届け、胸に秘めた想い
私の名前は安倍美凪。来年の3月に高校を卒業し、大学へ進学することが決まっている。決まっているとい
うのは、既に推薦入試で進学を決めているから。
進学が決まった今、特にやることが無くて暇をもてあましている。そんなことを言ったら、まだ大学に合格し
ていない人達に失礼だけど。
進路への悩みはもう無くなったけど、他の悩みが二つほどある。
一つ目は、片思いだけど好きな人がいること。告白しようとは思ったことあるけど、いざというときになって
緊張してしまう。そんな自分が恨めしい。
そして、もう一つの悩みは――
今、5人目の家族――家族と呼ぶかどうかは分からないけど――と過ごしている。もっとも、それは僅か数日
間の間かも知れない。
問題は、その家族にある。
「なぁ、何をそんなに悲観しているんだ? あ、そうか。便秘で悩んでいるのだな。それとも、あの日か?」
「そんなわけないでしょっ!」
思わず怒鳴ってしまった。多分、私の顔は真っ赤だろう。頬が火照るのを感じた。
「はぁー……」
「お、ため息か? 知っているか。ため息をつくたびに、幸せが一つずつ逃げていくぞ」
「…………」
私は無言のまま、奇妙な格好をした家族を睨んだ。
「誰が、私の苦労を増やしていると思ってるのよ……」
「む、それは心外だな。俺はお前に呼ばれたんだぞ。そのまま、願いを叶えるために居着いているんだからな」
「それはそうだけどねぇ……」
「だったら、早く願い事を言ってくれないか。あ、一つだけだからな。願い事の数を増やすってのは無しだ」
我が物顔のように、勉強机の上に座りながら、うんうんと頷いているそれを見ながら、私は半分後悔していた。
勉強机の上に座っているそれは、人間ではない。まあ、それを見た時点で人間ではないのは明らかだけど。
身体は小さく――そうでなければ、勉強机に座れないだろう――父さんの掌ぐらいの大きさしかない。背中か
らは蝙蝠のような翼が生えている。ついでながら、尻尾まである。一応服を着ているみたいだけど、私から見た
ら寒いのか寒くないのか分からない格好。本当、見ているこちらの方が寒くなってきそうだわ。
オカルトに詳しい人なら、精霊か悪魔だと言って騒ぐだろう。
「叶えられる願いといっても、スケールの大きいものはなしだ。いくら俺でも、やれることは限られているから
な」
彼は自分のことを、精霊と言っている。本当かは疑わしいけど、確かな証拠がない上に、自分が呼んだのだか
ら信じるしかない。
話は数日前に遡る。
「はぁ……」
私はまた後悔していた。
今日も思いを寄せている人と二人だけになったのに、緊張のあまり会話が弾まず、世間話だけで終わってしま
い、結局告白できなかった。
「何でこんな性格に生まれたのかしら……」
ぼやいても、返事が返ってくるわけではない。
諦めて、友人に借りた『誰でも叶う恋のおまじない 100選』という本――宣伝文句としか思えないタイト
ルに不安を隠せないが――に目を通すことにした。
最初に目に入ったのは……。
『マンドラゴラクッキーの作り方。これで、意中の人はイチコロ!』
「…………」
見なかったことにして、次のページをめくる。
『藁人形と五寸釘だけで――』
続きに何かが書かれてあるが、それを読むことなくページを飛ばす。
ぱらぱらとめくってみて、頭を抱えたくなった。どれも、まともなおまじないじゃない。むしろ呪いの一種じ
ゃないかしらと思った。
借りる前に、内容を聞いてから借りるべきだったと後悔したけど、もう遅かった。
「はぁ……」
この本を貸してくれた友人に悪気はないと思うけど、読む側としては頭を抱えたくなる。
しょうがないので、もう一度まともな物がないか読み直す。
そして、一つのページに目がとまった。
『どんな願い事も叶えてくれる悪魔を捕まえる方法』
悪魔を信じているわけではないけど、それ以外にまともそうなのはなかった。
やり方はいたって簡単らしい。合わせ鏡という、二つの置き鏡を向かい合うように並べてから、鏡と鏡の間に
瓶を置くだけ。
半信半疑だけど、やってみることにした。置き鏡のうち一つは自分の部屋にあるけど、もう一つは下の部屋に
ある化粧台から持っていかなければならない。あと、悪魔を捕まえるための瓶も。
それを用意するのに、さしたる時間はかからなかった。
「さてと……」
置き鏡の前に瓶を置き、もう一つの置き鏡を向かい側に置く。
本当に捕まえることが出来るのか疑わしいけど。もし、捕まらなかったら、別の本でも買おうかな。でも、そ
れだとお小遣いがもったいないような気がするなぁ。
そんなことを考えていると――
「おい、お前か。俺を捕まえるために罠を置いた奴は」
「……え?」
私以外誰もいないはずの声が聞こえたので、思わず周りを見回す。異常はないよね……?
