蒼黒の空に淡雪が舞う。

 ひらひらと散る姿がまるで祝福してくれているようだなんて思うのは、やっぱり少し気恥ずかしい。

 けれど、そんなのも悪くないと、幸せというぬるま湯に浸かっている時は思ってしまうのか。

 華のような笑顔で隣を歩く彼女を見ていると、そんな恥ずかしい思考ばかりで、少し困る。




「綺麗ですね〜……」

「……寒いぞ」




 白い祝福を目の前にはしゃいでいる栞に対して思わずそっけない態度。

 ……いや、そんなジト目で睨むのはやめてくれ、本当に寒いんだ。




「――祐一さんは情緒がなさすぎですっ」

「雪国育ちの栞と比べて貰っても困る……ぞ」




 語尾が思わず震えて切れてしまうが、どうにもこうにも本当の事だから如何ともしがたい。

 特に彼女は真冬でも堂々と白くて寒いモノを食べ続けられるのだから。

 ……まあ、アレは一種の生き急ぎなんだろうと、最近はそう思うのだけれど。




「その割には随分と暖かそうな格好じゃないですか?」

「……黒は俺の趣味だ、それに暖かさはあんまり関係ないと思うんだが?」




 そりゃ、太陽が出ていれば黒は日光を吸収して熱いぐらいだが、あいにくと今は先程日が暮れたばかり時刻。

 漆黒のコートを纏っているとは言え、一定感覚で吹き続ける風が俺の体を苛み続けるのだ。

 それを考えると、白のセーターに青のロングスカート+お馴染みのストールという栞の格好は破格の薄着だと思うのだが。

 ……いかんせん本人がまったく寒がっていないのだから俺の心配はまったくの杞憂だ。




「むぅ、今なにか凄く馬鹿にされた気分になりました」

「……気のせいだ、栞の勘は香里の怒りに対するセンサー以外には役に立たないからな」




 寒さで思わず口が滑ったのか、掛け値無しの本音が出てしまった。

 隣に恐々と視線を移すと、ジト〜っとした双眸が俺を撃つ。

 ここで、それこそ失礼ですっ、とか何とか騒いでくれればいいのだが、逆に静かに視線を送ってくるときの方が怖い。

 ……アレだ、香里の拳が炸裂する時の眼に似てるからな。

 そんな所で姉妹だと感じたくは心底無いのだが、どうにも困った。




「……ハーゲンミッツのバニラ」

「な、何?」

「ハーゲンミッツのバニラで許してあげます」

「ま、待てそれは……」




 横暴だ、日本国憲法から逸脱しているぞっ、と叫ぼうとしたが次に続く言葉で完殺されてしまう。




「……夜の学校の中庭」

「うぐっ!?」

「慰み者にされたってお姉ちゃんに――」

「わ、分かった、それで手を打とう」




 あ、危ない、思わず若気の至りというヤツを香里に披露されて全裸逆さ吊りになる所だったぞ……。

 これが何とも思ってない事柄だったら俺も気にしない態度を取れるのだが、いかんせん多少罪悪感があるから始末に悪い。

 ……いやまぁ、自分のしでかした事なので言い訳するつもりはないが。




「わ〜い、じゃあ早速買いに行きましょう!!」

「……うぐぅ」

「祐一さん? どうしました?」

「何でもない……じゃあ、行くか?」

「はいっ♪」




 絶対に気にしてないだろって程の変わり身の早さで、俺の前方に駆け出す栞。

 思わず解読不能な言葉が飛び出すほど凹んだぞ……。

 それでもまぁ、この笑顔が見れるのならハーゲンミッツも高くはないか、と。

 ……そんな事を思ってしまう辺り、少し前の自分と比べると心中がちょっと複雑なのは秘密だ。
















 The Fake、The Dual Story
















 始まりは、その晩の一本の電話だった。

 寒さという現実から逃避した風呂上りの俺は、火照った体をソファーに預けながらぼうっと白い天井を見上げる。

 現在時刻は22時、普段の自分を省みると、寝るかどうか微妙な時間だ。

 全身が気だるさを覆っているので寝るのもやぶさかではないのだが……って眠気で口調がおかしくなってるな、俺。

 リビングには俺一人、電源がつきっぱなしのテレビが寂しさを強調しているよう。

 名雪はとっくにおねむの時間だし、秋子さんは……謎だ、秋子さんだし、という一言で納得できてしまうのも怖いが。




「……ま、寝るか」




 何やら微妙に負けた気分になるが、やることはないし、誰かをからかって遊ぶのも出来ない、寝るしかないのだ。

 テレビの電源とリビングの灯りを落として廊下に出ようとした瞬間、丁度角にあたる部分に設置されている電話が鳴り響く。

 ――PULLLL!

 こんな時間に誰だ、と首を捻ってみても廊下に鳴り響く音は変わらない、一つ溜息をついて受話器を取る。




「――はい、相……じゃなくて水瀬ですが」

「あ、祐一さんですか?」

「……栞か?」

「はいっ、あなたの白い恋人栞ですよっ!」

「……お菓子と同列?」

「え?」

「いや、何でもない、で、どうしたんだこんな時間に? ……しかも、電話口の相手を確かめる余裕もないほど焦って」

「えぅ……微妙に怒ってます?」

「あぁ、栞がそんな礼儀知らずだとは思わなかったんでな」

「で、でもでもっ、例えばですよ?」

「例えば??」

「『――ワタクシ、美坂と申しますが、相沢祐一さんはご在宅でしょうか?』とか私が言ったらどう思います?」

「どうって……そりゃ……」




 激しく微妙だ、言うまでもなくそんな麗美な口調で栞が電話を掛けてきた日には頭の中身を疑う。

 ……まぁ、例えが極端なのは栞らしいというか、何と言うか。




「……まあ、それはいい。で、本当にどうしたんだ?」




 ごほん、とワザとらしく咳をついて、先を促す。

 栞もそれが分かったのか、えへへ〜と少し嬉しそうにしながら言葉を続ける。

 ……俺の頬が少し熱くなってるのは気のせいだ、幻想だ。




「あの、ですね……明日の事なんですけど」

「明日? 日曜日なら家でごろごろしてるとか言ってなかったか?」

「それは祐一さんですっ!」

「うぐぅ……」




 そう言えば確かにどこか遊びに行こうと激しく誘われていた気がする。

 無論、恋人と何処かに出かけるのはやぶさかではないのだが……ここで大問題が一つ。

 正直この街の冬は都会育ちの俺には耐えられないぐらいに寒い。

 そりゃもう外に一歩でも出た瞬間に凍りつくというお約束の展開が待ち受けているぐらいには。

 ――閑話休題。

 寒いのは置いておいて、明日の話なら会ってからでも――という言葉を思わず飲み込んだ。

 何故って?

