cacao




 ──終電二本前で家に帰ると、そこは乙女の努力の戦場だった。
 玄関の扉を開けるまでもなく、甘い甘い匂いが漂ってくる。どちらかと言えば、俺は甘党の方に入るはずだが、それでも長時間この空間にいるのは、ちとつらそうだ。
 そんなことをぼんやりと考えながら、ノブを回しつつ思い起こす……昼過ぎに家を出たときも同じ匂いがしてたよな、確か。
 かれこれ9時間になるように思うが……まだ、やってんのか。

 「……ただいま」
 もはや、あっぱれ、という気分で、力の入らない声になった。
 「あれっ?」
 甘い匂いの本拠地──台所から、エプロン姿の妹が、ひょいっと顔を出す。
 ……おぉ、ちゃんと気が付いたか。
「お兄ちゃん、おかえりっ」
 肩から上だけをのぞかせる姿勢。一つに束ねた長い髪が、いきおい、空に揺れた。
 ぱさっ……と音がしそうな画に、くらりと来たが、ここでうかつに指をからめているようじゃ、素人だ。
 コキッと肩をならす仕草をしてから、ちゃんと並べて靴を脱ぐ。
 そのまま、すぐに顔を引っ込めてしまった妹に続いて、台所へと足を踏み入れた。

 「……あー……」
 なんというか、まぁ……明らかに戦場だった。
 流し台には、所狭しと、茶色く染まったボールやバットやヘラがひしめいている。床と大気が妙に粉っぽいのは、ココアと粉砂糖だろうな、うん。シナモン臭もする。何で、汚れたおたまがあるのかは、疑問。
 で、当の本人はと言うと、トリュフらしきものをせっせと丸めているところだった。
 但し、テーブルの上に鎮座ましましている某高級店のケースから取り出したものを、手のひらに乗せているように見えるが。

 「……何やってんだ?」
「買ってきたチョコを崩して、丸め直してるのよ」
 真剣な声が返ってくる。
 「なんだそりゃ」
「これで……っ、”初めてだから上手く出来なくって。でもでも形は悪いけど味はいいんだよっ?”な手作りチョコのいっちょあがりっ!」
 チョコでべたべたの手で、ぐっと握り拳。
 なるほど。
「ありか……それ?」
「ふっ……出来ればこれは使いたくなかった最後の手段、なんだけどね」
 無意味にニヒルな口調で言う。
 いやだから、そこまで苦手ならやめときゃいーのに。
 さっき廊下にコートが脱ぎ捨ててあったのは、どうにもならなくなって、最後の手段に出るために、慌ててデパートへ走っていったからか。
 しかも、見栄張って某高級店……いや、見栄張んのは、かわいいけどね。
 そう考えながら浮かんだ気分はとりあえず無視。

 気を取り直そうと、改めて流しを見て──ため息を付く。
「せめて、湯につけときゃ、後で洗うのが楽だろーが。誰が後始末するん……」
 嫌な予感がした。
 俺か? 俺なのか?
 ”お兄ちゃんっ、手伝って?”
 ほどいた長い髪をさらっと揺らせて小首をかしげる、上目遣いが、目に浮かんだ。めちゃめちゃ卑怯にかわいい笑顔。
 但し、邪気はたっぷりめだが。……まぁ、さからえなきゃ、同じか。
 いや、本当は、くすぐりっことかしたときの笑い顔の方が好きだけどね。
 「だってっ……早くしないと固まっちゃうんだもん。チョコは待ってくれないのよっ?」
 ”偽装手作りチョコ”をせっせと作りながら、妹が声を飛ばしてくる。丸めるだけでも大変なのか、こっちには視線もくれない。
 いやだから、ほんとに、そこまで苦手ならやめとけってば……。
 まったく、そうまでして、誰にあげたいんだよ──あ、素人な考え。
 ふるっと頭を振って、無理にすっきりさせたいトコだけど、怪しまれるからやめとこうな……って、どうせ、こっちなんか見てないか。
 さっき無視した気分が、再び浮かんで来て、やっぱり、がしがしとでも頭振っときゃ良かったか、と後悔。
 ああもう、こんなトコで、”おにーちゃん、チョコあげるーっ”とかってひっついてきてた数年前思い出してるようじゃぁ、初心者もいいトコだし、俺も。