「おい、そこの娘」
さっきの声は空耳ではなかったみたい。瓶の中に、奇妙な生き物が入っている。
「……これが悪魔?」
信じられないようだけど、身体は小さいし、羽や尻尾があるから間違いはないと思う。
本や映画とかで、怖そうな悪魔だと思っていたけど全く予想外だった。生意気そうな所はあるけど、怖く見え
ない。
「ねぇ、本当に悪魔なの?」
「悪魔? 何のことかは知らんが、俺は悪魔じゃないぞ」
「え……?」
悪魔じゃない? 見た目はどう見ても悪魔だよね……。
「悪魔じゃないというのなら、何なの?」
「精霊だ」
「精霊!?」
精霊と聞いて、咄嗟に思い浮かんだのは童話とかディズニーの映画とかに出てくるメルヘンチックなものだっ
た。しかし、それはついさきほど、音を立てて崩れそうになった。
めまいでよろけそうになりながらも、何とか踏ん張る。
が、自称精霊の方は立ち直る時間を与えてくれそうにはなかった。
「それで、お前は俺を捕まえて願い事を叶えるつもりだろう」
「え?」
急にそんなことを言われても、咄嗟に願い事が思い浮かばない。
「その様子だと、願い事を決めずに俺を呼んだのだろ」
「うっ」
本当のことなので、答えに詰まってしまった。
「その様子だと、図星だな。困った。当分、帰れそうにないな」
「帰れそうにない? あなたの世界はどこにあるの?」
「それを簡単に教えると思…う…か……」
途中から声が小さくなっていく。よく見れば、なんだか苦しそうにしている。
「ねぇ、どうしたの?」
すると、自称精霊は蓋の方を指差している。
蓋……?
蓋に目を移して、あることに気付いた。瓶の蓋はきちんと閉められている。ずっとその場にいれば、空気が減
っていくわけだから……。
「大変っ!」
急いで瓶を取り上げ、蓋を開けた。
「ふー、死ぬかと思ったぞ。この責任、どう取ってくれるんだ?」
「責任って……」
「ともかく、願い事を言うまでここに居座るからよろしくな。あ、決定事項だから追い払おうとは思うなよ」
私の返事を待たず、勝手にクッションの上で寝転がる。
強引だと思ったが、自分が蒔いた種なので何も言えない。
時計を見て、
「嘘っ!? もうそんな時間!」
寝ないと危ない時間になっていたので、私も寝ることにした。その時になって、一つ聞き忘れていたことがあ
るのを思い出す。
「聞くけど、あなたの名前って何?」
「俺の名前? そんなのはどうでもいいが、キルケだ。ああ、お前の名前は聞かん。人間の世界には滅多に足を
運ばないから、興味がこれっぽちも無いのでな」
そう言うと、再び寝転がった。
気になるところは他にもあったけど、それは明日にでも聞き直すということにして、取りあえずは寝ることに
した。
こういういきさつで、私は五人目の奇妙な住人と過ごすことになったわけだけど――
キルケから色々と聞いたんだけど、悪魔や天使に対する認識は人間とは違うらしい。
「悪魔や天使なんてのは、存在してねぇんだよ、それは人間の思い違いってことだ」
「……え、そうなの?」
初耳だった。悪魔という種族は存在しない。逆に、天使も存在しないという。
「じゃあ、あの本に載っていたのは……」
「本?」
キルケの目線が、友人から借りたおまじないの本に注がれる。
「……なるほどな。誰かは知らんが、こんなものがあるおかげで、俺はとんだとばっちりをくらった訳か。まっ
たくだ。
あれはな、精霊の捕まえ方だ」
あのおまじないが、本当は精霊の捕まえ方なんてのは初めて知った。
「じゃあ、何でも叶うっていうのは……?」
恐る恐る聞いてみる。
「小さな願い事ぐらいなら叶うが、それ以外は無理だな。精霊の力は個体によってバラバラだ。俺は小さい方だ
な」
「じゃあ、大きな願い事を叶えるのには、強い力を持っている精霊を捕まえる必要があるのね」
