どんなに人が鈍間でも、季節というものは変わらず変わる。

冬が終われば春が来て、春が過ぎれば夏が見え、夏に飽きれば秋を感じ、秋が眠ればまた……冬が来るのだ。

もちろんそれは、日本に住んでいる限り変わり映えのしないこと。

でもそれはきっと、体験できて嬉しいこと。

だから、そう。

「祐一〜、それこっち〜」

水瀬家にだって、冬はやってくるのだ。




































天に夢見る蒼い石




































ここの土地柄ゆえか、「雪」というのはさして珍しいものでもなく、また真冬に降るものでもない。

今年になって初めて知ったことだが、十一月には普通に雪がちらほらと笑顔を向けるのだ。

秋を感じる暇なんてなかったな、と思うところなのだが、やはり「冬」という季節を俺は待っていたのだろう。

まあもちろん、きっと俺が待っていたのは冬というよりも……や、なんでもない。

「しかしまあ……天野に黙って誕生日パーティーとは。あいつ、予定は大丈夫なのか?」

俺はちらりと壁掛けカレンダーを見やった。

今日の日付、6の赤い数字がさらに赤丸で囲まれ、「忘れたら殺す」と物騒なことが書かれている。

名雪もあゆも、もちろん秋子さんだってこんなことは書きはしない。俺もしない……しないよ?

だから残るは一つ。居候の第二号。栄えある恐怖な名前第一号。肉まん星人bO001。つまるところ……。

「……なにじろじろ見てるのよぅ」

「さあな」

殺村凶……もとい、沢渡真琴、その人であった。

本来ならば友達思いなところがある、と褒めてやる所なのだが、如何せんなぜかこいつを素直に褒める気にはなれない。

いや、それを名雪に言ったら反面教師だというし秋子さんは似たり寄ったり、あゆに至っては「どうぞくけんお」と豪語してくれた。

まったくもって不愉快である。特に誰とは言わないが一番最後の発言(平仮名なのがまたムカツク)とかが。

「ちょっと張り切りすぎちゃったかしら……?」

秋子さんは困ったように(でも顔は微笑みながら)頬に手を当てて呟いていた。

どうやら後三週間の後にあるクリスマスを意識しているのか、料理はマンネリにならないような配置だ。

とにかく素晴らしい、と思った。あと隣で「なんだこの完璧超人は」はみたいな目で見ているあゆは後で叱っておこうと思った。

「全然そんなことないですよ。あ、それはそうとこれはちょっと片付けておきますね」

俺も大分慣れたなぁ、とか思いながら笑顔のままにさらっと「大きめ小瓶」を二つ両手に持った。大きめのところで矛盾している。

多分そのときの秋子さんの悲しげな顔は忘れられない。その顔に萌えていた俺に対しての名雪の顔も忘れられない。

俺は暖房の効き過ぎなどでは絶対ありえない類の汗を流しながら、どうにかビンを所定の位置に戻した。

改めてキッチンからリビングを一望してみれば、そこは正に「誕生日会」の色を強く強く出している。

光る星やライトに飾られたツリーは当たり前(昨日までどこにもなかったよな……?)。

壁一面を流すように垂らされた淡いピンクの幕に、今日だけ趣向を変えた可愛らしいテーブルクロス。

なにより、豪華に絢爛をつけたし華やかで飾って端整で終わるような料理の数々。

言うまでもなくあゆと真琴は手をつけていない。二人元気に部屋の装飾という任務を果たしていた。

「ん……?あ、香里からだ」

名雪が、何かに気づいたように突然声を上げた。

それはどうやら携帯のようで、生意気にも新型でありカメラの何百万画素がどうのこうの、と宣伝していた奴である。

のくせに入っているのは十人強のメンバーに部活の奴らだけ。

深い狭い、というよりは遠くを見渡して尚狭い交友関係を保つ従妹だ。

でもそれは、北川以外のほぼ全てのメンバーに言えることなのだが。(ちなみに北川と栞以外、である)

「香里、今から栞ちゃんと一緒にくるって。手伝いできなくてごめんって言ってるよ」

「言っては無いだろ」

「……書いてあるよ」

「祐一君て時々わけわからない時にイジワルになるよね」

「黙れあゆあゆ。煮付けにして喰っちまうぞ」

うぐぅ、とあゆ語を発しながら秋子さんの影に隠れるあゆ。こいつ、学習してやがる。

「どうせ北川は呼ばなくても来るだろうし、舞は佐祐理さんがOK出したから来るだろうな」

いや、一応北川も呼んけどな。一応。義理で。情けで。ああ、一応。

「でもいいのかしら。皆でパーティーよりも……」

なにやら含みを残した言葉を放ち、そのまま微妙に楽しそうに言葉を区切る秋子さん。

名雪は隣で「そうだよ〜」と頷いていた。意味が分かるだけに、こいつに言われたくはない。

「ま、いいか。真琴、天野は本当に来るんだろうな?」

「え?あ、うん。両親には言っておくって言ってたし」

「……両親?」

俺は嬉しそうに喜ぶ真琴をよそに、頭で意味を半濁させながらオウム返しに聞いた。

そういや、人の言葉をオウム返しにするのってなにも考えてない証拠だって誰かが言ってたな。ああ、そいつ出て来い。

「あれ?祐一って美汐の両親知らないっけ?ほら、ねぇ?」

「いや、知ってるが……インパクトが強すぎて」

「だってほら、美汐の両親だし……ねえ?」

先ほどとは違った、ある種否定したいけど肯定しかないような言葉で返す真琴。

確かにそうだな、と思った。しかしなんであの両親から天野が生まれたのか、謎だ。いや、外見はともかく。

……ていうか、なんだろうな?この土地は。

俺は秋子さんのツヤツヤツルツルでテカテカな真っ白な肌を見た。衰えを知らないどころか、逆に若返っているような気さえする。

「? どうかしましたか?」

「いや、娘が美人だからって母親も例外なく美人ってのは遺伝子学的にどうよ、と深く考察している所存であります」

「ああ、美汐ちゃんのお母さん、お美しいですからね」

あなたも込みですよ、と声に出したがったがどうせ本気にとってくれないので却下。

とりあえず約束の時間まではたっぷりある。

全ての準備が終わった俺たち(名雪と秋子さんは料理がある)は、のんびりとテレビでも見ることにした。

つまらないニュースもどこか晴れやかに見える。? 今新薬発明者のところに「水瀬」って出てなかったか?

