台北から帰国

 最終日は740分のモーニングコールでホテルの出発は8時半、一番ゆっくりしています。関西組は今朝は445分のモーニングコ−ル、私たちがホテルを発つころはもう帰国の途についています。今日の案内は頼さんといいます。私たちは朝粥の店に向かいました。

 朝のお粥はもともと昨夜の夕食の残りを粥にして食べたのが始まりらしいのですが最近は夫婦共働きの家が多く、夕食も外食か、出来合いのものを利用することが多いのだそうです。従って朝粥の専門店があるというわけです。店の前の通りでいろいろな屋台が開いていました。日本式の寿司や関東煮(おでん)などもその名の通り販売されていました。

 朝食の後は孔子廟と保安宮に向かいました。孔子廟はけばけばしいところがなく落ち着いた雰囲気で物静かなたたずまいです。孔子は学問の神様とされており、各地にありますが台北のものがもっとも大きく、唯一政府が管理する総本山です。大成殿の前で暑さの中帽子もかぶらずに子供たちが整然と並び笙や横笛などの古典楽器で練習を重ねていました。

 保安宮は大龍峒保安宮といい、孔子廟と通りを挟んで立つ台湾で最も古い寺廟のひとつです。主神として祭られている保生大帝は姓を呉、諱を夲と呼び福建省同安県白礁郷の実在の人です。医学に精通し、優れた医術でたくさんの衆生を救ったので没後、神として祭られたのです。

 今でも大変な信仰を集めています。境内ではお供え物をして一心にお祈りをする人があとをたちません。また一対の貝のような形をした木片を投げて占いをする人もたくさんいました。年金制度がない台湾では年を取って信仰にすがる人が多いと聞きましたが若い人もたくさんお参りをしていました。

 昼食は台湾ラーメンと餃子を食べました。ラーメンといっても日本のそれとは違って沖縄で食べたソーキそばのような味がしました。ただし骨付きの豚肉は入っていません。昼食後4日間の旅を終えて中正国際空港第二ターミナルに向かいました。14:55のフライトでした。

 7年前に台湾を訪れたときはまだ建設中だったコンピュータ制御の無人運転の台北捷運(Taipei Mass Rapid Transit)MRTも営業を開始していました。いたるところ道路工事で汚れた車を洗う洗車屋さんも今回はあまり見かけませんでした。

 行き帰りの飛行機の乗客は日本人より台湾人のほうが多いようでした。50年間に及ぶ日本支配にもかかわらず、親日的な雰囲気がある台湾です。現地案内人の王さんは「日本がもっと頑張ってくれなければ困る。台湾は日本の後を追っているのだから」と言っていました。

 その言葉は蔡焜燦氏の「日本人よ胸を張りなさい」と相通ずるものを感じて思わず苦笑しました。蔡焜燦氏とは司馬遼太郎の「台湾紀行」の中に出てくる「老台北」その人です。

 1947年の「二・二八事件」に続く激しい「白色テロ」で多くの無実の知識層が犠牲になりました。その数、二万人以上と言われますが解明はされていません。このつらい経験が親日的な雰囲気を生んでいるのかもしれません。

 帰りの飛行機では大学生らしい日本に遊びに行く若者達が楽しそうに話していました。日本大好きの若者たち「哈日族」(ハーリー族)かもしれません。40年にも及ぶ国民党の反日教育があったにもかかわらずこうした若者がいることは驚きです。

 中国との関係は難しい問題があります。清国が「台湾の蕃民は化外の者」と言った台湾の人たちは政治的不条理のもとでよく働き、世界トップクラスの外貨準備高を誇る経済社会を作り上げました。昔、ポルトガル人が「イラ・フォルモサ」(うるわしの島)と呼んだ台湾がいつまでもその名の通りの島であってほしいと思います。