「「誕生日、おめでとうっ!!」」


男女ペアの声がリビングに響き渡る。
クラッカー……は五月蝿いので拍手で誕生日を迎えた少女を祝う。


「祐一、お母さん。ありがとう!」


本日のヒロインである少女―――水瀬名雪は笑いながら大きく息を吸い込み、
ふーっと吐き出して目の前にあるケーキに刺さる蝋燭18本に点る火を消す。
この瞬間、少女は大きな一歩を踏み出し、余韻が煙となって昇っていた。
名雪の母親である秋子はケーキの横に置いてある包丁で均等に3人分を切り分けていく。
電気は点けたままで、誰かが点けに立ち上がるという事はない。
暗くて顔が見えないから、そんな名雪の言葉が理由だ。


「これで名雪も18か………。秋子さんみたいにしっかりしてくれればいいけど」
「ひどいよー。私だって頑張ってるんだから」


煙の匂いが鼻孔を擽る微かな刺激になって、祐一は改めて従姉妹が誕生日を迎えたんだな、と実感。
何気なく呟いた台詞も目に見えない迫力があって、名雪も思い当たる節ありつつも不満を漏らす。
祐一が言うのは恐らく朝の寝起きだろう。
目覚まし時計を沢山セットしておきながらも中々目を覚まさない彼女。
朝が弱い為に祐一が越してくる前は秋子も手を焼いていたらしい。
しかし、ある事件を切欠に大幅な改善が見られるようになる。
1年前の3学期、彼が彼がこっちに引っ越して漸く学校にも溶け込んだ頃、
テストを受けている最中急に先生に呼び出されて告げられた信じられない事実。





――――秋子が交通事故に遭った。





2人はすぐに運ばれた病院に行って手術が終わるのを待つ。
気が気でなかった所為もあり、記憶があやふやだが手術は成功。
結果的には一命を取り留めたものの、意識が戻らず昏睡状態に陥ったままで危険な事に変わりなかった。
絶望に打ちひしがれて悲愴に沈む名雪は自分の部屋を外界から隔離した檻に創り変え、自らを閉じ込めて闇に堕とす。
叔母が事故に遭った衝撃は祐一にも彼女と同じ気持ちにさせた。

――――けど、ここで蹲ってはいけない。

大切な者達の為に彼は膝をつきそうになりながらも希望を捨てず、自分に出来る最大限の努力を行う。
それが実ったのか、名雪は固く閉ざされた扉を壊し、秋子も意識を取り戻した。
2人が喜びを分かち合っていたのも束の間、目覚めたはいいが、勿論すぐに退院なんて事はなく、
暫くは入院して治療とリハビリを行わなければならない。
つまり、水瀬家には祐一と名雪の2人だけ。
家事全般を殆ど1人で切り盛りしてきた者がいない。
大げさな表現かもしれないが、家を支える大黒柱が壊れて倒れそうな状態なのだ。
そこで祐一は家事を分担し、責任を持ってやる事を名雪と約束。
彼女も一通りの家事は出来るが、母親が如何に大変な作業をしていたか、身を持って体験して今後は自分も手伝う事を心に決める。
以来、祐一としっかり家事をこなしていき、朝食を作らなければならないので寝坊が激減するようになった。
とはいうものの、天然なところは相変わらずで可愛いミスを犯したりもするが。


「私は目標になる程の人間ではないですよ」


切り終えたケーキを皿に乗せて各々に渡す秋子。
“HAPPY BIRTHDAY!”と書かれたチョコは名雪のケーキに乗せてある。


「謙遜する事なんてないです。美人で時に可愛く、料理も上手で包容力があるんですから。
 俺はもう1人の母親として秋子さんを尊敬してますよ」
「祐一さん……」


お互いに手を重ねて見つめ合う2人。
熱っぽく甘々な空気が室内を支配していく。
祐一は真剣な眼差しで、秋子は潤んだ目を絡ませて少しずつ身体を密着させる。
彼女が瞼を閉じ、彼はそれがキスの合図だと読み取って次第に近付いていく2人の顔。
まるで眠り続けるお姫様を起こそうとする王子様。
静かに、けれど声に出さないで滾る炎。
頬に触れる吐息が直前に唇がある事を教えてくれる。
そして、とうとう重なり合う―――――