「なにかやってませんかね?」

突如、秋子さんがにこにこ顔のままリモコンを操作した。あれ?キッチン、キッチンにいましたよね?

「なにか?」

「なんでもありません」

所詮俺は弱い人間だと思い知らされた。

というか、ここまで来たらこの人はきっとあの時の事故でも死ななかったのではなかろうか?という疑問さえ湧いてくる。

摘み食いをしようとした真琴とあゆを鉄拳で沈ませながら、俺はもう一度時計を見た。




















「お邪魔します」

「こんにちはですー」

秋子さんについての謎が深まってから十数分後、やけに気合の入った格好をした美坂姉妹がやってきた。

二人とも冬らしくコートを羽織っているのだが、それを脱げばこう……女を感じてしまうような服装だ。

でも栞、お前コートの下にストール……いや、別にだからどうしたという理由だんだが。



「久しぶりね、名雪」

「ちょっと前に終業式で会ったよー」

「三時間会わなきゃ久しぶりなのよ」

「そうなの?」

「俺に聞くな。ついでに俺は三分会わなきゃ久しぶりだと思うぞ」

「そうなのかな?」

「わ、私に聞かれても……でも多分二人とも違うと思いますよ?特に祐一さんとか」

「知ってて言ってるからな」

「分ってて言ってるもの」

「二人とも、もしかして酷いこと言ってる?」

「酷いことはいってないぞ」

「酷いことは、ね」

「えぅ〜、二人の後ろに竜虎が見えます〜。あ、でもお姉ちゃんのはなんか禍々し――」

「栞?長生きするコツは健気に生きることよ」

「っっ!祐一さーん!妖怪コンブ女が私の頭を叩き割って……!」

「それは酷いな。今すぐ外科手術だ。うぉ!あまりにも強い力で叩かれたためか頭蓋骨が粉々に……?!」

「相沢君?あなたは古人の誰に会いたいかしら?坂本竜馬?松尾芭蕉?織田信長なんてあなたらしいわね」

「おっとすまん栞。俺は三兆円もらわないと手術しない主義なんだ」

「なんですかのブラックジャックも真っ青の値段は!」

「うぐぅ、栞ちゃん、後ろ、後ろ」

「しおしおー、幸運を祈るわよー」

「志村?……えぅ!?おねいさま!?」

「あら栞。どうしたの?手術しなくちゃいけないんだものね。任せておいて。これでも大学では医学部志望よ」

「ってことはまだなにもやってないじゃないですかーー!」

「相沢君、固定してくれる?」

「え、あ、いや……」

「固定しろって命令よ」

「イエス!マム!」



なんてほのぼのとした会話が今しがたあったのだ。

ちなみに皆、床に突っ伏すように大の字になっている栞のことは意図的に避けている。

栞は栞で、「高校三年の相沢祐一さん、憐れな子羊を助けて下さいげふぅ!」とかうつ伏せでやっているから怖い。

ただ元気そうなので放っておくことにした。

「楽しそうですね」

「まあ、元よりいい奴らですからね。それはそうとこれは没収です」

俺は再度食卓に現れていた謎の橙な物質を両手に持つ。ちなみに右手には二つが存在している。一個増えた。

「美味しいんですよ?」

「ええ、そうですね。はい。そうです」

とかなんとか流しながら、それでも所定の位置には戻す。俺って結構苦労人。

「あ、香里も栞ちゃんもプレゼント持ってきたんだ」

「当たり前でしょ。夕飯だけご馳走になるわけにいかないじゃない」

「ちなみにお姉ちゃん、センス0なんですよ。だって誕生日特集のレディース本漁って……えぅ!?」

「栞?可愛い可愛い私の妹。あなたは「ビー・クワイエット」という英語の意味が分かるかしら?」

「わ、わかるよ」

「そう。聡明な妹で助かるわ」

わざわざ日本語的なニュアンスなのは、なにか意味があるのだろうか?

