0.
其の世界は―――言うなれば、地獄であった。
其の世界は、悲哀で満ち溢れていた。
其の世界は、諦観で朽ちかけていた。
其の世界は、嘆きが渦巻いていた。
其の世界は、慟哭が響き続けていた。
其の世界は、暴力に蹂躙されていた。
其の世界は、暗黒に貪られていた。
其の世界は、悪夢に覆われていた。
其の世界は、滅亡に支配されていた。
「あっははははは! いいねぇ、凄くいいよ」
地獄の中に、哄笑が響き渡る。
「みんな、みんな、もっと泣いておくれ! ボクの心を、満たしておくれ!」
嗤い続けるのは、顔の無いナニカ。禍々しきモノ。
「此処も結局、至る事は無かったけれど。けれど、この有様のなんと愉快なことか!」
昏い。暗い。クライ。
夜の闇よりも、宇宙の深淵よりも、遥かに冷たい、忌まわしきモノの嘲りが響き渡る。
「でも、もうオシマイ。さぁ、次の世界を作らなきゃ。
今度こそ。今度こそ愛しいキミへと届くように」
其処には、悲哀が在った。
其処には、諦観が在った。
其処には、嘆きが在った。
其処には、慟哭が在った。
其処には、暴力が在った。
其処には、暗黒が在った。
其処には、悪夢が在った。
其処には、滅亡が在った。
「あははははは! 絶望の声、なんて美しいんだろう!」
そして其処には―――絶望が、在った。
「胸糞の悪りぃ笑い声上げてんじゃねぇよ、クソババァ」
「全くだな。汝(なれ)の笑い声は、いちいち癇に障る」
けれど。
それと、同時に。
「とりあえず、だ。てめぇに付き合うのもいい加減に飽き飽きだからな。
そろそろ終わりにしたいもんだ」
「うむ。そういう訳だ。妾(わらわ)達の心の安息のためにも、迅(と)く、去ぬが良い」
其処には、また―――
「おやおや、こんな所まで追いかけてきてくれてたのかい? フフフ、嬉しいじゃないか」
「こっちは嬉しくもなんともねぇがな。
つーか、さっきも言ったが、さっさとテメェとの縁を切りてぇよ」
「妾達は、つまらぬ追いかけっこなぞ早々に終わらせてしまいたいのでな」
希望も、在ったのだ。
「さて、アル。とっととケリをつけちまおうぜっ!」
「そうだな。これ以上、彼奴の顔を見ているのは不愉快極まりない」
邪悪を、理不尽を憎む其の者達は―――
「「憎悪の空より来たりて!!」」
祈りの空の彼方より―――
「「正しき怒りを胸に!!」」
切なる叫びに応え―――
「「我等は魔を断つ剣を執る!!」」
明日への道を拓くため―――
「「汝、無垢なる刃!!!!」」
無垢なる翼纏いて舞い降りる。
その、剣にして翼たる者の名は―――
「「デモンベイン!!!!!」」
詞と共に、圧倒的な質量が顕現する。
辺りに満ちる瘴気を吹き飛ばす、清冽なる気を纏う鬼械の神。
デウスマキナ・デモンベイン。
「そうだね……それじゃあそろそろ、始めようか。今度もボクを、楽しませておくれよ?」
「はっ、知ったことかよ。行くぞ、アルッ!!」
「応ッ!」
そして、希望と絶望がぶつかり合う。
無限の時を越え、無限の世界を超え、光と闇の闘争が続く。
それは、果てしなく続く無限螺旋。
希望は、絶望を終わらせるために。
絶望は、希望を喰い尽くすために。
此度もまた、善き神と悪しき神の闘いが始まった。
―――――――聖夜を覆う闇、討ち払うは魔を断つ剣―――――――
T.
“Silent night, Holy night……”
色とりどりのイルミネーションに飾られた街から、聖なる御子の誕生を祝う歌が聞こえてくる。
“Where today all the might……”
歌と共に聞こえてくるのは、楽しそうな人々の声。賑やかに行き交う人々の足音。
彼等は皆、幸せそうであった。この世に生きていることを、謳歌していた。
なのに。
“Of His fatherly love us graced……”
あぁ、なのに何故。
(どうして私は、こんな薄汚い路地裏で寒さに震えていなければならないの?)
WAnd then Jesus, as brother embraced……”
薄汚い襤褸切れに身を包み、ビルとビルの隙間で必死に寒さを凌ごうとしている少女は問いかける。
誰に?
自分に?
それとも、天にいらっしゃると言う偉大なる主に?
(ワカラナイ)
WAll the peoples on earth……”
鳴り止まぬ賛美歌が、少女には酷く鬱陶しく感じられた。
“All the peoples on earth……”
もし、天に神様がいらっしゃるのならば、何故自分はこんな目にあっているのだろうか?
