日本は実に気候に富んだ国です。
 北は亜寒帯、中に温帯を挟んで南は亜熱帯。
 当然、そこに棲む生き物も風土も多種多様であります。
 これはそんな日本の、寒い地方のお話。
 冬には雪がどっかり積もる地のお話です。
 その雪国のどこかに、木の生えることのない丘があるのをご存知ですか?
 その丘はどんな大雪の日も雪が積もらないそうです。
 もし、その丘に心当たりがあると言う方は、僕にご一報願います。
 え? そんなおかしな丘が存在するわけないって?
 僕も初めはそう思いました。
 でも、この話を聴けばあなたも信じられると思いますよ。
 これはそんな丘が生まれた理由を伝えるお話です。





蹂躙されし不浄の地、ものみの丘




     1.モノミの見つけたもの

 時は戦国。
 物の怪や神といったものが確かに存在していた頃。
 変遷し、喪失し……。
 そして、人の心から失われつつあった。
 無秩序な時代を人々は嘆き悲しむ。
 だが、一方で、それは人々が最も自由だった時代なのかもしれない。
 誰もが、己のためだけに生きていた。


 心地の良いぬくもりを感じ、男は意識の水面へと浮かんでゆく。
 浮かび上がり目を開けると、自分を覗き込んでいる顔があるのに気付いた。
 少し薄い色の、長い髪をした娘。
 服装は村娘の質素なものだったが、その容姿は在りし日の貴族が呼び止めたかもしれない整ったものだった。
「あ、生きてる」
「お主は……? 某はここで何を?」
 男は体を起こし、辺りの様子を伺う。
 そして、自分が木の下で倒れていたということを認識した。
 その理由は……。
「はい、これ。いきなり食べると毒だから、アタシと半分こだよ」
「あ、いや。これはかたじけない」
 娘から差し出されたのは、握り飯を油揚げで包んだ奇妙なもの。
 すなわち、今で言ういなり寿司であった。
 男は一つ礼をすると、ゆっくりと無言でそれを口の中へとおさめる。
 未知の食べ合わせに少し不安を感じた男だったが、予想外にそれは美味であった。
 最後に、娘から竹筒を受け取り、中の水を一口あおる。
「すまぬ。助かったぞ」
 改めて、うやうやしく礼をする男。
 娘はそれをみて、ころころと笑うと自分の為に取っておいたいなり寿司をぽんと口の中に放り込んだ。
「気にしない気にしない。助けられる人なら助けてやりたいじゃないか。それで、ソレガシさんは何でこんなところに倒れていたんだい?」
「そ……それがしさん。某はソレガシなどと言う名ではない。ちゃんと名がある」
「あ、そうなんだ。じゃあ、ソレガシってのは何?」
「某というのはだな、自分を指して言う言葉だ。そして某の名前は『蜩』という」
「ヒグラシ……? よく似たものだし、ソレガシでいいじゃん。ヒグラシもソレガシなんだろ?」
 姉御肌の口調でサバサバと喋るその娘は、蜩の言った言葉の意味を全く理解していなかった。
 思わず頭を押さえて唸る蜩。
「もうよい。そなたは某の恩人だ。好きに呼んでくれ」
「あ、うん。それでさ、ソレガシさんは何で倒れてたんだい? 刀持ってるところ見ると、山賊に遭ったってことはないだろ?」
 娘の言う通り、蜩は腰に黒い鞘の太刀を一振り携えていた。
 上等のものとは言えないが、それでも賊に襲われたのなら真っ先に奪われてしかるべきものである。
「まことに情けない話であるが……」
「うんうん」
「路銀が尽きて食うものがなくなったのだ」
「うわぁ……」
「そんな顔をしてくれるな。情けないのは某自身、一番よく分かっておる」
 空腹で倒れ、自分より年端も行かぬ村娘に助けられたのだ。
 それは男として、大の大人として情けないことこの上ないことだった。
 蜩はこの時、齢にして三十過ぎ。
 当時の年齢で言えば既に初老とも言える年齢である。
「ソレガシさんってやっぱり侍なのかい? 随分強そうだけど」
「いや、よく間違われるが、某は退魔士だ」
「んぐっ、たいま……」
「どうしたのだ? あまりに物珍しくて驚いたのか?」
「え、あ、うん。ま、まあそんなところ」
 一瞬、目に見えて慌てた素振りを見せた娘だが、はにかんで頷いてみせる。
 蜩は娘のおかしな態度に首を傾げながらも言葉を続けた。
「この地には狐の物の怪が棲んでおると聞いてな。もしや仕事にありつけるかもしれぬと踏んで参ったわけだ」
「そ、そうかい。こんな遠くまで大変だったよね?」
「うむ。だが、どうやら見当違いだったようだ。こんなのんびりした村だったとはな」
「あはは、そりゃそうだよ。こんな何も無い村に悪さする狐なんているわけないじゃないか」
「やはりそうか」
 木陰の周りに広がる田畑。
 今日もどこかで国と国が戦をしているかもしれないというのに、それを忘れるほどにのんびりとした情景であった。
 赤く染まり始めた空の下、木陰に座る彼と同じ名を持つ蝉の鳴き声が通り抜けてゆく。
「ねえ、ソレガシさん」
「む?」
「これからどうするんだい?」
 左手を腰に当て、右手を外へと広げてみせる娘。
 ここで、これからどうするのか?
 そんなことを聞かれても、蜩には答えようがない。
 やっとのことで辿り着いた目的地に彼の仕事はなかったのだから。
 彼が困惑していると、娘はその手を取って引っぱりあげた。
「うちにおいでよ。まだろくに動けないんだろ?」
「む、だがしかし」
「大丈夫大丈夫。アンタにはそんなこと出来る体力はないだろ?」
 きしししっ、と拳を口に当てておかしそうに笑う娘。
 どうやらかなりのじゃじゃ馬らしい、蜩はそう思った。
「かたじけない。この礼はいつか必ず」
「ちょっと、やめてくれよ。アタシが好きでやってることさ」
「そういうわけにも行くまい。それでは某は盗人と変わらぬではないか」
「んー、それじゃあアンタがアタシと同じ立場にいる時に、その人を助けてあげてよ。それがアタシへの一番の礼さ」
「それは礼とは言えぬと思うが……」
「そんなことないさ。アンタが助けた人がそのうちアタシを助けてくれるかもしれないだろ」
「この世の中、そんな奇特な者はおらぬと思うが。まあ、そなたがそう言うのなら某はそうしてみよう」
「あっはっは」
 蜩の真面目くさい顔を見て娘がさもおかしそうに笑う。
 むっとした様子で蜩は彼女を睨みつけた。
「何がおかしい」
「あ、ごめんよ。でもさ、アタシの目の前にその奇特な人がいるかと思うとさ。あははは……く、苦しい」
 確かに。蜩は娘への礼として他人に尽くすことを考えていた。
 それはたった今、蜩自身が奇特と称したことだったはずだ。
 存外、困っている誰かに少し手を差し伸べる程度は誰にでも出来ることなのかもしれない。
 ひとしきり笑ったあと、娘は左手を腰に当て、胸を張って言った。
 まったく躊躇いのない口調で。
「少しだけ他人の幸せを願う。それだけで世の中は良くなるってアタシは信じてるよ」
 不思議な娘だと蜩は思った。
 この戦国の世の中、権力者も、名も無き者も皆が自分やその一族のために生きている。
 現に、蜩も手にした太刀で退魔士から山賊へと鞍替えしようと何度も考えたことがある。
 彼が娘に助けられることなく、ここで野垂れ死んでいたら、着物と太刀を剥ぎ取られて彼の屍骸は野晒しとされていただろう。
 そんな世の中で、彼の目の前の娘は純粋な他人への思いやりを口にした。
 古の高名な聖でもなければ出来ないようなものでもなく、誰にでも出来るたわいも無いことを。
 娘の言ったことは、蜩もその気になれば難しいことでもないはずだ。
「ああ、そうそう。アタシの名前、まだ言ってなかったね」
 蜩の手を引きながら娘がふり返る。
 夕日を背にした彼女は、長い髪が金色に輝いて、豊饒の時を思わせた。
「モノミって言うんだ。あ、変だって思っただろ」
「いや、そんなことはない。変わっているが、良い名だ」
 蜩は表情を変えずにそう言った。
 取り繕う様子も無い、それが彼の本心からの言葉だと分かってモノミは顔を赤らめた。
 何故なら……。
「うん。アタシもこの名前、大好きだ」
 自分の名前が好きだと言えること。
 それは、彼女が自分とその生き方を愛している証であったから。






     2.モノミの家

 蜩がモノミに案内された家は、どこにでもある藁葺の一軒家だった。
 家の中には藁が敷いてあって、真ん中には粗末な囲炉裏がある。
「あ、そろそろ暗くなるから火を起こすよ」
 そう言ってモノミは囲炉裏の鍋をのけて火打石を持ってくる。
 なにやら、たぷんたぷんと音がするので不思議に思った蜩はその鍋の蓋を開けてみた。
 そして、その中の物を見て押し黙る。
「あ、勝手にその蓋を開けないでおくれよ。大事な物が入っているんだからさ」
「モノミ殿……何故、鍋の中に油揚げなどを漬けているのだ?」
「そりゃ好きだからさ。それに日持ちするだろ?」
「違う、そうではない。鍋は煮物に使うものであろう?」
 蜩が面食らうのも無理はない。
 鍋の中には、何かのダシに漬けられた油揚げがびっしりと浮かんでいた。
「んー、そういう使い方もあるみたいだね。アタシは使ったことないけど」
「この鍋はいつもこういう状態なのか?」
「そうだよ。もうずっと漬けてるからね、いいダシが出てると思うよ」
 確かにそれは否定しない。
 蜩も先ほど口にした油揚げがいい味を出していたことを知っている。
 しかし、これはいくらなんでも異常だった。
 それに、このようなものがこんな農村の小さな家にあるのも変ではないだろうか?
 油揚げを揚げる菜種の油も、味をつけるためのダシも須く嗜好品である。
 加えて、鍋がこの有様では揚げようがない。
「モノミ殿、この油揚げはどこから手に入れたのだ?」
「あ、これ? 村長さんに年貢を出してもらってるんだ。ついでにダシもね」
「年貢の見返りに油揚げ……?」
 ますますもってわけが分からない蜩だった。
 モノミは不思議を通り越して何かが変だ。
 しかし、出会ったばかりでそのようなことを口にするのは失礼であろう。
 蜩はそう思って、その場は追及を止めることにした。
「さてと、火もついたし晩御飯にしよっか」
 鍋から油揚げを数枚取り出し、端にある釜戸に向かうモノミ。
 そして、油揚げに小刀を走らせると、袋状になったそれに釜の中の飯粒を丸めて押し込んだ。
 先ほど蜩に差し出された奇妙な料理である。
「ソレガシさん、冷めてるのは我慢しておくれよ」
「……いつ炊いたのだ、その米は」
「一刻ほど前かな。アタシ熱いの苦手なんだよ」
 どうやら、炊いた米を冷ましがてら散歩をしている途中に行き倒れの蜩を見つけたらしい。
 ちなみに、一刻とは現代の二時間に相当する。
「夏はいいよね。冬は米を炊いてから一刻も待ってたら真っ暗なんだから。まあ、でも冬は寒いから一刻も待たなくてもいいから好きだな」
「結局、どっちが好きなのだお主は」
「もちろん両方さ。一番好きなのは秋だけどね」
「そうか、もうすぐ秋だな」
「うん、とても楽しみだよ」
 再び差し出された稲荷寿司を口にしながら二人はそんな会話を交わす。
 一方は常に楽しげに、一方は極めて素朴に。
「ところでさ。その握り飯、どうかな?」
「腹が減っている時は何でも美味いというのは本当だと実感しておる」
「な、ななな……」
「が、同時にこれほど美味い握り飯を食ったことがないとも感じておる」
 大きく目を見開いて顔を引きつらせたモノミは、蜩の続く言葉を聞いて胸を撫で下ろす。
「ソレガシさん。アンタって人が悪いよ」
「人が悪い? 某がか?」
「そうだよ」
 人が悪いと言われたのが相当意外だったのか、呆然とした面持ちでモノミを見つめる蜩。
「美味しかったのならさ、こう!」
 すくっと、モノミがその場で立ち上がり、両手をぐっ前に突き出して握る。
「美味い!」
 高らかに宣言した後、腰に左手を当てて胸を張る。
 どうやらそれが癖らしい。と、蜩はどうでもよいところに注目していた。
「ってさ。そんな風にもっと喜びを出すべきだよ。そんな仏頂面で淡々と言われても作ったほうは嬉しくないじゃないか」
「すまぬな。某は疲れていて、そのようなことをする気力はござらん」
「あはは、そりゃ悪かった。じゃ、それ食べたら今日はお休みよ」
「うむ、何から何までかたじけない」
 恭しく頭を下げると、最後の一口を腹に納めて蜩は横になる。
 蜩はとにかく、飾らず、必要なことしか言わぬ、そんな素朴な男だった。
 だから、モノミは彼の笑う姿が好きだと思ったのかもしれない。


 蜩が眠りに落ち、日も落ちてからしばらく後。
 家の戸を小さく叩く音に、モノミは鍋の油揚げを二枚掴んで立ち上がった。
 そして、格子の枠を棒切れで叩いて下を覗き込む。
「モノミさまー、お腹減ったー」
「減ったー」
「サナ、ウル……アンタたち里から出てくるなって言ってるだろ」
「だってー」
「モノミさまの油揚げおいしいもん」
「お供え物で我慢しなよ。そんな格好でこんなとこほっつき歩いて、取っ捕まっても知らないよ」
「へーきへーき」
「モノミさまが、ここに住んでから誰も矢の一本も射かけられたことないもん」
「はぁ、まったくアタシも結局甘いんだから。今、格子から落としてあげるよ」
「わーい」
「油揚げー」
「ここで食べるんじゃないよ。持って帰って食べな」
「うん。ねえ、モノミさまは今度いつ帰ってくるの?」
「ミワナさまが心配してたよ」
「里はつまらないんだ。けど、ミワナに心配かけちゃ悪いし、近いうちに顔出すよ」
「うん、お土産に油揚げ!」
「ウルのも!」
「アンタたち、本当はミワナの心配なんてどうでもいいんだろ。毛皮にされたくなかったらさっさと帰りな」
「わ、わわわ、ごめんなさいー」
「サナ、待ってー」


 格子の下から駆け出す小さな足音が遠ざかっていくのを確認して、モノミは溜息をついた。
「まったく、あの子たちは……」
「誰かいたのか?」
「ひゃっ!? そ、ソレガシさん起きたのかい!?」
 奥で寝ていたはずの蜩が体を起こしているのを見て慌てふためくモノミ。
 様子を不思議に思っている様子の蜩だが、目は虚ろではっきりと起きているわけではないようだ。
「あ、あはは、起こして悪いね。近くの子供達が油揚げをねだりに来たんだ」
「そうか。モノミ殿はやさしいから、子供達にはさぞ好かれているのだろうな」
 それだけ言うと、蜩は意識を手放し再び眠りに落ちた。
 それを見て、モノミは額の汗を拭う。
「まったく、冷や冷やものだよ。でも……これじゃバレるのも時間の問題か」
 奥に上がって、蜩の寝顔を観察する。
 退魔士の修行のためか、過酷な旅のためか、その顔は非常に厳しい。
 しかし、頼りがいのありそうな力強さにも溢れている。
「話したら分かってくれるかな? ううん、きっと分かってくれるさ。村の人だって分かってくれたんだから」
 誰に聞かせるでもない、自分自身に言いきかせる様にモノミは呟いた。
 寝床に潜り込んだ彼女の目に格子の外の青白い月が映る。
 きっと、この月を里の者も見ているだろう。
「本当に悪い人なんていないってアタシは信じたいんだよ、ミワナ」







     3.モノミの願い

 翌日、蜩はモノミの家の裏にある畑で、農作業を手伝っていた。
 眼下にはいくつも水田が広がっており、幾人か畦道を歩く村人の姿も見られる。
「モノミ殿。ふと思ったのだが、お主は一人なのか?」
 雑草を引き抜き、脇へと放り投げながら蜩が訊ねる。
 すると、モノミはきょとんとした面持ちで振り返った。
「そりゃ、アタシは一人さ。二人目がいるなら会ってみたいけどね」
「いや、そうではない。家族はおらぬのかと訊いておるのだ」
「え? ああ、家族……ねえ」
「……すまぬ。気が利かなかった」
 気まずげな反応に、慌てて質問を取り下げる蜩。
 それに対して、モノミは苦笑して土まみれの手を眼前で振ってみせた。
「あ、そんなんじゃないよ。うん、家族はいるんだ。ただ一緒に暮らしてないだけで」
「そうなのか。では家族はどこに?」
「向こうに住んでる。時々会いにいってるよ」
 向こう、と山をモノミが指し示す。
 蜩はそれを山の向こうという意味に取った。
 おそらくは、土地が痩せてモノミだけが別の村に移ったのだろう、と。
 モノミの家と田畑は村の外れ、それもさほど遠くない過去に開墾されたばかりのものだった。
 畑の端には中途半端に残されたままの切り株があり、その先は林となっている。
「そういうソレガシさんには家族はいるのかい? あんまり、そんな感じには見えないけど」
「確かに某は天涯孤独の身ではあるが、何故そう思った?」
 蜩ほど無表情という言葉が似合う男はいない。
 そんな男がさも驚いたような顔を見せたのだからモノミはおかしそうに笑う。
「そりゃ、家族がいるならこんな村の外れで行き倒れたりはしてないだろ?」
「……それも道理だな」
 家族か縁者がいるのなら、名前さえ知らぬ村の外れで倒れることもなかっただろう。
 仕事も行き先のあてもない人間であるという分かりやすい証拠だった。
「あんまり悲しそうに見えないとこ見ると、孤児かい?」
「うむ。応仁の大乱で親を亡くしているところを修験者に拾われたのだ」
「そっか。戦で親を失ってる人はこの村でもたくさんいるよ」
「都から離れたこんな北の地までか。……一体、こんな時代がいつまで続くのだろうな」


 人の暦にして応仁元年(西暦1467年)、時の足利将軍家と有力守護大名畠山家の両家で後継ぎを巡る争いが起きた。
 事はそれだけに留まらず、それぞれの後継者候補に全国の大名が後見としてついたために争いは未曾有の戦へと発展する。
 戦火は京の都から全国へと燃え広がり、長きに渡る騒乱は秩序を崩壊させた。
 混沌とする世の中において頼れるものは己の力のみ。
 いつしかこの国は明けることのない戦乱の嵐に包まれていった。


「いつか終わるさ。戦のない世の中はきっと来る」
「何故、そう言いきれるのだ?」
 終わることを祈ることなら誰でも出来る。
 だが、モノミは強い意志のこもった瞳で、そう言い切った。
 蜩には、モノミがこの世界ではないどこかの理想郷から遣わされた者のように思えた。
「みんな余裕がないだけさ。誰かの幸せを少しだけ願うだけで戦なんてしなくて済むだろ?」
「それは確かにそうだが、何百年かかることやら」
 蜩の悲観的な言葉に、一つ溜息をつくとモノミはどかっとその場に座り、空を仰ぎ見る。
「何百年かかってもいい。そのためにアタシ達は命を繋いでるんだ」
「命を繋ぐ? それは、子を成すということか?」
「そうさ。少なくともアタシは、その意味をそうだと考えているよ」
「命を繋ぐ……か」
 ふむ、と腕を組んで考え込む蜩。
 そんな考えも、そんな考えを持った人間にも初めて出会った。
 まるで観念論の理想論なのに、何故か不思議な説得力がある。
 信じて疑わぬ、そんな瞳がそう思わせるのかもしれない。
 少なくとも、武装して己の欲得に溺れている今生の坊主の説法よりは遥かに説得力がある。
「ああ、そうだ。それとさっきのことだけどさ……」
「む?」
「アタシも本当は両親がいないんだ。本当の家族もね」
「何? それでは、お主の家族というのは……」
「そう、孤児の集まりみたいなもんさ。だから親はいなくて兄弟姉妹だけ。皆で里を作って住んでる」
「里だと?」
 そこまで聞いて蜩は不審に思った。
 孤児が集まって里を作っているなどという話は聞いたことがない。
 そもそも里を作るほどの数の孤児がこんな都から離れた地にいるのものだろうか?
「モノミ殿、そなたは一体……」
「黙っていてもそのうちバレるからね」
 そう言って蜩と顔を合わせるモノミ。
「アタシはね……」
 だが、モノミの言葉はかき消される。
 突如起こった叫び声によって。


