心の岩戸開き−プラス思考へ
〔いくら神に祈ったって 御説教聞いたって 心の岩戸が開けねば 身は永久に闇に住むのだ〕
〔主観なるものが、とりもなおさず自己暗示である。例えば、書籍に向かう。難解な場所が多くて、自分は駄目だとか、今日はさっぱり頭が悪いだとか、この本は書き方が悪いとか、いっこう進捗しないとか…の中のどれかが、必然的に自己暗示になっているとする。さて、ある時を経て、再びその書籍に向かうとする。その場合には、彼はその書籍を一見するやいなや、必ず、前の自己暗示によりて不快になるに決まっている。が、決してその書籍それ自身が絶対的に不快だというのではないのである。それはされおき、次に自己の努力−何でも読み終えねばならぬとか、なにクソ、他人にわかるくらいのものだもの、自分にもわからねばならぬとか、そうあせらずとも、やっているうちにだんだん解ってくるだろうとか…と いうがごとき自己暗示によって、やや前よりは解しうる度が進んでくるとする。すると「おれは、だいぶ進んだぞ」とか「こんなものは、お茶の子さいさいだ」とか「努力さえしておれば、思ったよりは早く達しうるものだ」とか…いろいろの自己暗示によって、今度は興味というものが出てくる。
これはホンの一例を上げたまでだが、いかに自己暗示というものが積もり積もって、人生万般のことに、至大の影響を与えているかということは解る。前に主観即自己暗示といった が、厳密にいえば、主観はその時その時の自己暗示であり、自己暗示は主観の慣性ともいえる。
ところで、現代の人間というものはデリケ−トな−というよりは、むしろ、弱い心の持ち主であって、楽観的に考えるよりは、どうしても悲観的に考える方が多い。ゆえに十事中八九までは悲観的の自己暗示によって、知らず知らずの間に、自己自ら悩まし弱らしているのである。頭の中を、その時々にチャント整理し、掃除するという習慣は極めて肝心なことである。でないと、知らず知らずたまっている埃のうんじょうのために、常に悩まされがちとなるからである。…だから、そんな場合にはたばこを吸うなり、景色を見るなりして、たくみに心機を転換し、つとめてその陰影を除き去らねばならぬ。でないと、一波は一波を 呼ぶというふうに、ともすれば、その黒点が次第に拡大してきて、思わぬ害をかもすにいたりがちである。これが非常に悪い。
…自己を完成せしむるものは、環境の力と自己自身の力とである。環境の力はいかんともしがたいが、自己自身の力を、もっと有効に発揮せんとせば、まず自己暗示を最善ならしむべしというのである。
…例えば、このことは大切なことだから良く覚えておこう、と強い自己暗示をかけておけば、ただそれだけの思念と努力によって、そのことは特に長く覚えることができるし、また反対に、こんなつまらぬことは忘れてもいい、と強い自己暗示をかけておけば、くだらぬことが、久しく脳中に印象されていないがために、悩むというようなこともなくなるはずである
…しかるに普通の人は不純な利己主義、打算主義であるから、どうしても常に脳中が混濁していて、しかも、ものを悲観的に考えやすく、その強烈な自己暗示に災いされて、
かえって、労して効なき結果におちいる場合が多いからである。たがいに人を疑ったり、
恐れたり、その他いろいろの先入主のために、不必要な自己暗示を有しているがために、
この世の中は、わりとうまく行かないのである。
自己暗示を根本的に建て直さなくては、しいて表面的の努力によって、それを押えようとしたって、一もとらず二もとらずである。心の岩戸開きとは、この主観の改造のことである。すべて、自然に、ものを善意に解し得るようになれば、その人の岩戸は開けたのである。光と栄の中にその人はあるのである〕
〔あることを考えながら歩いていると、何でもない物音までが、自分の考えているそのことに関連しているごとくに感じたり、ある人のことを一生懸命に思うていると、まったく別人を遠くで呼んだのまでがちょうど、自分の思っている人の名を呼んだごとくに感じたりするなど、皆これ、人間が如何に主観的のものであるかを示す例である。