少女は深く、静かに己の思考の海に潜っていく。
「こんな世界なんて、キライ。誰も私に優しくしてくれない。誰も私を気に掛けてくれない。
キライ、キライ、キライ、キライ…。皆、大ッキライ…!」
唇から漏れた小さな呟き。
それは、紛れもない呪詛。
無垢な少女が、己の不幸を嘆き、世界へと投げかける毒。
「神様なんてキライ。ううん、神様なんて居ないんだ。何にもしてくれないんじゃない。
居ないから何も出来ないんだ…!」
暗い、昏い感情を込められた少女の怨嗟が、ビルの谷間に溶けていく。
それは誰にも聞かれることは無く。
ただ、少女の込めた負の感情を含んだまま、消えていく。
…はず、であった。
“Silent night, Holy night……”
「フフフ…そんなに世界が嫌いかい?」
唐突に背後から掛けられた声に、少女は若干の怯えを含みながらも、勢いよく振り向いた。
暗い路地裏。街灯など無く、大通りや月からもたらされる僅かな明かりだけを頼りに、目を凝らす。
闇の中にあたかも溶け込むかの如く、立っている人影がある。
“Long we hoped that He might……”
「それに、神様は居ない、か…。
フフ、確かに滅多に会えるものじゃないからね、居ないと思うのも仕様が無いけれど」
影が冷たく、ぬめる様な響きの言葉を紡ぐ。
腐った果実のような、甘ったるい匂いすら感じそうな声が、少女の脳裏に染み込んで行く。
やがて、闇の中から影が歩み出てきた。
ソレは、女の姿をしていた。
妖艶な色気を纏った、掛け値無しの美女。
冷たく酷薄な笑みを浮かべたまま女は少女へと歩み寄り、包み込むように抱きしめてその耳に囁きかける。
“As our Lord, free us of wrath……”
「神様は居るんだよ。君の思っているような物じゃないかもしれないけどね」
「神様…居る、の…?」
「あぁ、居るとも。何を隠そう、ボクも神様の一人だからねぇ」
「貴女が…神様?」
「フフ、そう、そうだよ…」
女の浮かべる、禍々しいとさえいえる笑みが深くなる。
けれど、女の胸に抱かれている少女には、ソレを見ることは出来ない。
WSince times of our fathers He hath……”
「もし君が望むのなら、ボクが力を挙げよう。
可哀想なキミを助けてくれない世界へ、復讐できる力を」
「力…世界ニ、フクシュウ…」
女の言葉を、虚ろな様子で繰り返す少女。
その様に満足したかのように、女が少女を抱きしめる腕を解いた。
「フフフ、そう、力だよ。キミのしたいようにすることの出来る、素晴らしい力さ」
「チカ、ラ…スバラシイ…」
“Promised to spare all mankind……”
焦点を失った瞳で、虚空を見る少女を、さも楽しそうに女が見つめる。
その顔に浮かぶ笑みは更に深く、深く。
やがて、その美しい顔が、歪んでいく。
決して言葉では言い表すことの出来ないナニカへと。
闇よりもなお、濃い漆黒に染まった顔に燃え盛る炎のような、三つの瞳がある。
「チカラ…セカイ…フクシュウ…」
ぶつぶつと呟きながら、少女は歩き始めた。
WPromised to spare all mankind……”
「さぁ、行ってお出で。そして、螺旋の種を植えつけておくれ。
今度こそ至れる様に。ボクの愛しい愛しいあの子に届くように!」
路地裏に哄笑が響き渡る。
嗤い続けるのは、忌まわしき邪神。
無貌の神。這い寄る混沌。大いなる使者。
そのモノを言い表す名は、無数にある。
そのモノは、無数の名に相応しい、無数の姿を持つ。
そのモノこそは、ナイアルラトホテップ。
外なる神、アザトースの宇宙を解き放たんとする者。
終焉を招かんとする者。
少女を篭絡し、己が手駒とした邪神は、何時までも路地裏で嗤い続けていた。
少女の消えていった路地の先で、爆音が響いた。
U.
“Silent night, Holy night……”
「ぶえぇっくしっ!!! うあぁ……。さ、さみぃ! 畜生、アルのやつまだかよ…?」
美しい装飾に施され、幻想的なイルミネーションの光に包まれた巨大なクリスマスツリー。
その下で、一人の男が寒さに震えていた。
黒目黒髪、背の高い東洋系の顔立ちをした男だ。
「ったく、買い物にどれだけ時間かけりゃ気が済むんだ、あんの古本娘は…!」
ぶつぶつと、独り、愚痴を吐き続けている姿はちょっと哀れを誘うものがある。
よくよく見ればかなり整った顔立ちをしている。
しかしながら、適当に切った髪形と、なんとなく駄目人間っぽいオーラのせいで台無しだ。
“All is calm, All is bright……”
「大体、なんで女の買い物っつーのはこんなに時間かかるんだ?」
白い息を手に吹きかけながら、男が零す。
雪の降る中、長い間つっ立っていたのか、頭や肩に雪が積もり始めている。
「くそぅ、さみぃよぅ…ひもじぃよぅ…」
「汝は何を情けないことを言っておるか」
ついにはしゃがみ込んで呟き始めた男に、声をかけるものが居た。
美しく整った顔を彩るのは、瑠璃色の髪に翡翠の瞳。
フリルたっぷりの白いワンピースの上から、これまたフリルたっぷりのコートを羽織った小柄な少女だ。
“Round yon virgin mother and Child……”
「アル、何時まで待たせんだッ!」
「まぁ、そうがなるな。女の買い物には時間がかかるものと相場は決まっておろう?」
「はっ、ちんちくりんの癖して何言いやがる…」
「ふ、そのちんちくりんに首っ丈の男の言う言葉ではないな」
「ぐっ…」
寒さに震えていた鬱憤を晴らすかのように少女――アルに詰め寄る男だったが、あっさり言い負けて言葉に詰まる。
アルはというと、偉そうに胸をそらし腕を組んで、得意げな顔をして男を見上げている。
“Holy Infant so tender and mild……”
「大体、だ。九朗、汝も魔術師なのだからこの位の寒さに耐えられんでどうする」
「魔術師でも何でもさみぃモンはさみぃんだよ」
九朗と呼ばれた男は、アルの言葉にふてくされた様にそっぽを向いた。
