「佐祐理さーん」

 「…………」

 「佐祐理さん?」

 「…………」

 「さ〜ゆりん?」

 「…………」


 まるで反応がない。

 最近の佐祐理さんは変だ。

 料理の味付けは間違うし、笑顔が硬いし、元気もない。

 いっつも上の空で、一応、彼氏をさせていただいてる相沢さんちの祐ちゃんは非常に困っています。

 舞と佐祐理さんから言わせたら、最近特に俺もよく上の空になることとかが多いらしいが。

 ちなみに、佐祐理さんの彼氏と兼任して舞の彼氏もしていたりする。

 大きな声で言えない関係だが、三人ともその現状で満足しているのだから、これでいいのだろう。

 とりあえず、今年受験の我が身としては、是非とも舞と佐祐理さんと同じ大学に入りたいので二人に見てもらいながら勉強しているのだが……


 「あー、佐祐理さん、お茶、もういっぱいで溢れてるから」

 「…………」

 「…………佐祐理、愛してる」

 「ふっ、ふぇっ!? いきなり何を言い出すんですか、祐一さん!」

 「こっちの世界に戻ってきた所で、とりあえずお茶はもういいから、やかんを傾けるのを止めていただけると……」

 「はぇっ!? ごめんなさい、祐一さん」


 愛しの彼女がこれなので勉強どころじゃありませんでしたとさ。












 雪降る季節に愛を込めて
















 「…………祐一、どう?」

 「『どう?』って言うのは、勉強のことを言ってるのか? それとも佐祐理さんのことを言ってるのか?」

 「どっちも」

 「…………とりあえず、どっちにしろ答えは芳しくないな」


 佐祐理さんが台ふきんを取りに行くのとすれ違いで舞が部屋に入ってくる。

 ちなみにここはと言うと、舞と佐祐理さんのアパート。

 二人は高校を卒業後からここで一緒に住んでいる。

 ちなみに俺も高校卒業と同時にここに住むことになっている。

 ……というより、住むことにさせられていた。

 一応、恋人同士とはいえ、まだ学生の身で同棲はいかがなものかと言ってはみたものの……





 『ふぇ……祐一さんは佐祐理なんかとは一緒に住みたくないんですね……』

 『佐祐理を泣かすな』


 『ふぇ? 違うんですか祐一さん?』

 『……どう違うの?』


 『あははーっ、佐祐理は世間体なんかに負けませんよー』

 『……それよりも、私達の気持ちの方が大切』


 『それに……いつでもイチャつけるじゃないですか♪』

 『祐一、ずっと一緒……って言った』


 『それにですねー、少し情けない話なんですけど……二人より三人の方が財政的に問題が少ないんですよ』

 『結構、ギリギリ』






 ……とのことらしい。

 まぁ、前半はともかく、最後の財政面だけは正論だし、実際苦労してそうなので承諾した。

 元々、俺自身、本気で嫌なわけがないので、意味の無い話し合いだったとも言える。


 「……そう」

 「舞は何か心当たりは無いのか?」

 「…………無いこともない」

 「……? 何なんだ?」

 「佐祐理、疲れてるのかも」


 舞がストンと俺の隣に座る。

 どうでもいいが、この寒い中ミニスカートって正気ですか?

 ……よく考えたら、ウチの学校の女子の制服はスカート以前の問題だったな、よくもあんな格好で外を歩けるものだ。


 「う〜ん、疲れる様なことしてる様には見えないけどな……それと舞。ミニスカートで三角座りは止めろ」


 舞は三角座りで膝の上に両手のひらを乗せ、その上に顔をこちらの方へ向けるように乗せていた。

 う、可愛い。

 舞はこちらを見て軽く微笑んでいる。

 なんとも可愛く育ったものよ。


 「別に見られても問題無い。どうせ祐一しかいない」


 ……と、中々に挑発的なことを仰る舞様。

 なんともふしだらに育ったものよ。


 「ま〜い。ダメですよ。これ以上、祐一さんがえっちになっちゃったらどうするんですか」


 そして、台ふきんを持って戻ってきて早々に失礼な事をのたまう能天気お嬢様。

 なんとも酷い話である。


 「ごめん、佐祐理」

 「……って、そこで謝られると、俺が本当にスケベみたいで嫌なんだが……」

 「ダメです。これ以上、祐一さんがえっちになったら、他の女の子にまで魔の手が伸びてしまいます。そんなの佐祐理は許しませんよ?」

 「…………私は浮気者を斬るものだから……」

 「……ちょっと待て、ここは一つ、お互いの認識について話し合おうじゃないか。舞、佐祐理さん、二人は俺のことを誤解しているようだ」


 ふぇ? と小首をかしげる天然お嬢様。

 こういった仕草がとても可愛く思えるのは、恋人から見た贔屓目だからなのだろうか?

 舞はいつも通りの表情だ。

 きっと、『また変なことを……』とか思ってるに違いない。


 「はい、俺こと相沢祐一に対しての印象を一言で表しなさい。制限時間は5秒……4……3……2……」

 「……プレイボーイ」

 「見た目よりいじわるでえっちですね」


 二人の愛に疑問を感じずにはいられない今日この頃。

 俺はそこまでえっちぃく思われていたのか。


 「HAHAHA、君達、その認識は間違ってるぜ。奴ほど誠実な奴は見たこと無いぜ?」


 とりあえず、反論してみる。

 何故か深夜番組のテレフォンショッピングみたいな口調なのは、俺自身にもわからないが。


 「あははーっ、祐一さん。コレ何だかわかりますかー?」


 ドン!


 どこからとも無く、とりだしたソレを、まさしく叩きつけるように机の上に置く佐祐理さん。

 なんじゃらほい、ってな感じで置かれたものを見る俺。

 そして、目に飛び込んできた光景は半裸の女性。

 ちなみに、この女性には見覚えがある。

 つい先日までは、水瀬家のマイルームの本棚の裏にひっそりと隠れていた筈だ。


 「祐一さん、この本はなんですか?」

 「え、あー、いや、なんと申しましょうか……」


 悪戯がバレた子供みたいに俯きながらも、ちらっと正面にいる佐祐理さんの方を窺ってみる。

 笑顔だった。

 かつて無いくらいに笑顔だった。

 頬が引き攣ってはいるが笑顔だった。


 す、すんごく怒ってるーーーーー!?