それ以前に栞。いつ復活したんだ。そして口からはみ出すオレンジの粒はなんだ。答えてくれたらお兄さん嬉しい。

「祐一さん、私はいまご機嫌ですよ?」

「なんでわざわざ俺にそんなこと言うんですか」

俺ってボケ系統のキャラだと思ってたのになぁ、とか思いながら律儀に隣に立つ秋子さんに答える。

その向こうでは、香里と栞を含めた五人がプレゼントについてあれやこれやと話していた。

さすがに皆もうなれてしまっている。

十年来の親友のような雰囲気。実際に知り合い交友を始めたのは、まだたったの九ヶ月前だというのに。

良かった、と思う心とすごい、と感嘆する声が混じった。女三人寄れば姦しいというが、なんとも。

俺はしたり顔でリビングにいる五人に寄っていく。ついでにキッチンの方に戻っていった秋子さんに釘を刺す。

どうやら今の話題は、天野美汐をどういう口実で呼び出すか、らしい。

今頃になって決め始めていることに寒気を感じたが、真琴は既に「用件がある」とは言っているらしいしこちらには香里もいるのだ。

結局のところ、「ちょっと話したいことがある」と真琴がメールをすることになったらしい。

ちなみに、その間に出た案に「えぅ〜!バニラアイスの軍勢に押し寄せられて困ってる、これで決まりです〜!」というのがあった。

――誰とは言わないが。

蛇足として、「タイヤキ屋のおじさんが美汐ちゃんを家で呼んでた、はどうかな?」もあった。

――誰の発言かは黙秘するが。

閑話とすれば、「天野さんのおじいちゃんが夢枕に現れて(以下略)なんてのはどうかな〜?」もあったようだ。

――俺は目尻を押さえ、香里と北川のありがたさを噛み締めたのは秘密だ。

秘密ったら、秘密だ。




















「あはは〜。こんばんは皆さん。今日はお招きありがとうございます〜」

「……よう」

「あ、川澄先輩に倉田先輩。どうぞ〜」

美坂姉妹が現れてから数十分後、今度はバイトで忙しいだろう先輩’Sもやってきてくれた。

淡い栗色の可愛いコートに身を包んだ佐祐理さんと、どうやら自前らしい機能性重視の舞。

俺は多分、来ている姿を見なくてもどっちがどっちのコートだか分っただろう。

なんというか、二人ともイメージを損なわない人たちである。真っ直ぐと称すのが一番かもしれない。

「? 佐祐理さん、天野にプレゼントは持ってこなかったんですか?」

どうやら舞は動物のぬいぐるみらしきものを抱えていた。リボンだけはしてあるが、あれは……狐?

可愛くデフォルメされた狐がふさふさの毛に包まれている。

なるほど、いい選択といえばいい選択かもしれない。そしてどこまでも舞らしい。

「……名前はアンジェリカ」

「いや、それはおかしいだろ」

「……もんきっきぃ」

「待て待て待て」

「……こんこん狐さん」

「……許容」

「許容なの?相沢君」

香里が微妙な表情で聞いていた。

どうも香里や天野など、知的キャラは舞を苦手としている節がある。

いや、それでなくとも知的と天然は対極に位置する(と俺は個人的に思う)のだ。

なんとなく話のピントが合わないところがあるんだろうな。でも舞も最高素材天然の佐祐理さんも頭はいいんだよな。

少なくとも、「アンジェリカ」という名前にときめく某アイス娘よりは全然。

「あぅ〜……」

「……あぅあぅ狐さん?」

一旦ぬいぐるみを佐祐理さんに預け、「こんこん狐さん」を見ていた真琴に近寄る舞。

しかし真琴は寡黙で無表情……というか感情の起伏に乏しい舞を一番苦手としており、一歩壁際に下がった。

「狐さん」

「あぅ〜、真琴は人間よぅ!」

「……ごめんなさい」

「え?あ、うん?」

……不毛だ、と顔を逸らした。

香里と目があった。

「不毛ね」

それは、言っちゃ駄目だって……。

「ところで倉田先輩、天野さんにプレゼントは……」

名雪がそーっと意見を出した。

「一つはちょっとここに持ってくるには不便でしたから〜。一日遅れですけど、多分明日には「届く」と思いますよ〜」

「うぐぅ、なにが……」

「全自動洗濯機と三泊四日草津の旅ペアチケットです」

全自動洗濯機!!?

ていうか温泉のペアチケット!?

「相沢君……倉田先輩て……」

「言うな。多分頑張ってプレゼントを選んだはずなんだ。はずなんだよ」

「そう……それと向こう、凄いことになってるわよ?」

すごいこと?

俺がくるりと首を動かすと、壁際に追い詰められた年末居候組みの二人があぅあぅうぐうぐ言いながら手を取り合っていた。

はて、一体どういう状況なのだろうか。ちなみに俺は年始居候組みである。一人だし意味解らんけど。

「こんこん狐さん。うぐうぐ魚さん」

的確っ!

俺がグッ、と舞にサムズアップしてやると、佐祐理さんもよく意味が分ってないようだが舞に頑張れとエールを送っていた。

ただ少し、ほんの少しだけ貞操教育上勘違いが生まれそうだったので、俺は顔をそらした。

恐らくそこは頑張っちゃいけない領域。

「秋子さん、媚薬の使用は許可ですか?」

「そうですね……今は危ないお薬よりも、睡眠薬のほうが安全ですからそっちならば」

「なら大丈夫です!ちゃんとベンゾジアゼピン系のマイスリー超短時間作用型の奴ですから!」

「なら安心ですね」

「なにが安心なものですかあなたたち」

俺はポケットからババーンと飛び出した怪しげな錠剤の入ったそれを奪う。

それを悟った栞は酷いだ悪魔だぶーたれていたが、パーティーの飯に薬物混入させることは酷くないのか?

ラベルに書かれた「愛の家族計画」に眩暈を催しながら、後で北川に媚薬と称して売りつけてやろうと心に誓った。

「なにやってんだお前は」

「ぶー、だって祐一さん、いつまでたっても私のこと見てくれないじゃないですかー」

「あのな……普通なら十分見ている範囲だろうが。そもそも俺はなんで彼女じゃない奴とデートしてるんだ?」

「それでも完全に二人っきりじゃないじゃないですか!いつも誰かとペアだし!私の気持ちも考えてください!」

何故か逆切れされた。

とても理不尽だと思った。

とりあえず真琴を抱きかかえて満足そうな舞の元に栞を送ってやる。

あいつの場合はなんだ?「えぅえぅアイスさん」だろうか。

ん……?アイスは動物じゃないのか。じゃあセミか?すぐ死ぬし。「えぅえぅセミさん」。

はっきり言って俺は御免だ。

「人数も増えて、楽しそうですね」

「ええ。だからこれはその楽しいを終わらせないために撤収させていただきます」

俺は三度現れたそれ……ああもういいよ。言ってやるよ。ジャムだジャム。

とにかく、そのジャムの瓶を両手に二つづつ持って(また一つ増えたな……)キッチンまで歩いていく。

その際、秋子さんに可愛く恨み言なんて言われたせいで微妙に心がぐらっと動いてしまうほどには俺は健全な高校生。

どうでもいいけど秋子さん。あなたこれ何個所持しているんですか。

がっくりと肩を落とした秋子さんは、「美汐ちゃんのプレゼント」を持ってきますと一時退場した。

「あぅあぅあぅあぅ」

「うぐうぐうぐうぐうぐ」

「えぅえぅえぅえぅえぅえぅ」

「うにゅうにゅうにゅうにゅうにゅ?」

「あんた達、なにやってるのよ」

「あはは〜、楽しそうでいいですね〜」

「…………皆野性的」

こりゃ、どういう状況よ?




