「2人ともっ! それはダメッ!!」




―――――瞬間、名雪が大声を出して割って入り、体を引き離す。




「ははっ。冗談だよ、冗談。大体秋子さんが俺とするわけないだろ」
「ええ………。まあ、ちょっとしたお茶目よ、名雪」


笑って名雪の髪をくしゃくしゃ撫でる祐一に対し、秋子は照れくさいのか少々頬を赤く染めて恥ずかしそうだった。
もしかしたら満更でもなかったのかもしれない。


「私の誕生日なのに………」


折角想い人と一緒に過ごせる記念すべき日なのに、表情を曇らせてしまう。

私だったら何時でも準備は――――

妄想じみた想像をしていて良い案を思い付く名雪。
これで母に祐一を奪われないで済む、と安堵が笑みとして浮かぶ。


「急に笑ったりして……面白かったか?」
「ゆういち………プレゼントは祐一の」
「はい、名雪。誕生日プレゼント」


台詞の途中で秋子が遮るように、赤い包装紙に包まれて緑のリボンを巻いた両手に収まる程の箱を渡す。
この時ばかりは微笑む母親がやけにわざとらしく、小悪魔に見えて仕方がない。


「うー、お母さん……」
「じゃあ俺もプレゼント持ってくるかな」


恨めしそうに睨む名雪と余裕を持って流す秋子を部屋に残し、祐一はキッチンへ赴く。
大きな声ではないので細かくは聞こえないが、何か言い争っているらしい。
喧嘩をしているみたいではなく、気にしない方向で冷蔵庫を開けて大きめの器を取り出す。
立派な出来だな、と自画自賛して名雪の所へ持って行く。
水瀬母子は睨み合ってお互いの様子を探り合っていたが、祐一が来た事によって緊張が解かれる。


「これが俺のプレゼントだ!」
「わっ、びっくり」


本当に驚いているのかどうか怪しく思わせるが、名雪はテーブルに置かれた物を見て目を見開く。
ひんやりとした白と赤の凍れる彫刻――――イチゴサンデー。
“百花屋”で頼むそれより一回り………否、二回りも大きい。


「これ、祐一が作ったの?」


自分の好物が鎮座しているのを見て、名雪は眩しい程に瞳を輝かす。


「おうっ………と言いたい所だが、作り方とか分からないから秋子さんに手伝ってもらったんだ」
「作り方を教えただけですから私は殆どカウントされませんよ」
「でも秋子さんがいなかったらこんな立派なイチゴサンデーは完成しませんでした。言うなれば共同作業ですね」
「共同作業……祐一さん…」


祐一は謙遜している秋子の手を握り、じっと見つめる。
『共同作業』という単語に心地良さを覚え、手から伝わる温もりがまどろみを漂わせる。
肩に回される大きな手。
抱き寄せられる秋子の若々しい身体。
そのまま頭を祐一の胸に預け、梳られる髪がこそばゆくも気持ち良い。
頬を上気させ、上目遣いで祐一を見つめる双眸が切なくも温かい。
湿り気を帯びる2つの唇が吸い寄せられて―――――


「って、ダメダメッ!! それ以上は許さないよ!」


―――――行く前に再度名雪によって阻まれる。

止める名雪の息は荒く、かなり切羽詰っていたようだ。


「どうしてお母さんと、それも2回もするんだよ!」
「だから冗談だって。名雪に笑ってもらおうと」
「本当にしたら……もう、笑えないよ」


何処かで聞いた事があるような言葉をどんよりとした雰囲気を纏って言う。
確かに従兄弟が自分の母親――彼にとっては叔母――と恋人同士になっていたらリアルに笑えない。
というか、法に触れる一歩手前だ。


「名雪………」


憂いを帯びた顔で秋子がそっと肩に手を置く。


「応援してね。私、幸せになるから」
「やっぱり付き合う気満々なのっ!?」


普段通りのほほんと言う母親に名雪は思わず大声をあげてしまう。
本気なのか冗談なのか、もう分からなくなってしまった。


「早くしないとイチゴサンデーが溶けるぞ」
「そうだねっ。いただきまーす」


精神的に疲れるやり取りで忘れていたデザートをスプーンで一口、掬う。
口内に入れるとバニラの甘さとイチゴのほのかな酸味が広がり、溶けていく。
果肉は取り除いてないようで自然な甘味もあった。


「おいしいー」


至福の表情を浮かべて名雪はスプーンを持つ手の動きを早める。

(最初にデザートを食べさせたのは間違いだったか?)
けど幸せそうに食べてくれているからいいか、と祐一は中身を減らしていく従姉妹を見ながら思う。


「祐一さん……」


袖を引っ張られるのを感じて振り向くと、秋子が寂しそうに見つめていた。
捨てられた子犬のように、ただじっと何かを待っていた。


「別に秋子さんが付き合うに価しないなんて思ってませんよ。寧ろ俺の方がつり合いません。
 それに俺にとって秋子さんは大切な人。もう1人のかけがえのない母親です」


彼の心からの気持ちを知りたい。
不安に思いながらも彼女が自分に求めている応えを導き出した。
秋子は納得したのか、満足そうに頷いて自席に座ってケーキを食べ始める―――――ように見えたのだが、
彼女が抱えている想いは少し違っていた。
それを知るのは無論彼女自身だけ……。


