本宮母智丘神社参拝


 町田市原町田に鎮座する母智丘神社は、大正8年3月(1919年)石峰山山頂に鎮座する母智丘大神の御神徳に感得した黒木昇、ハナの両人によって御分霊を勧請し自宅に奉斎したと神社由緒にあります。
 そして平成314月( 2019年)には神社創建100周年記念式典が厳かに斎行されました。これを機に本宮の母智丘神社(宮崎県都城市横市町)を参拝して参りましたのでご紹介します。
 神社はJR日豊本線西都城駅から5km程の桜の名所で知られる母智丘公園の丘の上に鎮座しています。
 社務所には神社の「祭神と由緒」を記した社額が掲げられていました。 それによると、お社はもと石峰稲荷明神と云い丘の頂に大きな神石があり、巌の下には洞穴があって、そこに白狐が住むと云われ、牛馬の加護はもとより、万能の神様として、霊験あらたかなお社として多くの人々に崇拝されていたと記されています。
 明治310月(1870年)上荘内郷の地頭となった旧薩摩藩士三島通庸(後に明治政府の初代山形県令、警視総監等を歴任)が参拝した折、社殿が荒れ果てているのを見て、社殿を一大修理し、四方からの参道を便利にして桜の苗木を植え、祭神を豊受姫神、大年神と定め、荘内郷の総鎮守にしたとのことです。
 その後参道は町の篤志家に引き継がれ更に吉野桜が植えられ、花時ともなれば一大花のトンネルともなり、西日本一を誇るさくらの名所になったと記されています。


 

日向國諸縣郡横市邑母智丘神社の圖(社務所奉納絵額より転載)

神社は徳川時代、石峰とか石牟礼とか持尾と呼ばれ稲荷信仰の対象であった。 

 

神社社務所

参道の石段を上って鳥居をくぐると社務所があります。
拝殿は社務所横を通って更に石段を上った所にあり、拝殿前の境内左側に手水舎、
右側には牛馬の加護にふさわしい伏せ牛と馬の像があります。

母智丘神社拝殿 

社殿は明治33年(1901年)に火災で全焼し、同36年再興。平成10年(1998年)に老朽化に伴い現在の社殿に建て替えられた。
              例祭日  2月・7月・11月23日
              大祭日  4月23日
 


 拝殿の横を通って更に奥に進むと割裂神石、馬頭観音、陰陽石、石峰稲荷へと続きます。  途中にある神社の案内板によるとこの母智丘の丘一帯に散在する巨石群は、火山の噴出による赤ボラで地中に埋まっていたものを、明治3年の母智丘神社再興工事の時に発掘されたもので、古く石器時代にはこれらの巨石が丘の上に群立していたものと考えられると記されています。


陰 石  陽 石 
陰石に祈願水を掛けると縁結び、安産、商売繁盛、無病息災、病気全快等霊験あらたかで今日なお人々の心をひきつけているとのことです(陰石説明文より)
陰石は周囲19.3m、高さ1.7m余り、陽石は周囲17.3m、高さ3.3m余りの巨石です


石峰稲荷大明神  

祭壇奥の大きな石は昔より在り、左右に出入り口の穴があって、穴の大奥は八畳敷きと六畳敷き位の洞穴になっており、昔は白狐の巣であったと云う。白狐は昔より奇(ふしぎ)な霊族を垂れたまい、崇敬者の先導敬行(みちあんない)として、いろいろと教え導き諸行繁盛神功(いさお)をたてまふ。 お神(やしろ)を改造して白狐を御霊として奉ると記されている(石峰稲荷大明神説明板より)。 


 市街地を望む見事な母智丘の桜
宮崎日日新聞社出版文化賞受賞者 廣瀬嘉文氏作品(社務所内の奉納額より転載)
都城市は宮崎県宮崎市に次ぎ県内第2の人口を擁する主要都市です。
市は広大な都城盆地の中にあり、市域の中央を大淀川が流れ、霧島山地と鰐塚山地に囲まれた緑豊かな静かなゆったりした素晴らしい都市です。

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