雪が降っていた。舞い散る花びらの如く、ただ静かに深々と。
白に染まる公園の中で、彼女は佇んでいた。まるで一枚の絵の様に。
肩まである銀の髪が風に靡く。何か音でも聞こえたのだろうか、彼女はこちらを振り向き、その真紅の目から放たれる眼差しが俺を射抜く。
その双眸が驚きに見開かれる。彼女は少しずつ近いてきた。
そして、手の届くところまで来ると、言った。
「やっと、会えた…」
そして、力尽きたように俺に向かって倒れてきた。
Always Together
「何でこんな事になってるんだ?」
いつもは俺しか居ない部屋に、さっきの女の子がいる。
流石に目の前で倒れられたら放っておくわけにもいかないし、連れてきて布団に寝かせた訳だが。
俺の事を知ってる感じだったな。倒れる前に『やっと会えた』って言ってたし。
でも、こんな知り合いが居たら、流石に忘れないと思う。
整った顔立ちに、銀の髪と赤い目。ここまで特徴的な子を忘れるような頭はしてないはずだ。
(人違いか何かかな?)
そう思った時、「う〜ん」という声と共に、女の子が身じろぎし、目を開いた。
「気が付いたか?」
女の子に話しかける。
「…ここは?」
「俺が住んでるアパートの部屋。…ってどうした?」
俺の顔をじーっと見る女の子。
「……覚えて、ないの?」
不安そうな顔。
「…何をだ?」
眉を顰める俺。
女の子の口振りからすると俺を知っている感じだが、俺には全く覚えが無い。
少女は俺の言葉を聞くと、泣きそうな顔になり、「それだけ、だったのに…」と零すと、再び目を閉じてしまった。
「お、おい!」
呼びかけても目を開けようとしない。余程疲れていたのか、寝入ってしまったようだ。
男が一人暮らしをしてる部屋で寝てしまうとは、警戒心が無いんだろうか。
「どうすりゃいいんだよ…」
間違いを起こす気は毛頭無いが、女の子が居るというだけで落ち着かない。いっその事、朝まで外で時間を潰そうか。
そうは思うものの考え直す。知らない女の子を一人で家に置いておくような事は出来ない。
(仕方ない。寝れない事は覚悟するか)
予備の布団はあるし、とりあえず体を休めよう。
「おやすみ…」
誰にともなく呟く。
明日からどうなるのか、少しの不安を抱きながら俺は眠りについた。
「ここ、どこだっけ…うぅ…寒い…あ、こっち暖かいや…」
目が覚める。清々しいと言うには、少し空気が冷たすぎる冬の朝。
出来るならば、ずっと布団の中でまどろんでいたい。そう思う人は多いはずだ。
当然、今日も時間ギリギリまで粘る。冷たい空気には出来るだけ触れたくない。暖かいものに引き寄せられるのは、人間として当然だろうと俺は思う。
それが布団の中の空気であり、湯たんぽなどの暖房器具だ。ほら、俺が今抱きしめている、人肌の温かさの湯たんぽが。人肌…本当に人の肌みたいだな。すべすべしてるし…すべすべ?
湯たんぽがすべすべ!?
「何ぃ!」
布団をガバッと開ける。
そこにあったものとは。
「もう食べられないよぅ…」
などというベタベタな寝言を言っている、昨日出会った少女だった。
二人で食卓を囲む。無言のまま時が進む。
少女はさっきから俺の方をちらちらと見ては、俺が目を合わせると視線を外す。
何か、いい加減イライラしてきたな。
「はぁ…。どうしたんだ?」
聞くと、びくっとして俺を見上げる少女。
「………」
再び無言。耐え切れなくなった俺は、とりあえず無難な話題で話しかける。
「あー…俺は大地。日比野大地。お前は?」
「…そら。天って書いてそら」
「うん」
「……」
「……」
「…いや、天だけ?」
「?」
不思議そうな顔の天。
「だから、苗字とかあるだろ」
そう言うと、天は見るからに困った顔をする。
「…何かあるって事か。それじゃ天、どこに住んでるんだ?」
「……」
そして無言。
「それも言いたくないってか? だけど、それじゃ送り帰す事も――「あの!」…どうした」
どこから出たのかと思うような、今までの天からは想像も出来ない大きな声。それに驚きつつも何事かと尋ねる。
「私を、ここに置いてもらえませんか?」
「…は?」
固まる。え、何? 家に置いてくれ? 俺ってモテモテ? いや違う。落ち着け俺。ちょっと深呼吸だ。
すー、はー。よし落ち着いた。
「…ふぅ。あのな、どこの家出少女か知らんが、俺を巻き込むな」
妙な事になったら敵わん。面倒な事になるのは勘弁だ。
「………」
そう言うと、泣きそうな目で俺を見つめる天。
「いいか? ここは俺が一人暮らししてるんだぞ。常識的に考えても、自分の身が危険だと思わないのか?」
どう考えてもトラブルの元だよな。それに、この子の為にも、思いとどまらせなければいけない。
だが天は、俺の目を真っ直ぐに見て訴える。
「それでも、ここに置いて欲しいんです」
「…何でだ? ここに何かあるってのか?」
俺がそう聞くと、天はポツリと呟く。
「あなたが…」
「ん?」
「あなたが、居ます」
「…俺?」
え? それじゃ何か?