言うまでもなくケーキはイチゴが多めのショートケーキで、笑顔で食べる秋子を見ていると名雪の母親であるのをしみじみ実感出来た。
自分だけ立っているのも変なので、祐一も食事をする事に。
時折話し掛けてくる名雪に対応し、3人中一番最初に食べ終えたのは秋子。
皿を片付けにキッチンへ移動して夕食の盛り付けを行う。
残った2人も遅れて同時に完食、母を手伝おうとする名雪を抑えて祐一もキッチンへ。
盛り付けが終わっている料理を運び、最後の料理を並べた所で本編の食事を再開。
何時もより豪勢な料理は見た目だけでも食欲をそそり、他愛もない会話もより華を咲かせながら深くなる夜の一時を楽しんだ。






























suppuration






























春を迎えてもまだ寒い空気に包まれているこの街には、晴天で降り注ぐ陽光がとても暖かく感じられる。
桜の開花には早く、枝には耐え忍んで強くなった蕾が膨らみ始め、一月経てば満開となるだろう。










―――校舎内でその桜の木の下に集まって撮った写真を、祐一は何をするわけでもなく眺めていた。










彼が中心に立って、左側には照れ笑いをしながらも彼の手を握る香里。
それを見て私もっ、と言わんばかりに対抗意識を燃やして腕を絡ませる名雪。
調子に乗って背中から抱き付いて顔だけが映る北川。
場所がないので顔はカメラ目線のまま前から抱き付く秋子。
この写真を撮った者――通りすがりの生徒――は一体どんな気持ちだったのだろうか。
恥ずかしいような微笑ましいような呆れてしまうような気がしたんだろうな、と祐一はそんな風に思い、苦笑。
因みに何故写真を撮ったのかというと、いまいち不明。
3年になって初めて迎えた始業式、それを終えた美坂チームは運良く一緒のクラスになれたのを喜んで、
メンバーの一員である北川が唐突に言い出したのだ。
更に名雪がお母さんを呼ぼう、なんて言うものだからチームの中では頭脳派の香里と祐一が慌てたが、
すぐに来てくれて共に映る事に。
多分北川が意図するのは単純に一緒になれた証を残しておきたかったからだろう。
違うクラスになったとしてもカメラを持ってきている時点で撮る事は決まっていたのかもしれない。
ただ、写る際の喜びの度合いが違うだけ。
実際他のメンバーも別れなくてよかったと胸を撫で下ろしている。


「笑顔、か………」


写真立てを机に戻し、窓越しに空から降る粉雪を目線で掴む。
感覚も感触もない、白は消える事なく地面に落ちる。


「俺はあの時から……」


続く言葉をぐっと呑み込んでクローゼットに掛けられているコートを羽織って廊下へ出た。
既に時刻は深夜帯で日付も変わっている。
名雪は言わずもがな、パーティーが終わった2時間後に就寝。
恐らく秋子も明日は仕事もあるのでベットで眠りについているはずだ。
心配はないものの起こしてしまう可能性は完全に回避出来ない為、音を出さぬよう忍び足で階段を降りて玄関に。
靴を履いてゆっくりドアを開ける。
押した分だけ生じた間から外の冷気が流れ込み、頬を掠める。
家から出れば全身に当たり、一瞬ぶるっと体を震わせてしまう。
コートのポケットに手を突っ込んで日中より積雪する道を歩く。


さくさく、さくさく。


水分を含まない、乾いた音。
夜道を照らす電灯は影を生み出し、足跡をくっきり映す。
白い吐息は寒空を漂い、向こう側の景色を霞ませて、瞬きをした時にはもう消えている。
世界にただ1人だけしか存在していない、孤独を錯覚してしまうこの静けさ。
冷気はコートを着ているのにも関わらず、形ない温度の為に僅かな隙間を入口に容赦なく入り込む。
服で覆われている上半身と下半身は違うが首から上、特に耳は数分歩いただけでも温感がなくなり、
それが付いているのかどうかも認識可能か怪しい。
これも祐一が寒さに弱い為か、それ以外に理由があるのか……。


さくさく、さくさく。


悴む手でコートの襟を高くして商店街に辿り着く。
何処も店も開いているはずもなく活動停止、数ヶ所ある自宅兼用で営んでいる所も明かりは点いていない。
ちらっ、と横目で店を確認していると去年の出来事が時間を追って脳裏に浮かぶ。
中でも頻繁に登場したのは、羽の付いたバックを背負うたい焼き好きの少女。
雪を嫌いになってしまう切欠となった事件の被害者、紅い世界で笑う幼い外見の少女が。