 「この本はなんですか?」

 「え、え〜っと……」

 「な・ん・な・ん・で・す・か?」

 「え、エロ本です」


 凄まじく情けない気持ちになりながら言う。

 だが、そんな心情を察する余裕も無いのか、さらに追い討ちをかけるお嬢様。


 「誰のですか?」

 「お、俺のです」


 いまだ佐祐理さんの頬は引き攣ったままだ。

 もう、情けないやら恐ろしいやらで祐ちゃん半泣きである。


 「これは祐一さんに必要なものなんですか?」

 「い、いいえ」

 「じゃあ、なんで持ってるんですか?」

 「えー、あー、そのー」

 「言えない様なことの為ですか?」

 「はううぅ……」

 「これは佐祐理と舞に対する挑戦ですか? 佐祐理と舞じゃ満足できないんですか?」

 「い、いや、そんなことは!」

 「じゃあ、何で持ってるんですか?」

 「…………」

 「…………」

 「…………」

 「…………」

 「…………」

 「…………」

 「…………」

 「……………………………………………………こんなんじゃあ、いつまで経っても信じきれないじゃないですか……」

 「えっ?」

 「祐一さんの馬鹿っ!」


 バサッ……とエロ本をこちらに放り投げて部屋を飛び出していく佐祐理さん。

 俺はただ何もわからないまま、呆然としているだけだった。











 困った。

 とても困った。

 何が困ったかって、何で困っているのか判らないのが困った。

 つまりは……


 「何が起きてるのか全くわからん」

 「…………馬鹿?」

 「む……舞には判るのかよ?」


 おかしいのだ。

 ここ最近の佐祐理さんの行動の全てが。

 全てはこれに集約されていると言っても過言ではないだろう。

 何かドジするくらいなら、調子が悪いんだろうな……くらいですむが、今日のはいくらなんでも異常としか言いようが無い。

 いつもの佐祐理さんなら、あんな怒り方はしない。

 あんな出て行き方もしない。

 つまり、佐祐理さんに何か起こっているのは確実なのだが、何が起こってるのかまるで判らなくて困っているのだ。

 それに、最後に言った言葉も気になる。

 佐祐理さんらしくないセリフと言えた。

 これもまたわからない。

 で、進退窮まって途方に暮れてるわけなのだ。


 「……判る」

 「教えてくれ」

 「……ダメ。自分で見つけないと意味が無い」

 「今回の一件は根が深そうだな」

 「そうでもない。単純なこと」

 「複雑でなくて、願ったりだが……手がかりすら無いこの状態では何もわからんぞ」

 「…………じゃあ、ヒント」

 「ヒントはくれるのか」

 「……このままだと祐一、いつまで経っても気付きそうに無いから」

 「失礼な事を……」

 「ヒント、いらないの?」

 「くれ」

 「この頃、佐祐理はよく実家に帰るようになった」

 「……? そうなのか?」

 「…………気付かなかったの?」

 「気付けるわけないだろ。一緒に住んでるわけでもないのに。そもそも会えるのは休みぐらいだろうが」

 「……そういえばそうだった」



 何はともあれ、佐祐理さんが近頃、実家の方へよく行ってる事はわかった。

 佐祐理さんが変になったのと関わりがあるのかは判らないが、手がかりはそれしかない。

 ならば、俺のとる行動は一つしかないじゃないか。



 「ところで、舞」

 「……なに?」

 「いつの間に、ウチにあった筈のエロ本がここに?」

 「佐祐理が祐一の相手をしている間に、祐一の部屋に行ってきた」


 計画的犯行かい……




















 う〜み〜は広い〜な、大き〜いな〜♪

 佐祐理〜さんのお家〜もおっき〜いな〜♪


 って言うような歌詞が口をついて出てきそうなぐらい、佐祐理さんの家は相変わらず大きかった。

 正真正銘の庶民の俺は相変わらず緊張しっぱなしだ。

 まぁ、ここで突っ立ってるだけでは何も始まらないので、インターホンを押す。


 『はい、どちら様でしょうか?』

 「佐祐理さんの友人の相沢です」

 『ああ、お嬢様の『恋人』の相沢様ですね。少々お待ちくださいませ』


 何故か意図的に関係の訂正がなされたような気がした。

 ここにはメイドさんが何人か住み込みで働いていて、あまり外に出ることが無いらしい。

 お陰で、ゴシップにはいつも飢えているらしい。

 で、一番手短にあるネタが俺達ということだ。


 ガラガラ、と門が開いたので中に入る。

 中に入ると、そこにはメイドさんの群れ。

 ここは異世界ですか?

