十二月二十三日。

今この世に住んでいる、六十億以上の人間にこの日がどれだけ価値のあるものなのだろうか。

殆どの人はクリスマスイブの前日、と答えるだろうし、中には忌み名の意味を持ってしまう人がいたりいなかったり。

まあ、そこはどうでもいい。激しくどうでもいいので、結果を述べる。

私、水瀬名雪の十八回目の誕生日は、多分忘れられないものになった。




































12月24日、午前0時3分




































それをまともだ、と感じれるほど私の心は成熟していないし、悟ってもいない。

誰が好き好んでただの従妹のために誕生日を祝えようか、最も愛しい人がその場にいないというのに。

いや、一見「その人」は普通に振舞っている。いつものようにボケをかまし、いつものように笑ってくれている。

それが嬉しい。もう吹っ切れたんだろうか、忘れられたんだろうか、前を見てくれたんだろうか。

――――なんて勘違い。

私はその人が死んだら一年経っても鳴き零しているというのに、まったくそれを念頭にさえ置いていなかった。

いや、置きたくなかった、というのが正しいか。私だって好きな人に見てもらいたいという願望はある。

もちろんこの場合、「見てもらいたい」というのは直視してもらいたい、ということではなく、ただ好意を寄せられたいということ。

…………言っておかないと。その人は分ってる癖にそうして笑い飛ばすから。

「ん?名雪か、今日は珍しく早起きだな」

その人が起きてきた。

少し驚き、また嬉しそうにしている。ただ私が七時過ぎに起きた、というだけで。

でもそれはしょうがない。私の生活を省みてしまうと、うんしょうがない。だってしょうがないことだから。

或いは仕方が無い、と置いてみる。仕方が無い、なんて甘美な響き。うん、これはいい。とてもいい。

「? 名雪?」

「え、あ、なに?」

「いや、なんかぼーっとしてたから……妄想癖も大概にしとけよ?」

「祐一ほどじゃないよ」

笑って返す。彼もつられて笑う。

暖かい笑み。私が癒される、でも、きっと……。

「そういや今日は名雪の誕生日だしな、どきどきして寝れなかったか?」

「祐一じゃないんだから……」

「ハッ、甘い甘い。俺だったら寝ないな。一晩中起きて一時間事にハッピーバースデー俺と祝ってやるのだ」

「祈祷?」

「? みたいなもんだ」

全然違う。

でも言うと多分殴られるから、黙っておいた。(でも結局ばれて殴られた。極悪だと思う)

どうでもいいけど、その無駄な情熱を他のことに使えないのだろうか?