「――――――!」


瞼を押さえ、染まり行く光景を頭を振って霧散させる。
気付けば長い間遡っていたのだろう、祐一は商店街を抜けて駅前に到着していた。
人の話し声もなければ車の走る音もしない。
雪が降って積もる音が聞こえてきそうなぐらいに何もない。
周りを見渡して目に留まったのはローカリーにあるベンチ。
誰も利用していないようで雪が座る部分を白く埋めている。
手で払いのけ、どさっと重力に任せて腰を下ろした。


「始まりの場所だな、ここは」


雪は先程よりも強く降り始め、視界を占める割合が増している。
風はなく、微かな空気の流れを受けて目的のない人間と似つかわしいゆらゆらとした動き。
右へ行き左へ行き、何回か移動した所で結局元の位置に戻って、また同じ動作の繰り返し………。
そしてそれは―――――


「今でも続いている………彷徨っているんだ」
「何処で彷徨い続けているんですか、祐一さん?」


祐一の顔は笑っていたが、目は愁いを帯びていてとても喜びや嬉しさからのものとは思えない。
俯いて足元にある自分が踏み付けた後を見ていると、すっと影が伸び、聞き慣れた声がした。


「秋子さん……。どうしてここに?」
「祐一さんこそ、どうしてここに来たんですか? こんな夜遅くに」


少しばかり叱る感じを含ませて秋子が訊く。
ワインレッドのマフラーに濃い茶色のコート。
毎日見ている叔母とは違う、見境もなく男を惹きつける大人のフェロモンが一層全面に醸し出されていた。
ごくり、と彼女の妖艶さに唾を飲み、我を忘れそうになるぐらいに釘付けになってしまう。


「隣、座りますね」


断りを入れてから雪を払って腰掛ける秋子。
肩が触れ、厚いコートの壁が阻むというのに彼女の体温がじわりと滲む。
逆を考えれば、祐一の体温もコートを通して滲んで行く事になる。


「どうしてここに?」


二度、秋子が言ったのもカウントするのであれば三度同じ台詞を吐く。
理由なら何となく分かっていた。
全員寝ていると思っていたら実は秋子さんが起きていて、外に出た自分を心配して追いかけてきたのだろう、と。


「この頃……いいえ。もう1年近く祐一さんの様子が変だと思って」
「俺が……変?」
「中々理由を尋ねる機会がなかったんですけど、今日になって更に様子が違いましたから」
「それで今、その理由を訊こうと?」
「はい」


何時も通りの微笑み。
常にマイペースを崩さない、自分と名雪を見守って時に手を差し伸べてくれる存在。
祐一はそんな彼女が羨ましかった。
自分の悩みを抑えて平然としていられる器の広さ、精神力が。

(ちょっと待て。確か………)

違和感を覚えた祐一は引っかかる部分の記憶を掘り起こす。
秋子が事故に遭って数週間が経ち、意識も覚醒してある程度身体が治癒されてきた頃。
お見舞いに行って病室のドアを開けて視界に飛び込む彼女の姿。
悲しみと怯えが入り混じった、果たして恐怖を体験している表情だった。
完治していない傷が痛むのか、と訊いてもノーと答えるだけ。
期間は1週間と短かったが、不安定な状態の叔母を見たのは初めてであった為に面会時間ギリギリまで傍に居てあげた。
迷惑そうでもなく、寧ろ秋子自ら居て欲しいと言い出した程。
入院の経験がないので寂しかったのだろうと結論付けて納得していた。
しかし冷静になって思い返してみると、やはり変だったと感じる。
まさしく、今の自分と同じように。


「俺が普段と違うのに気付いたのは何故ですか?」
「ふふっ。だってずっと見てますから。私は、祐一さんを」
「分かるものですか? それだけで」
「『見る』という文字。祐一さんの場合のみ2つの意味を含んでいるんですよ」
「一体それは?」
「その前に。祐一さんについて訊かせて下さい」


人懐っこい笑みで秋子が顔を下から覗かせて向き合う形にする。
時折見せるこの表情は、家の主として淑やかに振舞う叔母を同い年の少女にタイムスリップさせる。
ただでさえ高校生の娘がいる一児の母には見えない容姿を保っているのに、
もっと若返ってしまったら世の女性は嫉妬の視線を送って嘆くに違いない。