「天は、俺が居るからここに居たいって事か?」
頷く天。俺はますます混乱する。
「もう一度聞くけど、何でだよ? 少なくとも、俺はお前と会った覚え無いんだぞ?」
俺の言葉に悲しそうな顔をする天。
「…どうした?」
首を横に振る天。
「…いえ。でも…それでも、ここに居たいんです」
「だからな…」
「それでも」
なおも言いつのろうとする俺を遮る天。
「ここに、置いて欲しいんです」
困った。どう言っても聞きそうにない。かと言って、何かあってからじゃ遅いし。
ホントは、やりたくないけど…仕方ないか。
「悪いが、実力行使させてもらう」
天を立たせ、手を引く。
「どこへ?」
不思議そうな顔で俺を見る。非常に心苦しいが、心を鬼にしないと。
「………」
俺は答えず、天を外に連れ出す。
そしてアパートの入り口まで連れて行くと、言う。
「帰れ」
「え…?」
呆気に取られた顔。
「自分の、居たところへ、帰れと言ったんだ。俺は、お前を家に置いておく気は無い」
俺はそれだけを言い、踵を返す。
「あ…」
天が漏らした心細そうな声を振り切り、俺は独り、部屋に戻った。
部屋に戻った俺はテレビをつける。だが、画面も音も、何も頭に入らない。頭に浮かぶのは、さっきまですぐそこに居た、銀の髪の少女の事だけだった。
何故、少女――天は、あんなにも俺に拘ったのか。そして、何故俺はこんなにも天の事が気になるのか。
結局答えは出ないまま。無駄につけているテレビを消す。
「はぁ…寝るか」
立ち上がり、電気を消す。その時、ふと窓の外の風景が目に入った。
「っ! あいつ!」
俺が見たもの。それは、さっき別れた場所で立ち尽くす天の姿だった。
アパートの階段を駆け下りる。息を切らし、天が立っていた場所へ。
「…っはぁ、はぁ…。何、してんだよ、お前、は…」
ただ真っ直ぐに俺を見る天。
「分かんないです。ただ…」
無表情だった顔が、笑顔に変わる。
「待っていれば、いつか貴方が来てくれるって、信じてましたから」
その笑顔に顔が赤くなるのが分かる。それを誤魔化すように叫ぶ。
「俺は! …その、風邪をひかれると寝覚めが悪いって言うか」
「…はい」
「ああもう! 部屋に入るぞ!」
天に向かって手を差し伸べる。
「…いいんですか?」
不安な顔に変わり、俺の目を見る天。俺は目を逸らし、そっぽを向く。
「いいも何も…このまま放っておいたら、いつまでここに居るか分かったもんじゃないし。とりあえず、少しの間は…まあ、置いてやってもいいよ」
「…日比野、さん」
聞こえてくる涙混じりの声。重ねられる手のひら。それを遮るように大声を出す俺。
「ただしだ! 飯の準備とか掃除とかは交代制だからな! …それと」
天の手を引っ張りながら言葉を続ける。
「俺の事は、大地でいい」
天の顔が、再び笑顔に変わる。
「…はいっ! これからお願いします、大地さん!」
で、だ。
「く〜……す〜……」
何で朝起きたら、こいつはまた俺の布団に入ってるんだろうな?
昨日と同じ、二人で囲む食卓。食事を作ったのは俺。今日までは俺が家事その他をやり、今日中に天の家事能力を見ようと計画したのだ。
そして今の話題は朝の事。どうも寝ぼけてたらしいが、どうにか予防策を取らないと。こんな事が続くのはマズい気がする。
とは言っても…無意識の行動だからな。寝相とかなら、俺と天の布団の間を何かで区切っておけば済むんだが。
「天…どうにかならんのか?」
「…ごめんなさい」
済まなそうに頭を下げる天。
「自分でも覚えてないんです…」
「…追々考えていくしか無いか」
今やれる事は特別無いし、流石に毎日来る事は無いだろう。
「天、今日はお前に色々な家事をやってもらう」
「家事、ですか?」
「ああ、交代でやっていくにも、料理が苦手なやつに料理をやらせても仕方ないだろう。だから、今日は天の家事能力を見るんだ。とりあえずは…炊事・洗濯・掃除だな」
「はい、頑張ります!」
両手を体の前に持ってきて、むん!と握りこぶしを作って気合を入れる天。
「まずは…炊事は今終わらせたばかりだから、掃除か洗濯だな。って言っても、洗濯は近所のコインランドリーに行くだけだが」
「コインランドリーですか」
「ああ。洗濯物も溜まってるし、道案内も兼ねて、早速行くか」
「はい」
「それにしても、この待ってる時間ってのはやっぱり暇だな…」
洗濯物を、洗濯機に放りこんで終わるのを待つ時間。いつもなら本でも持ってきてるんだが、完全に忘れてたな。
だが、俺の言葉を聞いた天は楽しそうに言う。
「そうですか? 私はそうでもないです。こうして大地さんと話をしていれば、退屈なんて思わないですから」
「俺は、楽しんでもらえるような話を出来る人間じゃないぞ?」
俺が言うと、天は微笑み、答える。
「大地さんと話してる事が、楽しいんですよ」
「…あまり照れるような事言うな」
気を取り直そう。
「とりあえず、家に帰ったら次は掃除だな。とりあえずは部屋と風呂と…って、昨日一昨日とドタバタしてて、天は風呂に入って無いだろ。帰ったら入れよ。俺は外に出てるから」
不思議そうな顔をする天。
「何で外出されるんですか?」
「いやだって、風呂入るんだろ? 男が部屋に居ると入りづらいだろ」
「…大地さん、何かするつもりなんですか?」
体を隠すジェスチャーをする天。
「ア、アホ! する訳ないだろうが!」
天の問いに慌てて否定をする俺。
すると天はにっこりと笑う。
「なら大丈夫ですよ。信じてますから」
そこで俺はふと思う。
「…なあ、天」
「はい?」
「大切な事忘れてたんだが、お前、荷物とか何も持って無かったよな?」
「はい」
「普通の服とかもだけど…下着の替えとかは?」
「…あ」
「天は店とか知らないし、俺が一緒に買いに行くしかないのか…鬱だ」
「疲れた…」
買い物から帰ってくると、11時頃になっていた。