 そう誰ともなしに問いかけたくなるほど、圧巻な光景である。

 そして、両サイドにメイドさんがずらーっと並んでいて、その先に待ち構えるように初老の執事さんがいた。

 微妙に強面の白髪の紳士……そんな出で立ちの執事さん。

 ちなみに脳内ではこの人の事はセバスチャンと呼んでいる。

 なんとなくセバスな感じだからだ。

 本名は別にあったのだが忘れた。


 「これはこれは相沢様。お一人で来られるとは……命が惜しくないのですか?」

 「いきなり物騒なこと言わんで下さいよ……」

 「ですが、旦那様の御気性はよくご存知なのではありませんかな? 体験した者としては……」

 「言わないで下さいよ……出来れば来たくなかったんですから……」


 そうなのだ。

 今の会話からわかるように、さゆりんパパの性格にはちと難がある。

 一言で表すと、子煩悩。

 二言で表すと、攻撃的な子煩悩。

 三言で表すと、恐ろしく攻撃的な子煩悩だ。








 以前、ここに招かれて遊びに来た時などはすごかった。

 あくまでも『友人』として来たにも関わらず、さゆりんパパがこちらを見た瞬間、日本刀を振りかざして襲い掛かってきた時の光景は忘れられない。

 夜の校舎での鍛錬がなかったら、この世にいなかったね、俺。

 メイドさんたちに押さえつけられて、さゆりんパパが退場したあとに佐祐理さんに聞いてみた。



 『今の狂戦士は誰ですか?』

 『あははーっ、狂戦士じゃないですよー。佐祐理のお父様です』

 『…………それが何で襲い掛かってきたんですか?』

 『さ、さぁ……いつもは優しいお父様なんですけど……』

 『この家の優しさは俺には合わないみたいだ』

 『ふぇ……佐祐理だって、今みたいなことは初めてですよ』


 『む、娘が、お、男を連れ込んできたーーーー! 切る斬るKILLーーーーー!!!』


 遠くでそんな声が聞こえてきた。


 『…………』

 『…………』

 『きょ、今日は間が悪いみたいだから帰るわ。ごめんな佐祐理さん』

 『あ、あははーっ……』




 まぁ、こういうことがあったので、なるべくなら来たくはなかったのだ。

 しかし、今回はそうも言ってられない。

 とはいえ、怖いのも事実なので聞くこと聞いてさっさと撤退したいところだ。


 「ところで、佐祐理さんがこの頃よくこの屋敷に帰ってきてるって聞いたんだけど……」

 「ええ、お嬢様はここ最近はよくお屋敷に帰ってこられるようになりましたな」

 「何をしに来てるかとか、わかります?」

 「はい、お嬢様はよく奥様に会いに行かれていましたな。何か相談でもあったのでは無いでしょうか?」

 「なるほど……やっぱり何か悩みがあるみたいだな」

 「では奥様に会って行かれますかな?」

 「モチのロンです」

 「かしこまりました。お部屋まで案内させていただきます」


 そういってトコトコと歩き出すセバス(仮名)

 なんと言うか……自慢ではないが結構な修羅場を潜り抜けてきたと自負してる俺から見ても前を歩く老執事にはスキが無く、流れるような動作だ。

 昨今の執事というものにはそういったスキルも必要なのだろうか?

 でも、それにしてはメイドさん達はスキだらけというか無防備というか迂闊というか……いわゆるドジな娘さんが多いのだろうか?

 多分、この執事さんがメイドさん達を指揮していると思うのだけど……

 いや、見た目だけで判断するのは良くない。

 実はこの後ろに付いて来てるメイドさんも、いざという時には凄いのかもしれない。


 「あ、これ持ってて」


 と、手土産に持ってきていた、うまい棒(コンソメ風味)×20本=1袋をメイドさんに向かって不意討ち気味に放り投げてみる。

 なぜ手土産がうまい棒なのかは秘密だ。

 ちなみに、この秘密を解く鍵は俺のサイフの中身とだけ言っておこう。


 「え? わ!? わ!?」


 いきなりの事にあたふたしているメイドさんにうまい棒が顔面に直撃した。

 軽いのでダメージは皆無だ。

 ちなみに不意討ちとはいえ、普通の反射神経の持ち主なら受け取れる位の遅さだった。


 「す、すみません。いきなりだったものですから……」


 ペコペコと謝るメイドさん。

 悪いのはこっちなんだけどなー?


 「いや、こっちこそいきなり放ってすみませんでした」


 そういって、落ちたうまい棒を拾う俺。

 そしておもむろに拾い上げて……


 ビュン! ←執事に向かって全力投棒。

 パシ。  ←こともなげにキャッチした。


 「なんの……おつもりですかな?」

 「いや、ちょっと疑問に思って……」

 「疑問とは?」

 「ほら、セバスってさ、無茶苦茶隙が無いのに、どうしてメイドさん達は隙だらけというか迂闊というか……」

 「なるほど……そういうことですか。その事の原因は全て旦那様にございます」

 「……?」

 「見ての通り、この屋敷は広いです。ですからメイドを雇おうということになったのですが……旦那様はその際に一つ条件を出したのです」

 「ま、まさか……」

 「旦那様は威厳のある声でこう仰られました……『メイドはドジな娘で無ければならぬ』と、私はその色々な物全てをかなぐり捨ててまで、その境地を求めた旦那様に心を打たれまして……」

 「もういいです……」


 なんとなく、佐祐理さんの父親の人間像が掴めた様な気がした。

 出来ることなら、あまり掴みたく無かったが。

 そんなことを考えながら歩いていると、急に前のセバスが立ち止まった。

 そしてその横には一つの扉。


 「こちらのお部屋にございます」

 「どうもすみません」


 俺は軽く頭を下げて礼を言った。

 そして、ほとんど存在を忘れていたうまい棒を受け取り、ノックをしようとしたところで……


 「ところで相沢様、少々つかぬことをお聞きしますが……」

 「ん?」

 「先ほどの……『セバス』というのは、もしかして私のことでございましょうか?」















 コンコン。


 これぞまさしく標準的なノック音と言わんばかりのノックを響かせて俺は扉の前で相手の反応を待つ。

 うーん。

 何となく勢いのようなものでここまで来てしまったが……よく考えたら佐祐理さんの母親には会ったこと無いな。

 どんな人なんだろうか?

 これで母親まで、さゆりんパパと似たような性格だったら、半ば本気で駆け落ちとか考えちゃってみる所存である。


 「は〜い、開いているから入ってらっしゃい」


 ドアの奥から佐祐理さんによく似た声がした。

 言葉に従い、ドアを開けて中に入る。

 そこには佐祐理さんの母親が優雅に紅茶を飲みながら高そうな椅子に座っていた。


 「あ、あらら? てっきり佐祐理だと思っていたら……あなたが相沢祐一君ね?」

 「あ、はい、初めまして、相沢祐一です。佐祐理さんにはいつもお世話になってます」

 「いえいえ、こちらこそ娘がいつもご迷惑をかけているんじゃありませんか?」


 はにかみながら答えるさゆりんママ。

 なんというか……柔らかい印象をうける。

 佐祐理さんも年を重ねるとこんな感じになるのだろうか?