「ふぅ……分かりました。話しますよ、俺の抱えているモノについて」


嫌だと言っても追求してくるのだろう、と判断した祐一は打ち明ける事を決意した。





















「去年、7年ぶりにこの街に来てから2ヶ月で様々な事がありました。人生の中であんなに濃い時間を過ごすのはもうないでしょう。
 ――――そう。秋子さんの言う通り、引っ越してから俺は自分自身でもはっきり認識出来る程、変化が始まりました」
「こちらに越してきた当時に?」
「始まりは―――――――俺と秋子さんが座る、このベンチ」
「えっ?」


自分が座っている木のベンチを戸惑いながら観察。
これといって特質があるわけではない、簡素なベンチ。
これが彼にとって一体何の始まりなのであろう?
全く検討もつかない。


「待ってたんですよ、名雪を。1時の約束だったんですけど来なくて、結局2時間も待つ事になって」
「そういえばそんな事もありましたね……。連絡をしてくれればよかったのに」
「番号を控えてなかったんですよ」
「……この続きは置いといて、名雪が迎えに来た瞬間からこの街での物語が始まった……と」
「本格的に歯車が回りだしたのは。………それにしても」


母さんに番号を訊いておけば、と祐一は付け足す。
今更後悔の念を抱いて呟く祐一には敢えて突っ込まず、秋子は会話を咀嚼。
すると噛み締めれば噛み締める度に疑問点が明確に表れた。
名雪との再会で始まったと祐一は言う―――――が、『本格的に歯車が回りだした』という台詞が挿入されている。
つまり、元々ページは捲られていたのだが水面下での事で、表舞台に上がる切欠になったのが水瀬家への引越しになるのだ。


「原点となるのは何時頃まで遡りますか?」
「8年前………。これを機に訪ねなくなった頃まで」
「そんな前から……!」


予想もしなかった答えに驚愕。
彼は8年もの長い月日、苦しみに悩まされ続けてきたのか。
小学生の頃から、ずっと―――――


「けど、自覚はなかったんですよ。記憶に鍵をかけてましたから」


勘違いをしている秋子に軽く笑って補足説明。
言われて彼女も過去を振り返って思い出す。
祐一が姉に連れられて帰ってしまい、代わりに帰ってこない娘を迎えに行くとベンチに座って泣いていた。
丁度自分が座るこのベンチで。
何があったのか尋ねても頑なに口を閉ざして教えてもらえなかった。
泣き続ける娘の手を取って自宅に戻り、テレビを点けていたらある事故についてのニュースが流れる。










――――月宮あゆが、木から落ちた。










当時は祐一がそこに居合わせた事は知らず、再び訪ねて数ヶ月経った辺りに直接訊いた。


「あゆちゃんの事ですね………。しかしそれが祐一さんを苦しめている原因になるには…」
「起きてしまった事は変えられない。事故はどうしようもないと自分でも分かっているんです。けど俺は、まだ自分を許せないでいる」


ポケットから手を出して膝の上に置き、握り拳を作る。
感じる痛みは微々たるもの。
それは飽くまで肉体的、自分を責め続けて感じる心の痛みは息を詰らせる程だ。


「何も出来なかったんです。あゆが泣いているのに、ただ見ているだけで……! あまつさえ、あゆの事を………いや。
 この街の事を忘れ、のうのうと生きてきた。あゆは眠り続けて闘っていたというのにっ!」


段々口調が荒々しくなって語尾が大きな発音になる。
己に対する憤りが祐一を殴り、抉り、突き刺し、感情を高ぶらせているのだろう。
口を挿まず秋子は真剣な面持ちで語っていく祐一の自責に静かに耳を傾けている。


「秋子さんが事故に遭って名雪も自分の殻に閉じ篭った時、あゆはどうしたらいいか分からなかった俺の話を訊いてくれて、
 励ましてくれたんですっ。あいつだって苦しんでいたはずなのに………っ。
 俺以上に辛かったはずなのに! 自分自身の事を犠牲にして俺の為に奇跡へ導いてくれたんだ!!」


次々に溜めてきたモノを言葉として吐き出す。
視認出来ないナイフが身体中を切り刻んでいく映像が秋子の脳内にちらつく。
自分が昏睡状態にだった間、そんな事があったなんて彼女は知らなかった。
目覚めて退院して何時もの生活に戻った時には、2人共変わらぬ笑顔で自分を支えてくれた。
ずっと祐一を見ていたのに気付いてやれなかったとは――――
叔母として、1人の女として秋子は悔む思いで彼と同じようにぎゅっ、と拳を握る。


「あゆを失った悲しみは今でも覚えています…。だけど、だけどその悲しみを周りの人間に与えちゃいけなかったんだっ!!
 ………子供だった俺はそれを理解してなくて名雪に辛く当たってしまった。雪うさぎを、想いを壊してしまった……」