自分が悲しい時には、祝日の唱歌までがお弔いの挽歌のごとくに思えたり、自分が嬉しい時には、病人のうめく声までが、非常な祝福の声のごとくに思えたりするものである。疑えば、干し忘れた浴衣も幽霊となり、信ずれば、いわしの頭からでも後光が射し、知らざればいっこうに気にならないものだ。何事もこの世は己が心の持ち方一つで、いろいろに映じてくるものである。
要するに、人間は永久にこの心の持ち方について、修練に修練を重ねてゆくのである。外界はそれに応じて現れてくるにすぎぬ。これが悟りの要諦であろう〕
『そなたはつまらんことにいつも心を残すからつまらんことが出て来るのであるぞ。心を残すということは、霊界とのつながりがあることぞ。つまらん霊界に何時までくっついているのぢゃ。何ごとも清めて下されよ。清めるとは和すことであるぞ』
『何によらず不足ありたら、神の前に来て不足申して、心からりと晴らされよ。
どんな事でも聞くだけは聞いてやるぞ、不足あると曇り出るぞ、曇り出ると、身魂曇るから身魂苦しくなりて天地曇るから遠慮いらん、
この方に不足申せよ。この方(日月の神)親であるから不足一応は聞いてやるぞ。
気晴らしてからりとなって天地に働けよ、心の富士晴れるぞ、初めの岩と開けるぞ』
〔自分に何かひけめのある人は、こちらは何とも思っていないのに、自分でいろいろと案じ過ごして、その行動がなんとなく陰鬱となりやすい。
貧窮な人が富者の前へ出ると、なんとはなしに相手を疑うような、呪うような、そして、
常に自己に対して侮蔑を与えているかのように感じやすい。そのために両者の間に、言い
知れぬミゾができてくるものである。
優者な常に劣級のものを侮蔑すると決まったものではないのであるが、劣級者の常として優越者に接すると、すぐにこの心配をはじめ、ひいては自己を呪い世を呪うがごとき態度にでたがるものである。
誰だって、完全無欠のものはないのであるから、一生の中には、多少の失敗や恥さらしはあるに決まっている。しかしながら、しくじった時によく省みて、以後は、この失敗を繰り返すまい、また自分が犯しただけの罪は一切自分が背負う、そしてまた、済んだことはもうクヨクヨ思うまい、という立派な覚悟に、瞬間になりうる人と、いつ迄もいつ迄も「ああ悪かった、あんなことはせねばよかったに、他人があのためにいろいろと自分を悪く言うだろう。なるべく大勢の人には知れずにすめばよいがナ、…」というふうに、グジグジといつまでも男らしくない心配ばかりかさねて、われとわが身を苦しめ、ひいては、自分以外の人へも、暗い冷たい影をあたえている人とでは天地の差異である。
…人の行動がなんとなくグジグジしていて、小児のように晴れやかさがないのは、要するに、人前で偽善や虚偽をおこなうからである。他人によりよく見てもらわんと思ったり、
なんでもないことに遠慮したりして、常に内分と外分とが矛盾し続けているからである。
大した差し支えのないと思うかぎり、できる限り自分を偽らずにさらけ出しさえしたら
よいのだ。今の自分を、偽らず飾らず出してしまいさえしたらよいのだ。実力以上に良く
見てもらわんと願ったり、今の気持ちと反対を見せようと努力したりするから苦しいのだ。
オテンバはオテンバの如くふるまえばよい。無口な人は無口の人ごとく、病人は病人の
如く、智者は智者の如く、愚者は愚者の如く、おのおの、その真にもっているだけをさらけ出したらそれでよいのだ〕
〔どんな辛いことをさせられる場合でも、人を相手とせず、神様のご命令だと思い、その
仕事をできるだけ興味づけ意義づけ、霊的に大きく、自分のためだと思ってやりさえしたら大抵のことはなんでもない。また、真の永遠の幸福は心にあるのであって、心の状態は霊界に属しているので、断じて、物質をもって左右するわけにはいかない。激しい悲しみの人へはどんな景色も、ご馳走も、音楽も効果のないものだ。(ある程度迄は、これらによって緩和され得るが)自分の心次第によって同一事物に対しても、ある時は面白く感じ、ある時はありがたく…いろいろと変わって来るのである。これは明らかに、その客観的の事物に原因するのではなくして、主として自己の主観によるのである。主観は霊界につながっているのであって、その時の精霊のそなえている性状に起因するのである〕