ただえさえこの頃は切羽詰っている、受験生でも最悪の季節だというのに。

いや、だからといって私の誕生日が手足を生やしてどこかにいくわけもないんだけれど。

「さっさと下行くぞ。俺の肥えた舌は秋子さん直々のトーストを所望している所存だ」

「おはようの挨拶は?」

「バラブラッパボバイ」

意味不明。そして意味深長。

最後のボバイ辺りにどことなく作為的なものを感じるけど、前述はなにを意図して作られた単語だろうか。

バラブラッパボバイ。なんとなく響きはいい、バラ、ブラッパ、ボバイ。

「おい名雪、なんか言えよ、寂しいだろ」

「あ、ごめん……この頃の祐一のボケ、よく分らなくて」

そもそも普通に朝の挨拶を求めて、どうてアフリカ南部奥地の原住民みたいな言葉を返されなきゃいけないんだろう。

それが相沢祐一の相沢祐一たる相沢祐一の所以、という奴なのかもしれないけれど。理解は不能。ていうか無理。

私は祐一から挨拶を貰うと(列記としたおはようである)祐一と一緒にリビングに入った。

漂うトースト、紅茶やコーヒー、サラダまで瑞々しい香りを放っていそうだ。

委細にまで及ぶその技術は、やはり年季をうかがわせる。でもお母さんって一体いくつなのか、これまた不可解。

「おおぉぉ、完璧な布陣だ。ベストブレックファーストナウ」

「祐一、文法おかしいよ」

「ベスティングブレッキングファースティングナウィング」

「……もういいよ」

現在進行形でベストな朝食は今、ということは一体どう訳せばいいのか。

朝、食の両方でing形式をとっているので本来ならば訳せもしないのだが、そこは日本人独特の慣わしというやつだろう。

多分。

きっと英国紳士やアメリカボーイに聞いたら「Ha?」とか帰って来ると思う。

あ、ボキャブラリー貧困だ。

「おはようございます、祐一さん…………と名雪」

今小さく疑問符が付けられていた。さりげなく、けれど娘が気付く程度に。

私って本当にどういう認識なんだろう。微妙に不毛で哀しくなってくる。

「おはようございます秋子さん、いや今日もお美しい」

「あらあら、こんなおばさんを褒めてもなにも出ないといってるのに……」

ならば世界中でどれだけおばさんが急増中なのだろうか。甚だ疑問だった。

でもとりあえず祐一の機嫌と朝食の匙加減とお母さんの機嫌は上がるからいいのだ。私のはなぜか下がっていく。不思議。

下手したら「叔母に欲情してんじゃねぇぞエロガッパ!」とか叫んでしまいそうだ。

でも言った瞬間のそれが遺言になるのも嫌だったので、懸命にも私は黙って席につくことにした。

「そうだ名雪、今日は時間もあるし、はいこれ」

ついでに祐一の席にもちょこんと置かれたそれ。

紅い。赤い。とても朱色に赤く染まっているそれ。

いやいやいや、そんなもので私の機嫌が直るものか。私は動物ではない、水瀬名雪という個人なのだから。

「お、このイチゴババロア、いけるな」

敗戦濃色。色即是空。だってイチゴなんですもの。

――ごちそうさま。





「いや、だからな?俺としてはお兄様がこの頃のマイフェイバリットなわけだが、でもお兄ちゃんというそれも中々……」

「なにを言うか。時代は常にお色気お姉さま、保健の先生に「じゃあお腹だして」とか言われた日にゃぁそれこそ……」

云々、かんぬん。

あーでもない、こーでもない。

挙句の果てには金銭の問題にまでぶっ飛び、八八は妥当だとかそれは違うだとかいう十八歳の男達。

確かに、法律に違反しているわけじゃない。今年もあと一週間となれば、このクラスの七割から八割は十八歳。

だから、べつに、そんな、話題も、しちゃいけないという法律もない。

けどさ、

「あんたたち、教室でなに濃ゆい談義かましてるのよ」

「あ、それそれ。そういう女然とした口調がいいんだよ」

「それは違うぞ同士相沢。今は「〜なんだよー」という微妙に天然入った喋り方が……」

「いい加減黙らないと、空中で三回転半を記録した後もれなく地面と熱いベーゼをかわすキャンペーンに強制当選よ?」

「おっと勉学の時間だマイブラザー」

「そうだな相沢。でも俺、物理苦手なんだよ……」

わいわいがやがや。

突如割り込む香里の反応もなんか違うとか思った私だけれど、言わない。

何故って空中で三回転半した後もれなく地面と熱い(以下略)など体験したくもないから。

今日はいきなり朝っぱらから物理の小テストが入る。この時期だけに皆必死だ。

……や、訂正。どこぞでエロゲーの話しに華を咲かせる極一部の人間を除き、皆必死だ。

教科書をめくる音、プリントを見直している様子、ノートを丸め込んで飲んでいる人間もいる……今日ノート提出もだよね?

ところで祐一たちもやっとやる気を出したようだ。

机に向かってノートを引っ張り出すことがやる気を出す事に繋がるのは疑問だが。

まあでも、祐一たちも空中で三回転半した後もれ(以下略)するのは嫌だろうから、多分六十点くらいはとるだろう。

八割がた勘と気力で。

「あれだけ必死に勉強したでしょ」

「おうとも、必死にな」

「ああ、必死にな」

祐一は必死を強調すると、それに続く北川君。

なにか思うところがあるらしい。二日前の休日、私も一緒に勉強会をしていたけれど、記憶にない。

祐一に聞いてみると、私はそのときトイレに経っていたそうだ。

ねえ祐一?聞いたのは私だよ?でもね、

「だってお前そのとき、下半身の一部からくる欲求に耐え切れず、頬を蒸気させて腰をうねらせそのまま作り笑いで場を――」

極悪だと思った。

だから引っぱたいた。パーン、というよりもゴーン。

いい感じ。

「名雪、あなた空手かなにかでもやってるの?」

「え?なんで?」

「正拳が堂にはいってるわよ」

そうなのだろうか?

