和合

『自分は自分一人でなく、縦にも横にも無限に繋がっているのであるから、その調和をはからねばならん。それが人間の使命の最も大切なことであるぞ』
『兄弟姉妹は最も近き横の自分であるぞ。人類は横の自分、動、植、鉱物は更に外の自分であるぞ。切り離すこと出来ん。自分のみの自分は無いぞ。縦には神とのつながり切れんぞ。限りなき霊とのつながり切れんぞ。故に、一切は自分であるぞ。一切が喜びであるぞ。 …自分は自分一人ではなく、縦にも横にも無限につながっているのであるから、その調和をはからねばならん。それが人間の使命の最も大切なことであるぞ』
『縦には神と神界と和し、横には人と環境と大和して行くところにこそ、生きの生命のうれしうれしあるのであるぞ』

縦の和合(神・深層心理との和合)

『そなた達も八人、十人の人によって生きてゐるのぞ。又十二人でもあるぞ。守護神と申すのは心のそなた達のことであるが、段々変わるのであるぞ。自分と自分和合せよと申すのは八人、十人のそなた達が和合することぞ。それを改心と申すのざぞ』
『中の自分と外の自分と和せよ。それが改心の第一歩』
『自分と自分和合せよと申してあるが、肉体の自分と魂の自分との和合出来たら、も一段奥の魂と和合せよ。更に、また奥の自分と和合せよ。一番奥の自分は神であるぞ』
『人民は神のへそとつながっているのであるぞ。へその緒さえつながって居れば良く、神人であるぞ。 と とつながって更に大き につながっているからこそ動きあり、それぞれのハタラキあり、使命を果たし得るのであるぞ』
〔容器相応の神がかりであることは明らかである。人間的の修養をせずにおいて、いたずらに良い神霊さえかかればよいというがごときにはいかぬ。しかし、実は、良い神がかかれば従って良い修業をさせられるのである。やっぱり、神が主で、肉体が従であることを忘れてはならぬ〕
『改心の見込みついたら、世の元からの生神が、おのおのにタマ入れてやるから、力添え致してやるから、せめてそこまで磨いてくだされよ』
『皆々心の鏡掃除すれば、それぞれに神かかるのぢゃ』
『神がうつらぬと申しているが、心を柔らかくして任せきれば刻まれるぞ。平らかにすれば正しくうつり、凸凹すれば曲がってうつる。神の前に固くなってはならぬ』
『神は人となりたいのぢゃ。人は神となりたいのぢゃ。霊は形を形は霊を求めてござるのぢゃ。人は神の入れもの。神は人のいのち』
※自分の奥底にある心(集合的無意識、ハイヤーセルフ、神)との和合が縦の和合であるという。そして、縦の和合は心と行動を一致させることに繋がる。
『初めの喜びは食べ物ぞ。次は異性ぞ。何れも大きな驚きであろうがな。これは和すことによって起こるのぞ。…元の喜びは霊の食べ物を食うことぞ。…なぜに神示を食べないのか。見るばかりでは身につかんぞ。よく噛み締めて味わいて喜びとせんのぢゃ。喜びが神であるぞ。次に神との交わりぞ。交流ぞ。そこにはかって知らざりし驚きと大歓喜が生れるぞ。神との結婚による絶対の大歓喜あるのぢゃ。神が霊となり花婿となるのぢゃ。人民は花嫁となるのぢゃ。わかるであろうが。この花婿はいくら年を経ても花嫁を捨てはせぬ。永遠に続く結びぢゃ。結婚ぢゃ。何者にも比べることの出来ぬ驚きぞ。喜びぞ。花婿殿が手を差し伸べているのに、何故に抱かれんのぢゃ。神は理屈ではわからん。夫婦の交わりは説明出来まいがな。神がわかっても交わらねば、神ととけ合わねば真理はわからん。なんとした結構な事かと人民びっくりする仕組ぞ。神と交流し結婚した大歓喜は、死を越えた永遠のものぞ…神は花嫁を求めてござるぞ。早う神のふところに抱かれてくだされよ』
『男の魂は女、女の魂は男と申して知らしてあろがな』
〔女や小児は感情的であり、男は概して理知的であるということは確かな事実である。女は直覚であり保守的であり、男は総合的であり進取的である。(女は)直覚的なるがゆえに、もっとも簡捷に神意を悟るものであるとともに、また、そのために邪路におちいりやすい。(男は)総合的なるがゆえに、いろいろな事物にぶつかって後、はじめて真意を悟るものである。ゆえにその悟りや、遅く鈍なりといえども、一度把握すれば、確固として動ぜぬところのあるのは男である。無論、女を男のごとく、男を女のごとくすることは不可能である。男体に女霊が宿り、女体に男霊が宿ることは、この相互の欠陥を補いうる理想的の仕組である〕
※縦の和合とは肉体と集合的無意識、神)との結婚であり、また男の体に女神が、女の体に男神が宿るのが欠点を補い合う理想だと言う。それは、変性男子「出口ナオ」変性女子「出口王仁三郎」に限ったことではない。