因みに、洗濯が終わり、家に一時帰宅したのが10時。その1時間の間に何があったのかは、俺の尊厳と名誉の為に伏せておく。あえて言うのなら…噂好きのオバちゃんみたいな店員さんだった…。
「時間が時間だから、昼食…炊事が先だな。ついでに材料も買って来たし」
「頑張ります!」
「おー、力入ってるな。その調子その調子」
果たしてどうなったかと言うと。
「人間、向き不向きがあるよな…」
力が入ってたのはいいのだが、少々入りすぎてた模様。何て言うか、包丁捌きとかが凄く怖い。
そして、そこにある食材を、適当にぶち込む。調味料を大雑把に入れる。
出来上がったものは、食べ物の色と匂いをしていなかった。
「なあ、料理した事ないだろ」
「……うぅ」
「大体の物は食べれる自信があるんだが…これは流石に」
試しに味を見てみたら、何か形容し難い味だった。
「…炊事は俺の当番になりそうだな」
「……お願いします」
かなりガックリしているが、俺も命は惜しい。当分の間、天が厨房に立つ事は無さそうだ。
「さて、最後は掃除だ。俺も手伝うから」
そう言うと、天は俺を手で押しとどめる。
「掃除には自信が有るんです。私にやらせてもらえませんか?」
顔を見てみると、どうやら本当に自信があるようだ。
「分かった。やってみな」
「はい、見てて下さい」
――1時間後
「これが俺の部屋?」
目の前には、見違えるように綺麗になった部屋があった。
「すげーな、天…」
「料理はやらせてもらえなかったですけど、掃除は好きでしたから、たくさんやってたんです」
「うーん」
俺が、どれだけ手を抜いてたのかが分かるなぁ。
「さて、今日一日色々やった訳だが、料理は俺で、掃除は天って事で異存ないか?」
俺の提案に頷く天。
「問題は洗濯だが…交代で行くか」
天は少し考えたあと、言った。
「…それなら、今日みたいに、二人で一緒に行きましょう」
「わざわざ二人で?」
「二人なら、きっと楽しいですよ」
だから、そう無邪気に言われたら、何も言い返せないんだっての。
「まあ、重い荷物を一人で持って行かせるのは忍びないし…それでいいか」
「はい、楽しみです」
「楽しみねぇ…。天は前向きだな」
天は、輝くような笑顔で答える。
「楽しいですよ。ちょっとしたデートみたいなものですから」
何で天はそういう事をサラッと言えるんだろうな。聞いてるこちらが恥ずかしい。
多分赤くなっているだろう自分の顔を隠す為に、天から顔を逸らす。
「どうかしましたか、大地さん?」
「な、何でもねーよ。いいから夕飯作るぞ」
「はい。私も何か手伝います」
「……食器出し、頼むな」
「その間が気になるんですけど…」
「積極的に気にするな」
それからも、執拗に聞いてくる天をスルーしつつ、賑やかな夕食の準備が進んで行った。
夕食時、俺は今日の事を考えていた。
ある程度打ち解けた今、疑問に思ってた事を聞いてみようと思う。
「天、ちょっといいか?」
「はい?」
小首をかしげる天。
「お前ってさ…どうしてこの街に来たんだ?」
俺が問うと、急に表情が消える天。
「………」
そして沈黙。天の顔に浮かぶのは、明確な拒否とそれ以上の怯え。
「天」
俺が呼びかけると、天はビクッと体を震わせる。
「…はい」
明らかな恐怖を含んだ声。
「いつかは、話してくれな」
その顔を見た俺は、事情を聞くのをやめた。天のそんな顔は見たくなかったからだ。
俺の言葉に安堵する天。そして次に浮かんだ表情は、多少の申し訳なさと何かを決めたような顔。
手を組み合わせギュッと握り、力強さを含んだ言葉が、その口から紡がれる。
「…いつか、必ず。多分、近いうちに」
いつか、必ず、か。
天は俺に好意を抱いてるように思えるが、その辺りも、天が隠してる事に関係するのだろうか。
まあ、気のせいかもしれないけども。
とりあえず、疲れた体を休める為に、とっとと寝よう。考えても結論が出ない事はある。
俺は布団に潜り込むと、襲い来る睡魔に抵抗することなく、その身を任せていった。
雪の降る公園で、小さい頃の俺と、その俺と同い年くらいの女の子が遊んでいる。
楽しそうに遊ぶ俺と少女。
「ほらー、こっちだよ大地くん!」
「待ってよー!」
二人とも笑顔で、時間を忘れて遊んでいた。
唐突に場面が切り替わる。
「結婚? 何それ」
「男と女がずっと一緒に暮らす事らしいよ」
「そうなの? それじゃ、私大地くんと結婚する!」
「うん、いいよ!」
小指同士を絡ませる俺たち。
そしてまた変わる場面。
「どうしよう…このままじゃこのワンちゃんが死んじゃう…」
俺が、子犬を抱いて泣いている。子犬は血を流して弱っていた。
すると、それを見た少女は、俺が抱いている子犬の傷口に手を当てた。
「大丈夫だよ、大地くん」
そして、少女は一言「私は――だから」と呟くと、俺たちの周りを眩い光が包み込んだ。
「…夢、か」
目を開けると、そこは公園ではなく、いつもの朝の風景が広がっていた。
それにしても、随分と昔の夢を見たものだ。具体的に言うと、今まで忘れていたくらい。
いつの頃だったか、一日だけ一緒に遊んだ女の子。もしかしたら、俺の初恋だったかもしれない女の子。
でも、だったら何で俺は忘れてたんだ? 普通、初恋なんてものは、余程の事が無い限りは忘れないよな。
…若年性健忘症?
「おはよ、天」
「あ、おはようございます、大地さん」
笑顔であいさつを返してくれる天。その笑顔に、夢に出てきた少女の笑顔がオーバーラップする。
「………」
「…どうかしたんですか? 顔も赤いですけど」
俺を覗き込む天。警戒する様子も無く近付いて来る顔に焦ってしまう。
「い、いや、何でも無い」
慌てて顔を離し、距離を取る。
「?」
不思議そうな顔をしている天。
俺は一体何を慌てているんだろう? まさか、天を意識してるのか?
