第3話「染井吉野」
昼下がりの陽光に照らされた、セントラルのマスケット通り。
「先程の喫茶店で口にしたエクルズ・ケーキは実に美味だった。パイをかじった時に口腔で広がるドライフルーツの香りが何とも味わい深い」
「ボクの食べたアップル・クランブルも美味しかったよ。焼けたりんごの風味と、口の中で溶けていくようにくずれるクラムのハーモニーが絶品だったなあ」
舌鼓を打った感覚を思い出しつつ、楽しそうに会話するジョージとさくら。そんな二人の後ろを数歩遅れでついて歩く北欧少女の表情は、対照的にとても不機嫌な様子だった。
「あの、二人とも、怪人の捜査をする気あるんですか?」
とうとう我慢できずに疑問をぶつけるアイシアに、お菓子の話で盛り上がっていた二人が、きょとんと振り向いた。
「どうしたのアイシア。そんな不満そうな顔して」
「どうしたの、じゃありません! 朝から商店街見て回ったかと思えば、小レストランで時間のかかる 昼食をとって、挙句に喫茶店でのんびりと午後のティータイム。ふざけてるんですか!?」
「これでもマイちゃんの言うとおりにはしているぞ」
「それは……そうですけど……」
マイトゥナから言われたのは、無闇に探し回ってもアテはないから、適当に街中を散策して怪人が現れるのを待っていればいいという、とんでもなくアバウトなアドバイスだった。
マイトゥナ自身は何か色々と準備があるようで捜索には加われないという。
「でも、だからって、食事に時間をかけてどうするんですか」
「食事をリラックスして愉しむのは紳士として当然の嗜みだ」
「アイシアだって美味しそうに食べてたじゃない。輪切りにしたバナナとコーヒー風味の生クリームが上に載ってたやつ。確か……」
「バノフィー・パイ。とってもおいしかったです! 今度日本に行ったら美春に食べさせてあげたいくらい…………って、そういうことじゃなくて!」
お菓子どころか紅茶の味まで思い出しかけたところで我に返った。直後、瞬間湯沸し器のごとく頭を沸騰させる様は爽快である。
「にゃはは、ゴメンゴメン。イギリス来るの久しぶりだったから、ついあちこち目が行っちゃって」
「いやしかし、少し帰郷しない内に目まぐるしく変わるものだ。それでいて文化や風土の大事な部分はちゃんと息衝いている……流石は大英帝国、我が故郷」
「も、もうっ。ついていけません、私一人で真面目に捜索します!」
怒気をはらんだ捨て台詞を残して一目散に駆け出すアイシア。
「あちゃ〜、彼女の小生意気な態度を見てたらつい……追いかけるよジョージ」
「ティータイム後の運動にはピッタリだな」
遠ざかる小柄な体躯を視野に入れながら、さくらは、どう謝ろうかと思案を廻らせていた。
アイシアは怒りに任せてマスケット通りの裏路地を突っ走っていた。怪人が潜むなら怪しそうな場所に違いないという短絡思考である。
「さくらもジョージもいい加減なんですから……きゃっ!」
前をよく見ていなかったためか、何かにぶつかったらしい。反動で尻餅をつき、顔をしかめて見上げると、一人の少女が立っていた。
歳は十代半ばあたりだろうか、セミロングに近い、肩ほどで広がる栗色の髪。額に巻いた赤い鉢巻と、全身を覆う小麦色のローブがやたらと目を引いた。
「大丈夫? ちゃんと前を見て走らないと危ないわよ」
結構な速度でぶつかられた筈なのだが、少女はきりっとした顔で平然としている。
アイシアが起き上がったとき、その後ろからさくらとジョージが追いついて足をとめた。
「やっと追いついた……君は本当に直情だね」
「お、大きなお世話です!」
「あなたは!」
声が重なった。一方はぷいっとそっぽを向いたアイシアのもの。もう一方は――
それまで精悍な顔つきをしていた少女が、愕然と顔を震わせている。きょとんとするさくら。ジョージは少女を見て、「おや?」と一瞬首をかしげた。
「見つけたわよ、悪魔の力に染まった魔女め!」
「…………ぼ、ボク?」
物凄い剣幕で睨まれ、さくらはぽかんと自身を指差した。突然の事態に呆気に取られるアイシアとジョージを見向きもせず、少女はさくらに向けてビシッと指を突きつけた。
「白々しい、邪悪な魔法で管理庫から強奪した宝具を返してもらうわよ!」
「サッパリ要領を得ないんだけど……二人とも何か言ってやってよ」
「さくらがそんな極悪人だったなんて、見損ないました!」
「魔法の徒として宝具が欲しいのは分かるが、余所から奪うのは感心せんな」
「……おいおい」
左右から非難の眼差しを受け、さくらはジト汗を浮かべて口端をひくつかせた。
「っていうか、君だれ?」
「あたしはネオパーシヴァル。<神の雷>のメンバーよ」
途端、さくらとジョージの表情が険しくなる。アイシアだけが考えるような仕種をした。
「あれ、それ聞いたことがあるような……」
「英国教会の審問機関だよ、魔法使いにとって厄介この上ない組織」