 「それで……今日はどういったご用件で……って、娘の彼氏ですものね、愚問だったかしら?」

 「あっ、いえ、その彼氏というか……なんというか……俺はまだ高校も出てないガキですから」


 彼氏と言われてパニくる俺。

 我ながら何を口走っているのやら……


 「あら、肩書きなんて関係ないですよ? 互いに想う気持ちがあれば立派な恋人同士なんですから」

 「あ〜、う〜、そうですけど……」

 「それとも相沢さんにとっては、娘は遊びなんですか?」

 「いえ! そんなことないです! 俺は真剣に佐祐理さんのこと……」


 あ……。

 何を言っているんだ俺は……。

 なんか、目の前のマダムはくすくすと笑ってるし……。


 「佐祐理さんのこと……親友だと思ってマスヨ?」

 「うふふ……娘の彼氏さんは照れ屋さんなんですね」

 「ぐぁ……」


 ダメだ、いいようにおちょくられてる。

 むしろ、佐祐理さん、舞以上に勝てる気がしない。


 「うふふ……相沢君、可愛いわね。娘が気に入るのもわかる気がするわ〜♪」

 「か、可愛いって……」


 顔が赤くなるのがわかる。

 そんな顔を見られたくない一心で俯く俺にさらに追い討ちがかけられる。


 ふよん。


 ソレは言葉にして表すとそんな感じだった。

 ふよんふよん、と頭垂れる俺の後頭部に感じられる感触。

 そしてそれと同時に背中に回される腕。


 「って、なにしてるんですかーっ!?」

 「あらら……ウブねぇ……でも、娘にはこれくらいのことを、いつもされているんじゃないのかしら? それとももっと凄いことされているとか?」


 探るような感じで聞いてくるさゆりんママ。

 それよりも、諸所の事情により早く離れて欲しいのだが。


 「いや、それは、その……」

 「うふふっ、知ってるかしら、相沢君?」

 「な、何をですか?」

 「私と佐祐理は好みが似てるんですよ?」

 「どういう意味なんです……?」

 「私が嫌いなものは大抵の場合、娘も嫌いで、娘が好きなものは私も好きなんですよ?」


 まずい。

 まずいよ俺。

 この人、本当に一筋縄ではいかない。

 舞や佐祐理さんにはない、熟成された色気のようなものがある。

 人妻恐るべし……


 「佐祐理とケンカしたんですって?」

 「え、あっ、はい。ケンカって言うより、なんだかすれ違いっていうか……最近の佐祐理さんの様子がおかしいので聞きに来たんです」

 「あら? どうして直接佐祐理に聞かないのかしら?」

 「それは…………あれ? そう言えば、どうして直接聞くって選択肢が浮かばなかったんだ?」

 「なるほどね。確かに佐祐理のお話通りの方だわ」

 「え?」

 「娘曰く、すごく優しくて、すごく頼りがいがあって、すごく可愛くて、すごく鈍感で、ちょっとえっちですって♪」

 「ぐぁ……」


 一体、どんな俺の噂を流してるんだ、あのお嬢様は……

 特に最後の。

 親父さんが聞いてたらどうするつもりだったんだろうか?


 「悩み事が何かわからない以上、直接聞くのは傷つけてしまうかも知れない、でも何か力になってあげたい。だから直接聞かなかったのでしょう?」

 「そんな……買いかぶりですよ。本当に思いつかなかっただけなんですから」

 「それに、本当に可愛いし……それにこの体勢から変えようとしないところも、ちょっぴりえっちですしね」

 「うわっ!? す、すいません!」


 慌てて身体を離そうとしたとき……



 ガチャ。



 「お母様。ちょっと相談を…………え?」


 ……最悪。

 間が悪すぎることに、完璧にこれ以上無い位のタイミングで佐祐理さんが部屋に入ってきた。

 目を見開いたまま微動だにしない。

 むしろ、微動だに出来ないといった方が正しいのか。

 母親に何かしら相談をしに来たら、そこには何故か彼氏がいて母親と妙な体勢で抱き合っていて固まっている。

 準備も無しにこんな光景見せられたら誰だって固まるだろう。


 「…………」

 「…………」

 「…………」


 訪れる沈黙。

 何を言ってもロクなことにならなさそうな気がしたので何も言わない。

 そもそも、今は佐祐理さんにとっては俺はケンカ相手である。

 何を言っても聞き入れてくれそうにない。


 「…………っ!」


 キッ、とこちらを睨みつける佐祐理さん。

 こんな怒ってる佐祐理さんは初めてだ。

 そして睨みつけたままこちらに向かってくる。

 目の前まで来て……


 グイ。


 無理矢理ひきはがす様に俺の腕をとり、その胸に抱きしめる佐祐理さん。

 上目使いで瞳の端には涙が溜まっており、今にも『う〜』という威嚇音が聞こえてきそうだ。

 まるで、子供を外敵から守る親猫みたいな感じで母親を威嚇してる佐祐理さん。

 不謹慎だが、そんな新たな一面を見せられて、可愛い、とか、土産のうまい棒踏んじゃってるよお嬢様、などと崩壊寸前の脳ミソで考える俺。

 我ながら、どうやらかなりいい感じでテンパっているらしい。


 「さ……」

 「「さ?」」

 「佐祐理の祐一さんに手を出さないで下さいっ!」

 「え? あ、ちょっ、佐祐理?」

 「……行きますよ、祐一さん」


 おろおろと困惑するだけの母親を残して、佐祐理さんは俺の腕を掴んだまま部屋から出てしまった。








 部屋から出た佐祐理さんはしばらく無言で歩いていたが、急に立ち止まって重い口を開いた。


 「……なんで、こんな所にいるんですか」

 「いや、それは……」

 「なんでお母様と抱き合ってたりしてるんですか!?」


 ほんと、なんでだろうとこっちが聞きたいぐらいだ。

 少なくとも俺の意思ではない。


 「あんな事のあった直後に…………佐祐理をバカにしてるんですか?」

 「ちょっと、今日の佐祐理さん、おかしいぞ?」

 「おかしいのは祐一さんです! …………あ、なるほど、そうだったんですね」


 あ。 と妙案を思いついたとばかりに笑顔になる佐祐理さん。

 でも、その笑顔はどこか自嘲めいていて……とても佐祐理さんに似合うものとは思えなかった。


 「祐一さんは佐祐理のこと、何とも思ってなかったんですよね? だからこんなこと出来るんです。あはは……佐祐理ばっかり舞い上がっていてバカですよね? 本命は誰なんです? やっぱり舞? それとも従兄妹さんですか? あの方も可愛いですもんねー。それともあのストールの後輩の娘ですか? それとも前に校門で待っていた娘ですか? 断言してもいいですけど、今言った娘、みんな祐一さんのこと好きですよ? あ、それとも既にみんなお手つきなんですか? 舞と佐祐理にそうしたように……」

 「佐祐理さん!」


 あはは……と、どこか壊れた笑顔を浮かべる佐祐理さんを強く抱き締める。

 違う! と。

 俺は佐祐理さんが好きなんだ! と。

 俺には舞と佐祐理さんしかいないんだ! と伝えるように。

 ぎゅっ、と強く抱きしめた。


 だが……


 「やめて……ください」


 佐祐理さんの口から漏れたのは拒絶。

 次の瞬間、俺を突き放して瞳に涙をいっぱい溜めて言った。


 「もう、佐祐理に優しくしないで下さい」


 それだけ言って佐祐理さんは俺に背を向けて廊下を歩いていった。







 「……で、ここはどこなんだよ」


 そんなお約束の言葉を聞くものは当然いなかった。

















 雪こそ降らないものの、外にいるには少々……いや、かなり無理がある気温の中、俺は公園のベンチに座っていた。

 そしてただボーっと誰もいない公園の景色を見ていた。

 公園には寒いせいか俺以外は誰もおらず、遠くで底抜けにお気楽なクリスマスソングが流れている。

 遠くから聞こえる音楽を聴いて、ああ、そう言えばもうすぐクリスマスだったな……などと思い出す。


 本当ならクリスマスの下準備ぐらいしてる頃だな。

 二人へのプレゼントは何がいいだろう?