「それに、我慢できぬのならば魔術で空気の壁を作るなりして寒さを和らげればよかろうに」
「……」
「思いもしなかった、という顔だな。やれやれ、我が主と来たら…」
九朗の反応に、アルは呆れ果てたといった感じでため息をつく。
“Sleep in heavenly peace……”
「ま、まぁ、それはさておき、だ」
形勢不利を誤魔化す為か、少々つっかえながらも話題転換を図る九朗。
だが。
「あ、お巡りさん! あそこです! あそこでちっちゃい女の子を攫おうとしてる黒尽くめの怪しい男が!」
「む、其処の黒尽くめの怪しいやつ! その場で大人しく手を上げろ!」
不意に、二人の元へそんな声が届いた。
辺りを見回す九朗の目に入ったのは、少し離れた場所から、此方を取り囲むようにして様子を伺う群集。
そして、二人の方へ走ってくるお巡りさんの姿。
「えーと…あれ?」
「む?」
唐突な展開に硬直する二人。
近づいてくるお巡りさん。
「…なんかいやーな予感」
「ふぅ、結局いつものパターンになるのではないか」
「逃げるか」
「逃げるぞ」
二人は顔を見合わせ、同時に走り出す。
“Sleep in heavenly peace……”
「あ、こら、待て! 止まれ、不審者っ!」
脱兎のごとく逃げ出した二人の姿に一瞬あっけに取られたが、すぐに我に返って追いかけ始める警官。
「なんでいつも警察に追われにゃならんのだ!」
「汝が不審者面丸出しだからであろう!」
「んなアホな! こんな好青年捕まえて、何が不審者か!」
「好青年などと、どの口が言っておるのかのぅ」
「うるへぇっ」
全力疾走で逃げながらもこんな会話を平然としている辺り、この二人只者ではないのかもしれない。
まぁ、逃げている姿は情け無いの一言に尽きるが。
暫く走り続けて、漸く追ってくる警官の姿も見えなくなったので二人は走るのを止めた。
「どうやら捲けたみたいだな」
「そのようだな」
「さて、と。それじゃそろそろ、まじめな話に移るか?」
すっと、表情を引き締めた九朗が切り出す。
それに合わせ、アルもまたその愛らしい顔に硬い表情を浮かべる。
「うむ。奴の事だな」
「あぁ、やっぱり近くに居るな」
「間違いない。反応が微弱なせいで、場所の特定までは出来んが、少なくとも“此処”の何処かには居る」
苦い顔をしながら、アルが言う。
「厄介事になる前に見つけたいところなんだがな…」
「確かにな。だが、やはり難しかろう。どうしても後手に回らざるをえん」
「歯痒いもんだな、奴さんが動かなきゃ見つけられないってのは」
「仕方あるまい。認めたくはないが、力は奴の方が圧倒的に上なのだからな」
アルの言葉に、九朗もまた苦渋に満ちた表情を浮かべる。
「まぁ、何にせよ、だ。奴のクソ下らない企みは徹底的に叩き潰す」
「その意気だ。汝が暗い顔をしても、何も解決はせんのだからな。妾達は、闘う事を選んだのだから」
「あぁ、他ならぬ俺自身がそう望み、奴を滅ぼすと誓ったんだ」
九朗はそう言って、揺ぎ無き決意を込めた瞳で遥か彼方を見つめた。
クリスマス一色に染まった街からは、聖なる御子の生誕を祝う唄が微かに聞こえる。
アルは九朗の隣に立ち、風に乗って届く音楽に合わせ歌っている。
その唄を聴きながら、九朗は全力で走り抜けてきた日々に想いを馳せていた。
V.
光。
眠りの闇も、瞼の裏の闇さえも貫く、圧倒的な光の気配を感じて、九朗は眠りから目覚めた。
闇。
瞳を開けた九朗の目に映ったのは、何処までも眩い白い闇だった。
白く、激しい闇は、ともすれば自身の体すら見失ってしまう程の物であり、意識すらも溶けそうな程だった。
(これは……いったい……)
見渡す限りの白い闇の中で、九朗は状況の把握を試みる。
まず、己は何をしていたのか?
(そうだ、俺は、奴と、マスターテリオンと闘って……)
朧気な記憶を必死に引き出す。
闘いの結末。
シャイニング・トラペゾヘドロン。
邪神の姦計。
(アルが『撃つな』って叫んで、それでも止まらなくて、ナイアさんが、否、ナイアルラトホテップが嗤って……)
無限の螺旋。
定められた絶望。
囚われる魂。
世界の陵辱。
狂ったセカイの解放。
(アレから全てのカラクリを明かされて、誘惑を受けて、それを撥ね退けて……)
完全なる闇のセカイ。
邪神の抱擁。
強引に引きずり出される快楽。
けれど、屈することは無く。
『悪りぃな、ナイアさん。俺、アンタのこと嫌いじゃなかったけど……』
絶望を理解しながらも、それを否定し。
『どうも俺、やっぱりロリコンだったみたいでさ。
あいつの綺麗な体を知っちまってる以上、てめぇなんざ汚すぎて抱く気にもならねぇんだよ!
このババァがっ!!!』
想いを力とし、闇を打ち砕く。
『人間を侮っちゃいけねぇな! 解ったかい? カ・ミ・サ・マよぉぉぉ!』
(そうだ。俺は知ったんだ……)
―――侵されていた。犯されていた。冒されていた。
為す術も無く邪悪に貪られていた。
理不尽に、無意味に、ただ陵辱されていた。
未来に繋がる事無く殺され続けていた。
それは子供の明日を奪われた母親の嘆き。
それは子供の明日を護れなかった父親の怒り。
それは穢され続けてきた世界の、無力な憎しみ。
遥か過去を見つめた。
そして、未来を見つめている。
―――それでもそれは、怨嗟ではなく。
それは正しき怒りと憎悪。
涙を流し、血を流し、それでも歩くことを止めない、
いつしか希望へと辿り着こうという熾烈な命の叫び!
全ての怒りと憎悪を清め、我が子に未来を遺したいと願う親達の優しき祈り!
(二つのトラペゾヘドロンは融合し、一つとなった)
『な……な……何をしたぁぁぁぁぁ! 大十字九朗っ!!!!』
脳裏をよぎるのは邪神の驚愕。
『有り得る筈が無い……!』
『人間如きにそんな真似が……』
そして、魔人の当惑。
『人間だから出来るのさ』
(そうだ、人間だからこそ……)
『アル。側に居てくれ。お前と一緒なら……何だって出来る!』
(大切な者と一緒だからこそ、俺は奴に打ち勝てたんだ)
邪神の思惑を超え、宿敵を無限の螺旋から解放した。
(それから……それから?