英国教会の誇る審問機関。魔法や錬金術といった、彼等の観点から見た異端に対する排除、抹殺を目的とした実力行使部隊――それが<神の雷>である。
「思い出しました、魔法を悪と決め付けて迫害する不届き者の集団ですね! 魔法は人を幸せにするためのものなのに!」
「そうだそうだ! 私は魔導と科学を探求したいだけだというのに、貴様らときたら異端だの邪悪だの、どれだけ煮え湯を飲まされてきた事か!」
「うわ、ちょっ、二人とも……逃げるよ!」
言うなり踵を返して走り出すさくら。同時に何事か呟くと、アイシアとジョージもくるりと反転してさくらと並ぶように駆け出した。
「わ、わ、体が勝手に……!? さくら、何するんですかっ!」
「魔法を解きたまえ、私はまだ言い足りないぞっ」
「解かないといけないのは誤解だよ、挑発してどうするの」
さくらは心の中で盛大な溜息をついた。正論による理詰めで身の潔白を証明して、ついでに有益な情報も得るつもりでいたのだが、とんだご破算である。
「待ちなさい、この背教者ども!」
バッとローブを脱ぎ捨てて地を蹴るネオパーシヴァル。ローブの下に隠れていたのは、何故か日本の体操着姿であった。ぴっちりとした赤いブルマがまぶしい。
ちらりと背後を窺ったアイシアが驚きの声をあげた。
「は、速いっ!」
「異常だね……とても人間の出せる速度とは思えないよ」
千数百メートル近い差があっという間に半分も縮まっていた。このままでは追いつかれるのに二分とかからないだろう。
「ふっ、私の力を見せてやろうではないか」
威勢良く呪文の詠唱を始めるジョージ。耳を傾けていたさくらが眉根を寄せ、すかさず服の裾を引っ張って中断させた。
「何故止める!」
「それ、ブローニング・フロアでしょ? そんな高威力の広範囲攻撃魔法をこんなところで……周辺の被害くらい考えて。それに、誤解を受けた状況で直に戦闘するのはマズイから逃げてるんだよ」
「ふん、それなら――」
パンと両手を胸の前で合わせて何事か呟くと、身の丈三メートルはある岩の巨人が地面から現れ出た。
「ゴーレム!? こんなものを召喚するとは……おのれ魔女!」
進路を塞がれて激昂するネオパーシヴァルを尻目に、ジョージはニヤリと笑った。
「足止めをしておけばよいのだろう?」
「うーん……ボクの仕業だと思われちゃってるのが難点だけど」
「贅沢を言うな、このまま逃げ切れるなら問題なかろう」
「……そうもいかないみたいだよ」
振り返ると、ネオパーシヴァルがゴーレム相手に格闘戦を繰り広げていた。それも、あろうことか、圧倒している。巨体が繰り出すパンチを片腕で受けきり、反撃に放った回し蹴りは岩の塊を砕き散らす。
「なんと!」
「どう考えても生身の人間じゃないよ、あれは」
「私に任せてください!」
「えっ、アイシア、なにを――」
「えーーーーーーーーーーーーーーーーーい!!」
さくらが何か口にするより早く、アイシアは渾身の力を込めて魔法を発動させた。
次の瞬間、周囲を空気の渦が巻いた。おそらくは突風を生み出して吹き飛ばすつもりだったのだろう。だが、発生したのは中型の竜巻だった。
たちまち全員が巻き込まれ、それぞれの悲鳴が散り散りに遠のいていった。
「いたたた……」
顔をしかめて起き上がるさくら。咄嗟に魔法で風圧を殺したものの、したたかに体を打ったのでそれなりに痛い。辺りを見回すと誰の姿もなかった。
「守るって言ったその日に、対象者自身によって離れ離れになってちゃ世話ないね」
苦笑しながら、服に付いた埃を手で払ったとき、彼女の青い瞳が大きく見開かれた。
前方に遠ざかるトレンチコートが眼球の水晶体に映った瞬間、さくらは駆け出していた。
「まさか……まさか!」
息をきらせながら全速力で走る。周囲の景色など目に入らない。気が付くと、アリシス公園の広場だった。噴水のそばに佇むトレンチコート姿を見て、さくらは叫んだ。
「不思議さん!!」
トレンチコートを着込み、深くかぶった帽子の下の顔は黒い猫に酷似しており、身長は成人男性のそれより高い。それでいて、意識しなければ目立った雰囲気は感じ取れないのだ。
彼が怪人なのかという疑問はすぐに破棄された。さくらは不思議さんのことをマイトゥナに話した事は一度もない。
花びらが舞った。瞬く間に淡紅色をした桜の花びらが周囲を覆い尽くす。それなのに人通りは皆無。いつの間にか結界が張られていたらしい。
気配を感じ、さくらは首を上向けた。迸る噴水の上に、黒マントに身を包んだ一人の少女が浮かんでいた。
「君は……だれ?」
唖然とした視線は少女の顔に釘付けだ。マイトゥナは確かに言った、一目瞭然であると。
そう、少女の容姿は芳乃さくら瓜二つであった。
悠然とさくらを見下ろし、少女はこの上なく不敵な笑みに口元をゆがめた。
「ボクは、染井吉野――」