「何でも無いって」
そそくさと朝食の準備にとりかかる。後ろからは、ずっと疑問の視線が投げかけられていた。
結局、その日の俺の態度はずっとぎこちないままだった。
それからは、特別何かあった訳ではなく、至って普通の日々を過ごしていた。
まあ、相変わらず意識してしまったり、それが天にも移ったせいか、妙な沈黙が度々あったりはしたが、概ね平和な日々だった。
ある朝、いつもなら大体同じ時間に起きる天が起きてこない。まあ、たまには寝坊する事もあるだろうと思い、朝食の用意をする。
だが、朝食の用意が終わっても、天は一向に現れない。流石におかしいと思った俺は、天の元へと向かった。
「天、朝飯が出来た…天!?」
天が、布団から近いところで倒れていた。俺は駆け寄り、まずは外傷が無いかをチェックする。
どこかを打ったとかではなさそうだが熱がかなり高い。布団に寝かせてやろう。
天は布団に寝かせた。次にやる事は…熱を下げなきゃ。俺は台所へ向かった。
台所で氷枕と濡れタオルを用意して、天のところに向かう。天は相変わらず苦しそうにしている。
頭を上げさせ、氷枕を下に敷く。そして額にタオルを乗せると、天は目を開けた。
「大地さん…迷惑かけてごめんなさい…」
「いいから寝てろ。かなり熱が高いんだから、体を休ませるのが一番だ。家の事は俺がやるから、お前はとっとと体を治せ」
「…はい」
目を瞑る天。
「何かあったら呼べよ」
「ありがとうございます…」
しばらくすると、規則正しい寝息が聞こえてきた。今の間に洗濯や買い物を終わらせておこう。
買い物から戻ってくると、天はまだ寝ていた。もうそろそろ昼だが、起こしたほうがいいのだろうか?
どっちにしようか考えていると、天が目を開けた。どうやら物音で目が覚めたようだ。
「あ、悪い。起こしちまったか」
「いえ…大分楽になりました」
額に手を当て、熱を測ってみる。
「んー…さっきよりは下がったみたいだが、それでもまだ高いな。とりあえず、何か食えるか?」
「…少しなら」
「それじゃ、お粥作るから食べろ。薬飲むには、お腹に何か入れておかないとな」
「…はい」
「出来次第呼ぶから、それまで寝てな」
「…あの、本当にごめんなさい」
心から申し訳無さそうな顔をする。小さな声で謝る天。
「そう思うなら、とっとと治せ」
そして俺は天から少し視線をずらし、頬をかく。
「…いつものお前の脳天気な声が無いと、調子狂うんだよ」
そう言うと、天はやっぱり少し申し訳無さそうに、けれどそれ以上に嬉しそうに
「はいっ…絶対すぐ治しますね…」
と言うのだった。
夜。
「静か…だなぁ」
聞こえるのは天の寝息だけ。別にテレビを付けてもいいのだが、何故かそんな気にならなかった。
少しの喪失感。天が俺に向ける声と笑顔が、今、目の前に無いと言うだけで、何か足りない気分だ。
まさしく調子が狂うといった感じ。まだ天が来てから一ヶ月も経ってないというのに、ここに天が居るのが当たり前になっていた。
話を出来ない事が、顔を見れない事が寂しい。こういう気持ちを何と言うのだろうか。
…多分俺は分かっているのだろう。ただ、大切な何かが引っかかってる。何かを思い出さなきゃ、前に進めない。
そんな焦燥感が、俺を襲っていた。
ふと時計を見ると、短針が9を指している。
「っと、9時か…。熱は…」
額に手を当てる。かなり熱は下がったようだ。
そのまま何となく天の頭を撫でていると、天が目を覚ました。
「あ、悪い。起こしちまったか」
「大丈夫です。もう、大分楽になりましたから」
嘘は言ってないようだ。声にも張りがある。
「ところで…あの…」
「ん?」
真っ赤な顔で天が何事かを気にしている。その視線は上へ向き、俺の手へ。
「おわっ!」
俺は頭を撫でっぱなしにしていた手を離し、バクバク言っている心臓を押さえながら後ずさった。
「す、すまん」
「い、いえ…あの…大地さん…もし良かったら…続けて下さい…」
真っ赤な顔を、さらに赤くする天。多分、俺の顔も似たようなものなのだろう。
「お、おう。まあ、病気の時は心細いものだからな」
俺は天に近付き、再び頭を撫で始めた。
そうしてどのくらい過ぎた頃だろうか、天はうとうとしてきたようだ。
さっきから交わしている取り止めの無い会話も、段々と途切れがちになっている。
そして完全に会話が途切れる。何となく見つめ合っていると、不意に天が口を開いた。
「あの、大地さん…」
そして小さく呟く。
「少し、ワガママ言いたいです」
「…ん、何だ?」
自分でも驚くほどに優しい声が出る。
「私が眠るまで、手を握っててくれませんか?」
撫でていた手が止まる。天の目を見て、冗談を言っている訳じゃない事が分かると、俺は天の手を握った。
すると天は笑顔になり、目を瞑る。
「…嬉しいなぁ…こうしていられるなんて、夢にも思わなかった」
そして、小さく小さく呟く。
「ありがとう…大地くん…それと…ごめんなさい…」
俺は、眠った天を見ながら天が最後に呟いた言葉を考えていた。
「大地くん…か」
天が俺を呼ぶ時は「大地さん」と言う。何かの聞き間違いか、夢か何かと間違えたのか。どっちにしても、大した問題では無い。問題では無いはずなのだが…何でこうも引っかかるんだ。
今まで忘れていた、初恋の女の子が現れたとでも期待しているのか? それこそ有り得ないだろう。天がその女の子なら、それを隠す理由は無い。
どうにも分からない。今の状況も分からないが、そこまで俺が気にする理由が、それ以上に分からない。
それに、ごめんなさいってのはどういう事なんだか。
…はぁ、頭の中がグチャグチャしてきたし、こういう時は寝るに限る。さっきの事は、後で天に聞けば済む事だ。
「おやすみ…」
そう呟き、明日は天が元気になっている事を祈り、眠りについた。
「…さん…大地さん」
目を閉じていても感じる強い光とともに、どこからか声が聞こえる。
「大地さん、朝です」
目を開ける。間近に見える、天の顔。
「天…」
起き上がる。
「もう大丈夫なのか?」
天は笑顔で応える。
「はい、大地さんのおかげです」
「俺は何もしてねーよ」
「そんな事無いです。傍に居てくれた、それが一番嬉しかったんですから」
だから…そういう恥ずかしい事を真顔で言うなと…。
俺は照れてしまい、思わず天から目線を逸らした。すると、目に入ってきたのは食卓の上にある朝ご飯と思われるもの。
「あれ…」
朝ご飯を指差す。
「はい、頑張っちゃいました」
「頑張ったって…」
食えるのか? そんな言葉が顔に浮かんでいたらしい。天は途端に不機嫌な顔になる。
「むー…」
天の膨れっ面。全然怖くも無く、むしろ可愛いくらいで。
「くっ…」
思わず笑ってしまったり。
「何で笑うんですか、大地さん!」
天の機嫌は悪化の一途を辿っていた。
「まあ、食べてみないと分からないから、話はそれからだな」
何とか天を宥めて、気を取り直して食事に向かう…のは後回し。
