アルクェイド・ブリュンスタッドの朝は遅い。
どれくらいかといわれれば、平均小学生が眠る時間などに平気で起きだしたりする。
もちろんそれは彼女の身体というかその存在が関係しているのだが、今は関係ないので割愛させてもらう。
アルクェイド・ブリュンスタッドの朝は遅い。
だからこそ、
「おーいアルクェイド、起きろー。夕方だぞー」
このような事態は、彼女にとって予想外のラッキーであったりするのだ。
The white princess's future
「えーそれでは認めたくもありませんが今現在だけは兄さんの側にいるであろう「妹挨拶ながーい」黙りなさい!
……こほん、とりあえず、アルクェイド・ブリュンスタッドの何百回目かのバースデイを祝い、乾杯」
かんぱーい、という麗らかな声で広すぎるダイニングルームに響き渡った。
主賓のアルクェイドをはじめ、秋葉、琥珀、翡翠、外来からおよびのシエルを含め皆が思い思いのドレスを着込んでいる。
飾り付けられたそれは専用の業者でも呼んだのだろう。
それでも、世間一般の誕生日パーティーから外れている気がしてならない、と志貴は思った。
たった六人のパーティー、けれど立食の様式がとられたテーブルには世界各国の料理がところせましと並んでいる。
光を反射するシャンデリア、雑談する美女、そしてタキシード姿の自分。一体なにをどう間違えてこうなったのか。
計画立案は恐らく琥珀辺りだろうが、という見切りをつけると志貴はタンドリーチキンを咀嚼した。
そう、今日は十二月の二十五日。聖夜クリスマス。ヒゲ付きサンタが不法侵入を許される日。仏教の子供が涙を枯らす日。
キリストの誕生日だと言われているが、そんなことを言い出したのは誰だろうか?
兎にも角にも、街は自棄になってケーキを売る製菓店舗が爆発する一日だ。
自称アルクェイド・ブリュンスタッドの誕生日でもあったので、今日は一際目立つ坂の上の遠野家でのパーティーである。
とはいえ、元々友人の少ない志貴に全寮制の学校に通っていた秋葉、シエルとアルクェイド、翡翠に琥珀は友人すらいない。
一案には有間や乾なども呼ぶ計画があったのだが、さすがにクリスマスに暇する人間はいないようだ。
「どうぞ」
志貴が物思いに耽っていると、翡翠がグラスを正しくこれぞワイン、というようなワインレッドのワインを持ってきた。
相変わらず抑揚がなく、ともすれば無表情とも思われがちだが一応楽しめてはいるらしい。
実を言うと最後までドレスを着ることを渋っていたのがこの翡翠だったりするのだが、コバルトのドレスは赤にも似た翡翠の髪の反対色でよく似合っており、見立てた琥珀のセンスの良さが窺がえた。
「ワインか……大丈夫か?」
普通ならばシャンパンとかじゃないだろうか?などと思ったが秋葉がそんな騒がしいことをする人間と思えない。
しかし当面の問題といえば、その秋葉自身の「酒」についての考察と解決策の思案か。
なんせ蟒蛇、そりゃもう蟒蛇、文字の如くお前は大蛇かと言わんばかりの大酒のみだ。
恐らく本人はそれほど意識してないのだろうが、酔ってから延々と飲むので悪酔いするのも結局本人なのである。
「ワインはがぶがぶ飲まれるものではないかと……」
志貴の言いたいことが伝わったのか、思案顔で志貴にワインを手渡した翡翠は呟くように言った。
それもそうか、と一口含む。蒸留酒の香りが鼻を突き抜けていった。
ビールや日本酒ならまだしも、形式を重んじるワインでそれはないだろう。そもそ飲むための酒というよりも、つまみのお供だ。
琥珀にからかわれながら顔を真っ赤にさせている秋葉も、そこのところはどうにか理解しているらしい。
「どうせならクリスマスの趣向にでも合わせたほうが良かったかな……」
「それは誰かがサンタクロースの格好をするということですか?」
「……いや、そうなったら俺がやるんだろうけど」
どうせなら女性陣が、とも一抹の期待が頭をよぎったか実行に移されることはなかっただろう。
翡翠と秋葉を除けば大概ノリのいい人物達だが、琥珀もシエルもキャラではないと断りそうである。一人だけなら尚更。
「それにしても琥珀さん凄いな。これ、一人で全部作ったのか?」
和風贔屓の志貴や、インドに魅せられたシエルのためだろうか?