 その先に続いた栞の台詞が想像の遥か斜め上を行っていたからだ。




「そ、それでですね……明日、泊まりに来ませんかっ!?」

「――何?」




 思わず剣呑な口調で返してしまった事を反省するが、それすらも栞の言葉に掻き消されてしまう。

 確かに学校は休みで俺自身も最近の勉強ライフに行き詰ってきていた所だから、正直非常にありがたい話なのだが。

 最近のように勉強の合間に会うなんて寂しい事もせずに一日中べたべたしていられるし。

 というか泊まりという事は栞の両親も香里も居る訳で、顔突き合わせて過ごせと、俺に?

 ……何故か倒置法になってしまった心中は置いといて、割と混乱しているらしい俺に更に追い討ちが掛かる。




「明日、家に誰も居なくて、それで――」

「誰も、居ない……?」

「はい、お父さんとお母さんが明日から二人で温泉旅行に行く事になって、お姉ちゃんも明日だけは外せない用事があるって……」

「それは、あれか、二人きりって事か?」

「は、はい、それで……どうでしょうか?」




 ふぉおおおおおおおっと爆熱し始めた俺の脳内はとりあえず置いといて、実際問題最近は二人きりの時間もほとんど取れなかったから、正直嬉しい。

 俺の方が受験で忙しいのもそうだが、何と言うか、香里の目も厳しいしな。

 ご両親は割と認めてくれているみたいで、そっちはあまり苦労してないんだけど。

 見事な姉馬鹿となった香里の眼を潜り抜けていちゃいちゃするのは結構難しいんだ、ホント。




「……あ、いや、その、栞がいいなら喜んでお邪魔する」

「ほ、ほんとですかっ!?」

「おぅ、ホントだぞ」




 わーい、と電話口の向こうで喜びを表現する栞を尻目に、何と言うか久しぶりの高揚感を感じている。

 ここのところ本当に勉強尽くしで息が詰まってたからなぁ……。

 栞も喜んでくれているみたいだし、こういう突発的なイベントも悪くはない。




「じゃあ祐一さんっ、また明日ですっ!」

「おぅ、じゃあ今日は早く寝ろよ?」

「祐一さんこそ、悶々として眠れないんじゃないですか?」

「……生意気言うなぃ」

「えぅ、何で江戸前口調なんですか?」

「と、とにかく、また明日」

「はい、おやすみなさい、祐一さん」

「おやすみ、栞」




 ――カチャ、と静かに受話器を戻すと、何と言うか、一気に来た。

 遠足や修学旅行の前日みたいな、そんなノスタルジア。

 懐かしい、そして悪くない。

 そう思い、十分に睡眠を取る為に寝室へと足を――




「あら、お泊りですか?」

「…………………………………………ちなみに、いつから聞いてました?」

「あらあら、若いっていいですね、祐一さん」

「……秋子さぁ〜ん」




 頬をほんのりと桜色に染めて、少し濡れているほどけた髪、ここぞとばかりに風呂上りルックな秋子さんが人の話を聞いているのかいないのか、俺の背後に立っていた。

 ……なるほど、お風呂に入ってたのか、と思う暇も無く、秋子さんがにっこりと俺を見て微笑む。

 秋子さんの行動の謎が一つ解けたのはいいが、お返しとばかりに微笑まれてしまった夜だった――――
















 こんこんこん――。

 ドアを叩く音が聞こえる。秋子さんだろうか……?

 ぼーっとする頭で、そんなことを考える。

 俺は手を頭の上に伸ばすと、目覚まし時計を掴んだ。目を開け、霞む視界の中で、時計の針を見る。

 6時30分。

 ……おやすみ。

 俺は時計をそのまま枕元に置くと、再び寝ようと布団を頭の上まで掛けなおした。

 秋子さんがこんなに早く俺を起こそうとするはずがない、今日は休みだし、起こす理由がないからだ。

 ちなみに、名雪は最初から選択肢から削除。

 これらのことを踏まえた上で、俺はさっきの音を『気のせいだ』ということで無視することにした。

 ――がちゃっ。

 今度はドアが開く音がするが、俺は気にしない。




「……はぁ、やっぱり寝てる」




 どこかで聞いたことがある声が、耳に届く。しかし、やっぱりこれも幻聴だと自分に言い聞かせ無視した。

 すると今度は木目張りのフローリングの上を歩いてくる音が、段々と俺に近づいてきた。

 流石にここまでくると、無視するわけにもいかず、俺は緩慢な動作で上半身を起こした。ひょっとしたら秋子さんが何か用事があって起こしに来たのかもしれない、と考えを改めた。




「おはようございま――」




 挨拶をしようと、ドアの方を向き、声をかけた俺だった。が、そこに居た人物を見て固まってしまった。




「し、栞……?」

「な、何で?」

「もう、何でじゃないですよ。一緒にご飯を食べるって約束したのに起きないんですから――」




 ちょっとまった。俺が何月何日何時何分何秒にそんな約束をした? ……それ以前に、何で栞がここにいるんだ?