「その前に…っと、救急箱どこに置いたっけ?」
俺の言動に慌てる天。
「救急箱? …大地さん、どこか怪我したんですか!?」
「あほ」
言いながら、消毒薬と絆創膏、それに軟膏を取り出す。
「手、出せ」
「え…」
「気付いてないとでも思ったのか?」
天の手は、切り傷と火傷だらけだった。天は隠してるつもりだったらしいが。
「あの…」
「…応急処置するから手を出せって言ったの。出さないと朝飯食べてやらんぞ?」
「あ、出します出しますっ」
慌てて両手を出す天。俺はその傷を見て嘆息する。
「こんなになるまでやらなくてもいいってのに…」
多少古い傷もある。恐らく隠れて練習してたのだろう。
「あの…ごめんなさい…」
謝る天。何度も見たその顔を、俺はもう見たくないと思った。
「…なあ、天。お前は悪い事をしたのか? 違うだろ。なら、言う事はそれじゃない」
天は少し考えた後、笑顔で言った。
「…ありがとう、大地さん」
「どういたしまして」
「天、何かお願いとか無いか?」
「…何ですか、急に?」
天が作った、意外に美味しかった朝食を食べ、いつもならまったりしている時間。俺は不意に天に問うた。
「いや、朝飯の礼」
「そんな、いいんですよ。むしろ私のほうがお礼しなきゃいけないくらいですよ?」
「それこそ別にいいよ。俺は俺がやりたいようにしただけだ」
「ですけど…」
天は義理堅い。こういう事を言い始めたら、多分聞かないだろう。
「あーもう! だったら天の俺に対する礼は俺へのお願い考える事! もう決定!」
「…うー…分かりました」
俺がいい加減に疲れて出した提案に、しぶしぶ納得する天。何でこんなに疲れなきゃいけないんだ。
「まあ、俺に出来る範囲でな」
「はい。それじゃ…」
「もう決まったのか?」
「ええ、決まりました。二人で公園に行きましょう、大地さん」
公園って…近所のだよな。
「それだけでいいのか?」
「はい。お弁当持って行けば、ちょっとしたピクニックみたいで楽しいですよ、きっと」
「…まあ、天がそう言うならいいか」
何か気を使われた気がしないでもないが、本当に楽しそうだし。
「今日は太陽が出てるから暖かいねぇ…」
「そうですねぇ…」
芝生の上でまったりする俺たち。
「何ていうか、幸せだねぇ…」
「幸せですねぇ…」
空を見ながらぼへーっとする。周りから見れば、今の俺たちは少しばかり危ない人にも見えるだろう。
「昼寝でもしたくなるねぇ…」
「私もですよぉ…」
俺らは何という実りの無い会話をしているんだろうと、そんな思いがごく偶に頭を掠めないでもない。
「マジで寝そうなんだけどなぁ…」
「頃合を見計らって起こしてあげますよ…私も寝てなければですけどぉ…」
「そっかぁ…んじゃ頼む…俺はもうダメだ…」
目を閉じ、睡魔に抵抗する事もなく俺の意識は落ちて行った。
いつか見た少女が居る。俺の、初恋の少女。その少女が、俺の目の前で泣いている。
「ホントに、いいの?」
瞳に浮かぶ、恐怖と怯えの色。
「さっき言ったよね。私――」
「私――…か」
あの後何て言ってたんだっけな…どうしても思い出せない。大切な事のような気がするんだが。
俺が考えていると、すぐ近くから
「あ、おはようございます、大地さん」
という声が聞こえた。具体的には顔の直ぐ上から。
「え? そ、天?」
何でそんなに近くに顔があるんだ? と聞く前に、頭の後ろにあたる柔らかい感触に気が付いた。まさか…。
「大地さん、膝枕ってしてる方も幸せになれるんですね…」
可愛い寝顔も見れましたし、と続ける天。
「男が可愛いって言われても嬉しくねーよ」
とは言うものの、本当に幸せ一杯そうな笑顔の天。しばらくはこのままでいるか…。
空がだんだん暗くなってきた。そろそろタイムアップだろう。
「天、そろそろ帰ろうぜ。また風邪引くといけないし」
天は残念そうに呟く。
「そうですね…」
沈んだ声。俺は励ます。
「夏みたいに日が長ければいいんだがな。まあ、また来ればいいよ。近いんだし」
「また連れて来てくれるんですか?」
期待を込めた目。
「ああ、こんなところでよければ何度でも」
「…嘘付いちゃダメですよ?」
「嘘なんか付きません。というか、何かこの場所に思い出でもあるのか?」
俺が聞くと、天はとても嬉しそうな顔で、優しい目で。
「ええ、とてもとても大切な思い出が」
天が答えた時、不意にどこからか声が聞こえた。
「悲しみに彩られた思い出なら、いっそ思い出さぬほうが幸せかもしれぬぞ?」
天の顔が強張る。俺は声が聞こえた方へ振り向く。
そこに居たのは、長身の男。銀の髪を腰まで垂らし、顔はどことなく天に似ている。
「帰るぞ、天。このままでは、新たな悲しみの思い出を残すだけだ」
男が言う。天は怯えるように俺の影に隠れる。
俺は、天の行動を見て思った。コイツは敵だと。
「なあ、あんた。いきなり出てきて帰るぞ、は無いんじゃねーのか?」
男は俺を一瞥すると、見下したように言う。
「君には関係の無い話だろう? 天は、君にとっての何者でもない。君は何も知らない。君は何も分かっていない」
「じゃあテメーは何を知ってるって言うんだよ!」
語気を荒げる俺。だが、男はさも不機嫌そうに答える。
「君が知らない事、君が分かっていない事だ。天の事だけではない。色々な大切な事をな」
男が言う事は、まるで何かの謎掛けのようだ。そして俺を無視するかのように、天に話しかける。
「天、悲しむのは、後悔するのは一度でいいだろう。我らは相容れる事の無い存在。こうなるのは分かっていた事だ。さあ、帰ろう」
手を差し出す男。天は俯き首を横に振る。それを見た男は問う。
「何故だ? 明確な離別がお前の望みなのか? それは深い悲しみと孤独を味あわせるだけ。私に、再び罪深き事をさせると言うのか」
「分かってます…。これは、ただのワガママで、辛い思いをして、そして悲しませるだけだって…。それでも…それでも、止められないんです…この気持ちだけは」
嘆息する男。
「こうなったら聞きはしない、か。その時になってからでは遅いのだぞ?」
天は頷く。
「そうか…。ならば君に聞こう」
「…何をだよ」
身構える俺。
「君は、近く別れを経験する事になるだろう。恐らくは身を引き裂かれる程の悲しみと共にな。それでも、その道を進むのか?」
「…分かんねえよ。あんたが言いたい事も何もかも。ただ――」
男を睨みつける。
「俺が今正しいと思う事は、天の傍に居てやる事だ」
男は深く溜息を吐くと、踵を返した。
「少しの猶予をやろう。近いうちにまた君達の前に姿を現す」
少し歩いて立ち止まると、男は振り返り、天を見る。
「覚えておけ。希望とは絶望を深くするだけだと」
そして俺を見る。その目に浮かぶ悲しみの色。そして小さく「すまん」と言うと、二度と振り返る事無く、そのまま去って行った。
男が去った後、俺は動けずにいた。
「一体何だったんだよ…」
謎めいた言動。何より、天に『一緒に帰ろう』だと?