立派なコースの合間にはこれまた茶目っ気のように違う国の料理が並べ立てられている。
しかしボルシチや中国料理があるところもみると、増やしたレパートリーを見せたかっただけかもしれない。
「張り切っていたようですね。私も買い物に付き添いましたから」
つまり荷物持ちをさせられたということだろう。
なるほど、確かに並べられた料理を見れば圧巻の一言に尽きるが、食材が際限なく多くなってしまうのも仕方がない。
後で弔っておこう、と心に誓った志貴は給仕に順ずる翡翠にも料理を勧め翡翠と分かれた。
広いが人数が少ないおかげで、このダイニングルームは誰が何処にいるかなど一発で分ってしまう。
今現在、翡翠とシエル、秋葉と琥珀、アルクェイドは立派を通り越して絢爛なツリーを見上げていた。
料理も口に運ばずなにをやっているのだろう、ともう一口ワインを含みながらアルクェイドに近づいていく。
ルビーのような瞳がどこを見ているのかと追ってみれば、それはツリーの頂点に刺さるように輝く一際大きな星だった。
いや、星といってももちろん本物などではありえないが、もしかしてあれ、本物の金が貼り付けられていないだろうか?
究極の無駄遣いじゃないか、などと余計なことを口にだしながらアルクェイドの横に並ぶ。
「どうしたんだ?」
「ん……ちょっと珍しかったから」
志貴が声をかけると、照れ笑いを浮かべたアルクェイドが視線を志貴に返した。
山吹を意識したレース付きのドレスがふわりと靡く。ある種それは魔法じみていて、慣性の法則すら疑えてしまうほどだ。
アルクェイドが「壊れ」、人間のような感情を持ったのはつい一年と少し前のことである。
言葉さえ発しなかったアルクェイドの最初が、衝動に駆られた志貴に対する「はい?」だったのだから微妙である。
それはそれとして、アルクェイドが知っているのは「知識」であり経験ではない。
必要な経験は知識として取り入れれば十分なものだけだったので、ことさらにアルクェイドは遊びを楽しむ。
一週間に八回は志貴を遊びに誘うのは、恐らくそういうこともあってだろうと志貴は踏んでいた。
「そういや……ツリーの装飾なんて、こんなときじゃないと拝めないもんな」
「それもそうだけど、木の天辺に星をつけるっていう感性がね」
なるほど、と小さく相槌を打つ。
恐らく高いことを意識しているのだろうが、七夕のように願い事をするわけでもないのだからあまり意味はないのだろう。
そも、サンタが踊った後は鐘が鳴り響き、御節を食べながら参拝して豆を撒き散らしながらチョコレートが乱舞する国が日本なのであるからして、宗教観念の目から見れば恐らく異様の一言に尽きるのだろうが。
「……そういや、クリスマスの趣向に合わせたわけでもないのになんでツリーが……」
「クリスマスツリー……か。太陽の再生を祝う風習を吸血鬼が見てるってのも、異端よね」
「え?そうなのか?」
志貴の中では、ツリーなぞクリスマスの時に装飾される、程度の認識でしかない。
クリスマス自体の意味は知っている物の、ツリーにそんな風習があったのは軽いカルチャーショックだった。
「北欧の方の風習よ。冬至に太陽を祝うの」
「よくそんなこと知ってるな……」
「あら、言葉の語源とかを探ってみるのも結構面白いわよ?例えばキリスト教ってなに、って完璧に即答できる?」
「……そんなことは先輩に聞いてくれ」
ちらりと横目で、翡翠と話していたはずのシエルの様子を窺がった。
どうやら翡翠とは分かれたようで、いつものようにメガネをしながら数多ある料理に目移りしているようだ。
なんだかんだいって健啖な彼女だから、もしかしたらカレーを探しているのかもしれない、と志貴は思った。
スパイシー系統の料理もいくつかあったことだし、そうでなくとも満足してくれるだろう。
「あー……シエルといえば、今日はちょっと派手にやらかしすぎたかしら……」