でもそのあと、七瀬さんに誘われたのだから本当なんだろうな、なんて思ったり。

? 引っぱたいた、というのは語弊になってしまうのだろうか?

シャーペンを握りながらぷるぷる震える従兄を見ながら、私はそんなことを思った。





時が経つのは、きっとなによりも速い。

一秒という概念を作り出したのは人間だ。時間という概念そのものさえ、口に出す事を考え出したのは人類である。

ならば時間と光どちらが早いか、という問いは意味を成さないのだ。所詮時間は時間。止まる事を知らないのだから。

一秒が距離に直せるのならばいい。一秒百キロ。しかしこれでは物体の速さを求める答えか途中式だ。

だから意味を成さない。

時間はとにかく早く経つし、遅く感じるのは彼女或いは彼の中での時間の概念或いは主観が違うからだ。

――なんてことを考えている間にも、やはり時間は止まることを学んでくれない。

うん、時間が早いことは罪ではない。むしろ止まってしまったらそれこそ大惨事だろう。

物事はギブ・アンド・テイク。等価交換。相応の見積もりを返さなければいけない。

ならば時間を止める、という行為が仮定にあったとして、見積もりはどうなるだろうか、と冷えた唇で考えた。

まず一秒時間を止める。その間は誰も動かない。一秒時間が立っているくらいじゃ、時報を聞いている人間くらいにか分らない。

一分時間を止める。等価はそれに対する疑問の心だろうか?それともフェードバックして一分間呼吸が止まる?