 一瞬の内に起きた頭で、色々なことが駆け巡るが、次に栞の口から出てきた言葉は、俺の思考を停止させるに値するものだった。 




「……じゃあ、早く起きてくださいね、お兄ちゃん」

「……ああ、分かった、けど栞、今何か聞きなれない言葉を吐かなかったか?」

「え、何のこと、おにいちゃん?」




 ……おかしい、疲れているのだろうか。

 栞は俺の恋人であって妹では決して無い。

 妹だったらあんなこんな事が出来ないうえに、四六時中一緒に居ることすらできやしない。

 ……いや、別に毎日香里に呆れられるほど惚気ているワケではないが、それこそ決して。

 学校の屋上で偶にキスしたり、土日はいつも一緒にいたり、そのぐらいの普通の恋人ラインだ、誰が何と言おうと普通の恋人同士だ。

 とにかく、俺と栞は恋人であって兄妹では――。




「もう、おにいちゃんってば、どうしたの?」




 とりあえず自分の後方を見回してみる。

 右を向き、左を向き。

 見慣れた自分の机に、本棚。

 でも、部屋の形が少し違うような気がする。

 そして、正面に向き直る。




「……おにいちゃん?」




 今度は真後ろを向いて、ついでにシーツをめくってみる。

 誰も居ないことを確認して、正面の栞と視線を合わせる。




「えぅ、おにいちゃんが反応してくれない……」




 何故か凹んでいる栞、何となく声を掛けづらくて、でも悪い予感だけは背中を這いずり回る。

 黙っているのも何なので、とりあえず先程からの疑問をぶつけてみる事にする。

 ……そ、そんなことありえるわけないしな。




「なぁ、栞?」

「えっ、何、おにいちゃん?」




 相も変わらず目の前の栞嬢はおにいちゃん発言。

 だがしかし、この部屋には俺と栞しか居ないはずなのに、それはおかしい。




「……なんでおにいちゃんなんだ、新手のプレイか?」

「え?」




 どうやら違ったようだ、表情が微妙に引き攣っている。

 しかも、何やらどんどんと顔面が蒼白になっている気が……。




「お、おにいちゃん大丈夫っ!? 記憶!? 記憶が飛んじゃったの!?」




 何やら凄く失礼な事を言われている気がするが、そこは黙殺。




「おにいちゃんって……俺か?」

「おにいちゃん以外に私のおにいちゃんがどこにいるのよっ!」




 いや、微妙に文法おかしいからな栞。

 という突っ込みは置いておいて、ついに俺の思考は確信へと辿り着く。




「おにいちゃん、俺が?」

 微妙に涙目な栞が可愛いと思ったのは秘密だ。

「で、妹の栞が兄の俺を起こしに来た?」

 更にうんと頷く、だんだんと目尻に涙が溜まってくる。

「……ようするに、俺は栞の兄貴?」

 うんうんと栞が頷く、両目が今にも決壊しそうなぐらいに潤んでいる。




「――Good Night」

「なんでっ!?」




 それはアレか、いきなり英語なのに突っ込みたいのか、現状認識に突っ込みたいのかどっちだ。

 それにしても、俺の脳内がここまで逝っちゃってたとは思わなかったぞ、夢とは言え栞が妹としてゲスト出演とは。

 まぁアレだ、決して俺は妹スキーとかじゃないけど、こういうのも悪くない。

 けど今日の俺には現実世界の栞と遊ぶという使命があるから、今すぐ眼を覚まさないといけないのだ。

 さらば、夢幻世界の栞よ(妹ver)……。

 ぐぅ……。




「――いいから起きなさいこのぐうたら兄貴っ!!」

「ぐはぁっ!?」




 な、なんだ、この腰の入った強烈な一撃は。

 まるで成人女性の体重に重力加速度を乗算したような、そんな威力――。




「げほっ、げほっ……」

 思わずむせかえって両目を開けるとそこには、見慣れたウェーブの髪の少女。

「……か、香里?」

「そうよっ、栞が起こしにいったハズなのにいつまで経っても降りてこないと思ったらアンタはっ!」




 怒り心頭の彼女の体勢はまさに俺のみぞおちへのエルボー直撃5秒後。

 シーツの上から人の急所を見抜くとは、恐るべし……神の拳の所有者。

「兄さん、早く起きてくれないと片付かないんだからっ!」

 素人の域などとうに抜けている一撃に悶絶しながらその痛みに耐えていると、またしても見慣れぬ単語が香里の口から飛び出してくるのが聞こえる。

 というかこの痛み……夢じゃないのか?




「か、おり……?」

「何よ、兄さんも大学生だからっていつまでもぐーたらしてもらっても困るのよ!」




 ――ああ、香里まで俺の事を兄と呼ぶなんて、俺の脳よ、どうしちまったんだ。

 期末テストで4日連続一夜漬けをさせた反動なのか……それとも模試の結果をお前の出来のせいにしたからか。

 遠くなりかけた意識の中で、そんな事を思っていると、再び栞の声が聞こえてきた。




「お、おねえちゃん、ちょっとやりすぎなんじゃぁ……」

「栞、あなたは兄さんに甘いのよっ、冬季休講だからって日がら家のなかでごろごろごろごろ……。しかもっ、暇つぶしがてらあたしにちょっかいを掛けてきて!」




 そんなぐうたらな兄にはこの処遇が当然よっ、と香里が叫んでいるのが遠くの風景のように聞こえてくる。

 ……ああ、香里よ、お前ってば身内には容赦がないタイプだったんだなぁ。

 そんなコトを考えているのに気づいて、いつのまにかこの状況を認めてしまっている自分が悲しくなってくる。

 大体、香里と栞の兄が俺だって?

 そんなおいしいようで、その実おいしくない状況に陥るなんて夢にも思わなかった。

 夢にも思わないって事は、これは夢じゃないって事だ、少々逆説的だが。

 何故か俺の処遇についてぴーぴーと喧嘩を始めた栞と香里を尻目に、落ち着いて状況を判断する。




「大体おねえちゃんは――」

「アナタこそ、ほんとは朝の挨拶とか言いながら――」

 冷静に……。

「何ですか、おねえちゃんだってこのまえキスを――」

「な、なななな何で知ってるのよ!」

 冷静……。

「あーっ、やっぱり本当だったんですねっ!」

「――ま、まさか、そんなワケないじゃない」

 冷……。

「ええーいっ、人の部屋で朝から騒ぐなっ!!」

『きゃっ――!?』

 折角人がふぁんたじぃが過ぎる状況に対して少しでも冷静に対処しようと懸命な努力を続けているというのに。

「ちょ、前が――!?」

「わぷっ、見えませんっ」




 怒声と共に投げつけたシーツが二人の頭に落下し、被さる。

 その反動で二人がもつれあい、体勢を崩したところまでは良かったのだが――いかんせんその方向が悪かった。

 ……ここで青少年の諸兄に質問だ、男性特有の生理現象って何さ?