漫画チックに額に水玉をつけながら、目を細めてアルクェイドがテラスに通じる窓を見た。
いや、実際には窓でもなくテラスでもなくその向こう。爆砕され所々が消失した、見るも無断な庭の跡地である。
もちろんこれはアルクェイドとシエルの「喧嘩」から始まったことなのだが、シエルに機嫌が悪かったことも相乗してこのような結果になったらしい。すると秋葉の送辞はそういう意味を兼ねてのささやかな皮肉だったようだ。
黒鍵が突き刺さり燃えた天然芝。爪で抉れた大地。余波で割れた一枚のガラスが哀愁を漂わせていた。
結末は志貴が微妙に七夜になったことで終わったのだが、それでもシエルはまだ納得いってないようだ。
「秋葉に説得させたのは失敗だったな……」
全寮制の浅上女学院から志貴のいる進学校に転校してきた秋葉だったが、シエルに一体どういう説得を施したのか。
アルクェイドの「“私の誕生日を”シエルが祝う日が来るなんてねー」の発現でメーターが振り切れたのだから、恐らく今日、ここでパーティーがあるという旨のことしか伝えていなかったのだろう。
クリスマスにパーティーなのだから、普通はそっちの方向に頭がいくのが至極当然であろうに。
――そもそもの話し、なぜ卒業のはずの先輩が普通に三年生のクラスにいるんだろう?
至極当然の疑問が風に流れた。
「弁償しようと思えばできるけどね」
「そういやお前、あんなマンションに住んでたっけな」
「そ、私お金持ちよ?一生ごうゆー」
猫目猫口でわーいと喜ぶアルクェイド。
終わりのない命を持つ真祖が一生というのは、なにか矛盾がある気がしてならない。
もちろんそんな些細なことは一々口に出すことでもないのだから、志貴はアルクェイドに適当に取り分けた食事を押し付けると、一緒にいたい等の文句を垂れるアルクェイドを宥めながら次に廻った。
どうやらパーティー中に一通り廻っておくようだ。今は琥珀とシエルがなにやら熱い談義をかましているようだった。
「ですからっ、カレーの素晴らしさはインドだけに留まらず世界各国の料理人が(云々)」
「まあそうかも知れませんが、今現在の料理人の殆どが「結局はスパイス」の元で(等々)」
いつも変わりない。
苦笑が混じった。カレーをこよなく愛するフランス人と、多少緩和したとはいえカレーを認めない料理人。
琥珀に言わせれば「カレーなんて分量も関係ないじゃないですか」の話しだが、今現在はどうなのだろうか?
ドレス姿でカレー談義をかましている美女二人に近づくのは少々勇気がいったが、なによりも真っ白いタキシードを着ている自分が言える立場でもないか、と志貴はやはり苦笑しながらシエルの肩を軽く叩いた。
「あ、遠野君……聞いちゃいました?」
「バッチリと」
「あはー、でもシエルさん、凄いんですよ。スパイシーな知識とパンに限っては、多分私よりも全然」
「あ、いえ、そんなことないですよ」
急にしおらしくなったシエルは、気恥ずかしいのかサラダのレタスをパリパリ言わせながら俯いていた。
で、行きすぎて刺したフォークを齧っている。カチカチカチという音が無機質に響き、静寂。
「先輩って、なんというか……」
「可愛いですね」
「ひゃ――いたっ!?」
今度は舌を噛んだかフォークを刺したかしたらしい。
あーうーとシエルは唸り、恐らくなんの関係もないだろう志貴を半眼で睨んだ。
「い、いきなりなんてことを言うんですか!遠野君はっ」
「……俺、直接的な表現は一つもしてないはずなんだけど」
それでも口元が弧を描いてしまう。
もし自制する必要がなければ、恐らく頭を撫でながら笑い飛ばしていた所だ。
志貴は笑みを隠そうともしない琥珀の方を見ないように必死で取り繕った。
「でも、先輩はどんな格好してても先輩だね」
「むっ?悪いですか!悪いですか!そうでしょうとも、どうせ私は一般人ですよ!