アルと二人で、動けなくなったデモンベインの中から星を見てた。
あぁ、そうだ。
生死を超越しちまったことになんとなく気付いて、
アルの態度でそれを確信したんだっけか)
『九朗、汝は……』
『いいんだよ。二人で過ごす永遠だ。なんにも恐れることなんかないじゃないか
だって俺は――。アルが大好きだから』
『……ありがとう』
アルの、心の其処から嬉しそうにしている顔を思い出す。
(ああ、そうか。それで……)
『しかし……流石に今回はしんどかったな』
(俺は、あの極限の戦いで疲れ果てて……)
『ちょっとだけ眠るわ。アルも寝たほうがいいぞ。どうせ腐るほど時間はあるんだからな』
(眠ったんだよな……
しっかし、思い出したのはいいが結局何もわからずじまいだな)
「――九朗」
そんな中、すぐ側から少女の声が聞こえてきた。
強く抱きしめてみると、確かに腕の中に彼女の存在を感じる。
「何が起こってんだ?」
「妾にも解らぬ。しかし、これは――」
光は圧倒的で苛烈ではあったが、暴力的ではなかった。
喩えるならば、その激しさは力強い生命の力。
優しい命の息吹だ。
そして、その光の向こうに――。
歌を、聴いた。
―――祈りの込められた歌だった。
願いの託された歌だった。
誓いに絆(ほだ)された歌だった。
あるいは愛の歌のように。
あるいは凱歌のように。
あるいは子守唄のように。
其れは、戦う誇りに満ちた歌だった。
其れは、護る優しさに満ちた歌だった。
其れは、ただただ、生きる喜びに満たされた歌だった。
途絶えることの無い、消し去ることの出来ない、其れは――。
其れは生命賛歌だった。
光の向こうで、歌に合わせて舞う影が見える。
少女のような影が、青年のような影が、あるいはその両方が。
姿を変え、容(かたち)を変え、流れを変えて舞う。
やがて舞は終わり。
光の向こう、二つの影から、九朗たちに向かって手が差し出された。
そして、光に刻まれた印が見えた。
それは、見慣れた印。
五紡星の紋章、旧き印(エルダーサイン)。
其れが解(ほど)け、魔術文字の線となって二重螺旋を描く。
そして九朗は識った。
二重螺旋の中央で、強大な存在が紡がれる。編まれてゆく。
勇壮で、精密で、強靭で、なによりも美しい存在が、圧倒的な気配の爆裂と共に顕現する。
九朗たちは、同時に思った。
――神?
九朗は、声を聞いた気がした。
其れは問いかけ。
人であることを超え、人であることを棄て、遥かなる高みへと至ることを望むか、と。
邪悪なる神を討ち滅ぼすため、理不尽に犯される人々を救うため。
己の全てを棄てても、その場所へと辿り着くことを望むのか、と。
「ああ、俺は望む!」
「九朗!? 早まるな、もしここから一度踏み出せば、もう戻れないのだぞ!」
「大丈夫だよ、アルが一緒に居るんだから。
言ったろ、お前と一緒なら、何だって出来るって」
「九朗……」
「それに、後味わりぃじゃねーか。
我が身可愛さに、見過ごすのはさ。
俺たちにしか出来ないんだ。
なら俺は、迷わずに進む!」
「全く……だが、そうだな。汝はそうでなければ。
それでこそ、妾の愛した男だ。
なれば、妾も共に歩もう。
妾と汝は、二人で一つだ!」
「当たり前だ。お前が居なきゃ、はじまんねぇよ!」
決意の言葉に応え、光が一際強くなる。
九朗とアルは、その光の中で、決して戻ることの出来ない一歩を踏み出した。
そうして、全ての理不尽を憎む、善き神が。
最も新しき神、旧神――エルダーゴッドが、産まれた。
W.
ドォォォォォン…!
「な、なんだっ!?」
突如として響き渡った轟音で、九朗は現実に引き戻された。
慌てて音のした方向を見ると、商店街の外れの辺りから、黒煙と赤い炎が見えた。
商店街の方ではパニックが巻き起こっている。
そして、煙と炎の向こう、僅かに垣間見えたのは…
「竜!?」
「何故このような場所に…? 否、判りきったことか」
「あぁ、どうせあのクソッタレな邪神の仕業だろうよ!」
それは、歪な姿をした漆黒の竜だった。
巨大な体、その体長は100メートル近くある。
――GylooooooooooooooNN!!!!
捻じ曲がった翼を大きく広げ、天に向けて禍々しき咆哮をあげる。
聞いた者の精神を蝕む、邪悪な怨嗟。
竜を中心に、辺りは瘴気に満ち、大気は重く沈む。
「チッ、拙いな」
「うむ、これほどの瘴気、普通の人間にとっては致命的だ」
――GYOoooloyooOooOonN!!!!
二度目の咆哮。
それに応じるかのように、竜の周りに幾つもの黒い光の球が生まれる。
その球が弾け、中から現れたのは黒い翼を持つ異形のヒトガタ。
竜ほどではないが、それでもその巨体は20メートル近い。
その数、60。
竜の周囲に浮かんだまま、口々に耳障りな叫びを上げている。
「何だありゃ!?」
「解らん。だが、魔の眷族であることは間違い無さそうだ」
「どっちにしろ、敵っつーことか」
「そういうことだ」
――GoYLoooOooOOOooooooNnmnN!!!!!!
三度目の咆哮と共に、竜が動き始める。
黒き翼の従者を従えて。
その歩みの先にあるのは。
「いかん、奴等街の方に行くつもりだぞ!」
「チッ、行くぞ、アルッ!!」
「うむ!」
刹那、九朗とアルの姿が光に包まる。
光が収まり、現れたのは漆黒のボディスーツに身を包んだ九朗。
その肩の辺りには、人形サイズになったアルが浮いている。
九朗は剣指を作り、五紡星の紋章、旧き印を紡ぎ、アルと共に高らかに聖句を謳う。
己が半身、理不尽を憎む者、魔を断つ剣、無垢なる刃を召喚する詞を。
「「憎悪の空より来たりて!!!!
正しき怒りを胸に!!!!
我等は魔を断つ剣を執る!!!!
汝、無垢なる刃!!!!