空気の冷たさからか、少しずつ口調も落ち着きを取り戻してゆっくりとしたもので祐一は話す。
幼い名雪が創り、手で叩いてバラバラに崩してしまった雪うさぎ。
瞳を表していた赤が積もる雪に転がり、あゆを中心にして紅い血で染め上がる光景とダブる。
考えてみれば、雪うさぎのようにあゆの人生を崩してしまったのも自分なのかもしれない。
祐一は悴んで上手く動かない右手を顔へ持っていき、覆う。


「……この気持ちは過去むかし現在いまも、そして未来あしたも引き摺って行く。あゆの時は止めたくても止まらない。
 どうしても泣く事しか出来なかったのに、今じゃあ泣きたくても涙さえ浮かばない」


闇夜を仰ぎ、身体を震わせて自嘲。
馬鹿らしくて、惨めで、利己的で、恥ずかしい。
己への蔑みが涙を流す行為を認めず、だから彼は胸の奥で誰にも悟られないように泣いていた。
見ているだけであらゆるものが潰される圧迫感。
一寸先も識別出来ない漆黒に監禁される閉鎖感。
何にせよ言える事は、全てが痛々しい。
秋子はそっと祐一の右手に自身の手を重ね、ゆっくり膝へ降ろす。
彼の気持ちを代弁しているかのように、瞳は潤んで何気ない刺激でも大粒の雫を零しそうだった。


「もう、自分を責めるのはやめてください……」


これ以上触れていたら、壊れてしまうから――――
他の誰にも見せた事のない、一度だけ病室で彼に見せた弱さと懇願で射抜いた。


「秋子さんだって分かるでしょう? 俺には他にどんな方法があるのか、想像もつきません」
「私には……あります」


涙腺は緩んでいても鋭い目付きで祐一を貫く。
そこに在る光は確固たる自信。
貴方にも在る、双眼を背けず揺るがない想いで訴えている。


「同じように私も絶望に打ちひしがれていた時期がありました。けれど、娘である名雪。
 そして……姉さんの息子である祐一さんのおかげで立ち直る事が出来ました」
「俺も………?」
「娘、息子の写真をお互いに交換してたんです。私は男の子も欲しくて、姉さんは反対に女の子も欲しくて……。
 成長したら遊びに行くと約束したので、頑張って前へ踏み出そうと決めました」


昔を今の出来事のように楽しげに笑う。
それだけの理由で彼女は生きる決心をしたのか、と祐一は妙な励まし方を持っているマイペースな人だと少し呆れてしまう。
しかしそれが彼女の強さなのかもしれない。


「祐一さんは雪、好きですか?」


唐突に秋子が訊く。
単純な質問だが、祐一は即答出来なかった。
ずっと街に訪れなかった原因はこの雪にあったからだ。
記憶に鍵をかけていたとはいえ、深層心理が無意識のうちに拒絶していたからだろう。
好きではないが、嫌いでもない。
こう答えるのが現時点でベストだ。


「私は好きです。雪は、嫌な思い出を隠してくれるから」


首をちょっと傾けて手を離し、その際頭に積もっていた雪が軽く落ちる。
祐一に積もる雪も優しい手付きで払っていく。
寒さで既に全身の感覚が失われつつある祐一は、雪が付着している事さえ気が付かなかった。
睫毛にも付いていて視界が悪いのも気にならない。
だが、思考能力と口だけは衰えずに活動している。


「隠してくれる? 思い出を…?」
「真っ白に………。もう1回、スタートを切らせる為に」
「………でもそれは、一時しのぎにしかなりません」


隠すのであれば雪でなくても他のもので代用出来る。
加えて言えば、隠してしまうより消してしまった方が手っ取り早い。
人間は恐怖を体験し、受け入れられる許容量の限界を突破した時、自己防衛としてその記憶を忘れる、若しくは封印する。
全てに当て嵌まるわけではないものの、事実祐一もそうして去年まで暮らしていたのだから。
反論される事を予想していた秋子は数回彼の頬を撫でて言葉を紡ぐ。


「だから『隠してくれる』って言ったんですよ。でも、正確に言うなら『薄めてくれる』ですかね………。
 例えば白いペンキで様々な彩りの上に塗っても、時間が経つと剥げて下の色がそのまま見えてしまう。
 これは祐一さんの場合と同じ。けど、雪は違います。雪は溶けて水となり、流れていく………。
 全部ではないですが、下にある彩りを薄めてくれるんです」