「モノミ様! 大変じゃー!」
 血相を変えて一人の男が畑へと駆け寄ってくる。
 背中には一人の男を背負っていた。
「川沿いのとこに住んでる次郎さんじゃないか。どうしたんだい?」
「へ、へえ。それが……」
 次郎と呼ばれた男はモノミの前に来ると、その傍に見知らぬ男の姿があるのに気付いた。
 汚れて破れてはいるものの、明らかに村人より高価な衣を身に纏っている。
「モノミ様、このお人は誰なんで?」
「ああ、その人はソレガシ……」
「某は蜩と申す旅の者でござる。昨日、行き倒れておったところをモノミ殿に助けられたのだ」
 誤まった名前で呼ばれるのはかなわないので、モノミの言葉を遮って自ら自己紹介をする蜩。
 しかも、その言葉には無駄がなく、非常に適確である。
 出番を逃して悔しかったのか、モノミは頬を膨らまして蜩を横目で睨んでいた。
「そうでしたか。あなたもモノミ様のやさしさがよくお分かりになったでしょう」
「それは分かったが、背中の怪我人を放っておいてよいのか?」
 次郎の背中には苦痛に顔を歪めている中年の姿があった。
 蜩にそれを指摘されて、次郎は飛び上がるように驚く。
 どうやら完全に忘れていたらしい。
「い、いけねえ! モノミ様、弥助の奴が蝮(マムシ)に噛まれたんでさ」
「お馬鹿! そんな大変なことを忘れるんじゃないよ。早くそこに寝かせて」
「へ、へえ、すいやせん」
 モノミに一喝され、頭に手を当てながら頭を下げる次郎。
 次郎の年はひょっとしたら蜩以上かもしれない。
 にも関わらず、そんな男がモノミを様付けで呼び、しかも腰を低くしている。
 蜩が二人の関係を図りかねて首を傾げるのも無理はないことだった。
「噛まれた所はどこだい?」
「へえ、それが……」
 呻き声を上げる背中の弥助を地面に下ろし、次郎がごそごそとやる。
 取り出されたモノを見て、モノミは思わず顔をしかめて溜息をついた。
「……こりゃ、また随分大きな蝮だね」
「あっしと並んで茂みに向かって用を足していたら、そこに……」
「ああ、もういいよ。十分状況は分かったから」
「へ、へえ」
「それより、ソレ仕舞っておくれよ。アタシの方がそっちの蝮の毒気に当てられそうだ」
「しかし……」
「服の上からでもいいんだよ。それとも、アタシにソレを触れって言うのかい?」
「へい、分かりやした」
 次郎が慌てて、弥助のモノを出した時のようにごそごそとやって仕舞ってやる。
 モノがひとまず見えなくなってほっと胸を撫で下ろすモノミ。
 そして、呻いている弥助の傍にしゃがみこむと、ゆっくりその手を弥助にかざした。
「それじゃ行くよ」
「お願えします」
 ぼうっと、モノミの手から奇妙な揺らめきが起こる。
 それが弥助の毒に犯された部位を柔らかく包み込むと同時に、弥助の呻き声は収まっていった。
 しばらくの時間を置いてモノミがすっと立ち上がる。
「多分、それで痛みも傷口も治ったはずだよ。何かおかしなところはあるかい?」
「……も」
「……も?」
 苦悶の表情から解放された弥助の発した言葉に、居合わせた一同が首を傾げる。
 だが、次の瞬間、弥助は立ち上がって、あっという間にその場を走り去っていった。
「漏れそうじゃー!」
 という叫び声を残して。
 その様子を見て、次郎が乾いた笑い声を上げる。
「ははは、そういやまだ途中でした、弥助の奴」
「あれだけ元気があればもう大丈夫だね。次郎さんも仕事の途中なんだろ、早く帰りなよ」
「へえ、ありがとうございやした。あっしもそろそろ戻らねえとカカアに怒られやす。弥助の奴には後で礼に行かせますんで」
「礼なんて別にいいよ、アタシが好きでやってることさ」
 次郎はまだ何か言いたそうだったが、彼の妻は村でもかなりの恐妻として通っている。
 事情はどうあれ、仕事をすっぽかしていると思われたら後が怖い。
 次郎はもう一度、深く頭を下げてから元来た道を慌しく駆けていった。


 弥助と次郎が去るのを見届けて、モノミはんーっと大きく伸びをして蜩に振り返った。
「さてと、何から話すべきかな」
「実に大きな蝮だったな」
「ああ、うん。そうだね……じゃ、ないよ! なんてモノ思い出させてくれるんだい!」
 うんうん、と同意して頷きかけたモノミだったが、顔を真っ赤にして首を振ると蜩に怒鳴った。
 覆い隠すように胸元を手で押さえながら。
 その様子を見て蜩の口元に笑みが漏れた。
「ほう、なかなか女子(おなご)らしい恥じらいもあるではないか」
「な、ななな、何言ってるんだい。アタシが言いたかったのは……」
「そなたが物の怪の類であることか?」
「へっ!?」
 今度は胸元を両手で押さえて後ずさるモノミ。
 何かを見透かされるというのが彼女にとって一番心に触れるものらしい。
「なんで分かっちゃったんだい?」
「これでも某は退魔士だぞ。先ほどの力が妖術であるのはすぐに分かった。モノミ殿の好みから察するに、そなたは狐だな?」
「そこまでバレてるのかい。はぁ、退魔士の目ってのはホンモノなんだね」
 溜息をついて、モノミは家に取って返す。
 そして、すぐに戻ってきたその手には蜩の太刀があった。
 モノミは何か悟ったような表情でそれを蜩に差し出す。
 何を意味する行動か分からず、蜩は顔をしかめた。
「それは、何だ?」
「逃げも隠れもしないからバッサリやっておくれよ。それがソレガシさんの仕事なんだろ?」
 小刻みに揺れるモノミの手に握られた黒鞘の太刀。
 真剣な顔をして必死に隠してはいるが、モノミが怯えているのはあからさまである。
 大きな勘違いと隠された感情に気付いた蜩は声を上げて大笑いした。
「はっはっは、モノミ殿は退魔士というものを何か勘違いをされているようだ」
 予想だにしなかった蜩の反応に、呆然とするモノミ。
 そのモノミの手から、蜩は太刀だけを引き抜き天に掲げてみせた。
 光沢のある刀身は陽の光を浴びて、眩いばかりの光を放つ。
 それを見ていると、何故か恐怖も消え失せ、素直に綺麗だと思う自分がいるのにモノミは気付いた。
「この太刀はなモノミ殿、誰彼構わず斬る物ではないのだ。それとも、某が血に飢えた獣に見えるか?」
 ふるふると首を振ってその問いかけを否定するモノミ。
 蜩もそれにゆっくりと頷いてみせる。
「某が斬るのは人に害を為す物の怪だけだ。ただ平穏の中に生きているモノミ殿をどうして斬れよう」
 そこまで言ってから、光を受ける刀身を見つめて蜩は少し物思いに耽る。
 そして、首を軽く振ってから、太刀を下ろしてモノミの瞳を直視した。
「いや。むしろ、そなたのような小さき幸せを願う者の為に振りたいものだ」
「ソレガシさん、アンタは……」
 言葉にならぬ思いがモノミの胸の中を駆け巡る。
 蜩は、彼女が触れた中で、最も素朴な、それでいて温かいものをもっていると感じられる人間だった。


 モノミから鞘を受け取り、太刀を収めて路傍の石に立てかける蜩。
「さて、早くこれを終わらせよう。体力が戻るまで、しばらく旅は出来ぬ。この村を少しずつ案内してもらいたいのだ」
 そう言って、また畑にしゃがみこみ雑草と虫取りを再開する。
 無言で黙々と。
 その姿を見ていると、自分を討ちに来た恐ろしい相手などという勘違いがモノミにはとても滑稽に思えた。
「ああ。狭い村だけど、いいところはいっぱいあるんだよ」






     4.モノミの照れる時

 囲炉裏を囲みながら、二人は油揚げの握り飯で夕餉を終えた。
 赤く燻る囲炉裏の残り火が二人の顔を朱に染める。
 外は虫や蛙の鳴き声に満ちていた。
 だが、それ以外には何も聞こえない。
 この国のどこかで行われている戦の喧騒も、逃げ惑う人々の悲鳴も。
 静かな、とても静かな夜だった。
「モノミ殿、寝る前に訊きたいことがある」
「何だい?」
「村の者は、そなたが狐であることを知っているのか?」
「知ってるさ。だから皆アタシのことをモノミ様って呼んでるんだ」
「ふむ、この村は稲荷信仰(狐を田の神とする信仰のこと)が盛んであるのか。してみると、モノミ殿はまさに生き神というわけだ」
「まあ、そんなところになるね」
 昼間の次郎とモノミのやり取りを見れば、モノミが村でどのような扱いをされているのか蜩は容易に想像できた。
 神である狐の化身にして、人を救う現世利益も施す。
 少々、品がないかもしれないが、紛れもなく村人達にとっては神だろう。
「しかし、何故に進んで人々に功徳を与えているのだ? 某、そなたのような物の怪に出会ったことはない。能ある鷹は爪を隠すとも言うしな」
「なんか、アタシは能足りんの馬鹿狐って言われてるみたいだけど気のせいかい?」
「いや、すまぬ。言葉が悪かった。某が知る物の怪は、人に害を為すか、さもなくば無関心であるかのどちらかしかいなかったのでな」
 からん、と囲炉裏に薪を一本投げ込むモノミ。
 もうしばらく話が続くことを見越して明かりを絶やさぬようにしたのだ。
「別に、これといった考えがあるわけじゃないんだ。助けられる者が目の前にいるのに、それを見てみぬ振りなんてアタシには出来ないだけさ」
「モノミ殿は相当なお人よしだな。強欲な人間がそなたの力を目当てにやってくるやもしれぬぞ?」
「あはは、それは心配ないさ。アタシに出来るのは小さな怪我の治療とちょっとした解毒くらいだ。強欲な人間がそんな程度で満足できると思うかい?」
 無言で顔を見合わせるモノミとヒグラシ。
 だが、次の瞬間どちらともなく噴き出した。
「それは、確かに無理難題であるな。せめて死人を生き返らせるくらい出来なくては」
「まったくだよ。アタシは不出来な神様だ」
「だが、この小さな村にはそれで十分なのだろう。皆そなたを好いておる」
「ああ、だからアタシはこの村の人たちが好きなんだよ」
「それで、モノミ殿は一人この村に住んでおるのだな」
「うん。まあ、そんなところさ」
 ふむふむと、そんな感じで蜩が相槌を打つ。
 村を案内してもらった時、モノミとすれ違った人々は皆明るい顔をして挨拶を交わしていた。
 それは人と神の関係と言うよりは、頼りになる智者への尊敬に似たものだったかもしれない。
「おお、そうだ。一つ頼みたい事があるのだが」
「頼みたい事? アタシに出来る事だったら頑張ってみるよ」
「うむ、それはありがたい。そんなに大した事ではないのだが……」
「うん」
 真剣な顔の蜩につられて、モノミはごくりと息を飲む。
 だが、次に蜩の口から出た言葉にモノミはがくっと肩を落とした。
「狐の姿になってくれぬか? ぬ、何か失礼なことを申したか?」
「真剣な顔してるから何事かと思ったらそんなことかい」
「いや、モノミ殿なら狐の姿も美しかろうと思ってな」
「わぁっ、今度はこっ恥ずかしいことを真顔で言わないでおくれよ」
 呆れ果てたかと思うと、今度は顔を真っ赤にしたり。
 そんなモノミの様子を蜩は微笑ましく見つめていた。
 この男、素朴に見えて意外に意地の悪いところがあったようだ。
「狐の姿になるのは堪忍だ。ここは人里だし、それに……」
「ん? それに、何だ?」
「……人に戻った時に裸になるのが恥ずかしい」
 顔を背けて、もじもじとそう呟いたモノミの姿に蜩は笑いを禁じ得なかった。
 考えてみれば当然である。
 狐の姿になったら今着ている物が体に合わない。
 故に、人間の姿に戻れば一糸纏わぬ状況になる。
 男である蜩を前にそれを恥ずかしがるのは至極尤もなことだった。
「ならば、一部だけでも見せてもらえぬか?」
「一部。うーん、場所によるけど一部なら。でもちょっとだけだよ?」
「うむ、少しで構わぬ。一度この目でモノミ殿が狐である証を見ないことには、俄かに信じられぬのだ」
「分かった。それで、どこを出せばいいんだい?」
「そうだな……」
 少しの思案をおいて、蜩は口を開く。
「尻尾などは駄目か?」
「し、尻尾!? いきなりそんなことを言われてもアタシの心の準備が……」
「何かまずいことを言ったか?」
 異様なまでのモノミの狼狽ぶりに呆然とする蜩。
 蜩がモノミの狼狽ぶりを全く理解できないのも無理はない。
 狐たちの世界においては、尻尾の美しさが外面の美としてもっとも評価される。
 『あなたの尻尾をよく見たい』と言えばそれが婚約の暗示ともなるほどだ。
 しかし、蜩は人間である。
 そのような狐の美的感覚や慣習など知るよしもない。
「ほ、本当に……その、尻尾でいいのかい?」
「いや、尻に近い部位であるからな。些か不躾であったかもしれぬ」
「そんなことないよ。うん、見てくれ。アタシは尻尾には自信があるんだ」
「ふむ、ならばよいが」


 この夜、さっさと眠りに落ちた蜩に対して、モノミが寝付けたのは夜も大分更けてからだった。
 価値観の違いというものは恐ろしくもあり滑稽でもある。
 興奮収まらぬモノミとは裏腹に、蜩はと言えば、これといって目立つ感慨を抱いていなかったのだから。






     5.モノミの一日

 翌日、モノミと蜩は家の中で藁から縄を綯っていた。
 外の畑仕事は昨日の礼だと言って弥助がやっている。
「あのようなことは、いつものことなのか?」
 一息ついて、外を指差す蜩。
 あのような、とは外で作業をしている弥助のことだろう。
 それに対してモノミは小さく頷いた。
「ああ。手伝いだけじゃなくて、米とか油揚げとか色々」
「なるほど、それで油揚げがあったのか」
「まあね。お供え物からも取ってきてるけど」
「それは……よいのか。お主が供え先の狐であったな」
「そうそう」
 愉快そうに相槌を打って手の動きを早くするモノミだったが、蜩はどうにも釈然としないものを感じていた。
 間違ってはいないにしても、傍から見ればほとんど供物泥棒ではないか、と。
「モノミ様はいらっしゃるか?」
 などと蜩が思っているところに、そんな声と戸を叩く音が聞こえた。
「いるよ。入っておいで」
「御免」
 がらり、と戸を開けて入ってきたのは見るからに屈強そうな男だった。
 刀は差していないものの一目で武士と分かる。


 当時の武士と言えば、今で考えられているような紋付き袴に刀というものではなかった。
 彼らと農民の区別はなく、武士をやるも農民をやるも本人の意思次第。
 無論ある程度財産のある農民でなくては自由にはならないが、それも平和の時代においてのこと。
 戦国の世においては、刀一本を持ち戦場に飛び込んで敵将の首を上げればいつでも成り上がれた。
 武士と農民がはっきり分けられたのは、豊臣秀吉による刀狩と検地という兵農分離政策によるところが大きい。
 もっとも、農民ではない、戦の為だけの武士というものを作ったのは秀吉の主君であった織田信長の功績である。
 武士の専門職化、兵農分離、これらが後の徳川の世で職業選択の自由を奪うことに繋がるわけであるが、それだけに戦国時代は自由のあった時代とも言えるわけである。
 無論、戦乱と隣り合わせの自由は大手を振って謳歌できるものであったかは疑わしい。


「ええと、確か足軽大将の……」
「伝右衛門でござる」
「ああ、そうだ。伝右衛門さんだ。どうしたんだい?」
 ちらりとモノミの傍にいる蜩の姿を見た後、伝右衛門は上着をはだけ、右肩を晒した。
 思わず息を飲むモノミと蜩。
 彼の右肩は大きく、そして青黒く変色していたのだ。
「どうしたんだい、それ?」
「御館様から戴いた馬より落ちたのだ。酷く痛む。モノミ様ならどうにかならぬかと思って足を運んだ次第」
「うーん、これはちょっと難しいよ。治せなくても堪忍してくれるかい?」
「自らの不注意を他人の責任にする気は毛頭ござらん」
「分かった。それじゃやってみるよ」
「かたじけない」
 伝右衛門は頭を軽く下げると、どかっとその場に胡座(あぐら)をかいた。
 足軽大将とは分かりやすく言えば、小隊長のことである。
 地位ゆえかどことなく態度が大きいが、然るべき礼儀はちゃんと通している。
 無頼の輩であれば、身を呈してもモノミを守ろうと考えた蜩だったが、伝右衛門がどのような人間かある程度見極めがつき、肩の力を抜いた。


「どうだい? 効いてるかい?」
「わずかに痛むが、かなり楽でござる」
「そうかい。じゃあ、このままもう少し続けるよ。楽になっているならそのうち治るさ」
「それはありがたいお言葉。して、モノミ様。お会いするのは一年ぶりほどだが、夫を迎えられたのか?」
 不審の眼差しで蜩を伝右衛門が見つめる。
 脇に置かれた太刀。汚れて所々破れた衣服。
 何より、戦を潜り抜けてきた伝右衛門すら背筋が震えそうになる鋭い眼光。
 いや、そんな彼だからこそわかる威圧感なのかもしれない。
「某は蜩と申す旅の者。行き倒れているところをモノミ殿に助けられたのだ」
「左様であったか。蜩殿は流れの剣豪であるか?」
「いや、某は退魔士だ。人を斬ったことはない」
「では、何を斬った?」
「大蛇を三匹、赤鬼と青鬼を一匹ずつ。雑妖までは数えておらぬ」
「鬼と大蛇を……どうりで拙者が及ばぬわけだ」
 深々と溜息をつく伝右衛門。
 相手の物腰、鋭い眼光がそれらは嘘ではない、真実であることを雄弁に語っていた。
「へえ、ソレガシさんって強いんだね。大蛇はよく知らないけど、鬼ってのはとても恐ろしいんだろ?」
「モノミ様、鬼はそんな軽いものではござらん。それに大蛇や鬼を相手にするくらいなら、熊に素手で立ち向かう方がまだマシでござる」
 軽い口調で『鬼』を語ったモノミを伝右衛門がたしなめる。
 彼の言う通り、金棒を持った鬼にかかれば熊も瞬殺されることだろう。
「確かに鬼は恐ろしい。大蛇もだ。だが……」
「だが?」
「某の斬った大蛇や青鬼赤鬼は、皆泣いておった」
「泣いていた? 鬼がか?」
「いかにも。今の世の中、泣くのは人ばかりではないのかもしれぬ」
 重い蜩の呟きに、その場の空気も重くなる。
 その中で、次に口を開いたのはモノミだった。
「あ、伝右衛門さん。やるだけやってみたけど、調子はどうだい?」
「どれ……」
 まだ青みの残る右腕を上げたり下げたりして伝右衛門は肩の具合を確認する。
 そして、最後に腕を一回転させてからモノミに頭を垂れた。
「だいぶ楽になったようだ。明日、また頼めるか?」
「ああ。でも、アンタはそのままの方がいいかもしれない」
「む、何故だ?」
「元気になったら、伝右衛門さんは戦にも行くんだろ? 死ぬかもしれないし、それにアタシが治したせいでアンタは人を斬る」
「モノミ様、それが拙者の選んだ道であるゆえ……」
 辛い表情を見せて、モノミに何かを言おうとする伝右衛門。
 しかし、モノミは首を振ってそれを遮った。
「分かってる。いいんだ、忘れてくれ。ただの愚痴さ」
「すまぬ。明日、モノミ様の好物と聞く油揚げを持参する。それで機嫌を直していただけぬか?」
「別に、怒ってないさ。悲しいだけだよ、この世の中がね」
「失礼した」
 俯いて、呟いたモノミから気まずそうに視線を外し伝右衛門は立ち上がる。
 そして、家を出る前に、蜩に話し掛けた。
「蜩殿。お主、拙者の部下として御館様に仕えてみる気はござらんか? お主ほどの猛者なら次の戦で御館様の目にも止まるだろう」
「遠慮しておこう。伝右衛門殿に仕えるのは吝かではないが、某は人の斬り方を知らぬのでな」
「左様か。だが、お主にはそれが一番よいのかもしれぬ」
 ふふふ、と自嘲するかのように含み笑いをして伝右衛門はモノミの家を出て行った。
 それは誘いを断られたことを恥じたものか、人斬りで身を立てる己の生業を恥じたものか、いずれであったのだろう?