 そう、漫画や小説等でお約束のアレだ。

 言葉にするとあまりに下世話なので割愛させていただくが、無論俺とて漢のカテゴリーに属す存在、現象からは逃れられない。

 ――で、どうなったかと言うと、だ。




『きゃぁっ――!?』

「うわっ!?」

 どさっとシーツごと覆いかぶさってきた二人が、俺のあぐらを掻いていた上に乗っかる体勢。

「……ぐはっ!!」

「え……何か、生暖かいような……?」

「あ、ほんとです、何ですかコレ?」

「ちょ、ちょっとマテ二人共っ!!」

 栞が持ち前の好奇心でソレをぐにっと触る。

 ――ぎゅっ。

 エンジン50%のソレを思いのほか強い衝撃が襲う。

「――ぐほぁっ!?」

「え、おにいちゃん!?」

「兄さんっ!?」

 何か声にならぬ声を出したような気がしたが、俺の意識は闇の淵へと沈んでいった――。




「――って沈んだらマズイだろっ!? ……お?」

「兄さん……」

「おにいちゃん……」

 いやまて二人共、なんだその視線は、微妙に哀れみと侮蔑が混じった眼は。

 微妙なモノ握らされちゃったっていうその痛々しい双眸はっ!!

 ……いやまぁ、弁解の余地がないほどそりゃもう微妙なモノなんだが。

 というかよく命あったな、俺。




「――ゴホン!! じゃあ朝御飯出来てるから、早く着替えて降りてきて!!」

 バンっと勢いよくドアを開けて出て行く香里、おそらく彼女は脳内の黒歴史として先程の記憶を封印する道を選んだのだろう。

 無理もない、逆の立場だったら俺もそうする、遠慮無く。




「お、おにいちゃん……その、私……」

「あー、いや、なんだ、気にするな妹よ」

「う、うん、ごめんねおにいちゃん」

 そう言い残して静々と退室する栞、こちらは反対に自身が悪いと思っていてくれるらしく、何だか物凄く罪悪感をこちらが感じてしまう程の控えめな態度だ。

 ……ってさっき俺何て言った!?

「自然に栞のこと妹って呼んだな、俺」

 ば、馬鹿な、この不思議ワールドは俺の思考をも侵食していくのか――!!

 頭を抱えて苦悩するが、それで先程の事実が妹発言が消え去るワケじゃない。

 そんな時、階下から漂ってくる味噌汁の香り。

「……とりあえず」

 飯喰ってから考えようと思えた俺は、自分が思うより図太いのではなかろうか。

 ……うぐぅ。








「……で、兄さん?」

「うむ、香里の朝御飯はいつもおいしいな」

「あ、ありがと、兄さん」

「えぅ……私も手伝いましたっ」

「無論、栞のような料理上手の妹を持てて俺は幸せだぞ?」

「ふふふ、お姉ちゃん、負けませんよ?」

「……何の対抗よ、まったく」

 のほほんと三人でテーブルにつく俺達。

 俺の両脇に栞と香里という配置で、栞の手元には炊飯器、香里の側には台所とコンロの上の味噌汁。

 ――で、何故そんな配置になっているかと言うとだ。




「おにいちゃん、おかわりはどうですか?」

「ん? ああ、じゃあ貰うよ」

「……兄さん、お味噌汁は?」

「あ、ああ、じゃあ貰おうかな……」

 そして丁度中間地点、俺の目の前の虚空でぶつかり合う火花。

 何故かご飯と味噌汁のお椀が差し出されるのも同時だったりして。

「――あら、栞、無理しなくていいのよ、アナタ病弱なんだし?」

「お姉ちゃんこそ、お味噌汁ばっかり飲ませておにいちゃんを水ぶくれにするつもりですか?」

 ――ばちばちばち。

 更に加速する二人の軋轢。

 香里、病弱ってのは禁句じゃなかったのか?

