万葉集巻5に見る万葉文字の考察

川  守
A study of manyo-letters in Manyoshu tanka collection vol 5
(Mamoru Kawa)

1.はじめに

万葉集は文芸が様々なジャンルに分化する以前の作品であるので詩歌以外に日記、手紙、随筆、評論、歌物語など様々な要素を含んでいる。もちろん漢詩や漢文で書かれた部分もある。しかし歌の本文は漢字を用いてきわめて複雑な用字法によって表記している。すなわち表音的または表意的に漢字を使い分けている。中でも表音文字としての用法が多いのである。そこには独自の文字を持たない当時の人が懸命に努力したあとを見ることができる。それは一般に万葉仮名と呼ばれている文字の使用である。巻5の最初の歌は次のように書かれている。

 余能奈可波 牟奈之伎母乃等 志流等伎子 伊与余麻須万須 可奈之可利家理
 よのなかは むなしきものと しるときし いよよますます かなしかりけり
  現代風に書けば
   世の中は 空しきものと 知るときし いよよますます 悲しかりけり

  昨年は万葉集巻14・東歌をもとに万葉文字の解析を試みた。今回は万葉集巻5をもとに同様なことを行った。一般に知られている万葉集の時期区分は次の通りである。

第1期 大化改新(645)前後〜天武朝末
舒明・斉明・天智・天武の諸天皇、中皇命(なかつすめらみこと)、倭大后(やまとのおおきさき)、有馬皇子、大津皇子、大伯皇女(おおくのひめみこ)、額田王

第2期 〜奈良遷都(710)
柿本人麻呂、志貴皇子、高市黒人

第3期 〜733年前後まで
笠金村(かさのかなむら)、山部赤人、大伴旅人、山上憶良、高橋虫麻呂

第4期 〜795年まで
大伴家持、坂上郎女(さかのうえのいらつめ)、笠郎女、大伴池主(いけぬし)

  巻14は万葉集の時期区分から見ると第4期に当たる。この時期は上代仮名遣いも少しずつ乱れてきている。また東歌ということで方言が多く、用法の例外も見受けられる。今回は時代を遡って第3期に製作されたとされる万葉仮名で書かれた巻5を取り上げた。
巻5は大伴旅人、山上憶良および九州の官人たちの歌を集めて成り立っている。この巻を調べることにより前回より正確に万葉文字に近づくことができると思ったからである。


2.研究方法

「サイボウズOffice4」はグループウェアである。この中の文書管理機能を用いて「万葉集巻5」のデータベースを構築する。入力は手入力とスキャナーを併用して行った。サーバーはデータ通信室のExpessサーバーとする。「サイボウズOffice4」はWeb型グループウェアなのでクライアント側の設定は必要ない。すなわちサーバーにユーザー登録をしておけばクライアントからはブラウザで見ることが可能である。検索機能を用いて次の項目について調べた。

  1. 使われている万葉文字の一覧を作成し使用回数も調べる。
  2. 音仮名表記、訓仮名表記、2音表記について調べる。
  3. 上代特殊仮名遣いについて調べる。

文字一覧は巻14と比較できるように作成する。万葉仮名の分類は江戸時代末期の僧春登によると@正音A略音C正訓D義訓E略訓F借訓G戯書の8種類になるとされているがCDEFは全て訓仮名として分類する。さらに古音、慣用音を付け加えた。使用した辞書は藤堂明保の「漢和大辞典」学研である。上代特殊仮名遣いや万葉仮名についてはできる限りインターネットのサイトを検索して資料を集めた。


3.結果

データベースの検索の結果得られた万葉文字の一覧を文末に示す。巻5で使用された文字の種類は272種類(歌の本文のみ)であった。しかし巻14の東歌の215種類よりは多い。万葉集全体で使用されている文字数は580種といわれているので約半数の文字が使用されていることがわかった。
音仮名、訓仮名表記については文字の一覧に見られるようにかなり解析できたが「陁」を「だ」と読ませ、「要」を「え」と読ませるなどまだ一部に解決できない疑問点がある。