十分、時間を止めてみる。

流れ出した時間が十分後と仮定すれば、電車は(この地域で)一本過ぎて見たいアニメの三分の一が終わってしまう。

一時間時間を止めてみよう。

電車は四本なくなるし、ドラマは終わって、一日の二十四分の一が無残に消える。

まあ、そんなことはいっても。

「美味いか?三杯目のイチゴサンデーは美味か?こんちくしょう」

「おいひいよ〜」

止まって欲しいなぁ、と「冷えた唇」で考えた。

これは私の等価交換。生まれて来た日を祝うというその印。

嬉しい、けれど……やっぱり祐一は、私に私が望むものはくれない。

なんでもいいから形に残るものが欲しかった。ハンカチの一枚でもいい。

いや、ねだれば多分貰えるだろう。祐一はとても優しいからだ。

でもそれは彼女の、いなくなった彼女の特権だから、私はねだってはいけないと言い聞かす。

甘い甘いイチゴの香りが鼻を突き抜けた。

朝のババロア(と特製ジャム)、昼のムース、放課後のパフェ、そして多分夜のケーキ。

なんといういい日だ、今日は。

私はウェイトレスさんに四杯目を頼みながらそんなことを思った。

祐一は泣いていたけれど、それでも私は止まらない。止まれない。止まってやれない。

喉に残ったしこりがとても不快で、私はかきこむようにイチゴサンデーをたいらげていく。

「すいませーん、イチゴサンデー追加で」

「なんだその居酒屋みたいな追加注文の仕方は!?」

合計、六杯。

当分糖分(ギャグに非ず)は必要なさそうだ。

今日の風呂上りの体重計が壊れてしまうのは別の話。

次の日から私がマラソンをするようになるのも別の話。

百花屋行こうと誘ってきた北川君が喫茶店に変更したのも、多分別のお話し。





「あ、んんっ、だ、駄目、ゆういち、さん!ちょっ、とま……!」

「駄目ですよ秋子さん。ほら、身体の力をぬいて?」

「あ、ふ、んんんっっ!」」

「なんだかんだいっても、やっぱり溜まってたんですね。ほら、ほら。こんなのとか……いいでしょ?」

「あ、ん、ああ、あああ―――」

「こことかどうです?気持ちいいですか?」

「あ、はい。いいです……♪」

「やっと素直になってくれましたね。そうじゃないとこういうのは色々と大変なんですから」

「すみません……あぅ……!」

「ほら、こんなところがこんなに堅くなっちゃってますよ?」

「だ、だって、祐一さん……う、上手すぎ、です……」

「こういうのは自分でやってもあまり意味がないでしょう?叔父さんはどうだったんですか?」

「あ、あの人も、それはそれは上手でした……」

「おお、さりげなくのろけですね……それじゃ、ラストスパートで」

「あ、ん、ん、はぁ♪」

「はーい終了。ツボマッサージ、ご体験ありがとうございましたー」

「はふん……祐一さん、どうしてそんなにお上手なんですか?」

「母にいつもやらされてましたから、自然とね」

「なるほど……姉さんはあれで案外エステに通い詰めでしたからね」

「やっぱり……」

軽い談笑をかわし、はははと笑いあう叔母と甥。

確かに疲れも「たまって」いただろうし、肩や腰が「硬く」なってもいただろう。

そもそも母子家庭だったところにイレギュラーまで入り込んだのだ。お母さんが大変じゃないわけがない。

だからこそ祐一は親切心から、一片の曇りもない心からああしてマッサージを決行中だったのである。

――祐一――――なんて、卑猥―――。

あれほどの声を上げさせる祐一がすごいのか、あれほどの声を上げてしまうお母さんが弱いのか。

私にはとても判断がつかないけれど、ちょっと体験してみたいなどと思ってしまったり。

「ていうか、あまりにも期待を裏切らないけどいいの?」

「? どうした?」

「ううん、なんでもないよ」

少なくとも祐一には。

ていうかそれでいいのか、色々と。

なんとなくいけない領域のような気がして、私はそれ以上踏み込むのをやめた。

とまあ、それは忘却の彼方において全宇宙万能シュレッダーにかけておくとして、今現在の水瀬家の現状。

なにもない。いや本当に、普通の水瀬家です。

今年は一体なんの計らいなのか、誕生日とクリスマスを別にしようというお母さんの提案が決定しこんな状況である。

とはいっても、お母さんの提案にケチをつける勇気がある人間は今のところ水瀬家にはいないので意味は無いが。

ビバ秋子主義。

ビバ独裁主義。

ビバ三権不分立。

祐一は赤くて三倍なのかなぁ、などと思っているうちに私のささやかなな誕生日パーティーは始まった。