「そもそもあいつは誰なんだ? 天なら知ってるんだろ…天?」
天が俯いたまま、息を荒げている。
「おい! 天!」
天に駆け寄る。天の膝から力が抜ける。倒れる天を間一髪抱きとめた。
額に手を当てる。
「…凄い熱だ。とりあえず帰って休ませないと」
天を背負い、全速力で家への道を急ぐ。
「ごめん…なさい…」
「喋るな。すぐ家に連れて行ってやるから」
謝る天にそう答えながら、俺は漠然とした予感を感じていた。
どういう形になるかは分からないが、俺たちの別れは、そう遠くない。
家に着き、まずは天を布団に寝かせる。
天は相変わらず苦しそうにしている。
「俺のせいだ。熱がひいたばかりだって言うのに、油断して外に出させちまった…」
まだ安静にしているべきだった。そう悔やむ。すると、天が弱弱しく呟いた。
「そんな事ないです…。全部、何もかも全部が私のワガママなんですから…」
「全部…そうだ、それで思い出した。天、さっきの奴は誰なんだ?」
言いたい事を言って、さっさと消えてしまったあいつ。
「あの人は……」
小さい声が不意に途切れる。
「天?」
不審に思い聞き返す。返事が無い。
どうやら眠ってしまったようだ。もしかしたら、高熱で意識を失ったのかもしれない。
とりあえず、様子を見て、熱がこれ以上に上がるようなら、すぐに医者に連れて行こう。
幸い、この日は熱が上がる事なく、夜が更けて行った。
天は、寝ている事が多くなった。熱は上がったり下がったり。小康状態というやつなのだろうか?
俺は医者に連れて行こうとしたが、天は強硬に拒む。何故かと聞くと、無理ですからの一点張りだ。ほとほと困り果てた。
あの男の事も聞けずじまいだ。男の事を聞けば、自然に話はあの時の話に行く。男が言っていた事を理解してしまうのが怖かった。それは、これから何が起こるのかを何となく分かっていたのかもしれない。
結局は聞きたい事は何一つ聞けないまま。無難な会話を交わす事しか出来ない毎日を過ごしていた。
そして今日はクリスマス――。
「はよっす」
「…おはようございます。今日は結構調子いいですよ」
俺の挨拶に、上半身だけ起こした天が答える。
「調子が良いのは結構だけどな、無理はするなよ?」
「…はい」
昼食。食卓に着く俺と天。
「久しぶりだな、二人での食事は」
「そうですね…。数日しか経ってないのに、凄く前だった気がします」
しばらく無言のまま食事が進む。
「あの…」
と、天が俺を呼んだ。
「どうした?」
「お願いがあるんです」
「お願い?」
「…今日、この前の公園に連れて行って下さいませんか?」
意を決したように言う天。俺は「何考えてる!」と言いたいのを我慢して、抑えた声で話しかける。
「…なあ、俺はさっき無理するなって言ったばかりだよな? それを分かった上での言葉か?」
「…はい」
「事情は説明してくれるか?」
少し強めに言う。
「そこで、言います」
俺の視線を真っ向から受け、力強く応える天。
「…ここじゃダメなのか?」
「………」
天は何も言わず、俺の目を見続ける。
「分かった。ただし、少しだけだからな」
頷く天。無言のまま、久しぶりの二人の昼食の時間は過ぎていった。
結局、それからは会話らしい会話も無く、ただ時計が時を刻む音だけ聞こえる。
天は外を見ながら何かを考えているようで、声を掛け辛い。
何度かここで聞いてしまおうと思ったものの、天が纏っている雰囲気が、それを止めさせる。
そして、もう一度声をかけようと天の方を見たとき、相変わらず外を見ていた天が振り返り、そして静かに口を開いた。
「行きましょう、大地さん」
雪が降っていた。白く染まる公園で、天は何も言わずに、ただ舞い降りる雪を手のひらに乗せて眺めている。
どこからかやってきた子犬が天に近付く。抱き上げる天。
微笑ましい光景だが、いつまでも見てる訳には行かない。呼びかけようと近付く。
すると、突然子犬があらぬ方向へ吠え出した。そちらを見ると、居たのはこの前の男。
男は俺を一瞥すると、天に話しかける。
「さあ、猶予は与えた。もういいだろう」
そして今度は俺に。
「君も納得しただろう。今までの事は夢とでも思うのだ」
「何を納得したって言うんだよ」
「君はまだ諦めないつもりか? だがそれは…」
なおも男が言い募ろうとした時、天の声が遮った。
「お父さんっ!」
男の声が止まる。そして天の声が繋がる。
「まだ、大地さんには何も言ってないの。言えなかったの…」
辛そうな顔の天。だがそれよりも…。
「お父さん?」
この、目の前に居る男が?