デモンベイン!!!!!」」
空間が爆砕し、遥かなる彼方より、善き神が舞い降りた。
醜悪な竜達の行く手を阻み、立ちふさがる。
竜達もまた、デモンベインから距離を置いたまま、歩みを止めた。
「よく来てくれたね、ボクの愛しい九朗!!!」
動きを止めた両者に、禍々しい喜びの声が降り注いだ。
竜の頭の上に黒い光が生まれ、それは人の形を取った。
「ナイアルラトホテップ!!」
「嬉しいなぁ、今度もまた、ボクと踊ってくれるのかい? 愛しい愛しい九朗!」
「言ってろ! 今度こそテメーの息の根を止めてやるさ!!」
現れたヒトガタは、妖艶な女性の姿をしていた。
「さぁ、愛しい愛しいボクの九朗。キミへの、そしてボク自身へのクリスマスプレゼントだ。
存分に楽しみ、楽しませておくれ!」
女性――ナイアルラトホテップの言葉に応じるかのように、竜と、翼を持つ異形どもが吼えた。
X.
――KyololoooloOlLoyYo!!!
奇声を発しながら、翼を持った60匹もの異形達がデモンベインへと襲い掛かる。
「甘い」
突出している五匹ほどを見据え、九朗は呟く。
「バルザイの偃月刀」
言葉と共に右手に顕現した剣を、デモンベインが振り抜く。
すぐ近くにまで近寄っていた一匹が、音も立てず二つに両断された。
返す刀で、次の一匹を切り伏せ、舞うように次々と仕留めて行く。
十匹ほどが切り捨てられると、異形たちは近づくのを止め、距離を取る様になった。
偃月刀の刃が届かぬ位置に止まって、口を大きく開けた異形の口腔に、凶悪な光がうまれる。
「ブレスか? だが!」
――kYoooooooooooogin!!!!!
耳障りな声と共に、禍々しい光の奔流がデモンベインを襲う。
辺りを、まるで真昼の如き光が照らし、デモンベインを中心に大爆発が起こった。
――KYokYloooooooololo!!!!
その様を見た異形達が、醜悪な歓喜の声を上げる。
――斬。
濛々と立ち上る爆煙の中から飛来した何かが、異形のうちの一匹を斬り裂いた。
煙が晴れ中から現れたのは、旧き印による魔術障壁を展開し、無傷のまま悠然と佇むデモンベイン。
異形を斬り裂いたのは、デモンベインが投擲したバルザイの偃月刀だ。
「鬱陶しいな。ちと数を減らすか」
デモンベインのコクピットで、九朗が呟く。
「ロイガー。ツァール」
デモンベインの両手に、二振り一組の短剣が顕現する。
その柄尻を合わせ一振りすると、短剣は四枚の刃を持つ巨大な手裏剣状へと変貌した。
そして、丁度戻ってきた偃月刀を左手で掴み、再び構え。
「細切れになりやがれ!」
叫びと共に同時に投擲。
――斬! 斬!! 斬!!! 斬!!!!
宙を自在に飛ぶ二つの凶器が、異形を次々と斬り裂いていく。
「止めだ!」
叫び、九朗は――デモンベインは、両の手をかざす。
「フォマルハウトより来たれ――」
右手に赤い光が集う。
其れは焔。
「クトゥグァ」
手の中で、光は形を為す。
重厚なる黒。苛烈なる赤。装飾を施されながらも無骨。何より凶暴。
自動拳銃(オートマチック)『クトゥグア』。
「風に乗りて来たれ――」
左手に銀の光が集う。
其れは風。
「イタクァ」
手の中で、光は形を為す。
精錬された銀。耽美なる銀。研ぎ澄まされた刃の如く美麗。何より冷酷。
回転式拳銃(リヴォルバー)『イタクァ』。
「雑魚共はすっこんでろ! クトゥグァ、イタクァ。神獣形態!!」
――砲!
轟音と共に、それぞれの銃から一発ずつ、弾丸が放たれた。
赤と銀の光を纏った銃弾は、飛翔しながら徐々に姿を変えていく。
赤の弾丸は、超高温の焔を纏った真紅の獣に。
銀の弾丸は、極低温の冷気を纏った白銀の竜に。
二匹の神獣が空を裂いて駆け、残った異形達の尽くを飲み込み、滅ぼす。
そして、そのままの勢いで、漆黒の巨竜へと向かった。
「おやおや。やっぱり急造の眷属程度じゃ、今の君達には役者不足か。でも……」
竜の上で邪神が嗤う。
――gLyOLLOLOLOLNLUOOJOMOONOO!!!
焔に焼かれ、冷気に覆われ、巨竜が苦悶の叫びを上げる。
「よし、効いている。九朗、一気に決めるぞ!」
「あぁ、行くぜぇぇぇぇっ!!!」
――イタイイタイイタイイタイ!!!
唐突に二人に聞こえた、幼い少女の声。
その声は、眼前の巨竜から――。
「あっはははははは! そう、そうだよ。この竜はね、哀れな女の子さ!
世界が憎いと、そう言っていたからね。ボクが力をあげたのさ。
竜を殺せば、女の子も死ぬ。
さぁ、どうするんだい? ボクの愛しい九朗!」
「なっ!?」
「うつけ! 集中せぬかっ!!」
邪神の言葉に、九朗が戸惑う。
その瞬間、竜は焔と冷気を振り切り、デモンベインへと体当たりした。
「しまッ!? ぐ、あぁぁぁぁ!!!」
「くぅぅぅぅぅぅ!!」
巨竜はデモンベインの二倍近い体躯をしている。
その重量をまともに受けたデモンベインは、激しい衝撃に吹き飛ばされた。
「あはははは! 甘い、蕩けるように甘いよ、九朗!!
見ず知らずの人間のために、攻撃を躊躇うなんて。
どうするんだい? このままやられるかい?
さぁ、もっと、もっと君の叫びを聞かせておくれ!!!」
「チッ、好き放題言いやがって……」
「全く、本当に奴の言葉はいちいち耳障りだな!」
デモンベインが、身を起こす。
だが、竜はそれを待ってはくれない。
距離を詰めた竜は、その巨大な顎をもって、デモンベインに噛み付く。
そしてデモンベインを地面へと、幾度も叩きつける。
「ガァァァァァァッ!!」
最後に放り投げられ、デモンベインはビルに激突して止まった。
「クソッ、結構効いたな……」
倒れ伏したデモンベインの各部では火花が散り、そのボディには鋭い牙の跡が残っている。
――GllyoooooooooNN!!!!