深夜、暗すぎて時計の針が見えないので、時間はわからないけれど多分深夜。

私は不意に目を覚ました。

いやご不浄とかお花摘みとか「女の子にそんなこと聞かないで!」とかじゃなく、本当に不意に。

こうして夜中に目を覚ますと、この頃も随分と冷え込んできているのだと気付く。

抱いたままのけろぴーは無機質だけれど、「そんなこと当たり前だぞなもし」と言っているような気がした。

ネコ型時計が私を見ている。見ている。見ている。

いや、そう配置したのだから見ているのは当たり前なのだけれど、結果を言えばやっぱり見ている。

ギターの形、猫、犬、家、妖精、人、少女、鳩、ミミズ、鮫、アンコウ、なまず、目玉、鬼。

私お気に入りの時計たちが、一秒の狂いもなくカッチコッチと秒針を打ち鳴らしていた。

しかしどういうことだろう。こんな時に目が覚めるなんて。

既にパーティーが終わり、必要以上に疲れた一日も終わった。

摂り過ぎた糖分のため、風呂に入って(被害報告:フリマで二百円だった体重計也)そのまますぐさまベッドイン。

だからこそ、こんな半端な時間に起きるわけがないとおもったんだけれど……。

暗闇に慣れた目で一番近くの時計を見やる。

時刻は十二時三分。これは秒針がないタイプなので、何秒かは分らない。

そして、色々なことが頭を巡り、遅すぎる思考の末に気付いた。

シンデレラの特別な時間は終わり。誕生日という一種の魔法じみた時間が過ぎて、やがて私は流されていく。

祐一がもう私を見てくれることはない。名雪の特別な時という観点で、特別なことをしてくれる日は終わった。

だから、そう。これからはずっと沢渡真琴のためにあるべき本来の時間軸。

今日だけ、十二月三日だけが私だけの切り取られたページの一つ。祐一はそこに迷い込んでしまっただけなのだ。

ああ、なるほど、その案内役がお母さんだったわけだ。

クリスマスとごっちゃにしたら、それは半分真琴に持っていかれちゃうから。

だからお母さんは、わざわざ手の込むような真似をしてまで飽くまでも平等にしてくれたのだ。

ありがとうお母さん、ごめんなさお母さん。私はそこまで気付けませんでした。昨日という在りえない日に。

「……祐一……寝たかな……」

普段ならば、祐一はもう寝ている時間だ。

夜更かしもするが私達を気遣ってか祐一は規則正しい生活をしている。

だからこそ、朝の七時などにおきだすのかもしれないが、そこは私にとって未知の領域である。

燃費が悪いと称されるのも仕方が無いのかもしれない、と思いながら私の足は自然廊下に向いていた。

私はシンデレラじゃない。いや違う。祐一が王子様なのではない。

私は地元の大学を受験して、たまに従兄と連絡をとり、いつしか地元の好青年とでも結婚するだろう。

何故って、祐一には好きな人がいるのだから、私が入り込む余地がないのだし。

哀しいけれど、それが事実。私みたいな人間に、人一人の心を動かすこともできないのも事実。

特別な日はもう終わった。戻れ、いつもの水瀬名雪に。いますぐ戻って寝てしまえ、と言い聞かす。

なのに足も手も眼も、どうしてか前を見てしまう。哀しい現実を知らされるだけだというのに。

……甘え、なのだろうか。

もしかしたら、祐一は優しいから、私を受け入れてくれるかもしれないという甘え。

観測的希望思考。受動態な独占欲。従妹なのだからという選民思想。全てが嫌になる。

嫌になるけれど、それに縋らないと今の私はすぐに壊れてしまいそうで、

そんな自分はたまらなく嫌いで、その悪循環。

メビウスの輪だ、と廊下に続くドアを開け放ちながら思った。

終わる事のない無限回廊。きっと祐一を忘れるまで、私はこの輪の中を瞑想し続けるのだろう。

だけれど忘れることなどできるのだろうか?

なによりも、七年前(八年前か)の約束を忘れてしまっている祐一に。

廊下の冷たさに、思わず驚いてしまった。

そういえば靴下さえ穿いていない。

フローリングのすべすべな床は、歪んだ私の顔をうっすらと映し出していた。

数十秒もしないうちに辿り着く、目的地にあえて名前を付けるならば「私の手の届かない場所」。

プレートもかかってないドアを、必要以上に素っ気無いと感じてしまうのはこの静寂ゆえか、それとも私の心が空っぽだから。

右手を伸ばし、ノックの前にどうせ寝ているだろうからを名だけを呼ぼうと口を開いた。

「ゅ……?」

思わず声を潜める。

なにか違う、いつもと違う違和感。

確実に祐一の部屋なのに、ずんずんと乗っかってくるような嫌悪感。

なに、これ?

