夢。
夢を見ている。
真っ白な世界。
雪のようでもあり、
虚無のようでもあり、
光のようでもある、
真っ白な世界。
これは、私の見ている世界?
それとも―――?
KANON AFTER STORY
「名も無き夢」
「ん・・・・・・・?朝・・・ですね」
カーテンの隙間から差し込む朝日を浴びつつ、少女―――美坂 栞が呟く。
まだ眠たげなその眼差しも、日々その寒さを強く帯びていく空気に、少しずつ覚醒させられていった。
「うっ・・・っ寒いです」
小柄なその身を震わせ、思わず非難めいた言葉が生まれた。
・・・非難するのはいいけれど、一体何を、誰を非難すればいいのでしょうか?
この前の物理の授業で、温度が下がるというのは分子の運動が鈍くなる事だと習ったけれど・・・
・・・いや、もしくは、単純な時間の経過を考えれば・・・・
「いつまでぼーっとしてるのよ、栞。遅刻するわよ」
「えっ・・・?あ、はい、すぐ準備します!!」
まだ起きたばかりの頭らしい、支離滅裂な思考を中断させたのは、部屋の入り口から顔を出す彼女の姉―――美坂 香里の声だった。
「全く・・・起きてるのか寝てるのか、はっきりして欲しいものね」
少し皮肉の色を浮べて、微笑む姉。
「えぅ・・・すみません」
「ふふふ。起きたなら、さっさと支度しなさいよ。
言っとくけどあたしは、名雪と相沢君みたいに朝から全力疾走するのはゴメンだからね」
「あはは・・・分かりました」
「分かればよろしい」
制服のケープを翻して部屋を出て行く姉を見送りつつ、彼女も急いで学校に行く支度を始める。
性格は全然違うけれど、彼女にとって大切な姉は、以前よりずっと穏やかな表情を見せるようになった。
それは、栞自身が一番良く分かっているつもり。
そして栞にも、変化はあった。・・・ある時を境に、本当の意味で笑えるようになったこと。
・・・どちらの変化も、・・・・いや、彼女が今、こうしてここに存在していられることも、姉や家族と同じ位、
・・・いや、ひょっとしたら、それ以上に大切な、「彼」が居てこそのもの。誰がなんと言おうと、それは疑いのないこと。
「おはようございますっ」
「彼」なくしては有り得なかった、今の自分の足音と笑顔を噛み締めつつ、リビングに足を運んだ。
―――今日も、何でもないようで、かけがえの無い日常が始まる。
「ここの問題は、昨日やった法則を応用して―――」
そんな、いつも通りの朝を迎えてから約5時間。教室の黒板では、午前中最後の授業が、教師によって繰り広げられている。
「・・・ふぅっ」
少し疲れてきた手を休めて、視線を窓の外に移す。そこには、重苦しさと冷たさを兼ね備えた、初雪を間近に控えた雲が広がっていた。
(・・・雪、ですか・・・)
そんな雲を見て、今朝の夢を思い出す。
・・・・真っ白。
・・・・雪。
・・・・虚無。
・・・・光。
とり止めのない4つの言葉が、まるで糸となり、結び付くように、唐突に一人の少女を連想させた。
(あゆ、さん・・・)
あの冬に、真っ白な雪の道で出会った、天使のような―――いや、実際、天使だったであろう、少女。
・・・自分が退院する時に知ってしまった、彼女の正体。
初めて知った時は、本当に驚いた。
・・・自分の見ていた、感じていた、暮らしていた世界が、まるで嘘のように思えた。
でも、その一方で時々、こう思うことがある。
―――今の私の時間は、彼女が、あゆさんが自らの代わりに私にくれたものなのでしょうか?
―――あゆさんが眠り続ける代わりに、今の私が居るのではないのでしょうか?