「それは正しいが、普通の人間には到底無理なことだ。長く生きると、力は強くなるが、同時に扱いとかが困難
になるわけだからな。
以前、古い精霊を捕まえようとした馬鹿がいたらしいな。どうなったかは知らんが、おそらく力を制御しきれ
ず、逆に倒されたって話だ」
「ということは、大金持ちになれるとか有名人になれるとかは出来ないのね」
「そんな願い事を考えていたのか? 流石の俺でも、それは無理だ。で、本当の願い事はまだか? それが決ま
らないと、俺が帰れん」
「ああでもないし、こうでもないし……」
私の本当の願いは、あの人と両思いになれることだけどね。でも、それを口に出すのが恥ずかしい。
こうやってごまかしているけど――
「さては、男だな? あれか?」
親指を立てて、もう一方の手でそれを指差す。
慌てて顔を背けると、キルケは翼をはばたかせて、私の正面に姿を現す。逆方向に顔を背けると、同じように
して前に姿を現す。
また顔を背ければ――
「図星か? それとも、本当はこれなんだろ?」
親指を引っ込めて、代わりに小指を突き立てる。
……どうやったら、その発想に行き着くのかしら。取りあえずは、キルケを黙らせることにした。
ちょうど手元にあった教科書――厚さが2pほどある現国の奴を手に取る。
「ま、待て。図星だからといって、強硬手段に出ないで大人しく話し合おうじゃないか」
「大人しくしてなさい!」
バシッ!
爽快な音を立てて、叩き落とされたキルケは床に墜落する。その上に教科書を落とす。
「ぐげぇっ」
蛙が挽き潰されたような声を出したけど、あえて無視することにした。
その時。
「美凪。何か音がしたが、大丈夫か?」
と兄さんの声が聞こえてきた。
「え、いえ、大丈夫よ」
直後、ドアが微かに開けられ、兄さんが顔を覗かせる。キルケのことを知られるわけにはいかないので、慌て
てキルケごと教科書を足で隠す。
「……?」
そんな私の行動を、兄さんが怪訝そうな顔で見つめてくる。
「と、ところで、どうしてこんな時間に?」
「あのなぁ、美凪。俺がこんな時間に、お前の部屋に来る用件は限られているだろう」
「えっと……」
時計の針を確認してみる。ちょうど9時半を指している。
「……もしかして、風呂?」
兄さんは頷いた。
「俺はこれから課題を済ませなければならんから、部屋に戻るからな」
そう言って、兄さんの顔がドアの隙間から消える。
三つ年上の寿文兄さんは隣の市にある大学に通っている。専攻は電子工学だけど、生憎なことに私は機械に詳
しくないから、専門用語とかにはお手上げ。
まあ、私はどちらかというと文系なんだし。
寝間着や着替えを手に部屋を出ようとした時。
「言い忘れたけど、付いてこないでよ」
といっても、当分は教科書の下敷きになって身動きが取れないけど。まあ、部屋を出ようとはしないからいい
か。
そのまま、部屋を出る。
後ろから、
「せめて、この重いものをどけてくれ」
という声が聞こえてきたけど、あえて無視することにした。
余談になるけど、風呂から上がった時、キルケは息も絶え絶えといった状態で教科書から脱出していた。
「凪ちゃん、おはよう」
「あ、陽ちゃん」
私に挨拶してきたのは、友人の松永陽子。三つ編みのお下げに眼鏡という、委員長を任されそうな顔。そし
て、実際に私たちのクラスの委員長を任されている。
ついでながら、あのおまじないの本の持ち主でもある。
早い話、私とキルケが出会う羽目になった原因を作った人でもあるといえる。まあ、好奇心に駆られて、キル
ケを呼び出した私の方が責任重大だけど。
間違っても、「あなたから借りた本にあったおまじないを試してみたら、本当に悪魔を捕まえました」なんて
