オーストリア編

ウィーン市内観光

  空港よりバスで市内に向かいます。リンク通りを走ると両側の建物が大変美しい。街そのものがひとつの文化財のようです。ウイーン国立歌劇場、美術史博物館、自然史博物館、国会議事堂、市庁舎、ウイーン大学、数々の記念像など目を見張る建物が次々に現れます。一行からは思わず感嘆のため息が上がるほどでした。半日では短すぎる。

  昼食のレストランはインペリアルガーデンすなわち「皇園」といいます。その名の通り中華料理の店です。街の中央に聳え立つシュテファン寺院の東側、リンク通りに面していました。食後、シェーンブルン宮殿に向かいます。

シェーンブルン宮殿

   1619年、皇帝マティアスは狩猟中、この地に美しい泉(シェーネン・ブルンネン)を見つけました。それがこの宮殿の名前の由来です。現在の姿になったのは1749年マリア・テレジアの時代だといいます。旧市内の王宮と並んで最も使用された居城でした。そして数々の歴史の舞台となったところです。部屋数は1441、そのうち一般に公開されているのは2階部分の40部屋です。見学は反時計方向に回る。内部は残念ながら撮影禁止でした。

 

この宮殿を彩った二人の女性がいます。1人はオーストリア女帝マリア・テレジアであり、もう1人が彼女の曾孫にあたるオーストリア皇帝・ハンガリー国王フランツ・ヨーゼフT世の皇后エリーザベト(愛称シッシィ)です。今年はエリーザベト没後100年ということで館内は特別展示になっていました。展示はこの二人を中心に進みます。

 

見学をはじめてまもなく、ビリヤードの台が置いてある部屋に出ました。ここは謁見を受ける人の控え室です。宮殿の中の金色に輝く部分は23.5金の金箔が貼り付けてあります。たくさんの部屋にシャンデリアが下がっていますが、このクリスタルはたった一人の女性だけがその掃除を許されているといいます。

○くるみの間

 

次の部屋がくるみの間と呼ばれる謁見の部屋です。ここで謁見をした人はひげの皇帝すなわちフランツ・ヨーゼフT世です。オーストリア皇帝として在位68年、ウィーン市街を取り巻く城壁を取り払いリンク通りを整備した人です。またオーストリア・ハンガリー二重帝国のハンガリー王でもありました。立って謁見をしたので窓から入る風を避けるため3枚のガラスの衝立が立ててあります。

○皇帝フランツ・ヨーゼフT世の執務室

 

皇后のエリーザベトの肖像がありました。身長173cm、ウエスト5053cm、体重4550kgスタイルも抜群ですが大変な美人です。バイエルン公マクシミリアンの娘であり、ノイシュバンシュタイン城を建てたルードヴィヒU世とはいとこです。皇帝に見初められて16歳で結婚し、幸せな生活を送りましたが61歳のときジュネーブでイタリアの無政府主義者によって暗殺されてしまいました。

  彼女には4人の子供がいました。3人の王女と1人の王子です。長女は夭折しました。皇太子となったのはルドルフ大公ですが、彼は31歳のときある男爵の娘と心中をしてしまいます。仕方なくいとこのフランツ・フェルディナントを後継者に立てましたが暗殺されてしまいました。この事件が第一次世界大戦の始まりとなりました。

○フランツ・ヨーゼフT世の寝室

 

軍人らしく質素な作りとなっています。いつもは簡単な飾り付けだそうですがエリーザベトの100年祭ということで調度品など多く置いてあるといいます。ここは彼の逝去の場所でもありました。

 

再びエリーザベトの肖像があります。はじめは幸せな結婚生活を送っていましたが、夫の皇帝は忙しい身ですので次第に独りぼっちになってきました。そのとき彼女は自分が美人であることに気づきます。それ以来自分の美を保つことに異常な執念を燃やすようになりました。32歳以降はまともに写真を取ることすら許しませんでした。すべて修正を加えさせたのです。長い髪を大切にした彼女は洗髪の日は一日すべての公務はカット、普通の日でも1時間ないし2時間を髪の手入れのために費やしたといいます。

 

二人の寝室があります。ダブルベッドの部屋です。大きなサイズのベッドではなく2つ並べたダブルベッドです。23歳と16歳で結婚した二人の部屋です

  食事の部屋です。一般の食卓と違っているのはナイフやフォークがすべて右側においてあります。これが正式なのだそうです。この部屋に招かれて食事をする人は大変でした。皇帝は大変早食いでした。しかも皇帝がフォークを持つ前に食べてはいけない。またフォークを置いた後まで食べていてはいけない。家で練習をしてきたのだそうです。