〔先のことはクヨクヨとあまり心配するものではない。世の中のことというものは、人間心で考えるようには決してゆかぬものであって、結局は、なるようにしかならないものであるということを、一つ例にとって説明してみましょう。
ここにもし、無知な婦人があったとして、ただ本能のままに男と接して、その結果、
身持ちになったとする。ところがこの婦人は、妊娠などということさえも知らぬほどの
無知なものだから、まず、月のものが止まったことにびっくりして、しきりに心配する。
その次には、つわりの現象におったまげて、非常な病気にかかったのではないか、何か憑物でもしたのではないか、神様からお叱りを受けたのではないかなどと、日も夜も心配し続けます。さあ、そうこうしているうちにおなかがポンポンふくれてきだす。これは不思議! 怪しからぬことになったものだと、前にいやまして大心配をして半狂乱のようになる。
しかし皆さん、神様は決してこの婦人の心配を気の毒に思われて、急におなかをへこましてはくれません。ますますおなかがふくれふくれて、とうとう分娩というところまで漕ぎ着ける。オギャオギャと子が泣き出すということになます。
無論、我々は、こんな現象をちゃんと前から了解しているので、別に、いらぬ心配もせねば狼狽も恐怖も致しませんが、これがもし、他のいろいろな出来事で、まだ人類がさまで経験したことでないとしたらどうでしょう。きっと世界中が、大騒ぎをはじめるに違いありますまい。これを一個人にとっても同じこと…しかし、自然はどこまでも厳重でして、我々の不安と安心とに頓着なしに、どんどんその所業を進めてまいります。だから我々は、これから先のわからぬことに、正当な心づかいはせねばなりませんが、無用な不経済な心配はしないようにしなければなりません。でないと、かえって自分で自分を苦しめ、傷めることになるばかりだからです。言い換えれば、「人は常に現在のベストを尽くして、愉快に未来を待つべし」ということになるのであります〕
〔過去をドンドン忘れる癖をつけるべし、過去を思わず、未来も思わず、その日その時に生きる子供のごとき心が自然なり。過去に執着せず、未来を計画せざるがゆえに心平静なるなり。…考え過ぎるから悩むのだ。あるがままに楽しむべし、なるがままに楽しむべし。その時、その日のベストに、我を忘れることのできる人は幸いなるかなだ〕
〔物事を何時までもくよくよと心に持って考えてばかりいることは、心身の大毒だ、素早く現在の自分相応に処置していけば良いのだ。それを、力もないくせに、いたずらに理想のみに走って、あれこれと何時までもひねくり回しているから苦しいのだ。「もし間違ったら」 とか「これでは不完全だから」とか思って、ためらうのは悪い癖だ。事にあたったら、素早く、現在の自分の識見相応にそのことの外郭及び中核をつかんで、それに対する処置を考えるべきである。
人間は失敗するから進歩するのであって、要するに、ドンドン失敗してドンドン進歩向上していったら良いのだ。一度や二度の失敗でへこたれてしまうような人間なら、先は読めている。常に通ずるばかりで、窮したことのない人間は、一見、ドエライ勢いのようであるが一度、風の吹き回しが違ってきたら、急に処置にまごつくに決まっている〕
〔神は万事、積極的である。くよくよと案じ煩うは、みな副守護神である。
人体では、臍下丹田は霊界である。頭脳部は現界である。ゆえに、常に、本守護神に通ぜんとせば、万事を腹でする心がけが必要である。頭よりは、直接腹に適従する心持ちにならねばならぬ〕
『何事が起こってきても、そなたはまず喜べよ。それが苦しいことでも、悲しいことでも、