分らない。気持ち悪い。分らない?分らないはずがない。

これは、私の部屋と同じだ。

同属嫌悪なんて安っぽい言葉が、ここまで酷いとは思わなかった。

絶対的に押し寄せる悲壮感と焦燥感。そう、私の手元に愛する人が「いない」という、一つだけの単色な感情。

一気に世界がモノトーンになった。瞳が光を通してない。そんな倒錯した間違いを覚える。

駄目だ。これ以上踏み込んでは、もしこの先にいったら戻れない。私は輪に一生囚われてしまう。

やめろ、やめろ、進むな。進んじゃいけない。この先にいるのは、いつもの祐一じゃない。

笑っていない。寝てもいない。だからだめだ。危うい。

「私」を見て抑えきれる程、私は出来ていない。

でも、だけど、しかし。

ノブに触れる右手を静かに見やり瞳を閉じる。

こんなにまで昏く深い相沢祐一を抛っておけるほど、多分私は弱くない。

だってそれが水瀬名雪の存在理由。それ以上でもそれ以下でもない、相沢祐一を愛する私なのだから。

一回目の深呼吸と同時にドアを開ける。

祐一の部屋には電気はついてなく、殺風景だけれど先ほどよりもよほど鮮明な色合いを持っていた。

それは蒼。感情にそぐわない、真っ青すぎる悲しみ。

ああ、泣いているんだな、と肌で感じてしまった。

声に出していない心の嗚咽。今すぐにでも打ち壊したい恨み辛みを抱えたその人。

「――名雪か?どうした、こんな時間に」

たった数メートルしか離れていないこの場所で、祐一の掠れた声が凛然と響く。

祐一は優しすぎた。啼きたいのをこらえ、平静を装い、私を直視してしまうほどに優しすぎた。

「ご不浄なら向こうだぞ。ほれほれ、お前はたださえ朝に弱いんだからな」

出て行け、と言う簡易な意思表示。

でもそれさえも自主性に任せていて、ここまでくると私自身が滑稽でならない。

ピエロのようだ。私がなにをいっても、結局は相手側の気持ちをより一層強め縛るだけ。

本来ならこれは望むべき結果ではない。真琴はもういない。忘れろとは言わないけれど、諦めてはほしい。

「名雪?どうした?具合でも悪いのか?」

心配させてしまった。

これではいけない、と心を落ち着かせて二度目の深呼吸をする。

「私は大丈夫だよ……電気、つけていい?」

「……出来れば、俺はもう寝たいんだけどな」

「――眠れるの?」

「寝たいんだよ、言葉通りだ」

それが軽い口調だったから、私には分らない。

相沢祐一が、どれだけの気持ちで「寝たい」と言っているのか、相沢祐一ではない私には分らない。

幸せが彼に、不幸ならば共通し、地獄ならば私が担いで上げる。

だから泣かないで、そう願うことさえもお門違いだと、気付いていても仕方がない。

仕方がない。そう、朝も思ったこんな気持ち。

諦めるのは簡単だ。切捨て忘れてしまえばいい。

でも逆を言えば、切捨て忘れられなければ諦めることはできないのだ。

「私ね、ずっとずっと祐一のことが好きだった」

別に、こんな時にかこつけて告白をしようなんて思ったわけじゃないけれど。

「優しいし、イジワルだけど暖かいし、なによりも不安とか、そういうのを全部包み込んでくれるから」

真琴の代わりに、なんて大それた人間でもないのだけれど。

「でも、祐一が私を見てくれないのは知っているから。それでもいいから」

だって祐一は、私が泣いていたら迷わず手を差し伸べるでしょう?