「よー美坂。栞ちゃん、水瀬さん、先輩方、月宮さん、真琴ちゃん、秋子さん、ついでに相沢」

「帰れ」

まったくもってウザイ登場をしてくれた北川にソバットを炸裂される俺。今までにないほど綺麗に決まった。

どうやら名前の順がそのまま好感度や友好度を表しているようだが、俺をついで扱いした罪は重いのだ。

「さあ帰れ北川。最期のお情けでお前のプレゼントだけは受け取ってやろう」

「ゆ、指輪とかでも?」

「却下ついでのコークスクリュー!」

ボキャ、となにか聞いてはいけない音がした気がした。

そのくせ俺の隣では、香里の登場に満を持してアンテナ動かしながら無駄に爽やかな笑みを浮かべる北川の横顔。

こいつと栞と秋子さんだけは、きっとなにがあっても生き残るだろうと俺は予期していた。

というか、秋子さんならばノストラダムスの頭をぺちぺち叩いていても不思議ではない。

「あ、北川君はCDなんだね〜」

「ああ、天野さんクラシックとか好き言ってたからな。ま、ありきたりだけど」

苦笑しながら恐らく今買ってきたっぽいアルバムを取り出す北川。

ベートーベンやバッハを選んでくる辺り、こいつのクラシック音楽についての会見がよくわかる。

「で、相沢は何なんだ?ん?」

妙に生き生きとした顔で、しかもこれ以上ないゲームをしているような楽しそうな声で俺に詰め寄る北川。

金髪アンテナも元気にぐるぐると廻っている。受信、という奴だろうか。

俺は近づいてきた北川をレバーで沈めると、ぽいっと片手で華麗にあゆたちの方に北川を投げ込んだ。

「うぐぅ、なにこれ」

「いらなーい」

ささっと避ける二人。中々にいい反応をしてくれる。

放物線を描きながらエコーを残していた北川は、フローリングの大地に熱いベーゼを交わしたところで静かになった。

「おおきたがわ、しんでしまうとはなさけない」

「後復活の呪文が違ってたりするのよね」

俺のネタに唯一ついてきてくれた真琴。

心の中でありがとうと言っておくことにした。

「……ラーの鏡」

「バラモスってなんであんな配色なんでしょうね〜」

君達もか。

わいのわいのと喋り続ける女学生の皆さん。

よくもまあ、ネタが尽きないものである。

そして北川、倒れたふりして女性の秘境を除くのもいいが後ろには阿修羅様(香里)が立っているぞ。でも表情は般若。

ゴスン、とかバキン、とかに続きグチャ、ベチャと水音になってきたそのスプラッタ光景を記憶の彼方のシュレッダーにかける。

その間も笑顔のままに喋り続けるのだから、雪国の女性はたくましいと思えるのも無理はないはずだ。

「そして秋子さん、あなたが一番たくましいですよ……っと」

俺は既に両手で抱えるようにジャムの瓶を持っていた。ちなみに五つである。

ここまでくると意地と意地の張り合いの気がしないでもないが……

この人の辞書に諦めという言葉は未来永劫ありえないので、こちらの一方的な我慢比べである。

……だからそんな可愛く哀しげな顔しない。

首をかしげない、「あん」とか言わない、キッチンに戻らない、そして復活していた北川にはブロー&アッパー。

ちらりと時計を窺がってみる。女の子たちの黄色い声が木霊する中で、それでもやはり秒針はカチコチと独特の雰囲気を出していた。

「真琴、そろそろじゃないのか?」

「え?あ、本当だ。それじゃみんなー、ちょっと静かにしてー」

真琴が人差し指を口に当てながら、どこか恐る恐る携帯を取り出した。

ちなみに水瀬家の人たちは全員同じ機種の色違いだったりする。

「――あ、美汐?ちょっと話したいことがあるんだけど……そう、水瀬家に。うん、うん」

どうやら直に天野の携帯にかけたらしい。まあ、天野が携帯を持っていると知った時は心底驚いた物だ。

……いやもちろん、その驚きには分不相応に勢いの乗った悪口雑言の限りが飛んできましたけどね。

「分った、うん。じゃあね」

ピッ、という電子音。

どうやら電話が切れたらしい。

見れば、北川をサンドバッグにしていた香里を初め全員が真琴を凝視していた。

「美汐ね、今から向かうって」

「良かったよ〜、誕生日だから親と一緒だと思ってたけど」

名雪が安心したような、どこか気の抜けた声を出した。

少し糸目になっているのは幻覚……だと思いたいが、俺は現実と闘わなければ先に進めないことを学んだのだ。

「今から二十分てとこか……秋子さん、出迎え頼めますか?」

「ええ。皆さんはクラッカーと最高の笑顔を準備しておいて下さいね」