 栞、水ぶくれは火傷だ、火傷。

 加速しすぎて周りが見えていない二人の間に挟まれる身にもなって見ろと、激しく主張したい。

 ……まあ、応える奴がいない主張なんて無意味なんだけどな、はぁ。




「……っていうか俺、この状況に馴染んでるし」

 そう、そうなのだ。

 火花を散らす二人はとりあえず置いといて、ここは一体何処なのか。

 作りだけを見ると、恐らくは美坂家なのだろうが、微妙に家全体が広い気がする、二階に俺の部屋もあったし。

 部屋に置かれていた私物は確かに俺の物だし、実はこれが最大の要因なのだが、記憶があるのだ。

 先程まではハッキリしなかったが、この二人の兄としての記憶が俺には、在る。

 美坂祐一、現在大学の一年生で、年は現在19。

 9の時に両親が交通事故でなくなって、美坂家に引き取られる。

 旧姓は相沢、両親同士が親友だったらしく、快く美坂家は俺を迎え入れてくれた。

 栞はともかく、香里とは色々あったのだが、今ではいい兄妹の関係だと自負している。

 故に、血は繋がってはいないものの、間違いなくこの二人の兄。

 ……ってそれがそもそもの間違いなんだってば。

 栞の恋人としての、相沢祐一としての自分も確かに在るのだ、でも今はその二つの記憶が混ざり合ってごっちゃになっている。

 その内俺がこっちに完全に馴染んでしまったらどうなるのか、考えるだけでも恐ろしい。

 ……いや、決してお兄ちゃんライフは悪くはないのだが。

 アレだ、二人を取って妹で我慢するか、一人を取って恋人としていちゃいちゃするか。

 そんな究極の選択は激しく却下したいのだが、どうやらこれは夢ではなくて現実らしいし、どうにかせねばならない。

 とにかく、困っているのだ、今現在の俺は。




「ごちそうさま」

『えっ!?』

 考えつつもぱくぱく箸を進めていた自分が少々恨めしいが、この状況を脱するには効果的だったのか、二人が争いをやめてこちらを注視する。

 そりゃもうじ〜っと、何かを期待した眼で。

「……うまかったぞ、二人共」

「あ、ありがと、兄さん」

「頑張ったかいがありましたっ」

 反応は見たとおりだが、香里、頬を染めて俯くのはやめとけ、可愛すぎるから。

 栞、満面の笑みで迫ってこないでくれ、何と言うか、凄く困る。

「い、いや、こっちこそいつも上手い飯を食べさせてもらってるしな」

 思わず二人から目線を外してしまう、照れ隠しに。

 何と言うか、凄くむず痒い。




「じゃ、じゃあその、あたしは行くから――」

「香里? 何処行くんだ?」

「図書館ですよ、おにいちゃん」

 頬を染めながらリビングを出て行こうとした香里の変わりに栞が俺の疑問に答える。

 なるほど、記憶だと香里は高校三年生、丁度受験シーズン真っ只中なのか。

「そうか、家だと俺達が邪魔になるもんな」

「ちょ――誰もそんな事――!!」

「そうですね、お姉ちゃんの邪魔しちゃいけませんから、おにいちゃんは私と出かけましょうか?」

「ん、そうだな、それもいいかな」

「二人共、話を――!」

「香里、そろそろ出なくていいのか?」

「……後で覚えときなさいよ?」

 ……香里、必死に弁明しようとして微妙に拗ねた表情も可愛いから迫力ないぞ。

 そう言おうとしたが、後どころか今がなくなりそうなので必死で堪えた。

「――じゃあ、行ってくるわ」

「おう、行ってらっしゃい」

「行ってらっしゃ〜い♪」

 にこやかに香里を送り出す栞と俺。

 香里が口元に凄惨な笑みを浮かべていたのはアレだ、気のせいと思いたい。




「……やばいかな」

「じゃあ、怒りが収まるまで逃げちゃいましょうか?」

 悪戯好きの瞳で栞が俺に言う。

 無論、それは魅力的な誘いだし、どうやって元の世界に戻ったらいいか分からない以上、少しでも楽しく過ごすのが有意義なんだが……。

 馴染んでしまうのは恐ろしいが、帰れる事については少しも不安に思っていないのに今更ながらに気づく。

 ……まぁ、考えても答えが出る問題じゃないし、脳が思考を拒否してるんだ、きっと。

 多分……。

 とりあえず、目の前にある問題を一つずつ片付けていけばいい。

 そう思うから。

「ああ、それもいいんだが、栞――」

「どうしました、おにいちゃん?」

「とりあえず先に皿を片付けるぞ」

「えぅ……あっさりとかわされた気分です」

「気のせいだ、大いに」

 何か今日、誤魔化してばっかだな、俺。

 ……ちょっと凹んだのは秘密だ。








「るる〜、ふふ〜ん♪」

「……」

「ふふふ〜ん♪」

「……なぁ、栞?」

「はい、何ですかおにいちゃん?」

「……いや、何でもない」

 ギュンって擬音がくっ付いて来そうなほど物凄いスピードで振り向かれた、しかも気味悪いぐらいの笑顔。

 アレか、そんなに香里を出し抜いてお出かけが楽しいのか。

 さっきから解読不能な鼻歌も聞こえてくるし。

 とりあえず、二人で出かける事になったのはいいのだが、問題は場所である。

 ……別に俺が方向音痴とかそういうのじゃなくて、純粋に行き先の問題だ。




「――なんでたいやき?」

「ぇー、前から食べたいと思ってたんですけど、駄目ですかおにいちゃん?」

 いや、駄目ってことはない……ないけど。

 俺の中で栞と言ったらバニラアイスで、冬でも何でも。

 生き急いでる感が無くなっても旨そうに食べてたからやっぱり大好物なんだなぁ、とか一人で納得してたワケで。

 そんな物思いに耽っていると、返事がないのを心配したのか栞の視線を感じる。




「おにいちゃん、どうしました?」

「……いや、何でもない、ここのたいやきはしっぽまであんこがギュっと詰まってるからな、旨いぞ」

「わっ、本当ですっ!」

 嬉しそうにぴょんと跳ねる栞、むぎゅっと雪を踏みしめる音が印象的だった。

 ……何となく頬が緩んでしまうのは、おにいちゃんが板についてきたせいなのか、複雑だ。

 というか、高校生にしては仕草が幼いのは気のせいか、妹よ。




「むむ……しょろしょろ時間でひゅね」

 たいやきを半分口に咥えながら、神妙な面持ちで呟く栞、何か約束でもあるのだろうか?

 と思いきや、ぱくっと残りのたいやきを一飲みしてむぐむぐと咀嚼した後に、俺のほうを振り返ってにっこりと笑う。

「な、何だ?」

「えへ……おにいちゃん、図書館に行きませんか?」

 商店街の出口に視線を向けながら、栞は楽しそうに言う。

「図書館って、何でまた?」

 お互い今すぐ勉強しなければマズイって時期でもないし、図書館って言ったら香里が……。

 そこまで思考して、ぽんっと手を打つ。

「……越後屋、そなたも悪よのう?」

「おだいかんさまにはかないませんよ〜、ほっほっほっ〜」

 ノリはいいが完全に棒読みだな、妹よ。

 ……まぁ、香里にたいやきを差し入れをするのも悪くはない。

「でも栞、あんまり邪魔しちゃ駄目だぞ?」

「大丈夫ですっ、危ないと思った瞬間には手が出てる自慢のお姉ちゃんですからっ!」

 ……それはフォローじゃないし、大丈夫でもないぞ?