のは言える訳がない。言ったら、これこそ最後だ。瞳を輝かせて、色々と尋問して、その挙げ句には私の家へ乗
り込んでいくだろう。
「英語のテスト、結果が悪かったら補習をやるらしいわよ」
「げっ」
推薦で合格したからよかったものの、私は英語が苦手科目だったりする。幸い、進学する大学は英語以外の外
国語がある――その大学に通っている先輩から聞いた――から、それを履修することにしよう。
ともかく。英語教師の谷本先生は個人的に、私の天敵だったりするわけだ。
「はぁ……」
「あー、まあ、補習にならないことを祈ってるね」
投げやりっぽい様な気がする励ましの声。それでも、私にとってはちょっと有り難いことだった。
英語のテストが赤点になってないことを切実に願いつつ、自分の席に着く。
教科書やノートを取り出すために鞄を開け、
「よぉ。ここはたまにゆらゆらと揺れるから、寝心地が良いかも知れないぞ」
バタン
周りを見回した。幸いなことに、さっきの声は聞かれていない。
冷や汗を流しつつ、もう一度鞄を開ける。
「なあ、何で閉めたりするんだ? わざわざ挨拶を交わしたのに」
どうやら、目の錯覚でも気のせいでもなかった。鞄の中には、いつの間にかキルケが入り込んでいた。
いつ潜り込んだのか問いつめたいところだが、なるべく声を落として話しかける。
「……何であんたがいるのよ?」
「俺も不思議だ。気がついたら、いつの間にかここにいた」
もしかして、キルケって夢遊病みたいな所でもあるのかしら?
「外の状況は分からんが、出てはまずい状態なのか?」
取りあえず、最大限の嫌みを言った。
「思いっきり、ね」
「ふむ、そうか。その様子から察するに、紛争地帯とかジャングルとかにでも迷っている状態か? それとも、
宇宙人にでもさらわれたりでもしたか?」
どうやったら、その発想に行き着くのかしら。それに、何でキルケがその言葉を知っているの?
「違うわよ。ここは学校」
「学校? ああ、一種の軟禁だな。そこに通っている人間は学問とかに縛られて、無益な時間を浪費せざるを得
ないというそうだな」
「……なんか凄いことを言っているけど、それほど無益な訳じゃないのよ?」
キルケの言う通り、学校生活を一種の牢獄と思っている人がいるのかも知れない。私の場合、友人がいるか
ら、それなりに楽しい学校生活を過ごしている。その辺だけ、無益とは思わない。
「ふむ、やっぱり人間は不思議な生き物だな」
私から見れば、あんたの方が不思議な生き物だけど……。
「とにかく、静かにしてて」
というか、ずっと大人しくして欲しい。
キーンコーンカーン
チャイムが鳴った。取りあえず、教科書とかを取り出し、キルケ以外何も残っていないのを、そしてキルケが
ちゃんと鞄の中にいるのを確認してから、鞄をフックに掛ける。
もちろん、きちんと閉めるのを忘れなかった。
進学が決まってからは、勉強に打ち込む必要性が薄くなっている。期末試験が既に終わっているのだから、尚
更だったりする。
テストが返ってきたら、その後の授業はほとんど自習に近い。
それでも、クラスメイトの多くは参考書を片手に、勉強に取り組んでいる。私のような推薦組は暇なのだが、
かといって勉強の邪魔をするわけにはいかない。
静かに本を読むか、居眠りするかの二者択一。生憎なことに本を持ってきていないので、今日は寝て過ごすこ
とに決定。
進学先がまだ決まっていない陽ちゃん――教壇に近い席で参考書を片手に勉強している――には悪いけど、ぐ
っすり寝ることにした。
その繰り返しで、あっという間に昼になった。テストが終わっている今、授業は昼までになっていて、HRが
終わったら、あとは自由になる。
いつもなら、友達の何人かと一緒にテストの憂さを晴らすべく騒ぐはず。だけど、受験シーズンを来月に控え