 伝右衛門と入れ違いに、また別の者がモノミの家へと入ってくる。
 今度は娘と、それに支えられた中年女性の二人組だった。
 娘はモノミと外見の年齢は同じくらいであろうか?
 中年女性の方はしきりに咳き込んでいる。
「紅葉(もみじ)に福おばさんじゃないか。どうしたんだい?」
「あー、モノミ。うちのお母さんがこの調子なんだけどどうにかならない?」
 ごほごほと激しく咳き込み続ける母親の背中をさする紅葉と呼ばれた娘。
 呼び捨てで呼び合っているところは、同い年の娘ゆえだろうか。
 モノミと紅葉は気安く話せる仲らしい。
「言ってるだろ。アタシにどうにか出来るのは怪我と毒くらいだ。悪いけど病気はどうしようもないよ」
「分かってるんだけどね。お母さんがモノミのとこに連れてけっていうもんだから」
「けほっ、けほっ、モノミ様と、けほっ、呼びなさい紅葉、けほっ、けほっ」
 口を尖らせるモノミと、溜息をつく紅葉。
 母親はそんな娘の無礼な口の利き方を叱りつける。
 が、娘は全くそれを意に介してなかった。
「なんでよ。モノミはモノミじゃないか。そんな偉そうなモノミなんて私は嫌だよ」
「この罰あたり! けほっ、けほっ!」
「もうっ。苦しいくせに喋らないでよ、お母さん」
 激しく咳き込んだ母親の背中を紅葉は慌ててさすってやる。
 少々粗野な口調だが、その実なかなかの孝行娘らしい。
「紅葉、お母さんは大事にしてあげなよ。お母さんっていいものなんだろ?」
「あー、はいはい。では、モノミ様、お母さんをどうにかしてくれませんか?」
 改めて、モノミに丁寧な口調で頼み込む紅葉。
 しかし、その口調は完全に棒読みで敬意というものが全然こもってない。
 もっとも、モノミもまったく気にしてない様子だったが。
「もう一度言うけど、アタシには無理だ」
「だったらこんな真似させるなーっ。馬鹿モノミ!」
 柄にもないことをさせられて、怒った紅葉がモノミの頭に軽く手刀を叩き込む。
 叱った母親の方はというと、もはや怒る気力もないのかぐったりしている。
「悪い悪い。でも、もう少しくらいアタシを敬ってくれてもいいじゃないか。これでも神様だよ、アタシは」
「拝んで欲しいの? ああ、私のモノミさまー、とか」
「ごめん、冗談だ。想像して背中が痒くなった」
 母親を忘れてふざけ合っているようだが、二人ともそのことを忘れているわけではない。
 ただ、年頃の娘同士、黙って考え込むというのが性に合ってないだけである。
「ミワナなら何か薬を作れるかもしれないけど、あいつは人間嫌いだしねえ」
「ミワナさんって、モノミのとこの偉い人だっけ?」
「偉いっていうか、うるさいっていうか、アタシも頭が上がらない相手なのは確かだ」
「はあ、それじゃ仕方ないね。うちでゆっくり寝かせとくよ」
「それがいいよ。というか、初めからそうしなよ。アタシは病人は治せないって知ってるだろ」
「でも、お母さんが……」
「それを止めるのもアンタの役目だ。違うかい?」
 厳しい口調でびしっと切って捨てるモノミに何も言えず、紅葉は口をつぐむ。
 だが、次の瞬間、あっけらかんとした様子で、
「まったくだ。モノミの言う通りだよ。邪魔したね」
 と言って、家を出て行こうとした。
 が、戸の前で慌てて後ずさる。
 入ってきたのは、いつの間にか家を抜け出していた蜩だった。
 そして、蜩はいつも通りの無表情で手にした植物を紅葉に差し出した。
「煎じて飲ませてやるとよい、咳止めに効果のある薬草だ」
「へ? ああ、どうも……」
 きょとんとした様子で薬草を受け取る紅葉。
 蜩はそれ以上何も言わずに、もといた家の奥へと戻っていった。
「誰なんだい、あの人? 来た時にもいたような気がするけど」
「ああ。ソレガシさんって言って、この前うちの近くで倒れているのを介抱したんだ」
「へえ、ソレガシさんっていうのか。変わった名前だね」
「蜩だ」
 ひそひそと顔を寄せ合って話す娘二人に、蜩の武骨な声が飛ぶ。
 だが、モノミはもとより、この紅葉という娘も一筋縄ではいかない娘だった。
「ヒグラシ? よく似たもんだしソレガシでいいじゃん。うん、ソレガシさんに決定」
「あ、紅葉もそう呼んでくれるのかい? アタシ以外みんなして、ソレガシさんのことをヒグラシヒグラシって呼ぶから不安になってたんだ」
「ヒグラシは夕方に鳴く蝉の名前に決まってるだろ? だからあの人はソレガシだ」
「ああ、そうか。なるほど。紅葉はやっぱり頭がいいね」
 ……モノミが二人に増えた。
 家の奥で再び縄を綯いはじめた蜩は頭痛を感じずにはいられない。
 女三人寄ればかしましいと言うが、年頃の娘は二人でも十分にかしましいものだ。


「そう言えばさ、今年はモノミの季節だね」
 ふと、紅葉が言った言葉に、モノミの顔がみるみる明るくなる。
「ほんとかい? 去年に続いて、ミワナ達も喜ぶよ」
「あ、今年も里の人達呼ぶんだ」
「そりゃそうさ。皆、お祭りみたいに楽しくて賑やかなの大好きだからね」
「へえ。私はモノミの踊りを楽しみにしてるよ」
 きゃいきゃいはしゃいでいる娘二人に、再び武骨な声が飛ぶ。
「紅葉殿と言ったな。母を連れて帰らなくてよいのか?」
「えっ? あっ……」
 慌てて肩を貸している母親の様子を覗き見る紅葉。
 だが、その時既に母親はだらりとその体を娘に預けて……すやすやと眠っていた。
 一瞬、最悪の事態を想像して怯えた表情を見せた紅葉だったが、母親が眠っているだけだと気付くと、照れ笑いを浮かべてぺしっと自分の頭を叩いた。
「あちゃあ、昨日の晩からずっと咳してて寝てなかったから、疲れて眠っちゃったみたいだよ」
「早く家で休ませてあげな。ソレガシさんの薬草を飲ませてからね」
「ああ、色々ありがとうね。モノミ、それとソレガシさん。ほら、お母さん行くよ」
 ううーん、むにゃむにゃと足元の覚束ない母親に肩を貸して、紅葉とその母親が二人に背を向ける。
 だが、その時、何かに気付いた蜩が紅葉を呼び止めた。
「紅葉殿、少し待たれよ」
「へっ?」
 紅葉がふり返るのと、太刀を抜いた蜩が紅葉に斬りかかるのは同時だった。
 驚いたモノミが叫び声を上げようとするも、その声より蜩の動作は早い。
 一瞬、まさに一瞬の内に銀の残光が紅葉めがけて走った。
「祓い料はいらぬ。母を大事にな」
 カチリ、と太刀を鞘に納め元いた場所へと戻っていく蜩。
 何が起こったのか、全く理解できない他の者の時間が戻ったのは、蜩が腰を下ろしてからだった。
「紅葉、大丈夫かい? ソレガシさん、アンタいったい何を!?」
 モノミが紅葉の体を揺さぶると同時に、家の奥隅に座っている蜩に怒鳴りつける。
 いきなり友人に斬りかかるとは、俄かには現実であると信じられない行動だった。
 だが、揺さぶられた当の紅葉はというと、斬られた背中ではなく、腹をさすってしきりに首をかしげている。
 そして、ポツリと呟いた。
「あれ? この前から続いてた腹痛がなくなったよ」
「え?」
「餓鬼が憑いておったのだ。居座られると厄介なので、早いうちに斬っておいた」
 餓鬼とは一種の悪霊であり、これに取り憑かれると体に変調をきたす。
 飢えて死んだ者の霊とも言われ、最悪、憑かれたものは激しい空腹に襲われ餓死する恐れもあるという。
 鬼や大蛇と比べると、取るに足らない雑妖ではあるが、飢えと隣り合わせの農村では十分に恐ろしい妖怪であった。
「ありがとう、ソレガシさん。おかげで気分がよくなったよ。それにしても、アンタは何者なんだい?」
「某の本業は退魔士だ。旅の傍ら、薬草の知識もいくらか持ち合わせておるがな」
「た、退魔士!? モノミ、アンタ早く逃げ……」
「早まるでない。某が斬るのは人に害為す物の怪だけだ。世話になったモノミ殿に刃を向けはせぬ」
「そうなんだ。ほっとしたよ。それに、薬草もお祓いも、本当にありがとう」
 早合点を恥じているのか、少し小さくなる紅葉。
 そのままくるりと背を向けて家の外へ……。
 と、思うと、一旦出てから何を思ったのか再び引き返してきた。
「そうだ、モノミ。外で弥助さん見て思い出したんだけど……」
「弥助さん? 弥助さんがどうかしたのかい?」
「ああ。昨日から弥助さんのことを『大蝮の弥助』ってみんな呼んでるんだけど、何か知らないかい?」
 その言葉を聞いた瞬間、モノミの顔があっという間に真っ赤になる。
 家の奥で蜩が僅かに含み笑いを漏らしたのはご愛嬌。
 僅かの間を置いて、モノミの足元に敷かれた藁が一束ほど紅葉に向かって飛んだ。
 それは止まることなく、次から次へと投げつけられる。
「紅葉のバカーーッ!」
「な、何!? いったい何なの!?」
 わけが分からないまま母親を引きずって逃げ出す紅葉。
 大蝮と噂される弥助は、そんなことは露知らず、家から飛び出す母娘の姿を畑から見て何事かと首を傾げるばかりだった。






     6.モノミの里

 いつしか、村外れのモノミの家には怪我人だけではなく病の者も足を運ぶようになっていた。
 それというのも、蜩という薬に知識を持った居候がいるからである。
 また、悪霊もその太刀で祓ってくれると村人の蜩に対する思慕は日増しに高まっていった。
 半月ほどで、蜩は蜩様とはいかぬまでも、先生や旦那という名で呼ばれるようになった。
 もっとも、全く態度を変えぬ者もいたのだが。
「あ、ソレガシさんどこに行くんだい?」
 他でもない、彼を拾ったモノミである。
「少し、裏の山道を見てこようと思う。どこにどのような薬草があるか把握しておきたい」
 既に諦めたのか、慣れたのか、蜩はソレガシという呼び名に抵抗を覚えなくなっているようだ。
「蝮に気をつけなよ」
「うむ」
 頷いてそのまま家の裏にある獣道同然の山道に入っていこうとする蜩。
 慌ててモノミがそれを呼び止めた。
 家から持ってきた蜩の太刀を片手で大きく掲げて。
「ちょっとちょっと。これ持ってかないでいいのかい?」
「構わぬ。この身なりでそのような物を持って山道を行くと、隠れ歩いている落ち武者と間違われかねん」
「そういうものなんかねえ。まあ、とにかく気をつけなよ」
 無言で頷いて、蜩は山道へと消えていった。
 しかし、その選択を後悔する羽目になろうとは、この時の蜩はどうして想像できよう。
 彼の失敗は、相棒である太刀をモノミと二人っきりにしたことだった。


 数刻後、蜩が山道から戻ってくると、畑にいるはずのモノミの姿がない。
 不思議に思って回りを見回すも、やはり見当たらない。
 家の中を覗いてみるが、そこにもいない。
 戸の前で腕を組み、モノミの行方を考えていると、カサリと草の擦れる音が聞こえた気がした。
 家の裏からである。
 迷わず蜩はその音の方へと歩を進めた。
 すると、家の裏にモノミがいたではないか。
「こんなところにおったのか。どうした、何か様子が変だぞ?」
「や、やあ、ソレガシさん。おかえり」
 蜩が歩み寄る。モノミは後ずさる。
 歩み寄る。後ずさる。歩み寄る。後ずさる。
 どこからどう見ても挙動不審、蜩を避けていた。
 何か顔についているのかと思い、蜩は自分の顔を少し手で拭ってみるも、手につくのは汗ばかり。
 体を見回しても特に変わった様子はない。
 となると、原因はモノミ自身にありか?
 そう思ってモノミの様子をしげしげと観察する蜩。
 よく見ると明らかにおかしい。
 両手を後ろに回して、まるで何かを隠しているようではないか。
 何も言わず、その両手が背中に回る部分を凝視する。
 だらだらと、心地よい汗とは真逆のものがモノミの額から流れた。
 そして、時の経つ事、今の時間にして五分ほど。
 先に音を上げたのはモノミだった。
 その場に土下座して、背中に隠していたものを前に並べる。
「……ごめん」
 それは、刃の根元から折れた蜩の太刀とその鞘だった。
「鬼も斬れるっていうから、岩も斬れるのかと思って試してみたんだ。そしたら……」
 蜩の太刀は、名のある太刀でも、名のある名工が打った物でもない。
 戦場跡に落ちていた物を拾っただけである。
 いや、例えどんな名刀であっても、岩を叩けば刃毀れし、折れるのは必定であろう。
 蜩が法力を込めて、初めて鬼をも斬れる太刀となるのである。
 そもそも鬼や悪霊等、魔に属するものに格段の切れ味を持つわけであって、岩を斬るなど蜩にもどだい無理な話だった。
 それをモノミが何の考えもなく試したと言うのだから呆れるより他ない。
 ふう、と一つ溜息をついて蜩は土下座をするモノミの前に膝をついた。
 そして、小刻みに震えているモノミの頬に手を伸ばす。
 指が肌に触れた瞬間、モノミはびくっと大きく震えて思わず顔を上げた。
 だが、怒りに満ちていると思われた蜩の顔はそこにない。
 代わりに、モノミが見たのは、
「怪我はなかったか?」
 彼女を労わる蜩の姿だった。
 咎められるとばかり思っていたモノミは、あまりの意外さに目をぱちくりとさせる。
 だが、蜩の問いかけを理解して、小さく頷いた。
「そうか、ならばよい」
 蜩はそれだけ言うと、折れた太刀を掴んで立ち上がる。
 そして、モノミが呆然と見守る中、蜩は家の裏の誰も通らないであろう場所に穴を掘ってそれを埋めたのだった。
 最後に、今までご苦労だったと弔うかのように、目を閉じ両手を合わせて黙祷を捧げる。
 普通、刀にこのようなことをするのは考えられない話である。
 だが、蜩の太刀は今まで何匹も魔のものを斬ってきた太刀。
 然るべき供養をしてやらねば、それ自体が怨念の器となって妖怪変化となる恐れがある。
 退魔士ゆえの気遣いと、慣れ親しんだ物への感謝を示す行動であった。
 ふと、袖に何かが触れるのに気付き、蜩が横を見る。
 すると、そこには蜩の側で同じように黙祷を捧げているモノミの姿があった。
 それは太刀を折った事を、太刀本人に謝罪しているかのように見える。
 視線に気付き、顔を上げたモノミは蜩と見つめあい、お互いに何度か目配せして頷きあった。
 最後に、同意が成立したのか、二人同時に頷き合って蜩が立ち上がる。
 そして、蜩は道端にあった鍋大の石を持ってきて、太刀の埋められた場所の上に乗せたのだった。
 二人、今度は墓石に向かって黙祷を捧げる。
 二人だけの静かな時間が、ゆっくりと流れていった。
 折りしも、秋の訪れを告げる涼風が僅かに吹き始める。
 そんな盆の午後。


 どれだけの時が過ぎたであろうか?
 モノミと蜩はどちらともなく立ち上がった。
 顔を見合わせるも、何から話すべきなのかお互い言葉に窮し話にならない状況。
 それを破ったのはモノミだった。
「ねえ、ソレガシさん。刀、ないと困るんだろ?」
「困る。退魔業を廃業せねばならぬ」
「あ、アタシ的にはその方がありがたい……かな?」
「む、何故だ? 某、モノミ殿を斬る気は毛頭ござらん」
「いや、その……やっぱり、その魔の側にいる者としたらさ、どーも腰が引けちゃうんだよ。退魔って言葉聞くとさ」
 おっかなびっくり、手振り身振り交えて話すモノミの姿に、蜩は思わず含み笑いを漏らした。
 それを見て、少々ムッとした様子のモノミ。
「あっ、何で笑うのさ。なんか、今のはいい感じしなかったよ」
「いや、すまぬ。いつものモノミ殿に戻ったと思うとおかしくてな」
「いったい、アタシはどんな目で見られてるんだか」
 はぁ、と腰に左手を当ててモノミが大仰に呆れてみせる。
 それがおかしくて、蜩はますますもって笑いが止まらないのだった。
「訊きたいか?」
「遠慮しとくよ。世の中知らないほうが幸せってこともあるだろうからね」
 とぼとぼとモノミは蜩が今朝足を踏み入れた山道の前へと歩いて行く。
 蜩もつられて足を運んだ。
「新しい刀のあてならあるよ。いるならついて来てくれ」
「何? そんなところにあると申すのか?」
「ああ、アタシの里、つまり妖狐の里だね。そこにいい刀があるんだ。来るかい?」
 少々腕を組んで考え込む蜩。
 新しい刀はまた戦場跡ででも拾うか、伝右衛門にでも頼んで労役と引き換えに古い物を譲ってもらおうかと思っていた。
 しかし、どちらも確実に刀を得る方法とは言い難い。
 そこに来ると、モノミの申し出は渡りに舟ではある。
 だが、モノミはともかく蜩は人間である。
 里に暮らす狐の物の怪、妖狐からしてみれば望まぬ訪問者である可能性も高い。
 人間の領域を侵す者を斬ってきた身としては、それは斬られる側に回ってもおかしくない侵害行為だ。
 とはいえ、誘っているのは他でもないその妖狐のモノミである。
 客人として堂々と入ってもいのかもしれない。
 むしろ、モノミの里がどのようなところなのか、蜩は純粋に興味が湧いた。
「案内に与(あずか)ってもよいか?」
「ああ、もちろんさ。そうでなきゃ、アタシはソレガシさんに顔向けできないよ」
 ちらりと、先ほど作った墓を見てモノミはそう言った。
 替えの刀を渡したいというのは、彼女なりに反省しているということだろう。
「では、案内に与るとしよう」
「うん。是非与ってくれ。ソレガシさんにはそろそろ里を案内したいと思ってたところだったんだ」
 嬉しそうに頷くと、モノミは軽い足取りで山道へと入っていく。
 そこらの道でも歩くかのように無造作に山に分け入る姿は、彼女が狐である故だろうか?
 山道の奥から振り返り、小さく飛び跳ねながら手招きする姿が蜩にはどことなく滑稽に思えて、自然と口元が緩むのだった。


 妖狐の里は蜩が想像していたほど人間離れしたものでもなく、また人里離れたものでもなかった。
 村で見かける藁葺土壁の家ではなく、倒木を組んで建てた小屋、あるいは洞穴が家とされているらしい。
 それらが、ちょっとした広場を中心に周りを囲っている。
 規模からして、里に住む者の数は三十から多くても五十足らずだろう。
 しかし、おかしい。
 妖狐の里に入ってから蜩はそう思わずにはいられなかった。
 モノミから替えの刀をもらうために里に案内されたはずである。
 ならばどうして、二人して里の外周を忍び足で歩いているのか?
 おまけに、里はしんと静まり返っていて人が棲んでいるという形跡はあれど人の気配がない。
 おそらくは住人がどこかに出かけているのだろう。
 そんな人気のない里を忍び足で歩く、その行為が何を意味するか?
 疑うまでもなく盗人である。
「なあ、モノミ殿」
「な、なんだいっ!?」
 抜き足差し足でおっかなびっくり先頭を歩いていたモノミが、びくぅっとそれはもう分かりやすいくらいに飛び跳ねる。
「先ほど、山道を抜けた先に館を見かけたのだが」
「あ、ああ。坪内様のお城だね。伝右衛門さんの主人でこのあたりの領主様さ」
「ふむ、あれがそうであったか。モノミ殿の家は丁度山を挟んで城の反対側にあるのだな」
「うん。そういうことになる。そしてこの里が山道から脇に入ったところにあるってわけさ」
 今で城というと、石垣天守閣の豪勢なものを想像する人が多いだろう。
 しかし、当時の城は今でいうところの砦という表現が近いもので、見張り台等がついた防備に特化した館という様相のものがほとんどであった。
 当然、攻めにくく守りやすい場所を立地条件とすることが多く、坪内なる領主も小山の中腹に山城を構えていたようだ。
 もっとも、蜩がそんなことに気付かないほど浮世離れした人間であるわけがない。
 あくまで今の問いかけは次の質問のための布石に過ぎなかった。
「して、そのご領主殿の罪人に対する仕置きはいかほどなのだろうか?」
 ぴくくっ、と狐の耳まで出してモノミが激しい狼狽を見せる。
 顔は平然を装っているが、よく見るとだらだらと脂汗が浮かんでるではないか。
「それはおっかないお方さ。坪内鬼六、またの名を鬼坪。名前だけで分かるだろ?」
「ふむ、それはさぞかし盗人には厳しいだろうな」
「あはははは……アタシが盗人なわけないじゃないか」
「そんなことは誰も申しておらぬが?」
 完全に棒読み、しかも自分が盗人であると自白までしている。
 見事に蜩の誘導尋問に引っかかっていた。
「あっ、モノミさまだ」
「ほんとだ、モノミさまー」
 なにやら可愛らしい声が聞こえたかと思うと、ててててっと二つの小さな影が洞穴から飛び出してきた。
 小さな二匹の子狐である。
「サナ、ウル……アンタたちいたのかい」
 元気の良い二匹に対して、モノミはというと、ますますばつの悪そうな表情をしていた。
 盗みに入って第三者に見つかれば気まずいのは当たり前だろう。
「帰ってきたんだ。ねえねえ、おみやげの油揚げは?」
「あっ、ウルにも!」
「ごめんよ、今日は持ってきてないんだ」
「ざんねん……」
「あれ? この人はだれ?」
 元気いっぱいの二匹は、物珍しそうに様子を伺いながら蜩の周りを歩き回る。
 蜩と顔が合うと、怯えるどころか、口を開けてぴょんと飛び跳ね、にぱっと微笑むような仕草を見せて愛嬌を振りまいていた。
 蜩としてもそんな二匹に悪い気はしない。
「この二匹は何なのだ?」
 しゃがみこんで、二匹の頭を撫でてやりながらモノミに訊ねる蜩。
 その様子に平静さを取り戻したのか、モノミは落ち着いて答えた。
「左の女の子がサナ。右の男の子がウル。同い年の若い妖狐さ。まだ人の姿にはなれないけどね」
「ほう、妖狐も子供は元気なものだな」
 二匹は姿勢よくお座りをして首を右に左に振りながら蜩とモノミを交互に見ている。
 やはり、その動作は何かと愛くるしい。
 ふと、そこでモノミが何かを思いついたのか、にやっと口元を緩めた。
 それを見た蜩は直感した。
 何か悪知恵を思いついた顔だ、と。
「サナ、ウル。里のみんなはお出かけ中かい?」
「うん、みんな畑と狩りにいってる」
「あ、でも。ミワナさまはおうちにいるよ」
「あちゃあ……ミワナが残ってるのかい。こりゃ、厄介」
「やっかい?」
「ミワナさまが邪魔なの?」
「あ、いやいや。こっちの話だよ。二人とも、ミワナに東から猪が迫ってきてるって大急ぎで伝えてくれないかい」
 きょとんと、お互いの顔を見合わせるサナとウル。
 どうやら、常に二人一組の仲良しらしい。
「東から?」
「いのしし?」
「そう、凶暴な猪さ。急いで西に逃げろって言うんだよ。ミワナにちゃんと伝えたら油揚げをたくさんあげるから」
 油揚げ、と聞いた瞬間、二匹の眼の色が明らかに変わった。
 モノミ以上に油揚げに目がないようだ。
「うん、行ってきまーす」
「ウルもー」
 たたたたっと西に向かって全力で走り去って行く二匹。
 そして、里の一番大きな、木組みの家へと入っていった。
 モノミの計算では、二匹から火急の知らせを受けたその家の住人が慌てて更に西へと逃げていくはずだった。
 ところが、家から出てきた人物は大慌てで逃げるどころか、モノミ達のいる東側へと向かってくるではないか。
 しかも、その両手には尻尾を掴まれて宙ぶらりんにされたサナとウルの姿がある。
「げっ、まずい。逃げるよソレガシさん」
 慌ててくるりと背を向けるモノミ。
 だが、蜩にその肩をがっしりと掴まれて逃げることができない。
 恐る恐る蜩の方へとモノミが振り返る。
 蜩の顔からは、まったくもって慈悲というものが読み取れなかった。
 当たり前である。ここで逃げたら彼も盗人の片棒を担ぐ羽目になるのだから。
 必死に逃げようとするモノミだが、蜩の力は強く、肩を掴んだ手は解ける気配が全くない。
 そうしているうちに、後ろからずんずんと明らかに怒りの混じった足音が迫ってくる。
 そして、それはモノミの真後ろまで来て止まった。
「モノミ様、何をしておいでですかな?」
 びくぅっと、またも狐の耳を出してモノミが体を振るわせる。
 ゆっくりと振り返った顔は引きつって、ぴくぴくと小刻みに震えていた。
 が、彼女を呼び止めた老人、真っ白の髪と髭を伸ばしっぱなしにした仙人然の男は、こめかみに血管が浮き出るほどに怒っていた。
「や、やあ、ミワナ。元気そうでなにより。猪から逃げなくていいのかい?」
「まだまだ年はとってないつもりでしてな。猪ごとき私が成敗してくれようと参ったわけです」
「あ、あはははは」
「ふぉふぉふぉ」
 引きつった笑い声を上げるモノミと、何かを押し殺すように低い声で笑うミワナと呼ばれた老人。
 一見、非常に微笑ましい光景だが、蜩は心の中で合掌せずにはいられなかった。
 なぜなら、それはいわゆる嵐の前の静けさというものだから。
「百年早いわ小童ども!」
「ひゃっ!?」「わっ!?」「あいたっ!?」
 ミワナの両手からモノミの顔面目掛けてサナとウルが投げつけられる。
 三者三様の悲鳴が里に響いた。


