仕事について−神の御用は自分の仕事
『この世の仕事があの世の仕事。この道理判らずに、この世の仕事捨てて、神の為ぢゃと申して飛び回る鼻高さん、ポキンぞ。仕事仕えまつれよ』
『そなたはまだ神業の取り違いして御座るぞ。そなたの現在与えられている仕事が神業であるぞ。その仕事をより善く、より浄化するよう行じねばならんぞ。つとめた上にもつとめねばならん。それが御神業であるぞ』
『次の御用は神示うつすことぢゃ。神示うつすとは、神示を人間に、世界にうつすことぞ。神示を中心とした世界の働きせよ。 通した人間の仕事仕えまつれよ。神示 とした世界つくることぞ。神示に囚われるから判らん。神示捨てて、仕事に神示生かして生活せよ。生活が神示ぢゃ。判りたか。早う次の御用急いで下されよ。宗教に生きて、宗教に囚われるでないぞ。仕事が宗教ぢゃ。小さいことから始めよ。小乗の行と馬鹿にするでないぞ。小乗の行から大乗の真理をつかむのであるぞ』
『まず己の仕事せよ。五人分も十人分も精出せと申してあろ、五人分仕事すれば判りて来るぞ。仕事とは、嘉事であるぞ。仕事せよ、仕事仕えまつれよ、それが神の御用ざぞ。神の御用ざと申して仕事休んで狂人の真似に落ちるでないぞ。静かに一歩一歩進めよ、急がば廻れよ、一足飛びに二階には上がれんぞ。今の仕事、悪いと知りつつするはなお悪いぞ。仕事、仕事と神に祈れよ、祈れば仕事与えられるぞ、祈れ祈れとくどう申してあろが。善き心、善き仕事生むぞ。嘉事生むぞ。この道理まだ判らんのか、神にくどう申さすでないぞ』
『人の十倍も今の仕事して、その上で神の御用するのが洗濯ぞ、掃除ぞと申して知らしたこと忘れたか。地に足つけよと申したこと判らんのか』
『日々の人民の御用が神の御用と一致するように努力せねばならん。一致すれば嬉し嬉しで暮し向きも何一つ足らぬものなくなってくるぞ。食物が喜んで飛び込んでくるぞ。着るものが着てくれと飛び込んでくるぞ。住居も出来てくるぞ。心のそれぞれも同様ぞ』
『日々の人間の御用を、神の御用と和すように、神の御用が人の御用、人の御用が神の御用となるのがマコトの道であり、弥栄の道であり、大歓喜であるぞ』
『仕事は神が与えたり、人が与えてくれるのでないぞ。自分自身が仕事にならねばならん。この道理さえ判れば、失業はないぞ。自分が仕事ぢゃからのう』
『そなたの仕事、思いつき結構であるが、神の御意志を頂かねば成就せん。神と申しても、そなたが勝手に決めた神や、宗教で固めた制限された神ではないぞ。判っただけでは駄目ぞ行じねばならん。生活しなければならん」
『毎日毎日、太陽と共に、太陽について起き上がれよ。その日の仕事与えられるぞ。仕事命と仕えまつれよ。朝寝するからチグハグとなるのぢゃ。不運となるのぢゃ、仕事無くなるのぢゃ。神について行くことが祈りであるぞ。喜びであるぞ』
『目覚めたらその日の生命お預かりしたことを神に感謝し、その生命を神の御心のままに弥栄に仕えまつることに祈れよ。神はその日その時に何すべきかについて教えるぞ。明日のことに心使うなよ。心は配れよ。取越し苦労するなよ。心配りはせなならんぞ。何もかも神に任せよ。神の生命、神の肉体となり切れよ。何もかも捨て切らねばならんぞ。天地みな神のものぞ。天地みな己のものぞ。取り違い致してくれるなよ』
『どんな草でも木でも、その草木でなければならん御用あるぞ。だから生きているのぢゃ。その働き御用忘れるから苦しむ。行き詰まる。御用忘れるから滅びるのぢゃ。個人は個人の一家は一家の、国は国の御用がある。御用大切、御用結構』
〔改心ということは、真に自己を知ることである。すなわち、身魂の因縁性来を自覚することである。これさえわかれば、人を羨んだり、妬んだり、恨んだりすることはいらない。各人それぞれに天から与えられた職分があって、それに従って十分努力さえしたならば、どんな人でも、他の追従を許さないだけの「偉いところ」があるのである〕
『そなたは自分の役に不足申す癖があるぞ。その癖直してくだされよ。長くかかってもよいから、根からの改心結構ぞ。手は手の役、足は足、頭は頭の役、上下貴賤ないこと、そなたにはわかっている筈なのに、早う得心してくだされよ』
〔とにかく理想に向かって驀進すべきである。出来る出来ぬは問題ではない。でかすべく努力することが良いのだ。与えられた境遇に甘んじて、とにかく、何か建設的な目標を立てて、それに向かって驀進せねばならぬ。少しでも、よりよきことに向かって精力をそそげばすなわち、少しでも生き甲斐があることになるのである。