ている今、そんなことをする人は少ない。誘いを断られ、すごすごと帰っていく人が何人か目撃された。
もちろん、私もその一人。
親友の陽ちゃんは当然のことながら誘えず、他の友人に声をかけてみた。しかし、他の友人達も来月に受験を
控えている人が多く、誘いは失敗に終わった。
そうなった以上、すごすごと家に帰って暇な午後をどうやって過ごすか考えなければならない。
それを考えると、少し憂鬱になってしまいそうだった。
鞄の中でキルケが何やら喋っているらしい――幸か不幸か、キルケのことはばれていない――が、あえて無視
しながら、退屈な午後のつぶし方を考えつつ、廊下を歩いていた時。
「よっ、安倍」
「きゃっ! だ、誰……?」
いきなり、後ろから声を掛けられたので思わず驚いてしまった。
「そんなに驚かなくてもいいことじゃないか……」
「え?」
振り返って、声の主が誰なのか分かった時、更に驚いた。
「檜室君……!?」
驚いたようなポーズで目の前に立っているのは、隣のクラスの檜室誠司君。弓道部の主将を務めている人で、
ルックスはそんなにかっこいいわけではない。頭も良いわけではない。
要するに、どこに出もいるような平凡な人。そう思わせておいて、そうではなかったりする。でなければ、弓
道部の主将に就いていない。
そんな人だが、実は私が思いを寄せている人でもある。……今は片思いだけど。
というのも、以前、市の公立体育館で対校試合に出場した時、いつもとは違って見える檜室君の姿に一目惚れ
してしまったからなの。
告白しようとは思ったことあるけど、いざというときにあがってしまう性格のため、なかなか出来ずにいる。
それでも、声をかけた甲斐があってか、今は友人以上恋人未満という関係になれた。最大の難関はあがり症に
伴う、告白する勇気のなさ。
ラブレターを使ってみるという手段がないわけではないが、友人曰く、そのやり方は遠回しになりがちだとか。
ともかく、檜室君と一緒にいるだけで心臓の鼓動が早くなっている。
「檜室君は用事とかない……?」
「いや、残念だがこれから部活のミーティングがあるんだ。主将だし、後輩への指導が一番大切だからな」
「あ、そうなんだ。頑張ってね」
「おう。じゃあな」
手を振りながら、檜室君の背中を見送った。誘えなかったのは残念だけど、どことなくほっとしている。
もし、誘うことに成功していたら、緊張していたことだろう。だから、ほっとしている。
そのはずだったのだが……。
「ねえ、あそこを走っているのは弓道部の檜室君じゃない?」
「何で走っているのかしら?」
「ミーティングがあるからでしょう」
「それが、マネージャーの真下さんと付きあっているって噂が出てるのよ」
「本当?」
「あくまでも噂だけど。でも、この間、二人で一緒に帰っていくのを見かけたわよ」
たまたま聞いた二人の会話を聞いて、愕然となった。
その後どうしていたのかは覚えていない。
気がついた時、私は自分の部屋の中にいた。
泣きはらしていたらしく、目の辺りが痛い。
「随分と目が赤いぞ」
「ほっといてよ!」
「感情的になると、周りが見えなくなるぞ。落ち着くにはだな、セオリー通りに頭を冷やすのが一番なのだが、
それでは面白くない。裸で外を走り回るとか……ぐえっ」
キルケの声が聞こえなくなったのは、私の投げた枕が命中したからだった。
本当、デリカシーってものがないのかしら。
けど、あの話を聞いた時、平静ではいられなかった。
弓道部のマネージャーをやっている真下香葉子さんという人は、結構可愛い部類に入る。同性の私から見ても、
それなりに可愛いと思えるほどだ。
そりゃあ、私だって友人曰く、可愛い部類に入る方だけど、それでも真下さんには及ばない。どっちが可愛い
