万葉集巻14は東歌を集めたもので次のような歌がある。
我が恋は まさかもかなし 草枕 多胡の入野の 奥もかなしも 3403
この歌が詠われた場所が当校があるこの地であることを知る人も多い。この歌の原文は
安我古非波 麻左香毛可奈思 久佐麻久良 多胡能伊利野乃 於久毛可奈思母 である。
このように一音一字であるので大変読みやすい。だたし、おなじ「の」であっても能、野、乃と3種類あり、「さ」は左、佐と2種類、「か」は香、可、「も」は毛、母の2種類ある。もし音だけを借りてくるとしたらこのようなことはしないであろう。すなわち作者は何らかの意図があってこのように書き分けていると思われるのである。そこで東歌の中の文字について考察を試みた。
万葉集の中で全ての歌が1音1字、すなわち、万葉仮名で書かれたものは全20巻のうち次の3巻だけである。雑歌のみで大伴旅人、山上憶良の歌が多い巻5、東歌を載せた巻14、新羅に遣わされた人たちの歌と中臣宅守(なかとみのやかもり)と狭野弟上娘子(さののおとがみのおとめ)との贈答歌を扱った巻15である。ここでは関東で生まれ育った私にとって身近な存在である東歌の巻14でどのような文字が使われているかを調べてみようと思った。
データ通信室にあるExpressサーバにはDomino R5がインストールされている。クライアントのパソコンにはNotesをインストールした。不定形文字型データベースのNotes/Domino R5を用いて万葉集巻14東歌のデータベースを構築して、万葉仮名の分析を試みた。Notesを使用した理由は対象が和歌であり、不定型文字型データは全文検索が必要なためである。ExcelやAccessのデータベースは不向きである。データ入力は手入力とスキャナーで読みこんだものをコピーする2つの方法を用いた。データ入力には卒研生2名の協力を得て行った。
今回のデータベースの検索の結果得られた東歌に見られる万葉文字の一覧を文末に提示する。東歌で使われている文字の種類は215種(歌の本文のみ)で、万葉集全体で使われている580種に比べるとかなり少ないことがわかった。ただし、漢字の音だけを利用しているとするならこれほど必要は無いと思う。いろいろ調べていくうちに次のようなことが明らかになった。
a.音仮名表記 倭語を漢字の音を利用して表記したもので2種類がある。
正音 韻尾の無い文字
例 阿、可、佐、多、奈、波、麻、夜、羅、和
略音 韻尾のある文字の韻尾を省略したもの
例 安、甲、散、難、方、末、良
漢字の韻尾は6種 m,n,ng,p,t,kである。
南 nam な、安 an あ、君 kun く、曾 song そ、甲 kap か、吉 kit き、
末 matま、則 sok そ、欲 yok よ
b. 2音表記 1字を2音で表すもの (東歌の中では数少ないが次の例がある。)
例 対馬 つしま 国名 芝付 しばつき 地名未詳 筑波 つくば 山の名
信濃 しなの 国名 駿河 するが 国名
相模 さがむ 国名 中麻奈 なかまな 川の名未詳 武蔵 むざし 国名・地名
c.訓仮名 語の内容と関係なく国語訓を借りて、同音異義語を利用する表記法である。
例 鹿、木、児、栖、瀬、湍、津、手、而、門、沼、
宿、野、葉、日、辺、真、見、実、身、目、屋、湯、緒
d.上代特殊仮名遣い 上代語にははっきり発音の差がある音節としてキ・ヒ・ミ・ケ・ヘ・メ・コ・ソ・ト・ノ・ヨ・ロの十二音(濁音も入れると十九音、ただし東歌にはzoの音とboの音が使用されていないので十七音)にそれぞれ二種類の発音があり、その差を反映した書き分けがあった。これを上代特殊仮名遣いという。すなわち現代の(i e o)母音とは別に中舌母音の(ïë ö)が存在した。前者を甲類、後者を乙類という。またア行のeとヤ行のjeに使い分けがある。
i | e | o |
伎、吉、芸、比、日、必、妣、婢、美、見、弥 | 家、鶏、牙、蔽、辺、売、馬、 | 古、児、故、孤、胡、吾、蘇、素、刀、度、門、野、努、欲、路 |
ï | ë | ö |
木、疑、宜、非、悲、未、実、身 | 気、倍、米、目、梅、 | 許、己、木、曾、等、登、杼、騰、得、能、乃、与、余、呂、 |
ki | gi | hi | bi | mi | 小計 |
163 | 9 | 137 | 15 | 148 | 472 |
kï | gï | hï | bï | mï | |
3 | 12 | 16 | 1 | 14 | 46 |
ke | ge | he | be | me | 小計 |
51 | 1 | 47 | 1 | 9 | 110 |
kë | gë | hë | bë | më | |
24 | 17 | 31 | 4 | 30 | 79 |
ko | go | so | to | do | no | yo | ro | 小計 | 合計 |
112 | 15 | 24 | 25 | 9 | 53 | 27 | 13 | 278 | 860 |
kö | gö | sö | tö | dö | nö | yö | rö | ||
106 | 12 | 70 | 193 | 42 | 409 | 58 | 97 | 984 | 1139 |