 

マリア・テレジアの肖像画があります。彼女は神聖ローマ皇帝カール6世の長女です。カール6世には男の子ができませんでした。そこで当時としては異例の女子に領地相続をさせようとしたのです。皇帝の死後、オーストリア継承戦争が起こ りましたが彼女は守り抜きました。ドイツ女帝、オーストリア大公、ハンガリー女王、ボヘミア女王です。ロートリンゲン公フランツ・シュテファンと結婚して16人の子供をもうけました。その末娘がルイ16世の皇后マリーアントワネットです。ロートリンゲン公はのちに神聖ローマ皇帝フランツT世になりました。

○大ギャラリー

 

大広間に出ました。天井画が美しい。ハプスブルグ家が支配した18の民族の力を示しているといいます。しかしハプスブルグ家は戦争には弱かったといいます。第2次世界大戦ではここに爆弾が落ちて後に修復されたといいます。今でもここは国賓の応接に使われています。ウィーン会議の華やかな舞踏を連想しますが、それはオランジリーという場所だといいます。

○家族的セレモニーの間

 

長男の結婚式の華やかな様子を示す絵があります。金食器を使った披露宴、銀食器を使った披露宴の様子が描かれています。食事をしているのは王族だけ、その他の人は見ているだけです。モーツアルトがこの結婚式に出ている絵があります。この結婚式のときモーツアルトは4歳であり、実際には出席していませんでしたが、絵を書いているうちに有名になってきたのでいたことにして描いたのだといいます。ただし部屋は推測するしかありませんが、モーツアルトがこの宮殿で演奏を披露したのは事実です。

○青い中国のサロン

 

中国風の部屋があります。異国情緒の部屋ですがひげのカイザーの甥であるカール1世がハプスブルグ家最後の皇帝として調印した部屋です。

○ナポレオンの部屋

  もとはマリア・テレジアの寝室であったところですが、オーストリアに進出したナポレオンT世がハプスブルグ家の皇女マリー・ルイズと結婚して息子ライヒシュタット公をもうけました。ここはナポレオンの寝室として使われた部屋であり、ライヒシュタット公が逝去した部屋でもあります。

○百万グルデンの部屋

  豪華絢爛たるロココ様式の部屋です。ローズウッドをふんだんに使ってあります。ここは戦火を恐れてパネルをはずして隠してしまいました。ここにあるのはコピーだといいます。

○ゴブラン織りの部屋

 有名なゴブラン織りが壁に貼ってあります。椅子に張ってあるのもそうだといいます。ゴブラン織りはきれいな装飾用ですが壁に張った布は寒さよけでもありました。

  軽い

疲労を感じながら40の部屋を見学して外に出ると雨になっていました。折角なので外に出てフランス式庭園を見ました。広くきれいな庭の向こうにネプチューンの泉が見えます。さらに一段高くなった丘の上に大きな門のような建物、グロリエッテが見えました。

ベルヴェデーレ宮殿

 

景色がよく見える宮殿(イタリア語の語源からきている)オスマン・トルコとの戦いでウィーンを救った英雄プレンツ・オイゲン公の夏の離宮だったところ、オイゲン公は跡取りがなかったためマリア・テレジアが買い取りました。現在はオーストリア絵画館になっています。クルムトの「接吻」などの世紀末絵画といわれる絵画などが展示してあります。中は見学せず美しい庭を背景に写真を撮りました。

今晩の宿はリンク通りの外側、市立公園のすぐ近くインターコンチネンタルホテルです。

朝の散歩

  今日の出発は9時15分、余裕があるので朝の散歩に出かけました。市立公園に入っていきます。昨日、後姿しか見えなかったヨハン・シュトラウス像、シューベルトの像を回ってみました。公園のはずれには花屋さんがありました。公園をぶらぶら歩いているとM夫妻とO姉妹に会いました。時間があまりないので遠くへは行けないがどこか行きたいというのでシュテハン寺院に行くことにしました。

  高い塔があるのでそれを目印に行けばよいと思いましたが街の中では建物が邪魔をしてまったく見えません。それでも何とかたどり着きました。高さ137mの尖塔は確かに高い。教会が街の中心になっているのはほかの中世の都市と同じです。

 

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