パン屋に生まれてその後戦闘員になっちまった悲運の女ですよ!笑いたければ笑えばいいんですこんちくしょう!」
そこまで言ってないのに、ととめどなく溢れてくる笑いに胸を押さえながら志貴はとりあえず水を一気に飲み干した。
丁度水差しがあったので良かったが、あのままだったら笑いすぎて死んでいたかもしれない。
「ドレスなんて生まれて初めてなんですよ!?何気に恥ずかしいとか思って……ってなにを話してるんですか、私は」
半ば独白に近かったのか、自棄を起こしたようにべらべらと口を動かしていたシエルは急に醒めたように拳を下げた。
羞恥によって頬が染まっていくさまがありありと映し出されている。
確かに、いくら美女とはいっても制服を着るのとは訳が違うだろう。なんといっても遠野家のドレスなのだから。
何故三人しか住んでないここにアルクェイドやシエルの胸囲に合う服があるのかは甚だ不思議だが、そこはさしたる問題ではないのだ。
「先輩、綺麗だよ」
「…………遠野君はずるいです」
知り合ってから、二度目となる科白。
拗ねたように裾を掴み、レンズの向こうから透き通った蒼い瞳で志貴を見るシエルは差し引きなしに美人だ。
教師とか似合うかもな、と考えたところで、三白眼でこちらを見つめる琥珀に目がいった。
「志貴さんてば浮気者〜」
「な、なんで……!?」
「恋人の誕生日にそれじゃあいけませんよー、だからエプロンに朴念仁なんて書かれるんです」
「それやったの琥珀さんでしょ!?」
心外だっ!とばかりに声を張り上げると、琥珀は尚更ぶーぶーと文句を垂れた。
「私の情報網、舐めてませんか?」
「は……?」
「某赤毛の友達の姉と、某医者の娘……とか?」
――もしかして俺墓穴った!!?しかも薮蛇!!
「御用達のは本棚二列目の右奥から四番目、翡翠ちゃんの目からも隠しとおしているんですから、ご立派ですねー」
だから何故掃除が禁止されている琥珀さんがそれを知っている!?
あわあわ、と同様が隠しきれずに琥珀から一歩あとずさった志貴の目に、キュピーンと光る目を持つ魔女が見えた。
「うふふ、健啖健康健常はいいことですけど、あまりお体は強くないので程ほどにしてくださいね?」
「あ、う……」
最後だけ今世紀最高の笑みを残し去っていく琥珀。いや待て、そこまで引っ掻きまわしてどこに行く。
カツカツとわざとらしく音を立てて陽動犯が消えてしまったので、残りはシエルと志貴だけになることになった。
会話が続かない、というか会話さえしてない。大体先輩、殺気飛ばさないで下さい。
「その某二人の人物は……誰ですか」
既に質問ではなくなっていることに、気づく。
これは詰問だ。副音声で言えば『ヤッたのか?それともヤッてないのか?』の一言だろうか。
先ほどまでの恥じらいシエルはどこに行った!詐欺だ!と大声を発したくなったが、それですら薮蛇になりかねない。
半端な嘘は心臓の半分くらい持っていかれそうな雰囲気だったので、志貴は脂汗をかきながら正直に答えることにした。
「い、いや、違うんだ先輩。ただイチゴさんとかは酒の勢いで……好きだって言って来ただけで」
実際は、『有間ー、今日あの馬鹿いねーんだよー。暇ー、疼くー、さびしー、慰めろー』の後であったが。
「名前は?住所は?ああ、一人は知ってます。乾君のお姉さんですね?で、どうなんですか?」
「どう、とは?」
「くんしほぐれつの肉体関係に及んだのか、と聞いているんです」
脅しているの間違いでしょ、といわなかった彼はとても正しい。
秋葉の毎朝のやり取りから少々学習したようだ。
「や、やってないですマム。丁寧かつ紳士的にお断りさせていただきました」
もしたまたま遊びに来ていた(逃避行の同意語)ななこがいなければ、断られたのかどうか怪しいところだったが。
しどろもどろになりながらも、とりあえずそこだけは信じたらしいシエルが次の問題に移った。