頬に手を当てて微笑む秋子さん。こういう時は本当に優しいお母さん、といった感じである。

――とりあえず空中大根切りを披露するといい始めた舞を宥めながら、俺たちは天野を待つことにした。




















とても、月が綺麗……。

私はコートの襟を直しながら空を見上げた。

群青よりも強く黒に染まった冬の夜空。田舎だからだろう、一面に輝く星はそれだけで圧倒的な存在感である。

白く色づけされた溜息が後方に流された。寒いけれど、嫌なものではない。

「それにしても……真琴の話したいこととはなんでしょうか……?」

ふと、先ほどの電話の内容を口に出して呟いてみた。

深刻そうな口調ではなかったけれど、健常健啖健康を突き進む彼女にしては珍しいことである。

それでも何より、真琴が私を頼ってくれたというのが一番嬉しい……のだけれど。

「何でしょうね……この気合の入った格好は……」

少し、顔が俯き加減になってしまうのを感じた。

いやまあ確かに私も相沢さん宅って違いました名雪さん宅へ向かうからにはやっぱり相沢さんに会うわけで相沢さんに合うということはそ
れつまりは少しくらいのお洒落はしたいというかそうですこれはおばさん云々のことをはっきりとってああ!

閑話、休題。

少し思考が脱線してしまった。だから早急に切り替えなくては。

だから、そう。

この赤い顔、早く治りなさい。

カツン、と静寂に響く中で思考だけが形を変え私に圧し掛かってくるような圧迫感。

いえ、ですからね?

私も女というか今日は私の誕生なわけでして、母はなぜか孫に期待するし父はどうしてか豪快に笑い飛ばすだけですし……。

閑話休題、路線復帰、思考改竄。

何をやっているのだろう。

そう、私は、天野美汐は、沢渡真琴の話を聞きにきただけではないか。

確かにレアチーズケーキやレモンタルトが食べられないのは若干名残惜しいものの、それは帰ってからの楽しみでいいのだ。

だから今日は、真琴の話を聞きに行くだけなのである。

私の誕生日だとか、若干一名に祝ってもらいたいだとか、でもきっとあの人は私の誕生日なんて知らないだろうとか……。

そんなことは、全然関係ないのだ。これっぽっちの一欠けらも。

だから、だから、だからだからだから、

水瀬家のインターホンを押す指が、なぜかもどしかしいなどと……。

そんなことは、あってはいけないことなのだ。










ピンポーン










飾り気のない、うちと同じようなチャイムの音。

押してしまった。押してしまった!いや、別にだからどうしたということはないのだけれど。

気合を入れるように深呼吸する。――っっ、深く吸いすぎてしまった。む、むせる。

一寸待ちなさい私のシナプス。だからどうして気合を入れる必要がありますか。

…………ああ、もう駄目だ。

これ以上自分を騙せる気がしない、というか無理。

だから、そう、天野美汐という存在は……。

あいざ「あら、こんばんは」に私のたんじょ……、、、?

「どうしたのかしら?」

「!!……え、ええとですねそちらに私の真琴がってなにが私のですかいやだから真琴が真琴で真琴を――」

「?」

いきなり、それは反則だと思った。

いつもならインターホン越しに会話するのに、いきなり秋子さんが出て来るだなんて……心の準備もさせてくれないのか。

ああ、真琴の電話の内容を聞いていたのなら、私だと分っても不思議じゃないのかもしれない。

でも、でもでもでも!

「……美汐ちゃん?真琴ならリビングにいますよ」

「あ、はははいっ」

無駄に大きな声が……こんな酷なことはないでしょう。

暖気によってではないだろう、赤くなってしまった顔に冷えた手を当てた。

顔が冷える、というよりも手が温まると感じてしまうほどなのだからどうやら今の私は随分と参っているらしい。

秋子さんはいつものように軽く微笑みながら私に先を促した。

……どうでもいい話なのだけれど、一体この人は本当に幾つなのだろうか?

ふわふわの来客用スリッパに足を通しながらふと思う。彼女の外見は如何見ても二十代である。

いや、それならば私の母もそうなのだが……なにか、この人は一戦を博しているというか……。

「どうぞ」

ノブに廻された手が、ガチャリと音を立てた。

向こうでは……そういえば夕食の時間帯だ。私では到底及ばないいい匂いが漂ってきている。

それにしても静かである。相沢さんが食卓にいるのならこれほど静かなわけが……。









パパパパパパパーーンッッ!!!










!!!!!?