倒れたままのデモンベインに、追撃しようと巨竜が咆哮をあげながら迫る。
「拙いぞ、九朗!」
「解ってるよっ! くそ、迂闊に攻撃はできねぇ……。
なら、こうだ! アトラック・ナチャ!!」
紡がれ、編み上げられた呪とともに、デモンベインの光の鬣が蜘蛛の巣状に広がる。
魔力の糸となった鬣による捕縛結界に囚われ、竜の動きが止まった。
――GyoooooooooolooonN!!!!
絡み付く糸を何とかしようと竜がもがいている隙に、デモンベインは何とか立ち上がった。
「チッ、思ったよりもダメージがでかい」
「どうするのだ、九朗。アトラック・ナチャもそう長くは持たんぞ」
「クソッタレが……!」
迷いを棄てられぬまま、デモンベインは巨竜と対峙する。
Y.
――GulooooooooooooooooNN!!!!
一際大きな咆哮と共に、巨竜を縛っていた結界陣が弾け飛ぶ。
「く、予想以上に早い……!」
九朗の表情に苦いものが浮かぶ。
「バルザイの偃月刀!!」
両手に持っていたクトゥグァとイタクァを一旦消し、バルザイの偃月刀を再召喚する。
(どうする……どうすればいい!?)
九朗は必死で自問する。
だが、巨竜はそんな九朗を構う事無く攻撃を仕掛けてくる。
――GULOOOOOOOOOOOONN!!!!!
巨竜の攻撃を只管に偃月刀で受け流し、もしくは回避するデモンベイン。
攻めに出ることの出来ないまま、ジリジリと押されていく。
竜の爪が機体を掠め、竜の牙が装甲を抉り、瘴気に満ちた吐息が魔力を奪う。
(クソ、これじゃぁジリ貧だ……!)
時折反撃に移るが、迷いを振り切れず、さしたるダメージは与えられない。
けれど、竜が傷を受けるたび、少女の苦悶が、怨嗟の声が響く。
「ッ!! 拙いぞ、九朗! これ以上は下がれん!!」
アルの言葉に後方へと気を回すと、商店街がすぐ其処にまで迫っていた。
このまま下がり続ければ、大量に巻き込まれる人が出てしまう。
「クソッ! アル、アイツをあの荒地まで吹っ飛ばすぞ!」
「解った! 断鎖術式、一号クリティアス、二号ティマイオス、解放!!」
「オォォォォォッ! アトランティス・ストライク!!!」
強大なエネルギーを伴った必殺の蹴りが、巨竜を捕らえる。
竜の巨体が浮き、1km程の距離を派手に吹き飛び、荒地の真ん中に落下した。
――イタイヨウ……イタイヨウ……ドウシテ……ドウシテ、ワタシガコンナメニアウノ?
少女の声が響く。
其れは怨嗟。
其れは呪詛。
純粋であるが故に、邪神に歪められた少女は呪いを振りまく。
――ワタシハワルイコトナンテシテナイノニ……ナンデミンナ、ワタシヲイジメルノ?
「あははははは!! そう、そうだね。君は悪いことなんてしてないね。
でも、決して幸せになれない。なんでだろうねぇ?
悪いことを沢山してても、お金持ちで、ぬくぬく暮らしてる連中も一杯居るのに」
――ソウダ……ワルイコトヲシテモ、シアワセニナッテルヒトタチガタクサンイル……
ナノニナゼ、ワルイコトナンテシテイナイワタシガ、シアワセニナレナイノ?
少女が呪詛を吐き出す。
世界が瘴気に侵される。
「……ふざ、けるな」
「ふふふ、可哀想にねぇ。悪いことをしていない君が幸せになれない世界なんて、間違っているよねぇ?
だから、壊しちゃおう。今の君には、それだけの力があるのだから!」
邪神が囁く。
歪な笑みを浮かべ、腐り落ちた果実のような甘さを含んだ、妖艶な声で嗤う。
少女を、暗く冷たい絶望の水底へと誘う。
――コワス……コワス……コンナセカイナンテ、ミンナコワレテシマエバイイ!!
――GULOOOOOOOOOOOOOOOOONNNNN!!!!!!
竜が吼える。
怨嗟を、呪詛を振りまき、世界を蝕むために。
邪神が嗤う。
途轍もなく耳障りな声で。
「そうだ、壊してしまおう! こんな下らない世界に、復習するんだ!!!」
「ふざけてんじゃ、ねぇぇぇぇッ!!!!!」
――轟!!!!!
九朗が叫んだ。
邪神の哄笑も、竜の咆哮もかき消すほどの凄烈な声音で。
「甘ったれてんじゃねぇぞ……あぁ、お前は恵まれてないのかもしれない。
悪いことをしても、裁かれることも無くのうのうと暮らしてる奴も居るだろう。
けどなぁ、恵まれてなくたって一生懸命に生きてる奴は居る。
幸せになろうとしてる奴だって居るんだ。
それを、その努力を、そんなくだらねぇ八つ当たりで、壊すだ?
ふざけんのも大概にしろっ!!!」
デモンベインの双眸に、これまでに無いほどの強い意思の光が宿る。
それと同時に、少女の呪詛によって生み出され、世界を蝕んでいた瘴気が吹き散らされた。
そして、デモンベインを中心に、世界は清められていく。
「拗ねてるだけじゃぁ幸せになんてなれるわけねぇだろうがよ!
諦めて、努力を放棄して、安易な力に縋っちまったお前に!
今も努力し続けてる奴らの未来を奪う権利も!
幸せに暮らす、ごく普通の人々の未来を奪う権利も!
ありはしねぇんだよッ!!!」
九朗の意思に応じ、圧倒的な魔力がデモンベインに満ちる。
それに合わせ、デモンベインの各部にあった傷跡が、消えていく。
「まってろよ、今からキツーイお仕置きをくれてやる。
それで、あんな下らない邪神なんぞに唆されたことを後悔させてやるよ!」
九朗は竜を見据え、言い切った。
Z.