前回不十分であった上代特殊仮名遣いについて調べ直して分かったことを次に示す。

◇上代特殊仮名遣い
  奈良時代およびそれ以前の万葉仮名の使用に見出される特殊な仮名遣いである。
平安時代の平仮名、片仮名では区別して書き分けることのない仮名〈き・ひ・み〉〈け・へ・め〉〈こ・そ・と・の・よ・ろ〉の12音と、それらのうち濁音のあるもの〈ぎ・び〉〈げ・べ〉〈ご・ぞ・ど〉の7音に当たる万葉仮名に、甲乙2種類があって、語によってこの2種類は厳格に区別して用いられた事実を示す。

  1. 語によって甲類乙類どちらの字群で表記するか決まっていて混同して使用されることはなかった。〈心〉は〈許ゝ呂〉または〈己許呂〉と書き、すべて乙類の文字
  2. 甲類の音が連濁した場合は必ず甲類の文字を使用する.
  3. 動詞四段活用連用形のイ段の仮名は必ず甲類を使用する。
  4. 上二段活用の未然形、連用形、命令形は必ず乙類を使用する。
  5. 四段活用の命令形の〈け〉〈へ〉〈め〉は甲類、已然形は乙類である。
  6. 下二段活用未然形、連用形、命令形のエ段の仮名は必ず乙類である。
  7. 上一段活用のイ段の仮名は必ず甲類である。

これらは時と所と書き手を異にしても一定として使用されている。これは現代の仮名遣いとはまったく異なったもので、発音自体が異なっていたため区別できたと考えられる。
すなわち現代の(i e o)母音とは別に中絶母音の(ï ë ö)が存在した。前者を甲類、後者を乙類という。これらは子音との結合によって生ずる音とも言える。またア行のeとヤ行のjeにも使い分けがある。

  この事実の発見者は古くは本居宣長であり、その門人の石塚竜麿に引き継がれたが、昭和初期に橋本進吉によって再発見され上代特殊仮名遣いと命名された。その後、有坂英世、池上禎造らによって広められた。

活用 未然 連用 終止 連体 已然 命令
カ行四段
ハ行四段
マ行四段
カ行上二段 クル
ハ行上二段 フル フレ
マ行上二段 ムル ムレ
カ行下二段 クル クレ
ハ行下二段 フル フレ
マ行下二段 ムル ムレ
カ行上一段
ハ行上一段
マ行上一段
文字は甲類、文字は乙類



当時の人がなぜこの区別ができたという理由は発音自体が異なっていたものと考えられる。当時は現代では失われてしまった発音があった。ア行のエ(e)とヤ行のエ(je)は違うものとして認識されていたし、現代の(i e o)母音とは別の音、すなわち中舌母音の(ï ë ö)が存在したと考えられる。ïはiとuの中間の音でkïはkuiまたはkwiに近いと思われる。 次に甲乙2つの文字の種類を調べる仕組みをあげると次のようになる。 ◇文字の種類を調べる仕組み ○オの音について調べる
大蛇(オロチ)  遠呂智 乎呂知
惜(オシ) 鳴思 遠志 怨之 乎之
己(オノ)    意能 於能 意乃
織(オル)    於瑠
弟(オト)    乙登 淤登 於止

上記の例で「遠」・「乎」は同じところに使われている。また「鳴」・「怨」も同様である。したがって「遠」・「乎」・「鳴」・「怨」は同じグループである。

一方、「意」・「於」・「淤」・「乙」も同じ用法で使われているので同一のグループと考えられる。この2つのグループはお互いに混同して使用されることはない。実はこの2つは別な文字、別な発音が使われていたからである。すなわち を(wo)-----------------遠、乎、鳴、怨
お(o)------------------意、於、淤、乙