 そういや、あのころはまだ、髪も短かったんだよなぁ。
 「……昔は可愛かったよなー……」
 ぼそっとでも声に出してるし、もう、だめだめだね。まぁ、聞いてないだろうけど。
 と、ふいにぴたっと妹の動きが止まった。
 うつむいた姿勢のままの横顔が、何だか不機嫌……のような気がする。
「……今は?」
 ちょっと硬くした声も、何だか不機嫌……のような気がする。
 「へ……?」
 我ながら間抜けな声だ。
 そうは思いながらもつい、つられて固まりかけたとき──Trururururu!
 なんでこういうときの電話の音って、不要にでかく感じるんだろう。

 どうせその手じゃ出らんだろうしと、きびすを返して、廊下にある電話を取りに行く。
「はい、もしもし……っと、なんだ、お前かよ」
 背後の気配からして、妹は作業に戻ったらしい。
 「あー……うん……うん……おぅ、わぁった。すぐ行くって」
 手短に要件だけを済ませ、すぐに受話器を置く。
 すぐ隣に家に住む悪友からの呼び出し。例の行事が企業家の陰謀だと確認するために、飲みたいらしい。まぁ、いつものことだ。
 「俺、ちょっと出てくるわー。多分、このまま隣に泊まる」
 少し大きめの声を、台所の方に向かってかけてから、どうせコートも着たままなので、重い鞄だけその場に投げ出して、そのまま玄関へ向かう。

 「お兄ちゃ〜ん? そのまま行くんじゃないでしょーねっ。鞄は部屋に置いてきなさいっ!」
 声調から察するに手は休めないままで、妹が叫び返してきた。
 投げ出した音を聞きつけたか。ち、耳ざとい。
 「……ほいほい」
 いつもはあまりうるさい方じゃないくせに、っていうより自分のコートはどうよ?
 などとぶつぶついいながら、階段をのぼる。

 「よ……っと」
 上がってすぐの自室のドアを開ける。ここで、そのまま鞄を放り込んでターンしなかったのは、野生の感だったのだろうか。
 ベットの上に、手のひら大の包みがあった。
 とりあえず手にとる。ちょうちょ結びが下手だ。
 その下手な結びの下に何か挟んであったので、引き抜いてみて……俺はなんかもうって気分になった。
 ルーズリーフの切れ端に、蛍光ペンで、不必要にでかい文字。
 ”試作品!!”
 「……えっと……ぉ」
 まいったな。
 これでも一応、玄人のつもりよ、俺。
「……多分……どう考えても、苦いよな、コレ」
 どーでもいいことだが。



タイゾーお兄ちゃんに捧げた
 
 リクエストはチョコレート。季節柄ふまえて、バレンタイン。シリアスで、という依頼を無視。
 
 可愛い可愛い手作りチョコ。
 白い息、抱き心地良好なコート着用、生理現象「ちょっと赤くなったほっぺた」にて贈呈。
 私好みの女子がやってくれるならお約束も好き。やりはしない。
 
 お約束に可愛いそんな女の子にも、舞台裏は存在する。
 
 製菓は腕力。チョコレートが上手く刻めず、包丁に全体重荷重。
 作業途上に材料枯渇。エプロンを放り投げ、スーパーへ全力疾走。
 作業途上に御来光。込み上げる笑いに、抗う術はない。
 人は失敗に学ぶ。失敗後の二回目の製作においては、手順を大幅に省略。
 充血眼には黒目がちに見えるカラーコンタクト。クマにはコンシーラー。
 眠気で開かない目はビューラーで抉じ開ける。体力のない奴は帰れ。
 
 絵面を云々言うなど野暮以前に愚者。
 「そんなことしちゃってまで頑張る女の子はすごく可愛いですよね」。復唱。
 
 「妹萌」が蔓延していた時代において、希少な「ホンモノ」と見込んだ「タイゾーお兄ちゃん」に捧ぐため、ホンモノ妹の舞台裏を「玄人お兄ちゃん」視点より製作。これを愛せないならニセモノ。