 ミワナの家に、半ば引きずり込まれるような形で連れていたれたモノミと、その後について行った蜩。
 家の中は広く、色々小物が置いてあったが、何より目を引くのは奥の祭壇に飾られている刀である。
 おそらくモノミが盗もうとしていたのはその刀だったことは蜩にも容易に想像できた。
 そして、それがその里の宝のようなものであるということも。
 ミワナと呼ばれた老人は、むすっとした顔でモノミにこれまでの経緯を話させた。
 蜩とモノミの出会い、蜩がどういう人間であるか、そしてどうして今日ここに連れてきたのか。
 終わりまで彼は何も言わず黙って聞いていた。
 何度も足を組み直して落ち着かないモノミとは裏腹に、まったくぴくりとも動かない正座。
 ミワナはまさに、神がかり的な仙人を思わせる男だった。
 そして、モノミの話を最後まで聞き終わると、彼はくわっと目を見開いて言い放った。
「まったく、呆れて物も言えませんわ!」
「言ってるじゃんか。しかも叫んでるし」
 ぶーたれるという言葉がぴったりの、子供のような突っ込みを入れるモノミ。
 だが、その言葉はミワナの何かを切れさせた。
 モノミと並んで座っていた蜩にプツンという音が聞こえたくらいに。
「あれが里長のなさることですか! 仮にも神である者のなさることですか! 堂々と渡せば良いものを、こともあろうか盗人のような真似をして」
「はいはい、分かったよ。反省してる」
「その欠伸がモノミ様の反省ですか! ああもう、嘆かわしい」
「そうは言うけどさミワナ。アタシがアンタに説明して、それでアンタは納得してくれたのかい?」
「話を聞いてから考えます」
「嘘つくんじゃないよ。人間にあの刀をあげるなんてアンタが許すわけないだろ」
「ぐ、むむ。減らず口を……」
 服の裾を掴んで髭と眉毛をピクピクさせるミワナ。
 図星と怒りの両方だろう。
 だが、そこで不真面目な態度で受け流していたモノミが一転、真剣な顔をしてミワナを見つめる。
「悪かったよ。だけど、ソレガシさんだから渡してもいいって思ったんだ。そんな刀、アタシ達には必要ないだろ?」
 お互いしばらく無言のまま時間が過ぎる。
 やがて、外にざわめきが聞こえたところでミワナが口を開いた。
 ゆっくりと、物静かに、彼本来の落ち着いた声で。
「里の者が帰ってきたようですな。モノミ様、せっかくですから顔を見せてやって下さい」
「ああ、それじゃソレガシさん」
「いや、ソレガシ殿とは二人で話したいことがあります。むさ苦しい話でもよろしければモノミ様も同席されて構いませんぞ」
「えっ? いや、いいよ。うん、二人っきりで仲良くやってくれ」
 顔を引きつらせると、モノミは慌ててミワナの家から飛び出していった。
 どうやら、ミワナという人物はモノミの天敵であるらしい。


 モノミが家を出て行き、家の中に静寂が訪れる。
 ミワナは溜息を一つ吐いた後、蜩にその視線を向けた。
「我々のモノミ様がご無礼を働いたようで、まことに申し訳ない」
「いや、無礼などととんでもない。モノミ殿は某の命の恩人でござる」
「それでも……他人に盗人の片棒を担がせるのはいかがなものかと存じます」
「う、む。それもまあ、某を気遣うが故のこと」
「それはそれ。これはこれでございます」
 モノミに怒号を飛ばした時とは打って変わって丁寧な物腰のミワナの態度に蜩は少々拍子抜けする。
 前に紅葉が彼の名前を口に出していた時、モノミは彼のことを『人間嫌い』と言っていた。
 しかし、蜩が今目の前で相対している人物からはまったくそのような気配は感じられない。
「改めて、自己紹介いたしますかな。私はミワナ。モノミ様不在の間、里を任されている老骨でございます」
「某は蜩と申す退魔士でござる」
「ふむ。ソレガシ殿ではなく、蜩殿ですな。どうにもおかしいと思っておりましたが、モノミ様の勘違いですか」
「いや、モノミ殿は本気で某の名をソレガシだと思っておる」
「やれやれ、それはまたとんだご無礼を」
 二人顔を合わせて苦笑いする蜩とミワナ。
 モノミとミワナの関係とは裏腹に、この二人は随分気が合うようだ。
「蜩殿は、モノミ様の人里での生活のこと、どう思われる?」
「そうだな。少々粗野ではあるが、村人もモノミ殿を好いておる。初めは驚いたものだが、あれはあれでよいのではないだろうか」
「左様でございますか」
 深々とミワナが皺だらけの顔で頷く。
 だが、蜩はその顔が明らかな悲しみに満ちていることに気付いた。
 いや、気付かずにはいられなかった。
 それは彼が今まで何度も見てきた顔であったから。
「ミワナ殿、何故そのような悲しい顔をされる?」
「は? 悲しい顔、ですと? この私が」
「いかにも。世を儚んでいるような、そんな悲しい顔だ」
 蜩に言われたことがよほど意外だったのか、自らの目に手を当ててみるミワナ。
 その目には、かすかにではあるが涙が滲んでいた。
 それで彼は自分が悲しんでいたという事実を認識する。
「は、はは。これは見苦しいところをお見せした。年を取ると涙もろくなっていけませんな」
 照れを隠すようにミワナが苦笑いしてみせる。
 だが、蜩はそれに対して首を振った。
「違うのだミワナ殿。お主も物の怪なら、何か心当たりはござらんか?」
「と、申されますと?」
「某、これまで妖怪を何匹も斬ってきたが、この十年ほど某が斬った妖怪は皆ミワナ殿のような顔をしておった」
 それを聞いたミワナが押し黙る。
 そして、真剣な表情をして何かを考え込んだかと思うと、おもむろに立ち上がった。
「それは……消えゆく者の悲しみかもしれませんな」
 格子の側に歩み寄り、ポツリと呟くミワナ。
 その視線の先では、サナとウルが広場を駆け回っていた。
 楽しげな歓声は家の真ん中で胡座をかいている蜩にも聞こえ、それが先ほどの元気な子狐二匹のものだと分かる。
「あの子達を見ていると、とてもそうは信じられませぬが……我々は急速に滅びへと向かっておるのです。おそらく、それは我々妖狐だけでなく他の物の怪もでしょう」
「何故?」
「人が神を崇めなくなったからでしょうな。我々物の怪というものは神、もしくはその眷属でございますから」
「だが、今も神社仏閣ではちゃんと祀られているぞ?」
「あのようなもの。人が手を合わせる先に何が見えているかが問題なのです。今の人間、心から拝むのは神に対してですかな? 己の為ではありませぬか」
「某は……」
「分かっております。だが、蜩殿のようなお人がいまや稀有なのです」
 否定のしようがなかった。
 かつては神の為にと、戦にすら神の影があったという。
 しかし、蜩の生きる戦国の世はどうだ?
 人は神のためでなく、ただ純粋に自分の為だけに戦をする。
 僧ですら、口では信仰を唱えながらその実自分の為に戦をしている。
 一事が万事、この国からは本当の意味での神というものが確かに人の意識の隅へと追いやられていた。
 いや、もはやそんなものを全く信じていない者すらいるだろう。
 覇道に生きる者、世に絶望する者。
 形は違えど確かに神はこの国から姿を消していっていた。
「かつて、神は下らずとも人は神を畏れ敬いました。ですが、今は神の側から人の元に出て直接恩恵を与えるのが正しいのかもしれません。あのモノミ様のように」
「む? 前々から思っていたのだが、モノミ殿は何か特別なのか?」
「おや? ご存知でなかったのですか?」
 これは驚き、と言った様子で窓から離れて振り返るミワナ。
 そして、再び蜩の前へと鎮座した。
「モノミ様はこの地域の神。人の言葉で言うと土地神様であらせられます」
「土地神……あのモノミ殿が……」
 呆然とする蜩の顔を見てミワナが笑い出す。
 それは自嘲と嘲笑表裏一体の笑いだった。
「ほっほっほ、信じられないのも無理はありませぬ。あそこまで呑気に御姿を晒し、尚且つじゃじゃ馬な土地神など私も聞いたことがありませんからな」


 土地神とは、その地方に生きるものに恵みを与えると信じられる神のことである。
 特に、豊作や商売繁盛を願う農民や商人にとっては最も縁が深い神と言えるだろう。
 地方によって、猫であったり鯉(滝を登って竜になると信じられていた)であったり狐であったりと、伝えられるその姿は様々だが、それはその数だけ土地神がいるということでもあるだろう。
 言い換えると、そう信じられるものに土地神としての力が宿ると言うべきだろうか。
 農耕神と稲荷信仰の結びつきから、農村部には狐の神が多く存在したのではないかと考えられる。
 モノミもまた、そのうちの一人だったというわけだ。


「しかし、某は退魔士として長いが、鬼には会っても、神に会ったのは初めてでござる」
 蜩がもう一度口に出した感嘆の言葉に、ミワナは溜息をつく。
「昔は退魔士の方に力を貸して邪を祓った神も多くいたそうです。モノミ様の四代前もそうであったとか」
「待ってくれミワナ殿。四代前などと言われてもよく分からぬ。某は土地神の存在を知っていただけで、その営みに関してはとんと知らぬのだ」
 右手を前に出し、話の停止を求める蜩。
 ミワナはそれを見て、『おっと』と言わんばかりに口を押さえると軽く頭を下げた。
「これは申し訳ない。しかし、この老骨は話をまとめるのが苦手でございましてな。訊きたいことを教えて下さらんか?」
 そう言っていたずらっぽく微笑むミワナの姿に悪い気はしない。
 蜩はやはりこの老人とは気が合うと思った。
 おそらく二人の共通点といえば、真面目である事、モノミに振り回されている事。
 そして何より、二人ともモノミという人物を愛していたということだろう。
「それでは。まずミナワ殿とモノミ殿の関係、それとモノミ殿と妖狐達との関係を」
「ふむ。説明の順序としても分かりやすい質問ですな」
 ミワナは顎鬚をしゃくると、こほんと一つ咳払いをして居ずまいを正した。
 蜩の目にはどこにも粗相はないように見えるが、ミワナにはミワナなりのこだわりがあるらしい。
「まず、私とモノミ様の関係ですが……私は先代の土地神から生まれた最後の妖狐で、モノミ様をお育てした、つまり親代わりということになりますな」
「生まれた? では、外におるあの子供達はモノミ殿が生んだのか?」
「いえ、人の言葉ではいささが語弊がありました。我々妖狐には血の繋がりはございません。というのも、普通の狐から突然生まれますゆえ。その普通の狐と妖狐を分けるのが土地神なのです」
「と、言われると?」
「土地神には創造の力が備わっております。その力で、自分と同種の生き物を僕、すなわち眷属にするのです」
「つまり、土地神に選ばれた者が妖狐になるということだな」
「左様でございます。もっとも、我々は土地神が意識して生むのではなく、土地神の力に応じて自然と生まれるようですが」
「なるほどな、どうりで」
「……は?」
 一人で何かを理解したのか大きく頷く蜩。
 ミワナはその様子を不思議そうに眺めるしかなかった。
 その視線に気付いた蜩は、手を小さく振り苦笑いしてみせる。
「いや、モノミ殿がそんな大層なことを考えて行動しているとはとても思えなかったのでな」
 蜩のその言葉を聞いた瞬間、ミワナも苦笑いした。


「そんな訳で、先代が老いて力が弱まった時に生まれた私は、実に五十年ぶりの子供でした。そして先代が亡くなってから五十年。新しい土地神は生まれず、私を残して仲間は次々と死んでいったのです」
「失礼。ミワナ殿は今おいくつなのだろうか?」
「私でございますか? ふぉふぉふぉ、今年でちょうど八十になります」
 相手は妖怪である。
 今更驚くほどのことではないが、人間五十年と歌われたこの時代の人間である蜩にはそれでも驚きだった。
「そなた達の寿命はどれほどなのだ?」
「そうですな、百から二百といったところでしょうか。何、そんなに長く生きたところで焼かねばならぬ世話と焼かせる世話が増えるだけですわい」
「某、長く生きたわけではないので分からぬが、そういうものでござるか」
「そういうものでございます。これでも私、最近足腰が悪くなりましてな。若い者に面倒をかけっぱなしです」
 なるほど、とばかりに頷く蜩。
 『焼かねばならぬ世話』の方は何のことか訊くまでもないので黙っていた。
 間違いなくモノミのことだろう。
「まあ、話を戻しますと……我々妖狐は土地神を親のように慕う感情があります。元々普通の狐と同じ生活など出来ませんからな。生まれて間もなく親元を離れ、妖気の匂いを辿ってモノミ様の元に集まってくるのです」
 そこで一息ついたミワナは、思い出したように言葉を付け足す。
「もっとも、モノミ様も生まれは我々と同じく普通の狐からです。ゆえに我々眷属を側において寂しさを紛らわしているのでしょう。土地神として生まれるか、その眷族として生まれるか、我々とモノミ様の違いはそれだけでございます」
「……そういえば、モノミ殿が言っていたな。孤児の集まりのようなところで住んでいると」
「概ね間違ってはいませんな。我々、狐に同族意識はあっても家族と思うことは出来ませぬ。実際、あまりに異質な為に実の親から捨てられた子もおります」
「そうか……存外辛いのだな。妖狐という者達も」
「辛い、かは分かりませぬ。しかし、私に関しては先代もですが、我々がモノミ様をお慕いするのは、親や家族のぬくもりを欲しているからかもしれませんな」
 ふむ、と一つ頷き蜩は立ち上がった。
 そして、先ほどミワナが覗いた格子へと歩み寄る。
 夕飯時なのだろう。
 広場にはサナとウル、それと人の姿をした者が十人ほどたむろしていた。
 その歳は小さいもので五、大きいもので十五といったところだろうか?
「モノミ殿は、何歳なのだ?」
 蜩が格子から振り返り、静かに座っていたミワナに訊ねる。
「そうですな、今年で十七になっておいでです」
「なるほど。では、ミワナ殿を除いて、この里ではモノミ殿が一番の年長ということになるな」
「左様でございます」
 土地神のいる間しか、その眷属は生まれない。
 ということは、先代の下で生まれたミワナ以外は皆モノミの年下ということになる。
 ミワナとモノミ、そしてモノミの世代の妖狐達。
 そこに大きな歳の差があるのは、やはり人が神を忘れていったからだろうか?
 蜩の心中を読み取ったのか、それともそういう力があるのか、ミワナは静かに口を開いた。
「二十年ほど前でしたな。相次ぐ不作に村の者が大規模な稲荷神への豊作祈願を行いました」
「……む?」
「おそらく、モノミ様が生まれたのはその祈りを受けてのことでしょう。先代が死んで五十年、私はこの地の土地神を生む力は潰えたと思っておりました」
「お主が、モノミ殿を見つけて育てられたのか?」
 蜩が先を予想してそう言うと、ミワナはこぼれんばかりの笑顔を見せて頷く。
 そして、当時を懐かしむように天を仰いで言った。
「モノミ様は、それはそれはかわいい女子でした。モノミ様が生まれたおかげで、仲間も一人二人と次の年から生まれ、先代の代から一人残されていた私は嬉しゅうございました」
「そうか、お主はモノミ殿が生まれる前はずっと一人だったのだな」
「左様でございます。しかし、あの頃のモノミ様といったら……いやはや、語って聞かせられるものではございません」
 恍惚とした表情を浮かべて回想に酔いしれるミワナ。
 蜩は苦笑しながら彼の前に座り、目の前で手を振った。
「よい。ミワナ殿の様子で、どんなものか想像がつく」
「いや、申し訳ありませんな。蜩殿にもお見せしたかったです」
 老人の行くところに、裾を掴んでいつも後ろをついていくかわいい女の子。
 そんな姿がありありと蜩の頭には浮かんだ。
 彼とモノミは主従の関係でもあり、また一方で祖父と孫の関係でもあるのだろう。
 そう感じた蜩は、一言にまとめて、ミワナを労うかのように感想を伝える。
「ミワナ殿は、モノミ殿が本当にお好きなのだな」
「ええ、大好きでございます。モノミ様も、この里の子供達全て私の大切な家族でございますから」
「家族……か。よいものだな」
 ひがみではない、蜩は心からそう思った。
 同胞(はらから)、仲間、愛情、そんなもので繋がった血の繋がりによらない家族。
 だが、それはとても暖かいものだった。


 ふと、家族と思いを馳せたところで蜩に疑問が浮かび上がる。
 そんな大切な家族が、一人他の者と離れて暮らしていていいのだろうか?
「しかし、そんなミワナ殿がよくモノミ殿を人里に住むのを許したものだな」
 蜩がそう言った瞬間、ミワナは渋い顔をしてこめかみを押さえた。
 どうやら、頭痛の種だったらしい。
 しばらく髪を掻き毟った後、彼は渋々顔を上げた。
「許してはおりませぬ。ですが、モノミ様は我らの長。お止めすることは出来ても、強制することは出来ないのです」
「つまり、ミワナ殿はモノミ殿の行動に賛成できないと?」
「いや、モノミ様は元より好奇心旺盛なお方なのは存じておりますし、私もそれが悪いとは思ってませぬ」
「では、何故?」
 蜩の問い詰めにミワナは溜息を吐く。
 なんとなく、それには自分への嘲りが含まれているようだった。
「色々ありますが、結局のところ私は頭の古い老人だということです」
「というと?」
「私は怖いのです。衆愚と神が直接交わるという、前例のない事態が」
 それを聞いて、蜩も考え込む。
 彼は正真正銘の退魔士だが、戦国の世では彼のような人間は既に絶滅種となりつつあった。
 言ってみれば、彼もまた古い型の思考を持った人間である。
 そんな彼の常識から見ても、誰彼構わず姿を見せる神というのは前例のない話である。
 それがもたらす影響というものを考えれば考えるほど、何が起こるのかが分からず恐ろしいものがあった。
「ですが、これが今の土地神のあり方としては正しいのかもしれないとも思うわけです」
 悩みこんだ蜩の緊張をほぐすためか、落ち着いた声でミワナが言葉を続ける。
「モノミ様が村に下って七年。人々はモノミ様の恩恵を受けて神を再び意識するようになりました。おかげで、七年前から毎年のように新しい仲間が生まれます」
「恩恵とは、あの癒しの力のことか?」
「それはモノミ様が意識して行える小さなことに過ぎません。モノミ様は土地神、あの方が近くにいれば、生きとし生けるもの全てに活力を与えます」
 そう言われて蜩ははっとする。
 普段のモノミの言動で土地神の本質を失念していたのだ。
 土地神とは、その地を潤すと信じられる神。
 その力は草木を生い茂らせ、また動物を育む気候すらもたらすという。
 ゆえに、昔の人々は土地神を怒らせないように様々な祈願や供物を行った。
 遡れば、人身御供(人柱)という習慣すら存在する。
「滅び行く神の存在。あの方……モノミ様はそんな時代において、我々の新しい生き方を指し示すためにお生まれになったのかもしれません」
「なるほどな」
 蜩はミワナの言葉に大きく頷き、もう一言付け加えた。
「人と神、そしてミワナ殿達眷属の生き方。某も、モノミ殿なら何か答えを出せるのではないかと思うぞ」
「そうですな。そう、信じたいものです」
 そう言って、立ち上がったミワナは、家の奥にある祭壇へと向かっていく。
 そして、祭壇に飾られていた刀を取り、それを蜩に差し出した。


 突然のことに蜩はしばし驚き呆然とする。
 だが、我に返るとその刀をおもむろに無言で手に取った。
 抜くと、それはまさに玉散る氷の刃。
 モノミに折られたナマクラの太刀とは大違いの上物である。
「これは?」
「持っていって下され。いや、蜩殿にお返し申し上げます」
「返す? これは某の物ではないぞ」
「いえ、合っております。その刀、四代前の土地神が退魔の方に力を貸した礼に戴いた物なのだそうです。名は『稲荷守』と申します」
「稲荷守……狐を守る刀か、悪くない名だ。だが、良いのか? これは里の宝なのだろう?」
 蜩がそう言うと、ミワナは人懐っこい微笑を作って笑ってみせる。
「ふぉふぉふぉ、刀なぞ人間と命のやり取りでもしない限り必要ないでしょう。つまり、我々には元より不要でございます」
 それを聞いて、蜩も笑う。
「それは確かにそうだな」
「持って行って下され。蜩殿なら間違った使い方もされないでしょうし安心です」
 蜩の前を通り過ぎ、外に通じる戸へと向かうミワナ。
 その戸を開けて、蜩の方を振り返る。
「老人の長話にお付き合いさせて悪うございました。よろしければ、一緒に夕餉でもいかがですかな?」
 開かれた戸の先からは鼻腔をくすぐる香りが漂ってくる。
 そして、楽しそうな子供達の声も聞こえてきた。
 どうやら彼らは広場に集まって皆で食事にするらしい。
 里に住む者の顔をまだほとんど見ていなかった蜩は快く、
「ありがたく馳走になろう」
 と返事をして立ち上がった。