 微妙に目の前の妹の将来が心配になった瞬間であった――。








 ……図書館への道を二人で歩く。

 例年通りに積もる雪だが、陽光に反射して輝く姿は悪くない。

 飽きるとか、そんな対象じゃないからかもな、とぼんやり考える。

「……寒い」

 不意に通り抜けた風邪が、俺のコートを揺らす。

 今現在の偽らざる気持ちだったが、どうやら前方1Mを歩くお姫様にはお気に召さなかったようだ。

 非常にぷにぷにとしたほっぺを微妙に膨らませてこちらを振り向く。

「おにいちゃん、さっきからそればっかりです!」

「……そうだったか?」

 俺は自分に正直をモットーに生きている漢であるからして、そりゃ思った事を口に出しているかも知れないが。

 どうやらそれが気の無い返事に聞こえたらしく、栞は更にぷくっと頬を膨らませて詰め寄ってきた。

 ――が、勢いが良すぎてというか何と言うか、見事にコケた。

「――きゃっ!?」

「っと……軽いな」

「あ、え……?」

 事後3秒、どうやらまだ状況を認識できていないらしく、目の焦点がイマイチあっていない。

 そのうち少しずつ判断力が戻ってきたのか、ぼっと頬が赤く燃えたかと思うと、バッと身を離す栞。

「わわっ、ごめんなさい!」

「いや、怪我は無いか?」

 とりあえず、身が触れただけで赤くなられても反応に困るからして、俺の頬もちょっと赤いかも知れない。

 思わず栞ではなくて蒼穹を眺めながらの返答になってしまう。

「……だ、大丈夫です。……おにいちゃんはいつも私の事を助けてくれますね」

「ん? あたりまえだろ、大切な妹なんだから」

「……」

 今の答えのどこが気に入らなかったと言うのか、目の前の栞はむむむぅと唸りながら俺の瞳を覗きこんでくる。

「ど、どうした?」

「私は――――いえ、なんでもないですっ」

 栞は言葉を切ったつもりだろうが、俺には聞こえていた。

 ――ずっと、いつまでも貴方の妹なんでしょうか、と。




「……やっと着いたぞ図書館、暖房は世界に於ける最大の発明だっ!」

「……ノーベル賞がとてつもなく低いハードルになるわね、その場合」

「む?」

 聞きなれた声だと思って振り向けば、そこには愛しの妹が立っていた。

 脇に抱えているのは参考書だろうか、学術書のようにも見えるが……。

「よう香里、休憩中だったか?」

「兄さんこそ、こんな所に何の用よ?」

「……何だっけ?」

「あのね……」

 本気で忘れたから思い出そうとしただけなのだが、香里は盛大に嘆息する。

 ……えーと、ああ思い出した、たいやきだ。

「思い出した、お前にたいやきを……って栞?」

「あの子なら兄さんが暖房のありがたみを感じてる間に奥のほうへ行ったわよ……お手洗いかしらね」

「む、見てたのか?」

「ええ、嫌な予感がしたから、物陰からね」

 さすがに学年一の秀才、勘も鋭い。

 栞の瞳から発せられていた悪戯好き光線を感知するとはっ!

 ……そんな感動ともつかない深い思いを抱きながら香里を眺めていると、ふと気づく。

「……おいしい夕飯100選」

「えっ!?」

 俺が香里の抱えている本の一番下のモノに気づくと、怪しいぐらいのリアクション。

 本気で隠したいなら一番下に入れた本はずらさない様に持っていった方がいいと思うぞ、香里。

 抱えられている本は少しずつずれながら重なっているので、ギリギリで本のタイトルが見えたのだ。

「あああああのっ、これはそのっ、きょ、今日はクリスマスでしょ、だから……」

 いや、別に料理書ぐらいでそんなに焦らなくてもいいと思うんだが……まぁいいか、頬を染めて必死にばたつく姿は可愛いし。

「……香里、あんまり騒ぐとまずい、さっきから司書さんの視線が痛いんだ、実は」

「え、あ――ご、ごめんなさい」

 にしても今日はクリスマスか……ってそうだっけ?

 ひどく違和感を感じたような気がするが、刹那の後に消え去ったので、深く考えるのはやめた。

 しゅんとしてしまった香里の姿に思わず堪えきれない笑みを浮かべながら、俺は柔らかそうな髪にぽんっと手を乗せる。

「――にいさん?」

「まぁ、妹の不出来を責任取るのも兄の役目だ、気にするな」

 おずっと上目使いの視線を向けてきた香里が、その台詞で何故かずーんと落ち込んでしまう。

 ……あれ、何か俺間違えた?

「か、香里、どうした?」

「いえ、何でもない、けど……」

 また聞こえてしまった。

 こういう所で栞と香里が姉妹なのだという事を実感したくはあまりない。

 暖風に乗って聞こえてきた香里の呟き。

 けど……私はいつまで兄さんの妹なのかな……か。




 そして、図書館での楽しい時も過ぎ去り、夕方。

 栞がたいやきを持って香里に突撃して怒られたり、休憩スペースに行ったら行ったで姉妹戦争が勃発するで、大変な時間だったけれど。

 何と言うか、アレだ、平和ってのはかくもいい物なのかと、しみじみ考えさせられてしまう。

「メリークリスマース、ですっ!」

「……前から思っていたんだが、その文言は恥ずかしくないか?」

 真っ赤な顔をした栞が、何故か椅子の上に立って叫ぶ。

 ……ああ、酒なんて飲ませるんじゃなかった。

「いいじゃない……年に一度の日なんだし、ね?」

 溶けるような口調で俺にしなだれかかってくる香里。

「か、香里、お前酔ってないか?」

「……うふふ。そういう兄さんこそ、顔が赤いわよ?」

 そりゃお前胸が当たってるからだ、とは口が裂けても言えない弱い兄であった。

 ……来年からはお酒は禁止にしよう、くそう、短時間に二度も同じ事を誓う羽目になるなんて。

 親父もお袋も、夫婦水入らずの温泉旅行とか言うヤツで、今この家に居るのは俺と二人の妹だけ。

 出発前の親父の笑みが、今になってこの状況を予測していた複雑な笑みだった事を思い出した。

「――じゃあ行ってくるが……頑張れよ、祐一」

 その時は首を捻るだけだったが、今なら分かる、苦労してるからこそ分かる、哀愁の笑みだって事を!!

「むむむっ、お姉ちゃんだけずるいですよっ!!」

 不意にこちらを向いた栞が、椅子の上からこちらに向かってダイブ。

 ……ちょっと待て、それはおにいちゃん死ねますよ?

