと見て取れるのだが……
「そうだ、彼女の魔力の大きさはなんなの? ボクをベースにしているとはいっても、ちょっと尋常じゃないんだけどなあ」
「奪った宝具の効果と考えるのが妥当だと思うわよ。魔力強化のためだけに<神の雷>の重要施設から強奪に及ぶなんて考えられないから、あの娘の目的はそれだけのリスクを犯してまで達成したいことになるんだろうけど……」
二人して腕組みして頭を悩ませるが、これといって見当が付かない。
「あ、噴水のそばに立ってた、トレンチコートを着た背の高い……黒い猫のぬいぐるみみたいな顔した人。さくらんぼはあれを知ってたみたいだけど、どうなの」
「さすがマイちゃん、不思議さんに気づいてたんだ」
明らかにミステリアスな風貌をしているのに、意識して探すつもりでなければ、彼がそこにいることすら気づかないであろう不思議な存在感。アイシアとジョージは気づかなかったらしく、言われて初めて「そういえば誰かいたような」と思い浮かべる有様だ。
「でもまあ随分と変わった名前ね〜」
「違うよ。ボクが勝手にそう命名しただけだから、本当の名前は知らない。もちろん素性も分からない」
初音島で二回ほど目撃しただけで、直に話をしたことはないのである。
「ただ、悪い感じの人じゃなかった……それだけは断言できるよ。彼女と一緒にいた理由は分からないけど」
「さくらんぼがそう言うなら間違いなさそうね。ま、今日はこの辺にしておきましょうか」
これ以上色々考えても仕方ないと判断したのか、にっこり笑って話を打ち切るマイトゥナ。
さくらは背伸びしたあと徐にテーブルへ手を伸ばすが、数枚の皿の上で空振りした。
「お菓子なら私とジョージで全部食べちゃいましたよ。おいしかったです」
「うにゃあ……世知辛い世の中でござんす」
「あはは、まあ話に参加できなかったから仕方ないわよ。そうそう、さっきも言ったとおり、あたしはこれからジョージと共同作業に徹するから邪魔しないでね」
染井吉野に対抗するためのものを作り上げるらしい。それには魔法だけでなく高度な科学技術も必要らしく、もともとジョージはそのために呼んだのだという。
「今日の昼下がりには粗方の準備が終わったのよ。さくらんぼたちが捜索から帰ってくるのを待っていたら、アリシス公園の方角に結界を感知したから急いで駆けつけたってわけ」
「そういえば彼女、染井吉野って名乗ってたけど……マイちゃんが名付けたの?」
「さくらんぼのフルネーム繋がりで吉野山の吉野桜に引っ掛けてみたの。なかなかセンスあるでしょ♪」
「……マイちゃんって変なところでオリエンタルユーモアがあるよね」
「そう言うさくらんぼは一応イギリスの血が流れてるくせに、日本とアメリカの印象ばかり目立つんだから」
「人は生活圏内の文化に適応するものなのさ。この国はお婆ちゃんの故郷だけど、ボク自身は殆ど来たことがないし」
「さくらってハーフじゃなかったんですか」
「確か、さくら嬢の祖母は私やマイちゃんと同じイギリス人で、祖父が日本人。その間に生まれた長女の夫がアメリカ人ではなかったか?」
「つまりさくらんぼは、四分の一がイギリス人。四分の一は日本人。で、二分の一がアメリカ人ってことよ」
ちなみに父親は婿養子なので、さくらの名字は芳乃のままというわけである。
ひととおり話も済んで部屋を出て行くマイトゥナとジョージ。それに続こうとしたアイシアが、背中から待ったをかけられ、億劫そうに振り返った。
「なんですか、さくら」
「散々飲み食い散らかしておいて、後片付けもせずに出て行くつもりなの?」
「えーっ、ジョージだって同じなのに、どうして私にだけ言うんですか。そんなのおかしいです!」
「君って人は……せっかく昼間のことを謝ろうと思ったのに」
「えっ?」
「もういいよ。ボクがやるから自分の部屋に戻って構わないよ」
「…………あっ」
ようやく思い至ったか、アイシアはあわててさくらの手を止めた。
「や、やっぱり私が片付けます、片付けさせてくださいっ」
「……」
一瞬目をぱちくりさせたさくらだが、
「一緒に片付けよう」
微かにホッとしたような表情でアイシアの手をとり、嬉しそうに口元を微笑ませた。