脳髄が麻痺するような大音量。

私は咄嗟に耳を押さえ、少しでも鼓膜にかかる負荷を軽くしようとし反射的に目を瞑っていた。

「い、一体なにが……」

耳を抑えているせいで、くぐもりながらも一際大きく自分の声が水瀬家のリビングに響く。

私は暗転しか視界となにやら瞼の向こうでさざめくガヤガヤとした雰囲気の正体を探ろうと、必死で少しずつ目を開けた。

そこには……。

『天野美汐、お誕生日おめでとう』と書かれた垂れ幕と……。

「「「「「「「「「「Happy Birthday!!!」」」」」」」」」」

無駄にいい発音で私を出迎えてくれた、数えれば十にも登る様々な異口同音の声。

そして、それはつまり、え、だから、私こと、天野美汐を祝ったもので……。

「ま、真琴……?」

私は頭に手をやりながら(クラッカーの残骸が……)私を呼び出した張本人の顔を見やった。

で、その真琴といえば最大級の笑顔で持ってツインテールの髪の毛をさらさらとなびかせている。

これはつまり、謀られた……ということなのだろうか。

いや、もちろん嬉しい。下手をすれば少し感涙してしまいそうなほどに嬉しい。

けれども、それはつまり……ああ、つまりばっかり言っている気がするけどつまり……。

私は顔をせわしなく動かせて、今年の冬……といってもそろそろ一年前になるが、そのときに知り合った人々の顔を流していった。

そして、見つける。

どこか憎めない笑顔で、子供のような笑みで、どこまでも澄んだ瞳で、「相沢さん」はこちらを見ているわけで……。

「神様、ありがとうございます」

「は?」

私、仏教ですけどね。




















「んじゃ相沢、やっぱお前が音頭取れよ」

「俺?」

「そうね、なんてったって……ねえ?」

「佐祐理もそれがいいと思いますよー」

「……(こくん)」

皆がそれぞれのコップを持つと同時に、相沢さんにそんな声がかかった。

皆が皆、相沢さんに似つかわしい笑顔でもって応えている。

もちろん、今や大学生である先輩の一人は私よりも感情の起伏が少ないせいで一見無表情にも見えるが。

「そうだな……それじゃその前に秋子さん、いい加減諦めてくださいね?」

ビュ、と風が走った。

瞬間相沢さんに手には、私もつい先日味わったあの得体の知れない「何か」の詰まった瓶が両手一杯に掲げられている。

……相沢さん、あなたも存外凄い人ですね。

「祐一さん、それは皆さんのデザートにと……」

「秋子さん?いいですね?」

「……はい……」

見ているこちら、しかも同性の私でさえ可愛いと思える未亡人の悲しげな顔。

あなた一体いくつですか、という禁句を心の中だけに留めておいた私は偉い。

そんなこんなで一悶着あったものの、瓶を置いてきた相沢さんが再び「泡麦茶」の入ったコップを手にとった。

さすがの私も、こんな時まで未成年云々と諭す気は無い。

無論、諭せば大丈夫という淡い期待なぞ広大の宇宙の中に煮豆の一粒ほどもない。

「俺はこういうのは苦手なんだがな……んじゃシンプルに、乾杯っ!」

「「「「「「「「「乾杯!」」」」」」」」」

ガチン、と少し強めにグラスが当たる音。

それが始まりだった。

いや、始まりというからにはそれはプロローグ。まだまだ序曲もいいとこなのだ。

「あ!こら真琴っ!それは俺のだ!!」

「へへーん!祐一なんかはツマで充分なんだから!」

「んだと……舞!お前さっきから何個連続ウインナー頬張ってるんだ!」

「……まだ四個」

「大丈夫ですよ祐一さん、まだまだ一杯ありますから」

「やっぱこういうのは、取り分けられた誰かのを狙うのが「お約束」って奴だよな」

「それで俺のか北川ぁぁ!」

「あら相沢君、いらないなら貰うわよ!」

「香里まで!?」

「あ、これおいしそーだよー」

「おい名雪!目の前にあるだろうが!」

「祐一君、こういうときはけちけちした方が負けだよ」

「だからって俺の刺身を持ってくんじゃねーー!」

「みまみま」

「あはは〜、これ凄く美味しいですー」

「えぅ、これはデザートも期待できそうですね」

「ええ、ちゃんと皆さんの好みに合わせてありますから」

「お前らー!俺のところからとってかないで――いやすんません、お願いですから共闘しないで……」

含み笑いが漏れてしまう。

マナーや礼儀、静けさなど何処吹く風、これでは食事というよりも宴会や花見のそれである。

それでも、決して人の心を悪くするものではない。むしろ微笑ましいとさえ思えるのだ。

私は手近にあった唐揚げをつまみながらこの騒ぎの中心の人物を観察する。

今や取り分けるのを諦め、そのまま直に大皿からがっついている相沢さんは既に獣である。

決して大食い大会などではないはずなのに、あれではものの数分でダウンしてしまいそうなほどのペースだ。

それよりも恐ろしいのは、ちゃっかりと不可侵領域を保ちながら笑っている秋子さんだったりもするが。

「あ、美汐さん全然食べてないですー!今日は無礼講ですよーー!」

少し用途が違うような、と苦笑しながら栞さんに一言二言返事を返した。

既に少々出来上がっているようだ。私は飲む気はないが、一体どんな種類のお酒を……。

「あらあら、さすがにウォッカは早かったかしら?」

「秋子さん……?」

「冗談ですよ」

絶妙のタイミングでぽつりともらした秋子さんに疑いの眼差しを向けてみる。

さすがにウォッカはやらないと思うが、断定できないのが怖いのだ。

彼女の場合、明日地球は滅亡していると言えば本当に滅亡しているかもしれないと少し考えてしまうのである。

いや、MMRのメンバーを呼ぶ事態にならなくて良かったとか、そんなことは毛頭関係ないのだけれど。

「キバヤシさんですか?」

「読心術はあまり気持ちいい物ではありませんよ?」

「なんとなくです」

やはり微笑む秋子さん。

頼みの綱を見てみれば、どうやら栞さんとあゆさんの絡み酒にやられて大分参っている様子だ。

……明日、ペドと呼んだら彼はどんな顔をするのだろうか?