撫でる手は下ヘ、コートの襟で見えずらくなっている項に移動。
生きている証として血液が流れて脈打つ振動が指先を震わす。

――――こんなにも、あたたかい…。

自然と口元が緩む。
苦悩している彼には、まだ生に対する執着が残っていた。
彼女の行動に祐一は変な人を見るような目を向けていたが、気にする事なく口を開く。


「私は祐一さんと初めて対面した時からずっと見てきました。名雪と同じ…………いいえ。
 心の何処かではそれ以上に惹かれていて…。かけがえのない大切な人になって…。運命、だったのかもしれませんね」


祐一には思い出を懐かしむ少女のように見えた。
夢見心地で、けれど現実にあった事に意識を巡らせて。
一番疑問を感じたのは秋子が自分を求めていた事だった。
家でも役に立っていない。
事故に遭ってからも混乱していて、あゆの助言があったからこそこれまで通りの生活が取り戻せたのだ。

――――――相沢祐一は、何一つとして秋子を楽にさせた事がない


「俺ばかり見ても何の得にもなりませんよ。相手を傷付けて逃げてしまう………最低な野郎ですよ」
「居てくれるだけで嬉しかった…。隣に祐一さんが居る―――――それだけで幸せでした。成長するのを見て、
 姉さん以上に喜んでいたのを思い出します。――――望んでいたのは真なる心の拠り所。
 私は祐一さんに縋りたい……っ。2人きりの生活は、やはり淋しくて寒くて怖かった…。
 どちらかが消えてしまえば1人になってしまう。そんな事………想像したくもありませんでした」
「秋子さんにとって、俺は夫の代用ってわけですか?」
「違うっ! 違いますっ!! 私はっ、私は本当に祐一さんが好きなんです!」


突然の告白――――
秋子が自分を大切にしてくれているのは分かっていたが、理由までは詮索しなかった。
した所で女心が分かるはずもなかったからだ。
開いた口が塞がらない。
衝撃がが強過ぎて、祐一の思考回路はショート寸前。
秋子の目から、すっと綺麗に涙が流れた。
睫毛に付く雪が溶けたわけではない。
純粋に真っ直ぐな想いが溢れ出す。


「祐一さんが来なくなって、私も名雪と一緒に泣きました! 私の所為で傷付けてしまったんじゃないかっ。
 そう考えるだけで胸が痛くて…………!」


ぎゅっと左胸を掴み、顔を顰める。
同時に握ったままの彼の右手を引っ張って左胸に押し付けた。
漸く祐一は我を取り戻し、現状を把握して焦ってしまう。


「あっ、あの……!」


豊満で柔らかい感触が服越しにも伝わり、恥ずかしさに頬を染める。
しかし秋子が抱える気持ちが一緒に流れ込んで、自分の事のように思えて息苦しくなる。

――――ああ、この人も同じなんだ。

中身は違えど、沈む闇は同一なのだ、と。


「この気持ちも、雪が流してくれました。思い出せば痛みは蘇ります。
 でも今では和らいで、それがより祐一さんへの愛を強くしてくれる………」
「秋子さん……」
「私は『見る』に2つの意味を含めている、って言いましたよね? それは“魅”と“診”なんです」


苦悩に満ちたものとは打って変わって悪戯な笑みで秋子は言う。
だが、僅かな変化をつけた発音だけではどう異なるのか全く識別出来ない。
当て嵌まりそうな漢字をピックアップしてみるものの、前文にもヒントになりそうなものがなく、推測を断念。
予め祐一が頭を悩ませる事を予測して笑う秋子が、小悪魔にみえてしまうのは錯覚ではないかもしれない。


「祐一さんに自分を魅せながらも魅せられて、異常がないか診ているんです」
「……“魅力”と“診断”ですか」
「はいっ。失いたくないから、何処にも行って欲しくないから何時も祐一さんを見て安心していたんですよ」


そう言って微笑む秋子は言葉とは裏腹に儚くて、壊れてしまいそうなぐらい脆かった。
彼女も1人の女、幾ら年をとっても恋する少女で在りたい、居たいのだ。
それが可愛くて美しく、祐一の心が大きく跳ねる。
だが根底にあるのは、秋子は自分にとってもう1人の母親のようなもの。
“断定”ではない、彼女が自分を見ているのと同じ想いを抱いている部分も在る。
どう答えていいのか、分からなかった。


「もう1人の母親―――――祐一さんは私をそう言ってくれました。でも………ごめんなさい。私はそれに応える事は出来ません」


まるで祐一の思考が筒抜けになっているみたいで、先に意見を言う秋子。
理由を訊こうと口を開こうとしたが―――――叶わなかった。

秋子の唇が、ぴったりと閉ざしていたから………。

驚愕が限界を飛び越えてしまい、ロボットのように固い顔のまま焦点の定まらない目で景色を見る祐一。
勿論秋子を引き剥がす事もせず、行為に成すがままだった。
両手の指で足りる程の時間で唇は離れ、秋子は艶かしい吐息を漏らす。
襟が捲れて露わになる項にかかるそれが唇に帯びる熱をより強め、身体中を火照らせる。
彼女も嬉しさと羞恥からだろう、赤く彩られた頬と潤む瞳を向けてもう一度、キスをした。