疑問が顔に浮かんだのか、男は面白くなさそうな不機嫌な声で応えた。
「いかにも。ならば、天を連れ戻しに来た理由も分かるだろう」
「そりゃまあいくつか思い浮かぶけどよ。家出とか」
想像の付く範囲で答える。
天の父親は頷く。
「その通りだ。詳しい事情は言えぬが、天は家出をした。そしてどこにいるかを探し、こうして見つけた訳だ」
天の父親から事情を聞きながらも、俺は釈然としないものを感じていた。
それは、この前会った時にしていた会話と、どこか符合しない事と。
「言いたかった事情ってのはこの事なのか、天?」
さっきから黙っているコイツの存在だ。
何かを決めたあの目で言いたかった事が、この事だとは思えない。
「………」
俯く天。その時、抱いていた子犬が天の腕から抜け出した。
公園を出て行く子犬。何気なくそっちの方を見る。
そして聞こえてくる大きなエンジン音と、右のほうから走ってくる赤い車。
天が叫ぶ。
「危ないっ!!」
天の叫びもむなしく、轢かれてしまう子犬。急いで駆け寄る天と俺。
俺たちがたどり着いた時には、既に子犬は動かなくなっていた。
「まだ、間に合うかも…」
天が呟く。すると、天の体から光が溢れた。
「これは…この光は…」
どこかで――見た――。
「何をしているんだ、天!」
後ろから聞こえる、天の父親の声も耳に入らない。代わりに聞こえてくるのは初恋の少女の声。
目の前で、光が溢れる。
「結婚?」
光が集束する。
「ずっと一緒に居る? うん、分かった!」
天の手のひらと、背中と。
「私、人じゃないけど、それでもいいの?」
集まった光が形作る。
「約束だね」
背中に生まれる、大きな純白の翼。
「私は――天使だから」
「思い、出した…」
何故、忘れていたのだろうか。初恋の少女の正体を。
そこでふと思い出す。天は?
俺が呆けていた間も、天はまだ子犬に向かって光を放ち続けていたみたいだ。だが、子犬はピクリともしない。
「天! もういいんだ!」
「でも、大地さん!」
涙を浮かべて振り返る天。
「助かる命と助からない命があるんだ! 昔は助けられても、今回は間に合わなかったんだよ!」
肩を掴んで大声で言う。その言葉に、天は俺が昔を思い出した事を悟ったようだ。
「そっか…。思い出してくれたんだね、大地くん」
そこにある、昔と変わらない笑顔。俺が大好きだった笑顔。
「今まで言えなくてゴメンね。何度も言おうとしたんだ。でも、恐かった」
儚く、か細い声で呟く。
「君は誰だって言われるのが恐かった。君なんか知らないって言われるのが恐かった」
悲しみに彩られた。
「私、人間じゃないから。あの時、君は受け入れてくれた」
それは何かが終わる事を知っているような。
「でも、今も受け入れてくれるかどうか考えたら、踏み出すことが出来なかった」
今にも消えそうな、綺麗な笑顔で。
「貴方は、私の最後の希望だったから」
その言葉と共に、天は倒れた。
「天!」
慌てて駆け寄り、抱き起こす。
すると、後ろから苦渋に満ちた声が聞こえた。
「やはり、こうなってしまったのか」
「あんたは何か知ってるんだろ! どうして天は倒れてるんだよ!」
天の父親に向かって怒鳴る。
「どうして、天の息が段々細くなっていくんだよ!」
何も出来ない事が分かる。何も知らない事が分かる。その無力感が声を荒げさせていた。
天の父親は深く溜息をつくと、事情を話し始めた。
「天は、病気なのだ。天使のみがかかる、数万分の一の確率で発症する病気」
「………」
「進行はゆっくりだが、確実に、死に至る」
「………」
唇をかみ締める。
「人間が住む世界。私たちは下界と呼んでいるが、下界に居ると進行が早まる。だからこそ、私は連れ戻しに来たのだ」
「…そんな、事って」
俺が、強引にでも話を聞いていれば、そして天を説得すれば、天はまだ生きていられた…?