か? と聞いたら、ほとんどの人が間違いなく真下さんを選ぶだろう。
おまけに、頭脳明晰、運動抜群と非の打ち所がない。
逆に、私の成績は真ん中辺りで、運動神経は人並み。勝てるところと言えば、料理が出来ることだけ。
もう、ほとんど勝負にならないといっていい。
彼女はもててもおかしくはないのに、彼氏がいるという噂はあまり聞かないのが不思議なくらいだった。
檜室君も似たような状況だけど、まさかこんな噂が流れてしまうなんて……。
このままじゃ、先手をとられてしまう。それだけはいや。
でも、私はこんな性格だから……。
どうすればいいのかな、と色々考えていた時。枕の下で「う〜う〜」唸っている物体が目に入った。
「……ねえ、キルケ」
「何だ? 願い事でも見つかったのか?」
「ええ、見つけたわよ」
「それは良かったな。聞きたいところだが、その前にこいつを退かせてくれ」
……あ、怒りにまかせて枕を投げつけたんだったわ。
枕を退かせてあげると、キルケは飛び立ち、目の前に並んだ。
「それで、その願い事とは何だ?」
「それはね――」
想いは言葉にしないと伝わらないから。その言葉を、どこかで聞いたことがある。
ドラマや漫画だけの世界と思ったけど、それは現実の世界でも同じだと言うことに気付いた。
今の私は、漫画のヒロインと似たような境遇に立たされている。あのヒロインも、私と同じ様な気持ちだった
のかしら。
だから。
「私に、告白できる勇気を頂戴」
「それは変わった願いだな。いいだろう。次、学校に行く時、俺を連れて行けよ。今日みたいに」
「連れて行ったんじゃなくて、あんたが勝手に鞄に潜り込んだだけでしょ」
そう突っ込んでおくのを忘れなかった。実際、キルケのことがばれないかと冷や汗をかいたんだから。
次の日は天皇誕生日で休みだったので、頭を冷やす時間が取れた。そのおかげか、告白するための言葉を考え
ることも出来た。
終業式や、その後のHRもとっくに終わっている。
で、あとは檜室君を呼び出して、思いっきり告白すればいい。それだけなのだが……。
「ああ、もう! 何で足が動かないのよ!」
「凪ちゃん……?」
「あ、陽ちゃん。驚いちゃった?」
いえ、と陽ちゃんは首を横に振った。
「で、何があったの?」
「そ、それはその……」
どう言おうかな、と考えを巡らしていた時、
「ふふふ……」
急に笑い出した。
「え?」
「これから檜室君に告白でもしてくるんでしょ?」
ギクッ!
「な、何のことかな……?」
「やっぱりねぇ〜。凪ちゃんが目を逸らしたら、何かを隠している証拠だからね」
私にそんな癖があったのかしら……? 今度から気を付けようっと……。
「ど、どうして分かったの……?」
「それは、ね。檜室君と話している時の凪ちゃんの様子が、他の人と話している時と比べて違うから」
うぁ、陽ちゃんには見抜かれていたのね……。
「ま、友人として応援してあげるから、頑張ってね!」
そう言って、陽ちゃんは私の背中をバシバシと叩いた。ちょっと痛いけど、励ましが心に染みた。
「先ほどの友情ドラマはなかなか良かったぞ。生きる者同士、友情を深めるための儀礼は必要不可欠だ。もっと
友情を深めるためには、抱擁とか裸の付き合いとかが……」
「お願いだから、それ以上言わないで」
せっかく、キルケのことを少しでも見直そうと思ったのに、破廉恥な言葉を平気で口に出すとは思わなかった。
わ、私だって、そう言う話が嫌いなわけではないのよ。でも、私はまだ高校生――あと数ヶ月で大学生になる
けど――なんだから、心の準備というものが……!
「よう、安倍」
「きゃっ!?」
後ろから声をかけられ、心臓が口から出てしまうのではないかというほど驚いた。
って、今のは一昨日と同じシチュエーションじゃない……?