横の和合 (人間、動物の友を作る)

〔現世において孤独であった人ほど、霊界に入りて寂しく、みじめなものはない。たとえ、いわゆる悪人でも、友達を持っていた人は、それだけ愛の熱につつまれているから、死後は、一面、苦しみながらも、一面、慰められるところがある。この世においても、あの世におても、孤独ほど辛い刑罰はない〕
〔人に接しては、常に相手に対して良い感じ、暖かい気持ち、平和な愉快な、なんとなしに懐かしい有り難いという感じを与えたいものである。それには、洋々たる度量と臨機応変の才と縦横諧謔の才とが必要である。自分が広くなく、自分が暖かくなく、自分が愉快でなくして、どうして相手に、広い暖かい愉快な気持ちを与えることができようか。そして、こういうことは、すべて実地に一々あたって修練を積まねばならぬ。世には、文筆の才や、いろんな物知りはあるが、人と接してはさっぱり下手な人が多い。人間は一世界であって、我々は、物を極めんとするよりは、人を極めんとする方がいかに重大であるかを知っている。物を自由にすることは少しの修練でできるが、人を自由にすることは、なかなか、ちょっとには出来ない。これはまったく霊魂の力にまたねばならぬのである。霊魂をやしない培うことは、人間の真の要求であり、目的である〕
〔手紙のやり取りなどにおいても、人は増えることを喜び、与えられることを愉快とするものであるから、お互いに増やしあい与えおうて、その喜びを共にする様にせねばならぬ。手紙の返事はすぐ出すこと。なるべくお互いに気安く往復しあうこと。人に合うたらお互いに愛想良き言霊を与えあうこと〕
[外的の行動は別として、その根本において一切のものに対して好意をもって接することが大切である。心の奥底に好意を持っていない人は、いかにその言葉や態度が慇懃丁寧を極めていても、どこやらに冷たいところがあり、寄り付き難いところがある。言葉や態度に、一時の冷静さや峻厳さがあっても、その心の底に好意が潜んでいる際には、なんとはなしに一種の感銘を受けるものである。よしや、一時は恨んでも、後になって有難く懐かしく思うものである。要するに、根本において相互に好意を持ち合うということが、一番簡単にして、徹底した礼儀だと思う]
『そなたはいつも孤独、そなたの不運は孤独からぢゃ。友をつくりなさい、友つくることは己をつくることと申してあろうが。友つくることは新しき世界をつくることぞ。一人の世界は知れたものぞ。一人ではマコトの道を生きてはいかれんぞ。友と申しても、人間ばかりではないぞ。山も友、川も友、動物も植物もみな友ぞ。大地も大空もみな友となるぞ。何もかもみな友ぢゃ。みな己ぢゃ。みなみな己となれば、己はなくなるぞ。己なくのれば、永遠に生命する無限の己となるのぢゃ。御神前で拝むばかりでは狭いぞ。野菜拝めば野菜が、魚拝めば魚が己となるのぢゃ。拝むことは和すこと。和すことが友つくる秘訣ぞ。友を己とすることは、己を友とすることぢゃ。友に捧げることぢゃ。親は子に捧げるからこそ、子が親となるのぢゃ。判りたか。赤ん坊のお尻を拭いてやることもあるであろうがな。そなたが赤ん坊と同じであったら出来ない芸当ぞ』