オロチ」は「ヲロチ」、「オシ」は「ヲシ」であり、当時の人は「ヲ」と「オ」を取り違えて表記することはなかったのである。

○コの音について調べる
  許己」とあるのを「ここ」と読んで「此処」の意味に解釈できれば「許」も「己」も「こ」の仮名であると考える。「古」とあるのを「こ」と読んで「子」の意味に正しく解釈できれば「古」も「こ」の仮名として認める。ところが万葉仮名では「子(コ)」、「彦(ヒコ)」のコは「古」を書いて「許」は使わない。「心(ココロ)」のコは「許」を書いて「古」は使わない。「コ」を表す文字を調べていくと2つのグループに分かれることがわかる。

古   故、固、枯、弧、庫
許   己、去、巨、拠、居

  この2つのグループもお互いに混同して使われることはなかった。「古」のグループを甲類といい「許」のグループを乙類という。なぜこの2つのグループを厳密に区別して使うことができたかというと発音に違いがあったと考えられる。すなわち「古」のグループは「ko」であり、「許」のグループは「
k&ouml」であると考えられる。

  「心」は「許ゝ呂」または「己許呂」と書き、「ko ko ro」ではなく「kö kö rö」と発音していたと思える。中舌母音の「&ouml」は唇を「o」を発音するときの形に丸めた状態で「e」を発音すると出る音である。


4.考察

2音(多音)表記がたくさん使われている長歌はいずれも山上憶良の作である。彼は漢字の持つ意味をよく知っており、意味を踏まえた現代に近い「訓読み」を用いた表記法をしている。巻5には漢文による思索的・批評的散文も多いが当時の官人たちは並々ならぬ漢字の素養があったことがわかる。上代特殊仮名遣いは現代の私たちはまったく使わないものであり、言葉も文字もまたその発音さえも時代とともに変化してきた。「い」と「ゐ」、「え」と「ゑ」、「お」と「を」の様に現代では同じ発音だが文字が違って残っているもの、ヤ行の「え」とア行の「え」の様に昔は区別していたのに現在では同じ発音・文字で表すもの、中舌母音の(ï ë ö)の様に現代では文字も発音も失われてしまったもの、さまざまな変遷を経てきたことを理解することができた。しかし「日本挽歌」、「貧窮問答歌」、「恋勇子名古日歌」などを読むとき、妻を思い、世間を思い、子供を思う人間のもつ心情は今も昔も変わっていないと万葉集を読みながら思うのである。

参考文献
小島・木下・東野「『萬葉集(一)(二)(三)(四)』日本古典文学全集」小学館 1994〜1996
「世界大百科事典」平凡社
藤堂明保「漢和大辞典」学研

上代特殊仮名遣い 巻5・巻14甲類乙類使用頻度一覧
甲類
i e o
伎、吉、岐、枳、棄、来、芸、企、比、日、必、卑、賓、嬪、妣、@、婢、美、見、弥、水、御 家、計、鶏、夏、牙、敝、弊、辺、陛、別、部、売、刀A妻、馬、迷、面 古、児、故、子、胡、祜、弧、吾、蘇、素、俗、刀、度、斗、門、努、野、欲、用、路、漏
乙類
ï ë ö
紀、木、樹、非、飛、悲、身、微、実 気、既、宜、倍、閇、米、梅、目、昧 己、木、巨、其、期、曾、則、僧、叙、等、登、得、騰、杼、藤、能、乃、与、余、代、世、呂

甲類 ki gi hi bi mi 小計 ke ge he be me 小計
巻5 120 8 146 10 92 376 30 3 23 11 20 87
巻14 163 9 137 15 148 472 51 1 47 1 9 109
乙類 小計 小計
巻5 8 11 6 6 20 51 20 8 21 16 70 135
巻14 3 12 16 1 14 46 24 17 31 4 30 106

甲類 ko go so zo to do no yo ro 小計 合計 %
巻5 37 2 13 1 14 7 7 20 4 105 568 39.8
巻14 112 15 24 0 25 9 53 27 13 278 665 36.9
乙類 小計 合計 %
巻5 8 11 6 6 20 51 20 8 21 16 70 135
巻14 3 12 16 1 14 46 24 17 31 4 30 106

万葉文字一覧(*.pdfファイル)