 里の者達との夕食を経て、モノミと蜩は村へと帰ってきた。
 ただし、付き添いが一人と二匹。
 一人はミワナ、そして二匹は小さなサナとウルだった。
「見送りありがとうミワナ。もうここらでいいよ」
 山道の入り口で先頭を歩いていたモノミが振り返る。
 辺りはもう真っ暗だったが、狐と言うだけあって妖狐の二人と二匹は夜目が利くらしい。
 何の苦労も無く、蜩の手を引いて明かりの無い山道を下っていった。
「そうですな。私はここまでにしましょう。あとはこの子達を……」
「油揚げっ」
「油揚げっ」
 二匹同時に飛び跳ねる小さな狐達に、居合わせた他の三人は苦笑いをする。
 この二匹がついてきたのはモノミが里に帰った際に行った姦計の報酬を求めてのことだった。
 ちなみに、ミワナはその引率である。
 二匹だけでも里に帰ってこられるとはいえ、やはりまだ子供。
 老人としては心配で仕方ないのだろう。
「分かったよ。ほら、ついといで」
 わーい、とばかりに二匹はモノミの後について家の中へと入っていった。
 後に残されたのは蜩とミワナのみ。
 木の生い茂る山道では見ることの出来なかった星空が天井に広がっていた。
 二人でその雲ひとつ無い夜空を眺めながら、一呼吸おいて蜩は口を開いた。
「本日は世話になったな、ミワナ殿」
「いえいえ。こちらこそ。里の者も久々の客人に喜んでおりました」
「そうか。某も楽しかったぞ」
 モノミより歳の小さい者ばかりだからか、それともモノミの影響か、妖狐の里の住人は皆人懐っこかった。
 食事中、何人かは蜩に鬼退治の武勇伝をねだったほどである。
 あのサナやウル同様、子供達は皆無邪気だった。
「よろしければ、いつでもお立ち寄り下され。蜩殿なら歓迎いたします」
「かたじけない。旅に出ても、またここに立ち寄ることがあれば、その時は是非に」
「ええ、お待ちしております」
 破顔して頷くミワナに、思わず蜩も顔を綻ばせる。
 会って間もない二人だったが、二人にはどこか旧知の仲であるような雰囲気があった。
 考え方やモノミと接する態度が似通っているため、気心が通じやすいのだろう。
 と、そこに二人を繋いだ人物がひょっこりと現れる。
「なーんか、仲いいねアンタたち。だいたいミワナ、アンタ人間嫌いじゃなかったのかい?」
 いつの間に戻ってきたのか、モノミが二人の側に立っていた。
「別に私は人間が嫌いというわけではありません。蜩殿のようにしっかりした考えを持っている方でなければ油断ならぬと思っているだけです」
「そういう人なら村にだって少しはいるじゃないか」
「確かにそうですが、蜩殿は退魔士です。つまり、我々の存在に理解がある。だから信用できるのです」
「そういうもんかねえ。ま、アンタが人間嫌いじゃないって分かってほっとしてるよ」
 うんうん、とにこやかに頷くモノミ。
 だが、ミワナは長い付き合いからモノミに釘を刺すのを忘れなかった。
「だからと言って、誰彼構わず里に連れ込んだら本当に人間嫌いになりますからな」
「んぐっ!?」
 盛大に喉を詰まらせ、モノミが顔を歪める。
 どうやら図星だったらしい。
 その様子を見て、脇で傍観していた蜩も苦笑する。
「して、モノミ様。サナとウルはどうしましたかな?」
「あー、家の中で好きなだけ油揚げ食べさせてやってるよ。あんな馬鹿なことさせたお詫びだ」
「まったく、少しは里長として品格を持ってください。私とていつまでもいるわけではないのですから」
 溜息混じりにそう呟いたミワナに、モノミはきまりの悪そうな顔をして頭をかいた。
 彼女とて好きでミワナを困らせたいわけでもないのだ。
 ましてや、老い先短いというようなことを口にされると、若い者として心に重いものがのしかかる。
「本当に悪かった。ミワナがいなくなっても里を引っ張っていける長になるよ。だから……」
「分かってらっしゃるなら何も言いますまい。今は好きなように生きて下され。何、私もまだまだ長生きするつもりですからな」
 ほっほっほ、と笑う老人の顔は実に晴れやかだった。
 やはり、彼もモノミのことが大好きなのだろう。
 と、そこでモノミが何かを思い出したように告げる。
「ああ、そうだ。ミワナ、紅葉が今年はモノミの季節だって言ってたよ」
「紅葉……ああ、あの五月蝿い娘ですか」
「五月蝿い、は余計だよ。アタシのこっちでの親友にケチをつけるのかい?」
「いやいや、誰か様に似ているのに、あの娘は孝行娘ですからな。嫌いではありませんぞ」
 ぷっ、と脇で蜩が噴き出すも、モノミに睨まれ慌てて平静を装う。
 いつもモノミの痛いところを適確につくミワナの言葉は、傍で聞いている者にとってさぞ可笑しいものなのだろう。
「で、嫌味言ってないでどうなんだい? モノミの季節だよ」
 少し不機嫌そうにミワナにも突っかかるモノミ。
 ミワナは少し両手を挙げて怖がってみせると、次は真面目な顔をして答えた。
「モノミの季節ですか。里の者総出で参りますかな」
「うん、決まりだ。やっぱ、アタシら妖狐はお祭り好きだね」
「ふぉふぉふぉ、こればかりは私も出て行かずにはおられませんからな」
 なにやら己の蚊帳の外で同意が成立しているのを見て、蜩は首をかしげる。
 モノミの季節、お祭り好き。
 前者は言葉の意味が分からず、また後者との繋がりもよく分からない。
 蜩が必死に悩んでいると、モノミから言葉がかけられた。
「ソレガシさん、まだしばらくこの村にいられるかい?」
「む? 行くあてもないゆえ、まだ出て行こうにも出て行けぬ」
「そりゃ良かった。もうすぐ祭りがあるんだ、ソレガシさんも参加しないかい?」
「祭りか……モノミ殿が置いてくれるならば、しばし留まることも出来るが……」
 そこまで世話になって良いものかと悩みこむ蜩だったが、それを聞いたモノミはたいそう喜んで蜩の手を取った。
「いつまでいてくれてもいいさ。それに、アタシは祭りで踊るんだ。見ていっておくれよ」
「……むう」
 反応に困る蜩。
 だが、その背中をぽんと叩くものがいた。
「そこで断るのは男ではないですぞ、蜩殿」
 モノミ同様、楽しそうな顔を浮かべているミワナである。
 気の合う者に諭されては蜩も本心を素直に見せるしかない。
 モノミの手を握り返し、その瞳を見つめた。
「某からもお願いする。モノミ殿の踊りを是非とも見せてくれ」
「うん、約束だ。頑張るから、絶対見ておくれよ」
 しばし見つめ合うモノミと蜩。
 長身の蜩に対して、モノミはまだ育ち盛りの娘。
 二人の体の大きさはふたまわりも違う。
 それでも、その時彼らの見ているものは同じだった。
 夜空に瞬く星よりも綺麗に輝くお互いの目を彼らは深く心に刻み込んだことであろう。
 やがて、どちらともなく二人は離れた。
「一つだけ教えてくれぬか?」
「何だい?」
「モノミの季節とは何なのだ?」
「ああ、言ってなかったっけ」
 静かに二人を見守っていたミワナにモノミが視線を送る。
 そして、二人は何か楽しそうに相槌を打った。
「アタシの名前、妖狐の古い言葉から付けられているんだ。意味、分かる?」
「いや、妖狐の古語など分からぬ」
「ちょっとは想像して欲しかったんだけどね。まあ、やっぱり無理か」
 ちょっと溜息をついて、でも悪戯っぽく笑って。
 モノミは両手を胸に当ててその意味を告げた。
 自分にとって、その意味がとても大事であると示すかのように。


―――豊饒って意味さ


 豊饒の季節。
 すなわち、祭りとは収穫の祭りということである。
 祭りの季節は、秋。
 豊饒の名を持つ小さな神はその季節が大好きだった。






     7.モノミの季節

 収穫祭当日。
 村の田は黄金で染まり、村中が明るい歓声で埋まる。
 モノミの季節と呼ばれる秋の到来だった。


 そんな中、蜩はミワナと共に虫の鳴く山道を歓声の中心へと歩いていた。
 大きく積み上げられた薪に火が灯されたのだろう。
 村の広場あたりの空は夜だというのに赤く染まっている。
「先ほどは本当に驚いた。モノミ殿から突然妖狐の里にミワナ殿を迎えに行けと、凄い剣幕で家から追い出されたのだからな」
「ふぉふぉふぉ、祭りの衣装に着替えるのを見られたくなかったのでしょうな」
「とはいえ、何もそこまでしなくても良いのではないかと思うが」
「よっぽど蜩殿に驚いてもらいたいのでしょう」
「そういうものか」
 他愛も無い会話をしながら祭りの場所へと一歩一歩近づいて行く。
 どうやら蜩はモノミの祭り衣装見せたさに家から追い出されて、祭りの場で落ち合うように仕向けられたらしい。
「そういえば、里の他の者はどうしたのだ?」
「ああ、他の者は既に準備から祭りに混ざっております。それぞれ持てるだけの薪を持って楽しげに村に下りていきました」
 この時代、祭りと言っても出店がたくさん並ぶような物ではない。
 そもそもが小さな農村の祭りである。
 村の者総出で集まって、火を囲んで歌って踊り、あるいは次の年の豊作を祈願する。
 そんなささやかでもあり、また賑やかでもある祭り。
 それがこの農村の収穫祭だった。
「祭りは少々羽目を外してもよい日ですからな。昔から祭り、特に豊作の祭りの時は我々もこっそり混ざっておるのです」
 ミワナはそう説明した後、皮肉っぽく笑う。
「もっとも、モノミ様が村に下りてからは『こっそり』なんてものではなくなりましたがな」
「『堂々と』か」
「左様でございます。まだ人の姿になれない者も、半人前の者も」


 しばらく黙って道を歩く二人。
 祭りの歓声と光が目の前に見えてきた時だった。
 ミワナが何かを思い出したかのように足を止め、そして自らの懐をまさぐる。
 取り出だされたのは、一本の棒切れ。
「吹けますかな?」
 ミワナは蜩の目の前にそれを突き出してそう尋ねた。
 蜩はしばらくその棒切れを見つめて、それが木を削って作られた横笛であることに気付く。
 そして、小さく頷いた。
「あまり得意ではないが、鎮魂のために少々嗜んだことがある」
 楽器は言葉よりも人の心に響くことがある。
 それは人だけではなく、動物や霊、物の怪といった生きとし生けるもの全てに通じるもので、退魔士である蜩にその教養があるのは不思議でもない。
 もっとも、蜩は太刀を伴にしていたことからも分かるとおり、強制排除の方が得意である。
 音楽をもって、人ならざるものと心を通わすという繊細なことが不得手なのは、実直かつ素朴な性格によるものかもしれない。
 だが、ミワナにとっては『吹ける』という言葉だけで十分だった。
 にこりと微笑んで、その笛を蜩の手に握らせる。
「作った甲斐がございました。この笛は蜩殿に差し上げます」
「ありがたいが、某に笛など吹く機会があるのだろうか?」
「あるかもしれませんぞ。まあ、小さいものですし、持っていても損にはなりますまい」
 暗に『路銀に困ったら売ればよい』と含みを入れたミワナの言葉に、蜩はやれやれといった様子で溜息をつく。
 せっかく作ってもらった物を売るなどという不誠実な真似は蜩には出来ないし、慰めに取り出して吹こうにも、そこまでの芸風が無い。
 それはつまり、まだしばらくはこの村を離れられないということである。
「やれやれ、またミワナ殿に習わねばならぬものが出来てしまったな」
「ほっほっほ、もうすぐ冬ですからな。蜩殿に今出て行かれたら私は退屈で仕方ありません」
 この村は雪国だった。
 冬は全てが雪に埋まり、ミワナのような老人にとっては外に出られない日々が続く。
 そんな中、このところ村人の病を治すために薬草の教えを乞いに来ていた蜩は、ミワナにとって最高の話相手だったのだ。
 冬の間は気の合う話相手に趣味である笛を教えられると思うと、来るべき冬も気の重い存在ではないだろう。
「いっそ、このままここで暮らしてはいかがです?」
「む……」
「いえ、モノミ様も蜩殿を好いておられる。村人も蜩殿を好いていると聞いております。この地に骨を埋める気はございませんか?」
「うーむ……」
 ミワナの言葉は一理ある。
 蜩自身、この地での生活に慣れ親しみを感じ始めていた。
 しかし、今までずっと一所に止まることなく放浪してきた身としては、どこかに止まるというのは落ち着かないものがある。
 そして、ここでの生活が望むべくもないほど良いものかと言われれば、そういうわけでもない。
 今すぐ答えを出すのはあまりに難しい問題であった。
「まあ、旅に出ても、いつでも帰ってきてくだされ。さあ、祭りですぞ」
「おお、小さな祭りかと思っていたが、随分賑やかなのだな」
 広場には村のものが集まり、火を囲んで取れたばかりの穀物を賑やかに食べていた。
 狩りや釣りに出たものもいるのだろう。肉や魚の匂いもする。
「私は用事がございますので一足先に祭壇の方に参りますが、蜩殿はモノミ様をお探しになられてはいかがでしょう?」
「そうするとしよう。では、また後ほど」
 会釈をしてミワナと別れる蜩。
 ミワナは炎を挟んで反対側の祭壇へと去っていった。
 おそらくはそこでモノミが踊りを踊るのだろうが、肝心のモノミの姿はまだない。


 ただ立っていても仕方がないので、蜩は賑やかに騒ぎ続ける村人達の間を抜けてモノミの姿を求める。
 途中、何度か『先生』『蜩の旦那』と呼ばれて振り返ると、薬をやったり、魔を祓ってやった覚えのある顔が幾つもあった。
 その中にはいつかの次郎と弥助の姿もある。
 二人は同い年の隣人で、三十五年来の親友なのだそうだ。
 そんなことが頭に浮かぶくらいに、蜩もこの村の住人と気心が知れるようになっていた。
「そこを行くのは蜩殿ではないか?」
 ふと、村人の中から一際野太い声が聞こえて、蜩は声の方向を振り返る。
 すると、そこには見覚えのある荒くれ風の男が、何人かの男女を囲んで中央にどっかりと腰を据えていた。
「……確か、足軽大将の伝右衛門殿だっただろうか?」
「覚えていてくれたか。拙者でござる。もうこの地を立たれたかと思ったが、蜩殿も祭りに来ていたか」
「モノミ殿に祭りを見ていけと言われてな。伝右衛門殿は、もう肩の具合はよいのか?」
「はっはっは、この通りでござる。お望みとあれば、大槍も振り回してみせよう」
 酒が入っているのか、伝右衛門は右肩をぶんぶんと振り回して見せる。
 すこぶる快調であるのは明らかだった。
「まことに、モノミ様はありがたいお人だ。おかげで二年続きの大豊作だからな」
「ここにいるということは、伝右衛門殿自身田畑に出られているのか?」
「刈り入れ等の忙しい時だけだが、戦のない時は一家のものに混じって田畑にも出る」
 一家と言って、両手を広げ自分の周りを囲む男女を指し示す。
 子供を含めて十五六ほど。それが彼の一族郎党なのだろう。
 皆一様に、主人と対等に話す蜩へと小さく頭を垂れた。
 当時の武士は半農がほとんどであったため、伝右衛門のような者は決して珍しくない。
 戦でも、田植えや収穫時になると兵が逃げ出すことはざらであった。
「戦か……。ここは随分のんびりしているが、戦はあるのか?」
「なければ拙者のような人間がいるわけなかろう。この三年ほど隣国と膠着状態ではあるがな」
「なるほど……この平和も、随分危ういところで成り立っているのだな」
 膠着状態とは、均衡が崩れればすぐさま戦になるということである。
 どちらかが相手側に雪崩れ込み、またその逆もしかり。
 むしろ、三年も互いに決め手なく戦が止まっている方が珍しいとも考えられる。
「ところで蜩殿、お主は今どうしているのだ?」
「某か? 某は、まだモノミ殿のところで厄介になっておる」
「ほう」
 伝右衛門は感嘆の呟きとともに、僅かに笑ってみせる。
「退魔士と物の怪が一つ屋根の下とは、また随分珍妙な組み合わせよの」
「やはり、そういうものだろうか?」
 伝右衛門に限らず、その感想は他の村人からもしばしば耳にする。
 しかし、時には物の怪とも協力するのが退魔士。
 祓ったり退治したりばかりがその仕事ではない。
 とはいえ、蜩自身が今までにやってきたのは退治ばかり。
 害を為さぬものには無干渉ではあっただけで、語り合ったり、同居をするというのは初めてのことである。
 ましてや、その同居の相手が神というのは完全に規格外であった。
「まあ、蛇と蛙が一緒に暮らしているように見えるが、蛇と蛙が仲良くしてはならぬという理由もあるまい」
「意外と、愉快なことを言うのだな伝右衛門殿は」
「失敬な。拙者が愉快であってはならぬという理由もあるまいに」
「まったくもってその通りだ」
 しばらく見つめ合う二人。
 そして二人して、大きく笑った。
 生きる道は異なれども、この蜩と伝右衛門もまた気の合う関係であるらしい。
「蜩殿、もう一度訊くが、拙者のところに来ぬか?」
「前にも言ったが、某は人の斬り方を知らぬ。おまけに……」
 言葉を止めて、蜩は懐からミワナにもらった笛を取り出してみせ、軽く一節吹いてみせた。
 その素朴な音色に、伝右衛門と彼を囲む一族郎党が嘆息を漏らす。
「この通り、今は笛を習おうと思っておるところだ」
「ふっ、それでは仕方ないな。だが、蜩殿。拙者はお主が気に入った。まだまだ、諦めるつもりはござらんぞ」
 さもおかしそうに笑い飛ばし、杯をあおる伝右衛門。
 この調子では、会うたびに蜩を勧誘することだろう。
 しかし、彼らにとってはそれでいいのかもしれない。
 伝右衛門が誘い、蜩が断る。それが次に会う時の楽しみになるのだから。
 と、蜩と伝右衛門が語り合う場に、薄汚い男が小走りで駆け込んできた。
 蜩は全く面識のない男である。
 男は周りの誰にも見向きもせず、伝右衛門の傍に駆け寄って、その耳に何かを呟いた。
 すると、酔っていたはずの伝右衛門のエビス顔が、突然本来あるべき武士の顔に変貌する。
 男はそれを確認すると、来た時のように誰にも見向きしないで走り去っていった。
 おそらくは伝令役の足軽だったのだろう。
 周りの視線を浴びながら、伝右衛門が立ち上がる。
「何かは分からんが、御館様が拙者達を呼んでいるらしい」
「武士とは気の休まらぬものだな」
「茶化すな蜩殿。たとえそうでも、家族を飢えから守れるのであれば、拙者はこの道を取る。では、御免。モノミ様にはよろしく言っておいてくれ」
「うむ、また近いうちに会えるとよいな」
 お互いに礼をかわし、蜩と伝右衛門は別れた。
 伝右衛門の一族郎党はこういう事態に慣れているのか、めいめいに「大将も大変だな」とか「御館様は何の用だべ?」等とくっちゃベっては、いつしか他愛もない世間話に花を咲かせていた。
 当然、蜩の居場所ではないので、彼は何も言わずにそこを立ち去ることにする。