呆然とする俺。すると、腕の中に居た天が、小さくか細い声で言った。
「自分を、責めないで下さい。私が…私自身が決めた事なんですから…」
「だけど…」
なおも言い募ろうとする俺を、天が遮る。
「そう遠くない間に自分が死ぬと分かった時…どうしても…逢いたくなったんです。先が見えてしまったからこそ…自分が納得できるように生きたかった」
天は俺の手を握る。
「あの時にした、約束を果たしたかった…」
「あの時の…約束…」
思い出す、公園での約束。
「結婚…」
「はい…それが私の支えでした…」
「………」
「あれから、結婚ってどういうものか調べたんですよ…? 大地さんと結婚出来たら、どれだけ幸せなんだろうって、ずっと思ってて。でも、結婚は出来なかったけど…また会えて、話す事が出来て…一緒に居られて、幸せでした…」
天の声から、力が消える。それを呼び止めたくて、俺は声をかける。
「天! 何で過去形なんだよ! 今からだって出来るはずだ!」
「そう、ですね…きっと、楽しいんですよね…」
「ああ、絶対楽しいから。そうだ! 約束を果たそう」
「…約束? 結婚の約束?」
今にも消え入りそうな声。
「ああ、俺は天が好きだから、誓いたいんだ。ずっと一緒だって。天が人間じゃなくたって、例え他の何かだったとしても、ずっと傍に居たいから」
天の目から溢れる涙。
「嬉しいです…私も貴方と誓いたい…ずっと一緒に居たい…」
「それじゃ、今すぐ結婚しよう。ここには何も無いけどさ」
「何もいらないです。私が望むのは、貴方という存在ですから…」
「…そっか、同じだな」
その時、今まで様子を見ていたらしい天の父親が、急に言葉を発した。
「大地君」
「…何だよ?」
「天は知っている事だが、天使の間にはある言い伝えがある。『天使よ。誓いを以って人と口付けを交わした時、汝は天に還り永劫の命を失うだろう』という言い伝えが」
悲しみを湛えた目で俺を見る天の父親。
「私も、下界の結婚というものが何か知っている。そして、どういう儀式を行うのかも。本当かどうかは分からんが、もしも本当ならば、君は自分の大切な人の最期を自分の手で迎えさせる事になるだろう。それでもいいのか?」
慈愛に満ちた声。少しだけ考えた、けど。答えは決まっている。
「思えば、あんたは初めて会った時から俺を心配してくれてたんだな。でも、いいんだ」
天が、それを知っている上で選んだ道だから。
天を見る。
「天」
「はい…」
「俺は、一生お前を背負って生きていくよ。ずっとずっと、忘れない」
「…はい」
目を瞑る天。俺は頬を優しく撫で、そっと口付けた。
永遠のような一瞬。体を離し、目を開ける。
天の体は、輝く光に包まれていた。
「…言い伝えは本当だったみたいですね。何かが引っ張られているような感じがしてます。でも、体は楽になってますね」
「…そっか」
会話が途切れる。時間が無いって分かってるのに、言葉が出てこない。
すると、天が突然言い出した。
「…あのですね、大地さん」
「ん?」
「私、ずっと雪になりたかったんですよ」
「…はあ?」
突然の言葉に、疑問符を浮かべる俺。
「空と大地の間には、決して超えられない境界があるでしょう。雪になって、『そら』から『だいち』の下へ行けたらなぁって」
「…それなら雨でもいいような。何で雪なんだ?」
「大地さんと出逢ったのが、雪の降っていた公園でしたから」
ふと、天がポツリと漏らす。
「でも、好きな人に看取られるなら、結構良い気分です」
「…余裕だな」
呑気な言葉に、苦笑してしまう。すると天の目に悲しみの色が浮かぶ。
「…そうでもないですよ。本当は凄く恐い。せっかく想いが通じ合えたのに、もう一緒に居られないんだって思うと。だけど」
天はいつもの微笑を。
「私が大地さんに覚えてて欲しいのは、笑顔ですから」
「忘れられるか、そんな呑気な顔。ずっと覚えててやるよ」
「はい…。あ、もう時間みたいですね…」
光が一層強くなり、天まで伸びる。それはまるで天と大地を繋ぐように。
「天、絶対忘れないから。ずっと、一緒だからな」
「はい、ずっと一緒です」
天の体が光に融け、轟音と共に光が消えた。
俺が光の中に見た天の最後の顔は、今までで最高の笑顔だった。
俺は、公園の外れにある墓の前で手を合わせていた。名前も何も無い、ただ石が置いてあるだけの墓。
小さな花を手向け、天国で幸せになと声をかける。
立ち上がり、踵を返す。
「それにしても…アイツは…」
そう俺が呟くと、向こうから銀の髪の少女が駆けて来た。俺は少女に向かって声をかける。
「遅ぇぞ、天! 子犬の墓参りしようって言ったのはお前じゃねーか! もう先にしちまったからな!」
「ごめんなさーい!」
あの光が収まった後、空を見上げていた俺が前に視線を戻すと、そこに天が倒れていた。
慌てて駆け寄り抱き起こすと、規則正しい寝息が聞こえて。
どういう事かと天の父親(司という名前らしい)に尋ねると、自分も分からんから聞いてくると姿を消し。
結局、俺たちは前と同じ共同生活を営んでいた。
最も、司さんは数日もすると戻ってきて、事情は直ぐに分かったのだが。
「痛ぇ…」
「どうしたんですか、大地さん」
「いや、葉っぱで指切った」
「大丈夫ですか? 私が傷を治せればいいんですけど」
「仕方ないさ。天は『人間』なんだから」
そう、天は人間になった。
司さん曰く、「本当の伝承は『天使よ。誓いを以って人と口付けを交わした時、汝は天に還り永劫の命を失い、地に堕ちて限りある生を過ごす事になるだろう』という物だった」という話。
要するに、人間になってしまうぞって事だ。
司さんといえば、公園で会った時から、俺に対する口ぶりがどうも初対面の人間っぽくなかったと思ったら、どうやら俺と会った事があったらしい。
天使の掟というヤツで、天使と人間は出逢ってはいけないというものがあるとか。だから、出逢った記憶を消すのだそうだ。最も、封印をするだけなので、きっかけがあれば目覚めてしまうらしい。というより、人の記憶というものは、簡単に無かった事に出来るようなものじゃないという事だ。
それを実行したのが司さんであり、天の行為がきっかけで、記憶の封印が解けたと。
「でも、随分と都合のいい話だよな」
「いいじゃないですか。神様が見ててくれたんですよ」
「いや、俺は神様信じてないし」
「大地さん、私は一応元天使なんですけど…」
「あ、忘れてた」
「忘れないで下さいっ」
何でも無い日常が、とても嬉しい。大切な人がいつも傍に居る、特別じゃないけど特別な日々。
「あ、雪だ…」
雪が降っている。
「…傘持ってねぇよ」
ただ静かに、どこか優しく。
「私持ってますから、一緒に入りましょう」
白に染まる世界の中で、彼女は佇んでいた。
「…良く考えたら、出かける時に、俺は傘を持って行こうとしたよな。要らないって言ったの天じゃねーか」
その顔に一杯の幸せを湛えながら。
「気のせいじゃないですか?」
銀の髪が靡く。
「…まあ、いいけどさ。とりあえずそのニヤケてる顔はどうにかしろ」
真紅の瞳に灯る、優しい光。
「…幸せなんですよ、一緒だって実感出来るから」
彼女は近付き。
「…そう言われると言葉の返しようが無いじゃないか」
俺を腕をそっと抱く。
「返さなくていいです。ただ傍に居てくれるだけでも幸せなんですから」
手が届くところにある、壊れやすい幸せを。
「…同意見だ。じゃ、行こうか。今まで遊べなかった分を取り返さないとな」
全身で大切に抱きしめるように。
「はいっ」
自分はずっと一緒だと、誓うように。
いつも、どんな時でも、共に歩いて行こう。