第1話「魔法使いは霧の都に集う」
英国――首都ロンドン。
澄んだ青空を映すテムズ川の橋の上で、少女がぼんやりと空を眺めていた。
さらさらとしたアッシュブロンドの髪に紅玉色の双眸。透き通るような白い肌は、彼女が北欧の人間であるということを容易に想像させる。
そして、小柄な体躯を膝下まで覆った黒マントが、その容姿と相まってミステリアスさを際立たせていた。
「やっほー、アイシア」
橋の向こうから呼びかけられ、黒マントの少女はびくんと身体を震わせて我に返った。
「さくら!」
自分の方に歩いてくる金髪碧眼のツインテール少女へ、ミステリアスな雰囲気を吹き飛ばすかのような、明朗な表情を綻ばせて手を振る。
程なくして橋の真ん中で対面する二人の少女。
アイシアと、芳乃さくら。
魔法使い見習いと魔法使いという間柄にして、友人の仲でもあった。
優雅に流れるテムズ川を眺めながら、和気藹々と語らいあう二人。
「どう、魔法の勉強はちゃんとやれてる?」
「はい! マイトゥナの授業はとても面白くて分かりやすいです」
「そっか、マイちゃん真面目に教えてくれてるみたいだね」
マイトゥナとは齢九百歳を数える魔女で、ロンドンの魔法学院の臨時講師を務めている。そのため、さくらとアイシアの祖母とは深い交友関係があったらしい。
現在アイシアは魔法学院に通って魔法の勉強をしており、衣食住はマイトゥナの経営するホテル<ろんどん>で賄ってもらっている。
ちなみに<ろんどん>のオーナー兼受付嬢がマイトゥナの本業だ。
「この間は魔法で結界を張る練習していたんですけど、無理に強化させようとしたら、結界の完全破壊になって焦りました」
「……そ、それはすごいね」
ジト汗を浮かべるさくら。アイシアの腕はまだまだ未熟だが、さくらの祖母の親友であった魔法使いの血を引いているせいか、素質はあるようなのだ。
「後ろで見ていたマイトゥナもびっくりして大口開けてました」
「まったく、魔法を理論でなく感覚で組む子はなんとも恐ろしい」
「それどこのクロノ君?」
「君に突っ込まれるとは思わなかったよ……」
「そうださくら、マイトゥナがどうやって魔力を補給しているか知りませんか?」
「え……な、なに、どうしたの、そんな藪から棒に」
いつも冷静なさくらの珍しいどもり具合。幸いにしてアイシアは気づかなかったが、意表を突かれたというよりは、聞かれたくない話題を持ち出されて言葉につっかえた様子だ。
「栄養のある食事を摂って体を休めての自然回復が基本なのに、マイトゥナは何か別の方法で補給してるみたいなんです。訊いても教えてくれないし、さくらは知ってますか?」
「知ってるけど、君には教えられない」
強い口調で言ったわけでもないのに、アイシアは眉をつり上げた。
「ど、どうしてですか! 私が未熟半熟のびのびざかりだからですか? それともまだ魔法の心構えがなってないからですか!?」
「ううん、そうじゃない。はっきりいって君には必要のないことだからだよ。誤解のないように言っておくけど、それはボクにとっても同じなんだ」
「でも、さくらは知ってるんですよね。さくらだけ知ってて私が知らないのは不公平です! 教えてくれるまで梃子でも納得しませんよ!?」
「君は本当に頑固だね」
「だ、だ、だ、誰がバカですか!」
「別に馬鹿にしてるわけじゃないけど……そんな言い方に聞こえた?」
敢えて否定はしないのが少し意地悪なところかもしれない。そもそも頑固を馬鹿と聞き違えるわけはないのだろうが、アイシアなら違和感がないと思うのは失礼だろうか。
「だって、青い猫型ロボットが似たようなセリフを」
「……君は実にバカだな?」
「そう、そうそう、それですっ」
「懐かしのチョーク投げ!」
「あいたっ! い、いきなりなにをするんですかっ」
さくらの投げたチョークが額に当たり、涙目で抗議するアイシア。至近距離とはいえ、手首のスナップが利いているためか、結構な痛さだ。
「なにを、じゃないよ。なに漫画なんか読んでるの。廊下に立ってなさい」
そのネタを組み込むのはさくららしいが、あいにく立っているのは橋の上である。
「さ、さくらだってたくさん読んでるじゃないですか! 私にだって漫画を読む権利くらいあります」
「ボクはいいの、ちゃんとやることやってるから。それに権利っていうのは、義務を果たした人間だけが口にしていい言葉だよ、わかってる?」
「う……でも、面白いんですよあの漫画」
「いや、あのね。何故そこから「でも」に繋がるのか教えて欲しいんだけど」
苦笑しながら口元を引きつらせ、そこでさくらは少し考える。