「ナイアルラトホテップ!
テメェの下らない話も飽き飽きだ。
このひねたお嬢ちゃんにお仕置きをした次はテメェの番だ。
覚悟しやがれ!!!」
「おぉ、怖い怖い。でも、九朗。どうするんだい?
竜を攻撃すれば、女の子も傷つくんだよ?
それとも、女の子ごと竜を滅ぼすのかな?
さぁ、教えておくれ!」
九朗の言葉を聞き、おどけたように邪神が応える。
「は、決まってんだろうが!
女の子を助けて、竜を滅ぼすんだよッ!」
邪神より返された問いかけに、九朗は迷う事無く返事をする。
強い意志を持って、真っ直ぐに。
「は、はは、はははははは!
とんだ理想論だね。でも確かに。君ならそう答えるのか。
否、そんなのは解りきってたことか。
でも、どうやるつもりだい?
彼女と竜は完全に一体化している。
君の言ってることは実行不可能だよ?」
邪神の哄笑が響く。
だが、九朗はそれを意に介することも無く、思考を疾走させる。
「アル。俺はこれから、女の子を竜から引き剥がす方法を探す。
その間、デモンベインの操縦を頼む」
「フン。全く、汝のお人よりは相変わらず、か。
しかし、それでこそ妾の主。
良かろう、デモンベインの操縦は任せよ。時間は稼いでやる」
「任せた!」
アルの言葉に満足げに頷き、九朗は思考の海に沈む。
(探せ……探せ……探せ……! 必ず、手はある。
無ければ、作り出せ。必ず、女の子を救い出す……!)
九朗の目に映る風景が、モノクロになる。
時間は粘性を帯び、世界を編み上げる理の一つ一つを、九朗は知覚する。
そして。
(見つけた……!)
九朗が見つけたのは、僅かな綻び。
九朗に叱られ、戸惑いを覚えた少女の心に出来た、小さな疑念。
「アル、行くぞ!」
「どうするのだ?」
「まずは奴さんを弱らせる。全てはそれからだ!」
「承知!」
デモンベインの背の翼から、魔力のフレアが噴出す。
「さぁ、お仕置きの時間だ!
ちょっと痛い思いをするだろうが、我慢しろよ」
叫びと同時に、疾走。
デモンベインが爆発的な加速をもって、前に出る。
――GULYOoooooooooooooooooOOOooNnnNNN!!!!!
巨竜はデモンベインの動きに反応し、咆哮とともに強力なブレスを吐き出す。
「旧き印を!」
「待て、アル。必要ない!」
「なっ!? 何を言うのだ。幾らなんでも耐え切れるはずが無かろう!?」
「耐える必要なんざねぇさ。クトゥグァ!!!」
加速はそのままに、デモンベインの右手にクトゥグァが召喚される。
「クセェ息なんざふっ飛ばしちまえ! クトゥグァ、神獣形態!!!!」
――砲!!
爆炎を伴った神性が、瘴気に満ちたブレスを吹き散らし空を駆ける。
その後を追うように、デモンベインは更に加速。
一瞬で距離を詰めると、巨竜の眼前で深く屈み込む。
「クリティアス、ティマイオス解放!! アトランティス・ストライク!!!」
屈んだ姿勢から伸び上がる動きをもって、巨竜の顎を下から蹴りぬく。
真上に向かうベクトルを与えられた竜の巨体が、宙を舞う。
「イタクァ!!」
――弾! 弾! 弾! 弾! 弾! 弾!
空中で召喚したイタクァの銃弾を、一瞬で撃ちつくす。
解き放たれた弾丸は、不恰好にも回避を行おうとした巨竜を追尾し、撃ち抜く。
――GYOGLOGJGOUOGASGLJOGOL!!!!
――イタイ! イタイ! イタイ!!
轟音とともに巨竜が地面に叩きつけられる。
少し離れた場所に、軽やかに着地するデモンベイン。
――GYOLOLOOOOOOONNALNONN!!!!!
――キライダ! ミンナキライダ!!! ダイッキライ!!!!
一際強い少女の怨嗟の念。
巨竜は歪な動きで跳ね起き、デモンベインへと突撃する。
――GYOOOOOOOOOOOOOOOOO!!!!!
――コワレチャエ!!!
咆哮とともに、巨大な爪が振り下ろされデモンベインを捕らえる。
しかし。
――凛!!
澄んだ音と共に、デモンベインの姿が割れ、砕けた破片が竜へと襲い掛かる。
「残念だったな、そいつはニトクリスの鏡の虚像だ!」
声と同時、竜の後方に降り立ったデモンベインがバルザイの偃月刀を振るう。
――IiIoOllnoJojomgojogjsroja!!!!!
どす黒い血が溢れ、竜が苦悶する。
「そろそろ終わらせるぞ、アル!」
「応!」
九朗の思考が更に加速する。
歪な存在である竜と少女の、その境を正確に知覚する。
「其処だ!」
バルザイの偃月刀が竜の背中を切り開き、其処にデモンベインの手刀が突き刺さる。
――GYOGJJOGUAOFJAGJOASDJGLAJSIFJAKMG+JALDJBHOAMWFGVJ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
そして、引き抜かれたデモンベインの手の中には。
ぐったりとした少女が包まれていた。
「アトラック・ナチャ!!!」
捕縛結界を構築し苦痛にのたうつ巨竜を捕らえ、デモンベインはその隙に距離を取る。
手の中の少女が気を失っているだけであることを確認すると、少女を一旦コクピットの中に連れ込む。
「さぁて。アル、決めるぞ!」
「あぁ。何時までもその娘を乗せておくわけにも行かんしな」
デモンベインの右手に、凄まじい魔力が集中する。
それこそが、魔を断つ剣最強の必殺技。
全ての邪悪を焼き尽くす、浄化の焔。
第一近接昇華呪法。
「汝ら邪悪、光射す世界に住まう場所無し!