 でも俺、あんまりお金持ってないからなぁ。

 舞や佐祐理さんは何贈っても喜びそうだから、だからこそちゃんとした物を贈りたいよなぁ。

 でも、勉強もしないといけないのも事実なんだよなぁ。

 やっぱり、舞と佐祐理さんと一緒の大学に行きたいし。


 そんなことを考えてすごせる12月になる筈だった。

 そうある筈だったのに……

 どこで間違ったのだろう?


 ベンチから立ち上がって公園を後にする。

 別にどこに行く当てもない。

 ただじっとしていたら、鬱になるだけだったから歩くだけ。

 しばらく商店街を歩いてみる。

 がやがやと人ごみの喧騒がうるさいような気がするが、そのことに思考が裂かれてかえってよかった。

 歩き続けていたら商店街を抜けた。

 一直線に歩き続けてたんだから当然だ。

 戻ろうと思ったが、振り向くことすら億劫だったので、そのまま歩き続けた。

 駅前を通り過ぎ、あぜ道も歩みを止めることなく、気がつけば大きな切り株の前にいた。

 ここは何処なんだろう?

 どうやってここまで来たんだろう?

 どうしてここで立ち止まってしまったんだろう?

 きっと偶然にたどり着いただけの場所。

 それなのに、ここから先に行こうとは思わなかった。

 それどころか、きっと目的地はここだったんだ、というような気すらしてくる。

 なんなんだろう、この感覚は。

 ここに居たいような気がするくせに、ここから一刻も早く去ってしまいたい。

 変だ。

 俺はしばらくその切り株に腰掛けていた。

 まるで誰かを待つように。

 きっと待ち人は来ない。

 それでも、どうしてか腰を上げることはできない。

 さらにしばらくすると、雪が降ってきた。

 白い雪は俺の身体に当たると水になって消えていく。

 花の命は短いというけれど、雪の命はさらに短い。

 そういうことを考えると、俺の恋なんていうのはさながら雪のようだったんだろう。

 きっと、ただ消えていくだけのもの。


 伝わらなかった。

 俺が佐祐理さんを愛しているということを。

 拒絶された。

 佐祐理さんに。


 文にしてしまえば、たったそれだけのこと。

 たったそれだけ……

 たったそれだけなのに……それは決定的なものだった。

 俺の中の佐祐理さんに対する全てが否定されたような気がした。

 佐祐理さんが何を悩んでいたのかは知らない。

 だけど、もうそんなことどうでも良かった。


 倉田佐祐理は相沢祐一を拒絶した。


 それだけが真実なのだから。











 雪が降っても動く気になれない俺はそのまま切り株に座っていた。

 しんしんと降り積もる雪が体温を奪っていく。

 でもあまり気にならない。

 何故ならきっと、心の方がもっと冷たいから。

 ふ、と。

 それは突然現れた。

 いや、俺が鈍感だったから気付けなかっただけかも知れない。

 気が付けば、後ろに何かの気配があった。

 動物とかではなく……さりとて人間とも違うような……不思議な感じがした。


 「こんなところでいたら、風邪ひくよ?」


 声からして女の子らしい。

 正直、誰とも話したくは無かったが、不思議と答えないと後悔するような気がした。

 ただ、振り向くのが億劫だったので、そのままで答えた。


 「ああ、風邪ひくな」

 「帰らないの?」

 「帰らない」

 「どうして?」

 「さぁ?」

 「うぐぅ! マジメに答えてよ」

 「俺はいつだって本気だ」

 「答えているようで、微妙に答えてないよ」

 「わがままな奴だな」

 「うぐぅ……言ってることが無茶苦茶だよ」

 「気のせいだ」

 「……ところで、こんな所で何をしてるの?」

 「何しているように見える?」

 「寝ようとしてるみたいに見えるけど……」

 「なるほど、お前は俺に死んで欲しいみたいだな」

 「うぐ?」

 「こんなクソ寒いところで眠ってみろ、次に目を開けたらここじゃなくて、別のお花畑とかで目を覚ましそうなんだが」

 「お花畑?」

 「……わからんならそれでいい」


 しかし、なんだって俺はこんな所で得体の知れない奴とこんな会話をしてるんだろう?