「――ぐはぁああああああっ!?」

「きゃっ!?」

「むふー……おにいちゃんの匂いがします」

 さすがに椅子に座っている状態で人一人の体重×重力加速度は支えきれず、三人して後ろに倒れこむ。

 ……まあ、衝撃は着弾時にほとんど殺していたんで、背中と後頭部にはダメージらしいダメージは無かったけど。

 その変わりに腹部が大打撃なワケで……一瞬息が止まるかと思ったぞ。

 というかアレだ、首筋に鼻を擦り付けるのはやめような、栞。

 香里も、その左腕に掛かるぷにゅっとした感覚はお兄ちゃん、ちょっと危ない気分になっちゃうから。

「……はぁ、血は繋がってないって言っても、兄妹、なんだぞ」

 そう、子供の頃からずっと一緒だった、兄妹。

 ……血が繋がってない事を知ったのは、いつ頃だったか。

 夢見心地でふにゃっと体重を掛けてくる二人の髪を梳いて、嘆息する。

 嬉しい溜息というヤツだったかもしれないが、な。




 そうして、そのまま眠ってしまった二人を一人ずつ抱えて二階へと運ぶ。

 最初は香里、お姫様抱っこをいうヤツだが、目を覚ます気配はない。

「……むぅ、重いぞ」

 ――むにぃ。

 ぽろりと漏れた本音に対して、香里が俺の頬を引っ張る。

「……にいひゃんは、まったくしょうがないんだから……むにゃ」

 何てお約束な夢だ、と嘆息してみるが、それで現実が変わるワケでもなく。

 実際は心地よい重さのお姫様を抱えて、とんとんとんっとリズムよく階上へ。

 香里の甘い匂いが鼻腔をくすぐって、なんとも言えない気持ちになるが、そこは鋼鉄の意志で押さえ込む。

 意思のグレードが鉄から鋼鉄にグレードアップしているのは気のせいだ、幻想だ。

 人を抱えたままドアを開けるのにはコツが居るが、そこは器用に開けて香里の部屋へと入る。

 さすがに着替えさせるワケにはいかないから、そのままベットに横たえて、毛布を掛けてやる。

「……おやすみ、香里」

 静かに眠るその姿に魅入られながら、後ろ髪を引かれる思いで部屋を後にする。

 だから、きっと気のせいだ。

 ――いかないで――

 俺には何も、聞こえなかった。




 今度は栞を抱えて階段を昇る。

 さすがに香里より小柄だけあって軽いけれど、お姫様だっこというやつは結構腕に負担が来るらしい。

 酔っているせいもあるかも知れないが、腕が震えているのが分かる。

「……よく、眠ってるな」

 何となく微笑ましい気持ちになって、その寝顔を見つめる。

 ……女の子の寝顔を見るのは失礼なのか?

 とか微妙に思ったりもするけれど、不可抗力だと自身の裡で決着を付ける。

「……むにゅ」

 ――すりすりすり。

「むぅ……なんちゅー高等テクを」

 甘えの癖なのだろうか、鼻先を俺の胸に擦り付けてくる栞。

 ……アレか、一種のマーキングなのか。

 ――私は祐一さんのものです、そして祐一さんも私のものですっ――

 ……聞こえる。

 ――いや、それはどうなんだ?――

 ここではない何処かの、俺達の物語が。

 ――駄目ですか?――

 だからこそ、戻らなくてはいけない。

 ――いや、栞らしいよ――

 俺達の、現実に。

 それが分かっていたのか、いなかったのか。

 俺は腕の中で眠る栞に何も言葉を掛けられず、その部屋のドアを開けてしまった。

 ――遥かなる夢の、終わりの扉を。

 ――ずっと、この場所に居てください――

 その言葉は、俺に届く事はなく。




「――な、何だ、これ!?」

 異質だと、俺の五感全てが伝えてくる。

 この部屋は、何かが違うと。

 そうだ、思い出した。

 俺は何をやっていた?

 栞と香里の兄貴?

 ――そんな、そんな幸せな幻想があるワケがないのだ。

 そして、幻想が無いというのなら、この部屋も、本来の美坂家には存在しない。

 だから、ここは、異質なのだと。

 世界で唯一、平行が交わる場所。

 本来の美坂家では、栞の部屋だったハズの場所。

 そして今日は、今日だけは、俺の部屋だと言って、世界を凶げた、その場所。

「栞……栞っ!?」

 居ない、何処にも。

 腕の中で眠っていたハズの栞が、この場所の何処にも存在しない。

 辺りを見回して、そして、悟った。

 ――いかないで――

 ――ずっとこの場所に居てください――

「……儚い、幻想か」

 聖夜の奇跡か、なんなのか、そんなものはどうでもいい。

 辛い現実から目を背けて、生きている人すらも支えられず。

 自身の力の無さを痛感して。

「俺は――」

 還らなくては、いけないのだから――。
















 ――そう、でもそれは、祐一君の本当の願いじゃ、ないよね?
