「甥としてではないんです。祐一さんは、最愛の男性ひとですから―――――」





















雪が降っている。
2人は白く色付き、シーズン真っ盛りのクリスマスツリーのようだった。
仲良く寄り添うプレゼントを抱えて。


「何か………頼ってばかりですね、俺って」


体は凍えて動かせないのに、心は抱きしめたいと命令を下す。
全身に力を入れてもぎこちない動作でしかなかった。


「私だって、昔から祐一さんに頼ってばかりですよ」


代わりに秋子が優しく祐一を抱擁。
名雪とは違う温もりに包まれて、湧き水のように心地良い眠気が襲う。
そんな中、雪を溶かしていくかの如く体の自由を取り戻しつつあった。
祐一は腕を回そうとしたが、躊躇う。


「やっぱり……まだ許せない。幸せを得る権利なんて、俺にはない」


心の奥であゆと名雪を傷付けてしまった過去が祐一を戒める。


「祐一さんは名雪の事、好きですか?」


背中を摩って秋子が訊く。
祐一は少し悩んだ結果、分からないと首を振った。


「あの時は好きでした。けど、こうやって過ごしているうちに罪滅ぼしなんじゃないか。そう考えるようになったんです。
 一歩が踏み出せない。それは名雪を悲しませない為の贖罪なんだと」


無意識に行っていた事が段々と表面に浮かび上がっていく。
全ての始まりだった紅い景色が足枷となって妨げる。


「例え私に対しても同じ気持ちであったとしても、想いは消えません」


きっぱりと秋子は言い切った。
完全に彼を受け入れて想う炎が、瞳に宿って燃え盛っている。
だが、秋子の想いを知りながらも祐一は再度首を横に振った。


「俺は、秋子さんに愛されるような――――――」


『男がありませんよ』と続けるはずだったのに、喉まで出かけたのを無理矢理呑み込まされる。
何度目になろうか、秋子がキスをして言葉を遮ったのだ。
舌が淫猥な音を立てて絡む。
2人から滲む濃厚な匂い。
身体を繋ぎ合わせる温もり。
濁る意識の中、少年と少女は願う。


「雪は何度も積もり、その度に雪溶け水となって流れ、彩りは薄くなる。
 冬は、まだ長いんです。焦る必要なんてありません。時間がかかってしまっても、
 私が祐一さんの雪になります。冬を越して生命の源となる光になります。
 そして、紅い色を忘れさせるぐらいに私の色で染めていきます。
 だから………私に委ねて下さい。貴方の苦しみを―――――」


祐一の顔を自身の胸に埋めさせて、頭を抱く。
何も考えられない………ただそこに在る1つが自分を理解してくれた――――
紅い景色から半身を抜け出して、己の意思で彼は腕を秋子に回す。
巻きついていた鎖は―――――もう、ない




























「秋子さん……。俺、ちゃんと歩き出せますか…?」





薄く透明な紅が零れる。





「ゆっくりでも必ず前に進めますよ。それに、私が祐一さんの隣で支えます。
 一番相応しいパートナーになりますから………力を抜いて、一歩を踏みしめましょう」





唯一無二の声が、雪となって降り積もる。





「俺、ちゃんと笑えますか…?」





眩しい光が原動力となる熱を与え、雪を溶かす。
そしてまた、紅い雫を綺麗に流していく。





「ここまで苦しんでこられたのは、誰にもない強さを持っているからです。
 私もその光に助けられています。自信を持って、魅せて下さい………祐一さんだけの笑顔を」





消えていく紅を秋子の色が彩り始める。
生命の息吹を纏うそこに、雪は積もらない。










「おれ……ちゃんとないてますか……?」










白い羽が舞い降りて、視界が埋まっていく。
触れたかと思うと初めから存在していなかったかのように、光の粒子に変わる。
その中に微笑む秋子の姿を映して、訊いた。











「はい。本当の想いが私にも染み込んできます。
 今はまだ、負の感情が含まれていますが、何れ無垢な清流となって癒してくれます。
 だから………沢山泣いて下さい。幸せに満ちた涙を流す為に―――――」












浄化されていく存在を抱きしめて、素直に答える。
無理矢理感情を詰め込んで抑えつける蓋をそっと外す、温かい掌。
身体を震わせて縋る存在は、何処までも続く愛しさに溢れ、そして――――――

























相沢祐一は、初めて大切な女性ひとなみだを流した。