 俺は自分自身、もっと落ち込んでると思っていた。

 少なくとも、今年いっぱいは立ち直れないような気がしてたし。

 俺は冷たい人間なんだろう。

 だから、すぐにこんな会話だって出来る。

 だから7年前の事だって忘れる。

 未だ思い出せやしない。


 「……もう真っ暗だよ?」

 「月が綺麗だな」

 「そうじゃなくて……いつまでもこんな所にいちゃダメだよ?」

 「お互い様だ」

 「うぐぅ……舞さんも佐祐理さんも心配してると思うよ?」

 「舞はともかく……佐祐理さんはそんなことないさ」


 どうしてこいつが舞と佐祐理さんを知っているのかは知らない。

 別に詮索する必要もないし、そんな権利もない。


 「佐祐理さんと……何かあったの?」

 「おう、なんかよくわからんがフられた。まぁ半分は俺のせいなんだけどな」

 「ふぅーん、じゃあ、残りの半分は?」

 「わからない。佐祐理さんの様子がおかしいのはわかるんだが、原因がな……まぁ、もう俺には関係ないことなんだが」

 「諦めちゃうの?」

 「諦めるも何も……相手が嫌だって言ってるのに無理矢理迫るわけにもいかないだろ……ってなんで見知らずのお前にこんなこと話してるんだろな」

 「……………………そっか」


 何も言わない。

 ただ、この時間が何となく居心地のいいものだという事だけが、俺の真実だった。

 こいつのことなんて何も知らない。

 でも、それなのにずっと待ち焦がれていた様な気もする。

 でも、同時に恐れも感じている。

 絶妙なバランスの上で成り立っている出会いのような気がして……

 何か間違えたら終わる時間、そういった気がしてならない。


 「……ねぇ」

 「ん?」

 「教えてあげよっか? 佐祐理さんが何に悩んでいたか」

 「……………………」

 「聞きたくないなら言わない。でも、祐一くんは知っておかなくちゃいけないとボクは思うよ」

 「…………わかった。こんなことになった原因を知る権利くらいはあるよな?」

 「もちろんだよ」




















 「祐一さん、遅いわねぇ」


 現在、22:34

 いつもなら、遅くなる時は連絡を入れてくれていたのに。

 祐一さんも彼女の家に行って嬉しい気持ちもわかりますけど、連絡はちゃんととってもらわないと……


 「どうせ、美人の先輩の家でいちゃついてるんだよ。祐一なんて美人に弱いんだから」


 名雪は膨れながらそうもらした。

 この時間まで起きているのは祐一さんの為でしょう。

 拗ねている娘もかわいいが、そろそろ祐一さんのことを諦めてもらわないとこの先心配だわ。


 「このごろ祐一、家にいないからつまんない」


 真琴は祐一さんに構ってもらえなくて寂しそう。

 今度、祐一さんに真琴のことも構ってあげるように言って置かないと……


 「少し心配ですし、一応連絡を取ってみましょう」


 家の電話を使って祐一さんの携帯にかけるものの、電源を入れていないか電波が届かないところにいるみたい。

 仕方ないので、舞ちゃんと佐祐理ちゃんの家に直接かけてみましょう。


 『あははーっ、倉田&川澄ですけど、どちら様ですかー?』

 「あらあら、いつも元気ですね」

 『ふぇ? 秋子さんですか? どうしたんですか?』

 「そちらに祐一さんはお邪魔しているかしら?」

 『え? 祐一さん、お家に帰ってないんですか?』

 「ええ、どこかで寄り道でもしているのかしら?」

 『ふぇ? 佐祐理が最後に会ったのは夕方前ですよ? もしかして……まだ帰っていないんですか?』

 「ええ、どこ行ったのかしら……」

 『……………………』

 「……? 佐祐理ちゃん?」

 『はぇっ!? す、すいません』

 「何かあったのですか?」

 『はい……実は…………』















 事情を聞いた俺は、ようやく佐祐理さんの態度に納得した。

 納得はしたが……


 「まぁ、要するに、全ては俺の信用が足りなかったんだな」


 結局はそこに行き着いた。

 俺がもっと佐祐理さんに信頼されていたらこんな事にはならなかったであろう事態。

 それが今回の事件の全てだった。


 「ま、仕方ないよな……」

 「…………行かないの?」

 「何処へ?」

 「佐祐理さんと舞さんのところ」

 「行っても仕方ないさ」


 そう言って空を見上げる。

 綺麗な月が新円を描き、それを飾り付けるかのように舞い散る粉雪のダンス。

 それはとても綺麗で、今この場から動いてしまう事がとてももったいない事の様に思えた。


 「佐祐理さんと舞さん、きっと祐一くんのこと……待ってるよ?」

 「待っているかも知れないが……」


 今はお前と一緒の方がいい。

 それが偽らざる本心。

 だけどそれは決定的な言葉。

 言ってはいけない言葉。


 「……動くのも面倒くさいしな」

 「……ものぐさだね」

 「なんとでも言え」


 お茶を濁した俺の心情を知ってか知らずか、深く追求しようとはしなかった。

 しばらく、静寂が俺たちを包む。


 「じゃあさ……」


 トン、と誰かが背中を合わせる音。

 俺の背にもたれかかってきているらしい。


 「祐一くんが寝るまでにここに佐祐理さんが来たら、佐祐理さんと仲直りする。 来なかったら……ボクと一緒にいこう」

 「…………そうだな」


 何処にいくのか……大して気にはならなかった。

 きっと、どうでも良かったんだろう。

 重要なのは場所じゃなかったのだから。


 「だから、それまでは…………一緒にいようよ」

 「ああ……俺が眠るまでな」


 俺は身体に積もる雪も気にせずに空を見つめ続けていた。

 まるで今まで出来なかった事を噛み締めるかのように。

 いや、きっと本当に出来なかった事だったんだろう。


 だから……

 きっと……

 この場所だけが……

 それが出来る聖域。

 絶対に誰も立ち入ることが許されない最後の場所。






















 『祐一……見つかった?』

 「いえ……ごめんなさいね、うちの祐一さんがご心配おかけして……」


 携帯ごしの舞ちゃんの声はいつもより元気がないようだった。

 祐一さんの行きそうな所は、全部電話をかけてみたのですが……

 舞ちゃんと佐祐理ちゃんも外を探してくれているみたいですが、見つかっていないみたい。


 『どこ行っちゃったの……祐一』

 「もう、他に祐一さんの行きそうな場所なん……て……」

 『……? どうしたの?』


 いえ、まさか……

 しかし、もう、あそこしか心当たりが……


 「…………林の奥の方にいるかも知れません」

 『……?』

 「昔……祐一さんがあゆちゃんの事を忘れるより、もっと昔……あゆちゃんが事故に遭った場所なんです」




 そう、祐一さんはあゆちゃんの事を忘れている。

 祐一さんが家に来て一月ほど経った頃、唐突に祐一さんはあゆちゃんのことを完全に忘れていた。

 あゆちゃんの姿もそれ以来、見ていない。

 二人に何があったのかは知らない。

 でも、あんなに仲の良かった二人がこんなことになるなんて思いもしなかった。

 どんなに思い出させようとしても、次の日になれば全て忘れていた。

 最初は演技の様にも見えましたが、どうも違うみたいで。

 ただ、冬が近づくにつれ、祐一さんは理由もなく呆けることがあった。

 それが起こるのは大抵、あゆちゃんに関わりのあるものを見た時。