気分は取り締まりを受ける犯人だ。任意同行を拒否したら気絶させられた、という経歴でもつきそうだが。
「某医者の娘というのは?町医者かなにかの女医に手を出したんですか?」
「いや、違う。全然違うぞ。ていうか俺がアルクェイドのことはなしたら、悔しいっていきなり……」
「逆レイプですか」
仮にも聖職者がクリスマスに言っていい言葉ではない。
だがとりあえず事実関係には全く関係ないことなので、否定しておくことにした。
「ヤられてないって!断ったから!ちゃんと、潔く、その場で」
「……そこで凛然と断れるほど、遠野君が出来ているとは思えません」
「酷い……」
がっくりと肩を落とすも、突如現れた世紀末覇者の言うとおりだった。
白衣の衣擦れが聞こえてくる限界まで想像のアルクェイドと葛藤していた彼は、最後の一瞬で我に返り目を瞑ることに成功したのだ。
ちなみに、その後アルクェイドの申し訳が立たなく禁欲し、見た夢に出てきた女性が白衣を着ていたのは別の話し。
アルクェイドが朝来た時、志貴の身体から普段見知らない香水の匂いがしたのも、別の話し。
「そ、そうだ先輩、ほら、折角の料理なわけだし、食べなきゃ損だって」
「逃げましたね」
うぐ、と詰まりそうになるのを笑顔で必死に回避。
志貴は見たこともないような、物珍しいものから順に皿に盛り付け「美味しそうだなー」と零した。
色鮮やか、と称せばいいのだろうか。碧と白のコントラストが綺麗である。
「なんです、それ?」
「さあ?どっかの国の料理じゃ―――!!?」
パクン、と志貴はそれを口内に放り込んだ。
そして二秒で後悔した。
なんだこれは!?いやまて考えるな。だが、もう無理だ。脳髄にまで届いた。シナプスが焼ききれる。
皿に盛り付けてある、ということは料理なのだから、シエルの目の前で吐き出すという無様をするわけにもいかない。
だが、これは駄目だ。心臓と脳みそと四肢を蹂躙させれるかのようなそれ。言うならば「劇的な不味さ」。
あまりにも不味すぎる。舌が痛みまで発してきた。辛い、けれど甘い。そして苦く酸っぱい。
雑巾の牛乳漬しをベースに、自分が今まで食べてきた中で一番不味いものをトッピングして尚且つまだまだ上乗せした物。
これを料理だと、そういうのか?それは何かに対する侮辱だと思う。
声が出せない。喉がやられた。拙い、なにが拙いってこちらを横目で見ながら微笑んでいる琥珀がいるので拙い。
意識が遠のく。瞼が重くなった。段々と、催眠術にかけられたかのように眠りの波は襲ってくる。
『ひすいちゃんとくせいですよ』
琥珀の唇がそう動いたと思った直後、
「はか……られた……」
フェードアウト。
脱力感、疲労感、頭痛、喉の渇きと眩しさ。
貧血にも似た感覚を味わいながら、志貴は人工の光を左手で遮った。
ギシ、とスプリングが音を立てる。整頓されたベッドの上に、薄いタオルケット一枚で志貴が寝かされていた。
メガネはかけたまま、服装も(恥ずかしいことに)純白のタキシードのままだ。
そこではたと気付く。何故自分がこんなところにいるのだろう。
「琥珀さん……」
現在での元凶が、ドアの向こうで口元の袖を当て微笑む姿が見て取れたようだった。
無欲主義というのか、志貴の部屋は殺風景であり、装飾品らしきものは殆ど窺がえない。
一度現状を冷静に見てしまうと、なによりもまず喉が渇いた。いや、喉というか口になにか流動体を押し込めたい。
下らないという勿れ。悉く理性が吹き飛びそうになったあれの恐怖。
メシアン新発売の『危険です。心臓の弱い方、疾患のある方、お年寄りのお方は注文できませんカレー』を思い出した。
シエルでさえあれを四十分かけて制覇したのだ。食べた事がない自分でもあの威力が分かる。
「……気分悪くなってきたな……」
俯かせ頭を抑えた時、隣にある勉強机にふと眼がいった。
ありがたいことにグラスに水が注いである。翡翠か琥珀辺りが気を利かせてくれたのだろうか?