「たまに頼ったりしてくれるだけで、多分私は幸せ」

人の哀しみを忘れさせる手段なんて、私は知らない。出来ない。

「……これまた、随分と詞的な言葉を送ってくれるもんだな」

「否定しないの?」

「俺がグレートでパワフルでエクセレントでパーフェクトでダイナミックな色男、というあれか?」

「全然違う」

「否定するなよ」

「否定するよ」

「残念だ」

けらけらと高い笑いが耳を劈く。

祐一は案外嘘をつくのが下手だ。感情なんて、隠しているようで丸見えである。

「ま、名雪の幸せなら俺も願ってるから、さっさと寝ろ」

「……独りで泣くだけじゃ、真琴だって絶対に救われないよ」

「独りでしか泣けないから、真琴だって救われないんだろうな」

なんだ、理解はしてるんだ。

思った瞬間、足は一歩祐一に近づいていた。

輪郭のぼやける祐一の顔。どうやらベッドに腰掛けて私を見ているようで、目線が低い。

「真琴がいなくなったのは俺のせい。名雪がそうしているのも俺のせい。
 しいていえば俺がとった行動は全て俺のせい。そうだろ?」

「祐一が悩んでいるのは、それから開放できない私のせい。それに祐一の言葉を借りれば、私がしていることは私のせいでしょ?」

「それは俺様主観でだけ通じる観念なのだ」

「……具体的じゃないね。万民に優しくないよ」

「具体的の反対語が観念的だからな」

納得してない祐一の心は、きっと理性が全てを押さえつけてるんだと思う。

哀しいのは俺だけじゃない、辛いのは名雪や秋子さんも一緒だ、なら男の俺が泣くわけにはいかない。

多分、こんな感じ。

自虐精神があまりにも強すぎるから、自分にどれだけ皹が入っているのかも分らない。

私の場合は、壊れそうになっているのを心が繋ぎとめている。祐一はその逆。

でも祐一、それはあまりにも優しすぎて、多分どこかで間違ってるよ。

だって、自分以外の全てを救うなんて、「神様」以外にできないんだから。

「なんで泣かないの?」

「……名雪に涙なんて見せた日には、インスタントカメラで撮られてそのまま日刊スポーツに……」

「泥沼だよ?このままだと。私もお母さんでも真琴でも誰でもいいから、溜まったものは吐き出さないと」

「名雪は厭らしいなぁ」

祐一の言葉に返答はせず、私は淡々と言葉を繋げていく。

「もしかしたら、真琴に心配をかけさせたくないのかもしれない。
 でもね、それは絶対に違う。もし私が真琴なら、多分今すぐ戻ってきて祐一のこと一発ぶん殴ってるよ」

「それこそ、観念的だな」

「……言葉で言っただけじゃ、分らないかな?」

「分ってるけど、生来の性格のせいで、な」

やっとまともな言葉が帰ってきた。

だけれど待て私。涙腺を緩ますのは、今日が祐一は先でなければいけない。

カーペットの敷き詰められた部屋を一歩踏みしめる。

光の入ってこない部屋は暗い。だけど、そんなものはどうとでもなるのだ。

祐一は声を発しなかった。来るな、とも来い、とも。

だから進む。半ば自棄になったように小さな一歩を向かわせていく。

たった数メートル。たった?どこが、たった?

月のない夜だ。暗い。自分の手さえ見失ってしまいそうな、そんな闇。

今すぐに祐一に助けて欲しい。手を差し伸べて欲しい、でも、今の役割はそうじゃない。

私の伸ばした右手が、祐一のなにかに触れた。

肩かもしれない。首、だろうか。それとも胸?

なんでもいい。この温かが消えないうちにとばかりに、私はベッドに腰掛ける祐一に勢いよく抱きついた。

ボスン、という柔らかい音と硬いスプリングの跳ねる音が億劫に響く。

祐一は私の肩に手を置いて、馬乗りにされた状況でにたりと笑った。

「逆レイプが趣味とは、中々だな」

「言っても分らないから、人がどれだけ温かいか教えてあげる」

ギュッ、と。

人形を力強く抱きしめるみたいに、思い切りよく抱きしめた。

広い背中に掌が当たる。祐一の茶っぽい髪の毛が首筋を擽り、力が抜けそうになった。

「暖かいでしょ?」

「その暖かさに負けそうなくらいな」

ドクンドクンと波打つ心臓が破裂しそうだ。

あまりにも静か過ぎて、呼吸音さえ鼓膜を振るわせる要因になってしまった。

でもそれは祐一も同じ。心臓の動機が速い。声だって、聴いてみれば少し震えているではないか。

「私も今すぐ泣きそうなの我慢してるから、さっさと泣いてくれないかな?」

「なんつー言い草だ……」

呆れたような祐一の声。

もう、震えてはいなかった。

「なあ、名雪……」

「なに―――?」





これから、私達がどうなったのか。

多分それは、無限の可能性の一つでしかないから、語れない。

でも私は今も笑っているし、祐一だってきっと笑っているのだろう。

最高の笑顔で締めくくりたい。一番難しいと思ったいたことは、多分一番簡単なことだったのだ。

さて、私から話せることはもう終わってしまった。

これをどう捉えるか、それすらも無限。

では、私を知ってくれた皆々様、これにて御機嫌よう。

またいつか会える日には、笑顔も持って、お迎えしましょう。