 だけど祐一さんは完全にあゆちゃんのことは忘れていると見て間違いはないでしょう。


 ……だからこそ痛い。


 あゆちゃんに関する全ての事を忘れ去ってしまっても、それでも尚、いまだ何かが繋がっていることが。

 祐一さん本人も薄々は気付いているのかも知れない。

 具体的なことはともかく、違和感ぐらいは感じていてもおかしくはない。

 そして、そんな全てを忘れてしまった祐一さんが気付けるようなことを、恋人である二人が気付けないわけがない。

 二人はあゆちゃんのことを知っている。

 祐一さんが、あゆちゃんのことを忘れてしまっていることも。


 二人は恋人で……

 それでも祐一さんの心は、まだ無自覚にでもあゆちゃんと繋がっていて……

 だけど、祐一さんの二人を想う心もやっぱり本物で……

 だからきっと、二人は痛くて痛くて堪らなくて……

 祐一さんに愛されながらも裏切られていることがやるせなくて……

 それでもやっぱり二人は祐一さんのことが好きだった。


 そこにきて、今回の佐祐理ちゃんの一件。

 佐祐理ちゃんは妊娠してしまった事を悩んでいた。

 もちろん、祐一さんの子。

 しかし、彼らはまだ学生だ。

 3人にとって最善の方法はわかりきっている。

 でも、頭でわかっていても、それは心とは別問題。

 佐祐理ちゃんは生みたい筈。

 祐一さんもきっと反対はしないでしょう。

 だけど、佐祐理ちゃんは不安だった。

 きっと、最後の一線で信用できなかった。

 その理由が祐一さんとあゆちゃんとの絆。

 全てを忘れてしまっても、それでも繋がり続ける祐一さんとあゆちゃんとの絆に、佐祐理ちゃんの祐一さんを信頼する心が屈した。

 最後の境界線を突き抜けることが出来なかった。

 皮肉な話だと思う。




 祐一さんと恋人同士になりつつも、最後の一線でためらわずにはいられない状態に置かれている佐祐理ちゃんと舞ちゃん。


 祐一さんに全てを忘れ去られてしまいつつも、未だ最後の絆だけは途切れることのないあゆちゃん。




 果たして、どちらの方が深く想われているのでしょうか?

 どちらの方が幸せなんでしょうか?

 残酷な二者択一。

 もしも思い出してしまえば、それに迫られるでしょう。

 そして、もしも祐一さんが本当に、あの事故現場に辿り着いていたとしたら……

 祐一さんは……



 『……わかった。林の奥を探してみる』

 「ええ、お願いしますね…………それと」

 『……なに?』

 「もしも、そこに祐一さんがいたのならば…………踏み込んであげてください」

 『……………………わかった』


 携帯が切れる。

 あとは三人しだい。

 祐一さんとあゆちゃんの絆は本物。

 だけど、舞ちゃんや佐祐理ちゃんとの絆だって本物のはず。

 私に出来るのは後押しくらい。

 願わくば、三人が幸せでありますよう。



















 スッ、と背後でそいつは立ち上がった。

 俺はまだ寝ていない。

 だけど、そいつは立ち上がった。

 それが答えだった。


 「もうすぐ来るね」

 「……わかるのか?」

 「うん。よかったね、祐一くん。舞さんと佐祐理さんに愛されているよ」

 「もしかして、三行半を叩きつけに来たのかもしれないぞ?」

 「うぐぅ、最後くらい真面目に答えてよ」

 「……そうだな。嬉しいぞ」

 「それが聞けて安心したよ。それじゃ、ボクはもうそろそろ帰るよ」


 背後の気配がうっすらと消えていく。

 俺は振り向こうとして……堪えた。

 振り向いたらいけない。

 きっと何かが壊れる。

 あいつの姿を見たら……きっと……


 「じゃあね、祐一くん」


 「あ……あ……」


 『約束……守ってくれてありがとう』


 あいつの最後の言葉が空にとけていく。

 最後まであいつの姿を見なかった。

 そのことを誇らしく思う気持ちと後悔する気持ちが混じり合わさっていく。

 そんな思考に堪えかねて空を見上げた。

 空には先ほどと多少位置を変えた新円の月。

 そしてそれを彩るように降りゆく粉雪。

 そんな粉雪の中に一瞬、舞い散る純白の羽が見えたような気がしたのは、気のせいだったのだろうか?

 空がぼやけてきた。

 俺はあいつがいなくなった切り株に腰掛けたまま、何をするでもなく、ただ空を見上げていた。








 「祐一!」

 「祐一さん!? 今のは!?」


 ほどなくして舞と佐祐理さんが来た。

 二人とも肩で息をしており、必死だったことが窺える。


 「さぁ? 天使でもいたんじゃないか? 二人があんまり急いで来るものだから驚いて逃げ出したんだろ?」


 自分でも驚くくらい低く冷ややかな声が出た。

 白状しよう。

 俺は今、今まで生きてきた人生の中で一番イラついてる。


 「……祐一?」

 「……祐一……さん?」


 不安げにこちらへ近づこうとする二人に、俺は言い放った。


 「来るな」

 「「……!?」」


 それは完全な拒絶の言葉。

 それにしても、舞はともかく佐祐理さんはなんで驚いているのだろう?

 昼間に俺を拒絶したのは佐祐理さん自身なのに。


 「ここから出て行け。ここは二人がいる場所じゃない」


 あいつに仲直りしろと言われているのに、まったく逆のことを言ってしまう。

 わかってる。

 自分でもわかっているんだ。

 イラつきの正体、それは二人がこの俺とあいつの聖域にいること自体に我慢がならないんだ。


 「来るな。ここから先は俺とあいつとの場所なんだ。これ以上踏み込んだら、たとえ舞や佐祐理さんだって許さない」


 そう、誰だって許さない。

 許さない。

 許さないって言ってるのに……

 やっぱり、二人は近づいてくるんだ。


 「どうして、踏み込ませてくれないんですか……佐祐理はずっと待っていました! 祐一さんの心の一番深い所に行ける時を!」

 「祐一はずるい……私たちの一番になったのに、祐一は私たちを祐一の一番にしてくれない」

 「何を言ってるんだ!? 俺は二人のことを一番大切に思っていた!」


 一歩一歩、ゆっくりと二人は近づいてくる。

 互いに秘めた胸の内を全てさらけ出しながら。


 「祐一さんは知らないかも知れませんが、祐一さんの一番は別の人がいたんです! わかりますか!? この辛さが!? その人はもういなくて超えようにも超えることが出来ないんです!」

 「祐一自身、気付いていないけど、祐一は今年の一月にその娘のことを全て忘れてしまった! それでも祐一は事ある毎にその娘のことを思い出そうとしていた!」

 「そんなことはない! それにそんなこと俺に一体どうしろって言うんだ! それだと俺自身、忘れているんだろ!?」


 ただの怒鳴り合い。

 心の内を吐き出していく行為をしながら、さらに距離は狭まる。


 「じゃあ、どうしろって言うんですか!? 仕方ないから諦めろとでも言うんですか! そんなの佐祐理は嫌です!」

 「祐一には私達だけを見ていて欲しい! 他の娘なんて見て欲しくない!」

 「だから踏み込むのか!? 親だって兄弟だって恋人だって踏み込める境界線があるはずだ! 誰だって踏み込めない場所だってある!」


 二人が目の前に辿り着く。

 二人は今度は黙っていた。


 「それでも、踏み込むのか!? 俺は二人のことが好きだ! 愛してる! 佐祐理さんに拒絶されたってそれは変わらない! だけど佐祐理さんが拒絶するってことは、それは佐祐理さんにも踏み込めない場所があるってことだろう!?」