琥珀ならば薬物混入でもされているのではなかろうな、と危惧するも、今はこの口に迸る異物の感触を洗い流したい。
志貴は無二も言わずグラスをとると、そのまま自棄になったように全てを飲み干した。
水独特の清涼感が身体を包む。血に混じって全てが洗い流されていくような、まさにクリスマスに相応しい感情と感覚。
こんな水一杯で感慨に浸るのは大袈裟だろうが、そんな水一杯で感慨に浸らせてくれる先ほどの料理(?)の方が凄いだろう。
少々強めにグラスを置く。
キンッ、という甲高い劈きが終わると、グラスで押さえつけられていたのだろう一枚の紙が眼に入った。
ノートの切れ端のようなものではなく、仰々しい便箋のようだ。封筒は見当たらない自分宛てでいいのだろう。
「えっと……」
四つ折された紙を開いていく。カサリ、パサリと音がするたびに、何か嫌な予感が増していった。
志貴さんへ♪
さすがにやりすぎました、お水を置いていきますね。
でもあれ、翡翠ちゃん特性の料理ですから、翡翠ちゃんが来たら「美味しすぎて気絶した」くらい言ってあげてください。
実験体にしたわけではありません。
後遺症もないと「思い」ますので、「多分」大丈夫だろうと「信じて」ます。
ちなみに皆さんには貧血だと言っておきました。身分証明書の類は便利です。
実験体にしたわけではありません。
もしかしてパーティーが終わっているかもしれませんが、どうせアルクェイドさん達には泊まって頂く予定でしたので。
そうそう、この日くらいは破目を外してもいいと思いますけど、避妊くらいはしましょうね?
実験体にしたわけではありませんが、志貴さんの冥福を祈っています。
最後の一言、実験体にしたわけではありません。
byあなたの琥珀より、愛を込めて
頭痛に続き、胃痛までしてきたのを志貴は感じた。十二指腸のなにかだ、きっと。
過去これほど読む事に指が震えるような手紙はあっただろうか?
というかこれは手紙なのか?手紙の前述に「不幸」とついてもなんらおかしくない。違和感の欠片さえありはしない。
達筆で書かれた文体には少々感動するものの、披見しなければ良かったと志貴は速攻で後悔した。
手紙を出来る限り小さく折りたたむと、翡翠に見つかっては大変だとポケットにねじ込む。
一体あのアンバーはなにを考えているのか。
溺愛し敬愛し親愛し信愛する妹のために、君主の兄を羊にすることも厭わないと言うのか。
今すぐにタキシードを脱ぎ捨て有彦と共にカラオケにでも繰り出したいとここだったが、そういうわけにもいかない。
何よりもアルクェイドに今日は一緒にいてやると大々的に発表して数時間。いきなり公約を破る政治家でもあるまいし。
『志貴様?よろしいですか?』
コンコン、と軽めにノックされる音で、志貴は自分が今自室にいるのだと再確認した。
翡翠が呼んで……ああ、いや、なにやら入るための許可を待っている。早く出さなくては。
「ああ、いいよ」
なるべく平静を装ったが、大丈夫だったろうか?畏怖とかは染み出ていなかっただろうか?