以上の結果より「い」「え」の音はi,eの甲類が多く使われ、「お」の音はöの乙類が多いことが分かる。すなわち当時の東人は8つの母音を聞き分けて使い分けていたことが分かる。
ア行のエ(e)とヤ行のエ(je)に明確な区別がある。
ア行 衣、依、愛、哀、埃・榎、得
ヤ行 延、要、曳、叡・江、吉、兄、柄
東歌の中の「え」は要(16回)、延(10回)、江(4回)、叡(1回)、衣(1回)であり、ヤ行の「え」は31回使われているのにア行の「え」は1回しか使われていない。圧倒的にヤ行のエ(je)が用いられている。
東歌の構成は下記の表の様になっている。この中で勘国歌すなわちどこの国の歌か分かっている歌は上野国が25首とずば抜けていることが分かる。このことは何を意味するのか不思議なことである。東歌は民謡であると唱えた人があるが東国なまりをそのまま表現した素朴な歌が多い。それらは水汲み、稲搗き、布さらし、畑仕事などの労働歌として歌われたものも多い。明らかに都人の歌と思われるものも含まれているが全体に牧歌的情緒が強く感じられる。大変味わいの深い歌が多いが鑑賞はべつの機会に譲ろうと思う。また漢字表記が難しい方言が多く含まれており、表音文字の万葉仮名はその効果を十分に発揮できたと言えよう。
雑歌 |
相聞歌 |
比喩歌 |
防人の歌 |
挽歌 |
計 |
|
遠江国 |
0 |
2 |
1 |
0 |
0 |
3 |
駿河国 |
0 |
5 |
1 |
0 |
0 |
6 |
伊豆国 |
0 |
1 |
0 |
0 |
0 |
1 |
相模国 |
0 |
12 |
3 |
0 |
0 |
15 |
武蔵国 |
0 |
9 |
0 |
0 |
0 |
9 |
上総国 |
1 |
2 |
0 |
0 |
0 |
3 |
下総国 |
1 |
4 |
0 |
0 |
0 |
5 |
常陸国 |
2 |
10 |
0 |
0 |
0 |
12 |
信濃国 |
1 |
4 |
0 |
0 |
0 |
5 |
上野国 |
0 |
22 |
3 |
0 |
0 |
25 |
下野国 |
0 |
2 |
0 |
0 |
0 |
2 |
陸奥国 |
0 |
3 |
1 |
0 |
0 |
4 |
未勘国 |
17 |
112 |
6 |
5 |
1 |
141 |
計 |
22 |
188 |
15 |
5 |
1 |
231 |
今回調べた文献の中にはどこにも記述されていないが次のことに気づいた。
音仮名表記略音i,uの省略
母音eの後ろのiが省略される例
鶏 け kei、 世 せ sei、 西 せ sei、 勢 せ sei、 斉 せ sei、
提 て tei、 蔽 へ hei、 礼 れ rei
母音oの後ろのuが省略される例
等 と tou、 騰 ど dou、 能 の nou、 抱 ほ hou
これらは呉音と漢音の間にも見受けられる。
叡 ei(漢) e(呉)、芸 gei(漢) ge(呉)、 例 rei(漢) re(呉)、刀 tou(漢) to(呉)
清音と濁音
中世、清音と濁音の表記は曖昧になってほとんど濁音表記はされなくなるが万葉集の成立した当時は濁音表記がされていた。次はその使用例である。
A | I | U | E | O | |
カ行 | 可・加 | 伎・吉 | 久・君 | 家 | 許・古 |
ガ行 | 我・賀 | 芸・宜 | 具・求 | 其・胡 | |
サ行 | 佐・左 | 思・之 | 須・酒 | 世・西 | 曾・蘇 |
ザ行 | 射 | 自 | 受 | 是 | なし |
タ行 | 多 | 知 | 都 | 弖・手 | 等・登 |
ダ行 | 太 | 治 | 豆 | 提 | 杼・度 |
ハ行 | 波・泊 | 比・日 | 布・敷 | 敝 | 保・抱 |
バ行 | 婆 | 妣 | 夫 | なし |
清濁両方に使う例
木(き・ぎ)、気(け・げ)、田(た・だ)、都(つ・づ)、弖(て・で)、度(と・ど)、
葉(は・ば)、敝(へ・べ)、部(へ・べ)
ただしこのような使用例はたいへん少なく(その多くは連濁)全体的に見れば清音濁音ははっきりと使い分けられていたと思われる。
謎の文字 弖と(イ+弖)
この二つの文字は国字といわれるものである。弖(漢字コード9703)は「て」または「で」と読み、(イ+弖)(漢字コード65018)は「で」と読む。弖はほとんどの漢和辞典で見られるが(イ+弖)は諸橋轍次の大漢和辞典でも調べることができない。にもかかわらず東歌には10の使用例がある。
今回の考察で音仮名表記、2音表記、訓仮名、上代特殊仮名遣いが理解できた。しかしながらこの使い方についてはまだ不明確である。奈良時代はこの特殊仮名遣いの崩壊期にあたっており、東歌・防人の歌などの方言を写した部分に仮名遣いの違例が多いのである。たとえば乙類の能・乃と甲類の野・努は明らかに使い分けがなされているように思われるが納得のできる解は得られていない。更に深い考察が必要である。
参考文献
小島・木下・東野「『萬葉集(一)(ニ)(三)(四)』日本古典文学全集」小学館 1994〜1996
小島・木下・佐竹「『萬葉集(三)』日本古典文学全集」小学館 1992
土橋 寛「万葉開眼(上)(下)」NHKブックス 1993
清川 妙「萬葉集」集英社文庫 1996
中金 満「『万葉集東歌と上野国歌』上州路No189」あさお社 1990
藤堂明保「漢和大辞典」学研