 モノミを探して祭りの炎の周りを歩くも、一向にその姿を発見できない。
 諦めてミワナのいる祭壇か、顔見知りの村人の輪に蜩が腰を下ろそうかとした時だった。
「あっ、いたいた。ソレガシさん、こっちこっち」
 聞き覚えのある騒々しい声が聞こえてきた。
 ふり返ると、モノミと同い年の親友、紅葉が手を振っていた。
 傍にはモノミらしき人物が立っている。
 が、どういうわけか衣を被って俯いているので、その表情は読み取れない。
「紅葉殿か。して、隣のこれはモノミ殿か?」
「これって何だい! アタシがモノミだよ」
 ばばっと、被っていた衣を剥ぎ取り、いきり立ったモノミが姿を現す。
 地面に落ちかけた衣を、慌てて紅葉が拾い上げた。
「ちょ、ちょっとモノミ。ゆっくりこれを取ってソレガシさん驚かせるんじゃなかった……」
 のかい? と言おうとして紅葉の口が止まる。
 彼女の前で、モノミと蜩は呆然と見つめ合っていたからだ。
 モノミはいきなり衣の中の自分を見せてしまった気恥ずかしさに、蜩はというと、衣の中に隠されていたモノミの姿に。
「あちゃあー、なんだか私はお邪魔だね。お母さんとこに行っとくよ」
 いひひひひ、とばかりに悪戯っぽく笑うと紅葉は衣を持って、すたこらさっさとその場を逃げ出した。
 いつもならモノミが顔を真っ赤にしてそれを咎めるところだが、今のモノミに紅葉の姿は映っていない。
「あ、あの……どうだい、この格好」
 おそるおそるそう言って、その場でくるりと回ってみせるモノミ。
 モノミの格好は、今で言う浴衣のような服装だった。
 質素ながらも、柄が描かれており、おしゃれな衣装と言えるだろう。
 しかし、何より蜩の目を奪ったのは、モノミの頭に現れた狐の耳と、衣装の後ろから溢れんばかりにこぼれ出ている九本の尻尾であった。
「その耳と尻尾はどうしたのだ?」
「これかい?」
 右手で頭の耳を触ってみせ、左手で後ろの毛束と言えそうな尾を、ふぁさとかきあげてみせる。
 なんとも色っぽい仕草であった。
「こういう祭りの時は、狐は狐って分かる格好で祭りに混ざるんだ。ほら、向こうにうちの里の仲間がいるだろ」
 モノミが指差す先には、なるほど、蜩も里で見たことのある者達が耳や尻尾を出していた。
 しかし、尻尾の方は尻の部分が膨れ上がっていたり、裾から先っぽがはみ出ているだけでモノミのように根元から衣服の外には出していない。
「昔はそうすることで、アタシたちがいるってことを村の人たちに教えていたんだってさ。アタシが村に下りてからはただの飾りになってるけどね」
「ふむ。しかし、ミワナ殿は出していなかったぞ」
「あー……ミワナは」
 話がミワナに及び、モノミははじめていつものような悪戯っぽい笑顔を見せる。
 ようやく緊張が解けたのだろう。
「歳だから、干からびてぼさぼさの尻尾見せたくないんだよ、きっと」
「そういうものなのか……」
 狐達には狐達のこだわりというものがあるらしい。
「しかし、いつの間に……ひいふうみい、これは全部で何本だ?」
「尻尾の数かい? 全部で九本さ」
「前に見せてもらった時は一本だったはずだが……」
「ああ、これ真ん中の一本だけが本物なんだ。変幻自在の化け術なんてものは使えないけど、尻尾を九本に増やすくらいなら簡単だからね」
「なるほど。しかし、なんとも優美なものだな」
 九本が小刻みに揺れて、お互いの毛をふぁさふぁさと鳴らす音はなんとも扇情的なものがある。
 しかも、モノミの尻尾の毛並みと言えば、実に手入れが行き届いていて美しいのだ。
「ありがと。そう言ってもらえると嬉しいよ。この衣装はこれ出すために紅葉が考えてくれたんだ」
 これと言って、また尻尾をかきあげてみせるモノミ。
 人間、長い後ろ髪をかきあげる動作に艶っぽさを見出すものだが、この毛束にも同じことが言えるようである。
「これだけの尻尾を服に穴あけて通すのは大変だからね。あらかじめ後ろに切り込み入れた服に尻尾を通してから縫ってもらってるんだ」
「それで、準備に時間がかかっていたのか?」
「うん。脱ぐ時にはまた破いてしまうし、この服装はお祭りの時だけなんだ」
「なるほどな……モノミ殿のその衣装を見られただけでも、この祭りに来た甲斐があった」
「あはは。そう言ってもらえるのは嬉しいけど、まだちょっと早いよ」
 モノミはくすっと笑い、その場でくるっと一回転してみせる。
 すると、九本の尻尾が流れるように宙に浮き、金の毛がお互いに触れ合ってなんとも柔らかい音を奏でる。
 そのあまりの妖艶な美しさに、蜩は言葉を失った。
「この格好でしか出来ない踊りを見せたかったんだ」
 踊りの一動作だけでこの美しさである。
 本当に一曲踊れば、それはどれほどのものになるだろうか?
「さあ、行こ。アタシの踊り、見てくれるかい?」
「もちろんだ。是非に」
 大きく頷いた蜩に微笑むと、モノミはその手を引いて祭壇に歩き始めた。


 モノミの姿を捉えると、めいめいに騒いでいた村人もすぐさまモノミに視線を向ける。
 いや、一歩ごとに鳴る、あのふぁさふぁさという音に村人達も魅せられているのだ。
 『モノミ様だ』『今年はまた、一段とお美しい』『モノミ様ー』と言った声で周囲が溢れる。
 皆、これから始まるモノミの踊りを心待ちにしていたのだろう。
 祭壇を前に、先にそちらに向かっていたミワナが二人の前に足を運ぶ。
 恭しく礼をすると、今度はミワナがモノミの手を取り、壇上へと導いていった。
 そして、奏でられるミワナの笛。
 モノミはそれに合わせて、舞い始める。
 笛の音が激しくなれば、先ほど蜩に見せた回転動作等を素早く行い、また緩やかな笛の音には緩やかな歩行を行ってみせる。
 モノミの踊りには型はなかった、ただ音に合わせて直感だけで踊っているのである。
 しかし、星月の光と広場の中心に燃え盛る炎の光、その両方を受けたモノミはなんとも美しかった。
 何より、金に輝く尾の動きが、衆人の目を捉えて離さない。
 まさに、神の名に相応しき者の舞であった。
 一人二人と、その姿に魅せられ、手を合わせてゆく。
 豊作祈願、家内安全、祈りは様々であろう。
 それが、全てモノミの踊りに託されていくのだ。
 突如、笛の音が止まる。
 蜩が驚いて、モノミの傍に控えていたミワナを見ると、彼は楽しそうに手招きをしていた。
 その意図するところに気付いた蜩は思わず首を振る。
 ミワナの見事な笛を聴かされては無理もない話だった。
 しかし、ミワナはしつこく手招きを続ける。
 村人達の視線も蜩に何かの期待を投げかけているではないか。
 何より、壇上のモノミも蜩に期待の視線を送っている。
 ここまでされて黙っているほど蜩も無粋者ではない。
 立ち上がって、祭壇に上り、ミワナとは反対の左端に笛を取り出して座する。
 そして、知っている限りの、一番明るそうな曲を吹き始めた。
 すると、何ということだろうか。
 ミワナは即興でそれに伴奏をつけ始めたのである。
 モノミはまだ踊らない。
 しかし、村人達はそれだけで拍手喝采した。
 二人が奏でる音に対する感動し、さらに、それを受けるモノミの踊りに期待したのだろう。
 一節、ただ二つの笛だけが奏でる時間が過ぎた後、しばし壇の後ろに身を引いていたモノミが、壇中央に足を運ぶ。
 彼女もまた、即興で二人の笛に合わせた踊りを舞い始めた。
 二つの笛の音と、小さな神の踊り。
 祭りはかつてない興奮に包まれていく。
 蜩は知っている曲を全て余すことなく吹いた。
 ミワナはその全てに、己の全技術をもって応える。
 そして、モノミは全ての輝きを集めて、舞い続けた。
 誰も、その日の祭りを忘れる者はいないだろう。


「なあ、ミワナ殿」
「なんですかな?」
 祭壇の上で、出された酒と食事に舌鼓を打つ蜩とミワナ。
 モノミは踊りを終えて、その衣装を脱ぎにいった。
 祭壇下の炎の前では、モノミの踊りに興奮したのか、まだ年端もいかぬ妖狐の子供達が下手くそな踊りを精一杯踊っている。
 村人達はそれに手拍子を送って楽しんでいた。
 実に温かく、和やかな光景である。
「昔は、帝や藤原様の世に生まれなかったことを悔やんだこともあった」
「今は、どうですかな?」
 一仕事終えた男達の顔を広場の炎が赤く染める。
 檀下のつたない踊りに頬を緩めながら蜩は答えた。
「この地に、骨を埋めるのも悪くないかもしれぬ」
 そう言った蜩の顔は、実に晴れやかだった。


 だが、この時は誰も考えもしなかった。
 この幸せが、予想もしない災いを呼ぶきっかけになろうとは。
 その日の夜、坪内鬼六の城には伝右衛門はじめ、おもだった家臣が集まっていた。
 全員、いかなる用件で呼ばれたのかは分からず、広間に城主である鬼六が現れるのを今か今かと待ちわびる。
 やがて、最も遠方に住む弓大将が参上すると、同時に坪内鬼六も姿を現した。
「おう、全員よく集まった。今日はめでたい日だ、構わん楽にしろ」
 この坪内鬼六という男、容貌は名前そのものの鬼のごとき風体で、大名と言うよりは、山賊の総大将と呼ぶほうが似合っている。
 恐ろしい男ではあるが、反面家臣達への情は厚く、家臣たちは彼に忠誠を誓っていた。
 戦国大名と言っても、大から小まで様々ある。
 立派な家柄もあれば、この坪内鬼六のようにヤクザか何かと変わらないような者がいても不思議ではない時代だった。
「今年は去年に続いての豊作。実にめでたいことだ。そこで、間者からの報せだが、黒羽の若僧の所は水害で大不作だそうだ」
 何が言いたいか分かるだろう? と目の前に座する家臣一同を見回す鬼六。
 黒羽とは、彼が目の上のたんこぶとしていた隣国の主のことである。
「おお、ではついでに彼奴らに引導を渡すのでございますな」
「そうだ、これ以上あの若僧をのさばらせておく理由はない。今度という今度こそ滅してくれる」
 鬼六が忌々しげに床に拳を叩きつける。
 今までに、何度も煮え湯を飲まされてきた相手の名を口にするのも腹立たしいと言わんばかりに。
「いいか、俺はこんなちっぽけな国で満足する気はねえ。もっともっと国をでかくして、おめえらにはいい目を見せてやりたい。どうだ、俺について来るか?」
「応!」
 広間の家臣たち一同が大声で返事をする。
 彼らが鬼六に従うのは、まさにそのためであるのだから。
「しかしだ。いくら奴でも今回ばかりは背水の陣で抵抗しやがるだろう。もうすぐ冬になる。篭城でもされたら攻め手の俺達が寒さにやられかねねえ。だが、そこで粘れって一発かましてやりゃ音を上げるのは奴らだ」
「寒さを凌ぐ必要がありますな」
「おうよ、そこでだ。戦の景気付けに丁度いい、狐狩りを行う」
「おおっ!」「なっ!?」
 狐といえば毛皮、毛皮で暖を取ろうというのが鬼六の狙いだった。
 しかし、その案への同意に混じって、一部驚愕の声が混じった。
 その内の一人が立ち上がる。
「な、なりません! 狐は神の使いですぞ。そんなものに矢を射掛けては戦のツキが落ちます」
「このボケが! 何が神の使いだ。神を拝んだところであの寒さはどうにもならねえよ」
 取りつくしまもない一喝を残して、欠伸をかみ殺しながら鬼六が立ち上がる。
「明日から狐狩りだ。狐が怖いなら勝手にしやがれ。戦で泣いても敵前逃亡は許さねえからな」
 のしのし、と不愉快そうな足音を立てて鬼六は寝所へと去っていった。
 彼が信じるのは己の力のみ。山賊あがり同然の彼に拝む神などありはしない。
 しかし、彼は知っていたのだろうか?
 彼が喜んだ豊作が、小さな狐の神によってもたらされていたということを。
 鬼六が去った広間はたちまちの大騒ぎとなった。
 遠方の者は『各々方、戦でお会いしよう』と言い残して、戦の準備のために馬を飛ばして城から一人また一人と去る。
 残されたのは、坪内の城近辺に住む者。
 とりわけ、モノミのことを知る伝右衛門らであった。
「大変なことになった。いかに御館様の命令とはいえ、モノミ殿の仲間に弓など引けようか……」
「勝手にしろと言われたが、あのご気性の激しい御館様のことだ。狐狩りもできぬ臆病者と言われては参加しないわけにもいくまい」
 御館様とは、当時の城が『館』に近いものであったため、その主である者を指して呼ぶようになった敬称である。
「モノミ様は妖狐だ。ただの狐を狩ったところで問題ないのではないか?」
「されど、手前はモノミ様達も生まれはただの狐だと聞いておる」
「俺は部下がモノミ殿の世話になった。モノミ殿に弓引く真似はできん。だが、御館様にも大恩ある身。御館様には尚のこと逆らえぬ」
 口々に悩む残された者たち。
 恩義か忠誠か、信仰か忠義か。
 様々な思いで彼らは戸惑いを隠せない。
 つい最近モノミの世話になった伝右衛門もまた、その葛藤に苛まれていた。
 何より彼らは全員半農の身であり、モノミを稲荷神の使いやそのものと同一視している。
 そのため、彼女が悲しむであろうことをやるのは躊躇われたのだ。
 決心のつかぬまま、ただ戸惑い続ける家臣たち。
 だが、その中のある者が突然広間に面した庭に飛び出した。
 男の名は重蔵。モノミに戦で受けた矢傷を癒してもらったこともある、伝右衛門と並ぶ足軽大将の一人であった。
 彼は、庭に座すると、腰に差した刀を抜いてこう叫んだ。
「我、中庸なり!」
 止める間もない一瞬の出来事だった。
 刀が腹を貫き、重蔵は庭を血に染めて絶命した。
 葛藤の狭間に置かれた彼は、己の命をもって主君を諌めようとしたのである。
 だが、それこそが悲劇を生む火種となろうとは、なんと皮肉なことだろうか。






     8.モノミの丘

 あの祭りから三日が経った。
 収穫も終わり、手持ち無沙汰となった蜩は妖狐の里近くの川で、若い妖狐達と川釣りを楽しんでいた。
「わあ、蜩のおじちゃんこれで十匹目だよ」
「魚を釣るにはこちらの気配を悟られないようにしなくてはな」
「よーし、負けないぞ」
 ばしゃあ。
「よっしゃ八匹目!」
「うぐぐ、何でサジはそんなに魚釣るのがうまいんだよ……」
「あ、おっきな魚!」「ウルが捕まえる!」
 ざっぱーん。ばしゃばしゃ。
「あ、こらサナ、ウル! 川の中に飛び込むな、魚が逃げる」
「サジ達が叫ぶから、もう逃げてるよ」
「ていうか、ウルが流されてるぞ」
「わわわっ、やばいって。追っかけろ」
 慌てて駆け出した少年少女三人の背中から、腕が伸び、釣竿が流された子狐ウルの口の手前に突き出される。
 溺れる者は藁をも掴む、の要領ですぐさまそれに食らいつくウル。
 ウル漂流騒動は一瞬でその幕を閉じた。


 のびのびとした時間を過ごして里に戻った蜩達を待ち受けていたのは、里の反対側から走りこんでくる紅葉の姿であった。
「大変だよ! ソレガシさん、モノミとミワナさんはどこだい!?」
「どうしたのだ、紅葉殿。何があった?」
 ただならぬ紅葉の様子に、子供達の頭を撫でていた蜩の表情も強張る。
 そこに、紅葉の叫び声を聞いたのだろう。
 ミワナの家からモノミとミワナ、更に他の家からも他の妖狐達が姿を現した。
「なんじゃ、騒々しい。お主は喧しいから里に来るなと言ったじゃろうが」
「そんなことは分かってるよ。でも、そんなこと言ってる場合じゃないんだ」
「ミワナ、紅葉の様子が変だ。ここは話を聞いてあげようよ」
「うむ……そうですな。して、何があった紅葉殿」
 ミワナに促された紅葉だが、すぐには言葉を口にできない。
 村からここまで全力で走ってきたのだろう、呼吸が切れている。
 しばし、深く吸気を行った後、紅葉は叫んだ。
「領主の坪内様が、狐狩りを……妖狐を皆殺しにしろって命令したんだ!」
「な、なんじゃと!?」
 かっと、目を見開き、驚愕の叫びを上げるミワナ。
 ミワナだけでなく、その場にいた者の全てに衝撃が走る。


 紅葉の話はこうだ。
 祭りの後に領主の坪内鬼六が戦の準備を家臣に告げた。
 しかし、その戦の準備として指示された狐狩りに、家臣の一人が葛藤の末に切腹して果てたというのだ。
 家臣の命を懸けての諌めに鬼六が狐狩りを見合わせるかと思いきや、事は最悪の方向へと発展する。
 俺のためではなく、狐ごときのために死にやがるとは何事だ!?
 烈火のごとく怒り狂った鬼六は、家臣を惑わす魔性の生き物、妖狐の撲滅を指示。
 罰を恐れぬどころか、『なぁに、それほど立派な霊獣の毛皮ならさぞ暖も取れるに違いねえ』とまで言ってのける始末である。
 坪内鬼六という男は、確かに家臣の忠誠には男気で応える立派な男であった。
 しかし、反面、神仏といったものを全く信じず、信ずるのは己のみであるという欠点があった。
 自分を信じてついてくる者には飴を、そうでない者には鞭を、ある意味、一本気で分かりやすい男とも言えるだろう。
 しかし、今回の場合彼の性格がとにかく悪い方向にばかり向かった。
「馬鹿なことを。我ら妖狐は魔の者。死ねば肉体は残らぬ」
 ミワナが吐き捨てるが、それが無意味であることは彼自身よく分かっていた。
 鬼六の怒りは、二君に仕えるがごとき家臣の態度であるのだから。
 既に彼は目前の戦ではなく、妖狐狩りしか考えていまい。
「今、村の人たちが坪内様のお城に押しかけて、止めるように嘆願に行こうって相談してる」
「なっ、ならん! それはならん!」
 紅葉の言葉を聞いたミワナは顔を真っ赤にして叫んだ。
 そんなことをしたらどうなるか?
 怒り心頭の鬼六は嘆願に向かった村人を斬り殺すかもしれない。
 いや、十中八九そうなるだろう。
「こうしてはおれん。モノミ様、村人を止めにいきますぞ」
「えっ?」
「我らが止めねば、我らのために村人達が血を流すことになりますぞ」
「あっ……」
 ミワナの焦りの理由に気付き、モノミは目を丸くする。
 他でもない、自分達妖狐の為に、何の罪もない村人達が殺されるかもしれないのだ。
 それを止めるのは、妖狐である彼女達自身が『嘆願を望んでいない』と言うしかない。
「ミワナ殿、某も参ろう。そなたの足は遅い、某なら担いで走れる」
「すみませぬ、蜩殿」
 深く頭を下げて、蜩の背に背負われるミワナ。
 それを見てから、モノミは紅葉に振り返った。
「紅葉、村のみんなのところに案内頼むよ」
「ちょっと待ったモノミ。ここもそろそろヤバイよ。里の人たち残してく気かい?」
「っと、そうか。どうする、ミワナ?」
「あの鬼坪がそう簡単に気を鎮めるとは思えません。ネネム、マミミ」
 ミワナに名前を呼ばれた、若い、と言ってもモノミに一番近い年長の男女が前に進み出る。
「それぞれ東と西からこの村を脱出するのじゃ。もうこの地に戻ってはならぬ」
「しかし……」
「私とモノミ様も後で脱出する」
「分かりました。どうかご無事で」
「うむ」
 モノミとミワナ以外の妖狐達は、それぞれ東と西へと分かれて里を離れて行く。
 全員が出て行くのを見届けた上で、ミワナは蜩の背から言った。
「紅葉殿、急ぎ我らを村人の下へ案内して下され。蜩殿、少々重いですが、頼みますぞ」
「ああ、じゃあ行くよ。ソレガシさんもちゃんとついて来るんだよ」
「心得た」
 四人は頷き合うと、村へと続く道を駆け下りた。


 辛うじて村人の暴走を食い止め、里に帰ってきたモノミ、ミワナ、蜩の三人を待ち受けていたのは、恐るべき光景だった。
 煙を上げる家々、荒らされた広場。
 モノミ達の不在中に何者かがそこを荒らしていった証に他ならない。
 その広場の真ん中に、妖狐達が傷つき震えながら身を寄せ合っていた。
 それは紛れもなく、先ほど里から脱出したはずの者達だった。
 東の者も西の者も含まれているが、その数は明らかに出発前より減っている。
「……モノミ様、ミナワ様」
「ちょっと、どうしたんだい!? ネネムは? サジは? 他の者はどうなったんだい!?」
 肩で息をしている、比較的年上の一人の腕を掴んでモノミが叫ぶ。
 だが、その答えは聞くまでもない。
 彼の右腕に食い込んだ矢が、何が起こったかを物語っていた。
「山を降りたところで、鬼坪の手勢が……ネネムとサジとマリブがやられました。他は、分かりません。まだ逃げ回っているのか、やられたのか……」
「もういい! もういいから、黙って。傷にひびくだろ……」
 モノミは大粒の涙を流し、地面を叩いた。
 それは、何に対する怒りだろうか?
 自分の無力さか、坪内鬼六の非情な仕打ちか、それとも、事態を招いた自分の不甲斐なさか。
 モノミはしばらく、妖狐達と蜩が見守る中で泣き続けた。


 やがて、よろよろと立ち上がったモノミは蜩とミワナに背を向けたまま呟く。
「ねえ、アタシが間違ってたのかい? アタシが人里なんかに下りたから……」
 人々が妖狐や狐を守ろうとしたのは、モノミを知っていたからこそ。
 そしてまた、坪内鬼六が妖狐を憎悪したのも、モノミに人々が恩義を感じていたから。
 モノミが人里に下りなければ、人間と妖狐は無干渉でいられたはずなのだ。
「……全部、アタシのせいだ」
「モノミ様!」
 自虐の言葉を口にしたモノミをミワナが怒鳴って咎める。
「誰が間違っていたかなど、大局において決められるのは後の世の者だけです。モノミ様は、完全に断たれていた我らと人の間を繋いだ。あの祭りの日を間違いだとモノミ様は思われるのですか?」
 モノミは首を振ってそれを否定する。
 あの祭りにいた者、誰もが人と妖狐の関係を間違っていたなどと思っていないだろう。
 と、今度は蜩が一歩踏み出して、モノミの涙を拭ってやった。
「モノミ殿は間違ってなどいない。狐狩りは戦のため。鬼六とやらの思い通りに狐狩りが進めば、多くの血が流されただろう」
 モノミと蜩の視線が交錯する。
 だが、しばらくしてモノミは何も言わず視線を逸らした。
 そして、力なく立ち上がって蜩、ミワナに背を向ける。
「でも……アタシが正しいなんて言えないだろ」
 彼女の悲痛な呟きに答える者はいない。
 下手な慰めなどモノミは欲しないだろう。
 また、その場にいるものは、皆が正直者に過ぎた。
 誰も、このような事態など願ってはいなかった。
 ただ、毎日がささやかな幸せで満ちていればそれで良かった。
 なのに、どうしてこんなことになったのだろうか?
「モノミ様、どちらに!?」
 突然、傷ついた子供を抱きかかえて歩き始めたモノミをミワナが呼び止める。
 モノミは振り返らず、感情を押し殺した冷たい声で答えた。
「鬼坪はまたやってくるかもしれない。向こうの洞穴に隠れて、みんなの治療をする。紅葉達に頼めば村の外にも逃げられるはず」
 モノミは振り返らない。だから、彼女がその時どんな顔をしていたか、誰も分からない。
 彼女が抱いた子供も、怪我と恐怖から意識を失っていた。
 おそらく、彼女は大声を上げて泣きたかっただろう。
 泣き叫んで、自分の頭を近くの木に叩きつけたかったかもしれない。
 しかし、彼女は里の長であり、ミワナを除く妖狐の中では最年長者である。
 だから、彼女は泣けなかった。
 彼女が泣いたら、傷つき震える子供たちは頼るものを失ってしまう。