「えぅー!分ってるんですか祐一さん!少女の好意を無駄にするなんてあなたは鬼ですか!悪魔ですか!この魔人ブー!!」

「栞、俺はブーではないしそれはけろぴーだ。(そしてむしろお前は幼女だ)」

「祐一君!み、見て見て!空飛ぶタイヤキがところせましと……!」

「数でも数えてろ」

うんざり、といった様子。

それでも付き合っているのは、彼の人徳からといったところか。

いや、むしろ口調では隠しきれていないものが嬉しそうな表情に出てしまっているが。

「……」

「みなさーん!なんとここで舞が一発芸をお披露目ですよー!」

突如響いた明るい声に、私はなんとはなしにそちらに目を向けた。

「……」

そして一閃。

大学生コンビの片割れが、その右手をぶらしたかと思うと……なぜか空中を踊っていた大根は綺麗に四分割されていた。

いや待て、おかしい。それはおかしい。だって斬る音が一回だけだった。

「スパスパですよー」

おおおーー、という歓声。

なにかが間違っている、という声が唯一酒を飲んでいない私の中に広がっていた。

「スパスパですぅ、アンコール、アンコール!」

「でも大根の無駄は経済的じゃないわね……」

「北川君ならきっと大丈夫だよー、ね?」

「いや待て水瀬さん、さすがの俺でもそれは少々……」

「あら北川君、無理?」

「おらぁ!どっからでもかかってこいやぁ!」

阿鼻叫喚。

その言葉の意味を、私は恐らく初めて知った。




















目が唐突に覚める。

暗転した視界に色がつき、モノトーンだった世界が彩りに溢れていった。

俺は視界一杯に広がる天井に飽きたところで自分が寝ていたのだと思い出す。

「っっ……少し飲みすぎたな……」

時計を見やれば、最後俺が自我を保っていた時から既に二時間が経過していた。

他のメンバーよりも大分控えたとはいえ、俺は元より酒に弱い、べらぼうに弱い。コップ一杯で顔が赤くなりはじめる程弱い。

でも言うと飲まされるから言っていない。いつだって相沢の業は正しい選択をしてきたのだ。

「お目覚めですか?」

斜めからかけられた声に、俺は声で返すよりも早く首を動かしていた。

「秋子さん……他の皆は?」

「殆どダウンしちゃってますね。飲んで起きているのは私と祐一さんだけですよ」

仄かに桜色に染まり上気した頬で、秋子さんはいつものように笑顔を浮かべた。

けれどその瞳は何時になくトロンとしている。まあ、秋子さんはメンバーの誰よりも飲んでいたからな。

ちゃっかりと北川などを「例の物」の犠牲にしつつ。

「……?飲んで起きているのは?」

言葉のニュアンスに気づいた俺は、重い腰を上げながら秋子さんに聞いた。

「はい、今は……少々席を外していますが、美汐ちゃんは最後まで飲まなかったので」

天野か……お堅い奴だ。

まあ、天野が嬉々として「酒だ宴だ無礼講だぁぁ!」と一気している姿は想像したくでもできない物であるが。

「本当ならちゃんとプレゼントも渡したかったんですけどね、皆さん酔った勢いで渡してしまって」

!!?

俺は急いでポケットを探る。酔った勢いでなんて……そんな雰囲気のないことはない。

「あ、あった……」

指に当たる四角い感触。よかった、あった。

「ふふ、大丈夫ですよ。渡す前に祐一さんは潰れてしまいましたし」

あ、なるほど。

確かにそういえば、パーティーが始まってものの一時間もしないうちに俺の記憶は途切れている。

良かった、酒に弱くて本当に良かった。なまじ強いと……大変なことになっていたかもしれん。

「あ、そうそう。これさっき私がとりにいったプレゼントです」

ポン、と俺の掌に置かれるそれ。

「? なんで俺に………………秋子さん、これネタですか?」

それは、男性御用達の……アレ、だった。

近所付き合いの少ない男でも確実に御用になるあれ。ぶっちゃければ「近藤さん」。

いや、正体の分らない奴はそのままでもいい。間違ってもお母さんに聞いてはいけない。

「必要でしょう?酔った勢いでこう……がばーっと」

まるでライオン(♀)が狩りをするときのように、爪を立てる仕草をする秋子さん。

「いや、それじゃ強姦でしょうが……」

「あらあら、若い頃はお盛んなくらいでないと……」

「秋子さん、俺時々あなたが分りません」

「大丈夫ですよ、あなたにも半分は私の血が流れているようなものですから」

ああ、そういや母さんと秋子さん、双子だったな。

てことはなにか?俺は将来ジャムを精製したり瞬間移動したり読心術を学ぶ仕事についたりするのか?

……あ、ごめん、想像でも無理だ。

「相沢さん……?」

「あ、天野か?」

韋駄天をも超越してスピードで近藤さんを秋子さんの手の中に押し込めながら、なんでもない笑顔で天野を迎える。

ハンカチをしまっていた辺り、トイレにいっていたらしい。

「……その辺り、私や姉さんの血が脈々と受け継がれていますね」

自分の手に残った近藤さんを見つつ秋子さんの一言。

もう、どうにでもしてください。

「皆さん……これでは後片付けもままなりませんね」

「先ほど電話しました。着替えと制服と明日の教材等、皆さんのご両親は大変は理解がいいですね」

つまり、泊まれと同意語。

「……迷惑ではありませんか?」

「このまま帰られてしまう方が迷惑ですよ」

でもどうせ、明日の朝にはここも綺麗さっぱりになっているのだろう。

そんなオーラを秋子さんは感じさせる。一言で片付ければ、「秋子さんに不可能はありえない」。

俺はそんなことを思いながら、喉まで出掛かっている言葉を迷走させていた。

いや、本当ならば今が絶好のチャンスであり、秋子さんはぶっちゃけどうでもいいのだ。

というか、今日やるぞと決めてきたわけで……なんというか、ここで何もしないのは男らしくないというか……。

「あ、あー……天野?」

「はい?なんですか?」

「いや、そのだな……何と言いますかですね、その……」

「? 煮え切らないですね。何です?」

「いや、だから……」

ごにょごにょ、と語尾が小さくなっていくのが分った。

だって恥ずかしいんだもの、だもの。

必死で赤面しないように勤めると、それが元で赤面してしまいになる。

ごほんごほんという空咳での間の持たせもそろそろ限界だ。よし、とりあえず言え。言ってしまえばなんとでも……!

「……祐一さん、私は少しここを片付けてますから、散歩にでも行ってきたらどうですか?」

ねえ秋子さん、あなたって実はエスパーだったりしますよね?