そう考える度に、少しココロが痛む。
<人は、何かを犠牲にしない限り、何かを得る事などできない―――>
以前、偶然テレビで見た、そんな言葉が頭をよぎる。
・・・今の私の時間が、あゆさんの犠牲の上で成り立っているのなら・・・
「じゃあ、今日はここまでだ。次の問題は次回解説するから、各自でやっておけよ」
授業の終りを告げるチャイムと共に、教師が教室を出て行く。
「あぁーーっ、疲れたぁ!!」
「やっと終わりましたね」
前の席の女の子が、教科書やノートを机に放り込み、まるでこらえていたものを吐き出すように、勢い良く振り返った。
「ま、ずっと寝てたけどね」
あははーー、と無邪気な笑みを浮かべ、背伸びをする。
「・・・ノートは写させませんよ?・・・そう言えば、もうすぐテストですよねぇ・・・」
少しわざとらしい動作で、声を低くして言ってみた。
「ちょ、待って!後でジュースかなんか・・・あ、アイスクリーム奢るから!!ね?」
必死の目で哀願をしてくる友人。・・・計算通りだけど、少しかわいそうな気もする。
「約束ですよ?」
それでも、アイスクリームの誘惑には勝てず、気付けば満面の笑みでノートを渡していた。
「あはは、いつもごめんねぇー」
嬉々として、ノートを受け取る少女。
・・・それにしても、いつもこんな調子で、お財布の中身は大丈夫なんでしょうか?友達として、色々と不安です・・・
「ねぇ、今日も栞は、先輩とお昼でしょう?」
ノートを大事そうに鞄に入れる少女の脇から、別の友人が歩み寄る。
「えぇ、そうですよ♪」
「相変わらず、仲良いよねー」
「うぅ・・・あたしも早く彼氏が欲しい・・・」
「あはは、それじゃ、また後で・・・失礼します」
「うん。行ってらっしゃーい」
「うぅ〜・・・」
友達の見送りを受けながら、2人分のお弁当を持って、教室を後にする私。
・・・今の私の時間が、あゆさんの犠牲の上で成り立っているのなら・・・
精一杯、楽しんで、この時を楽しまなきゃだめです。・・・そう、思います。
「よぉ。栞。遅かったな」
いつものように屋上に上ると、そこには、すでに祐一さんが待っていました。
「すみません。お待たせしました」
2つあるうちの1つのお弁当を、祐一さんに渡す。
「おぉ、悪いな。やはり、朝から全力疾走は腹が減ってな・・・」
嬉しそうに、お弁当を食べ始める祐一さん。その姿を見て、私も少し嬉しくなる。
「そういえば、今日も遅刻ギリギリでしたね。窓から見えましたよ」
「いやぁ、最近、名雪の寝起きが輪をかけて酷くなってきてる上に、今日はおれも寝坊しかけてなぁ・・・」
大変だったぞ、としみじみ言いながら卵焼きを口に運び、満足そうに微笑む。ちなみに、その卵焼きは結構自信作だったりする訳で。
・・・それにしても、自分が寝坊しかけても名雪さんを起こす辺りが、祐一さんらしくて。・・・少し、名雪さんが羨ましいけど。
「最近、寒くなってきましたからね。・・・その所為か、昨夜は、少し変な夢を見ました」
「なに?」
唐突に話を切り出した所為か、手を止める祐一さん。・・・確か、前の冬の終りにも、こんな事があった気がする。
「えぇ。・・・視界が一面、真っ白で・・・他には、人も、音も、物も、なにもありませんでした。ただ、それだけです。
・・・けど、そんな景色が、何かを・・・誰かを、思わせるようでした」
穏やかに笑いながら、話す私。
「そうか・・・」
少しの間、沈黙が流れる。
けれど、その沈黙は、心苦しいものではなくて・・・
「その誰かは・・・雪が降る頃になったら、またひょっこり現れるかもな」
沈黙を破って、話す祐一さん。その目は、私の言いたいことを解ってくれているようでした。
「その時は、ぜひ、お礼がしたいです。・・・例えば、鯛焼きを差し上げたり」
「あぁ。・・・そうだな。・・・そう言えば、重箱の弁当、作らなくなったよな」
再び手を動かした祐一さんが、ふと、そんなことを言い出した。その手にあるのは、普通の弁当箱。
「はい。流石に、お姉ちゃんに止められましたし。・・・それに、食べ切れませんしね」
「あぁ。流石に、あれはキツイぞ・・・」
「私としては、たくさん食べてもらった方が嬉しいんですが・・・」
「いや、気持ちは解るが、限度ってあるだろ?」
「じゃあ、その限度を上げる為に、明日から少しづつ量を増やしましょうか?」
少し、悪戯っぽく笑ってみた。
「いや、栞の場合は、ステップが急激そうだからな・・・。例えば、次がいきなり弁当箱2つとか」
「いくら私でも、そこまではしませんよ。・・・そんなこと言う人、嫌いですよ!?」
「悪い悪い。冗談だって」
何気ない、いつも通りの場所の、いつも通り楽しい会話。
去年は、私の誕生日まで生きることが、私の夢でした。
その夢は、本当に現実となって今があり、その現実は変わらないように見えて、実は少しづつ変わっている。
・・・例えば、お弁当が重箱じゃなくなったり、
少しづつ寒くなってきたり、
祐一さんも私も、卒業後のことを考えるようになったり、
日々を過ごすことを目標としなくなり、日々を過ごすことに意味を見出すようになったり。
そんな風に、少しづつ変わっていく。
その日の夜に、また白い夢を見た。
良く憶えてないけれど、夢の中で、あゆさんと話せた気がした。
雲がかかったように朧気な記憶だったけれど、あゆさんは「ありがとう」と、
「ボクも、もう少ししたらまたそっちに行けると思うよ」と、言ってくれた気がする。
「ん・・・朝・・・ですね」
再び目を開けると、いつもよりずっと寒かった気がして、
窓を開けたら、そこには、真っ白な―――初雪がありました。
あの白い夢は、雪と、あゆさんの訪れを表すものだったらいいな、と思いながら。
「栞、早く起きなさい。今日は多分、道が滑るだろうから」
「はい!すぐ起きます!!」
「どうしたの?妙に嬉しそうね」
「うふふ、秘密です♪」
変わり続ける、過去に持っていた夢の姿―――「日常」と、
これから起こって欲しい、起こすべき、未来への夢の姿―――「希望」と、
唐突な、何かを告げるような眠りの中の夢の姿―――「予感」と。
その3つを抱えて。
「おはようございますっ」
私は今日も、この名も無き夢たちが織り成す世界を、歩み始める。
光を見つけるように、
光を放さぬように。
今日も、変わる続ける世界へ、歩き出す。