「そ、そんなに驚くことなのか……? 一昨日も同じ様な驚き方をしていたし……」
声をかけたのは、やっぱり檜室君だった。
「い、いえ、考え事をしていたから……」
「? まあいいか。話があると聞いたが、何の話なんだ?」
檜室君を呼ぶ役割を陽ちゃんが果たしてくれたので、彼女に少し感謝している。今度会ったら、料理でも振る
っておかないと……。
ともかく、立ち振る舞いを正しくした。
「檜室君に大切な話があります」
大切な話と聞いてか、檜室君の顔が真剣なものになる。その顔を見ると、やっぱり緊張してしまう。
(とうとう告白だな)
「わ、私は……その……」
ああ、やっぱり言えない!
でも、このままだと協力してくれた陽ちゃんに申し訳ない。
(何をもたついている? ああ、そうか。お前は踏み込む勇気がないのだな。俺も後押ししてやる)
途端、頭の中が軽くなったような気がした。緊張もいつの間にか消えている。
これなら、言えるかも知れない。
改めて檜室君の顔を見つめた。
「檜室君!」
「は、はい」
「私は……檜室君のことが好きです!」
やっと言えた……。
言われた方の檜室君はというと、呆気にとられている。
「もう一度言います。私、安倍美凪は檜室君のことが好きです。ですから、よろしければ――」
付きあってくれませんか? と言おうとして、待ったをかけられた。
「実はな、俺も安倍のことが好きだったんだ」
え? 檜室君も、私のことが好きだった……?
「ただ、告白する勇気がなくてな……」
そ、それって、檜室君も私と同じように、告白する勇気がなかっただけ……?
うじうじ悩んでいたのが馬鹿みたい。
「ぷっ」
「な、何で笑うんだ!?」
「だって、私も告白する勇気がなかっただけよ」
「ああ、そう言うことか。確かに馬鹿だな。俺達は」
しばらくの間、お互いに笑い合った。
確かに、私達は馬鹿なのかも知れない。でも、そのおかげで、大切なものを見つけられたんだから。
と、あることに気がついた。
「ねえ、真下さんとは何ともないの?」
「真下さん? ああ、マネージャーのことか」
私は頷いた。
「既に彼氏持ちだとよ」
「へ……? 彼氏持ち?」
これには驚いた。
「前、一緒に帰ったというのは……?」
「ああ、あれか。備品の買い出しのついでに、彼氏の愚痴を聞かされただけだよ。後者の方は、もう勘弁して欲
しいけどね」
要するに、情報が何処かで齟齬をきたした訳ね……。早い話、私の早とちりとも言える。
「……もしかして、妬いていたとか?」
「なっ……!」
「そこまで思われている俺は幸せ者かもな」
「檜室君の馬鹿っ!」
「まあまあ、落ち着けよ。何か奢ってやるから」
「……パフェ一つ」
「そんなもの、おやすいご用さ」
「まあ、そうだろう。人間という生き物は非常に現金なのだよ」
一瞬、血の気が引いた。あいつがいるのを忘れていたんだったわ。
「そんなんだから、贈賄とかが――」
慌てて、キルケの身体を掴んで、鞄の中に隠そうとする。だが、遅かった。
「安倍。これは……?」
信じられないものを見たような表情で、檜室君がキルケを指差していた。
「よう、お前とは初めまして、だったな。俺は精霊様のキルケだ。訳ありでその女と一緒にいる羽目になった
が、別にいかがわしい関係ではないぞ。そもそも、俺があいつと一緒にいるのはだな――」
一歩も動けない私の手の中で、キルケが雄弁そうに何かを話している。
「ひ、檜室君。あんまり驚かないで欲しいけど、そいつ――キルケの言っていることは本当なの。嘘と思うのな
ら、触ってみて」
「俺は玩具じゃないぞ。俺は生き物だから、玩具として弄ばされない権利を要求するぞ。おい、聞いているの
か――」
何かまくし立てているけど、それを無視して、檜室君に渡す。
「……本物?」
私とキルケは同時に頷いた。
「そして、多分、私達のキューピッド」
「……つまり、俺と安倍を引き合わせてくれたってこと?」
「はずれ。告白する勇気を与えてくれたのよ」
「そういうことだ。二人とも、俺に感謝してくれ」