世に酔生夢死ほど恥ずべきことはない。精神的、肉体的に、自分は生まれて以来、どれだけの進歩をとげ、どれだけの仕事をしてきた。それで、今まさにどれだけの仕事をなしつつある、という自覚のないなまくら者ほど、天下の殻つぶしはない。ただ生きて食って、寝て起きて、そして墓場へ行ってしまうのでは、これ全く、人と生まれさせられた甲斐はない。…自分にできる範囲の仕事で良い、大きなことに手を出したところで、単の空想に終わるから、自分の力のおよぶ範囲のことに手を出して、ますます建設的、積極的な態度に出なくては、現界的神業は遅れるばかりである〕
〔ただし、仕事をする際には不平不満を抱いていては、かえって悪い因縁を産み出しているばかりで何にもならない。…不平不満でやったことは外形上どんな立派なことでも本当は罪を作っただけである。これに反して、愉快に、有り難く、興味を持ってしたことは外形上どんなに卑俗で些細なことでも、本当は非常に有意義な自己を向上させる手段なのである〕
『他の為に行ぜよ。神は無理申さん。始めは子の為でもよい。親の為でもよい。自分以外の者の為に、まず行ぜよ。奉仕せよ。嬉し嬉しの光さしそめるぞ。初めの世界ひらけるぞ』
『他の為に苦労することは喜びであるぞ。全体の為に苦労することは喜びぞ』
『公のことに働くことが己のため働くこと。大の動き為すために小の動きを為し、小の動き為すために個の動き為すのであるぞ。 に あり、また あると申してあるぞ』
『初めは六分国の為、四分自分の為、次は七分国の為、三分自分の為、次は八分国の為、
二分自分の為、という様にしてくれよ。これはまだ自分あるのざぞ。自分なくならねば
ならぬのざぞ。神人一つになるのざぞ』
念
『念じつつやれ。神の為と念じつつやれば神の為となる。小さい行為でも霊的には大き働きをするのぢゃ』
〔怒って為せば、ことごとくこれ、地獄を作っているのであり、喜んで為せば、何をしてもみな極楽を創っているのである。
何をしていても、一切神様の御為という気持ちで為せば、必ず、万事、神様に通ずるなり。ゆえにまた、知らず知らずのうちに、それだけの恵みに預かるなり。
どんな物、どんなことに対しても、歓喜の情を持って接すれば、必ず、相手もまた嬉しくなり、有り難くなるなり。
これに反して、見ず知らずの人に対して、ちょっとのことでも、嫌忌の情をもって接すれば、必ず、相手もまた自分に対して嫌忌の情を起こさざるを得ざるなり〕
〔賽の河原で幼児が「一つ積んでは父の為、二つ積んでは母の為…」ということを仏教ではいうが、その「何かのために」するということは、実際にそれだけ相手にひびくもので、小石を積み重ねたところで、それが形の上では何になるかと思われるが、父のため母のためと念じる想念は、必ずエネルギーとなって父なり、母なりへ通じ、そして、その念力だけの影響を与えずにはおかないものである〕
『念なりと今の人民の申す思想は誠の念でないぞ。思想は思想ぞ。念とは力であるぞ、実在であるぞ。喜びであるぞ。喜びは神ぞ。弥栄』
〔思念は勢力なり、発生なり、存在なり。同一の思念をくり返せば、その像ますます明瞭となる〕
『念と申すのは神界からの直々であるぞ。悪の気、断たねば念とはならんぞ』
『念が新しき武器であるぞ。それでは人民まわりくどいと申すであろうなれど。ものごとには順と時あるぞ。元の気から改めて下されよ。尊き御役』
〔ちょっと煽った空気でも、必ず煽った力だけの仕事をして、天上天下、四方八方へ影響を与える。
ちょっと人間が思念したことでも、必ず思念したために発生した霊気だけは、その対象物に向かって力を及ぼさずにはおらぬ。 さても怖ろしい天地間の因果律である〕
〔何事にも鎮魂が必要である。ある事をなさんとせばまずその始めに当たって、所謂鎮魂をなさねばならぬ。すなわち四散している霊を、その点へ集中することが必要なのである。もしこのことなしに事に着手しても、決してなし遂げられるものではない。手を組み正座暝目するは、真の鎮魂に入るための一つの形式的修練であって、決してこれだけが鎮魂そのものではない。レンズで集中すれば、太陽の光線もよく家を焼くことができる。われわれの意念でも、これを一点に集めえたならば、けだし思いも及ばざる大偉力を奏すのである。しかして、心身が健全でなくては真の鎮魂はできない〕