渇かず! 飢えず! 無に、還れっ!!!
レムリア・インパクトォォォォッ!!!!」
右の掌で超高密度に圧縮された魔力球を、竜に押し付け、その場から離れる。
「「昇華!!」」
言葉と共に空間が爆縮し、無限の熱量が巨竜を焼き尽くす。
辺りは閃光に包まれ、それが消えた後に残ったのは巨大なクレーターだけだった。
「さぁ、こっちの方は付いた。後はテメェだけだな、ナイアルラトホテップ!!」
勝利の感慨に浸ることも無く、九朗は宙に浮かぶ邪悪を見据える。
「参ったな。まさか本当にやっちゃうとは思わなかったよ。つくづく君には驚かされてばかりだ」
鋭い眼光を受けて、それでも邪神は嗤っていた。
[.
「年貢の納め時だぜ、邪神様よ」
「いい加減この下らぬ鬼ごっこを終わらせてゆっくりしたいのだ。大人しく滅ぼされるがよい」
九朗とアルが口々に言う。
「酷いなぁ。ボクに滅びろって言うのかい?」
「あぁ、テメェの存在は百害あって一利なし、だからな」
「やれやれ、だね。とは言え、真正面からやりあうのは勘弁してもらいたいねぇ。
何しろ、君が助けた子にそれなりに力を与えちゃったからねぇ」
おどけた仕草のまま、邪神が言う。
徐々に、デモンベインから離れながら。
「そいつはいい事を聞いた。つーことで、滅ぼしてやるから逃げんじゃねぇよ」
「物騒だねぇ。でも、いいのかい? コクピットの中には女の子が居る。
ほんの少し先には商店街だ。それを護りながら戦うのかい?」
邪神が嗤う。
「出来ないよねぇ? 君はそういうモノだから。
ふふふ、慌てなくてもいいじゃないか。ボク等には無限の時間があるんだから」
言いながらも、見る見るうちに距離は離れていく。
「それじゃぁ、ボクは先に行ってるよ。次の世界でも、楽しませておくれ。
ボクの愛しい愛しい九朗!」
その言葉を残し、邪神の気配は霧散した。
「ちっ……またおっかけっこか」
「仕方あるまい。大した被害が出なかっただけでもよしとしよう」
「……だな」
一つ、ため息を吐いてから、九朗は先ほど助け出した少女を見た。
多少衰弱しているようだが、目立った外傷は無い。
「さて、こっちはどうするかね?」
「ふむ、少し記憶を弄って、適当な場所に降ろしてやればよいであろう」
「つか、それ以上のことは出来ないか……」
「うむ」
一応の結論を得た後、九朗は商店街の方を向いて更に深いため息を吐いた。
「……ふぅ。隠蔽用の魔術使わにゃ拙いかなぁ?」
「放っておいても問題は無かろうが……知ったままでは、怪異に巻き込まれる確率は上がるだろうな」
「だよなぁ……あの手の術は得意じゃないんだが」
ぼやきつつも、九朗は呪を紡いでいく。
「サポートはしてやる。さっさとしろ」
「へいへい」
アルのサポートの元、魔力を以って式を編み、術を構成していく。
出来上がった部分からデモンベインへと送り込み、術の機能や範囲を増幅する。
「準備はよいか?」
「おう、いつでもいけるぞ」
「よし、術式を起動する」
デモンベインを中心に、魔方陣が組まれ、光が弾けた。
「これで良かろう。魔術的な素養のあるものは、若干記憶に残っているかもしれんが。
まぁ、それ以外のものは適当な記憶が補完されておるはずだ」
「うし、んならこの娘の処置をして、あのクソッタレを追いかけますか」
「そうだな」
そういって九朗は新たな呪を紡ぎ、少女に術を施した。
“Silent night, holy night……”
「ん……あ、れ? 私、こんなところで何してるんだろう……?」
大きなクリスマスツリーの下で、少女が呟いた。
商店街の真ん中に飾られた、立派なツリー。
綺麗な飾りが沢山ついていて、イルミネーションが幻想的に輝いている。
「……なんだか、長い夢、見てた気がする」
ふと、少女の脳裏を過ぎったのは。
駄々を捏ねている自分と、それを叱る男の人のイメージ。
“Sheperds first see the sight……”
「あ、あれ? なんでだろ…」
一滴、少女の瞳から涙が零れた。
「甘ったれるな、か……」
“Told by angelic Alleluja……”
(最後に叱られたのは何時だったかな?
随分前に両親を亡くして、孤児院に入って。
皆が私に無関心で。私も皆に無関心で)
ぽろぽろと、涙の雫が溢れては落ちる。
少女は、何かを忘れている気がしていた。
それは、辛かったり、哀しかったり、あまりいい事ではく。
けれど、誰かに叱ってもらえた気がしたのだ。
理不尽に“怒られた”のでは無く、想いを込めて“叱られた”。
“Sounding everywhere, both near and far……”
ふと、何かの気配を感じて、少女は商店街のアーケードから外へ出た。
空からは白い結晶が舞い落ちてきている。
雲の切れ間から見える月はまん丸で、煌々と金色に輝いていた。
「ホワイトクリスマスかぁ……」
降り積もる冷たい雪を感じながら、少女が呟く。
「サンタさんって、居るのかな……?」
呟き、空を見上げる。
“Christ the Savior is here……”
――翔!
「……え?」
少女が見上げた空を、何かが舞った。
僅かに、少女の目に映った姿は翼を持ったヒトガタ。
「天……使? それとも、神様?」
また、一滴。
少女の頬を、涙が伝う。
「あ……あ、りが……とう……」
無意識に少女の口を吐いて出たのは、感謝の言葉。
「あ、はは……うん、私は、だいじょうぶ。
笑っていられる。きっと、しあわせになってみせる」
少女は、覚えては居ないけれど。
でも、空を舞っていたあの影から、何か大切なものを教えてもらったのだと。
それが何かはわからないまま、けれどもう間違えないと、彼女は誓う。
“Christ the Savior is here……”
雪降る聖夜に、静かに喜びの歌が響いていた……。