何故破壊力が当社比三倍になっているのだろう、と思い様翡翠が物静かにドアを開けた。
「ご気分はいかがでしょうか?」
少し早口でまくし立てる。焦りか心配か、どちらにしても、志貴にとって悪い気分ではなかった。
慕われてるということなのだろう。
はっきりいって気分が良いとはいえないが、間接的な原因にまさか「悪い」と言えるはずがない。
志貴は肺一杯に覚悟と酸素を溜め込むと、今自分の出来る最大の笑顔を持って返事を返した。
「大丈夫だ、別に悪いところもない」
「そうですか……その、私の料理をお食べになった直後に倒れられたと聞きましたが……」
(琥珀さん……どうせならもう少しマシな説明を頼むよ……)
嘘も方便とよく言うではないか。
志貴はそれでもそんなことはない、と一辺倒な返事を返し、翡翠の心配を極力和らげようとした。
それにしても、あれを料理と呼ぶとは、翡翠も琥珀も侮れない。
最大の賛辞を持って翡翠を見る。パーティーが終わったのか、翡翠はいつものメイド服に身をつつんでいた。
「ああ、そうそう……あの料理なんだけど……」
「クリームシチューですね」
「(そうなのか……)なんて言うか……独創的というか、観念的というか、うん……美味しかったよ」
「ほ、本当ですかっ?」
ああ、偉い俺。
ビバ嘘も方便。
けれど、翡翠のはにかむような笑顔を見ているとあの料理も本当に美味しいのではないかと錯覚してしまう。
日に日に琥珀さんに感化されていくなあ、などと思いつつ志貴はパーティーがどうなったのかを訊いた。
「志貴様は単なる貧血だと聞きましたので、パーティーを中断させるのも無粋という姉さんの提案に従いました。ただ……」
「ただ?」
「……ストッパーがいなく、被害は六桁とだけ報告しておきます」
「あ………………なるほど」
黒鍵と拳と髪が乱舞する狂喜の宴がすぐさま脳内変換されもわもわと浮かび上がる。
その横でおろおろとする翡翠に、けらけら嗤う琥珀。完璧な布陣だ。
「今は皆さん各自の部屋で静かにしておりますが、秋葉様は興奮状態でしたので睡眠や……疲れてお眠りになりました」
「ね、眠ったのか」
「眠りました」
そう淡々と言われてしまうと、前述部の違和感が余計に目立つ。
本人も恐らく失言だろうと隠したのだが、ここにさえフードを被った箒魔女の影が見え隠れしてならない。
引きつった笑いしか浮かべることの出来ない志貴は、誰か来てくれと祈ることしかできないのだ。
「そういえば……アルクェイド様が志貴様からだけプレゼントを貰っていないと拗ねていました」
「あ、そうか。そうかっ!それじゃ今から行ってくる!アルクェイドの部屋はどこに!?」
「二階の突き当たり前です。トイレの横ですね」
「分ったありがとう!!」
その日の翡翠の日記に「志貴ちゃんが風になった」とだけ付け加えられた。
「志貴遅い 志貴朴念仁 志貴駄目 志貴あんぽたん 志貴蒼い 志貴絶倫 シエル印度 志貴メガネ 志貴甲斐性なし!!」
うにゃーーー、と世界を揺るがし宇宙までも届けこの声とばかりに腕をばたばたさせるアルクェイド。
ちなみに彼女の座るベッドの前では、入った瞬間訳も分らず怒鳴られ正座させられた志貴がいる。
まさに悲愴、というべきか。
なんで俺が正座を?というより疑問よりも、やたら滅多らの悪口雑言に男としての尊厳を著しく傷つけられたようだ。
「志貴ロリ 志貴メイド 志貴カレーフェチ 志貴妹 シエル似非女子高生 志貴ツインテール 志貴和服 志貴女医さん!!!」
人の嗜好をとやかく言うなよ、と思ったがどうして自分がロリやらカレーフェチやら言われなくてはいけないのだろう。
…………と、いいますか。最後のは一体誰を比喩しているわけよ。
ていうかなんでそこまで怒っている。もしかしてあれだろうか。タキシード姿があまりにも癇に障ったのだろうか。
「あ、アルクェイド、それくらいにしてくれ……」
「――ぶーぶー、志貴おーそーいー」
「悪かったって」
あれは俺のせいじゃないだろうに……。
理不尽な怒りを湧かせているアルクェイド……いや、女性ならば皆そうなのか。その感性だけは理解できん。
デートの約束に遅れたわけでもあるまいし、と志貴が半ば自暴になったように大きく溜息をついた。
「今日はずっと一緒にいてくれるって言ったのに……」
しんみりとしたアルクェイドの声に気付き、志貴は正座をやめて立ち上がった。
先ほどまで寝ていたためだろうか。血はドクンドクンと波打ちながら志貴の身体の中を暴れまわっている。
「悪かったな。心配かけた」
「うん……」
アルクェイドと同じようにベッドに腰掛け、志貴はアルクェイドの小金にも似た金髪に指を通した。
一本一本が信じられなくらいに細いそれは、まるで重力に逆らう流水のように志貴の手からするりと抜けていく。
ドレス姿のせいだろうか?見慣れぬ服飾に興奮している自分がいるのに気付いた。
……あながち、琥珀やアルクェイドの言葉も馬鹿で出来ない。
「でも、俺が倒れるのなんていつものことだろ?そんなに心配するなよ」
「…………怖い、その言い方」
「怖い?」
「倒れて、そのまま死んでも心配するなみたいな、自分を下卑したような言い方っ」
きつめの言動は怒りの度合いだろうか?