 モノミが洞穴へと姿を消すと、まだ歩ける者達はその後に続いた。
 広場に残されたのは、蜩とミワナのみ。
 男二人は、何も言わずモノミの消えた先を見つめ続ける。
 今、自分がすべきことは何か? 今、モノミにしてやれることは何か?
 その自問自答の中に二人はいた。
「ミワナ殿、これからどうされる?」
 ぽつり、と蜩がミワナにそう訊ねる。
「若い者を逃がし、私は最後までモノミ様のお傍を守り続ける所存でございます」
「そうか……やはりモノミ殿は……」
「ええ、モノミ様はこの地を離れることは出来ません。あの方は、土地神でございますから」
 村に向かった際、『後から行く』と言ったモノミとミワナの顔が心痛に満ちていたのを蜩は見抜いていた。
 正直者が、止むに止まれず嘘をつく、二人はそんな顔をしていたのである。
 モノミはここから逃げることは出来ない。
 だが、鬼六が何より求めているのはモノミの命である。


 ざっ、と引きずるような重い足音を立て、蜩がモノミの向かった洞穴に背を向ける。
 彼は何も言わず歩き始めた。
「蜩殿! どこに行かれるか!?」
 目を見開き、驚きの形相でミワナが蜩の背に声をかける。
 彼は見てしまったのだ。背を向ける瞬間、ちらりと見えた蜩の横顔。
 そこに怒りの化身、阿修羅が宿っていたのを。
 ミワナの叫び声に蜩がゆっくりと振り返る。
 だが、そこにいたのは、いつもの穏やかで素朴な彼だった。
『今日は死ぬには良い日和だ』
 そんな冗談でも飛ばすかのように、彼は微笑んで言った。
「某は退魔士。鬼の退治に行かねばな」
「……蜩殿」
 止める事は出来ない。
 蜩の穏やかな顔の奥に秘められた決意が、ミワナにはありありと感じられた。
 おそらく、彼自身若ければ蜩に同行したに違いない。
 モノミには言ってはならない、許されざる行為。
 決して、モノミはそのようなことを許しはしないだろう。
 それでも、そこまでしても、彼らはモノミを守りたいと思っていたのだ。
 そして、おそらくそれが事態を収める、唯一の特効薬的効果を持つ手段だろう。
「……その刀を、蜩殿に渡すのではなかった」
「稲荷守か。この刀を持つ者の定めだったのかもしれぬな」
 狐を守る、そう名付けられた刀が蜩の腰にある。
 村に出る前に、万一の事態に備えてモノミの家より差してきたものだ。
「御武運を……いえ、必ず帰ってきてくだされ。私は、また蜩殿と笛を吹きとうございます」
「任せておけ。鬼とは戦ったことはあるが、容易い相手であった」
 目に涙が浮かぶのを、必死で堪えるミワナ。
 それを感じ取ったのだろう。
 蜩は再び背を向け、今度は振り返らずに里を去っていく。
 その後姿が見えなくなっても、ミワナは目を離すことができない。
 彼の目には、熱い涙が止めどなく流れ出ていた。


 帯刀し悠然と歩いてくる男の姿に、門番の二人は慌てて槍を構えた。
 戦を前に見知らぬ者がやって来たのだから当然の警戒だろう。
 何より、使者にしてはあまりに態度の大きい歩の進め方が不審であった。
「止まれ! 坪内鬼六様の城に何用だ?」
 男は突きつけられた二条の槍を意に介せず、門の先にある城と呼ばれた屋敷を見回す。
「なるほど……こうして間近で見ると大きいものだな」
「貴様、一体何を言っている?」
 門番が槍を突く動作を行い、男を威嚇する。
 しかし、男はそんな門番の行為を一笑にふして言い放った。
「某は退魔士の蜩。ここに棲む、鬼坪なる鬼を退治しに参った」
「き、貴様! 曲者かっ!?」
 蜩を敵と認識し、門番が左右から同時に槍を突き出す。
 しかし、まさか一人で城に討ち入りをかける者などいないと思っていた油断がいけなかった。
 その油断が、二人の槍に一呼吸ほど遅れを生じさせる。
 それだけで蜩には十分だった。
「がはっ!?」
「ひぃぃぃっ!?」
 何もない虚空で交差する二条の槍。
 その次の瞬間、門番たちは首筋から鮮血を噴出して倒れた。
「曲者だっ! 門番がやられた!」
 叫び声と同時に、門の右側に築かれた見張り櫓から矢が飛ぶ。
 しかし、蜩は振り返りもせずに、血払いの動作でそれを斬って落とした。
 同時に、倒れた門番が差していた小刀を引き抜き、見張り櫓上の見張り目掛けて投げつける。
「ぐっ!? ぎゃあああああっ!」
 小刀は見張りの喉を直撃し、前のめりに倒れた見張りは柵を乗り越え、櫓から断末魔の叫びと共に落下した。
 まるで話になっていない。
 鬼や大蛇をも相手にした蜩にとって、雑兵などものの数ではなかったのだ。
「す、すげえ……」
 後ろから、その一瞬の攻防に感嘆の声が上がる。
「伏兵か!?」
「うわっ! 待ってくれ旦那、俺達は味方だ」
 凄まじい形相で振り返り、刀を構えた蜩に後ろの三人が尻餅をつく。
 そこにいたのは、竹槍を持った次郎に弥助。
 そして、今日、蜩が一緒に釣りをしていたコムという妖狐の少年である。
 敵ではないと分かって、蜩は肩の力を抜く。
 三人は、胸を撫で下ろして立ち上がった。
 あんな瞬殺劇を見せられて、その人物に睨まれては彼らもたまったものではないだろう。
「お主達か。何をしに来た?」
「へへ、旦那が坪内様の城について村で聞いて回ってたのを聞いたんでさあ」
「モノミ様をお守りしたいのは蜩の先生だけじゃないですぜ」
 竹槍を手に、笑ってみせる次郎と弥助。
 しかし、蜩は二人が震えているのを見逃さなかった。
 いくら強がっても彼らは所詮農民。
 人斬りの経験もなければ、蜩のような修羅場を潜り抜けた自信もない。
 それでも彼らは、モノミの恩に応えるためにこの場に駆けつけたのだ。
 坪内鬼六の城は、戦準備と狐狩りで手薄になっているとはいえ、警護の兵は強者揃い。
 まともな戦い方すら知らぬ次郎と弥助が討ち入ったならば、ほぼ確実に命を落とすだろう。
 だが、蜩は二人を帰そうとはしなかった。
 いかに震えていても、この場に武器を持って来た時点で彼らの意思は固いに違いない。
 既に屋敷内に蜩の侵入は伝わっている。
 いかに蜩と言えども、大勢の手練に囲まれては勝ち目はない。
 つまり、門前で説得をしているような時間は全くなかった。
「コム、お主は何故来た? モノミ殿が心配するぞ」
 人間の二人から、今度は妖狐の少年に視線を向ける。
 幼さが顔に滲み出ている彼だが、両の手に匕首を持ち、恐れている様子はまるでない。
 いや、むしろその顔は蜩以上の怒りに満ちていた。
「あいつら、サジを殺したんだ。オイラの親友のサジを」
「……復讐か」
 それは蜩にとって決して歓迎できる感情ではなかっただろう。
 しかし、今はそのようなことを論じている暇はなかった。
 手にした稲荷守で屋敷を指し、蜩の大声が戦いの口火を切る。
「敵は鬼坪ただ一人! 逃げる者には構うな、行くぞ!」
 叫ぶと同時に、屋敷の中へと飛び込んでいく蜩。
 次郎が、弥助が、コムがそれぞれ自らを奮い立たせる叫びを上げてその後に続いた。


 寝耳に水の襲撃を受けて、屋敷の中は大混乱に陥っていた。
 軍馬の音も、大勢の人間の気配も無い。
 まさか、たったの四人で城への正面突撃をかける輩がいるなど誰が考えようか?
 しかも、城は大半が出払っており、中には門番、見張りを含め五十余名ほどしか詰めていなかった。
「うっ!? こいつらが!?」
 曲者と叫びを受けて、城の正面入り口には八人が駆けつけていた。
 まともに戦えそうなのは剣豪然とした男のみ。
 ほか三人は、腰の砕けかけた農民二人と、年端もいかぬ少年である。
 正気の沙汰とは思えぬ討ち入りに、坪内の家臣達は得体の知れぬものを感じて一歩引いて身構える。
 精神的な優位に立ったのは蜩達の方であった。
「用があるのは鬼坪のみ。歯向かうならば、斬る」
「おのれ、斬り殺せ!」
 八人が同時に襲いかかる。
 しかし、襲撃など予想もしていなかったためか、彼らの装備は門番以上になっていなかった。
 普段は弓や槍を使う者も混じっていただろう。
「なっ!? か、刀が!」
 しかも、鎧を着込んだ相手を倒す癖から、大振りに振られた刀は天井の梁に引っ掛かかる。
 野太刀など狭い室内で振り回すものではない。
「うわああああっ」
「ひいいいいいっ」
 刀に気を取られて、混乱している家臣を次郎と弥助の竹槍が貫く。
 いかに武士とはいえ、虚をつけば農民でも殺せるということだ。
「ぐあっ!?」
 と、同時に、今度は逆に回りの障害物を気にし過ぎて刀を思うように振り回せないでいた家臣が悲鳴を上げて地面に転がる。
 コムが足の腱を匕首で掻っ切ったのだ。
「サジの仇!」
「ぐふっ!」
 容赦なく喉元にトドメの匕首が叩き込まれる。
 妖狐達は、人斬り稼業はしていないとはいえ、元の狐がそうであるように狩猟生活を基本としている。
 傷ついた動物にトドメを刺すのは慣れたものだった。
「刀は振るな! 突け! 突くんだ!」
「やらせぬ」
「ぐわあああ!?」
「がふっ!」
 屋内での戦いに対策を講じようとした家臣たちだったが、それを見逃す蜩ではない。
 瞬く間に、突きの構えを取ろうとした眼前の二名の急所である首筋を切り裂く。
 彼ほどの熟練者ならば屋内であっても十二分に刀を振ることができる。
 いや、本来野外での集団戦闘を重きにしているこの時代の武士と違い、蜩は刀の扱い、それだけに長けていた。
 戦では役に立たないだろうが、この屋内という限られた空間ではそれは十分な脅威となりえたのである。
 蜩自身、それが分かっているからこそ真っ先に城の中へと飛び込んだ。
 また、助太刀を買って出た三人の武器も槍に短刀と屋内で効果を発揮する武器である。
 残された家臣たちは、すぐさま自分たちの不利を悟った。
「くっ、退け。槍と弓を持ってくるんだ」
「他の者に報せろ!」
 無謀な戦闘を避け、その場を逃げ出す家臣たち。
 その判断は決して間違っていないだろう。
「このまま固まっていては狙い討ちに遭う。四手に分かれるぞ。鬼坪を討った者は、他の者に構わず逃げ出せ。他の者の為に、無益な殺生を重ねる必要はない」
 生きて帰れる保証はどこにもない。
 ここにいるのは既に死を覚悟した者だ。
 だが、目的を果たせば、死ぬ必要はない。
 逃げ帰っても仲間を見捨てたことにはならない。
 ましてや、仲間を助けるために、ただ坪内鬼六に仕えているだけの家臣を殺すこともない。
 蜩の言いたかったことはそういう事だった。
 その言葉に、少年コムはすぐに頷いたが、次郎と弥助は震える手を上げ、何かを言いたそうな顔で蜩を見つめる。
「だ、旦那……あっしらは二人一緒でいいですかい?」
「オラも……し、死ぬ時は次郎と一緒と決めてんだ」
 二人の怯えぶりは、これから人とやり合おうという人間のそれではない。
 ほとんど蛇に追い詰められた蛙の兄弟といった有様だ。
 その様子があまりに滑稽だったからだろうか?
 蜩は、笑って言ったのだった。
「好きにするといい。これから死ぬ人間が遠慮をするものではないぞ」
「へ、へい。ありがとうございます」
「すまねえ、蜩先生」
 悲しいまでに体に染み付いた卑しき者の腰の低さ。
 しかし、そんな農民の彼らにも守るべき意地はあったのだ。
「いたぞ! 奴らだ!」
「出会え出会え! 敵は正面だ!」
 どたどたと足音を立てて、槍を持った家臣たちが右側から迫ってくる。
 敢えて、その道を行こうとした蜩を次郎と弥助が止めた。
「旦那、ここはあっしらに任せてくだせえ」
「坪内様は強いお方です。オラ達が辿り着けても、勝てっこねえ」
「だが、しかしそれではお主らが」
「行ってくだせえ旦那。あっしらでも時間くらいは稼いでみせまさあ」
「へへっ、オラ達臆病だから……先生が見えなくなったら逃げるかもしれねえです」
 彼らの決意は固い。どうやらここを死に場所と決めたようだ。
 そんな男達を前に、決意を無駄にすることは出来るものではない。
 ここで、大勢と斬り合っていては目的を果たすことがかなわない恐れが増すばかりである。
「かたじけない。行くぞ、コム。そなたは向こうに行け」
「蜩のおじちゃんも、気をつけて」
 再び出会うことのない男達は散っていく。
 死に花という、そんな名をした花を散らせるために……。


 城に怒号と悲鳴が轟く。
 いかに武士とはいえ、備えもしていないところを襲われては烏合の集と変わりがなかった。
 蜩という修羅を相手に、前に立ち塞がった者は一人、また一人と斬り倒されていく。
 いや、蜩も前後を槍で囲まれてはどうしようもなかっただろう。
 だが、敵は前からくるばかりで、後ろから襲ってくる敵はいなかったのだ。
 実は彼が知らなかっただけで、坪内の家臣の中にも自害した重蔵のように今回の一件に反感を抱いている者は少なくなかった。
 なんと、入り口で必死の抵抗をする農民の姿に良心の呵責を覚えた三名が、蜩達の側に寝返ったのである。
 城の入り口付近はそれがために混乱状態に陥り、蜩への後方からの追撃は途絶えていたのだ。
 それだけではない。
 寝返らないまでも、戦いに疑問を覚え、何人かは逃げ出してしまった。
 たった四人が行動を見せたことによって、家臣たちの心にあった戸惑いが形となって現れてしまったのだ。
 攻め込んだのは四人にも関わらず、即時粉砕とはいかない事態が展開されていた。
 組織というものに巣くう魔物は、なんとも恐ろしいものである。
 忠を尽くすか、恩に報いるか、人々はその狭間で悩む。
 この場にいるもの、その誰もがそのしがらみから逃れることは出来ない。
 そして、ここにまた、静かに座して瞑想を続ける男がいた。
「た、大将! がふっ!?」
 扉を開けた彼の部下の一人が、背中を叩き斬られて絶命する。
 その奥から現れたのは、血に濡れた刀を携える蜩であった。
 既に、その体は返り血で染まっている。
 そんな彼が、座敷の中央に座っている男を見て、動きを止めた。
 静かに瞑想をしていた男がゆっくりと目を開ける。
 まるで、誰が来たか初めから分かっていたとでも言うように。
「やはりお主か。蜩殿」
「伝右衛門殿……ここにおったのか……」
 言いようのない緊張が二人の間に走る。
 敵か、味方か、中立か? お互いの立場を探りあう。
 一瞬の間を置いて、伝右衛門が口を開いた。
「何故、お主はそこまでする? 退魔師のお主が、何故物の怪を守る?」
「某にも分からん。だが……」
「だが?」
「モノミ殿からもらった握り飯は美味かったのだ」
 しばらく無言で向かい合う二人。
 だが、伝右衛門は次の瞬間笑い始めた。
「ふ、ははははは。たかが握り飯の恩のためだけに命を張るのか」
「それだけではない。ただ、小さな幸せを願うだけの者達を殺すなど、人として見逃すことは出来ぬ」
「そうか、なるほどな」
 笑うのをやめ、伝右衛門が立ち上がる。
 そして、腰に差した刀を抜き、蜩にそれを突きつけた。
「やはり、拙者はお主と戦わねばならぬようだ」
「なっ!?」
「確かに、拙者もモノミ様には恩がある。しかし、御館様にはそれ以上の恩がある。一時の感情に流されて、御館様に刃を向けるなど……人のやることではないな?」
「……お主を殺したくはない。ここは退いてくれ」
「うぬぼれるな! 拙者は武士、日々鍛錬も続けている。退魔師ごときに遅れを取りはせん」
 蜩を一喝して伝右衛門が構えを取る。
 何もしなければ、肩からばっさりと袈裟に裂かれるだろう。
 蜩はしぶしぶ稲荷守を構えた。
「どうしても、そなたと戦わねばならぬのだな」
「そうだ。お主が恩に報いるなら、拙者には忠を尽くさねばならぬ義務がある。人としてな」
「……止むを得ん」
 ぎり、と二人の間合が狭まる。
 お互いが相手を必殺の間合に捉えた時、火蓋は切って落とされた。
「いざ尋常に」
「参る!」
 一たび、二たび、三たび、命を刈り取る大鎌が恐ろしい音を立てて空を裂く。
 相手を真っ二つにしかねないほどの剛剣。
 しゃがみ、あるいは跳び、彼らは相手の攻撃をかわした。
「ぬんっ!」
「ぐっ!?」
 強引に伝右衛門が前に出て、己の刃を蜩の刃にぶつけた。
 双方、そのまま相手を弾き飛ばそうと刀で押し合う。
 いわゆる、鍔迫り合いの状態だ。
 手を伸ばせば届く位置に互いの顔がある。
 表情も、呼吸も間近に読み取れた。
 力みで顔を歪める蜩に、同じく顔を歪めながらも伝右衛門が口元を緩めた。
「なあ、蜩殿。その廊下の先に、小庭がござる」
「それがどうした?」
「このような狭いところより、そちらの方が戦いやすい。場を移さぬか?」
「某は、このままで一向に構わん」
「何、お主にも悪い話ではなかろう。その庭の先は御館様の寝所だ」
「……その誘い、乗ろう」
 伝右衛門が下がり、蜩が押す。
 そして伝右衛門の後方にあった扉を二人で横になって蹴り飛ばした。
「ゆくぞ!」
「うおおおおっ!」
 刃をぶつけ合ったまま、長い廊下を一気に駆け抜ける二人。
 外の明かりが見えると同時に、相手を強く一押しして相手を弾き飛ばす。
 横っ飛びに跳んだ二人が、玉砂利の敷き詰められた庭に転がり落ちた。


 じゃり、と音を立てて二人の男が起き上がる。
 だが、立ち上がった二人はあることに気付いた。
 玉砂利の地面だけでなく、目の前にも白いものが舞っているではないか。
「……雪か、今年は随分早いな」
「それはモノミ殿の悲しみだ。降るはずの無い雪が降るほどのな」
「ならば拙者を打ち倒し、モノミ様への恩に報いるがよかろう!」
 伝右衛門の刀が蜩を襲う。
 対する蜩は、今度は避けずにその刀を叩き返した。
 激しい金属の音が、冷たく乾いた空に響き渡る。
 それはまさに意地と意地のぶつかり合い。
 互いの、人としての尊厳と、男の誇りをかけた一騎打ちであった。
 だが、その一騎打ちにも終わりが来る。
 敗者と勝者を分けるその瞬間が。
 蜩は気付かなかったのだろうか?
 いや、己が振る刀『稲荷守』を信用していたのかもしれない。
 刀というものは、ただ人を斬るだけでも刃毀れしていく。
 ましてや、刀と刀を全力でぶつけ合えばその比ではない。
 技量で勝っていたのは間違いなく蜩であっただろう。
 しかし、戦に慣れていたのは伝右衛門だったのだ。
 一瞬、まさに一瞬の出来事だった。
「ふんっ!」
「ぬっ!?」
 打ち合いで、徐々に壁際へと追い詰められようとしていた伝右衛門が突然手にした刀を投げたのだ。
 それは恐ろしい勢いで蜩眼前を通り過ぎ、城の縁側の柱に突き立つ。
 しかし、外れは外れである。
 蜩は追い詰められた伝右衛門の苦肉の策であると思っただろう。
 だが、伝右衛門の狙いはそうではなかった。
 すぐさま腰に差した予備の刀を抜き、大上段に斬りかかった。
 僅かな気の緩みからその攻撃を許し、稲荷守で受けに回ったのが蜩の命取りとなる。
「ぐっ!?」
 脆くなった稲荷守は、その全力のこもった一撃に耐えられず、真ん中からへし折られたのだ。
 伝右衛門の刀は、蜩の肩に食い込んで止まっている。
 ほとばしる鮮血が玉砂利を染め、蜩は堪らず片膝をついた。
 蜩が持っていたのは稲荷守一本だけ。
 それが折られては、もはや蜩に戦う術はない。
 だが、激痛に顔を歪めて地面に跪く蜩を前に、伝右衛門は動かない。
 いや、動けないのだ。
 相手は既に無力化している。
 気心を通わせた仲であり、恩のあるモノミと関係の深い相手にトドメを刺す事は彼にも躊躇われたのだ。
 それを察したのか、荒い息で蜩が顔を上げる。
 その顔は、痛みに耐えながらも、何故か笑っていた。
「伝右衛門殿……悲しいな。やはり……某に人斬りは無理……だったようだ……」
「……蜩殿」
「伝右衛門殿、某を斬ってくれ。これ以上……無用な抵抗をしてお主達を傷つけたくは……ない」
「待て、密かにお主を裏から連れ出せば……」
「某は既に十二人斬った。もう……これ以上の心遣いはいらぬ……。それに、それはできぬ……」
 蜩がそう言うと同時に、二人が先ほど飛び出した廊下の方から大勢の足音が聞こえてくる。
 程なくして、体を返り血に染めた六人の家臣が庭に降り立った。
「伝右衛門様、城に入った賊二人と賊に寝返った者三人を討ち取りました」
「それと、一匹を捕らえましたが、いかがいたしましょう?」
 家臣の一人が、血に染まって気を失っている子狐を伝右衛門の前へと投げ捨てる。
 それは紛れも無くコムだった。
 その様子を見て、蜩は自嘲するかのように伝右衛門に笑いかける。
「こういうことだ。さあ、某を斬れ」
 選択の余地はなかった。
 ここで蜩を斬らねば、今度は伝右衛門が寝返ったと疑われる。
 伝右衛門は静かに刀を構えた。
「……かたじけない」
 その言葉は、何に対してのものだったのだろう?
 嬲らず、一撃で全てを終えようとする伝右衛門への感謝か?
 それとも、鬼坪の寝所前まで案内することで、恩と忠義の両方に応えようとした彼の不器用な心遣いに対してか?
 おそらく、それら全てに対してであろう。
 静かに降る雪が、白い玉砂利に付いた血を隠し、洗い流していく。
 何もかも、真っ白に埋め尽くすように。
 その光景に何か思うところがあったのだろうか。
 蜩は笑みを浮かべて目を閉じた。
「御免!」