確かあの漫画は、途方もなく便利な道具の力に頼った主人公その他が、最後にしっぺ返しを食って泣きを見ることになったり、道具の力に頼り切ってはいけないと自省を促させたりする、いわば反面教師となっている内容が基本だ。
つまりアイシアにとって、魔法の何たるかに通ずるちょうどいい道徳的教材として機能するのではないか。
「ねえアイシア、その漫画を読んで何か感じたことはないかな」
「私も青い猫型ロボットを見習って魔法で人助けを――」
「チョーク投げ二連!!」
「いたっ、いったぁーーーーーッ!」
期待を裏切られるのは辛いものである。
「ところで、ジョージってどんな人なんですか?」
テムズ川のほとりにあるベンチに腰を下ろし、近くの売店で買ってきたソフトクリームを口にするアイシアとさくら。
「うーん……一言で言うなら、天才、かなぁ。科学技術と魔法の双方に精通してる」
「すごいです、さくらと同じなんだ」
「むむむ、すごい人なのは確かなんだけど……同じにしてほしくないなあ」
とてつもなく嫌そうな顔をして言ったところに、
「ええいっ、やっと見つけたぞ!」
突然空から降ってきた声に目をやると、一人の男が腕組みをして直立しているではないか。
二十代後半といったところか、容姿は美男子と呼んで差し支えなく、英国貴族風の洒落た服装もなかなか様になっている。
ただひとつ、立っている場所が街灯の上だということが全てをぶち壊しにしていた。
「あ、噂をすれば」
「えっ、あの人が?」
周囲の人間が物珍しそうな視線を送ったり、目をあわせないように通り過ぎたりする反応を返すなか、さくらは平静そのものだった。
アイシアもとくに不審がっていない。日本の初音島で、魔法少女のコスプレをして公園の木箱から飛び降りた経験のある彼女からしてみれば珍妙と感じないのだろう。
「とうっ」
男が街灯の上から飛び降り、空中で優雅に三回転して着地してのけた。
アイシアは目を輝かせて惜しみない拍手を送り、
「すごい、すごいです! さくらの言ったとおりだ」
「そういう意味のすごいじゃ……いや、そういう意味でもあるんだけど」
さくらが苦笑いしているうちに、大股で近づいてきた男がベンチの前で足を止めた。
「どうしてこんなところで暢気にソフトクリームなど食っているのだ!? おかげであちこち探し回る羽目になってしまったではないか!」
「いや、SORRY。アイシアと談話に花を咲かせていたら食欲を刺激されちゃって」
「アイシア? すると君がマイちゃんのもとで魔法勉学に励んでいるというお嬢さんか」
男がさくらの隣へと視線を移し、興味深げな顔つきを見せる。
「私はジョージ・デッカー。科学と魔法を極めんと日夜研究に勤しむ、現代の賢者だ」
「わ、私はアイシア。科学はサッパリですが、立派な魔法使いを目指して頑張っています!」
初対面の相手に「現代の賢者」などという、どこかの文芸部部長の名言にも似た、冗談としか思えない大真面目な自己紹介。それを真剣に受け返すアイシアも流石といえた。
「うーん、ジョージはすごいです!」
「HAHAHAHA! もっと褒めてくれて結構」
かつて不老不死の研究をしていたが実現には至らず、しかし若返りの秘術には成功し、妻とともにかれこれ二百年近く生きているということ。
イギリス人だが、百数十年前のとある事件において渡米し、現在もアメリカのボストンに在住。天才科学者として数多の博士号を取得していること。
ジョージの語る、そのどれもがアイシアにとっては感嘆すべき事柄であった。
「これで性格がもう少しまともだったらよかったんだけどね」
天は人に二物を与えずとはよく言ったものだと、さくらはしみじみ感心を隠し得ない。
「そういえば、マイトゥナはどうしてお二人を呼んだんですか?」
「いや、頼み事があるから来てほしいと言われただけなのでな」
「ボクも右に同じ。マイちゃん勝手なところがあるからなぁ……」
マイトゥナから電話がかかってきたのは数日前。真剣な様子の声だったので、ジョージは取り組んでいた実験を中断し、さくらは学会各所に休暇届を出し、そしてイギリスへやって来たのである。
もっとも、ジョージにとっては里帰りとも言えるのだが。
「それにしてもマイトゥナ遅いです」
「ふむ、確かに遅すぎるな。もう日が傾いているというのに」
「……え〜と、もしかして本気で言ってる? ここは待ち合わせ場所だったかなあ」
苦笑をまじえたさくらの言葉に、アイシアとジョージは「あっ」と叫んだ。
夕焼けに染まったテムズ川。
「ちょっと遅くなるからアイシアを先に行かせたのに、なんで誰もいないのよ〜っ!!」
緑髪のツインテールをした十二、三歳くらいの少女が、橋の上で大きな怒鳴り声を上げたのだった。