 俺が身を切るような思いでそれを口にすると、佐祐理さんはポツリと小さな声を漏らした。


 「ど……して」

 「え?」

 「どうして、踏み込んでくれなかったんですか……佐祐理のそこに踏み込んでしまったら、自分のそこにも踏み込まれると思ったからですか?」

 「なっ!?」


 多分、図星。

 酷く動揺している自分がわかる。

 見透かされている。


 「祐一は踏み込ませてくれなかった。だから私たちは考えた。どうすれば祐一の一番になれるかを」

 「結局、どうしていいのかわからなかったので、真似をしてみることにしました」

 「真似?」

 「祐一の真似。祐一が踏み込んでくる様なら、同じようにして踏み込んでいく」

 「……踏み込まなかったら、どうするつもりだったんだ?」

 「それは……佐祐理たちは祐一さんにとってその程度の存在でしかなかったってことですから、二人でどこかに身を隠して当分は泣き寝入りですね」

 「結局、祐一は踏み込まなかった。だからこれは最後の恨み言。多分、もう会うこともない」


 そう言って二人は俺に背を向ける。

 後ろを向く時に、涙がこぼれた様に見えたのは錯覚ではないだろう。


 「……………………はぁ、そこまで言われるなんてな……ああ、もう、負けだ、負け! 俺の負けだ」


 背を向けた二人に、凍えきった身体をなんとか動かして抱きついた。

 二人を離れさせないように。


 「全部……知ってたんだ。二人が何を考えてるのかとかさ」

 「そんな!? どうして……」

 「時季を急ぎすぎたドジなサンタクロースに教えてもらったのさ」

 「知ってて、こんなことしたの?」


 ポコっと舞チョップが炸裂する。

 威力は低めだった。


 「知ってても、考えが変わらなかっただけさ。まぁ、忘れてる娘のこととかがチンプンカンプンだったこともあるけどな。でも結局二人に勝てる筈も無かったっていうことだ」

 「祐一さんはやっぱり、少しいじわるです」

 「まぁ、佐祐理さんの責任も取らないといけないみたいだしな」

 「……それも、知ってたの?」

 「最近のサンタは何でもお見通しらしいな」

 「生んでも……いいんですよね?」

 「拒否権なんて無いんでしょう?」

 「祐一さん♪」

 「祐一!」


 二人に抱きしめられて至福の俺。

 もう離しません! とばかりに抱きつく二人に、俺もさらに強く腕を回す。


 「さぁ、帰りましょう、祐一さん。今夜はうちに寄っていってくださいねー」

 「話し合うことがたくさんあるから…………それに今夜は離れたくない」

 「ああ、神よ、ついに舞が殺し文句を言えるほどに成長しました」

 「あははーっ、舞も大人になりましたねー」


 ビシッ

 ドスッ


 「きゃあ♪ きゃあ♪ きゃあ♪」

 「ま……舞、チョップと地獄突きは別物だぞ……」

 「祐一にはこれくらいしないと懲りないから……」


 舞、いきなりだが舞の愛に疑問を覚えてしまうぞ……

 俺は両手を二人に抱かれたまま、この場所をあとにする。

 最後にもう一度、この場所を目に焼き付けておこうと振り返る。


 「ふぇ? 祐一さん?」

 「……祐一?」

 「ああ、なんでもない、行こう」


 切り株の上に、ダッフルコートを着た少女が立って、笑いながら手を振っているように思えた。

 手を振り返したかったが、両手が塞がっているので、笑顔でそれに応えてから、前に向かって歩き出した。





















 翌日



 「太陽が黄色いぞ……」


 よろよろと布団から抜け出して時計を見る。

 13:37

 よし、今日は自主休校だ。

 そんなことを回転していない頭で考えていると部屋の扉が開く。


 「あははーっ、祐一さん、やっと起きましたねーっ」

 「……遅い」


 二人とも顔が赤い。

 多分、俺も真っ赤だと思う。


 「まぁ、昨夜の乱れっぷりは凄かったしな……一体、何ラウンドいたしたことか……」

 「もう、祐一さん。恥かしいんですから思い出させないで下さい!」

 「……祐一にはデリカシーが足りない」


 真っ赤になって言い返してくる二人が反則的にかわいいのでついつい虐めてしまうわけなのだが……


 「……だって、佐祐理はこれからそういう事は控えないといけませんから……」


 そう言って佐祐理さんは自分のお腹をなでる。


 「ですから、今の内にえっちな事をやりつくしておかないと、祐一さんが浮気しそうで……」

 「……同感」

 「ちょっと待ちなさい、そこのお姉さま二人。それだと俺が凄まじいスケベみたいじゃないか」

 「違うの?」

 「ふぇ? 違うのですか?」


 祐ちゃん泣きそうだ。

 二人の中の相沢祐一像の頭の大半はえっちな事で占められているらしい。


 「舞、祐一さんが浮気しないように、これからしばらくは舞が頑張ってくださいねー」

 「だから、その認識を改めてください、佐祐理さん……」

 「……佐祐理」

 「な〜に? 舞?」

 「……無理」

 「何が?」

 「祐一の浮気を止めること」

 「だから待て。舞、お前までそーいうこと言うか!?」


 俺の異論をさわやかに無視して、頬を染めてもじもじとしだす舞。

 舞のこういう仕草は俺がもっとも好きな箇所である。

 まぁ、そんな俺のささやかな幸せを吹き飛ばすような言葉が続くわけだが。


 「……その……こないの……」

 「「は?」」


 何が? と聞く前に言葉を続ける舞。


 「……私も出来たみたい」

 「…………」

 「…………」

 「…………」

 「…………」

 「…………」

 「…………」

 「…………」

 「…………」

 「……祐一、二児のパパ」


 刹那、俺と佐祐理さんの驚きの声がアパート中に響き渡る。





 俺と舞と佐祐理さんの物語は終わるどころか、登場人物も増えてまだまだ続きそうだ。















 雪降る季節に愛を込めて  FIN