拗ねたように志貴の顔を見ようとしないアルクェイドは、なすがままにされている髪の毛を揺らしていた。
電球がぶらりと揺れる。窓からみえる情景は濃紺単色。赤く燃えるような月だけが、にやにやと笑っていた。
「……アルクェイド、俺は長生きできるような人間じゃない。分ってるだろ?」
「だったら世界中駆けずり回ってでも最強の魔眼殺しでも作ってもらえばいいでしょ?
シエルだっている。私だってコネがないわけじゃない。お金に苦労するはずもないでしょ?」
志貴の目は特殊だ。
元々は七夜に受け継がれるそれ相応の魔眼だったものが、「事故」のせいで少々湾曲してしまっているのである。
それは「直視」。全ての物体を殺す最高最強最悪の魔眼。生きることを許さない、生殺与奪の瞳。
普通の人間が持ちえていい瞳ではない。志貴も、そこは自分のことだからこそ一番よく理解していた。
「俺は七夜志貴として生まれ、遠野志貴として育ち。唯一の俺として生きていく。
下卑しているわけじゃない。そのときの覚悟は、持っていて損はない」
「なんで?私を殺した責任、まだとってもらってないわ!」
「アルクェイド」
凛然と名を呼ばれ、アルクェイドの身体がびくんと震えた。
空気が凍える。志貴は確かにアルクェイドの横にるのに、存在感が限りなく稀薄。
「誕生日、おめでとう」
志貴は笑った。
アルクェイドの紅い瞳を見て、尚も笑った。
何で笑っていられるの、と問おうとしても声が出ない。
あまりにも強く、けれどとても脆い存在。それがきっと遠野志貴だ。
堅ければ堅いほど脆い存在はない。
アルクェイドはもう一度、口の中で何でと繰り返した。
「まだちゃんと言ってなかったよな?」
「……ありがとう」
「ん、それでよし。ドレス姿もよく似合ってるよ」
「志貴のタキシードも素敵よ?」
「……嫌味か」
「心無い皮肉」
短い言葉の応酬が途切れると同時、どちらとも無く笑い声が漏れた。
ギシ、と志貴のベッドとは違った方さのバネが鳴る。
――――ああ、なんだ。
結局逃げていたのは、私の方ではないか。
居心地のいい存在を、最愛の人を、失いたくないからと彼を困らせていただけではないか。
「愛してるわ、志貴」
「それ以上に、俺もな」
「……ならそれ以上に私も愛してる」
「だったらそれ以上に俺も愛してる」
「……やめない?不毛よ」
「確かに、エンドレスになりそうだ」
今日は聖夜、クリスマス。
アルクェイド・ブリュンスタッドには、あまり似つかわしくない日なのかもしれない。
けれどそれは違う。夜は悉く彼女の隷属にして眷族。聖夜は彼女にとっての聖夜であるのだから。
「ねえ志貴?」
「ん?」
だから、きっとこれは……。
「キス、しましょ」
「……ああ」
白い姫君と、蒼い騎士の、物語の始まりなのだ。
The Happy Birthday to Arcueid Brunestud
What the future which can consider "happiness" is not in the future of hers
and him is prayed.
Because the love not arriving is surely in this world and does not have an
end.
――――What by which it comes has the beautiful moon tonight.
to be continues・・・・・・・・・・?