俺はまるで俺の心を模倣したかのように言いたかったことを言ってくれやがった秋子さんを見た。

その際に、あまりにも早く首を動かしたのでグキリ、という音がしたことは些細なことだ。

「いや、秋子さん……でも……」

「ああ、そうですね。酔っているのですから、独りでは心配です。美汐ちゃん、ついていってもらえるかしら?」

「え?あ、はい。私は構いませんが……」

構えよ。

酔った男に素面の女だぞ?何されるかわかったもんじゃないんだぞ?ナニされるか。

や、だからナニの意味をお母さんに聞かないように。お父さんにも聞かないように。

「大丈夫ですか?私も手伝ったほうが……」

「主賓に手伝わせるほど、失礼なことなんてありませんよ」

そしてあの最強の笑顔。

それはいうなれば絶対的権力の象徴であり、抗うことそれ自体が悪。

結局天野(と俺)は秋子さんの無言の圧力に惨敗を決し、そのまま酔い覚ましの散歩に出ることが決定した。




















とても月が綺麗だ、と柄にもないことを思いながら嘆息する。

夜を囃す雲の欠片と散りばめられた星の軍勢。俺の住んでいた都会では決してお目にかかれなかったろう情景の一つか。

車が二台も通れない小道を歩きながら、時折ぽつんと佇む街頭の心もとない光に身を任せた。

十二月、という気温は俺の記憶の中の極寒にも等しい気温であり、今更ながらコタツ常備でないことを後悔していまう。

俺は天野の歩くペースになるべく合わせながら横目で彼女を窺がってみた。

直線でピッタリと前を向いている彼女は、姿勢が良いを通り越してある種洗練されたフォームだ。

「……寒いですね」

不意に天野が口を開いた。

元より口数が多いほうではなく、聞き手に徹している場面もあり、談笑に華を咲かせるタイプでもない天野にしては珍しい。

最も内容は、ただ寒いなの一言で片付けられてしまう物なのだが。

「ああ、寒いな」

「酔いは醒めそうですか?」

「そうだな……こんな寒い中を歩いてれば、醒めるんじゃないか?」

それは、小さな嘘である。

こうして天野と肩を並べているだけで、既に酔いなど億劫の彼方へと飛び去ってしまっているのだから。

こんなこと、もう何回と繰り返している慣れた物だった……ハズ。

いや、言い訳はよそう。自分で意外だと思えるほどに、俺は本番に弱いタイプだったらしい。

なんとか話しは続けなければいけないか、と脱線しそうになる思考のままで思案した。

話題らしい話題もない……と今更ながら、自分の記憶力の良し悪しが馬鹿らしくなってくる。

「今日の誕生日パーティー、どうだった?」

俺が顔を前に固定したまま天野に聞くと、天野が本当に微かに笑いを含んだ吐息を漏らすのが分った。

「とても楽しかったですよ。まさか温泉旅行のチケットを貰うとは思いませんでしたけどね」

夜空の向こうに、輝かんばかりの笑顔で手を振る佐祐理さんが見えた気がした。

「いや、まあ……あの人は天然だからな」

「後、何故か時間がピッタリ五分早い目覚まし時計を貰いました」

夜道の先で、おーいと手を振る名雪がいたような気がした。

「いや……アレは、五分早く行動しろってことで俺がやったんだ。確か猫の奴だったよな?」

「ええ、あれはロシアンブルーでしょうか?」

いや、そんなことは俺の知った事ではないのだが。

一歩を進むごとに天野の顔に多様な色彩が表れていくような、そんな錯覚を覚えた。

「その外にも、カップや服、そういえば香水とアクセサリーも貰いましたね」

妥当なのに、それが誰からのプレゼントか思い浮かばない自分が分らない。

「あの狐の人形も、きっと大切にしますよ」

「そりゃ、舞も喜ぶな」

「さすがに一万近いものを貰うのは気が引けましたけどね」

……あれが?

俺だったら頑張りに頑張っても五千……いや、四千までしか出せんぞ、あれには。

いや、今はぬいぐるみとか高いからなぁ。

「相沢さん」

名を呼ばれる。

凛然と、それでいて、どこか儚くて。

声に形があるのならば、きっとすぐにでも折れてしまいに細いのだろうと思わせるような、そんな声。

「少し、ここで休みましょうか」

天野にしては珍しく、後ろに疑問符がついていなかった。

だから俺も、それにつられるように腰を下ろす。

ここ数日は雪が降ってないおかげで地面は乾燥していた。さすがに、酔い止めで身体を冷やすということは勘弁願いたい。

「ものみの丘から見える景色が、一番好きでした」

「……」

丘の先端に静かに腰を下ろしながら、天野は上向き加減に一言呟くように言った。

「春夏秋冬、ここに来なかった季節はなかったように思います」

「それは、俺もだな。ここ一年ずっとここに通い詰めだった気がする」

「「恋人」ですから、一緒にここへ来たって不思議ではないでしょう?」

「そうだな。「恋人」なんだから、デートする時にここに来ても不思議じゃない」

ああ、そうだとも。

俺が待っていたのは、冬というよりも天野美汐の誕生日で、

「相沢さんは酷いですね。恋人がいるというのに、平気で他の女性とデートするんですから」

「ぐぁ……それを言われると辛いな。どうしてもあいつらには弱い部分があって……」

パーティーを開くよりも、きっとこうして天野美汐の肩に手を乗せて、

「普通なら、とっくに振っているところですよ?」

「普通な奴に、俺の彼女が務まるか……と、言いたい気分だけどな」

「それもそうですね」

ポケットの中にある、それを手にとって、

「なあ、天野?」

「なんですか?」

「結婚、しようか」

誕生石である、ラピスラズリを彼女に見せて、

「――ええ」

そんなことを、俺は望んでいたのだ。

だから、そう、俺は今きっとこう言える。

俺、相沢祐一は、天野美汐を――

「愛してる」

「私も、ですよ」