「ああ、それもそうか」
「ところで、檜室君。私達は恋人同士だよね……?」
「その通りだ。相思相愛であることが分かった以上、法律的にも認められるぞ。籍を入れれば、晴れて夫婦に」
「お願いだから、キルケは黙ってて」
せっかく良いムードになっているのに、それを簡単にぶちこわしてくれるから困る。本当に黙らせるため、鞄
の中にねじ込んだ。
「邪魔が入ったけど、話を続けるね。恋人同士になったから、お互い名前で呼ばない?」
「それは良いんだが……安倍が受かった大学ってどこだ?」
「安倍じゃなくて、美凪。それと、私はK大よ」
「K大か……」
K大は私立だけど、そんなに難しいところじゃない。勉強を頑張れば、何とか行けるところだろう。
「ひ……じゃなかった、誠司君」
自分から提案してきたのに、実際に言ってみると、何か少し恥ずかしい。
「何?」
「応援してあげるから、一緒の大学に行けるよう頑張ろうね」
「それもそうだな……」
後で誠司君が私を好きになった理由を聞いてみたら、彼はこう答えてくれた。
「可愛いし、何よりも料理が上手かったから」
以前、調理実習で作ったクッキーを、告白のつもりで誠司君に贈ったのがきっかけだという。
おまけ
卒業式が終わり、四月から大学生となる。誠司君は私の励ましの元、精一杯勉強した。その誠司君は今、K大
に行っている。
今日が合格発表なのだ。私も行きたかったけど、遠慮された。その代わり、携帯で結果を教えて貰うことに
なった。
「ねぇ、帰るんじゃなかったの?」
キルケはと言うと、何故か精霊界に帰らず、そのまま私の家に居着いている。
「前言った通り、ここが気に入った。二人がどうするのか、そのまま見届けてやるさ」
と言うのが、帰らない理由だったりする。
キルケの話によると、一度人間の世界に行った精霊は簡単に戻れないという。多分、後者の方が最大の理由だ
ろう。
最初は戸惑っていた誠司君や家族――ふとしたことがきっかけでばれてしまったが、何故かキルケの存在をす
んなりと受け入れた――も、キルケの存在に慣れている。
幸いなことに、マスコミには知られていない。
今や、キルケは五人目の家族として、私達と一緒に暮らしている。五人目を当てはめるのかは微妙だけど。
「たまには、その誠司君とやらを呼んで、スキンシップでもしてみるのも一興だぞ」
「そ、それが出来るのなら、苦労しないわよ……!」
私の家族も誠司君を気に入り、もはや安倍一家の一員となっている。
私が呼ばなくても、家族の誰かが誠司君を呼ぶ。そんな毎日だから、誠司君と一緒に居られるのが嬉しい反面、
ちょっと申し訳ないかなと思ってしまう。
「そう言えば、合格発表とやらはどうなんだ?」
時計を見てみる。正午だった。合格発表の結果が来てもおかしくはない。
「そろそろ来るはずなんだけどね……」
携帯を手に取ってみる。ちょうどその時、着メロが鳴った。
「良いタイミングで鳴るとは流石だ。まさに一心同体と言うべきか……。そこまで結び付きが強いからには、一
蓮托生だぞ。いや、比翼の翼連理の枝でもいい。とにかく、それを貫け」
「あー、はいはい」
キルケの言葉を適当に流しつつ、画面を見る。誠司君からだった。
「もしもし、誠司君?」
『そうなんだが、今どき、もしもしはないだろう……』
「それで、合格発表はどうだった……?」
『ああ、それはな……』
胸が少し高鳴った。
『――合格だ!』
その言葉を聞いて、ホッとした。
「合格のようだな。こちらにまで聞こえたぞ。これで、大学生活はバラ色決定だな。うん。それは素晴らしいこ
とだぞ」
キルケの言葉をまた流しながら、
「おめでとう、誠司君」
『ああ、半分は美凪のおかげだからな』
大学生になっても、私と――この不思議な精霊との日常は変わらないと思う。
でも、最初の頃とは違うことが一つ。それは、大好きな彼がそばにいてくれることだけ……。
口には出さないけど、心の中で、誠司君と私をつなぎ合わせてくれた不思議な精霊――キルケに感謝します。
完