喜んで迎えよ。喜ぶ心は喜び生むぞ。人民喜べば、神喜ぶぞと申してあろが。天地晴れるぞ輝くぞ』
『何事に向かっても先ず感謝せよ。ありがたいと思え。始めはマネごとでもよいぞ。結構と思え。幸と思え。そこに神の力加わるぞ。道は感謝からぞ。不足申せば不足うつるぞ。心のままとくどう申してあろうが。病気でないと思え。弥栄と思え。病治るもと生れるぞ。何事がくるとも何くそと思え。神の力加わるぞ。おそれはおそれうむぞと申してあろうが』
『苦と心するから苦しくなるのぢゃ。楽と心すれば楽と出て来るのぢゃ。一寸の心の向け方霊線のつなぎ方ぞ』
『そなたの苦労は取越し苦労。心配りは忘れてならんなれど、取越し苦労、過ぎ越し苦労はいらん。そうした苦労は、そうした霊界をつくり出して、自分自身が要らぬ苦労をするぞ。何事も神にまかせよ』
〔省みて、陰鬱であり、逡巡であり、悲観であるならば、必ずや、その人は悪魔に見入られているのである。普通、健全なる人においては、常に生活力旺盛であるはずなのである。悪魔は常に、ちょっとの油断にも付け入るものなれば、よくよく省みて「これではいかぬ」と気づいたならば、ただちに気持ちを陽気の方へ転換さすことに努力すべし〕
〔気分転換をするということは、よく心得ておらねばならぬ。環境が変わると、気分もまた変わるものであるから、腹が立ったり、気がむしゃくしゃする時には、演劇や音楽を見たり聞いたりすることによって和められるものである。
だから、人は平素から、何かに趣味を持っていて、嫌な気分の時などには、これにうさをやるように心がけるがよい。
打ち解けた話し相手や飯より好きな娯楽は、苦しい人生の唯一の乳房でありオアシスで
ある〕
〔極楽は光であり、歓喜であり、無為である。地獄は闇であり、悲痛であり、躊躇である。どんな境遇にあっても、こだわりなしにスラスラと暮らしている人は極楽におるのである。思い悩んだり、人を嫌がったり、沈痛に過ごしている人々は地獄にあるのである。真の笑いというものは、軽くふうわりと腹の底からこみあげてくるのであって、地獄人の味わい知らざるところのものである。
極楽人は決して苦悩の文学を愛するものではない。ユ−モアに充ちているものを好むものである。ぎこちない小理屈をよしとするものではない。すべてスラスラと、淀みなきものを好むものである。すべて、その人の好みというものは、明らかに、その人の現在の心境を指示しているものである〕
『勇んでやって下されよ、勇むところこの方力添え致すぞ。心配顔この方嫌いぞ、歌唄いて下されよ、笑いて下されよ、笑えば岩戸開けるぞ』
〔なんとなしに人の前に出たくない。出ても、ものも言いたくないという陰気な気分は、
自己が邪気に満ちているからだ。幸福は物質にはなくして、その人の気持ちにあるという
ことを痛切に感じる。光を求め、向上を求め、希望に燃えている人は、見ても愉快だ。…
自己を愉快にし、他人をも愉快にするように努むべきである〕
『希望は愛の現れの一つ。どんな時、どんな人にも与えられているのぢゃ。希望に燃えつつ現在を足場として生きよ。呼吸せよ。同じことしていても、希望持つ人は栄え、希望無き人は滅びる。希望は神ぞ』
頭ではプラス思考になった方が良いとわかっていても、中々、心を切り替えることは難しい。
昔、黒住宗忠公はらい病に悩む患者さんに、「有り難い」と一日100回唱えなさいと仰いました。
しかし、一週間唱えても病気は治りません。
その由をお伝えすると、黒住宗忠公は一日に千回「有り難い」と唱えなさいと仰いました。
それから、一週間唱えても病気は治りません。
すると更に、黒住宗忠公は一日に万回「有り難い」と唱えなさいと仰いました。
一日に一万回唱えていたある日、らい病患者さんは吐血し、病が全快したそうです。
宗忠公は仰います、ありがたいという気持ちが湧かなければ、
ただ「ありがたい。有り難い。ああ、有り難い」と有り難いを何度も口にするだけで良いのだと
一日にに百回、それで駄目なら一日千回。そうする内に本当に有り難いという気持ちが
起こってくるのだと。