 蜩――享年推定三十二歳。
 その死に顔は、悲しみの中にも、どこか穏やかさを感じるものだった。


 何故こんなことになったのだろう?
 ただ、みんな自由に生きることを望んだだけだった。
「この木の下でいいだろうか?」
「はい。伝右衛門殿とか言われましたな。ありがとうございます、蜩殿を……ひぐ……」
「ミワナ殿無理をする必要はござらぬ。拙者は怨まれて当然のことをした。早々にここを立ち去ろう」
 誰もが幸せを望んだ。
 でも、そこに大小の違いがあった。
 それがいけなかったのだろうか?
「その、コムの命を助けて下さったことには何とお礼を申してよいのか」
「子供を斬るなど鬼畜生の所業でござる。だが、次はない。お主らも早くここから逃げることだ」
 人の前に姿を晒した神が悪かったのだろうか。
 家臣や領民を豊かにするために、戦をしようとした領主が悪いのだろうか。
 少女の恩に報いるために戦った男がいた。
 しかし、男は家族や人生があるであろう者を十二人も殺害した。
 城に入り込んだ賊を、主君への忠義を尽くして討ち取った男がいる。
 だが、その主君が死んでいれば、何もかも丸く収まったかもしれない。
「ううっ、ソレガシさん! 何でそんな姿になっちゃったんだよ! 次郎さんも、弥助さんも……」
「モノミ様、落ち着いて下され!」
「拙者は城に戻る。邪魔をした」
 一体、誰が正しくて、誰が間違っていたのだろう。
 何が良くて、何が悪いのだろう。
 答えは出ない。
 誰かの生き方に価値をつけることなど、誰にも出来るものではない。
 だが、怒りはもたらされる。
 理不尽という現実に対するやり場の無い怒りが。
 その怒りは、怒るべきではない、怒ってはならない者にまでもたらされてしまった。
 怒りに満ちた神の体から、赤黒い炎が立ちのぼる。
「ゆ……るさ……ない……」
「モノミ様?」
「返して……アタシの大切だったものを……」
「モノミ様!? お止めください、何をなさる気ですか!?」
「許さない!」


 ―――風が、泣いた。


 人々は恐れおののいた。
 赤黒い巨大な火の玉が、坪内鬼六の城を焼き尽くすその光景に。
 土地神モノミの力は『創造』、すなわち命を育む力だった。
 だが、それが『破壊』に転じると、恐るべき厄災へと姿を変えるなどと誰が想像しただろうか。
 坪内鬼六の城があったはずの丘は、三日三晩燃え続け……後には何もない焦土だけが広がっていた。
 城主の鬼坪も、憤怒の炎とその身を変えたモノミの姿もそこにはない。
 丘に広がった焦土は、瘴気(毒気のこと)を噴き上げ、人、草木、雪までも拒んだ。
 神の怒りが形を持って留まり続けるその地を、人々は『不浄の地モノミの丘』と呼んで恐れた。
 だが、一方で、丘から噴き出る瘴気の霧は村を包み、外から村の存在を包み隠した。
 それはモノミの意図だったのか、ただの偶然だったのかは分からない。
 ただ、村は戦のある世界から隔絶されたのは確かであった。
 その中で残された人間と狐達は、再び歩み寄って暮らす生活を送るようになる。
 そしてその生活の過程で、妖狐達の中に人間と結ばれ、子を為すものが現れた。
 妖狐と妖狐が子を為しても、妖狐が生まれることはない。
 妖狐とは土地神の力があって生まれるものだからだ。
 しかし、人と狐の交わりはそこに奇跡をもたらした。
 人と狐の間に生まれた子供には、同じ仲間を生む能力が備わっていたのだ。
 それを知った妖狐達は、進んで人と結ばれて行った。
 子供を生み育てる、それはただの狐を生むことでは得られない嬉しさがあったのだろう。
 モノミを失ったことで、滅びを待つより無くなった種族が見出した光。
 狐達にとって、人との交わりはそういうものだった。
 やがて、いつしか純血の妖狐はいなくなり、戦の世も過ぎたころ。
 モノミの怒りもようやく薄れ始めたのか、村を覆っていた瘴気の霧は晴れていった。
 そのころ村では、人の姿で生まれたものは村で、狐の姿で生まれたものは山で生きるという決まりが出来ていた。
 というのも、混血によって狐の血が薄れ行く中で、人の姿になるのに支障を来たす者、そもそも人の姿になれない者が現れたからだ。
 外界との交流が開かれたことにより、人は人の中へ、狐は山の中へ、それぞれあるべき場所へと帰っていった。






     9.ものみの丘

 雪の中、ぽっかりと空いた穴から、年老いた狐が姿を現す。
「まだ降っておるのか。年の瀬はどうにも寒くてかなわんな」
 老狐は空から舞い落ちる粉雪を眺めながら、人間の言葉でそう呟いた。
 と、そこに大人の狐が二匹やってくる。
「ミワナ様、お目覚めですか?」
「お散歩でしたら、お供しますよ」
「いつもすまぬな、サナ、ウル。では、丘に参ろうか」
 老狐と二匹の狐は、山を登り、その反対側にある小高い丘に出る。
 そこは、見渡す限り一面の草原となっていた。
 眼下には、人の住む町が広がっている。
「やっぱり、今年もここは積もらないんですね……雪」
「あれからもう五百年は経つのに」
 サナ、ウルと呼ばれたオスとメスの狐達が眺めるその草原には、雪という雪が全く積もっていない。
 先に見える町の屋根屋根は全て白で埋め尽くされているのに、である。
「じゃが、草はようやく生い茂りはじめた。いずれ、ここにも木が生え雪が積もるようになるじゃろう」
 よたよたと、危ない足取りで草原に足を踏み出す老狐。
 傍の二匹が慌てて彼の体を支えた。


 あれから五百余年。
 他の妖狐が死に絶えた中で、何故かミワナとサナ、ウルの三人は生き続けていた。
 妖狐の本来の寿命は長くて二百、そもそもミワナに至っては当時ですら高齢だったはずである。
 そう、彼らはモノミによって生かされていたのだ。
 消え去ったモノミの代わりに、人間と妖狐の行く末を見守る者として。
 人と狐の住み分けを提案したのも彼らである。
 来るべき外界との交流が復活した際に不都合になると考えたミワナがそれを指示し、自らも狐の姿になって山へと帰った。
 サナとウルの役目は、そんなミワナの手助けと若い者達の養育である。
 どうしてモノミがこの三人を生かしたのかは分からない。
 一番自分を気にしてくれていた親代わりの人と、一番行く末を気にしていた若い子供達。
 それが三人が選ばれた理由なのだろうか。
 だが、もう純血混血含めて妖狐と呼ばれる種族は彼ら三人しか残っていない。
 人の血が混ざったものの性なのだろうか?
 モノミなき後の妖狐達は、一人、また一人と、何かを求めて人里に降りていった。
 中にはちゃんと人の姿を取れる者もあった。
 しかし、多くは記憶障害を起こしたり、命を消耗したりと人の姿を取るのに何かを犠牲にした。
 それでも、彼らは人里へ帰ろうとした。
 彼らの遺伝子に、そこが帰るべき場所として刻まれていたのだろうか?
 それとも、人里を愛したモノミの意思が彼らをそうさせるのか、真相は誰にもわからない。
 ただ、事実として狐達は還っていったのだ。
「ミノリ、この町にいるのかな?」
「さあ、隣町かもしれないよ」
 人間の言葉でモノミと同じ名前をつけられた最後の妖狐。
 その『実り』も既に、人里へと還っていった。
「お主らも町に降りたいか?」
「えっ、まさか。掟は破れませんよ」
「私達がいなくなったら、ミワナ様は一人じゃ食べていけないじゃないですか」
「掟は人の血が混ざった者に為に作ったものだ。造作なく人の姿になれるお主達を縛るものではない」
 『人里に降りてはならぬ』、ミワナはそんな掟を作って人と狐との間に生まれた子らの子孫を見守った。
 人が突然いなくなる『神隠し』という現象をご存知だろうか?
 それは狐の血、いや魔のものの血が為す現象なのだ。
 妖狐をはじめとして、純粋の魔に属するものは死ぬと肉体が消滅する。
 実体はないのに存在する、ゆえに魔である。
 彼らの血が入った人間、または人間の血が入った魔の者は、時折二つの血が反発しあって、この消滅現象を起こしてしまうものがいるのだ。
 疲労、消耗が引き金となることが多いが、中には突然姿を消す者もいる。
 そして、姿を消した者が帰ってくることはない。
 それが、人間の間で語り継がれる『神隠し』の真相である。
 人の姿になるのもままならぬ妖狐が無理に人の姿を取って人里に降りようとすると、術による消耗で『神隠し』を起こす事態が多発した。
 それは、人、狐、両方に悲しみしかもたらさない。
 心を通わせあった者が、突然、あっという間に消え去るのだ。
 どんなに悲しいことだろう?
 ミワナはそれ故に、子孫達に対して『人里に降りてはならぬ』という掟を作った。
「掟など、いらなかったのかもしれぬな。こうしてお主らとだけ残されて、それでも良かったと思い始めた」
「何故です?」
 右からミワナの顔を覗き込んで、首をかしげるウル。
 彼は、丘の下に広がる町を仰ぎ見ながら答える。
「私達の一族が、モノミ様の子らが、この町この国で今も確実に生きている。我々は滅びぬ、人の中でこれからも生き続けるのだ」
 そう言ったところで、ミワナは何かに気付いて自嘲した。
 今度は左からサナが彼の顔を覗き込む。
「どうしました? ミワナ様」
「ふ、ふふ。いや……後の世まで生かされて、ふと思ったのだ。モノミ様は正しかったと」
 丘に広がる草原の端には、風雨に晒されてそれと見分けがつかなくなったが幾つかの墓石が並んでいる。
 蜩を斬った伝右衛門が、モノミの怒りに焼き殺された城の者を供養するために生涯をかけて作り続けたものだ。
 もちろん、彼が忠を尽くした坪内鬼六の墓石もある。
「モノミ様が人の里に降りたことは、不幸をもたらした。しかし、滅びを迎えるはずだった我々が生き続けるのは、モノミ様が人と妖狐を結んでいたからじゃろう?」
「そうか、そうなんですよね」
「他の地でも、我々のように魔の者は人へと溶け込んでいったのだろう。この付近でも、狸、狢、鬼、竜といった同胞の匂いが感じられる」
「みんな……人の中で生きている?」
「そうじゃ。人がここまで大きな文明を築けたのも、ひょっとすると我々のおかげかもしれんぞ」
 家屋に混じって立つビル。道路を走る車に、長い線路と電車。
 五百年前の者がこの光景を目にしたら、何を思うだろうか?
 そして、五百年後のこの地では、戦も日常とは遠く離れた存在となっている。
 在りし日、魔のものは人よりひらめきなどの天性の勘に優れ、人にはない不思議な力を持つと言われていた。
 その血を受け継いだ人間が、今は世界に溢れている。
 ならば人間は、どこに向かっていくのだろう?
 世界は今も決して楽観できるものではない。
 だが、それでもミワナは思わずにはいられなかった。
 モノミが間違っていなかったことを。
 人間達にモノミがもたらしたものの大きさを。
 彼女は、まさに『モノミ』だったのだ。
「あっ。ミワナ様、今度はどちらに?」
「蜩殿達のところじゃ。雪が降るとどうにも億劫になっての、この十二月に入ってからは一度も行っておらんかった」
「もうっ、そんなんじゃ怒られますよ。蜩さん達に」
「うむむ、あの近くに居を移した方がよいかもしれぬな」
 サナにからかわれて、思わず苦笑いするミワナ。
 老狐は狐二匹に脇を固めてもらって、雪の積もらぬ『モノミの丘』を後にした。


 山を挟んで丘の裏側にある……かつて、妖狐の里があったところ。
 そこには大きな切り株が鎮座している。
 蜩や次郎、弥助の遺体が葬られた木の成れの果てである。
 その木は、蜩達を知るものが生きている間は大切にされ、ミワナ達を除いて知る者がいなくなった二百年後には大きさから霊樹として崇められ、その意味さえ忘れ去られた五百年後にはこの地で一番の大樹へと成長した。
 だが、八年前。登って遊んでいた子供が落ちたとかで、その木は切られてしまった。
 もっとも、本当は山の開発を進めようとして住人の反対にあっていた業者が、これ幸いとばかり切り倒したというのが真相である。
 山は、それを契機に開かれるはずだった。
 ところが、である。
 工事関係者は、次々と事故や病気に見舞われ、祟り騒動へと発展し、開発は目処の立たぬまま止まってしまった。
 ミワナ達はその祟りの真相を知っている。
 蜩達の葬られた木を切ったことで、彼らはモノミの怒りに触れたのだ。
 モノミの魂は、まだこの地この町で漂い続けている。
「やっぱり、ここ無くならなくて嬉しいです。モノミ様のお怒りに触れた人達はかわいそうですけど」
「ここ、僕達の故郷ですもんね。あそこに、僕とサナの家があって……あっちにミワナ様の、じゃなくてモノミ様の家があったんですよね」
 切り株のあたりにできた広場、そこは妖狐の里の広場の面影を留めている。
 雪が地面に積もった落ち葉や枝を覆い隠しているために、その日は一段と在りし日の姿を思い出させた。
 それを眺めながら、ミワナは白い息を一つ、悪態をつく。
「祟られて当然じゃ。蜩殿達の眠る木を切るわ、我々の故郷を荒らそうとするわ……やはり、人間は好きになれんわい」
「ミワナ様、さっきと言ってること違いますよ」
「その中にも僕達の仲間がいるかもしれないんじゃなかったですか?」
「分かっておる。じゃが、それはそれ、これはこれじゃ。人間は礼儀を知らぬ馬鹿が多すぎる」
 もっとも、墓代わりの木であることを知らなかったのだから、祟られた人間も哀れである。
 知っていたら、木を切ることに躊躇する人間はもっと多かっただろう。
 瘴気の霧が晴れ、外界との交流が復活して以来、この地を様々な人間が出て行き、また入ってきた。
 その中でモノミや蜩の存在は忘れ去られ、人間側の伝承に残るのは丘を襲った厄災が変形して伝わったもののみである。
 曰く、人に化けられる狐がいる、丘に住む不思議な生き物は厄災をもたらす、狐を怒らせてはいけない等。
 口伝が主であった時代で起きたこと故、それは仕方のない帰着だったのかもしれない。
 ふと、大樹の切り株に向かうミワナの足が止まった。
 その目は何かを凝視し、その体はがたがたと震え出す。
 寄せ合う体から、震えを感じて左右のサナとウルも足を止めた。
 なんとミワナは、彼は泣いていた。
 切り株を見ながら、震えて泣いていたのだ。
 その視線の先には、切り株の端から生えた小さな芽。
「お、お、おおおお……」
 言葉にならない想いがミワナの胸をかけめぐる。
 八年前に切られた大樹、その切り株に生じた新しい命の息吹。
 そんなことを起こせるのは、命を育む力を持つ者だけである。
「モノミ様……そこにいらっしゃるのですね……?」
 そう、それはモノミの魂がそこに還ってきた証に他ならない。
 五百余年の時を経て、彷徨い続けたモノミの魂が還り着いたのは、彼女の故郷であり、彼女が愛した者達の眠る場所だった。
 木の芽の傍に駆け寄り、ミワナが泣きくずれる。
 その姿をサナとウルは呆然として見守るしかなかった。
 誕生からその最後まで、そして五百年後の未来まで……。
 ずっと、ミワナは彼女を見続けていた。
 今、ここで再び彼女と巡り合えたことに対する彼の胸中はいかばかりだろうか?
 大好きな姉として慕う感情しかなかったサナとウルには、到底理解できない深い想いがあったに違いない。
 やがて、泣きくずれた老狐は、ゆっくりと自分を見守る二匹の狐に振り返った。
 何か、覚悟を決めた、それでいて優しい感じのするその目に、二匹は思わず居ずまいを正す。
「サナ、ウル。よくここまで私に尽くしてくれた。礼を言う」
 深々と頭を下げる老狐。
 幼少時には、悪戯に手を焼かされながらも、老人に楽しい思いをさせてくれた。
 五百年、文句を言わずに自分を助け続けてくれた。
 その礼には、これまでの全てに対する万感の思いが込められていた。
「私は、これからここで祈りを捧げ続ける。この町に住む我々の仲間達のために」
「祈り……では……?」
「そうじゃ、ここでお別れじゃ。お主らは、もう自由に生きてくれ。そして、幸せになるんじゃぞ」
「ミワナ様……」
「泣くでない。ここ最近、止まっていたこの体の時が動き出すのを感じていた。もう、迎えがすぐそこまで来ているんじゃ」
 妖狐達の間で『祈り』とは特別な意味を持つ。
 眷属には、主である土地神のような大きな力はない。
 だが、命と引き換えにならば、それに類する力を発揮することが出来る。
 それが『祈り』であった。
 古くは、主を守るため、仲間を助けるためにその『奇跡』の力が使用されたという。
「ミワナ様!」
「今まで、ありがとうございました!」
 ぺこっと、勢いよく頭を下げる二匹。
 老狐はしばらくきょとんとしたあと、二匹に歩み寄り、老人の姿となってサナとウルを強く抱きしめた。
「ふぉふぉふぉ、人間もいいのう。こうして、両の手でお主らのぬくもりを感じられる」
「ミワナさま……ちょっと苦しいです……」
「でも、あったかい……」
 二匹をしばらく抱きしめたあと、老人は狐の姿に戻る。
 そして、老狐ゆっくり一歩一歩を踏みしめて切り株へと向かった。
 彼の体は一歩踏み出すごとに、うっすらと透けていく。
 その足が切り株に触れた瞬間、彼の体は『祈り』となって消えた。


 ―――モノミ様、蜩殿。遅れましたが私もお傍に参ります。


 その年の終わり。
 人間達が聖夜と呼ぶ日に、幾つもの小さな奇跡が人の町に舞い降りたという。


 とある場所に、命を拒み、降り積もる雪をも拒む丘がある。
 そんな丘が何故生まれ、何故そのような名前で呼ばれるのか、人間達は忘れてしまった。
 だが、その名前だけは忘れ去られていない。
 その丘を人間達はこう呼ぶ。
 ものみの丘――と。











(今年もあの丘を探しに行ってきました)
 忘れもしません、四年前の話です。
 持病の腰痛が激しくなったので、友人の薦めで温泉旅行に行ってきました。
 その行きの列車で、仲の良さそうな夫婦と同席したのですが、その中年夫婦からこのお話を聞いたのです。
 旅行から帰って、『ものみの丘』について調べてみました。
 しかし、そんな丘は実在しないのだそうです。
 ただ、ネットや友人の話からあるものの存在を知りました。
 それによると『ものみの丘』とはKanonというノベルゲームに存在する場所の名前だというのです。
 しかも、このお話で語られる『ものみの丘』とそのKanonの中の『ものみの丘』は極めてよく似ているということでした。
 ただ、そのKanonにおいて『ものみの丘』の由来は語られておらず、同一とまでは言い難いとも言われました。
 気になってやってみると、確かに非常によく似ていました。
 ですが、同時に首を傾げざるを得ませんでした。
 もし、そのKanonに出てくる『ものみの丘』がその『ものみの丘』だったら、架空の存在ってことになります。
 でも、それじゃおかしいんです。
 このお話を僕に教えてくれた、その仲のいい夫婦の名前を何て言うと思います?
 別れ際に彼らの名前を聞いて驚きました。
 だって、彼らはサナとウルって名乗ったんですから。
 慌てて呼び止めようとした時には既に彼らの姿はありませんでした。
 本当のことを言うと、僕は『ものみの丘』がどこにあるか知りたいわけじゃないんです。
 そこに行けば彼らにもう一度会えるんじゃないか、そう思って一つのキーワードとして『ものみの丘』を探し続けています。


 僕は、もう一度彼らに会って訊いてみたいのです。
 人間は変わりましたか?
 それと……。
 あなた達は今、幸せですか?
 ってね。