 目が覚める。

 落ちていく感覚。

 でもそれは、とても良いなんて言えるモノじゃなくて。

 俺は、蒼黒の空に囲まれて、現実へと立ち返った。

「……ここは?」

 随分と星が近い場所だなと、ぼんやり思う。

 むくっと身を起こすと、例えようもない寒さが襲う。

 震えが止まらない、全身が限界まで冷たくなっていたのだと、そう悟った。

「――――っ!?」

 不意に意識がはっきりとする。

 思い出した、あの幸せな時間を。

 思い出したのだ、俺は彼女達に、何も伝えられてはいないと。

 現実は……現実はそう、ハッピーエンドなんかじゃなかったのだから。

 せめて、あの夢とはとても思えない時間の彼女達にだけでも、自身の気持ちを伝えたかった。




 栞がもう一度倒れてから、何ヶ月経っただろうか。

 一度手にしたぬくもりが、離れていく。

 それは覚悟もなく、突然やってきた。

 たったの一月だった、彼女が治ってから、もう一度倒れたのは。

 ――植物状態だと、生きているだけでも奇跡だと、そう言われた。

 その時の香里の表情は、まるで時間が凍り付いて、何もかもが永遠の彼方へ行ってしまったような、そんなモノだったのを、よく覚えている。

 でも俺は、俺だけは自分の世界に閉じこもるワケには行かなかったから。

 香里は自分の殻に閉じこもり、俺がそれを支えた。

 だからこそ俺は、永遠の苦しみの淵へ沈んでいかずに済んだのかも知れない。

 だからこそ俺は――――人々の想いがもっとも集まる、この聖夜の夜に、願いを掛けたんだと。




「……眠っちまったんだな、俺」

 そして自分だけ幸せな幻想に浸かって、満足したまま逝こうとして。

 とんだ大馬鹿野郎だと、そう思う。

 あれが夢だったなんて、そんな事は思えないのだ。

 あんな、実感を伴った世界……だからこそ、分かる、俺は願いを別のモノに使ってしまったのだ。

 奇跡でも、何でも良かった。

 栞がもう一度微笑んでくれるなら、香里ともう一度笑って話せるのなら。

 けれど、それは適わない。

 奇跡でも届かない願いだったのか、そんな事は分からない。

 そもそも起きないから奇跡なのだ。

 だけど、諦めたくなかったから。

 ……でも、俺は。

「――大馬鹿、野郎だっ!!」

 起こったかも知れない奇跡を別の願いに置き換えて。

 ――自分から本当の願いを手放して。

 自分が満足すれば、それでいいと、そう思ったのだ、心の何処かで。

 だから何度も、拳を地面に叩き付けて。

 白い雪が、真っ赤に染まるまで――
















「祐一、さん――――」
















 初めて彼女と出会った場所で。

 星の近い、その場所で。

 声が、届いた。

 最初は、校舎に風の音が反響して、幻聴でも聞こえたのだろうと思った。

 ――PULLLLLLLLL!

 ジーンズのポケットから鳴り響く音が煩わしく、立ち上がって、取り出そうとした、その瞬間。

 とさっと、掛かる重みを感じた。

 ピッと受話ボタンを押すのと、重みの正体を確認するのが同時で。

 時間が、永遠になった、そんな感覚。

 目の前には、何よりも、誰よりも願った、栞の微笑み。

「――ど、うして?」

「……夢を、見ていたんです、ずっと」

 はぁはぁと、苦しそうに栞が息をつく。

『祐一っ!! 祐一聞こえてる!? 今、今香里から連絡があって、栞ちゃんが――!!』

 携帯から聞こえてくる声が遠く、俺は、栞の声だけに囚われている。

「祐一さんが、私のおにいちゃんで……それで……楽しいけれど、どこか、足りなくて」

「ああ――」

『祐一っ!? ――聞こえ』

 ――ピッ、と電話と電源を切る。

 悪いなと思う、感情すら遥か遠くて。

「だけど、その日、クリスマスだけはおにいちゃんの様子が違って、それで……」

「うん、うん……」

 涙を流しているのだと、遠くで思った。

 頬が、とても熱かったから。

「私、還って来れましたか? 祐一さんの、私の大切な人の傍に――!!」

「ああ、ここにいる、栞は俺の傍に」

「……ちょっと、苦しかったです、妹ですから、あんまり触れ合えなくて」

「悪い……迎えが遅れちまったな」

「そうです、ちょっと、遅い、ですよ……ひっく」

 そのまま、俺の胸に鼻先を擦り付けて泣き出してしまう栞。

 ちっとも状況は掴めなくても、俺は、ただそれだけで、安心することが出来て。

 ――そのまま、意識を失った。
















「寒っ……」

 ぶるぶると震えながら、美坂家への道を歩く。

 ぎゅむっと雪を踏みしめるたびに、寒さを実感するようで、ちょっと堪らない。

 けれどまあ、気持ちだけは今日の空のように晴れ渡っていて。

 ――あれから、あの聖夜の夜から二ヶ月。

 三年生だと言うのに勉強どころじゃなかった俺は、猛烈な勢いで学習を始めて。

 結局栞がどうして目を覚ましたのかは、分からないと言うことで。

 でも、俺も香里もご両親も、そんなことはどうでもよくて。

 ただ、栞が目を覚ました事を喜んだ。

 一つだけ心配だったのは、また倒れやしないかって事だけど。

 ――そんな俺達の心配を、栞は晴れ渡る笑顔で吹き飛ばして。

 そして、昨日久しぶりに会って一緒にハーゲンミッツのバニラを食べて。

 晩に電話があって、泊まりに行くって話になって。

 悶々としている間に眠りについた。

 その間にあの聖夜の夢を見た気がするんだけど、ちょっと定かじゃない。

「……まあ、夢だろうと奇跡だろうと幻想だろうと平行世界だろうと、何でもいいんだ」

 ――そう、もう一度巡り合えたのだから。

 ただまぁ……アレだけはもう勘弁して欲しいと、そう思う。

 そう嘆息しながら歩いていると、その内に美坂家が視界に入る。

 遠目だから粒のようにしか見えなかった人影が、こちらへ向かって走り寄って来る。

 ――栞だ。

 お馴染みのストールを翻して、待ちきれなかったとばかりに駆けてくる。

「おはよう、栞」

「はぁ、はぁ……お、おはようございます、おにいちゃんっ♪」

「な、何っ!?」

 ……ま、まさかまたあの世界にっ!?

「――何て、冗談ですよ、祐一さん♪」

「うぉぃ」

「あはは、騙されましたっ♪」

 勘弁して欲しいと、心底思う。

 いや、おにいちゃんも悪くはないのだが……。

 やっぱり、そうだろう?

「……まったく、お前は俺の大切な、恋人だろ?」

「え、えぅ、素面で言われると恥ずかしいですよっ!」

「大丈夫だ、自信を持て」

「何のですかっ」

「さて、行くか?」

「……何か、凄く誤魔化された気がします」

「大いに、気のせいだ、気のせい」

 そう言いつつ、そっと栞の肩を抱いて、歩き出す。

 やっぱり俺は、懐かれるよりも、自分で抱きしめる方がいい。

「……何か不純な電波を受信しましたっ」

「気のせいだ、気のせい♪」

 ふと、聖夜のあの幻想のような世界のことを思い出して、蒼穹を見上げる。

 ……おにいちゃんも兄さんも悪くはなかったけどな。

 自分の夢なのか、それとも栞の夢なのか、あるいは他の何かか。

 想像も付かない力が働いたのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

 でも、あの世界は確かにあったのだと、そう俺の中の何かが告げている。

 だから、だからまぁ……元気でな、妹よ。

 ――ちょっとらしくないな、とか思ったのは、頬に流れる涙に気づいた後だった。